時系列的には 二人目(ナザリック転移から3時間くらい) → 一人目(ナザリック転移から16時間くらい) となっているので頭の隅にでも置いといていただければ幸いです。
ごっとん、がたん、がたたん、ごとん。
絶え間なく揺れる馬車の上。このあたりの道は人が良く通るからまだマシだけど、村を出たばかりのときは、それはもう酷かった。辺り一面が霧に囲まれてることへの不安もあって、お腹がぜんぶ引っくり返っちゃうかと思ったくらい。
今はもう、とっくに霧を抜けて、街道を順調に進んでいる。日銭を稼ぐためにやってきた冒険者さんたちの姿がちらほら見えていた。これなら心配していたゴブリンやオーガなんかの襲撃も、きっとやり過ごせる。このまま何事もなくエ・ランテルまで着くかも知れない。そんな希望を私たちに抱かせていた。
傾き始めた太陽の光が、膝の上の、ネムの髪をきらきら照らす。小さな頭をくしゃくしゃと撫でた。
街に行ける! と笑い声を上げながら喜んでいたのはさっきまでのこと。どうやらはしゃぎ疲れて眠ってしまったらしい。暢気なことだ。今頃、あの霧の中には、アンデッドがうようよしているかもしれないのに。
来た道を振り返る。ネムを起こさないように、そっとため息をついた。
いつもの朝、いつもの食事、いつもの仕事。ちょっと退屈だけど、それでも変わりなく続いていくはずだった日常が、ある日突然無くなってしまうものなのだと知ったのは、今朝のことだ。
扉の外は、ミルク色の世界でした。旅の吟遊詩人さんでも中々思い付かないような謳い文句。朝目覚めて、井戸まで水を汲みに行くために扉を開けたときの光景がそれだった。
自分の鼻先すら見渡せない、一面の乳白色。空どころか、目の前の隣人の顔も見えないくらい。
家族みんなでしばらく呆気に取られたあと、おーい、おーい、と、叫びはじめた村の人たちの声を聞いてようやく我に返り、互いの安否を確認するため、私たちも声を上げたのだった。
点呼のため、情報を整理するため。濃い霧の中、なんとか時間をかけて村長さんの家まで集まった。
こんなことは初めてだ、と村長さんは言う。100年前、ご先祖様がこの地を伐り開いて以来、こんな深い霧など伝え聞いたことがない、と。
戦争のときに引っ立てられて行ったカッツェ平野の他に、霧など見たことがない。村人みんながそんなだから、対処方法なんて、考えても考えても出てくるはずがなかった。
本当に何も見えないのだ。松明をつけてみた人がいたけど、霧に触れた途端消えてしまったのだという。
これでは、農作業も、家畜の世話もできない。井戸まで水を汲みに行くことにさえとんでもない時間がかかる。前の人をうっかり井戸に突き落としてしまうかもしれなかった。
でも、少しずつやれば見えないことにも慣れるんじゃないか。そう言った人のすぐあと、ぽつりと呟かれる声。
カッツェ平野の霧とは、関係がないんだろうか。
ざわ、と、みんなの間に動揺が走った。
カッツェ平野。一年中霧に覆われている不思議な野原。
中にはアンデッドがひしめいており、年に一度、帝国と王国が戦争をする時だけ、まるで仲間を迎え入れるかのように晴れわたるという、不気味な土地。
ここ、カルネ村は平野に近いから、毎年戦争が近くなると、若い男の人が何人か兵隊にとられていく。平野の近くから、霧を直接見たという人が呟いた。魔物が住むにふさわしい、禍々しく、冷たい霧だった、と。
ぶるり、と身が震える。そう言われれば、この霧がとても恐ろしいものに見えてきた。
突然自分の眼前に、凶悪なアンデッドが現れる。そんな幻想が、ひたひたと心を満たしていった。ぎゅう、と抱きついてきたネムに、大丈夫よ、と小さく声をかける。ふるえる声は、自分へと言い聞かせたものに違いなかった。
どうにかならないものか、と意見を出し合っていた村の人たちに、
いつから霧が出ているかはわからないが、とりあえず、今のところは、霧で視界が塞がる他には、私たちを害するものはない。
この霧では、狩りどころか森に入ることすらできないので、自分には今できることがない。そこで、まだ体力が残っているうちに、何人か選抜して、エ・ランテルまで助けを呼びに行こうと思う。
森の魔物は環境の変化に敏感なので、もうしばらくは大人しくしているはず。その間に街道まで出てしまいたい。
兵隊や、森の獣なら自分達でなんとかしろと言われるだろうが、突如としてあらわれた霧ならば、今以上に広がる危険性を訴えることで、魔法を研究する人達が食いついてくるかもしれない。
ここで、全員がひたすらじっとして、じわじわと消耗していくのを待つよりは、いくらか建設的ではないか。
どの道このままではろくな作業もできないし、万一戦争の季節までこのままだったら、そっちに人手を割かれることになる。王国は、ちっぽけな村の都合なんて考えてくれやしないのだから。
ラッチモンさんの意見は、概ね好意的に受け入れられた。
男手を引き抜かれることに抵抗のある人もいたようだが、いま出ている意見の中では、いちばん前向きには違いない、と。
もちろん、今より酷いことになるかもしれない。道中事故に遭うかもしれないし、野党やモンスターに襲われるかもしれない。
でも、なにもしないで待つよりは、ちょっとでもできることをした方が良いんじゃないかって、みんなも、私も、そう思っていた。
みんな不安だったのだ。国に納める税は毎年増えるばっかりで生活はちっとも楽にならないし、近くの村ではモンスターによる被害が年々深刻になっているともいう。怪しい作物を無理矢理作らされている村もあると聞いた。
みんなの漠然とした不安が、霧という形になって現れたんじゃないか、なんて、口には出さなかったけど。
そうして、手分けして荷物を纏めることになった。村から出る人たちと、村に残る人の分、両方だ。もしアンデッドが現れたとき、いつでも逃げ出せるように。
ありあわせのもので支度を整えていたとき、なんと、私にも声がかかった。エ・ランテルへ一緒に来てくれないか、と。
なんでも、バレアレさんのとこの坊っちゃん、つまりンフィーレアに、エ・ランテルの冒険者組合に口聞きしてくれるよう頼んで欲しいのだという。
確かに私とンフィーは友達だけど、大人の人が頼んだ方が良いんじゃないのか、そう言えば、エンリちゃんが頼んでくれるのが一番効く、と言われ、周りの人たちにも一斉に同意されてしまった。
両親に助けを求めたが、村がこの有り様なら、エ・ランテルの方がむしろ安全ではないかと後押しをする始末。
私も行く! と言い出したネムも、なぜか連れていって良いと許可が出たので、荷物の隙間に挟まるように、私たち姉妹は馬車に揺られて街を目指すことになったのだった。
気がつけば、空は見事な夕やけ色。
視界が晴れたことで少しだけ気分が良くなったけど、不安はいまだ、心の奥底に残ったままだ。
これからどうなってしまうんだろう。もやもやと先のことを考えていたら、膝の上で身動きする気配。目をこすりながら起き上がったネムは、しばらく寝ぼけ眼で空を見ていたが、突然私の服の袖を引っ張って騒ぎ出した。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
「こら、ネム。静かにして」
道中は決して安全ではない。今のところ何も出てきてないけれど、普段はしょっちゅうゴブリンやオーガが出てくる道だ。こそこそと行かなければ、いつ襲われるかわからない。
注意したことでここがどこなのか思い出したのか、ネムは気持ち声を潜めて、空の一点を指差した。
「きれいなとりさん!」
「え?」
赤く染まる空に、ぽつりと浮かぶ黒い影。随分とたかいところを飛んでいるはずなのに、大きな翼を広げている美しい鳥なのだとはっきりわかる。足が3本あるように見えるのは気のせいだろうか。
「ほんとだ……」
とおいとおいそらを、ゆったりとおよいでいる。何一つ、縛られることなどない、というように。
きらきらした眼で鳥を見つめ続けるネムの頭をひとつ撫でて、まだ長い道の先をぼんやりと眺めた。
あるいは私も鳥ならば、どこへでも自由に行けたのに。すこしだけ、ほんのすこしだけ、そう思った。
高く、たかく、煙が昇り、星の海に混じって消える。空気が乾燥しているのだ。雨の降らない日をわざわざ選んだのだから当然のこと。せっかくつけた火に消えてもらうのは大変困る。
燃えているのは花畑。王国に蔓延る麻薬、「ライラの黒粉」の原料になる花だ。
冒険者、「蒼の薔薇」のリーダーとしてではなく、国を憂う王女の友人として厄介ごとを引き受けてしまった我らが頭目の指示により、つい先程、火をかけてきたところである。
消火のための水も片っ端から駄目にしてきたので、少なくとも畑を燃やし尽くすまでは消えないはずだ。
花として愛でられるでもなく、薬として売られるでもなく、誰の手にも渡らぬままその身を焦がしてゆく花達を、ほんの少しだけ哀れに思った。精々、愚かな連中に種を蒔かれたことを恨んでくれ、と。
「しっかし、人使いの荒いこったな、おい」
水袋片手に、干し肉を齧りながらガガーランがぼやく。麻薬畑を焼くのは本日2箇所目。この後もう1箇所、少し離れた場所まで火をかけに行かなければならない。後日に回してしまったら、敵の伝令が近くの畑に注意を促しに行くかもしれない。急ぐ必要がある。そのために万事をとってこの場で小休止を取っていた。
だが、台詞ほどには、その表情に疲労や倦怠の色は見られない。並大抵の男よりも逞しい肉体がこの程度の仕事でどうにかなるはずもなく、何よりその「人使いの荒い人間」を好ましく思って従っているのだから、先の発言も、いつもの世間話の切り口に違いなかった。
「全部鬼ボスが悪い」
「お触りを要求する」
ティナがそれに答えると、ティアが欲望に塗れた台詞で追従する。同じ背格好、同じ顔、同じ表情で、何を考えているのかまったく読めないが、ぽりぽりと木の実を口に放り込む姿はどこか小動物じみていた。
彼女らとて本気でラキュースのことを鬼ボスと罵っているわけではない。彼女らが指示に従うのも、命を懸けても良いと思っているのも、すべてラキュースだからこそ。……ティアの発言は9割方本気かもしれないが。
「おしゃべりも大概にしておけ。気付かれたら面倒だ」
ここにいないラキュースの代わりに小言をひとつ飛ばしておく。現場からいくらか離れているとはいえ、全力で追いかければ追いつけない距離ではない。もっとも私が、飲食を必要としない吸血鬼が警戒している以上、敵意のあるものを近づけさせるつもりは毛頭ないし、緩んでいるように見えても彼女らは歴戦の冒険者である。敵陣に近いところでおいそれと不覚を取ったりはしない。
近いのか、と視線だけで問うてきたガガーランに、首を横に振ることで返事をして、未だ昇り続ける煙を眺めた。真夜中の暗闇すらこの目を遮ることはできない。そのことに慣れたのはいつだっただろう。そんなことを考えなくなるくらいには昔のことに違いなかった。
「あといくつだ?」
「今日はあとひとつだ」
「今日“は”、ねえ」
喉元で笑みをかみ殺して、ガガーランは水を一口流し込んだ。そう、この仕事は、今日この日だけで終わるような簡単な仕事ではない。地道に、生えた端から雑草を引き抜くように、ひとつひとつ拠点を潰していくしかなかった。
なにせ相手は強大だ。王国に深く根を張る犯罪組織、「八本指」。貴族と密接な関係を持つ奴らを叩くための証拠集めと、資金源への攻撃。現状、限られた戦力で取れる手段としては、悪くないと言える。
リ・エスティーゼ王国が誇る「黄金」、心優しき王女様が立案した作戦にしては、少々血なまぐさいと思わなくも無いが。
まあ、その程度の覚悟がなければ、王都に蔓延る麻薬を撲滅したいというご立派な志があったとしても、冒険者組合を通さない非公式の依頼をラキュースが受けることはなかっただろう。あれは、ラナー王女は、どちらか一方、取るべきものを理解している、優れた為政者だ。あれをまともに使うことができたなら、王国ももう少しマシな国になるだろうに。
さて、私がいくらか考え事をしている間に彼女らの食事も終わったようだ。すぐに出られるよう支度を始めている。そろそろ移動を、そのように言おうと開いた口から、言葉が出ることは無かった。
ちり、と、何かが探知に引っ掛かる気配がしたからだ。
「どうした、ちびさん」
こちらの様子が変わったことに気が付いたガガーランの問いには答えぬまま、視線だけを
闇に溶け込んでしまいそうな真っ黒な体に、赤い瞳だけが薄ぼんやりと光を点していた。足が3本ついているのはそういう種族だからなのか、はたまた他に理由があるのか。なんにせよ、一瞥しただけでは何の変哲も無い鳥にしか見えなかった。
「クアランベラト?」
「こんな夜中に?」
双子の片方が、光り物を嘴でかっさらっていく憎たらしい鳥の名を挙げたが、即座にもう片方が否定する。意地汚い盗人ではあるが、人間と違って夜には活動しない。
ティナがくないを1本投げた。ノーモーションで放たれた凶器は鳥のすぐ真横、木の幹に突き刺さる。ただの獣ならばまず逃げ去るだろう一撃にも、恐れるそぶりすら見せない。赤い、赤い目が、じっとこちらを観察していた。
「あやしい」
「殺しとく?」
今度はティアがくないを取り出そうと懐に手を差し入れた瞬間、羽音も立てずに後方へと飛び去っていく。不穏な気配を感じ取ったか、はたまた人語を理解しているとでもいうのだろうか。獣にしては賢すぎる。我々を蒼の薔薇と知って偵察に来た、使役獣の可能性も考えられた。
同じことを思ったのか、双子がその両足に力を込めたところを制し、外套を脱ぎ捨てる。奴に翼が生えていなければ任せたところだが。
「高く飛ばれたら厄介だろう、私が行く」
こちらの提案に、ティアとティナが逡巡した時間はまばたきひとつ分。双子の忍者は即座に最適解を叩き出す。
「わかった」
「よろしく」
「気ィ付けろよ、ちびさん」
「ふん、誰にものを言っている」
すぐ捕まえて戻ってくるさ。
それだけを言い残し、<
多少は賢くとも所詮は獣。すぐに追いつけるだろうとたかを括っていた。が、その結果は。
「ちょこまかと……!」
既に森の中ほどまで飛んできてしまっているだろうに、どうにも捕まえることができずにいる。速度では完全に私が勝っているのだが、あの鳥野郎は小さな体格を生かして枝の隙間を縫うようにこちらの進路を阻んでいたからだ。上に飛び上がれば捕まると理解しているらしい。畜生如きが生意気な。
しかし、何度かニアミスしたことで、疑念は確信に変わっていく。微かに魔法の匂いを感じるのだ。やはり使役獣か、あるいはどこぞの魔法詠唱者が放った召喚獣かも知れない。
少々深追いしすぎている自覚はある。だが、こいつを発見したのがあの場でなければここまで追うことはしなかった。任務の最中、あのときでなければ。
タイミングが良すぎるのだ。偶然こちらを見ていたとはとても思えない。我々が「蒼の薔薇」だからか、麻薬畑に手を出したからか、あるいはその両方か。
どうしても、ここで仕留めておかなければならない。私の勘が、全力でそう告げていた。
だが、このままでは埒があかない。いっそこのあたり一帯ごと<
そんな考えが頭に浮かんだとき、あるものが視界に飛び込んできた。
「霧……?」
鳥を見失わないよう気をつけながら、一度上昇する。眼前に広がる光景に、思わず息を飲んだ。
一面の、広大な霧。果たしてどこから出ているのか、どこまで続いているのか、少なくとも、森の南東は完全に覆われてしまっているように見えた。
「霧? 霧だと? トブの森に、こんな大きな範囲で霧?」
200年は生きているが、トブの大森林でここまでの霧が出てきたという話など聞いたことがない。自然現象とは思えなかった。あまりにも不自然だ。どこかしら魔法の気配も感じられる。わざわざ誰かが展開したものとしか考えられない。
頭の中で何かが繋がる。奴は、あの鳥は、こちらの捕捉をかいくぐりながらも、どこか一点を目指して逃走しているようだった。あまりにも真っ直ぐに。そしてこの霧だ。この霧の、中心に向かっているようには見えはしないか。
きっと奴は、奴の、親玉のところへ向かっているのだ。これだけ膨大な霧を作り出す、魔術師のところへ!
ぞく、と背筋を悪寒が駆け抜けた。鳥肌が立つ、なんて感覚はもう何十年と経験していなかったな、とどうでも良いことを考えている暇は無い。これからどうするのか、一刻も早く答えを出さなければ。
一度後方に下がり、態勢を立て直す。判断としては間違ってはいないが、即座に否定した。確かに、この状況自体が既に罠かも知れない。私を捕らえるために張った網という可能性もある。
だが、鳥から得た情報を使って、こちらを襲撃してくることだって考えられるのだ。これだけ大規模な霧を展開する相手が、どれほどの兵力を有しているのかは想像もつかないが、あの鳥だけが下僕とはとても思えない。
そして、恐らくだが、まだこちらの情報は敵に届いてはいない。あれほど必死に逃げようとするのは、主と感覚が繋がっていないからだと推測できる。既に情報が届いているのなら、あそこまで急いで逃げ帰らずとも、その辺に身を隠してこちらの消耗を待つくらいの知能は持ち合わせているはずだ。
目を閉じ、息を吸って、吐く。呼吸など必要ない身体だが、精神を落ち着かせるのには丁度良い。
腹は決まった。今ここで、討つ。
奴が親玉のところまで辿り着く前に、殺す!
目を開き、魔法を唱えた。視界阻害を無効にする魔法。これで霧に突っ込んでも問題はない。
水晶で刃を作り、最高速度で再び森に突入した。枝を払いながら、少々引っかけても構わずに。この程度で傷がつくほど柔な身体ではなかった。
大きく旋回し、進路を遮って、霧の外への誘導を試みる。半ば捨て身の追走に、当初の目的を諦めて、私から逃げ出すことを優先することに決めたようだ。逃がすつもりなど、ありはしないが。
距離は縮まり、刃が鳥を掠めるようになる。いつの間にやら、周囲の景色が少し変わっていた。極端に枝が少なくなり、枯れてしまったような木々が大半を占めている。
好都合だ。スピードはこちらの方が遥かに上。障害物が無ければ、撃墜することも容易くなる。
あと少し、あと少しで叩き落せる。そう思ったとき。
奴は一度地面すれすれに高度を落とすと、直後一気に舞い上がり、こちらを振り向いた。
何かの攻撃か、と身構えた私を嘲笑うかのように、すう、と、鳥野郎の姿が消える。
不可視化、と思った瞬間、かあっ、と頭に血が上った。
「舐めるなぁっ! <
吸血鬼の目を欺くほどの不可視能力も、強化された魔法の前には無力。放たれた魔法は正しく作用し、再び、黒い鳥は私の前に姿を見せ――。
「……!?」
――全身が、恐ろしく冷たいものに包まれた。
視界が歪んでいる。口から泡が漏れる。みしみしと圧迫感を感じるが、ダメージを受けるほどではない。
それが水だと判断するのにしばしの時間を要した。不死者ゆえに溺れることはないが、頭の中は疑問で満たされていた。
なぜこんなところに水が、あの鳥の魔法なのか、もしや別働隊が来ていたのか。その考えに至り、ろくに身動きが取れないながらも咄嗟に周囲を見回すが、魔法詠唱者の気配は無く。
兎も角、ここから離れなければ、と、<
視界に、黒い、大きな影が見えた。
衝撃。
それ以外に言葉がなかった。
ばちん、となにかが弾ける音。くるくると廻る視界。星の光と木々の緑がぐちゃぐちゃに混ざる。何本も何本も枝がおれる感触。幾度か地面を跳ね、ざあっ、とその上を滑ったことだけは辛うじてわかった。霧で湿った土の香りが、やけに鼻につく。すぐに、血の匂いにかき消されてしまった。
「……は、……っ」
状況を理解し得ぬまま、なんとか右腕で身体を起こす。左腕は動かない。あらぬ方向に折れ曲がっていて、ああ、さっき枝が折れた音の中には骨の音も混じっていたのだな、とやけに冷静に思った。
一体、なにが。
口に出そうとした瞬間、びりびりと辺りが振動する。地震か、とびくついたそれが、地獄の底から響くような咆哮だと気付くのに、少々の時間を要した。
緩慢に、声の方向を見上げる。
山が啼いている、と、最初はそう錯覚した。それがあまりにも巨大で、途方も無い力を持ったものだったから。
ぐおんぐおんと触手がのたうつ。あれに叩き落されたのか、と回らない頭でぼんやり思った。巨体を引き摺るように移動を始めたその山が、この世のものでは在り得ないほど大きな樹の化け物だと理解したとき、古い、古い話をようやく思い出した。
トブの森には、魔樹の怪物が封印されている。
大昔、一緒に旅した「彼」から聞いた話だ。とてつもなく巨大で、ものすごく強かったから、触手を倒すだけで精一杯だった、と。
あれが、そうなのだ。神話の怪物。破滅の化け物。魔樹の、竜王。
そいつが、目覚めた。目覚めてしまった。
絶望に心を砕かれそうになっている私には目もくれず、魔樹の化け物はずりずりと、一点を目指して進んでいるように見える。
王都の、方向へ。
「……っ!」
寒気が襲うと同時に頭も冷えた。力が入らないなりに、よろよろと立ち上がる。足も片方折れていたが、まだ魔力は大分残っている。野営地まで戻ることくらいならできそうだった。幸い、あれがこちらに気を払う様子は無い。今のうちに離脱しなければ。あいつらを、逃がしてやらなくちゃ。
まだ、膝をつくのは早い。罪悪感に押し潰されるのは後でいい。まだやれることがある。やらなければならないことがある。
「<
あれをどうにかできるやつなんて、ひとりしか思い付かない。そのために、ある人物へと<
はやく、繋がって。早く、早く!
「リ、グリット……、リグリットォ!!!」
届けて、ツアーに。
今はただ、そう願うことしかできなかった。
イビルアイを生け贄にツアーを召還。死んでないけどね!
本日の捏造
・黒粉の原料は「花」と断定されているわけではないのですが、ケシのイメージが頭から離れないので勝手に花にしました。穀物でも野菜でもないって書かれてるから多少はね?
・お話の都合でイビルアイちゃんに原作未使用の魔法を使っていただいたことを慎んでお詫び申し上げます。すまぬ……すまぬ……。
次回はお外! ようやくです