パァン! と小気味良く響く乾いた音が頭の中で反響する。いきなり頬を思い切り張られたアキラは、その勢いに二、三歩横に足を縺れさせ、芝生とコンクリートの垣目につまづいてしまう。
転びそうになったところを咄嗟に手をついて受け身を取ろうとした彼だったが、
「おぉ、流石」
呑気な声で健吾が呟いた。
身体が完全に倒れてしまう前に、アキラは思い切り地面を蹴った。勢いそのままに抱え込み側宙を見せたアキラは、芝生に着地してそのまま座り込んでしまう。咄嗟に駆け寄ったのはリサだった。
「ちょっと、大丈夫? 何もそんなアクロバットな動きしなくても……」
「別にしたくてした訳じゃねぇし……それより、いきなり何しやがる」
胡座をかいたまま、自分の頬を張り付けた張本人へと視線を向ける。その人物――巴は、罰の悪そうな顔を一瞬だけ見せたものの、直ぐにそっぽを向いてしまった。
どうやら完全にヘソを曲げてしまっているらしいが、アキラとしては納得がいかない。そもそも、何故浮気者と罵られた挙げ句に思い切り殴られなくてはいけないのか。
実際に浮気認定されるような行為をしたならまだしも、やったことといえば多少一花の顔に手を当てただけである。多少距離は近かったかもしれないが、それでもここまでされる覚えはない――そこまで考えて、彼はピンと閃いた。
しかし、それを口にする前に、真緒がピョコピョコと巴へと近付いていき、どこか意地悪な笑みを浮かべながら彼女へと話しかける。
「巴ちゃん巴ちゃん」
「……なんですか、先輩」
「さっきの、どこから見てた感じ? あの陰から?」
「そうですけど」
「やっぱり。まぁ、あそこからなら見えなくもないよね~。二人がキッスしてる風にもさぁ」
「キッ……!?」
真緒の言葉に、顔を染めて反応したのは一花だった。口元に手を当てた彼女の目は見開かれており、わかりやすく動揺しているのが見てとれる。
対して巴は、真緒に対して微妙に呆気に取られているような顔で、
「してる風に、も?」
「にしても、巴ちゃんがそんな風に先走るなんて意外かなー」
「意外でもないぞ。コイツは一回思い込んだらそのまんま突っ走るタイプだ」
立ち上がったアキラは、叩かれた頬をさすりながら巴へと近付いていく。
何となく、雰囲気から自分の勘違いだと察し始めた巴は、最初とは別の意味でアキラから顔を背けてしまっていた。
そんな巴の顔に手を伸ばしたアキラは、左手でその頭を――わしづかむ。
「いや、まあな? ちょっと紛らわしい体勢だったのは認めるわ」
「いや、その」
「お前という女がいて、いらない不審を抱かせちまったのは、まぁ俺が悪いと認めてやろう。ちょっと腑に落ちないものはあるが、そこも飲み込もう」
「あ、アキラ」
「でも」
無理矢理視線を合わせられた巴が見たアキラの顔は、これ以上ないくらいの、笑顔だった。巴の顔が、ひきつる。
この笑顔は、駄目なやつだ。具体的には、よくあこがイタズラしてお仕置きされている際によく浮かべているそれだ。しかし、紛らわしい真似をしたのも事実なのだ。自分を不安にさせたのは目の前のコイツであり、アタシはそこまで悪いことはしていない。
多少の痛みになんて屈しないぞ、とひよる心を奮い立たせた巴の覚悟は、
「少しは物事を確認してから行動を起こせっつうの……!」
「アタシは謝らないたたた! ごめんなさいごめんなさいすいませんでしたぁっ!」
アキラが繰り出したアイアンクローの前に、呆気なく崩れ去っていた。
「ったく。少しは信頼して欲しいもんだがな」
「いやぁ~、あたしは正直巴の気持ちもわからなくもないかなー」
「なんでだよ」
「だってぇ。先輩結構なたらしだし?」
頭を抱えて涙目で唸る巴を慰めながら言うリサ。
その言葉に、そんなつもりはないんだがなと頬を掻くアキラだが、流石に色々な方面から言われては若干認めざるを得ないのかもしれない、と考える。そばでうんうんと頷いている幼なじみ二人を見ると尚更だった。
「にしても、見に来てくれてたのか」
「……あこのついでだけどな」
「憎まれ口たたかないの。もう」
ぶすっ、とベンチに座って唇を尖らせる巴の頭を撫でるリサ。普段から考えるとあまり想像できない巴の姿に苦笑しながら、彼女は巴の耳元に口を寄せて、小さな声で言う。
「ごめんね、面白くないのはわかってるんだ」
「…………いえ、そんな」
「いいのいいの。好きな人が他の女とベタベタしてたら、あたしだってヤな気持ちになるもん。でも、このイベントの間だけは許して欲しいんだ。多分、これが最後になると思うから」
「……今回だけですよ?」
「うん。ありがと」
リサとて、今のこの状況に全く気まずさを感じていない訳ではない。
元々、アキラと巴の関係に水を差すのはリサの本意ではない。アキラが尊敬できる大切な先輩であると同時に、巴もまたリサにとっては可愛い後輩である。二人に向ける想いは同一のそれであり、恋人になったのなら上手くいって幸せになって欲しいのが本音だ。
しかし、今回は自分の我が儘を通した。
二人が恋仲になるよりも、イベント参加をアキラに持ちかけた方が先ではあった。それでも二人の関係を知った後からなら、それなりにやりようはあったはずだ。何も毎日のように二人きりになる必要なんてなく、頻度を落としたって良かったはず。
ちらりと、リサはアキラへと視線を向ける。彼は、幼なじみの二人と一花とで、何やら話に花を咲かせている。きっと二人が内緒話をしはじめた時から、それを聞かないようにそちらへと向かったのだろう。
――巴のことが無かったならば、もしかしたら
しかし、そうはならなかった。きっとこれから先、彼とここまで時間を密に接することは出来なくなる。リサはバンドに集中する為に。アキラは、巴という存在の為に。
だからこそ、リサは我が儘をそのまま通した。巴が良く思わないことなんて百も承知で。
だって、そうでもしないとどうしようもなくなってしまうから。
不完全燃焼では燻りが残る。芽生えそうになった毒の芽は、全て摘んでしまった方がいい。後腐れなく燃え尽きてしまえば、再度燃え上がることもない。
その為に、リサはこのイベントを全力で楽しむのだ。勝敗なんて関係無く、諸々に笑って終わりを迎えられるように。
――まぁ、欲を言えば? 優勝なんかしちゃったら最高なんだけどね。
そんな想いを胸にアキラを見つめるリサの横顔を、巴は黙って眺め続けるのだった。
「にしても、想像はしてたがえらくハイレベルな連中が集まったもんだなぁ」
「それだよ、なんでこんな街のイベントにあんな連中が集まってんだよ」
リサと巴が内緒話をしている間に、此方はそんな切り出しで会話が始まっていた。
アキラの当然と言えば当然な言葉に、しかし呆れた顔を彼に向けたのは健吾だった。一花も何かを知っているらしく、わかりづらい程度の苦笑を浮かべている。
「……なんだよ」
「原因はお前なんだって。お前」
「……あぁ、あの言葉はそういう意味か。いや意味はわからんけど」
確かに、健吾がそんなことを言ってはいたな、と首を傾げながらアキラは言う。しかし、腑に落ちない。何故原因が自分になるのか、全く心当たりがないアキラからしてみれば疑問しか浮かばない。
そんなアキラに、健吾は一花の頭に手を乗せた。
「つまりだ。このイベントにはお前を含めると、grand slamから三人出場している」
「まぁ、な」
「それを知った他チームから、アイツが出るなら俺も、あの子が出るなら私もって形で人が集まる」
「……いや、まぁ」
「その原因を作ったのはお前。お前が出るから、俺と一花が出ることになった。三人もgrand slamから人が出たことで、他チームも追いかけてくる格好になった。で、この結果だ」
実際、予選に残った連中の半分はそいつらだしな、と健吾が話を締めた。アキラは顎に手を当てて口を歪めている。
「……バンドイベントに集まってたわけじゃないのか」
「ライブは夜からだぞ。流石にダンスバトルで騒いだ後にライブで盛り上がれる程のタフな奴、こんなにいないだろ」
「私はライブも見てくけどねっ」
「人間機関車のお前はそうだろうけどな」
「初めて聞いたんですけどそのアダ名っ!?」
健吾の弄りに目を見開いて突っ込む真緒を他所に、それもそうかと頭を掻くアキラ。
実際、予選を通った連中はアキラから見てもハイレベルな連中ばかりだ。アキラや健吾にも見劣らないブレイカーもいれば、リサと同じジャンルで実力派の女性もいる。他も様々なジャンルの実力者ばかりで、本選は勝ち抜くのも難儀しそうな混戦状態だ。
因みに、今まで触れられなかった真緒に関しては、会場内でも女扱いされ、MCに男だと紹介されて物議を醸し出した挙げ句に、無闇に女性らしさを振り撒くダンスで更にオーディエンスを混乱に陥れていた。パートナーの健吾と共に、インパクトという面ではそれなり以上に厄介な敵と言える。
「さ、そろそろ戻ろうぜ。本選、もう始まってんだろ」
「あこが待ってるので、私は先に行きます。あの……アキラ、さん」
「なんだ。言っとくが、次も容赦なく行かせてもらうぞ」
「……はい!」
アキラの言葉に、嬉しそうに返事をして駆けていく一花。その背中を見送ってから、アキラもリサへと声をかける。
何やら一言二言隣の巴へと声をかけてから立ち上がった彼女は、大きく身体を伸ばしてからアキラへと駆け寄った。そのまま会場へ向かおうとして、ふと。
「そういや、巴」
「なんだ?」
いつもと変わらない声色に、どうやら機嫌は治ったようだと微妙に心を撫で下ろすアキラ。
その様子を見て、巴は少しだけポカンとした後に、カラッとした笑顔を見せる。
「……なんだよ」
「なんでもないさ。頑張ってこいよ、応援してる。リサさんも、頑張って」
「うん。行ってきます!」
元気に返事をして、リサが巴に抱きついた。いきなりの行動に驚いた巴だったが、すぐにその背中に腕を回して抱き止めた。
その様子に、本来しようとしていた質問を止め、頭を掻いて歩き出す。
――本物だったとして、忙しい人だからな。もうここにはいないのかも。
「あっ、ちょっと待ってよ先輩! じゃあね、巴! 友希那にも宜しく言っといて!」
そんなアキラの背中を、リサもまた追いかけるのだった。