双極の理創造   作:シモツキ

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第百七十二話 伝わる思い

 漫画やアニメじゃ、よく「記念日を忘れてるキャラ」が出てくる。誕生日であったり、クリスマスであったり、とにかくそういう日の事を忘れてて、誰かに言われてから「あ、今日はそうだったか…」なんて反応を見せるシーンを、大概の人は一度は見た事があるんじゃないだろうか。

 それに関して、俺はこう思う。「え、忘れる…?」と。例えば誰にも会わず、テレビやネットも見ず、家の中一人で代わり映えのない日々を送ってて日付けの感覚がなくなってるとか、そもそも全く記念日に興味がないとかなら分かるけど、そうじゃなきゃどっかしらで「あぁ、もうすぐあの日か」ってなるだろうと。仮に当日忘れていたとしても、それはある種のど忘れであって、「あ、そうだ!そうだった!」…って反応になるのが普通なんじゃないだろうかと。…まぁ、絶対そうだとまでは言わないけど…やはり、忘れているのには違和感がある。

 そして、そんな事を思う俺は基本的に記念日を忘れない。忘れないっていうか、その日が近付いてくれば自然と「おー、もうすぐか」と思う。だから…忘れてなんかない俺は、ちょっと期待してしまうのだ。ある記念日である、今日に対して。

 

「冬の空気ってさ、なんか澄んでる感じあるよねぇ」

「あるっすねぇ」

 

 下校の最中、少し空を見上げながら言った一言。特に意味のない、単なる感想。だからそれに答える慧瑠の言葉も、至ってシンプル。

 

「特に夜とか明け方は、ほんと澄んでる感凄いっていうか…ま、だからなんだって話だけど」

「そっすか。ところで先輩、さっき何か貰ってましたね。密売っすか?」

「なんでそうなる…チョコだよチョコ。バレンタインデーだからね」

「あー…なんか、そういう行事もありましたね……」

 

 雑に俺が話を締めると、思い出したように慧瑠は学校でのある場面の事を口にする。

 今慧瑠が言った通り、俺は学校で何個かチョコレートを貰っている。と言ってもそれは所謂友チョコ…というか、「あ、これあげるよ」位の感覚で貰った、箱や袋の中に幾つも入ってる既製品の一つな訳だけど…それでも嬉しい。そりゃ嬉しいさ、曲がりなりにも女の子から貰ってるんだから。…いや勿論、男から貰えてもそれはそれで嬉しいけど。

 とかなんとか思っていたら、慧瑠は興味の無さそうな言葉を口にする。…おおぅ、まさかこんな身近に「記念日を忘れてる(魔)人」がいたとは……。

 

「…慧瑠は、割とどうでも良い感じ?」

「どうでも良いというか…自分に縁、あると思います?」

「あぁ……」

 

 肩を竦めてそう答える慧瑠に、俺は一瞬で納得。確かに今の状態になる前から俺以外とは殆ど接する事はなく、そもそも霊力を得る事以外で人と関わる事を避けてきた慧瑠が、相手がいなきゃ成り立たないこのイベントに興味を持つ筈がない。っていうか慧瑠は魔人なんだから、俺の考える「記念日を忘れてるキャラ」と同列に語る事自体が大間違いだ。

 

「そういう事っす。あ、でもお菓子には興味あるっすよ?甘いものは美味しいですからねー」

「はいはい。じゃあ夏に買って以降何故か食べず今や冷蔵庫の肥やしになってるカップアイスを一つあげるよ」

「いやそれ処理を自分に頼んでるだけじゃないっすか…まあ貰いますけど。こたつの中で食べると中々贅沢な気もしますし」

 

 バレンタインにしろ何にしろそれは人のイベントであり、魔人の慧瑠からすれば興味だの何だの以前の話なのかもしれない。そう考えるとほんの少し寂しいというか悲しいけれど、それを慧瑠自身は気にしていないというのがせめてもの救い。だから俺も、遠回しにお菓子が欲しいとアピールしてくる慧瑠に冗談混じりの答えを返し……って、人の普通の尺度じゃ測れないと思いきや、慧瑠はこたつアイスの良さが分かるのか…。

 

(…でも、クリスマスパーティーは多少なりとも楽しんでくれたと思うし、これまでは縁がなかった事でも、これからはきっと違うよね)

 

 人と魔人じゃ色々違う。けれど同じところだってあるし、何よりこうして一緒に暮らせている。ならば、それを俺が悲観する必要なんてどこにもない。…何気ない会話を続けながら、俺は心の中で確かにそう思っていた。

 

 

 

 

 学校を出てから数十分。家に着いた俺は、もうすぐ温かい室内だという思いから小走りになりつつ、敷地に入って玄関を開ける。

 

「ただいまー、っと」

 

 中に入り、靴を脱いで、手洗いうがいをしてリビングへ。いつもの流れは今日も変わる事はなく、リビングに入ってほっと一息。

 

「ふー…温かい……」

「お帰り、顕人」

「今日もお疲れ様です。お茶飲みます?」

 

 リビングでは本日もロサイアーズ姉妹がこたつに入っており、どうやら今はドラマの再放送を見ていた様子。…あ、この作品再放送やってたんだ…。

 

「ありがと、頂くよ(…考えてみれば…いいや考えるまでもなく、この家で男は俺一人なんだよな。うん、他は全員女の子だ、間違いなくそうだ)」

 

 フォリンさんにお茶を頼んだ俺は、着替える為に一度自室へ。

 その道中、やはり考えるのは例の事。ぶっちゃけ男女比なんて関係ないだろうし、魔人にも人と同じように男女って区別があるのかは謎だけど…それを差し引いても、俺には十分可能性があるのではないだろうか。自意識過剰感もあるが、少なくとも俺は皆の事をただの同居人だとは思っていないし、皆もそうであってほしい。

 それにこのご時世じゃ、義理は勿論友チョコという便利なくくりだってある。そこまで踏まえれば、全員からとまでは言わずとも、誰か一人は…一人位は……

 

(…って、それを期待出来るような面子じゃなかったぁぁぁぁ……)

「…顕人?」

 

 再びリビングへと入った瞬間、悲し過ぎる推測に至って崩れ落ちる俺。ラフィーネさんから見下ろされる形となっているが、俺の心は今それを気にしていられるような状態じゃない。

 

「え、えーと…どうか、しました…?」

「相性が…イベントと面子の相性が悪過ぎる……」

『相性……?』

 

 上から聞こえてくる声からして、きっと今二人は小首を傾げているんだろう。でも、それを見ようと思う心境でもない。

 普段は意識する事もないから忘れていたけど、元々日本のバレンタインは日本独自の要素が強い。ずっと日本にいる人同士なら、そんなの「だから何?」で終わる事だけど、ロサイアーズ姉妹はイギリス人。しかも色んな国へ任務で行っていたという経歴の持ち主なんだから、日本のバレンタインなんて現地の風習の一つ位にしか思っていなくても何もおかしくない。しかも日本一年目な以上、当然バレンタインの経験自体ある筈がない。…そんな二人に、何を期待出来ようか。……勿論、二人に非なんて微塵もないけど。

 

「…………」

「……?ほんとにどうしたんっすか?」

 

 ちらりと視線を横に向ければ、そこには不思議そうにこっちを見ている慧瑠の姿。慧瑠に関しては、最早論ずるまでもない。何せ、そこら辺はさっき明らかになったんだから。

 そして最後の一人、日本生まれ日本育ちで、各種イベント…というか面白そうな事は全般的に大好きな綾袮さんは……いや、もうよそう…これ以上傷を広げたって辛いだけさ…。

 

「は、はは…お茶が上手いなぁ……」

「そ、そうですか…それは良かったです…」

 

 儚くも崩れ去った期待が、心の中に吹く木枯らしによって消えていくのを感じながら、俺はよろよろと立ち上がってお茶を口に。

 熱めのお茶の、じんわりとした苦味。それは今の俺の心を表しているようで、自然と浮かぶのは自嘲的な笑み。…あぁ、そうだ…別に良いじゃないか俺…。仮に今日のイベントとは無縁でも、こうしてお茶を淹れてくれる女の子がいるんだから…前は、ご飯を用意してくれた事もあったんだから…それにそもそも、毎日が充実している事を考えれば、悲しむ事なんて何にも……

 

「…顕人、顕人」

「うん…何かなラフィーネさん…」

「バレンタインチョコレート、あげる」

「そっか…ありがとうラフィーネさ……ぶふぅぅッ!?」

『……!?』

 

……俺はお茶を吹き出しかけた。いや、多分数滴は口から出た。あまりの驚きに、不意打ちにも程がある衝撃に、ギャグ漫画みたいな反応をしてしまった。

 

「げほッ、げほげほッ!ぁ、うぇっ…ば、バレンタイン…?」

「あ、顕人大丈夫…?…フォリン、まさか毒を……」

「し、してませんしてません!私は普通にお茶を淹れただけですよ!?」

「ご、ごめん二人共…大丈夫、今のはむせただけだから……」

 

 俺がびっくり仰天する中、むせた事に驚いた二人は…というかラフィーネさんは、何やら凄い勘違いを口に。フォリンさんもフォリンさんで慌てていて、リビングの中は軽くカオス。俺がなんて事ない姿を見せた事で誤解は解けたけど…あっぶな、危うくとんでもない話になるところだった…。…後、ちょっとお茶が鼻に入った…痛い…。

 

「そ、それなら安心しました…その、熱過ぎましたか…?それとも、お茶っぱが多過ぎでしたか…?」

「ううん、今のはお茶云々じゃなくて、飲んでる最中に驚いただけだから、フォリンさんは何も悪くないよ。だから気にしないで」

 

 安堵の表情を浮かべながらも、見るからに自責の念を抱いているフォリンさんの目を見て、俺はそんな事はないと否定。それで今度こそ本当にフォリンさんが安心してくれたのを確認し…視線をラフィーネさんの方へ。

 

「…で、だけど…ラフィーネさん、さっき…チョコレートくれる、って言った…?」

「ううん、言ってない」

「へ…?あ、あれ?じゃあ、聞き違い…?」

「うん。わたしはチョコレートあげるって言った」

「あぁ…そういう事ね……」

 

 訊き方が悪かった(ラフィーネさんじゃなきゃ伝わってた気もするけど…)せいで一瞬落ち込みかけるも、やっぱり俺がさっき耳にした事は聞き違いなんかじゃないらしい。

 嬉しい。そりゃあ嬉しい。一度諦めてたから、余計に嬉しい。…けれど今、その嬉しさに勝っているのは驚きの感情。

 

「…どうして…?」

「バレンタインデーだから」

「そ、そうじゃなくてね…ラフィーネさん、日本のバレンタインについて知ってたの…?」

「ん、ちょっと前にテレビで特集をやってた。で、気になって調べた」

 

 日本のバレンタインについて、一番知らなそうなラフィーネさんが、まさか知っていたなんて。そう思っていた俺だけど、言われてみれば確かに文明の利器であるTVを二人はよく見ているし、こういうイベントは大概近くなれば何かしらの番組で取り上げる。であれば、ラフィーネさん…それにフォリンさんが知っていても、何もおかしな事はない。

 

「そうだったんだ…えっと、その……」

「ふふっ…駄目ですよラフィーネ。物もなしにそれだけ言っても、顕人さんも返す言葉に困ってしまいますよ?」

「…確かに。ちょっと待ってて」

 

 くれるのであれば、返す言葉はありがとう一択。でもまだ俺は渡されていない訳で、この時点で言っていいものかちょっと迷い…それを察したフォリンさんからの言葉を聞いて、ラフィーネさんはキッチンへ。軽快に入っていったかと思うと、冷蔵庫を開け……中からある物、それにスプーンを持って帰ってくる。

 

「…これは……」

「チョコゼリー。わたしの自信作」

 

 すっと俺の前に差し出されたのは、ガラスのコップを容器に使ったチョコレートゼリー。俺が受け取ると、ラフィーネさんは決して起伏が激しい訳ではない胸をふんすと張って…このゼリーとは全く関係ないけれども、ラフィーネさんのこういう姿はいつも可愛い。

 

「…食べてみていい?」

「勿論」

 

 こくりと首肯を返された俺は、出入り口前から食卓の椅子へと移動。湯呑みを置き、空いた手でコップの縁に置いておいたスプーンを持ち、それをゼリーの中へと差し込む。

 程良い弾力を見せながらも、スプーンの侵入を受け入れるゼリー。そして俺は一口分掬い、持ち上げて…口の中へ。

 

「…どう?」

「…うん、美味しい。甘いけどゼリーだから全然くどくないし、これはどんどん食べられる美味しさだね」

 

 広がっていく爽やかな甘さを感じながら、問いに対して俺は回答。

 こうしてバレンタインチョコを用意してくれただけでも、凄く嬉しい。手作りだから、尚更嬉しい。けれど、今の感想に対してそれは一切関係ない。そう思える位には…本当に、このチョコゼリーは美味しかった。

 

「それは良かった。…うん、良かった…」

「…ありがとね、ラフィーネさん」

「ううん、お礼は不要。顕人が喜んでくれたなら、わたしも嬉しい」

 

 あげる側からすれば少なからずドキドキしそうなものだけど、ラフィーネさんの表情は今日も希薄。…そう、一瞬思った俺だけど…一拍置いてラフィーネさんが浮かべたのは、小さく笑った穏やかな顔。それはいつもの、普段の表情を知っていないと変化が分からない…なんて微細なレベルじゃない、きっと誰が見ても分かるはっきりとした笑みで……気付けば俺は、お礼の言葉を口にしていた。言おうと思った訳じゃなく、自然にありがとねと言っていた。

 

「…これさ、一人で作ったの?」

「違う。フォリンと一緒に作った」

「という事は…二人で?」

「あぁいえ、私とラフィーネでそれぞれ別の物を作ったという事です。…顕人さん、まだ食べられますよね?」

「…って、事は……」

「はい。顕人さん…私からのチョコレートも、受け取ってくれますか…?」

 

 一口、また一口と食を進めながら、何気なく俺は質問。するとその途中、訂正という形でフォリンさんもやり取りに入ってきて…そこで含みのある確認を口に。

 この流れは、もしかして…そう思いながら、軽く頷きを返した俺。返事を受けるとフォリンさんは先程のラフィーネさんのようにキッチンへ向かい……戻ってきた時、その手にあったのは細長いお皿と、そこへそれぞれが半分重なった状態で並べられた焦げ茶色のドーナツ。それからほんのりと漂ってくるのは…チョコの匂い。

 

「…頂くね、フォリンさん」

「えぇ、どうぞ」

 

 一つを手に取り、一口食べてもぐもぐと咀嚼。ふんわりとした食感を持つドーナツは、ラフィーネさんのチョコゼリーに比べると印象の強い甘さがあり、だけどそれが逆に食欲をそそる。

 二口、三口と口に運び、残りは一気に口内へ放る。ごくりと飲み込み、普段の調子で指を舐めかけて…それを回避した俺は、フォリンさんの方を見て言う。

 

「これも美味しい。俺、ドーナツは表面がサクサクしてる方が好きなんだけど…正にこの位なんだよ。俺が一番好きなのは」

「そ、そうですか?…サクサクにしたのは、特別な理由があるからではないですが…良かったです、顕人さんの好みに沿う事が出来て……」

「…もう一つ、貰ってもいい?」

「ふふっ、勿論です」

 

 俺はドーナツの好みについて話した覚えはないし、このベストマッチは完全に偶然。それに内心驚きながら喜びを交えて伝えると、フォリンさんも目を丸くして…それから浮かべる、ラフィーネさんと同じ笑み。ラフィーネさんの時もフォリンさんの時も、その穏やかな笑みを見ているとむしろこっちが嬉しくなるというか、その笑みに対して「ありがとう」と言いたくなって……

 

「…期待、していてくれていいからね?」

「期待…ですか?」

「ホワイトデーのお返しだよ。二人共、こんなに美味しいゼリーとドーナツを作ってくれたんだもん、それに応えない訳にはいかないよ」

「顕人……その言葉を、待っていた」

「はは、ラフィーネさんらしいや」

 

 当然それは、まだ一ヶ月先の事。でも俺は、心に決めた。ホワイトデーには、目一杯の気持ちを込めてお返しのお菓子を渡そうと。

 

「さて、と……」

「…どこか行くの?」

「いやほら、ドーナツで手…っていうか、指がべとべとしてるからね。うっかり何か触っちゃう前に洗わないと」

「…そういう事でしたら……顕人さん、その手をこちらに差し出してもらえませんか?」

「うん?良いけど、それが何か……」

 

 呼び止められた俺が振り向きつつ答えると、ちらりとラフィーネさんの方を見てからまた俺に向き直るフォリンさん。何だろうと思いながらも、言われた通りに差し出す俺。すると二人は、ふっ…と顔を近付けてきて……

 

「んなぁぁ……っ!?」

 

 次の瞬間、ラフィーネさんは親指を、フォリンさんは人差し指を…差し出した俺の指を、二人同時に舐め咥えた。

 ちゅぷり、と二人の冬でも潤いを一切失っていない二人の唇が俺の指を捕らえ、途端に感じる生温かさ。口内の濡れた感覚が一気に俺の指を包み…更にそんな中で、殆ど同時に舌で指を舐められる。

 つるりと滑らかな部分。ほんのりとざらついた部分。巻き付くように動く舌の触感が鮮明に伝わってきて、遅れて指を舐められている、しゃぶられたまま指を舌で好きなようにされているという官能的な事実が俺の意識と心を焦がす。…あ、あぁ…ヤバい、エロいエロいエロいエロいっ!!

 

「…ん、むっ…はふぅ……」

「ちゅ、ぷっ…ふふっ……」

「なっ、なな……っ!」

 

 舐められているというシチュエーション、感じる口内の熱とうねり、上目遣いで俺を見つめる二人の瞳。それだけで俺の頭は飽和状態、まともな言葉なんか出てこない程パンクしていたのに、吐息を漏らしながら唇を離した二人の口と、俺の指との間に出来た、二つの唾液の橋が更に俺を混乱させる。

 その橋が途切れた時、熱を持った吐息と共に堪能したとばかりの表情を浮かべるラフィーネさんと、唇の端に人差し指を当てて蠱惑的に笑うフォリンさん。二人の表情が、仕草が醸し出すのは刺激的過ぎる程に扇情的な雰囲気で……

 

「…ご馳走、様」

「美味しかったですよ、顕人さん」

 

 もしも視界の端に、にまにましながら眺めている慧瑠の姿が映っていなかったら、何かとんでもない事をしでかしていたかもしれない。……ちょっぴりだけど、割と本気でそう思った俺だった。

 

 

 

 

 夜。いつものように食器を洗っていた俺は、いつもとは違うある事に気付いた。

 

(……うん?)

 

 食器を洗い、それを水切り台に置く最中、俺が感じたのは視線。ふと視線を上げると、こちらを見ていた綾袮さんと目が合って…けれど一秒と経たずに、慌てて綾袮さんは目を逸らす。

 

「…顕人さん?どうかしました?」

「あぁ、いや…何でもないよ」

「…もしかして、さっきの事を思い出してました?」

「ち、違うっての…てか、ほんと二人はどこからそういう知識を得てくるんだ……」

「……聞きたいですか?」

「…止めとくよ」

 

 拭いてくれているフォリンさんからの言葉に声を返しつつ、俺も再び手を動かす。

 知識に関して訊かなかったのは、またからかわれそうだから…というのもあるにはあるけど、一番の理由はそれじゃない。一番の理由は、フォリンさんの声音に暗い何かを感じたから。

 俺は思い出す。夏休みのあの日、フォリンさんに迫られた事を。フォリンさんは…いや、恐らくはラフィーネさんも、所謂「そういう技術」を教えられているんだ。それがどこまでのものなのかは知らないけど…そんな話を、フォリンさんがしたい訳がないし、ならば俺も訊きはしない。

 

「これでよし、と。お疲れ様、後は俺が拭くよ」

「そうですか?では、私はお先にお風呂を頂きますね」

 

 それから俺はフォリンさんを見送り、手早く残りの食器も拭き終え、夕飯に纏わる片付けも終了。

…と、そこで再び俺は感じる。綾袮さんからの、不思議な視線を。

 

(…うー、ん……)

 

 意図の読めないその視線は、夕飯前も、夕飯の間も何度かあった。もっと言えば、いつもより帰りの遅かった綾袮さんは、帰ってきてからずっと何か様子が変で……流石に何でもないって事はないだろうと思った俺は、ソファに座る綾袮さんの方へ。

 

「…綾袮さん」

「へ?あ、ど、どうかした?」

「…俺に、何か話しがあるの?」

「…どうして…?」

「うーん…何となく、かな」

 

 動揺を見せる綾袮さんに対し、敢えて俺はふわっと返答。勿論本当は、視線が気になったからだけど…そうは言わない。

 

「そ、そっか…ううん、別にないよ…?」

「そう?だったら良いけど…本当に?ほんとに、何もない?」

「う、うん」

 

 念押しするように訊いてみると、若干の躊躇いを見せながらも綾袮さんは首肯。反応を見る限り、何かしらはありそうだけど…それを見抜く程の読心術は俺にはない。それに、無理に聞き出すのはきっと綾袮さんも喜ばないだろうし…どうしたものか……。

 

「え、っと…あ、そ、そうだ!図書館で借りた本、もうすぐ期限だから読まないと…!」

「…綾袮さん、図書館で本借りたりするんだ…」

「失礼な、私だって借りる時位あるよ…5強が仲間になる位の確率で……」

「256分の1の確率で!?低っ!ひっく!っていうか、本を借りる確率ってどういう事!?」

「うっ…い、良いじゃん別に。とにかくわたしはそれ読むから、この話はこれでお終……あ"っ」

「へ?な、何今の大きなミスに気付いたような声は……」

「な、何でもない何でもない!ほんと何でも……」

 

 謎の発言をしたかと思えば話を切り上げようとし、かと思えばこたつの上に置きっ放しだった鞄から本を出しかけて固まり、今度は鞄諸共慌てて抱えるという、本当に何なのかよく分からない行為を続ける綾袮さん。どうして良いか分からず俺が困惑を深める中、本を隠すようにして立ち上がった綾袮さんはそのまま出ていこうとし……次の瞬間、ぽとりとカーペットに何かが落ちる。

 

「……?綾袮さん、落とし物…って……」

「……!?あ、顕人君!それは……ッ!」

 

 他の人がどうかは知らないけど、俺は人が何か落としたら、取り敢えず拾おうとするタイプ。だから特に何か考えるでもなく、いつもの調子でその落ちた物を拾おうとして……気付いた。それが、半透明の袋に入ったクッキーである事に。

 

「…これ、って……」

「…う、うぅ…そうだよ…最初は顕人君にあげるつもりだった、チョコクッキーだよ……」

「そ…そう、なんだ……(え、俺になの…?そこまで俺、気付いてなかったよ……?)」

 

 これは不味かったかもしれない。直感的にそう感じつつも俺が拾い上げると、綾袮さんは恥ずかしそうに顔を赤らめ、肩を落としてそう呟く。

 よく見れば、綾袮さんが抱えているのはお菓子作りの本。…もしや、今日帰ってくるのが遅かったのって……。

 

「…えぇ、っと…ありがとう、綾袮さん。食べても、いいかな…?」

「……駄目…」

「え、駄目…?」

「うん、駄目…それ、失敗作だから…妃乃にも手伝ってもらって、何とか形はそれっぽくなったけど…それでも、普段からちゃんと料理してる顕人君からすれば、きっと笑っちゃうような出来だから……」

 

 本人が出すより先に気付くなんて、台無しも良いところ。事故とはいえそれをしてしまった俺は申し訳なく思いつつも、ならばせめてとこの場で食べ、感想を言う事で少しでもリカバリーする事を考えた。

 けれど、返ってきたのは駄目という言葉。俺が驚いて訊き返すと、綾袮さんは悲しそうに…珍しく元気のない声音で、駄目な理由をぽつぽつと言う。

 

「…綾袮さん……」

「あはは…ごめんね、ぬか喜びさせちゃって…。でもまぁ、そうだよね…理由はどうあれ、普段はやりもしない事を当日の一発勝負で成功させようなんて、虫がいいにも程があるもんね…」

「…………」

「だから、その…これは忘れてくれると嬉しいかな…。代わりに何かあげるし、お返しは良いから、取り敢えずそれでこの件は……」

 

 本当に悲しそうな、しょんぼりとした綾袮さんの顔。不甲斐ない自分を恥じるような、普段とはかけ離れた今の綾袮さん。

 気持ちは分かる。俺だって、失敗したと思った料理を人に出すのは気が引けるから。それが練習不足によるものなら、考えの甘い自分が情けなくなるから。…だけど、それ以上に俺は嫌だった。今の綾袮さんが。綾袮さんが、あんな悲しそうな顔をするのが。だから俺は、袋に入ったクッキーを見つめて…告げる。

 

「…綾袮さん。これ…貰うから」

「え、え……?」

 

 許可は取らず、断りだけを入れて俺は袋の口を開く。困惑する綾袮さんの前で中のチョコクッキーを一つ摘み、それを袋の外へと出す。そしてそのまま、俺はそれを口の中へ。

 

「あ、ちょっ…駄目だって!失敗だから!無理して食べなくてもいいから!」

 

 食べるのを見た綾袮さんはわたわたと俺を止めようとするけど、既にクッキーは口の中。俺は咀嚼し、味と食感を感じ、しっかりと噛み砕いた後に飲み込む。

 喉を落ちていく、咀嚼された後のクッキー。フリとかじゃなく、本当に俺は食べて飲み込んで……

 

「……美味い…」

「…良いって…わたしの為に食べてくれたのは嬉しいけど、そんな事……」

「いや、本当に美味しいんだって。綾袮さん、これ味見した?」

「うぇ…?…してない……」

「なら食べてみてよ、っていうか味見はしなきゃ駄目だって…」

 

 そう言って俺は、袋のクッキーを綾袮さんの方へ。それで単なる世辞ではないと分かってくれたのか、綾袮さんも自分のクッキーを一枚口に運んでくれて……次の瞬間、驚きに染まる綾袮さんの表情。

 

「…ほんとだ、美味しい…味も食感もお菓子としては微妙だけど…全然不味くない……!」

「でしょ?いやほんと、クッキー感はないけど…最初からそういう食べ物だと思えばいけるって!」

 

 確かにクッキーにしては柔らかいし、見た目も「あ、あれ?生焼け…?」って思う色だし、味なんてチョコ入れてるらしいのにあんまり甘くないという、何とも突っ込み所のあるクッキーだけど…本当に、美味しいか不味いかで言えば美味しい。少なくとも、無理しなきゃ食べられないようなものじゃない。

 だから俺は、躊躇う事なく二つ目も口に。一つ目より強い味に「あ、これは偏ってるな…」と思いつつも食べ進め、あっという間に残りは一つ。そして綾袮さんが俺を見つめる中、その最後の一つも口に運び…俺は綾袮さんからのチョコクッキーを、綾袮さんが食べた一枚を除いて全て食べ切る。

 

「ふぅ…ご馳走様。確かに色々荒くはあるけど…全部、美味しく食べられたよ」

「…顕人、君…でも、どうして…?どうして、そこまでわたしに気を遣ってくれたの…?」

「そこまで、って程じゃないけどね。…なら、逆に俺も訊くけど…綾袮さんは、どうして俺に作ってくれたの?」

「それは……その…いつも頑張ってる顕人君に、ご褒美ー…っていうか…あげたら、喜ぶかな…って…」

「…そっか…やっぱり、そういう優しい理由だったんだね」

 

 俺が完食した事で、一度は緩んだ綾袮さんの表情。けどまた申し訳なさそうな顔になって、その顔で綾袮さんは訊いてくる。どうして食べてくれたの、と。

 そうした理由は、最初から決まってる。でもその前に、綾袮さんの気持ちを聞いておきたくて…それを聞かせてもらった俺は、言葉を続ける。

 

「…だからだよ、綾袮さん。綾袮さんは、きっとそういう理由で…俺の為を思って作ってくれたんだろうなって思ったから、俺も食べたんだよ。その思いに応えたくて、そう思ってくれた綾袮さんに悲しい顔なんてしてほしくなくて」

「…美味しかったのは、結果論だよ…?本当に不味かったかもしれないんだよ…?」

「その時はその時だよ。まあでも、不味かったとしても俺が言う事は変わらないよ。…本当にありがとう、綾袮さん。俺、綾袮さんがくれて嬉しかった」

「……っ…え、えへへ…そっか、そうだよね…顕人君は、そういう人だったもんね…。ふふっ、それなら…いつもみたいに、普通に渡してた方が良かったかなぁ…♪」

 

 そう。美味しくても不味くても、俺が一番伝えたい気持ちは変わらない。作ってくれた事、俺を思ってくれた事、それが何より嬉しいんだから。

 我ながら、ちょっと格好付けた事をしてしまった気がする。相手によっては、気取ってるなんて思われてしまうかもしれない。けれど綾袮さんは、俺が気持ちを伝えたかった相手は、俺の言葉で漸くふっと笑ってくれて……この時の、喜びの中に安堵とちょっとばかりの自嘲が混じったような、枯れかけていた花が再び元気を取り戻したかのような綾袮さんの笑顔は、凄く凄く可愛かった。


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