アキラは一瞬、巴が何を言ったのか分からずにいた。
自分には向かない視線。うつむき加減に傾いた顔。その表情を隠すかのような赤い髪と、そこから覗くほのかに赤い頬の色。
その様子から、少なくともふざけて言っている訳でも、軽い気持ちで提案した訳でもなさそうだった。
「……巴」
「シャワー、借りるな」
何を言っていいのかわからないままに名前を呼んだ彼を避けるように、巴はその横をすり抜けていった。
普段の彼なら、強引にでもその肩を掴んで止めていたことだろう。しかし、今はそれが出来ない。
彼女が、自分の家に泊まっていく。文字にすればただそれだけの話。だというのに、不自然なまでに高鳴る自らの胸を舌打ちを打って殴り付けた。
ほんの少し前までなら、なんのことは無かった。幼馴染のままだったなら、おかしなことを考えることも無かったのだ。
しかし、今の二人は想いを伝えあった恋人同士。そんな二人が、ひとつ屋根の下で、邪魔の入りようのない正真正銘の二人きりで一夜を過ごす。
そんな状況で、何一つ意識せずに過ごせるほどアキラは達観しておらず。
「なんだよあの顔……勘弁してくれよ」
どこまでも女を感じさせる先程の巴の姿を思い返して、更に激しくなった鼓動を感じながら、自身はリビングへと向かう。
帰って来たばかりの無音のリビング。そこに、微かながら水を流す音が聞こえてきた。ただのシャワーの音のはずなのに、やけに胸をざわつかせるそれに頭を振るうアキラ。
とにかく気持ちを落ち着かせようとその身体はキッチンへと向かっていき、瞬く間に紅茶の準備をし始める。煩悩を掻き散らすようにケトルに水道水を叩き込み、そこからは無心で作業を進めていき。
「……うん」
気付けばソファに座り紅茶を楽しんでいる自分がいて、少しは落ち着いたかと彼はひとつ頷いた。が、何を淹れたのか記憶に無く、味も殆どわかっていない。しかもそれを自覚していない辺り全く彼は落ち着いていなかった。
そこに、ヒタヒタと小さな足音が現れる。彼らしくないことに、緊張で軽く身を固くするアキラ。
足音の持ち主はアキラの隣へと腰かけると、目の前に用意された紅茶には目もくれずに、すぐ真横にある腕へとしなだれかかった。
言葉はない。ただ、そこには確かな熱がある。
静かな部屋に、小さく巴の声が響いた。
「我が儘、言っていいか」
「……聞くだけなら」
「一緒に、寝たい」
互いに視線は向けないままに、短く簡潔に交わされた会話がそれだった。
その言葉を聞いた瞬間に、一際大きく心臓が跳ねるのをアキラは感じていた。抱かれた腕からは、柔らかな感触の奥からもうひとつの鼓動が聴こえてくる。
湿った感触が胸を撫でた。何かをせがむように巴の身体が身を乗り出して、アキラの胸元にすがり付いたのだ。乾ききっていない髪に手を這わすと、巴はアキラに微かに潤んだ瞳を向けた。
ここでようやく、二人は視線を絡ませて。アキラは、少しだけ自分を恥じた。
「……悪かったよ。そんなに、不安にさせちまったか?」
「だって……お前が――お前は、ズルいじゃないか」
間近で互いの顔を見て、彼女の不安に染まった顔を見て、アキラは熱に浮かされそうになっていたことも忘れて彼女に向かい合った。
今にも泣いてしまいそうな彼女の頭を抱き寄せて、その背中を優しく撫でる。
「馬鹿だな、俺がお前以外に行くわけないのに」
「わかってるし、信じてるけど……それでも不安なんだ。不安、だったんだ」
胸の中にいる彼女がどうしようもなく愛しくて、心の内を吐露し始めた彼女の額に口付けを落とす。直ぐに、そこじゃ嫌だと唇を奪われた。
久しぶりのキスに酔うこともなく、すぐに離れていく。
「今井先輩の時もそうだ。今回のつぐもそうだ。アタシの知らないところで、アタシよりも長い時間を二人で過ごして。不安になるなって方が、無理な話だ……」
もう一度、重なる。今度は深い、大人のキス。
お前はアタシのものだと言わんばかりに、口内を蹂躙される。逃がさないと頭を掴まれたアキラは、抵抗せずにその全てを受け入れた。
「っ……アタシの見えないとこで笑ってるお前を知りたくない。見たくないんだ。自分でもおかしいってわかってるし、抑えなきゃいけないって思ってるけど……」
呼吸も忘れたキスが一度終わり、再開した息と共に溜まった想いが吐き出されていく。
その吐露がひとつ途切れたところで、アキラはひとつ笑って、
「結構、嫉妬深いんだな。薄々気付いてたけど、今確信したよ」
「……悪いか」
「いいや? それだけ好きでいてくれてるって訳だし」
今度は逆に、アキラが巴の頭を両手で捕まえた。
そして、彼女が自分ですら醜いと感じている感情――嫉妬、独占欲、その他諸々、全てを受け止める。それを言外に伝えるように、両目を閉じて、額をこつりとぶつける。
「全部見せてくれよ。丸ごと受け止めてやる」
「……嫌いになったりしないか?」
「懐の深さには自信があってな」
「……身体は小さい癖に」
「張り倒すぞ」
ぽつりと放たれた唐突な悪口に、今度は強めに額をぶつけてやったアキラは、痛がる彼女をぽすりと胸に納めた。
軽口を叩かれ、また軽口で返せる程度にはお互いに余裕を取り戻すことが出来たのかな、なんて。
「……まずっ」
改めて口にした紅茶の味に顔をしかめたアキラに、彼の胸でくすりと笑いを溢す巴なのであった。
「ところで、家に連絡はしてあるのか?」
「……本当に泊まってっていいのか? いや、連絡はしてあるし、許可も取ってあるんだけど」
「何を今更。突っ走るなら最後まで走って見せろよ」
しっかりと淹れ直した紅茶を飲みながら言うアキラに、どこかおどおどとした様子を見せる巴。
彼女もまたカップを手に取ると、頬を染めながらそれを口にする。
「え、今恥ずかしがるのか」
「だ、だって! 本当はちょっとだけ甘えたかっただけで、シャワー浴びてたら、なんか変な気分になってきて。我慢出来なくてお前にくっついたら抑えが効かなくて、気付いたら言うつもりの無いことまでポロポロ出てきて……」
「責めてるわけじゃないから。で、なんでそっちに座ってんの?」
聞いてもいないのに自白をしていく巴を眺めながら、もうひとつ気になったことを指摘する。リビングにあるソファは四人掛けのものがひとつと、二人掛けのものがふたつ。テーブルを囲むように配置されているそれの内、アキラは四人掛けの端に座っており、巴はその反対側に座っている。つまり、人間二人分の隙間が空いている訳で。
「……ふ、普通じゃないか?」
「今までが異常だったとでも言いたいのか」
目を逸らしながら言う巴に、呆れたように返すアキラ。それもそのはずで、恋人になってからというもの、二人きりになれば必ずと言っていいほど互いの肩がぶつかるぐらいの距離で過ごしていたのだ。
もっと言うならば、恋人になる前ですら今よりは近かったくらいで。更に重ねるならばついさっきまでのアレは何だったのかと聞きたくなってくる。
が、そこまで言うのは流石に野暮かと溜め息をついて時計へと目を向けたアキラは、聞こえてきた言葉に大いに動揺することになる。
「……しょうがないだろ。今お前に触ったら、アタシは止まれる気がしない。それでもいいならアタシはいくぞ」
「ぶふっ」
赤い顔のままで、しかし開き直ったらしい巴ははっきりとそう言い切った。
まさかの貴方が良いなら襲います宣言に紅茶を吹き出したアキラは、ティッシュで口元を拭きながら咳き込んでいた。
「お前な」
「受け入れてくれるんだろ。言ったじゃないか」
「いや言ったけどさ」
「さっきので寸止め食らってるみたいになってるんだ。お前のせいだぞ」
「寸止めとか言うな」
色々と止まらなくなっている巴に、この茶葉に媚薬効果でもあっただろうかと現実逃避をし始めるアキラ。しかし今飲んでいるそれはノンカフェインのフレーバーティー。効果はリラックス、鎮静である。全くの真逆であった。
「一応聞くが、意味わかって言ってるよな?」
「女に言わせるのか」
「下手な男よりも思い切りが良いから聞いてるんだが……」
どうやらそのつもりで言っているのは間違いないようだ、と紅茶を飲み干してカップを置くアキラ。その心中、これは参ったの一言である。
嫌な訳ではない。むしろその逆なのは当然なことで、好きな女を抱きたいと思うのは男として当たり前なこと。
しかしあまりにも唐突過ぎて頭が追い付いていないのだ。
「一緒に、寝てくれるんだろ? もういい時間だし」
ずりずりと巴が寄ってくるのを視界の端で捉えながら、その声がやけに艶っぽいことに落ち着いていた心音がまた騒がしくなるのを感じたアキラは、しかし最後の懸念を口にしようとする。
最早この流れからは逃れることが出来ないだろう。何より自分が逃れようとしていないことを自覚している時点で勝敗は決まっている。
が、必要なものが無いのでは話は別だ。詰まるところ、これが最後の壁である。
そして、その壁すら、巴は軽く飛び越えた。
「アタシ、持ってるから」
いつ取り出したのか。アキラの最後の壁を飛び越えた彼女は、必要な
「……でも、優しくしてくれ」
――長い夜が、始まりを告げた瞬間だった。