俺と綾袮さんとの生活が始まってから、少しの時が過ぎた。家での生活は一変したけれど、当然ながら学校生活はこれまで通り。そこそこ積極的に授業を受けて、千嵜と駄弁って、生徒会活動もして…という、まあまあ悪くない学校での時間。……けど、全くもって変わりがない…という事でもない。
「千嵜は……もう行ったか」
千嵜と共に下校した俺は、千嵜と別れる角を曲がって暫くしたところで止まり、こっそりと別れた位置まで戻って周りを見回す。
今俺が通っていたのは、これまで使っていた道。要は実家へ向かう為の道であって、新居に向かう為の道はこれではない。なのにここを通っていたのは…ひとえに千嵜…というか学校の誰にも住まいが変わった事を話していないからだった。
「…やっぱ、千嵜には話した方が楽だよなぁ…」
周りに話していないのは、勿論説明するのが大変(というか恐らく理解してもらえない)だから。そういう意味では事情を知ってる千嵜ならすぐ理解してくれるだろうし、話しちゃ駄目とも言われてないけど…どうも俺は話す気になれなかった。今の生活を大事にしたい千嵜に、こちら側の話をするのはあいつの意に沿わない…と思っているのがその理由の一つではあるけれど…それだけかと言われると、正直俺自身もよく分からない。
「まぁでも、いつかはバレるんだろうなぁ…」
なんて、内心気楽に考えながら歩いている内に、件の新居へと到着した。…うむ、ほんと未成年二人で住まうには大き過ぎる家だ。
「ただいま〜」
「あ、お帰り〜」
靴を脱いで家に上がると、リビングから言葉が返ってきた。着替える為に自室へ向かう中、ちらりとリビングを見ると、そこにはソファに深く座った姿勢で雑誌(多分漫画)を読む綾袮さんの姿。
同じ家から学校に向かい、学校から同じ家へと帰る俺と綾袮さん。でも、俺達は登下校の時間をずらすようにしていた。…だってほら、住まいが変わったってだけならともかく、同居してるってバレたら変な噂立ちまくりになる外確実だし。
「顕人くーん、今から時間大丈夫ー?」
「そりゃ勿論。学校内ならともかく、帰ったら割と暇なのが顕人君だからね」
「OK、それじゃ今日も行こうか」
自室で着替えていると、扉越しに綾袮さんの声が聞こえてくる。それを受けた俺は返答し、手早く着替えを終えて部屋を出る。そしてそのまま俺達は家を出て、双統殿へ。
……そう、霊装者としての訓練である。
「さーて、じゃあ今日も基礎をやるよ」
「はいよー。…綾袮さんって、結構基礎大事にするんだね」
「なんだかんだで基礎が一番大事なんだから当然だよ。というか…私に限らずまともな霊装者なら、まともなスポーツマンや科学者なら皆そうじゃない?」
「…まぁ、そりゃそうだね」
なんとなく綾袮さんの事は『考えるより動くタイプ』だと思っていたけど…少なくとも、俺が思ってる程ではないらしい。…基礎は謂わば土台であり大黒柱なんだから、大事にするのは当然なんだけどさ。
「ふっ、ほっ、とうっ!……あ…」
「あー、拡散しちゃってるね。もしかしてバーッ!…って感じの想像してる?」
「…バーッ…?」
「別にゴー!でもビシュー!でもいいよ?」
「……してるっちゃ、してるかも…」
トレーニングルームで霊力付加中の剣を振るっていたところ、特に何もしていないのに剣から霊力が拡散してしまった。…正直、前に思った通り綾袮さんが擬音で伝えようとしてきて若干困惑した俺だったけど…言われてみればそんな想像していた様な気もしたから、取り敢えず肯定。すると綾袮さんは「あー、やっぱりね」と言いたげに頷いた。
「初心者がよく陥るミスなんだよ、それは。空気を切る音とか、攻撃対象を断ち斬った時の衝撃なんかに無意識に反応して、『何かが武器から拡散していく』イメージを頭の中で持っちゃうんだよ。で、そのイメージが霊力に作用する事で、実際に付加されてる霊力が離れていっちゃう…って感じ。分かった?」
「一応……うーむ、なら霊力が留まるイメージで…あ、いや単に無意識のイメージをしない様にすればいいのか?…って、無意識を意識的に変えられる訳ないか…」
「大いに迷い給え、顕人君。自分で見つけた自分なりのものが、自分にとってのベストになるんだから」
「自分なり、か…厄介だなぁ、離れていっちゃうのは…」
「まぁ、ね。でも物は考えようだよ?ちょっと剣貸してくれる?」
手の平を上にして差し伸べる綾袮さん。何か見せてくれるのかな…と思って俺が渡すと、受け取った綾袮さんは眉一つ動かさずに剣へ霊力を付加させた。…レベルが違うなぁ、当たり前だけど。
「拡散しちゃう、ってのは確かに厄介だけど、逆に言えば外へと放出出来る…って事でもあるのは分かるよね?」
「分かるね」
「だから、確固たるイメージと、ある程度の霊力操作能力があれば……ッ!」
そう言いながら綾袮さんは剣を腰に構え……一閃。その瞬間、剣の軌跡を描く様に蒼い斬撃が現れ、そのままトレーニングルームに置いてある的へと銃弾に勝るとも劣らない速度で飛んでいった。
斬撃が直撃し、真っ二つになる的。それを見た綾袮さんは涼しい顔で俺に剣を返してくる。
「…こんな事も出来るんだ。便利でしょ?」
「べ、便利っていうか……」
「便利っていうか?」
「……カッケェ…」
「お、顕人君男の子の顔になってるね」
古今東西バトル物において、飛ぶ斬撃はありふれてるレベルで存在してるけど…それ故に安定した格好良さがあると俺は思っている。というか思っているからこその、この発言。…あれやってみたいなぁ、今の俺じゃ無理だろうけど。
「…あ、一応言っておくけど…もし顕人君がこの技の練習がしたいなら、周りに気を付けてね?慣れてないと斬撃飛ばす筈が剣をすっぽ抜けさせちゃう人が時々いるからさ」
「ギャグみたいなミスだね…近くにいた人にとっては洒落じゃ済まないけど…」
「…因みにわたしは昔それをやっちゃって、妃乃をツインテールからサイドテールにしかけた事があったなぁ…」
「顔のすぐ近くじゃん!何上手い事言おうとしてんの!?」
「イッツ霊装者ジョーク!」
「…それは言葉選びの事?それともエピソードの事?」
「前者前者、あの時はその後妃乃の槍から逃げ回る羽目になったよ…」
「そりゃそうでしょ…」
どうやら綾袮さんと時宮さんの関係性は昔から変わってないらしい。……正直、今後俺は第二の時宮さんポジ、セカンド時宮さんになるんじゃないかと不安でならない。
「さ、冗談はこの位にして訓練訓練、時間は大切だよ」
「へーい…やっぱり戦い慣れてるだけあって、こういう部分は真面目なんだね」
「そりゃそうだよ。だって、だらだらしてたら……お夕飯が遅くなっちゃうじゃん!」
「…今日は冷凍ご飯とふりかけでいいかな…」
「DVだ!」
「俺の事より夕飯の事大事にしてた綾袮さんがそれ言う!?後そんな事言うと勘違いするぞ!」
「してごらんよ!わたし断るよ!?断ったら顕人君は勿論わたし自身も気まずくなるよ!?その状態で一緒に暮らすとか出来る!?」
「脅しが斬新過ぎる!?」
「それはお互い様だけどね!」
喧嘩してんだかイチャついてんだか第三者視点からすれば全く分からないだろうやり取りをする俺達。まるで生産性のない会話だけど、まぁそれはそれで面白いからいいのである。
そうして訓練をする事一時間強。学校も家事もある俺は平日からガッツリと訓練する事は出来ず、いつもと同じ位の訓練で切り上げて綾袮さんと共に新居へと戻るのだった。さて…冷蔵庫の中には何があったんだったかな…。
*
「顕人くーん、お風呂頂くね〜」
夕飯を終え、ゴールデンタイムも終わりに近付いて来た頃、そんな綾袮さんの声が聞こえた。それに俺はリビングでテレビを見ながら適当に返す。
「んーと…あ、そうだ今日は特番でやらないんじゃん…」
テレビの番組表画面を見て落胆。実に平凡な、どこの家でもありそうな場面である。
その後暫くテレビを見て過ごす俺。見たい番組がやってなかった事もありあまりテレビには集中出来ず、頭の中では明日のご飯の献立や、洗濯物を干す為に天気の事を考えていた。……って、大分俺も主婦的思考になってるな…主婦じゃなくて主夫だけど…。
「……あ、そういや…」
自分の思考の変化に苦笑していたところで、俺はバスタオルが脱衣所から切れていた事を思い出す。…いや別にバスタオルがズタズタになってたとかじゃないからね?用意していた物を使い終わった的な意味だからね?
「不味い不味い、綾袮さんの事だから気付かず入っちゃっただろうし、下手すると一人暮らしだった頃の感覚で拭かずに出てきてしまうかもしれん……」
前者は恐らくその通りで、後者も綾袮さんならやりかねない。…というかぶっちゃけ俺もまだ時々実家にいた頃の感覚で何かしようとしてしまう事があるから、俺としては気が気でならない。もし、俺の予想が両方当たっていて、その上俺が何もしなかったら……それはまぁえらい事になる。
「俺はともかく、綾袮さんにとっては恥ずかしい過去を作る事になっちゃうし…ほっとけないよねぇ」
タンスの中からバスタオルを幾つか取り出し、それを持って脱衣所へと向かう。…てか、綾袮さんが俺含む世の一般男性と同じ様に入浴時間が短かったら、俺が気付く前に出ていた可能性高いんだよなぁ…セーフセーフ。
「……っと」
脱衣所前まで来て、引き手に手をかけたところで…俺は動きを止める。それは勿論、綾袮さんが脱衣所に出ていないかを確認する為。
脱衣所に入ったら女の子が服脱いでたとかお風呂から出たところだったとか、ラブコメにおいて『脱衣所でばったり』というイベントはお約束レベルでしょっちゅう存在する。で、大概胸と下腹部を隠しながら叫ぶ女の子に対して主人公が長々と言い訳(しかも理由がある場合何故かその理由を中々言わない)をして、結果殴られるだの脱衣所&お風呂にある物を投げられるだのする訳だけど……これに対して俺は、「いや、そりゃあんたただの不注意だろうが。後さっさと閉めて扉越しに謝れよ」と言いたい。だって、実際に目にせず共脱衣所に人がいるかどうかは確認出来るのだから。
まず第一に、扉の開閉状況。当然の話として開いていればまぁ気にする必要はない(開いてる状態で着替える様な人ならば、端から見られたところで気にする人ではないと見て間違いない)し、逆に言えば閉まってる時点で『人が着替えてる可能性がある』と考える事が出来る。で、そこからは扉とドア枠の隙間から光が漏れてるか(=照明がついてるか)どうかを見るなりシャワーの音がするか(=風呂場にいるか)どうかを聞くなり等をすればかなりの確率でいるかどうかを確かめる事が出来る。流石に100%ではないけど…確認出来るものをしないで開けているなら、それは不注意以外の何物でもない。と、いうかほんとに気を付けたいのならノックをすればいいだけなのだ。
…なんていう持論を脳内で展開した後、俺は脱衣所の扉をノックする。ほら、もうハプニングは回避出来た。ったく、よくもまあ世の中じゃこれ位の事もせず不注意をラッキースケベと言い換えてるもんだ……って…
「……いないんかいッ!」
こんな長々とフリをしたのに、それっぽい流れになってたのに……綾袮さんは脱衣所にはいなかった。これでは完全に独り相撲である。…いや、ハプニング起きなくてよかったんだけどさ…綾袮さんに恥ずい過去が出来ずにすんでよかったんだけどさ……こうなると、ねぇ?
「…って俺は誰に言ってるんだか……」
しょうもない事に頭を回転させちゃったなぁ…と何とも言えない気持ちになりながら、脱衣所に入った俺は電気を点けてバスタオルをタオル置き場へと配置する。なんか肩透かしだけど…当初の目的は達成したしさっさと出よ…。
脱衣所から出て扉を閉めた俺は、再びリビングへ…行きかけて反転する。そういや電気付けっ放しじゃん、勿体無いし消さないと────
「ふぅ、いいお湯だったぁ……へ?」
「あ……」
扉を開けた瞬間、脱衣所からもガチャリ…という音が聞こえて──俺は、硬直した。
俺の目に飛び込んできたのは、一人の少女の姿。濡れてしっとりとしている髪に、温まりほんのりと赤く染まった頬。視線を吸い付けられそうなうなじに、華奢さを感じる小さな肩。些か膨らみに欠けるも煩悩を刺激される胸に、綺麗な曲線を描くくびれ。形の良い腰に、ほっそりと伸びた脚。嗚呼、それは……紛れもなく、綾袮さんだった。綾袮さんの、裸体だった。
「…あ、ぅ…ぇ……?」
「そ……その、あの…えと……」
口をぱくぱくとさせる綾袮さんと、完全に『冷静な思考回路』というものがショートしてしまった俺。え、あ、えと…こ、こういう時なんて言うんだっけ?数分前なんかそれっぽい事考えてたよね?って数分前考えてた事すらきちんと思い出せないって俺大分ヤベぇじゃん!そしてこのまま黙って綾袮さんの裸見てる事はもっとヤベぇじゃん!と、とにかく動け俺!えーい、なんでも言うから言うのだっ!せーのっ!
「ご…ご馳走様でしたっ!」
「──ッ!へ、変態変態変態変態ッ!きゃあぁぁぁぁああああああッ!!」
「へぶぅぅぅぅぅぅぅぅっ!」
はーい最悪のチョイスしちゃいました〜飛び膝蹴り喰らいました〜自業自得で〜す。
……一つ、訂正しようと思う。先程ラブコメでのハプニングは不注意と言うべき事を言わないからと論を展開したけど…言うべき事を言わないんじゃなくて、驚きとかやってしまった感とか煩悩とか煩悩とか煩悩とかのせいで、言えないだけだったらしい。…と、そんな事を学んだ俺だった。
*
「で、再び脱衣所に入ったらお風呂から出てくるわたしと鉢合わせた、と?」
「はい、そういう事です」
十数分後、俺はパジャマ姿で足を組んでソファに座る綾袮さんの前で正座をしていた。……当たり前である。
「じゃあ、さっきのご馳走様発言は?」
「……それは、その…」
「よーし、天之尾羽張の素振りしよっかなー」
「咄嗟に口走っただけです!思考がまとまらず適当な言葉が出てきただけです!はい!」
笑顔で言う綾袮さんにビビった俺は即白状。なんか物凄く情けないけど…もうこうなっちゃうと仕方ないっす。非は俺にあるし、ご馳走様とかどう考えても変態野郎の発言なんだから俺に出来る事と言えば素直に言う事しかないんです。
「口走ったって……はぁ、わたしはあの時顕人君をマジの変態かと思ったよ…」
「そう思うのは当然の事かと…」
「おかげでわたしは反射的に飛び膝蹴りしちゃったし……大丈夫?結構本気で蹴っちゃったけど…」
「蹴られた箇所と吹っ飛んでぶつけた箇所は痛いけど…取り敢えずは大丈夫」
「なら良かった。じゃ、それはそれとして……さぁて、それじゃあ顕人君にはこの落とし前をどうつけてもらおうかなぁ?」
「うっ……」
脚を組み直した綾袮さんの表情は、悪戯っぽさとマジさを混じらせた様なものだった。……そういう表情だとほんとにどんな事言われるか分からないから…超怖い。
……が、そこで綾袮さんは優しさを見せてくれた。
「…けど、正直わたしはちょっと自分にも非があるかなぁ…とも思うんだよね」
「へ……?」
「ほら、顕人君最初ノックしたでしょ?実はその時わたし出ようとしてたんだ。それでノックに気付いて出るの止めたんだけど…気付いたなら反応してもよかったし、顕人君がバスタオル持ってきてくれなかったらわたしが困ってたのも事実だもん。それに…ものの数秒で状況が変わるなんて、流石に予想出来ないと思うしさ」
「じゃ、じゃあ…」
「うん。だからここは一つお互い様って事にしない?わたしとしては、さっき見たものを忘れてくれればそれでいいからさ」
組んでいた脚を解き、綾袮さんはにこりと笑みを浮かべてくれた。その表情に救われた様な感覚を俺は抱き、無意識に胸を撫で下ろす。そうだ、思い出せは綾袮さんは優しく相手を思いやれる人だったじゃないか。そんな人にどんな事言われるか分からない、なんて思うのは無礼千万。優しい綾袮さんにまた失礼をしたりする事のないよう、俺は綾袮さんを見ながら心の中で自分に言い聞かせるのだった。
……って、
…………。
…………。
「…………多分、無理…」
「え?無理って?」
「や、その…綾袮さんの裸を忘れるのは、ちょっと思春期男子の脳的には……無理です」
「……マジ?」
「マジ」
「…………」
「…………」
「……人間って確か、頭叩くと結構な数の脳細胞が死ぬって言うよね……よし」
「よしって何!?叩く気!?叩いて忘れさせる気!?しょ、正気!?」
「正気だよ!正気だからこそだよ!だってわたし見られただけでも相当恥ずかしいのに、今後もその人と一緒に過ごすって事になるんだよ!?わたし恥ずかしさで死んじゃうよ!?」
「いやそれ位じゃ人間は死なな…うおっ!?ほ、ほんとに殴りかかってきた!?嘘だろ!?」
「お願い顕人君!たんこぶ出来たら手当てしてあげるから!痛いの痛いの飛んでけしてあげるから!だから殴らせて!記憶が、飛ぶまでッ!」
「そんな『抱きしめて!銀河の、果てまでっ!』みたいなイントネーションで言われたって殴らせるか!後流石の俺もそれじゃ殴られてもいいかなとは思えねぇぇぇぇぇぇ!」
という訳で、高校生にもなって家の中で追いかけっこをする事になった俺と綾袮さんでした。お終いお終い。
……いやほんと、パプニングには気を付けようね…。