双極の理創造   作:シモツキ

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第二百十話 雲泥の差

 あれから綾袮はすぐに…俺が話した翌日にはもう、刀一郎さん達に話を通してくれたらしい。そして綾袮を介して俺の考えている事を知った刀一郎さんは、これまたすぐに時間を作ってくれた。

 これには少し…いやかなり驚いた。話す機会を用意してくれた事自体は嬉しいしありがたいけど、てっきり機会を得られたとしても、実際に話せるのは割と先になると思っていたから、正直少し慌てた部分もあった。え、こんなサクサク話が進むものなの?…と。

 けど別に、慌てはしても困る事はない。だってすぐと言っても、綾袮が話を通してくれた翌日…なんてレベルの早さじゃないし…そもそも俺の考えは、意思は、はっきりと決まっているんだから。

 

(とはいえ緊張はする、っていうね…いや、とはいえも何も、これは緊張して当然か……)

 

 時間を作ってもらった当日となり、現在俺は双統殿に訪れている。これまで刀一郎さんや深介さん、紗希さんと会う時は(偶々出くわした場合を除いて)大概綾袮も一緒だったし、今回もそうだけど…夏の一件の時と同じように、今回綾袮は付き添ってくれてるだけに過ぎないし、綾袮に頼る事も出来ない。何せこれは、俺からの話なんだから。俺が、俺個人として頼み込む事なんだから。

 エレベーターに乗り、刀一郎さんが待つ階へ。時間を作ってくれたという事は、最低限俺から話を聞こうとはしてくれている筈。けどただそれだけ。上手く話が進む保証なんて微塵もないし…それも緊張している理由の一つ。

 

「…顕人君。半端な事を言っても、おじー様には届かないよ。正論も、理屈も、感情も…半端な事じゃ、『だからなんだ』位で返されちゃう。多分、今日顕人君と話す時のおじー様は…本気、だろうから」

「…忠告ありがと、綾袮。けど俺は、初めから本気で……」

「本気の言葉でも、だよ。半端な言葉や思いなんて論外だけど、本気の思いでもおじー様が納得してくれたり、妥協してくれたりする保証はない。…顕人君が求めようとしてるのは、それ位の事だもん」

 

 階数表示を見つめている中、隣から聞こえた綾袮の声。その声も表情も、まだ部屋どころか同じ階にすらなっていないのに、真剣そのものな様子になっていて…更に一段、俺の中の緊張が強まる。

 だけど、分かっている事だ。俺の求めが、簡単に通る訳がないって事は。ならば、臆する必要はない。臆して尻込みするようなら、そもそもここに来ちゃいない。

 

「…いつもと同じだよ。自分に出来る事を考えて、それに全力を注ぎ込む。やれる限りの事をして…後は、結果を信じるしかない」

「…逞しくなったね、顕人君。実力が、っていうより…心の部分が」

「…そう?」

 

 目的の階に到着し、廊下に出る。廊下へと足を踏み出しながら言葉を返すと、綾袮は小さく笑う。そして更に俺が訊き返せば、綾袮はこくんと一つ頷き、そうだよと言った。

 

(心、か…確かに少しは、逞しくなれてるのかもな…。それが誇れる形かどうかは…また、別だけど)

 

 色々な経験をして、楽しい事も辛い事も、本気の戦いも駆け引きも重ねてきて、その上であるのが今の俺。…と、表現すると何かそれっぽいけど、自分の事…24時間365日一切離れる事のない自分の精神の事だからこそ、いまいち変化の実感は出来ないというもの。

 そして、そんな中でも間違いなく「変わった」と思えるのは、不都合な真実を捻じ曲げたり、組織に無断で警戒しなきゃいけない相手と交流を持ったりするような…世間一般でいう「正義」とは呼ばないような行動も、出来るようになった部分。それを後悔なんてしていないけど…流石に誇ってしまう程、捻くれた人間になったつもりもない。

 

「…怖気付いちゃ駄目だよ、顕人君。もう、ここまで来たんだから…当たって砕け散れ、だよ」

「ありがと、綾袮。けど、出来れば砕けろで止めてほしかったかなぁ…砕け散れだと、微妙に悪口感が……」

 

 目的地である部屋の前、そこに立ったところで綾袮から投げ掛けられたエールの言葉。語尾が気になって素直には受け取れなかった俺だけど…その綾袮らしさ、冗談感が、逆に俺にとっては多少なりともリラックス出来る要因となった。もしかすると、それを狙ってわざと綾袮は言ったのかもしれない。

 そう。もうここまで来たんだから、後はもう力を尽くすしかない。ほんとに当たって砕けろだ。そんな思いで、俺は深呼吸し…ノックも挨拶の後に、部屋へと入る。

 

「…来たか」

 

 部屋内へと踏み入れた瞬間に、俺の中の緊張感が高まる。けどこれは、中の人物…刀一郎さんが何かした訳じゃない。これからの事を考えて、自分で自分を緊張させてしまっているだけ。

 でも、そう分析出来る位には、頭はちゃんと働いている。緊張は滅茶苦茶してるけど…何となく、落ち着いてもいる…と、思う。

 

「刀一郎さん、本日はお時間を頂き誠にありがとうございま……」

「挨拶は良い。それよりも早く本題に入れ。…お前とて、何も二言三言で終わらせる気はないのだろう?」

「…分かりました」

 

 まずはちゃんとした挨拶から…と思っていた俺だけど、言い切る前にそれは不要だと返される。これがさっさと話を進めたい、余計なところに時間を割きたくないという意味なのか、別の意図のある言葉なのかは分からないけど…そう返されるのなら、俺も挨拶に拘る理由はない。だから俺は一つ頷き…一拍を置いて、言う。

 

「刀一郎さん。自分は…この現状を、富士の件の真実を隠し、今も隠し続けている今の在り方を、良いとは思っていません」

 

 余計な部分を削ぎ落とし、初めから意思を伝える俺。普通ならもっと丁寧に、悪く言えば無駄に回りくどく言うのが大人の世界なんだろうけど…刀一郎さんが求めているのは、きっとそういう事じゃない。

 

「…だろうな。そう思うのが、普通の感性だ」

「…元々隠していた事、例の件が起きた時も隠したままであった事、それ等を今に至るまで隠し続けている事…全て、理解は出来ます。実際、今もきちんと協会が組織として機能している事を考えれば、組織の運営の上での判断としては、特に間違いでもなかったのだろう、と感じているのも事実です」

 

 無駄は減らして、けど焦らず順に話す。ただ話すだけ、聞いてもらうだけが目的なんかじゃない以上、必要な部分まで削ぎ落としてしまってはそれこそ話にならないのだから。

 

「…ですが、自分は自分と同じように力を失った、多くの者の話を聞きました。彼等は皆、それぞれの思いを抱きながらも現状を、失った事を受け入れ、諦観を混じらせながらも前を向いています。今を飲み込み、その上で進もうとしています。…真実を、知らないままで」

「…………」

「それは、あまりにも理不尽ではないのでしょうか。危険を知らされる事なく、心構えをする機会もないまま失い、避けられたかもしれない力の消失を不幸な事故だと思ったまま、何も知らない、知らされないままに失った現実が過去のものとなる…自分にはそれが、理不尽なように思えてなりません」

 

 理不尽。そう、理不尽なんだ。例えば怪我なら…任務の中での死ならば、納得は出来る。それが戦闘のいうもので、死傷の危険は皆分かった上で任務に参加するんだから。

 でも、この件は違った。わざと真実を、起こり得る危険を隠され、その結果危険を踏まえての選択や行動が出来なくなっていた。それだけでも酷いというのに、本来なら危険を踏まえられた筈だったんだという事実すら、隠されたままだというのは…あまりにも、理不尽じゃないか。不誠実じゃないか。

 

「…だからこそ、自分は刀一郎さんに…隠す事を選んだ方々に求めます。何も、協会全体へとは言いません。しかしせめて、力を失った者達には、きちんと真実を伝え…隠し続けてきた事を、謝罪して頂けないでしょうか」

 

 だから、俺は求める。不誠実な秘匿を止め、きちんと真実を伝える事を。

 たかが真実、されど真実。例え力を失った人達が、今後と満足のいく日々を送れるようになったとしても、本当の事を隠されたままだっていうなら…それは、偽りだ。自分で選んで、真実から目を背けたのならともかく…知る機会すらないなんて、絶対に間違っている。

 それが、今ここへ持ってきた俺の思い。俺の本心と、要求。そしてそれを聞いた刀一郎さんは…小さく静かに、吐息を漏らす。

 

「お前の言いたい事は分かった。確かに理不尽だろう。我々が初めから明かしていれば、違う結果となっていた可能性も十分にあり得る。真実を求めるというのも、人として当たり前の感情だ」

 

 一言目として返されたのは、俺の主張へ対する理解。確かにそうだろうと、俺の言った事を肯定してくれる。

 けど、まだ俺は喜ばない。喜べない。何せ今の言葉、一見俺を支持してくれてるようだが…その実、理解を示しているだけ。確かにそういう可能性もあるなと、感情としては当たり前だと、ただ時沙汰を述べているだけ。そして、先んじてこういう言葉を言うって事は、と俺が内心身構える中…次なる言葉が、発された。

 

「…だが、理由としては弱いな。その意見、その主張は参考にはなるが、現状を考え直すだけの意味があるようには感じられない」

「……ッ、それは…!…それは、理不尽である事、不誠実である事を理解した上で…認めた上での、言葉でしょうか」

 

 意味がない。辛辣ではなくとも、容赦のないその言葉に、反射的に俺は言い返しそうになってしまった。

 だが、いけない。感情的になったら、ちゃんとした意見を返せない。寸前で踏み留まった俺は、落ち着くよう内心で自分に言い聞かせ…出かかっていた言葉を、静かに言い直す。秘密にされたまま、本当の事を知らないままで終わらせる事になってしまいそうな人の事を考えても尚、意味がないと言うのかと。

 

「そうだ。逆に問うが、真実を知ったとしてどれ程の者が感謝をする。知る事が出来て良かったと、そう思う。知ったとてどうにもならない、自分の固めた気持ちを今更揺さぶられるような真実を知らせる事が、彼等の為になるとでも?」

「…分かりません。必ずなるとは言い切れません。ですが…知らない方が幸せも言うのを、知っている側が言うのは、ただの傲慢であると自分は思います。それに、知るか否かの選択肢があった上で、訊かない事を選ぶのと、初めから選択肢を与えられず、選択肢を知る事もなく何も知らないまでいるのは…状態は同じでも、そこにある意味は全く以って違う筈です」

「不確実だな。曖昧な部分を、はっきりとしない要素をそのまま組み込んで話すのなら、幾らでも言える。加えて、お前の物の見方に関しては同意出来るが…それもまた、傲慢な考え方だろう。お前個人で思う分には個人の信条、価値観の範疇だが……」

「…それを他人に当て嵌めた時点で、当て嵌めようとする事自体、傲慢な考え方だ。…分かっています、その通りだと思います。それでも…動かなければ、変わらない。動かない理由を作って、それで仕方ないと言っているだけじゃ、現状を肯定しているも同じ。…違いますか?」

 

 正しいと思う。刀一郎さんの指摘は正しいんだろうし、俺は「それでも」ってスタンスでしか返せていない。…けど、それも当然だろう。まだ二十年弱しか生きていない俺と、その何倍も生きている刀一郎さんなら、ただそれだけでも圧倒的な差があるんだから。何とか食い下がってるだけでも、俺は自分を褒めてやりたい。

 

「…だから、動いたと?私にはそれが、むしろそれこそが、言い訳に聞こえるな。自らの行動を正当化する為の理由として、動かねばならない理由を挙げている…そんな事はないと、断言出来るか?」

「……っ…」

 

 だけど、自分を褒めたってどうにもならない。そんな気休め、今この時には何の意味もない。

 自分の考えの、行動の、自己満足の可能性は分かっていた。自分の為の行いでしかないものになり得ると分かっていたから、気を付けようと思っていたし、その上で今言った通り、「かもしれない」をやらない理由にはしたくなかった。…でも、刀一郎さんの思考は更にその先を行っていた。やらない理由ではなく、やらなきゃならない理由に…俺がこうして動く事を正当化出来る理由に、力を失った人達の事を挙げているんじゃないかというのは、俺が考えつかなかった事で…それを俺は、即座に否定出来なかった。図星じゃない、その通りだったから言い返せなかった訳じゃないけど…絶対ないとも言い切れない、そう俺は思ってしまった。他の人達は知らない中、俺だけは真実を知っていて、紆余曲折の末とはいえ力を取り戻す事も出来た…そんな、俺ばかりが手を差し伸べられている状況に、罪悪感を感じていたのかもしれないと…そう思って、しまったから。

 

「…力を失った、他の人達は…声を上げる事も、出来ないんです。真実を知らない以上、上げようがないんです。動かなければ変わらず、自分以外は声を上げる事も出来ない…それは、理由になりませんか?それは言い訳で、理由には…ならないと言うんですか…?」

「…いいや、なるさ。そもそも言い訳か否かなど、結局は主観だ。故に、明確な言い訳など存在はしない。何であろうと、真っ当な理由にはなり得る。…それを挙げる本人が、心からの自信を持っているのならば、な」

 

 真っ直ぐに俺を見つめる、刀一郎さんの瞳。それはきっと、俺の主張の奥にある、俺の心を見定めようとする目で…同時に突き付けている、突き付けられている気もする。現実を、俺と刀一郎さんの間にある差を。

 

「…まあ、いい。心情の部分は分かった。お前の真剣さも、生半可な気持ちで今ここに望んだ訳ではない事も、十分に分かった。そして…お前の言葉に、一理ある事も認めよう。……だが、それまでだ。依然として、この現状を変えようとは…その必要があるとは、思わん」

「ッ…何故……」

「何故?…単純な話だ。お前の言う通り、明かす事と現状のままでいる事、それぞれのメリットとリスクを比較すれば前者が後者を上回る見込みがないからに決まっている」

 

 理解はした。一理あるとも認める。それでも今のスタンスを変えるつもりはない、妥協案や折衷案を考えるつもりもない様子の刀一郎さんに、思わず俺はただ尋ねる。何故なのか、どうしてなのかと問い掛ける。

 そして返ってきたのは、純粋な合理的思考。メリットとリスク、それぞれを天秤にかけてどちらがより大きく、重いかを判断しただけなのだと、刀一郎さんは言う。

 

「…メリットが薄いから、リスクが大きいから、真実を隠したままで…意図的に誤解させたままで、良いと言うんですか…?」

「組織の長は、おいそれと感情にほだされてはならない。組織という全体、集団としての視点を持たねばその役目は務まらないものだ。特に今の様な状況にあっては、尚更その行動に、判断に細心の注意が求められるのだ。真実を知った者に個人として怒りをぶつけられるのであれば、その程度は謹んで受け入れよう。だが万が一にもそれが組織全体の不和、或いは外部からの干渉を引き寄せる要因になるのだとすれば、組織の長として選ぶべきは……」

「……っ…だからって…だからってその為に、一部の人に不幸を強いるのはッ──」

「ではその一部の為に、全体が未知数の危険を背負う事になっても良いと?」

「……──っ!」

 

 論は分かる。やっぱり、正しい事を言ってるんだと思う。それとこれとを一緒にするな、と怒られてしまうかもしれないけど、俺も生徒会の中で組織を動かすという事を多少なりとも知ったから、その点でも刀一郎さんの正しさは感じている。

 でも…納得出来ない。出来る筈がない。だって、正しくともそれは一方的だから。話し合いの末、相手の同意を受けた上で一部の人に苦労を背負ってもらうのではなく、「組織の為」を理由に、一方的に苦労を、不幸を背負わせているだけだから。

 それがどうしても認められなくて、俺は感情的になる。感情的に、そんなのが「正義」の筈がないと、そう言い返そうとする。…だけど、その上を行くように、俺の言葉を制する形で、更に刀一郎さんは言った。俺の主張の中にあった、浅はかで致命的な穴の事を。

 

「ああ、確かに全体の為に一部が犠牲となるのは、その犠牲を強いるのは、理不尽な行いだ。だが、一部の為に全体へ犠牲を強いる事は…それ以上の理不尽だ、違うか?」

「そ、れは…そんな、大小の問題じゃ……」

「いいや、大小の問題だ。現状のままであれば、一部に。真実を明かせば、全体に。何れにせよ問題が生じるのであれば、組織として選ぶべきものは決まっている。…尤も、そもそも犠牲を強いる必要のない選択肢があるのなら、話は別だが、な」

 

 少数の犠牲なら良い、多数の犠牲だったら良くない。…そんな数で、単純な考え方で決めて良い話な訳がない。それが正義だなんて、微塵も思わない。

 だけど、俺は言い返せない。失念していたから。考えも付かなかったから。力を失った人達…協会から見れば少数の人達の為に俺がやろうとしている事は、別の危険を…より多くの人に、可能性レベルと言えども背負わせてしまう事だったなんて。

 軽々しく始めた訳じゃない。俺なりに考えて、迷いもして、その上で選んだこの選択。…だからこそ、何も言えなくなる。本気で考えて、それでも狭い視野でしか見れていなかった自分の未熟さ、不甲斐なさが俺の心を占めていき…反論を、主張の言葉を紡げない。

 

「…………」

「顕人君……」

 

 ここまで無言を貫いていた綾袮が、俺の名前を呟く。俺の事を、案じるように。

 これは、より良い結論を出す為の会議じゃない。俺が現状に異を唱え、綾袮さんの協力を得て「ならば話してみせろ」と機会を貰えただけの事。故に、俺が何も言えなくなればそれでお終いだし…現に刀一郎さんは、ふぅ…と吐息を漏らしている。これで終いだな、と言うかのように。

 

(……っ…俺は…俺は……)

 

 納得なんかしていない。現状のままで良い筈がない。だけどもう…俺自身が、自覚してしまった。俺の浅はかな考えを押し倒しても、別の問題が…より大きな問題が発生するだけだと。そしてそれを自覚したにも関わらず、今の主張を押し通そうとするのなら…それはもう、意固地なだけだ。自分の為に主張するのと、何ら変わらない。

 立ち上がる刀一郎さん。何も言えない俺が俯く中、刀一郎さんは俺の側まで来て…俺の肩へと右手を置いて、言う。

 

「…御道顕人。お前のその思いは、理不尽を受ける者の為に出来る事を尽くそうとする姿勢は、何も間違っていない。その心の在り方は、立派なものだ。故に、恥じる必要はない」

「…………」

「それに、私達とて力を失った者達を蔑ろにするつもりはない。少なくとも現段階で明かす事は出来ないが、明かす明かさないに関わらず、出来る事はしていくつもりだ。…状況的に、厳しい部分もあるが…な」

 

 かけられたのは、これまでとは違う穏やかな言葉。高齢だとはとても思えない程がっしりとした手は温かく…感じる。分かる。刀一郎さんも、何も力を失った人達の事をどうでも良いと考えている訳じゃないんだって。自分の立場で、組織全体の事も考えて、その上で最善の選択をしているだけなんだって。

…あぁ、そりゃあそうだ。優しく頼もしい綾袮さんの祖父、信頼出来る深介さんや紗希さんの父である刀一郎さんが、利己的で冷たい人物な訳がないんだから。そして、そうであるのなら…余計に、尚更、不甲斐ない。より広い視野で、現実を総合的に見て下された判断に対し、狭い視野で、限られた視点で「間違っている」と主張をしてしまっただけなのだから。

 

(…間違ってたって、事なのか…?現状のままが正しい訳ない、それは絶対に間違ってない…。でも……)

 

 真実を知らないまま、理不尽を受けている事すら知る事が出来ないまま、それを受け入れるなんて間違ってる。少数が犠牲になればそれで良い、なんて筈もない。それでも何も言えないのは…俺が、間違っていたから。俺の行動が、目指していた形が、今よりも悪い方へと進んでしまうものだったから。

 本当は、この現状が間違っているんだ。間違っている筈なんだ。…だけど俺に、それを正すだけの力がない。策も、手段も、何もない。あるのはただ、間違っているという思いだけ。その思いと…浅はかで不甲斐ない、何も変えられない俺だけだった。


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