「そういえばさ」
「うん?」
手元で白濁したお湯を弄びながら、アキラの胸に背を預けていた巴が口を開く。水音と共に微かに反響する声に、濡れた髪を掻き上げたアキラが声を返した。
「昔もこうやって一緒に入ったことあったよな。覚えてるか?」
「あー……そういや小さな頃はよく風呂は入ってたな。あこも混じってバカ騒ぎしてた」
「そうそう。騒ぎすぎて怒られたりしてな」
クスクスと笑い合う二人。それに合わせるように湯船の水面が揺れて波打ち、巴の立てた膝が見え隠れする。
あれから時間は然程過ぎてはいない。何よりもまず汗を流したいと二人の意見が一致した上で、ならばとこうして共にバスルームでくつろいでいる。
一線を越えたことで、主に巴が素直に欲求をぶつけるようになったことも、この状況を生み出したことに大きく影響していると言えた。
二人の会話は、思い出話へと流れていく。
「そういえば、昔は髪伸ばしてなかったよな」
「そうだなぁ……中学からだな、伸ばし始めたのは」
「何か理由でもあるのか」
「んー? 何で伸ばし始めたんだったかな……」
湯船に浸かる関係上、今はその長い髪をアップにして纏めているそれを触りながら悩み始める巴。
そんな巴を眺めながら、まぁ何でもいいんだけど、と湯船の縁に肘を立てて頬杖をつくアキラ。その頭の中では、まだショートカット時代の彼女の姿が思い返されていた。
「腹立つほどカッコよかったんだよな、あの頃の巴は」
「褒めてるのか、それ」
「更にバンド始めてドラムまで叩き始めた日にはもうな」
「……褒めてないな、それ」
「事実だし。俺の学校にお前のファンとかチラホラいたしな。……女の」
実際、アキラは何一つ嘘は言っていない。
髪が短かった頃の巴はビジュアル面ではもちろん、その気っ風のいい性格もあって同性からも慕われていた。身長こそ今よりは低かったが、バレンタインには女子生徒からチョコを貰うこともあったくらいだ。当時本人はアキラにチョコを渡す為に色々と四苦八苦していたせいで、あまり記憶には残っていない。
かといって、髪が伸びて女性らしさが増した彼女から、その手の魅力が無くなったかと言われるとそうでもない。むしろ年を重ねたことで落ち着きが生まれ、背も伸びたことによりパワーアップしたとも言える。
……アキラの前では色々と乙女が顔を出すので、知る人間からすれば果てしないギャップがあるのも確かなのだが。
「……アキラは、どっちが好きなんだ?」
「好きな髪型すりゃあ良いと思うけれども。……まぁ、長い方が似合ってるとは思うな」
「じゃ、今のままでいるな」
「……その言い方だと、俺が切れって言ったら切るように聞こえるんだが」
「お前が短い方が好きだって言うなら、本気で考えるかもな」
冗談めかしていう巴ではあるが、アキラの耳にはどうにもそれがジョークには聞こえない。切れと言ったら翌日にはバッサリやってきそうで笑えないアキラである。
その後も、他愛ない昔話に花を咲かせていた二人だったが、不意に巴が両手で顔を覆って声を上げた。何事かと肩口からその顔を覗こうとしたアキラの頬に頭を擦り付けた巴は、
「もう取り繕える気がしない……! 皆にバレたらどうごまかせばいいかな?」
「…………普段からわりと取り繕えてないから、今更じゃねえかな」
「――えっ」
何だかんだ、いつも通りの二人ではあるようだった。
「皆から漏れなく連絡が来てるな」
「ま、健康優良児がいきなり休めばそりゃあな」
「母さんは体調不良で話をしてくれたみたいだな……」
「見舞いにでも来られたらバレるな」
時刻は昼時。ずる休みなので迂闊に出掛けるわけにもいかず、かといって特に出掛ける予定もない二人。アキラは台所に立って食事を作り、巴はチノを膝に乗せてくつろいでいる。フライパンからの焼き音と漂ってくる香りが食欲を刺激するのか、巴とチノはしきりにアキラへと顔を向けていた。
「完成、と。チノはちょっと待ってろ」
そんな一人と一匹に苦笑しながらも、取り敢えず自分達の食事を完成させる。無闇に綺麗に仕上げたオムライスを机に置いたアキラは、今度はチノの分を用意しにいった。その足下についていったチノを見てから、巴は目の前のオムライスに目をむける。
「…………」
「よいしょ……っと。どうした、食べないのか」
「いや、食べるけど」
「? なんか不満でもあったか? 何にも言わねぇから好きにやっちまったけど」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ……」
スプーンを手に取り、何やら真面目な顔でオムライスを口にする巴を不思議そうに眺めるのはアキラだ。自分もそれを口にしたものの、特に妙な味もしない。別段特別なこともしていない、ごく普通のオムライスである。強いて言うなら、中身のケチャップライスの味付けが多少薄いくらいだろうか。作るのはアキラなので、その辺りは完全に彼の好みになってしまうのは仕方のないことであろう。
不安とまではいかないものの、何か問題があるなら言って欲しいものだな、と咀嚼しているアキラの横で、やがて一口目を飲み込んだ巴が口を開いた。
「アタシも料理できた方がいいのかな」
「まぁ、生活回りのスキルは出来るに越したことはないな」
「……そういうのじゃなくてだな」
「そりゃあ彼氏として彼女の手料理はちょっと興味あるけどな。そんなの無理してやるもんでもないだろ」
別に隠すようなことでもないので、思っていることをポンポン口に出していくアキラ。実際、巴とアキラではアキラの方が家事スキルが高い。元々手先が器用だったり、凝り性であったり。そういうやれば上達するであろう素質そのものがあった人間が、その上で一人暮らしというどうしたって最低限自分で身の回りのことをしなければならない状況にあったのだ。そこに差が出るのは仕方ないことだ。
重ねて、無理してやることでもない、とはまごうことなきアキラの本音である。アキラ自身、やらざるを得なかったからやってきただけ。そうして結果的に今のレベルまできただけの話であって、やってくれる人がいたならばやることはなかっただろう。
「でもなぁ」
「人間、やってもらえるのならその方が得だぞ。特にお前みたいな色々抱え込みやすい奴は」
「うーん……」
「俺がいるならその辺は俺にやらせりゃいい。……まぁでも、将来的に全く出来ないのは困るか? 今度からは一緒に作るのもいいか」
「そうだなぁ……うん、そうする。ずっとアキラに任せっぱなしなのはちょっと、な」
「それに、将来何があるかわからないからな」
話が纏まりそうだったところに、アキラが最後に放った言葉が巴にひっかかる。
む、と口をつぐんだ巴がスプーンを置くと、不満たらたらの表情でアキラの横顔を睨みはじめた。
それを横目でチラリと確認したアキラは、こちらもスプーンを置いた、その手でティッシュペーパーを手にとって。
「んむっ」
「怪我とか病気とか。その辺りどうしようもなくて少し離れることもあるかもな、って話だよ。そうでなくても四六時中一緒にいれる訳でもねぇんだから」
「……そういう話は、あんまりしたくない」
「わかったわかった、そんな子供みたいな顔すんなって……ほら、取れたぞ。妙なとこまで子供に戻るんじゃない」
「……ふふ。あぁ、ごめんな。困らせちゃったか?」
「こんなことで困ってたまるか」
巴の口を吹いたティッシュペーパーを丸めて捨てたアキラは、澄ました顔でオムライスを口に運び始める。
巴はその横顔をまた暫く眺めてから、自分もまたそれを食べ始めた。
「参ったな……お前の前だと、何でか子供みたいになりがちな気がする」
「年下なんだし別にいいんじゃねぇの。それに、ある意味じゃお互い様だよ」
「お互い様、か。ふふ、確かにそうかもな」