前回のあらすじ
セバス「おひとりでですか^^」
モモンガ「」
はなしが どんどん ながくなる
ナザリック地下大墳墓、第一階層地表部の屋根の上。何度か足踏みをして、滑落しないことを確認する。少々傾斜があったところで滑って転ぶような柔な身体ではなくなってしまったが、万が一ということもあるし、こちらに来ての初ダメージが屋根からの転落というのはあまりにも情けない。
十分に安定性を確認したのち、ふと、空を見上げた。
……天の光はすべて星。そんな題名のSF小説があったな。
満天の星空。一切の曇りない大気が星から届く光をやさしく溢す。スモッグで覆われて、天文学が初等教育から姿を消して久しいかつての現実では考えられない光景だった。
ブルー・プラネットさんが居たならば、涙を流して喜んだことだろう。以前、アインズ・ウール・ゴウンで失われたものを共に嘆いたひとりの男を思い出し、こぷ、と笑みの吐息のかわりに泡がうかんだ。
さて。
あまりのんびりしてもいられない、と、意識を切り替える。
周囲の索敵は可能な限り早急に済ませてしまわねばならない。
あの心配性なギルド長のためにも。
――自分のためにも。
「<
3つの魔方陣からそれぞれ3羽ずつ、合計9羽の烏が姿を現す。3本の脚を持つそれらは紫黒の翼を星明りに輝かせながら周囲をひとまわり滑空したあと、ばさばさと腕や肩、足元に降り立った。
ユグドラシルで何故か行われた日本神話イベントにて獲得した、イベント限定召喚獣。元々は全長140cmほどの大きな鳥だが、索敵するなら小さいほうが良いだろう。大きさは元来の5分の1ほど、手にとまっても違和感のないサイズに収まっている。
それに応じてレベルも下がっているようだ。おおよそゴブリンと互角程度。探索というなら十分だろう。各種状態異常への耐性が残ったままであることも確認済み。もしレベルが足りないようならもう少し強いものを召喚し直せば良い。
「<
ぱち、ぱち、ぱち、と頭のどこかで線が繋がる感覚と共に、脳裏に浮かぶ景色が何重にもかさなる。よく磨かれた革靴、幾年の風雨を凌いだであろう石造りの屋根、星の散らばる空、浮かぶ水球のなかに灯るふたつの光、真っ赤な瞳の烏。
それらの光景はカードを捲るように自在にシャッフルできる。情報過多による頭痛などもなし。
感知接続を通して見たものは肉眼扱いになるので魔法による罠に引っ掛からないのが良いところだ。
右手の先に止まっていた1羽を飛び立たせ、ナザリックの外周をぐるりと上下に波を描くように移動、再び着地。それぞれの聴覚が羽音を拾った手ごたえがあり、酔いなどの感覚もない。
一応は成功といったところか。あとは準備のための魔法をいくつかかけるだけ。
「<
体力を魔力へと変換して、アイテムボックスから取り出したポーションを飲む。腕や肩にとまった烏たちが何も言わなくてもどいてくれるのはありがたいが、頭の中にポーションがじわじわ広がって染み込む感覚がするのが気色悪い。果たしてこれは慣れるのか。
一応まだかなりの量の魔力が残っていたのだが、何故かはわからないが魔力が減っていくことにかなりの抵抗感がある。……もしかして自分が精霊種だからなのだろうか。ゲームにはそんな仕様はなかったはずだけれど、可能性はゼロではない。
魔力切れになったら死ぬ、か? 恐ろしいことだ。
さて、あとは、と指折り数える。時間制限をなくして、ある程度対象の情報がわかるようにして、洗脳対策をして、ああ、そうか。肝心なのを忘れてた。
「<
魔法による監視を受けた際に攻性防壁と情報取得が同時にできる優れもの。また魔力がごっそり減ったけど。とりあえずはこんなところか。
「<
現在の状態を記録。これで何羽か死んだとしても、<
1羽だけを肩に残し、のこりの8羽を放射状に飛び立たせた。ユグドラシルのときは自動操縦しかなかったが、手動、自動、思考による命令を与えたまま放置、と、なかなか融通が利くらしい。ゲームの容量的な問題でできなかったことはひととおりできるようになっていると見ていいだろう。何にしたって限界はあるだろうが、今はそのことは保留でいい。
自分の中に満たされていく外界の情報を感じて、ひとまずはこぽりと一息つく。
しかし、まあ。
「困ったねえ」
優しいやさしい我等がギルド長は、彼らの答えを聞いて尚、『脅威とはナザリックの外からくるもの』であり、『NPCたちはかつてのメンバーの志を受け継いだ存在』程度にしか思っていないらしい。
無論それは彼の欠点ではなく美点であって、少なくとも現段階でぼくが持ちえていないものであることには変わりない。多角的な視点は非常に重要だ。重要なのだ、が。
「けっこう怖いことも言ってたと思うんだけどね」
とりあえず今は、周囲の探索に集中しよう。
と、思考を置き去りにして接続に意識を向けようとしたとき。
「ん?」
おろおろ、うろうろと、地表部分をぱたぱた走る影がひとつ。
「マーレ?」
たいして大きな声ではなかったろうに、ぴゃっ! と小さな身体を跳ねさせて、少年はおそるおそる、こちらを見上げた。
時間は、少し遡る。
早く、はやく、もっと早く。
もっと速く走らなきゃ。
至高の御方に文句をつけようなんてこれっぽっちも思わないけれど、いまだけ、今このときだけは、はやく上まで駆け上がれる体がほしい。
いそいで急いで、第一階層まで走り抜ける最中、頭に浮かぶのは偉大なる御方々のお言葉。それを受け、とある確信を持ってアルベドさんがぼくに告げた命令。
そして、御方々がぼくらの階層にいらっしゃる前と、去っていかれた後に、皆で交わした言葉だった。
それぞれ階層の確認をしてから、アンフィテアトルムに集まるように。
アルベドさんからぼくたちにそう命令が届いた。
珍しいことではあったけど、守護者統括の命令を断る理由なんてない。特に異常がないことを確認し、ぼくたちはアンフィテアトルムで待っていた。
やがてシャルティアさん、コキュートスさん、アルベドさんとデミウルゴスさんが、それぞれ第六階層に来た。ぼくはお姉ちゃんと顔を見合わせる。みんながみんな、やけに神妙な顔をしていたからだ。
おかしいなあ、とそのときは思った。だって今日はすごく幸せな日だったのだ。
近頃おいでにならなかった至高の御方の気配がいくつもして、モモンガ様と死獣天朱雀様なんて、ぼくらのところにお顔を見せにいらっしゃった。色々と楽しそうにお喋りをしておられて、ぼくはそれだけですごくすごく幸せな気持ちになったのを覚えている。
やがてアルベドさんが口を開いた。
なんとぼくたち守護者をここ、アンフィテアトルムに集めるよう仰せになられたのは、モモンガ様なのだという。
それを聞いて、まず湧き上がってきたのは喜びだった。ぶくぶく茶釜様がやまいこ様や餡ころもっちもち様と開催されるお茶会に同席させてもらうのも勿論大好きだったけど、シモベの一番の喜びは至高の御方のお役に立つことだからだ。
お姉ちゃんとシャルティアさん、コキュートスさんも同じことを思ったのだろう、心から嬉しい、っていうため息を揃ってこぼした。でも、アルベドさんとデミウルゴスさんはそうじゃないみたいだった。このふたりに限って至高の御方のお役に立つことが嫌、なんてことはないだろうから、何か心配事でもあるのかな、と思ったとき、すごく真剣な声でデミウルゴスさんが言った。
「やはり、というわけですか。アルベド」
「……ええ」
なにがやはり、なのかぼくにはわからない。答えを求めるようにデミウルゴスさんを見れば、先にアルベドさんが背筋をのばして言葉を発した。
「ひとまず、皆に伝えておかなければならないことがあるわ。玉座の間で、モモンガ様と死獣天朱雀様がお話になっていたことを」
アルベドさんがそのときの状況をぼくらに伝える。
モモンガ様が玉座に座り、そのすぐ隣で死獣天朱雀様がお話になっていたのだそうだ。
けれど突然、死獣天朱雀様がわざわざ階段をお降りになられて、モモンガ様とお言葉を交わされたのだという。
いわく、末期をここで迎えることができて嬉しい、と。
その最期があなたにとって安らかなものであることを願う、と。
そして、来世で会おう、と。
絶句。その場にいた全員が、それだけしかできなかった。息を飲むことすら忘れて立ち尽くし、絶望に身をまかせることしかできなかった。
――――至高の御方が、お隠れになる。
死亡を表す最上級の敬語が、このナザリックにおいて正しく使われるのは初めてだった。お隠れになる、は文字どおり御姿を現さなくなってしまわれた御方々に使われる言葉であって、死すら魔法で塗り替えることが当たり前のぼくたちにとっては、そしてすべてを超越する至高の御方々が永遠の死を迎えることなんて尚更信じられるはずもなく、胸の中に疑問が巻き起こる。
何故。どうして死獣天朱雀様がそのような。原因は。もしや他の至高の御方々も……!
疑念と焦燥の渦の中に、アルベドさんの声が次いで投げかけられた。
「当然、死獣天朱雀様をお止めした私に、モモンガ様はこう仰せられた。“ナザリックにおいて死とは救いである。たとえ誰であろうと、例外は許されない”」
ひ、と呼吸をひきつらせたのは誰だったのか。きっと誰であってもおかしくはなかっただろう。
例外は許されない。それがたとえ至高の御方であろうとも。
至高の御方のまとめ役、ましてや
だけど、これまで痛ましげに顔を伏せていたアルベドさんが、きっ、とぼくたちの方を向いて、つよい声で言った。
「けれど、こうも仰られたわ。“だが今このとき、私は友にそれを許すわけにはいかなくなった”と。そうして我々守護者にナザリック内の調査を、セバス達に外の探索を命じられたの」
おお、という小さな感嘆と共に、ぼくらの中にわずかな希望が生まれる。少なくとも今はまだ、死獣天朱雀様がお隠れになることはない。
そんな中、ふと、デミウルゴスさんが訝しげな様子でアルベドさんに尋ねた。
「……その会話の前に、お二方は何かおっしゃってはいなかったかね、アルベド」
「ええ、私とモモンガ様の婚姻を認めていただいた後、しばらくお話されていたわ。……りあるでのご友、人? がご病気で亡くなられたということは聞こえたのだけど、ごめんなさい、玉座に遮られてよく聞こえなくて」
アルベドさんは、きゅ、と柔らかく握ったこぶしを口元に当てて、一生懸命お二人のお言葉を思い出しているようだった。
「……そうね、なにか……、くれないか、と言っておられたわ。死獣天朱雀様が、モモンガ様に」
それを聞いて、みんなそれぞれ頭を悩ませる。
ぼくらは至高の御方に比べればどうしようもなくちっぽけな存在だ。至高の御方が、同じ至高の御方に何を欲しておられるのか、ぼくには想像もつかない。
ナザリックのシモベでは最も頭が良いという風に作られているデミウルゴスさんも、今は材料が足りない、と一旦思考を打ち切ったようにみえた。
「セバスもその場にいたと言っていたね、後で聞いてみよう。他に変わったことは?」
「そう、ね。……そうだわ。モモンガ様が私にお声をかける直前、死獣天朱雀様は何かを確かめるように、ご自身の頭に手を差し込まれて……」
「ふむ……」
やっぱりなにがなんだかわからない。死獣天朱雀様は水精霊だから、それでダメージを負うようなことはないと思うけれど。一体なにをお確かめになったのだろう。
みんなの中にもやもやとした疑念が残る中、次に口を開いたのはシャルティアさんだった。
「……ところでアルベド? さっきぬしの口から聞き捨てならない一言が出たと思いんすが?」
「あら、何かしら」
「お主と! モモンガ様が! 婚姻を交わしたという話でありんす!」
「事実よ、シャルティア。死獣天朱雀様直々にお認めいただいたの。このアルベドは、モモンガ様の、伴侶である! と!」
「!!!」
ほう、とか、ええー!? とか、ナント! とか。ひとりひとり違う反応だったけど、多かれ少なかれ驚きの感情であることに変わりない。ぼくもびっくりした。はんりょ、ってことは、お嫁さん、ってことだよね。
……いいなあ、お嫁さん。お嫁さんかあ、モモンガ様の、お嫁さん……。
想像するだけでポカポカと幸せな気分になる。みんなでいっしょにお嫁さんになったらいいんじゃないのかな。と、言える勇気はぼくにはなかったし、シャルティアさんもそれどころじゃないみたいだった。
「そ、そんな、そんなこと!」
「もしかしてあなた、至高の御方の決定に異を唱えるつもり?」
「そうではありんせん! そうではありんせんが……!」
「が? 何かしらねえ、負け犬が何を言っても遠吠えにしか聞こえないけれど」
「ぐぬぬぬぬ……!」
そろそろ止めた方がいいかなあ。そんな目でデミウルゴスさんをちらりと見れば、彼は肩をすくめて、ここに来てから初めて少し笑った。
お姉ちゃんとコキュートスさんにも同じように目で助けを求めると、お姉ちゃんがす、と息を吸い、コキュートスさんが槍を持ち上げた、そのとき。
ぼくも含め、その場の視線が一点に集まる。
モモンガ様と死獣天朱雀様が、おいでになられたからだ。
至高の御方々の前で立ち話などしていいはずがない。即座に跪いて、お帰りなさいませ、と、心から、声を揃えてそう言った。
……至高の御方々が去っていかれた後、ぼくらはしばらく動けずにいた。モモンガ様の圧倒的なオーラに。そして。
――――マーレが嬉しいと、ぼくも嬉しい。
至高の御方が、死獣天朱雀様が、ぼくに、ぼくが、嬉しいって。
ようやくふらふらと立ち上がって、弛みそうになる口許をきゅっ、としめた。熱い頬をおさえていると、お姉ちゃんが顔を覗きこんでくる。
「マーレ? あんた、大丈夫?」
「ふえっ!?」
だ、大丈夫! とわたわた手を振ってごまかした。不敬、ではないかも知れないけど、なんとなく後ろめたい。というか、恥ずかしい。
むう、と、お姉ちゃんはまだ疑わしげな顔をしていたけれど、セバスさんが「では私、先に戻ります」と、ぼくらに声を掛けてきたので、一緒に振り向いた。
「御方々がどこにおられるかはわかりませんが、お側に仕えるべきでしょうし」
「待ってくれないか、セバス」
「……なんでしょう、デミウルゴス様」
デミウルゴスさんがセバスさんを引き止めた。あたりの空気が少しぴりっとする。なんというか、触っちゃいけないもの同士が触れ合ってしまったような、そんな雰囲気。
「玉座の間で、モモンガ様と死獣天朱雀様は何か話しておられたと聞いた。その内容を教えて欲しいんだが」
「……申し訳ありませんが」
いつもと変わりなく、淡々と、セバスさんは説明した。
「私は
「ああ、そうだろうとも。しかし我々シモベは御方々の要求に答えるためならあらゆる努力を払うべきだ。……ひとつで良い、教えてほしい。死獣天朱雀様がモモンガ様にお求めになったのは何か、ということを」
聞いたこともないような切実な声だった。元々デミウルゴスさんは真面目なひとで、至高の御方に対する忠誠心は人一倍強いものだったけれど。
そのときの声が、なんでそんなに切羽詰まっていたのか、ぼくは少し後で知ることになる。
「頼む」
デミウルゴスさんはそう言って、セバスさんに頭を下げた。丁寧で、真っ直ぐな一礼だった。
ぼくはびっくりした。お姉ちゃんもびっくりした顔をしてる。でも、その場で一番驚いた顔をしているのはセバスさんだった。
セバスさんは、目線をすこし地面に向けた後、一瞬目を閉じて、ふたたびデミウルゴスさんの目を見た。
「……連絡が、ほしい。そうおっしゃっておられました」
「連絡?」
「はい。……では、守護者のみなさま、これで」
セバスさんが礼と共にその場を離れたあと、ちょっとの間静寂が訪れる。デミウルゴスさんはまたなにか考え込んでいるようだった。
するとおもむろに、それまでうずくまっていたシャルティアさんがすくっ、と立ち上がり、アルベドさんに凛とした口調で言い放った。
「アルベド、命令をくんなまし」
「ええ!?」
思わず声を上げたのは、アルベドさんじゃなくてお姉ちゃんだったけど、アルベドさんもまた、その金色の眼を見開いていた。さっきまであんなに喧嘩してたのに。いや、守護者としては正しいんだけど、でも。
「あんたどうしたの……?」
「なにが、でありんすかチビすけ」
「いや、だって」
思わず聞いてしまったお姉ちゃんに、シャルティアさんは、ふん、と鼻を鳴らす。
「わらわにだって打算というものはありんす。正妻の座を掠め取られた以上、のんきにしているわけにはいきんせん。御方の前で無様をさらしたままで終わろうなどとは、ねえ?」
死獣天朱雀様のご質問で泣いてしまったことを恥じてるんだろうか。無理も、ないと思う。ぼくだってあの侵攻の日、ぶくぶく茶釜様にいっぱいいっぱい褒めていただいたことを思い出したら、それだけで泣きたくなるのだから。
「……それとも」
シャルティアさんは小首を傾げて、その真っ赤な瞳でアルベドさんを見上げた。
「わたしに正妻の座を奪われるのは恐ろしいかや? アルベド」
「……魚類に負けるつもりはさらさらないけれど、受けて立つわ。……その前に、デミウルゴス」
「……はい」
あくまでも私の推測ですが、と前置いて、デミウルゴスさんは語りだした。
「原因不明のこの状況は、死獣天朱雀様が、なんらかの脅威に対処した結果なのだと、私は思っています。――死獣天朱雀様ご自身の、お命を使って」
ざわめき、混乱。
当然のように巻き起こった困惑の嵐のなか、シャルティアさんがたまらず叫びをあげた。
「そんな! 至高の御方がお命を投げ出すような脅威など!」
「ない、とは言い切れません。りあるという場所で、至高の御方々は常になにかと戦っておられる様子でした。死獣天朱雀様のご友人……、恐らくは同じ精霊種でしょう。状態異常に強いはずの精霊種をも死に至らしめるような病が存在するということも、すでに判明しています」
「そ、それじゃあ……」
「ですが、他の至高の方々がお亡くなりになったと考えるのも早計と言えます。あるいは今も戦っておられるのやもしれません。……我々の力が及ばないような、強大な存在と」
僅かな安堵と、強い罪悪感が胸にせまる。至高の御方々が戦っておられるかもしれないのに、何もできないなんて。
まとわりつく泥のような感情を振り払うかのように、デミウルゴスさんが顔を上げた。
「ともあれ、お二方がこのナザリックを守るために、なんらかの術を行使なさったことは間違いない」
ナザリックをまもるため。その言葉に、つう、と冷や汗が背中をつたう。
至高の御方を差し置いて、ぼくらだけが生き残る。
おそろしいことだ。きっと、この世のどんなおそろしいものよりも、ずっと、ずっと。
「朝から各階層を見回っておられたのは、術の範囲を確かめるため。玉座の間で交わされたお言葉と、後にモモンガ様からアルベドへと告げられた文言を考えれば、死獣天朱雀様がそのお命を使って何かしらの術を発動させようとなさったことは明白だ」
御身を犠牲になさるという死獣天朱雀様の壮絶な覚悟を。盟友を見送らなければならなかったモモンガ様の苦悩を。そして、そうまでしてナザリックをお守りいただいたお二方の、深い、ふかいお慈悲を。
身が震えるほどに感じても、納得できないことがひとつあった。
「な、なんで、死獣天朱雀様が……、ぼ、ぼく、ぼくなら……」
至高の御方自らのお命でなくとも、ぼくたちを使ってくれたら良かったのに。そう思って呟いた言葉に、答えてくれたのはお姉ちゃんだった。
「精霊は強い魔力を持った種族。しかも至高の御方なら、あたしたちが束になっても、それに足る贄になれるとは言い切れない」
「ソシテ、死獣天朱雀様ハ、至高ノ御方々ノ中デハ最モオ歳ヲ召シタ方ダト聞イタコトガアル。若キ者ヨリハ自ラガ、ト、オ考エニナラレタノヤモ知レン」
コキュートスさんの言ったことは、ぼくにはよくわからなかった。だって、どのお方のお命であっても、至高の御方のそれはみな平等に尊いものだ。お歳なんて、関係ないとおもうのだけど。
……ぼくが、もっと大人になったら、わかるんだろうか。
「だが結果的に、死獣天朱雀様は今もご存命だ。精霊種の高い魔力と防御力、そして攻性防壁の扱いに長けていらっしゃる死獣天朱雀様だからこそ耐え抜くことができた、ということだろうね。頭に手を差し込まれた……、随分と混乱しておいでの様子でもあったようだから、至高の御方にとっても予想外のことだったのだろう。今ナザリックが草原に転移していることとも何か関係しているものと思う」
防壁の魔法が、転移の魔法にすりかわってしまった、ということだろうか。聞いたこともない現象だけれど、なんにせよ今、ナザリックは無事で、死獣天朱雀様は生きておられる。その結果を手繰り寄せたのなら、やっぱりこれは至高の御方の御技であることに間違いない。
ほっ、と少し弛んだ空気を切り裂くように、アルベドさんが鋭利な声で現実を突きつけた。
「けれど現状は、我々にとって決して良いとは言えないわ」
「そう、アルベドの言う通り、今我々は御方々の信用を失っている」
ひゅ、と息が詰まる。さっきまで、至高の御方が敵わないもの、という強大で漠然とした畏れだったものが、より身近な恐怖へとすりかわる。
至高の御方の信用を失うということ。役に立てないということ。存在意義を、失うということに。
「モモンガ様と死獣天朱雀様は我々を試しておられた。我々の忠誠が御方々に足るものであるか、そして我々の記憶が確かなものなのか」
ぼくは浮かれていた。嬉しいとしか思えなかった。
ぶくぶく茶釜様のお名前が出るだけで、死獣天朱雀様に嬉しいと言っていただけるだけで、幸せの他になにも考えられなくなっていた。
でもそれだけじゃあ、いけなかったんだ。
「玉座の間にいらしたときと、ここに来られたときで、死獣天朱雀様の装備はより強いものへと変わっていたわ。我々に姿を見せるにあたって気を使っていただいたと考えることもできるけど……、単純に、万全を期すため、と考えたほうが良いでしょうね」
万全を期す。それは、第六階層まで敵が侵入してきているかも知れないと、想定していらしたということ。あるいはぼくたち守護者が裏切るかも知れないと思っていらっしゃったということ。
そんなことは絶対にない。あるはずがない、けれど。
至高の御方に疑われるのは辛い。でも、絶対の忠誠を誓っているはずのシモベを、疑うほうがもっともっと辛いと思う。
「なによりも我々は、この異変に対して、誰ひとり気がつくことができなかった」
そう、シモベの中の誰ひとり。誰ひとりとして、ナザリックが転移しているという事実に気がつかなかった。信用できない、と思われても仕方がない。
「我々は覆さなければならない。言葉ではなく、働きによって」
守護者統括アルベドが厳かに宣言する。
ぼくらは守護者だ。たとえ力が及ばずとも、このナザリック地下大墳墓を、御方々をまもりまもらなければならない。
「失った信用を取り戻すことは、ゼロからそれを積み上げることの億倍は難しいと知れ。御方々のご命令を十全にこなすことは最低条件。御方々が欲するものを事前に察し、お渡しすることこそ我等シモベの使命であると心せよ」
金色の瞳が守護者を見渡す。
ここに、その覚悟がない者など、ひとりとしていなかった。
「……では、マーレ」
「は、はい!」
「あなたは今すぐ地上へ出て、ナザリックの隠蔽工作を開始しなさい。終わったら迅速に私へ連絡すること。……広範囲魔法が使える以上、あなたの仕事は多岐に渡ります。心するように」
「わ、わかりました!」
「よろしい。お願いね、マーレ。……では次、シャルティア」
アルベドさんが次の命令を唱える前に、地上へと駆け出した。
早く、はやく、行かなければならない。
至高の御方のために。はやく、はやく!
その先でぼくを待っていたのは、ある種の絶望だった。
肩で息をする。第六階層からここ、地表部分まで休み無く走ってきたけれど、その程度で息を切らすような弱い身体には作っていただいていない。
にもかかわらず、息が勝手に上がる理由はひとつ。
至高の御方の、気配がする。しかも、たったひとつだけ。
急いで、だけどそっと、音を立てないように。
屋根の外へと足を踏み出せば、黒い鳥が何匹か、一斉に羽ばたいていくのが見えた。
アンデッド、ではない。ということは、上にいらっしゃるのは、死獣天朱雀様だということ。
そう、屋根の上に、たったおひとりで。あたりの様子を探るために? シモベに命令するわけでもなく?
――我々は御方々の信用を失っている。
ぞっとした。ぼくは、いや、ぼくたちは見誤っていたのだ。あのデミウルゴスさんでさえ。
失っているどころの話ではない。
僕たちの信用は、地に落ちている。
「困ったねえ」
びくん、と身体が勝手にふるえる。こちらに気付いていらっしゃる様子ではない。独り言、のようだった。
困っている。死獣天朱雀様が困っている。一体何が死獣天朱雀様を困らせているのだろう。早く殺しに行かなきゃ。でも一体何が。
考えはぐるぐるまわる。結局着地しないうちに、死獣天朱雀様がもう一言呟いた。
「けっこう怖いことも言ってたと思うんだけどね」
怖い。至高の御方をして、怖いこと。
なんなのだろう。もしかしてモモンガ様が何か仰ったんだろうか。それなら良い。「モモンガさんも怒ったらちゃんと怖い」と、ぶくぶく茶釜様が言っておられたのを覚えている。
でも至高の御方同士で争いなんて、そんな、そんな。
「ん?」
ぼくの命ひとつで止められたらいいけれど、そんな都合の良いことなんてあるはずない。
どうか違うものであってほしいけど、でも、それはナザリックの外の敵を望んでいることになる。
やっぱりぐるぐるとまわる思考。うろうろと落ち着きなくあたりを歩いていると。
「マーレ?」
明らかにこちらへと向けられたお声に、大きく身体が跳ねた。
おそるおそるそちらを見上げて――、ぼくは、心底驚くことになる。
そのお姿はあまりに美しかった。
死獣天朱雀様の頭の中に、星の光がきらきらと透き通って、反射して。
こぽこぽとあぶくが浮かんで消えるたびに、数多のひかりが揺らめいて。
両手で抱えられるくらいの水のかたまり。
その中に、まるでひとつの星空を詰め込んだような神秘的な光景が瞬いていた。
「どうしたのかな、マーレ。こんな遅くに」
こんな遅くに。責めておられるのだ、と一瞬思った。
こんなに時間が経っているのに貴様らは何をやっているのだ、と。
けれどそのお声があんまり優しいものだったから、怒ってはおられないように、ぼくには聞こえた。
もしかして、心配、してくださっているのだろうか。気を遣わなければならないのは、こちらだというのに。
「あ、あの! おひとり、ですか……?」
供を連れずに。なんて本当は、シモベに言う権利などない。
だってぼくらは知っている。
かつて41人の御方々が何人か、あるいは、あろうことかお一人でナザリックの外で狩りを行っていらっしゃったのだ。
近頃はほとんどの御方がお隠れになられて、モモンガ様お一人でナザリックの運営資金を稼いでおられた。
そのとき、ぼくたちは、かの偉大なる庇護の元にぬくぬくと安寧を貪っていたのだ。
信用。信用、なんて、はじめからあったんだろうか。
「ん? ちょっと待ってね。……モモンガさん? 今? マーレといるけど」
ちょっと待って、とぼくの発言をお止めになったてのひらが、屋根の上にくるようにと手招きをする。
至高の御方のお傍に、なんて、緊張してる場合じゃない。命令はすばやく実行しなければ。
いそいで屋根の上によじ登れば、<
「んー? ほら、だってさっき。……で、どうしたの? ……あー、ええ……? 一応敷地内だよねここ。……中でも? これから? ずっと? そっかー……、うーん、うん? あはは、それは怖いなあ」
怖い、というお言葉を、あまりにも軽く声に出されている。もしかしたら、死獣天朱雀様の口癖なのかもしれない。
そうだったらいいな。きっとあんまり怖くなくても使ってしまわれるんだ。うん、それがきっと一番いい。
「まあセバスには、明日自分で謝っとくよ。その方がいいでしょ。……うん、うん。大丈夫、今のところは特に何も」
至高の御方がシモベに謝罪をなさるなんて、と思ったけど、確かにおひとりでお出かけになったなら、セバスさんならきっとすごく怒る、と思う。もしもなにか危ないことがあったら、と思うと、平気でいられる気なんてしないし。
「そう? じゃあ待ってるよ。……へーきへーき、睡眠対策はしてあるし。それじゃあ後で」
こぽ、とため息のように泡を浮かべて、会話を終えたんだろう死獣天朱雀様はこちらを見下ろした。
「ごめんごめん、ほったらかして」
「い、いえ! 至高の御方が謝るなんて、そんな!」
「しばらく待たせたしね。で、なんだっけ」
「あ、あの! 死獣天朱雀様は、おひとりでここにおられるんでしょうか!」
「ん? 今はそうだね。もうすぐモモンガさんが来ると思うけど」
ひゅ、と喉が鳴るのを、必死で堪える。
シモベではなく、モモンガ様。
もちろん、ナザリックのシモベなどモモンガ様に比べれば塵芥のようなものだと誰もが理解している。
けれども、シモベなど要らないのだと言外に言われてしまっては。
お前たちなど要らないのだと、突きつけられてしまっては。
「ぼ、ぼくも! ぼくもおそばにいてよろしいですか!?」
心臓がばくばくと鳴る。
お断りになったらどうしよう。自害で済ませていただけるのだろうか。御方の気が済むのならたとえ100万年の拷問でさえ喜んで引き受ける自信はあるが、もしここで、要らない、なんて言われたら。
きっと耐えられない。ニューロニストの拷問ですら甘美だと思えるだろう。
もう泣く直前のぼくに、死獣天朱雀様は、その眼の光をふんわりと微笑みのかたちにして、穏やかな声で仰った。
「マーレがいいのなら、いつまででもいるといい」
ああ、至高の御方とは、なんて、なんて慈悲深い存在なのだろう。
あふれでる涙は、とうとう堪えることができなかった。
デミウルゴスさんとアルベドさんは筆者が覚えていないことまで覚えているので困る。
魔法とかスキルはいつもどおり適当。
タイトルのネタが尽きてきたのもあって前中後に分けます。
中篇は多分三日後くらい。