縁側で茶をすするオーバーロード   作:鮫林

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箱に詰めて水に流す回。
前編を読んでいない方はそちらからどうぞ。

今回2138年の情勢についてもりもり捏造しているのでちょっとお覚悟


死の支配者(オーバーロード)の水葬・後編

 ……なに? いま、なんて言った?

 完全に理解が追い付いていない。なぜならそれは、その名前は、朱雀さんの口からは絶対に出てくるはずがないものだからだ。

 

 鈴木、悟。

 俺が、ユグドラシルの外で使っていた名前。生まれたときにつけてもらった、とも言える。

 それをなぜ、朱雀さんが。

 

 ……いや、俺のことだ。前会ったときうっかり本名を口に出したことがあったかもしれない。記憶力にムラがあることは嫌というほど自覚している。

 

「……、俺、朱雀さんに本名名乗ったこと、ありましたっけ?」

「んー……」

 

 おそるおそる尋ねれば、返ってきたのはほとんど吐息のような曖昧な唸り声。いつの間にか音もなく立ち上がっていた朱雀さんはゆっくりとこちらに歩み寄り、頭を傾けてVサインをひとつ作る。

 

「きみに、謝らなくちゃいけないことがあって」

「謝らなくちゃいけないこと」

「そう。墓まで持っていけると思ってたひみつ」

 

 そうこうしている内に生きたまま墓に入っちゃったけど。

 朱雀さんは苦笑しながら、とすん、と俺の右側に、ひと一人分の隙間を空けて座る。気が付けば茶器も一緒に移動していて、新たに淹れられたお茶がふわりとあたたかく香った。

 

「この間、ぼくがナザリックに……、ユグドラシルに、久々にログインしたとき。サービス終了直前、きみにお願い事をしたのを覚えてる?」

「お願い事……? ……あ」

 

『もし、良かったら。忙しいかも知れないけど、空いた時間に連絡をくれないかな』

 

 そういえば、そんな話をした記憶がある。こっちに来てからのごたごたですっかり忘れてしまっていたが。

 

「連絡が欲しい、って話ですか?」

「そう、それ。ありがとう、覚えててくれて」

「……社交辞令でした、っていう話なら、別に──」

「逆だよ」

「え?」

 

 俯きかけた頭が、意外な返答によって朱雀さんへと向き直る。少し低い位置にある水球が、覗き込むようにこちらを見ていた。

 

「ひとつめ。あの日、ぼくは明確な下心を持って、きみに接触した。モモンガさんではなく、鈴木悟さんを目当てに」

 

 そのためにきみのことを少し調べた。氏名と生年月日、現職について。朱雀さんは申し訳なさそうにそう告げる。

 

 下心。心の中でひそかに考えていたこと。

 えっちなやつ!? と、心のペロロンチーノが出てくるのをそっと振り払い、どういうことですか、と、問いかけた。

 

「ちょっと長くなるんだけど、聞いてくれる?」

「ええ、もちろん。……時間の許す限りは」

 

 ちらりと時計を振り返れば、アルベドに命じた時間まであと1時間を少し切ったところだった。延ばそうと思えば延ばすこともできるだろうが、NPCたちをあまり待たせるのは忍びない。待てって言えばいつまでも待つだろうしなあ……。

 

「ありがとう。……どこから話そうかな。40年くらい前に捨てたはずの権限が巡り巡ってぼくのところに帰ってきてしまったのがきっかけで」

「権限、ですか?」

「うん。そのときぼくは大学に残りたかったから辞退して、一時は兄に移ったんだ。兄には子供も孫もいるから、順当にいけばそっちに相続されるはずだった。ぼくには離婚歴はあっても子供はいなかったから」

 

 ……なんだかさらりと重要なことを聞いてしまった気がするけれど、それよりも気になったことがひとつ。

 

「その、権限っていうのは……、世襲、なんですか?」

「笑っちゃうよね。22世紀も半ばになったっていうのに、結局血に頼る(いにしえ)の経営に戻るなんて」

 

 幼少時から英才教育が施せるっていう意味では世襲にも利点があるのかね、と朱雀さんは笑う。

 

「経営、ってことは」

「会社の経営に、口を出す権限。名前聞く?」

 

 好奇心に負けて聞いた会社の名前は、俺でも知ってる歴史あるメガコーポで。あそこのトップこないだ別の人に替わったってニュースやってなかったっけ。いや『経営に口を出す権限』っていう話だから、裏の顔とかそういうやつなのかな。えっちょっとかっこ良くない? すご。

 

「朱雀さんって、ほんとに上流階級の人だったんですね……。ああ、ええと、疑ってたっていう意味の方じゃなくて」

「まあねえ。いわゆる庶子だから生まれついての貴人(ノーブル)だったわけじゃないけど、理念は一通り叩き込まれたかな」

「理念?」

高貴なるものの義務(ノブレス・オブリージュ)。果たしてあの世界で正しく機能していたかは別として、持てる者はそれにふさわしい義務と自覚、教養を身に着けるべきだ、と」

 

 その「義務」に、本来含まれるはずの弱者の救済は、終ぞ成されなかったのだけれど。

 軽蔑というよりは寂寥を感じさせる声が、朱雀さんの頭からこぼれた。水の中にはじわりとお茶が滲んでいる。濃い褐色が一瞬、血の色に見えた。

 

「それでまあ、5年前に兄と甥が亡くなって、又甥の後見人として名前を貸してたんだけど」

「……深刻なお話の途中ですみません、又甥ってどこにあたる人ですか……?」

「甥の子ども。兄の孫息子だね。で、この間その子が相続を辞退して、結局ぼくのところまでもう一度回ってきたんだ」

「それを、受けたんですね」

 

 そう問えば朱雀さんは、一度は断ったんだよ、と、襟を押さえつつ、ぽこぽこと長いため息をつく。パーツの少ない顔はしかし、外から見ても明らかな渋面を作っていた。

 

「ぼくには時間がないし、後継者もいないんだからすぐにまた同じ問題が湧いてくる。大体40年も前に放棄したんだからもうぼくに相続権はないはずだ。そもそもコネもない人間を中核に突っ込もうとするな、遺伝子認証が必要な鍵なら開けてやるから、誰か使えそうなやつを適当に任命しろ、と」

「……時間がないって、どういうことですか」

「医者に言わせれば残り1年だって。だから診断書も突きつけて、無意味なことはやめるように説得したんだけど、結局押し切られて……」

「待って、まって待ってください!」

 

 さらりと流そうとするのを必死に押しとどめた。脳もないのに頭痛がして、からっぽの目頭がぎゅっと熱くなる。

 お医者さんが、1年で、時間がないって、それは、つまり。

 

「ご病気、だったんですか?」

「肺がね。不摂生が齢相応に祟っただけだよ。なにも特別なことじゃない」

「そんな状態で、来てくださったなんて」

「だから言っただろう、目的あってのことだと。きみが気に病むようなことは何もない」

 

 まあこんなことになってしまったから、もう考えるようなことじゃなくなってしまったけど。

 朱雀さんはそう呟いて、左胸のあたりを撫でさすった。かつてあった痛みを思い出したのだろうか、もはや存在しない肺腑をいたわるように。

 

 気に病むようなことはない、なんて。無理だろ、そんなの。そんな大変なときにこっちの都合で呼びつけて、一日付き合ってくれて。

 おれに、何をさせたくて、そんな。

 

「……どうも話が逸れがちだな。ええと、それでね、押し切られるにあたって、条件をつけたんだ。終活も終わらせた爺をこき使うつもりなら、このぐらいは飲めと」

「条件……」

「いま親しくしている若者をひとり、学術の方の後継に据えておきたい。ひいてはそっちの引継ぎに時間を取らせろ、ってね」

 

 言いながら、白いてのひらが、こちらに差し出され。骨の指で自分を指し示せば、浮いた頭はこくりとひとつ頷き。

 

 ……俺? おれ!!??

 俺を!!!???

 

「待、っは、あ"、え"えっ!!!??? 嘘でしょ!!!???」

「経営に口出す方が良かった?」

「そっちじゃなくて!!!!!」

「んー、まあ、ねじ込めばいけないこともないだろうけど、ちょーっと時間が足りないかな。きみの年齢から叩き込むならみっちり3年は欲しい」

「時間の問題じゃなくてですね!! もっと、こう……!! ……、ふう、……その手の冗談はやめてください。ちょっとタチが悪い」

 

 沸き上がった感情が沈静化され、わずかな苛立ちがふつふつと焦げ付いていた。揶揄うにしたって限度がある。特に、こっちの生まれ育ちを理解していて、できもしないことを希望のようにぶら下げるたぐいのものは、さすがに気分が悪かった。

 俺の苛立ちを真っ向から受け止めているだろうに、朱雀さんはさして気にした風もなく、ことりと疑問の意を示すように頭を傾げた。

 

「どのあたりが冗談だと?」

「俺がアーコロジーで職に就くってところからですね。人体実験のために提供される方がよっぽど信憑性が高い」

「きみの中でぼくはどれだけ人でなしなのさ……」

「……十分、人でなしでしょう。そんな都合の良い話、あるわけがない」

 

 首を横に振る俺の隣で、「都合の良い、ねえ」と零しながら、空のカップにお茶が注がれる。都合6杯目。……やっぱり、加湿器を探そう。地下だからカビが生えるだろうか。お掃除を頑張ってもらうしかないな……。

 

「そりゃあ、そうでしょう。ライトノベルじゃあるまいし。……いえ、この状況がすでに非現実的だと言われればそれまでなんですが」

「そうだねえ。で、この状況を受け入れているのに、ぼくの発言を信じないのはなぜ?」

「俺たちが置かれている状況は、目の前にあるじゃないですか」

「つまり、ぼくが選ぶに足る存在だと、きみが自覚できればいいわけだ」

 

 朱雀さんの瞳が、ゆらりと弧をえがく。光は強くなったのに、より深くへと沈んだようにも見えた。みえないなにかに足首を掴まれたような錯覚がして、きゅっとかたく身を縮こませる。

 

 この場は穏やかな話し合いの場で。朱雀さんもきっと、そう思ってくれているはずで。状況に、まったくそぐわないのに。まるで。

 獲物を、巣へと、引きずり込もうと、しているみたいに。

 

「……よく、ないです。時間はそんなにあるわけじゃない。もっと、現実的なことを話しておかないと」

「ぼくの60年を非現実だと切り捨てるか。言ってくれるね」

「これからのこと、っていう意味です! こんな、意味がないじゃないですか。だって、もう……」

 

 向こうの世界には、戻れない。

 

 戻らない、と、言ったよな。

 言ってくれた、はずだよな。

 

 ……どうだろう。戻りたいんだろうか。話を聞いていると、向こうで待ってくれている人が、いるんじゃないか、この人には。

 俺と、違って。

 

「意味ならあるよ」

 

 低い声が、沈みかけた思考を引き上げるように、はっきりと俺の言葉を否定する。合わせた視線に、先ほどまであった引き込まれるような冷たさは感じられなかった。

 

「言っただろう、きみの呪いを解くのだと」

「その、呪いってどういうことですか。こっちに来てから魂に呪いをかける術が見つかった、と?」

 

 それはすごく恐ろしいことだ。オーバーロードだから呪いには強い耐性があるが、肉体を越えて魂に作用するとなったら防げないかもしれない。

 けれども朱雀さんはこぽりと吐息をこぼし、苦い笑みと共に、否、と答えを返す。

 

「わかっていてはぐらかすのは良くないな。それも言ったはずだ。ぼくは、鈴木悟さんに掛かった呪いを解くんだって」

「呪い、なんて。ありませんよ、現実(リアル)なんですから」

「あるよ。ぼくは別にスピリチュアルだとか超常現象の話をしているわけじゃない。きみが、かたくなに、きみの能力を否定するその思考。それこそが呪いであると言っている」

 

 ちがう。違う。

 これはただの性格で、性分だ。

 それを、呪いなんて言われる筋合いはない。

 

 なのに、どうして俺は、反論することができないんだろう。

 

「ねえ。なぜきみは、ぼくが用意したものをきみができないと決めつけるのかな」

「……だって、そうでしょう。できる理由はなくても、できない理由は山ほどある」

 

 最終学歴は小卒で、十分な学がないから。「仕事」に対する熱意を持たず、無気力で、ゲームの他には食事にすら楽しみを見いだせないから。家族や友人もなく、ロクなコネクションも持たないから。

 

 去りゆくものを、止められなかったから。

 

 みずから指折り数えて、勝手に虚しくなる。だから嫌だったんだ。なんで異世界に来てまで、自分の卑しさを見つめ直さなきゃいけないのか。

 

「客観的な事実ですよ。学も、コネも、意欲もない。そんな、当たり前のことを、いまさら──」

「知識も人脈も意欲も後付けでどうにでも補えるものだ。そんなものは客観的な事実とは言わない」

「な」

「いい加減に、言わせてもらうけど」

 

 息継ぎなのだろう、泡がひとつこぽりと鳴り、たん! と膝を叩いた手袋から良い音がして。

 

「きみはちょっと卑屈にすぎる。一方向に偏りがちだが記憶力は決して悪くないし、ほんの少し訓練すれば学問への応用も容易い。マニュアルに忠実でありながら検証が必要なことにはよく気が付く。そしてひとつのことを突き詰めることに苦痛を感じにくい。実に学者向きだ。内向型の割には社交的で、周囲に気を配るのが得意だから医療に従事するのもありだと思う。それから──」

「ちょ、ま、待って! 待って!! 多い! いや、誰の話をしてるんです!?」

「今きみ以外に誰の話をするっていうんだ」

「お、お世辞でごまかそうったってそうはいきませんよ!!」

 

 学者!? 医療!!??

 今の自分から最も遠い職に身がふるえる。言い方はすごく悪いが、お年を召してちょっと目と頭に支障が出ているんじゃないだろうか。

 

 そんな失礼な思考が届いてしまったか、「は? なに言ってんだこいつ」を形にしたような視線が俺へと向けられる。

 

「お世辞じゃないよ。『客観的な事実』だ」

「だ、だって、だってそんなこと……」

「言われたことはあるんじゃないかな。特にこのギルドの長がきみになってから。問題はね、きみがそれを、心底からは信用していないところにある」

 

 手のひらを差し向けられて、どきりとした。

 俺がしているのはただの謙遜だ。傲慢に振る舞うよりずっといいだろう。責められる道理なんてないし、問題、なんて言われるほどのことでもない。

 

 はず、なのに。

 仲間の言うことを信じていないんじゃないかって、突きつけられたような。

 

 ……いや、いや。

 お世辞を鵜呑みにして調子に乗るよりはマシだ。こんな上げられ方をしたって、絶対に、落とされるときがくる。絶対に。……絶対に?

 

 そこまで確信するようなことか? ささやかに波立つ思考を前に立ち尽くせば、それをかき分けるように朱雀さんは話を続ける。

 

「聞いたよ。このギルドが新生するとき、満場一致できみがギルド長に推されたと。都合よく神輿に担ぎ上げられたとでも思った?」

「……そこまでは。おれの方が都合が良いと、思った人はいたでしょうけど」

「きみは温厚で献身的だから、勘違いする者は一定数いるだろう。そこで引き受けるあたり、本当に人が良い」

「俺が、ギルド長を引き受けたのは……、仲間が去っていくのが、嫌だったからです。大層な理由なんて何もない。……結局は、引き留めることも、できませんでした」

 

 そう。みんな、みんなアインズ・ウール・ゴウンから去っていってしまった。

 仕事や家庭の事情もあっただろう。亡くなっている人もいるのかもしれない。朱雀さんだって、引退した時期を考えれば、身内の方に不幸があったからだとわかる。どうしようもない理由で離れざるを得ない人がいたことは、わかっている。

 

 それでも、と考えずにはいられない。もっと俺がしっかりしていれば。強く引き留めていれば。良い環境を維持できていれば。

 みんな、アインズ・ウール・ゴウンに、帰ってきてくれたかもしれないのに。

 

「それはゲーム的な魅力を維持できなかったユグドラシルの……、ひいては企業の失態だ。決してきみの責任じゃない」

「けど、そんなことも問題にならないくらい、価値ある、魅力的な場所なら。離れていくこともなかったかもしれないじゃないですか。この世界なら、それが適うかもしれない」

 

 手つかずの自然がたくさん残っている、素晴らしい世界。力があり、魔法があり、財産があり、自らが作り上げた存在が自分たちを慕ってくれている。これ以上にないくらい、いや、少なくとも元いた世界よりは何百倍もいい、そんなここなら、もしかしたら。

 

「何度でも言う」

 

 そんなものに何ひとつ価値などない、とでも言うように、まっすぐな視線がこちらを貫いた。

 

「ギルドメンバーが引退したことも、あるいはきみがここの維持を放棄していたとしても、きみに一切の責任はない。ないんだよ」

「そんな、ことは……」

「それでもきみが『責任を負うべきだ』という思考に捕らわれているのは、きみが、そのように教育されているからだ。鈴木悟さん」

 

 きょういく、と、半ば反射的に口にした俺に頷いた後、朱雀さんは論説を続ける。

 

「2112年、教育推進法が可決。人口の減少を名目に初等、及び中等教育のカリキュラムが大きく変更される。具体的に実施されるのは2115年からだけど。……もう四半世紀経つのか、早いな」

「……その法律が、どうかしたんですか」

「ざっくり乱暴に説明するなら、社会の歯車を効率的に量産できるよう、初期段階から教育内容に手を加える法だよ。……一応反対派だったんだけどね。ぼくが政治家でなかったことを後悔したのは後にも先にもこのときだけだ」

「? 教育って、そんなものなのでは……?」

 

 社会的に都合の良いよう人間を育てるのが教育の役割だろう。携われるような身分じゃなかったが、そのくらいはわかる。

 けれど朱雀さんは困ったような顔をして、俺の疑問を受け止めた。

 

「そういった側面があることは否定しないがね。ちょっと諦念が過ぎる。……とはいえぼくの説明も抜けていたな。この法案の欠点はね、本人の適性を無視して教育が行われるということだ」

「適性を……?」

「効率が悪いと思うかい? ぼくもそう思うよ。けれど当時の、ひいては現在に至るまで。上の人間はそうは思わなかった。必要な労働力を必要なだけ生み出すことを優先した。氏より育ちであるならば、型に嵌めさえすれば性質はそれに沿うものだと。ははは、ゼリーじゃあるまいし。沿うわけないだろ」

 

 乾いた笑い声が、ひやりとわざとらしく響く。思わず二の腕を擦りながら、ふと思い立った。

 このひと、もしかして今、すごく怒っているんだろうか。

 

 俺がじっと見ていることに気づいたのか、こぽ、とひとつ咳ばらいをして、朱雀さんは話に戻る。

 

「まあ、ナノマシンによるホルモン調整でストレス値がある程度誤魔化せるようになってしまったけど、はっきり言って既存の教育への冒涜だ。企業による権威を独占するための……、まあ今となってはもういいや。内容だね、いま必要なのは」

「朱雀さん」

「うん?」

「怒ってます?」

「……ふふ、人の機微に敏い、も付け加えておこうか?」

 

 悪戯っぽく投げかけられた提案に両手を小さく振って遠慮する。勢いを一度鎮火するように、朱雀さんはカップを傾けて中身を干した。こぽぽ、と、一息、ため息のような泡がたつ。

 

「……本人の適性を無視して、とは言っても。ある程度の振り分けは必要だ。基礎的な体力、知力、そして在籍時の、あるいはこれから陥るであろう家庭環境に準じている」

「それ、って……」

「関東のある区画では、『養育者の喪失理由』を元にカリキュラムを組んでいたそうだ。実験的に」

 

 ひゅ、と、息が止まるのを確かに感じた。

 ないはずの心臓が凍り付いて、背中を冷や汗が伝うような感覚がする。

 

 寒い。スキルで無効化しているはずなのに、身体の芯から凍りそうだった。

 ローブを握りしめ、起こりそうな震えをどうにか抑えようとしたとき。

 

 もふり。柔らかい感触が頬に触れる。

 見れば朱雀さんが毛足の長い毛布を……、いや、これ毛皮だな。ニブルヘイム・ヒュージ・ラビットから剥ぎ取れるやつ。とにかく背中にかけてくれていた。するすると引っ掛かりのない手触りが心地よくてあったかい。

 

 お礼を言えば、気遣わしげな視線がこちらを覗き込む。目の光にも若干暖色が混ざっているように見えた。

 

「少し休む?」

「……いいえ。大丈夫です。続けてください」

「それじゃあ遠慮なく。ええと、そうだな。やたら『体調管理できない人間は悪』だと吹聴する先生はいなかった? 厳しくて、嫌みで、すぐ怒鳴る感じの」

「……いましたね、覚えてます。嫌いでした」

「じゃあこんな人もいたはずだ。『過労は周囲の環境に左右される』と主張する、穏やかで優しく、正義感に溢れた先生が」

 

 頷く。今でも顔を覚えている。お世話になった先生だ。学費が払えなくなって、職業従事が可能な年齢まで職業訓練施設に行くことになったときも、手続きを手伝ってくれた。

 

「きみの養育者が亡くなる前、その先生は大層親身になってくれたのじゃないかな。お父様、あるいはお母様は偉いね。支えてあげてね。家族を殺すような人間にならないでね」

「はい。……でも、母は、過労で」

「思い出を壊すようで悪いけど。100年前ならいざ知らず、ナノマシンで血中成分が記録できるようになった時代で企業が社員の体調を把握していないのはあり得ないよ。その教師には間違いなく連絡がいってるし、『わかって』そう説いている。きみに罪悪感を植え付けるために」

「──……」

 

 冷や水を浴びせかけられたようだった。かつての偶像が崩れたことへの悲しみはほとんどない。が、その可能性にいままで全く思い至らなかった自分にショックを受けた。

 理解はしていた。しているつもりだった。二極化する社会の下の方にいるのだと、そう認識して、ウルベルトさんと話をしていたこともあったはずなのに。

 まだ、甘かったのだと、思い知らされた。

 

「訓練施設へ移行する最中にも言われただろう、そっか、先生の言うことはわかってもらえなかったんだね。悲しいな。君は責任を取る力がないんだね。覚えておいた方がいいよ。……こんなところかな? 決して声を荒らげることなく、さもきみを心配しているのだという空気を醸し出して」

「…………」

「これはあくまで一例だ。こうして逐一つついていくことで、無気力かつ卑屈で、自己肯定力が低く、単一の娯楽以外に適性を見いだせない人格が出来上がる。企業の事故なんかで両親を失った者には、あえて反抗的な思想を植え付けて、ガス抜きのテロリズムへと誘導されたりもするけれど。きみからはそこまでの攻撃性が検出されなかったらしい」

 

 それだけは、ありがたいことだと言っておこうか。朱雀さんはそう締めくくり、ポットを傾け──、中身がないことを確認すると、ことりとテーブルに置いた。

 こちらにぐっと半身が向けられ、視線がかち合う。

 

「故に、だ。きみの謙遜はいっそ卑下であり、美徳でもなんでもない。ましてきみの性格も関係ない。それは外から押し付けられたもので、そうあれと望まれたものだ。NPCじゃないんだから、押し付けられた願望に、きみが答える必要はない」

「……だからって、どうすればいいんですか。俺が、俺に、何もないことには、変わりないでしょう」

「誠に遺憾だが仮にそれが真実だとして、なんだっていうんだ。必要なことはこれから学べばいい。最初の一歩は誰にでもあるもので、それを恥じる必要などないんだから」

 

 どこにでも行けるんだよ、きみは。

 

 その声色はとてもやさしくて、骨身に染みいるように響いてくる。いつだってそうだ。朱雀さんは穏やかで、冷静で、俺が知らないことを笑ったりしない。間違った方向へと行きそうになればそっと正してくれる。

 

 それは、まるで──。

 

「朱雀さんは」

「うん」

「こんなに俺に親身になって、俺に何をさせたいんですか」

 

──朱雀さんの言う、『都合の良い歯車』を製造する教員のようじゃないか?

 

 きょとんとする朱雀さんの顔をまともに見られなくて、知らず視線が下を向く。合ってても外れていても居たたまれない。なんでこんなことを言ってしまったんだろうと思う反面、滑る口を止められなかった。

 

「俺がどこにでも行けるって言うのなら、朱雀さんの方がよっぽどそうでしょう。アインズ・ウール・ゴウンの名を……、ナザリックの外の方が大事なら、それでもいいんです。縛り付ける権利は、元々俺にはありません」

「……」

「ただ、不満っていうわけじゃなくて、わからないんです。あなたの目的がわからない。俺に、自信みたいなものをつけさせて、どうしたいんですか。俺の目的を変えるだけなら、もっと他に手段があったでしょう。なんでこんなに手間をかけて、俺の意識改革にまで手を伸ばしたんですか」

 

 糾弾したいわけじゃない。ただひたすらに疑問だった。

 

 俺を自由にして、ナザリックのトップから引きずり下ろしたい?

 いや、朱雀さんからそういう欲を感じたことがないし、引きずり降ろされなきゃいけないほど俺は玉座に固執していない。言ってくれればいつだって替わるのに。

 

 洗脳術の実験台にしたかった?

 いやいや、流石にそこまで人でなしじゃないだろう。何より自分で言うのもなんだけど俺はチョロいから、洗脳しがいがない。……ないよな?

 

 なら完全に善意……、って答えにもたどり着かない。なんでだ。

 朱雀さんは俺の価値を信じてくれていて、期待してくれているから、なんて、とてもじゃないけど信じられない。そう、信じようとさせる朱雀さんの意図がわからない。

 

 わからない。

 もう何もわからない。ぐちゃぐちゃだ。

 

 単純な欲ならまだわかる。言ってほしい。責任とは別のところで、ギルドメンバーが求めるものはできるだけ叶えたいと思うから。

 

 だが、彼がほしいものがなんなのか、その片鱗すらつかめない。

 怖い。恐ろしいのだ。朱雀さんが何か、得体の知れないものになってしまった気がして、寒気にも似た恐怖を感じる。

 

 それでも、いつまでも俯いているわけにはいかず。

 意を決して、顔を上げた、視線の先で。

 

 

 朱雀さんは、満足そうに笑っていた。

 

 

「だって、つまらないじゃないか」

「……はい?」

 

 予想外の返答に、ちょっと声がひっくり返った。

 なんて? つまらないって言った?

 

 頭にハテナを浮かべる俺を意に介さず、朱雀さんは続ける。

 

「正直なところ、ぼくはきみから見えるほど世界の改変を憂いているわけじゃない。侵略的外来種も生態のうちというのならまあそうだろうし、絶えなば絶えねがぼくの座右の銘だ」

 

 なんだっけ。絶えるのならば絶えてしまえ、っていう意味だったか。やまいこさんあたりから聞いたことがあるような。昔の、俳句? の一文だと聞いたような。

 

「けれど、このままだときみは、ナザリックの支配者以外のものになれなくなる。それはひどくつまらないと思うんだ」

「つまらない、ですか」

「あるいはきみが外圧以外の理由でそうなるのならば止める理由はないだろう。きみが自ら望むのであればなんだってすればいい。殺戮でも、世界の征服でも」

 

 物騒な単語が出てきてぎょっとする。殺戮も征服もしたいとは思わないし、何より不可能だろう。夢物語にもほどがある。

 

「いや、殺戮もそうですけど、世界征服はさすがに」

「できるよ。きみにも、ナザリックにも、それだけの力がある。それを許さない力は確かにあるけど、ナザリックを押さえておくには心許ないものだ」

 

 内容は荒唐無稽でも、朱雀さんに、冗談を言っている様子は見られない。目の光はどこか遠くを見ているようで、誰かを思い出しているようにも見えた。

 思い出しているのは、リク・アガネイアか、それとも。

 

 朱雀さんの手が、そっと襟元に添えられる。見慣れた癖。ほんの数日だが、考え事をしているときや、言いにくいことを言うときに見られるものだと、なんとはなしにわかるようになった。

 

「ただ、ただねえ。力を意のままに振るうというのなら、どうか覚えておいてほしい。強い力には、義務が課せられるべきだ。人間かどうかに関わらず、力あるものはそれに値する覚悟を身につけなければならない」

「……ノブレス、オブリージュ、でしたっけ」

「正解。自覚無自覚を問わず、力を持てばそこには責任が伴う。失われたものは、二度と元に戻らないからね」

 

 だからどうしても、きみの自覚がほしかった。

 

 混乱の渦の中心に、ぽんと答えが投げかけられるような画が浮かぶ。

 結局のところ、今の今まで。俺には、力を振るわれる側の視点しかなかった。殴られることに怯えて、殴り返す口実を探して、どうすればこちらに被害が出ずに済むか、そればかりを考えていた。

 

 反対に朱雀さんには、力を振るう側の認識が強く出ていて。こちらも、相手も、双方どうすれば最も被害が少なくなるかを常に考えていて、最善のためにどうにか力を尽くそうとする。たとえそれが自分の身を危うくしても、それが『義務』で、『責任』だから。

 

 それが、俺の刷り込みとどう違うのか。……愚問だな。理解しながら義務を遂行するのと、自覚もなく言われたままに動くのでは全然ちがう。

 失われたものは、二度と戻らない。たとえ、強者が容易く取り戻せるものでも、弱者にとってはそうでないというのは、痛いほど知っていたはずなのに。

 

 俺が朱雀さんを理解できずに恐れたように、朱雀さんもまた俺を理解するのに時間を要したのかもしれない。そして、歩み寄ってくれた。わからないものをわからないまま恐れるのではなく、原因に手をかけようとしてくれた。

 

 それを、ちっとも大したことがないとでも言うように、軽く肩をすくめて朱雀さんは自嘲する。 

 

「ぼくの付け焼刃なメンタルセラピーもどきで、きみが積み重ねた年月を剥がせるなんて思ってないよ。今日してもらったのは理解だ。再三になるが、ぼくらはNPCじゃない。今ある自我はなぜ生まれたのか、いつどのようにして成形されたのか、自覚しようと思わなければ自覚できない」

「自覚……」

「うん。そして、自己肯定感を確保するのと、ぼくの言葉を鵜呑みにするのとは違うことだ。甘言に乗せられなくて実に結構。今日のところはそれで十分だ」

 

 まるっきり『先生』の顔をして、彼はほほ笑んでいた。

 その表情が、昔の先生と一切だぶらなかったのは、彼がはっきりと打算を口にしたからではなく、むしろ。

 

「覚えておいてほしい。きみは本当になんだってできるようになる。アインズ・ウール・ゴウンに対して責任を感じるというのなら、それは外圧からくるものではなく、内発的なものでなければならないと、少なくともぼくは思う」

 

 襟の後ろを撫でながら断定の言葉を使う彼にしかし、高圧的なところは少しもなくて。

 

「それを理解してくれるのであれば、きみの方針の一切にぼくは従うよ」

 

 諦念ともとれるような物言いに、けれど突き放すような印象は受けず。

 

 ひとこと、返そうとした、そのとき。

 

 

「失礼いたします」

 

 規則正しいノックのあと、艶やかな女声が響く。声の主、アルベドは静かに部屋に入ると俺たちを目に留め、ぱちり、と大きく瞬いた。

 何かあったか、と聞こうとしたとき、再度もふりとした感触が頬をなでる。……何かあったのは俺だな。上司が兎の毛皮を被っていればそりゃそんな顔にもなる。

 

 朱雀さんに毛皮を返しつつ時計を見れば、ちょうど二時間が経ったところで。その考えを後押しするように、お迎えに上がりました、とアルベドが恭しくお辞儀をする。

 

「じゃ、行こうか」

「……いや」

 

 立ち上がりかけた朱雀さんを制し、数呼吸、思考を巡らせた。

 意を決して顔を上げ、少し傾いた水の頭から、不思議そうにこちらを見つめる美貌の悪魔へと視線を移し、告げる。

 

「あと15分だけ、待ってくれるか。アルベド」

 

 

 

 

 




教授は嘘は言ってないんですけど本当のことをすべて話してるわけでもないので真面目に考察をしていただくとちょっと損をするかもしれない 話半分に読んで

あと教育や政治について捏造するにあたり「そうはならんやろ」と筆者も思うところではありますがなっちゃった体でひとつよろしく…

次回、ナザリックの方針を発表
4/26以降になります 気長にお待ちを

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