俺と千嵜、綾袮さんと時宮さんはそれぞれ違う派閥所属で住んでる場所も違う、という事で任務中一緒になる事はあまりない。…が、日中生活する場所である学校では全員クラスメイトだし、それぞれが友人関係という事もあって放課後なんかは一緒になる事がそこそこある。で、集まったところから何か話そうとなった場合は……専ら、どこかの店に立ち寄っている。
「ねー妃乃、今日わたし古文の授業うとうとしちゃってちゃんと板書出来なかったから、ノート…」
「ノート?写させてほしいの?」
「ううん、わたしのノートに書き写してくれない?」
「図々しっ!あっけらかんと図々しい事言うわね!絶対嫌よ!」
「えぇー……」
ファミレスの席に座り、注文してから早々に時宮さんへとしょうもないお願いを口にする綾袮さん。その様子を千嵜と共に眺めていると……断られた綾袮さんは、俺へと視線を向けていた。…げっ、こっちに来た……。
「ね「嫌だ」早っ!?ちょっ、断るの早過ぎない!?まだ最後まで言ってないどころか一文字しか言ってないよ!?判断するには早計過ぎるんじゃないかな!?」
「いや、だって同じお願いを俺にしてくるって分かってるし…頼むなら千嵜にしてよ」
「俺か?俺のノートは新品同様なんだが…」
「え…悠弥君、それは流石にヤバいんじゃ…?」
「冗談だ。だが参考にならない事は間違いないだろうな」
ちゃんと板書出来なかった分を人に書いてもらおうとしている綾袮さんと、参考にならない事を自負している(恐らく書き損なってる部分もあるのだろうと思われる)千嵜。その五十歩百歩な残念さに対し、目の合った俺と時宮さんは呆れ混じりに肩をすくめるばかり。お互い大変だね、と一瞬心が通じ合っていた俺達だった。
「全く…ほら、見せてあげるから自分で写しなさい。自分で書くのも記憶の定着に繋がるのよ?」
「うー…分かったよぉ…」
「…千嵜は写させてもらわなくていいの?」
「ふっ…俺は俺のやってきた事を信じるだけさ」
「わー、千嵜さんカッコイ〜」
それから俺達は…既に始まってるけど…雑談に突入。集まったと言っても別段協会から何か通達があった訳じゃないし、問題に直面してる訳でもないから会話は基本談笑となる。綾袮さんの事を考えると集中の邪魔にならないよう静かに話した方がいいのかもしれないけど、それを言ったらそもそもファミレスじゃなくて家とか図書館とかでやるべきだからね。
「あー綾袮さん、そこ訳文が抜けてる」
「わ、ほんとだ…もう、なんで現代じゃ使われてもいない言語の勉強しなきゃいけないのかなぁ…古文から過去を学ぶ、って言うなら歴史の授業でいいじゃん…」
「はは…まぁ、訳す能力は専門知識って扱いにして内容だけ学べばいいじゃん、ってのは俺も思うよ。学校ってのは考える力を養ったり一定の知識を有している事の証明になる場だから、こういうのも授業の中に入ってるんだろうけどさ」
「あ、そうなの?」
「いや知らない。単に俺がそうなんじゃないかなーって思ってるだけ」
この勉強、する必要あるの?…それは日本に住まう学生の約八割が一度は思うであろう、教育に対する文句混じりの疑問。大概は考えたってしょうがないとかそう決められてるんだから、と理由の追求を止めてしまうところだけど…俺は違う。自分なりに納得出来る理由、それも偏屈ではないものを考えるのがこの俺なのだ!……って地の文で盛り上がったって、自己満足以上のものにはならないんだよねぇ。
「へぇ、結構ちゃんとした考えじゃない。そういう面でも貴方ってしっかりしてるのね」
「はは、時宮さん程じゃないよ。俺はそこまで成績優秀って訳じゃないし」
「私が評価してるのは成績とは別のところよ。それと、貴方も嫌じゃなきゃ名前で呼んでくれて構わないわよ?協会所属の人間としては名前の方が何かと円滑だし」
「え……?」
「な、名前?…まぁ…そういう事なら名前で呼ばせてもらうけど……いやでも言われて名前呼びに改めるのはちょっと気恥ずかしいかも…」
「あー、酷〜い顕人君!わたしの時は普通に呼び方変えたのに、同じ性でも人によって反応変えるんだ〜!」
「い、いや別にそういう訳じゃ…てかあの時はその直前にあくまで業務的な理由です、って事を今よりずっとしっかり言われたからだから……」
俺の考え方について評価された数秒後、かなり何気ない流れで時宮さんを妃乃さんと呼ぶ事になった。…その後なんか妬みみたいな発言を綾袮さんからされたけど…声音的にこれは俺をからかうつもりで言ったな…?
「そうだっけ?うーん、言われてみるとそうかもしれないね。…じゃ、これに便乗して悠弥君もわたしの呼び方変えてみる?」
「ん?…そうさな、俺だけなんか距離開けられてるみたいなのは嫌だしそうさせてもらうよ」
「大丈夫よ悠弥、貴方は呼び方関係無しに距離開けられてるから」
「そうかそうか、じゃあ俺は帰ったら妃乃の部屋のクローゼット開けてやろう」
「やったらぶん殴るわよ!?私的な理由で女性のクローゼット開けようとするなんて根性腐ってるわね!」
「えぇー……自分から煽ってきたくせにそこまで言う…?」
運ばれてきた軽食を口に運びながら、綾袮さんは書き写しをしながら、雑談は続く。他愛もなければ益もない(呼び方変更の件があるから無意味ではないけど)雑談だけど、だからこそ気兼ねなく楽しめるというもの。益を、価値を求めてばかりいたら息苦しくなっちゃうからね。
そんなこんなで話す事十数分。相変わらずどうでもいい事を話す中…ふと時宮さん…ではなく妃乃さんは窓の方へ目をやった。
「あれ?妃乃どしたの?」
「あ……ううん、何でもないわ」
「そうなの?金のキョロちゃん見つけたとかじゃない?」
「ひ、久し振りに聞いたわねキョロちゃんなんて…ちょっと視線を感じただけよ。それだけだから気にしないで」
「視線?え、何々妃乃ってば熱烈な視線浴びちゃってるの?」
「知らないわよ、って言うかどっから熱烈なんて出てきたの…」
綾袮さんの返し(ネタ)が中々特徴的だけど…どうも妃乃さんは視線を感じて振り返ったらしい。ただ視線なんてしょっちゅうではないものの普通に生きていれば感じる事もあるし、当の妃乃さん自身があまり話題にしようともしなかった事もあってこの話は即終了。すぐ後に千嵜が妹さんに何かお土産でも買っていくかなぁ…なんて言い出して、それに俺達が「え、帰りの寄り道でお土産?」的突っ込みを入れた事で話題は完全に別のものとなった。
「…ん?もうこんな時間か…夏が近付くと日が落ちるのが遅くなるから時間が分かり辛いんだよな…」
「冬は冬で『え、もう夜?』ってなるよねぇ…さて、そろそろお開きにする?」
「そうだね。妃乃ありがとー」
「はいはい。授業中ずっと集中してろ、とは言わないけど板書位はしっかりしなさいよね」
既に書き写しが終わっていたノートを妃乃さんへと返し、筆記用具をしまって立ち上がる綾袮さん。俺含む三人も同じ様に立ち上がって、会計を済ませて店の外へ。空調が効いている店内に比べ外はやや暑かったけど…同時に気持ちの良い風も吹いていた。
「じゃ、また明日〜」
「また明日ね〜」
「うーい…って綾袮さんはこっちでしょ!どこ行く気!?」
「…しょうもないやり取りしてるな、二人は…」
「こっちも振り返るとあんまり他人の事言えないけどね…」
何故か千嵜達の側へ行こうとしていた綾袮さんを呼び戻し、帰路へ。その途中でスーパーに立ち寄って、綾袮さんと夕飯に関して話ながら買い物を行い、家に帰ってからは夕食の準備をスタート。そうして普段通りの事を普段通りに進められている今日は、いつも通りの一日だった。
*
「…………」
「……何よ、さっきから」
「ん?」
御道と宮空…もとい綾袮組と別れてから数分。自宅へと帰る道を淡々と歩く中、妃乃は気になってるという旨の気になる発言を口にした。
「ん?じゃないわよ、なんのつもり?」
「何のって……何がだ?」
「あのねぇ…さっきからずーっと黙って難しい顔しながら時々私の方見てきてるでしょうが。それが気になるって言ってんのよ」
「あ、あー…悪い、無意識だった…」
行動には理由が付くもので、今の俺の『黙って難しい顔しながら時々妃乃の方を見る』というにも当然理由はあるんだが…理由があるのと行動に出てしまうのとは別の話。そしてその行動が妃乃にとって不快なものだったのなら…謝るってのが筋だよな。
「無意識に私を見るって何よ…変態」
「それは心配すんな。そんな目じゃ欠片も見てねぇから」
「その発言は殴られたいって気持ちの表れかしら?」
「…じゃ、そんな目で見てりゃよかったのか?」
「その場合でも殴るわね」
「理不尽だなぁおい…」
「貴方の言葉選びと極端さがいけないのよ」
見るも駄目、見ないも駄目となったら一体どうすればいいというのか。……まあ、視線に込める感情云々じゃなくてチラチラ見るなって事なんだろうが。
「…すまん、考え事してた」
「考え事?その内容が私に関わるから私の方を見てたとでも?」
「おう、そういう事だ」
「ちょっ、ほんとにそうなの?……私に関わるって、何を考えてたのよ…」
「そりゃ、まぁ……」
妃乃に回答の追求をされ口籠る俺。これは別に追求される事を想定してなかったとか、嘘で乗り切ってやろうとしてたとかじゃなく、二つある内容の内の片方…あまり重要じゃない方は今この場で口にしちゃっていいものかと迷ったからなんだが…ここで俺は、『敢えて言う』という選択肢を選んだ。……そう、敢えてである。
「……妃乃って、千嵜に対しては割とすんなり名前呼びを提案すんのなって事」
「へ……?」
「…訊かれた通り、何を考えてたのか言ったぞ?」
「え、い、いや……ちょ、ちょっと待ちなさい…」
案の定、妃乃にとって今の回答は予想の斜め上をいっていたらしく、途端に彼女は動揺した様子に。
「…それ、冗談じゃ…?」
「ないぞ?」
「…悪質な精神攻撃とかでも…?」
「ないぞ?」
「…と見せかけて…?」
「だからないって。そこは信じろよ…」
「し、信じろって無茶言わないでよ…」
妃乃にとってさっきの言葉場余程信じられなかった様子。……けどまぁそうだろうなぁ。俺だって普段はこんなの思ったとしても口にはしねぇし。……まぁ何にせよ、妃乃は俺の少し意地悪精神を込めて言ってみた言葉に狼狽える。
「あ、貴方…そういうの気にするタイプだったの…?」
「別に?普通は思っても言わん、だが訊かれたからな」
「う……た、他意は無いのよ?ただそういう話になる機会がなかったってだけで…」
「俺の場合、毎日同じ家で過ごしてたのに言われるまで結構かかったんだよなー」
「うぐっ……だ、だって…悠弥の場合言ったらそれをネタにしてきそうな気がしてたっていうか、何か抵抗があったっていうか…」
「抵抗…抵抗があったのかぁ……」
「あ、そ、そうじゃなくて…!」
真顔で返してみたり、嫌味を交えてみたり、ちょっと落ち込んだ風の態度を取ってみたり…そういう事をする度に、妃乃の狼狽は加速していった。そんな妃乃の様子を見て、心の中でほくそ笑む俺。ったく、妃乃はキツい性格してる割にすぐ気遣いするからこうなるんだよな。あー……
「……妃乃って、面白…」
「は……?」
頃合い…妃乃がマジで落ち込まないライン且つ、いい感じに反応してくれるであろう絶妙なタイミングを見極めた俺は、それまで胸の内に隠していた笑みを表情に表し…俺の真意が一発で伝わるであろう言葉を持って、締めくくってやった。この時の妃乃のぽかんとした表情と、その直後の一気に赤くなった顔はそう簡単には忘れないだろう。
……で、数分後。
「……妃乃…俺、淑女って軽々しく暴力に訴えたりしない女性の事を言うと思う…」
「ふーん、で?」
「…それだけっス……」
俺はその後暫く、腹部に手を当てながら歩く事となった。…今年度入ってから凄い女性から暴力振るわれてる気がする…凄いったって特定の一人のみだけど…殆どが俺の自業自得だけど…。
(淑女云々にはノータッチ…流石にさっきのは意地が悪過ぎたかもな……)
その意地悪で俺は楽しめた(制裁も受けた)訳だが、想定以上に妃乃を不機嫌にさせてしまった。それもやはり俺の自業自得なんだが…二つの内の重要な方が残った状態で不機嫌にさせるのは失策だったなぁ…こっからボケは控えるか……。
「…視線、いつから感じるようになったんだ?」
「…何よ、藪から棒に」
「解散前にも一度出た話なんだから、そこまで藪から棒でもないだろ。それに、ついさっき俺が視線を向けてたって事もあるしな」
別にこの話の前振りとして妃乃を見ていた訳じゃないが…店で妃乃が視線を感じると言った時から、俺はそれが気になっていた。何となく、ではなくちゃんとした理由を持って。
「…もっかい訊くぞ、いつからなんだ?」
「いつからって…訊いてどうするのよ」
「さぁな、まぁ事によっちゃ事案の可能性があるから警察に相談する事を勧めるね」
「警察って…そんな大袈裟な…」
「そりゃ妃乃の気のせいか自意識過剰なら大袈裟だろうが、もし同じ人間がずっと見てるとかだったらどうするんだよ?げに恐ろしきは人の心なり、とも言うだろ?」
どんなに屈強だろうと、格闘技を極めていようと、普通の人間は人の域を超える霊装者の敵ではないが……そんな霊装者だって隙や弱点はあるし、心は普通の人と変わらない。だから悪意、或いは常軌を逸した精神状態の人間に付け狙われてるのなら…被害が出る前に手を打つべきだよな。
「…貴方が真剣に言うって事は…もしや、私が視線を感じてたのを今日聞く前から知ってたの?」
「知ってたっつーか、気付いてた。連日急に振り返ったり明後日の方向に目をやってたりしてた訳だからな」
「……そう…」
「…………」
「…少し前からよ。最初は…そう、大蛇みたいな魔物倒した日だったと思うわ。覚えてる?」
「あぁ…相手に心当たりは?」
「あったらもう行動に移してるわ」
妃乃から話を聞きながら、俺は考える。一番あり得そうなのは妃乃に邪な感情を抱いて、それを理性で抑えられなくなった奴…所謂ストーカーだが……。
「…俺等の管轄は超常の力とその存在なんだ。通常の碌でもない奴は警察に頼るのがベターだと思うぞ?」
「かもしれないわね。でも、それでもしちゃんと警察が動いてくれたら私に警官が付くでしょ?」
「緊急性があるって判断されたら、そうなるだろうな」
「そうなったら私、通常の任務も魔王魔人捜索もし辛くなるじゃない。それは御免よ」
「いや、捜査してもらう間位自粛しろよ…職務だって事情話しゃ融通効かせてくれるだろ…」
真面目過ぎる人間は、息抜きや臨機応変に生きる事が出来なくて疲弊していくと言う。世の中の一体何%がその類いの人間なのかは知らないが……多分、妃乃はこの類いの人間だろう。息抜きはしてるっぽいからそう簡単には折れないだろうが…楽をしようとするのも大事ですぜ、妃乃さんや…。
「でも、職務はともかく捜索の方は止めてる間にチャンスを逃すかもしれないし…」
「んな事言ったら対処せずに捜索続けても成果出ない可能性だってあるだろ。妃乃は視線の件軽視してないか?」
「それは……分かったわよ、考えておくわ」
腕を組み、半ば仕方ないと言いたげな表情で言う妃乃には「こいつほんとに軽視してるんじゃねぇだろうな…」という気持ちにさせられたが…まぁいいだろう。妃乃はこういう感じの奴だって分かってんだから。
「ったく…因みに視線の主が知り合いだったらどうするよ?」
「…何それ、実は犯人貴方でしたってパターン?」
「なんで俺がこっそり見にゃならんのだ…同じ家にいるんだからんな事しなくても毎日見まくってるわ…」
「ま、毎日見まくってる?…うわぁ……」
「いや引くなよ!今のは言葉の綾に決まってんだろ!?」
「はいはい分かってる、そういう事にしたいのよね」
「ふざけんな違うわ!やれやれのジェスチャーすんな!」
○○なんだよねー、とかそういう事にしてあげる、とかいう言葉は屁理屈呼ばわりや少しは他人の言う事を聞く気になれ、なんかと同じ『その後の相手の言葉を全てその指摘の範疇内に入れてしまう』類いの言葉。審判がいるような場じゃ一切通用しないが、こういう私的な場、或いは煽る事を前提とした会話じゃ無類の強さを誇るリーサルウェポン。それを、それを妃乃は抜いてきやがった…!
「…いいじゃねぇか、なら俺も前世で培ったクソガキスキルで対抗してやる…」
「え…いや、何よクソガキスキルって…」
「ふ、ふふふ…やっちまったな妃乃…こうなったら最後、フラストレーションの飽和は避けられないぜ…?」
「だから何の話してるのよ……あ…」
「うん?」
何となくおふざけモードに頭が切り替わった俺はよく分からないネタを敢行。今の分かっていない妃乃に向けて出来うる限りの生意気発言を……しようと思っていたのに、何やら妃乃の動きが止まった。…充電切れか?
「……まただわ」
「また?……って、まさか…」
「えぇ、そのまさかよ」
今の状況において、あり得る可能性なんて一つしかない。そしてそれを肯定された瞬間……俺の中のおふざけ精神が吹き飛ぶ。
「…方向は、分かるか?」
「大体は…」
「そうか…なら、どこだ?」
「私から見て五時の方向「分かった」え、ちょっ…」
妃乃から見て五時の方向…右斜め後ろにあるのは、十字路の角。それを視認した俺は、霊力を身体に回して即座に跳んだ。
先程俺は、普通の事案は警察に任せる方がいいと言った。それを撤回するつもりはないが…だからってこんな降って湧いたチャンスを逃す手もまた無い。これで不審者を捕縛出来れば御の字、それが無理でも姿なり何なりの手がかりが手に入れば成果になるんだから、ここで動くのは間違いなくプラスになる。そういう思いで、俺は地を蹴り一気に十字路の角へと迫った。だが……
「……は…?」
──角を曲がった先には、何もいなかった。人も、動物も、虫すらも、この角の先にはいなかった。……その状況に、俺の額から一筋の嫌な汗が垂れる。
「きゅ、急な事しないでよ……それで、どうだったの…?」
小走りでやってくる妃乃。視線の事をあまり深刻には捉えてないように見えた妃乃も流石にこうなっては気になるらしく、その声音には興味と不安が少しずつ現れていた。そんな妃乃に対し、俺は首を横に振る。
「……そう…逃げられたのね…」
「…すまん」
「気にする事はないわよ。それよりさっきからちょこちょこ足を止めちゃってるし、早く帰りましょ」
「…そう、だな」
すぐさま犯人の事より帰る事を口にしたのは、取り逃がした俺への気遣いだろうか。訊いたところで妃乃ははぐらかしてくるだろうから真相は分からないが…多分、そうなんだろうなと俺は思った。
この一件に対し、妃乃がきちんと対処をするかは今の段階じゃ何とも言えない。だが、どちらになるにせよ…今の出来事によって、俺には一抹の不安が渦巻くのだった。
(……妃乃を見てる奴、ってのは…ただの人間、なのか…?)