「……ふむ」
とある日曜日。
ここ最近では珍しく一人で自宅にて寛いでいたアキラは、膝に乗るチノの身体を撫でながら何かを思案していた。
相も変わらず素晴らしい毛並みとボリュームを持つチノの体毛だが、幾度か指を通したところでアキラはこれからやることを決める。
チノを抱えて横に置き、テーブルをずらしてスペースを確保。一度自室に戻ると、目的の物を手にリビングに戻る。
「よし、そこに転がれぃ」
既に広くなったスペースに伏せていたチノが、アキラの手によって仰向けに転がされる。何の抵抗も見せない彼女の腹を軽く撫でてから、アキラはチノのブラッシングを始めるのだった。
さて、基本的にアキラと巴以外の人間が家に訪れると一目散に自らのテリトリーである二階に消えてしまうチノではあるが、それにもいくつかの例外が存在する。
そのひとつに彼女の気まぐれがあり、この前は逃げたのに今日は逃げずにその場にとどまる、なんてことも往々にしてあり得ることである。触ろうとすれば逃げるのは変わらないのだが。
そしてもうひとつ。今のようにアキラにブラッシングをされている間は、余程のことがなければその場から動くことがない。
つまり――
「アキラー。入っていいかー?」
「巴かー? 今手が離せないから勝手に入ってくれー」
玄関から巴の声が聞こえ、座ったままそう返すアキラ。パタパタと聞こえる足音に、会話する声。どうやら一人では無いようだ、とブラシを動かしながら予想する。
その予想通りに、リビングに入ってきた二人に声だけで出迎えた。
「なんだ、珍しいなひまり」
「えへへ、お邪魔しま~す……うわぁー!」
「なんだ、ブラッシングか?」
「こまめにやらないと抜け毛で大変なことになるからな」
チノの超リラックスモードを、というよりはチノ自体を初めて見るひまりが声を上げ、その関係上ちょくちょく目にする機会が多い巴がチノの鼻を軽くつつく。
普段ならひまりがいる時点で二階に逃げ出すのが当たり前なのだが、こうしてブラッシングをしている間はそれもない。
そもそも、ひまりに関しては巴からアキラが猫を飼っているという話こそ聞いてはいたが、必ずと言っていいほど玄関が開いた瞬間に二階に消えるので出会うことがなかったのだ。
「可愛い~……! 触ったら怒るかなぁ」
「間違いなく怒るな」
「即答!?」
「人見知りするからな。巴ですら仲良くなれたのは最近だ」
腹の部分を仕上げたアキラが、次は横っ腹だとまたしてもチノを転がす。人形のようにされるがままのチノだが、その目はひまりを警戒しているのか微妙に瞳孔が開いていた。が、ブラシが通された瞬間にどうでもよくなったのかその目を閉じてしまう。
そんな姿に完全に心を撃ち抜かれたひまりは、触れないならと自分のスマホでここぞとばかりに写真を撮りまくっていた。
「楽しそうですね、明さん」
「アキラはチノ大好きだもんな。……アタシとのデート遅らせてまでブラッシング優先するくらいだし」
「お前だって俺とあこの約束ブッキングした時あこを選んだじゃねぇか」
「あこはまた別だからな」
「つまりそういうことだ」
「……なるほど?」
「い、今ので納得するんだ」
目の前のカップルの多少おかしな会話に、突っ込んでいいのかわからずに微妙な言葉を返すひまり。
そうこうしているうちにブラッシングも終わり、無駄な抜け毛が処理されて心無しすっきりしたチノが起き上がっていた。
後片付けを終えたアキラがテーブルを元に戻し、客人が来たときのルーティーン、つまり紅茶の準備をし始めた。チノは巴の膝の上で丸くなっている。
「ひまりがいるのに逃げないな」
「多分一回見られたからどうでもよくなったんだと思うぞ」
「ねぇー、どうしたら仲良くなれるのー? 教えてよ巴~」
「って言われてもな……アタシにも切っ掛けがよくわかってないんだよな」
言いながら、膝元のチノの顎をくすぐる巴。ぐるぐる喉を鳴らすチノはご機嫌なようで、それを羨ましそうに見つめることしか出来ないひまりは、
「ずるいなぁ。明さんの紅茶も好きな時に飲めるし。明さんもチノちゃんも独り占めー、だなんて」
「アキラはともかく、チノは努力次第でどうにかなるんじゃないか?」
「その方法がわからないもん」
「ついでに言うなら、俺の淹れた紅茶ならつぐみの店にいるときなら飲めるぞ。個人的には別に家に来たって構わないんだけど」
慣れた所作で紅茶を淹れて二人の前に置いたアキラは、自分が言った言葉による巴の反応をちらりと確認。そしておどけるように肩をすくめる。
それを見たひまりが、流石にそれは、と苦笑する。もし二人の関係が前のように幼馴染のままだったならば喜んでお邪魔するところだが、流石に二人の仲をこじらせるような真似はしたくないのがひまりの本音である。
かたや唯一無二のと言えるメンバーの親友。かたやかつて自らの窮地を身体を張って助けてくれた憧れの人間である。どちらも大切な存在であるが故に、ひまりは二人の邪魔をするようなことは絶対にしないのだ。
「んで、何か用事あったんだろ? 用件は」
「別にそんな用事みたいなものは無いですよ。ただ、少しだけお話があって」
「話?」
「はい。今日は巴と買い物に行ってたんですけど……そこでとある人に会いまして」
とある人? と再度疑問符を頭の上に浮かべたアキラ。彼とひまりに共通するような知り合いは、afterglowのメンバーを除くと殆ど存在しない。故に話の流れが見えない彼は、ひまりに続きを促した。
少しだけ口ごもったひまりは、ちらりと巴と目配せをした後に、巴が頷くことでその口が動き始めた。
「その……Liar styleのリーダーだって言う人が」
「Liar style?」
「あいつらじゃない。あいつらの所属してたチームの人だ」
「んなことわかってる。だが、今更どの面下げてお前の前に顔出してんだって話だよ」
見るからに不機嫌になったアキラが、眉間にシワを寄せてそう吐き捨てた。それもそのはずだ、ひまりとアキラにとって、その名前は悪い意味で因縁がある。
grand slamがどちらかと言えば正統派であったのに対し、Liar styleはその名の通り嘘のような奇抜なスタイルを武器とするハイレベルな集団だった。
「……で、なんだって」
「……聞いてくれるんだな」
「突っぱねるなら聞いてからでも遅くない」
ふん、と唇を尖らせたアキラは、頬杖をついてそっぽを向いてしまう。実際、アキラの口からは否定と拒絶の言葉が飛び出しかけていた。寸でのところで抑えられたのは、一重に彼が――俗な言い方をするならば、大人になったからだった。
「話せ。その価値もあるのか知らんが」
「そんなに喧嘩腰になるなって」
「これでも我慢してるんだ。いいから話せ」
「大丈夫だって巴。えっとね、明さんに伝えて欲しいって言われたのは……」
ひまりの話はごく単純なものであった。
かつてのチームメイトが迷惑をかけたことを改めて謝罪したい、そして、あの彼に伝えて欲しいことがある。ひまりと巴の前に現れた一人の男は、真剣な眼差しで二人にそう告げた。
過去にあったことから、二人は勿論警戒していた。しかしそれ以上に、彼のその伝えて欲しいという言葉が胸に残ってしまったのだ。
「ねぇ、明さん……もう、本当にチームには戻らないの?」