Beautiful Charmingへ自由に惹かれて 作:まなぶおじさん
朝の訪れを肌で感じ取ったあと、絨毯の上で、俺はてきぱきと目を覚ました。記憶が正しければ、ベッドにはアズミさんが眠っているはずだ。
カーテンが閉じられているせいか、自室は青く薄暗い。いつもなら真っ先に朝日を出迎えるところだが、まずはアズミさんの無事を確かめなければ。
そっとベッドへ近づいて、おそるおそるアズミさんを覗う。
――寝息を立てながら、穏やかにアズミさんは眠っていた。
アズミさんの無事を確認すると同時に、肩や背から痛みが生じる。慣れない場所で眠ったのだから、当然という他ない。
けれど、これはこれで良い経験をした気がする。アズミさんとの、一晩だけの関係を遂行出来たことだし。
――さて。
音を立てながら、自室のカーテンを開ける。途端に真っ白い日光が浴びせられ、目と意識が眩みそうになった。セロトニンが充填されていくのを実感する。スズメの鳴き声を聞いて、俺の口元が少しだけ釣り上がる。
今日もいい天気だなあ。そう思いながら、俺は「朝だぞー」と鳥かごのカバーを外してやる。早速とばかりにセキセイインコことソラが「オハヨー!」と挨拶をしてくれた。年がら年中話し相手になってくれる、とても頼れる相棒だ。
よし。
後は顔を洗って、歯磨きをして、冷蔵庫の中にある冷凍食品を食えば、ひと段落がつく。しかも今日は日曜日というわけで、テンションも気分も心地よく安定しているのだった。
しかし、俺も人並みに「敏感」だったらしい。
何となく、何となくなのだが、背中から「変化」を感じた。
数回ほど瞬きして、「ん?」と声まで出て、覚悟を決めるようにひと呼吸して、恐る恐る首だけを振り向かせて、
ベッドで眠っていたはずの、アズミさんと目が合った。
異性とお見合いになって、俺は目が離せなかった。
インコのソラが、今日も元気よくオハヨーと挨拶をした。
間。アズミさんが、すうっと息をのむ。はいた。
「きゃ――――――ッ!!!」
「わ―――――――ッ!!!」
「ギャ――――――ッ!!!」
爽やかな朝っぱらから、三つのキンキラ声が炸裂した。
↓
先日まで時間を遡る。バードウォッチング(サークル活動)を終えた土曜の夜、冷蔵庫の中身を見て「飲み物が無いやんけ」とコンビニへ駆け付けたあの日。
かれこれ二十一年間ほど生きてきたが、夜ほど人と出会う世界はそうないと思う。こうして買い物に出向いただけで、ジョギング中の兄ちゃんとすれ違ったし、巡回中のパトカーが俺を追い越したりもした。
途中で小さな公園の前を通り抜けたが、そこのベンチで偶然にもカップルを発見する。街灯に照らされているものだから、キスまでよく見えてしまって――俺は大人らしく、「幸せになってね」と心の中で祈っておく。赤の他人だからこそ、こんな風に思えるのだろう。
心情的大冒険を果たした後、俺は無事にコンビニへ辿り着いた。アパートから少し離れていて、不便だなあと毎回思いつつ。
早速ながらペットボトルサイズのオレンジジュースを手に取り、ついでに小腹を満たす為の食い物を少々。ついでに雑誌コーナーへ寄ろうとしたが、カウンターのあんまんに釣られたので後日改めることにする。
ありがとうございましたー。
袋片手に、暗がりの中で明るく鼻歌を唄う。今日は休日で、今は夜道を歩んでいて、今現在の星空がとても綺麗で、先ほどは幸せを祈ることができて、俺は結構ハイになっていた。
いいことをした後の一杯は、美味いだろうな――そんなことを考えながら、ふたたび公園前に差し掛かる。あのカップルはいるのかねえと、俺はベンチを注視して、
女性が、ベンチの上で仰向けに横たわっていた。
どうしよう。先ず、俺はそう思った。
寝ているだけなのか、それとも「倒れて」いるのか。この距離からでは、様子がまるで覗えない。
ペットボトルの重さなんて忘れながら、俺はベンチに、横たわる女性に、おそるおそる接近した。右腕がだらんとぶら下がっていて、「大丈夫かな」と小さく独り言。
女性の姿かたちが、はっきりと見えてくる。着ている服装はタン色のカーディガンに白いトップス、コバルトブルーのジーパンに、黒いアンクルストラップ。けっこう、決まってると思う。
更に歩み寄れば、当然ながら女性の顔が視界に入る。まずは赤みがかった顔が、酒の匂いが、
ああ、寝そべっているのはそういうことか。
ほっと、納得した。
けれど俺は、どうしても女性から目が離せなかった。
だって、流れるようなミディアムヘアに目を引かれたから。実に健康的な胸元を目にして、息が止まったから。肌色に溶けたような唇が、己が眼を掴んで離さなかったから。山なりのようにうねる両足に、注目してしまうから。
だから、今更ながらビビってしまっていた。こんな人に声をかけてもいいのかと、俺なんぞが関わっていいのかと、一秒二秒三秒四秒五秒ほど考えて、
「す、すみません」
意を決してみた。たぶん、眼前の女性にしか聞こえなかったと思う。
意識は――目覚めてくれたらしい。女性が「んー」と目を開けて、次の瞬間、
「あれー、あなただれですかー」
ずいぶん酔っているのだろう。女性の目は、力なく半開きのままだった。
――あなたはだれですか、俺の胸がどきりとする。このままでは不審者まっしぐらだ、身の潔白を証明するしかない。
「あ、えと……ただの大学生」
「へー、大学生なんですかぁ……わたしとおんなじですねぇ」
まだ酔っているらしく、声色が若干怪しい。顔は相変わらず真っ赤で、未だ寝そべったままだ。
「結構、飲みました?」
「あーうん、飲んだぁ」
「……大丈夫すか? 歩けます?」
「んー」
女性の両目が、すっと閉じられていく。
「ここで一晩過ごそうかなぁ」
「駄目です、帰りましょう」
己が手を、ハンカチでこすりつける。後はそのまま、己が手を女性めがけ伸ばした。
「えー、いいのぉ?」
「いいんです。女性一人で、ほっとけるわけないでしょ」
「うわあー……うれしいなあー」
「え」
嬉しい、と言われて声が詰まる。目の前の女性は、柔らかく嬉しそうににへらと笑ってみせて、
「わたしのこと、女性って思ってくれてるんだぁー」
「あ、当たり前でしょ。どう見ても、女性ですしっ」
「いやー、私ってば女性扱いされたことがあんまりなくてねぇー」
そうなの? 俺は、首をかしげる。女性は「ないんだよー」と酔いどれ声で返事をした。
「出会いがなくってさぁ」
女性が、差し伸べた手を掴み取った。ベンチから立ち上がるまで、体重がかかった気がするが――軽かった。
「男とまるきり縁がなかったんですよぉー」
「そうなの?」
「そーなの。戦車道を歩んでも、女性にしかモテないのー」
戦車道。その単語を耳にして、にわか以下の見識が頭の中にあふれ出てくる。
戦車道とは、戦車という「武器」を用いた、女性のための武芸であったはずだ。扱うものが巨大であるせいか、試合内容はけっこう派手という印象がある。
――知っていることは、それぐらいだ。試合そのものも、最初から最後まで見届けたことはない。テレビのチャンネルを切り替えている最中に、何となく目にした程度。
戦車道に関する知識は、皆無といってもいい。ただ、目の前の女性に対しての評価は、正しく口に出来る。これでも大学生だからだ。
「俺は……戦車道はあんま知らないけど、君はモテそうな気がする」
「なんでぇー?」
「いや、その、けっこう、美人さんだし」
よく言えた、と思う。
よく言えたぜ、と思う。
悪くない言葉だったのだろう、女性も「ほんとにぃ?」と笑顔になってくれて、
「ありがとー、うれしー」
「いやいや」
「……はー……なのにどうして、みんな私から離れていくのぉ」
「え」
女性が、よろりと体勢を崩しかける。間髪入れずに俺の体が動いて、腕で女性を支えてみせた。
「異性」の感触が、体全体へ容赦なく伝わってくる。「女性」の香りを、生まれて初めて知った。
「と、とりあえず、帰りながら話しましょう?」
「うーん、わかったぁ」
「……帰れそうですか? 大丈夫?」
「うーん、わかんなぁいです」
困ったなと、思う。かといって、放っておけるはずもない。
見る。
夜中に、こんな酔いどれお姉さんが一人で歩いていようものなら――断言する、ヤバい。男だからこそ、何とかしなくてはという使命感が燻り出す。
「あ、もしかして迷惑だったかなぁ? ごめんなさぁい、こっからは一人で、」
「待った」
心の中で、こう踏ん切りをつける。
この人とは、関わり合った。もう、赤の他人なんかじゃない。
「えっと、俺が家まで着いていきますから」
「え、ありがとぉ! ……一応、近くなんだけれど……」
「どこらへん?」
「西区アパートぉ」
その地名を聞いた瞬間、俺の頭の中がぴこーんと光った。表情まで明るくなった。
「そこ、俺が住んでいる場所ですよ! いやーよかったよかった、ほっとした」
「ほんとぉ? 良かったぁ」
「ええ。……で、一応聞くんですが」
「はぁい?」
今もなお、女性はほろ酔い状態だ。こうして抵抗なく俺に抱えられているのも、酒の勢いあってのものなのだろう。素面だったら、とっくの昔に離れ離れだ。
すこし悪い言い方になってしまうが、この人の思考力は、若干ながら柔軟化しているはずだ。
だから、ほんの少しだけ嫌な予感を胸に秘めながら、赤い顔をした女性の目を見ながら、
「――ドアの暗証番号は、ちゃんと覚えていますか?」
西区アパートの住民ならではの質問を、投げかけてみる。俺も慣れない頃は、番号をど忘れして管理人に泣きついたことがあった。
女性が、「あー」と右に首を傾ける。「んー」と、左に首を曲げる。それを二度三度ほど繰り返し、思い出したとばかりに「あ!」と喜色満面。
「8492!」
「あ、ここで言っちゃ、」
「……3333だったかな、7777?」
――果てしない、夢と希望に満ち溢れた星空へ目を向ける。
なんてことだ。
自分が住まう西区アパートのドアは、典型的な4ケタオートロックとメタルで構成されている。だから打撃だの何だのは無駄に終わるだろうし、深夜十一時となると管理人も眠っているはずだ。どうしたものかと思考したが、真っ先に「最終手段」を閃いてしまう。
女性の顔を見る。程よく酔っているのか、楽しそうに微笑んでいる。
女性の意識は、今現在もあやふやだ。ここで「何とかして思い出して」と言っても、正解だか不正解だかな暗証番号しか口に出来ないだろう。
俺がうんうんと唸っていると、「どうしたんですかぁ」と、心配そうに声をかけられた。街灯に照らされた女性の顔を見て、間違いなく異性と意識してしまう。
ひと息つく。
覚悟を決める。
俺は男だ。
俺は男なんだぞ。
だから、
「あの」
「はぁい?」
「――今夜は、俺の部屋で過ごしてください。その方が、絶対安全です」
勢いまかせに、最終手段を口にした。
女性が「お」と目をぱちくりさせた。
「いいんですかぁ? 迷惑ですよぉ」
「いいんです。あなたをほっとくわけにはいかない」
「わあ、イケメンですねぇ」
「ないない」
内心、心が躍ったのは秘密だ。
「むしろ、その……男の部屋に連れこんでしまうから、俺の方が迷惑じゃないかなと」
「いやいや! 気にしないでくださぁい! 正直、すっごく安心してますからぁ」
女性の足取りは、未だおぼつかないままだ。めちゃくちゃ飲んだらしいのか、発音も怪しい。
異性との密着に、心臓だの血液だの脳ミソだのがどきどきする。ええいと首を振り払い、「男が女性を守る」という真っ当な義務感にどっぷりと浸かることにする。
「責任をもって、一晩だけ、一晩だけあなたを保護しますから。ベッドにはあなたが寝てください、俺は床で寝ます」
「いえいえそんな、私は床でもぉ」
「駄目です。……いいですね?」
「はい」
しおらしく、うつむいて小さく応える。
かわいい。
「さ、とりあえず帰りましょう。愚痴なら、聞きますから」
女性が倒れないように、右腕で女性の肩を軽く抱く。平然としているつもりだったが、やっぱりどうしても体が強張ってしまう。
バードウォッチングサークルにも、紅一点はいるはずなのに。そいつとも、それなりに仲は良いはずなのに。だのにどうして俺は、こんなにもビビっているのだろう。
「……あのぉ」
声をかけられ、余計な思考を奥深く投げ捨てる。
「あ、はい」
女性は、深々と頭を下げて、
「ありがとうございます!」
――お礼を、言ってくれた。
それだけで、十分だった。
それからというもの、俺は本当に、マジで、女性を家にまで連れて行くことにした。
やはりというか、女性の足取りは未だに安定しない。左へ揺れたり、時には自分へ寄りかかってきたりと、正直心臓に悪かった。改めて、放っておけなくて本当に良かったと思う。
女性の顔をちらりと見る。ウェーブがかったミディアムヘアが目に入って、恍惚とした目が「んー?」と合って、どきりとして、口元を柔らかく曲げてくれて、俺は何となく一礼して、女性もこくりと頷いてくれた。
「――それで、その、どうしたんです? そんなに飲んで」
「……うん」
女性が、深々と鼻息をついて、
「みんな、私から離れていくのぉ」
「と、いうと?」
「友人が……戦車道を辞めた大学の友人がねぇ、ゴォールインしたのぉ」
「ゴールインって……もしかして?」
「そう、そのもしかしてぇ」
はあああ。女性が、萎え萎えのため息をつく。
「他の友人に至っては、なぁーんと結婚のお知らせ! お知らせですよ旦那!」
「あー、それはそれは」
未だショックを受けているのだろう。女性が、この世を嘆くように「あー」と唸り声を上げていた。
「……でね」
「うん」
「きのう、親から電話がかかってきてねぇ、元気してるぅ? とか、食べ物足りてるぅ? とか、そんなこと聞いてきたわけ」
「いい親ですね」
「ねー、いい親だよねー」
そうして、女性ががっくりと首を下ろす。希望や夢がまるで感じられない、灰色の気質が伝わってきた。
「……『いい人出来た?』って、聞いてくれるしね」
「うんうん」
俺は気安く、ぽんぽんと女性の肩を軽く叩く。女性は「うう」と悲しみの声を漏らした。
「だからさぁ、今日はちきしょー飲むぞーって誓ったワケ。いつもなら友人たちと飲み明かすんだけれど……あいにく、友人たちは用事があって、ソロで飲むことにしましたー」
「それで、余計にハメを外しちゃったのね」
「そーそーなんですぅー」
気持ちは分かる、俺は頷いた。
皆で飲み食いするメシは、確かに美味い。おそらくは気分が良いからなのだろう、何を食っても最高級の味が舌にしたたり落ちてくるのだ。
しかし、一人飯の味もなかなか捨て難いものがある。単独だからこそ味覚に集中できるし、何処に寄って何を食うのも自分次第、という気楽さもある。良くも悪くも一人きりであるから、あちらこちらへ出向いて「おかわり」をするのも全然アリだ。
――それが居酒屋ともなれば、一人きりとくれば、「今日はじゃんじゃん飲むぞ!」となるに決まっていた。
酒が飲めれば、俺もそんな風に生きてきただろう。
「あーあー……私は一生、このままなんですかねぇ」
「そうかなぁ。出会いなんて分からないから、きっといいことありますって」
「いやー、だといいねー」
「そうそう」
「……もしかしたら、この出会いをきっかけに……なんて?」
女性は、何気なく言ったに過ぎないのだろう。
けれど俺の顔は、意識が真っ赤になっていく。
「い、いやいや。俺とは一晩限りの関係ですからっ」
「えー? そうかなー、そういうものかなー」
「……たぶん」
「そういうものです」と、断言は出来なかった。
俺は鳥が好きだ、バードウォッチャーだ、インコが親友だ。かといって女性に興味がないわけではない、宝石のような女性を目にすれば鼻だって伸びる。女性が酔っていなければ、おそらくは「なにその顔」とか言われるに決まっていた。
「まあ、あれです」
「ん?」
印象に、残りたかったのだと思う。カッコつけたかった、のだと思う。
だから俺は、女性の方をちらりと見て――こっ恥ずかしさをごまかすように、西区アパートの方を見つめながら、
「あなたには、きっといい出会いがありますよ。俺の言葉を信じてくれる、とても良い人だから」
後に引きずる結果なんて、今は知ったことではなかった。誰も居ない夜道の中で、俺は言いたい事だけを口にした。
――嬉しかったのだ。「異性」から、「ありがとうございます」と受け入れられたのが。だから、この人こそ幸せになって欲しいと思えたのだ。
一瞬だけ「俺が幸せにするぜ」と思ったが、さすがに昨日今日、ガツガツしすぎ、交際という一生の責任を思い付きで決めてはいけない――そうやって、生の感情を制した。
間、
「ね、ね」
「はい?」
「あなた、名前は? わたし、アズミ」
「え!? お、俺は……白岩」
俺の名前を聞けたからだろうか。アズミという女性が、顔を赤らめながらにっこりと笑って、
「ありがとぉ、白岩君。いつか、恩返しするからねぇ」
「え!? い、いやいいですよ別にそんな」
「いいからいいからぁ。戦車道っていうのは、礼儀がいちばんっ、ですからっ」
「うーん」
パワフルに言われたものだから、反論のはの字も出てこない。受け入れるように、唸ることしか出来ない。
戦車道のことはよく知らないが、戦車道履修者「らしさ」はよく伝わってくる。格好はかなり女性的だが、言動や態度、礼に関しての姿勢がとても生真面目なのだ。
アズミさんはこの通りほろ酔いしているが、俺の言葉はよく聞いてくれるし、遠慮というものも決して忘れてはいない。更には、無茶振りともいえる俺の提案に対して、アズミさんはきっぱりとお礼を口にしてくれた。
俺だって、いっぱしの男だ。「異性」からこうも快く受け入れられては、シンプルに「っしゃあ!」と喜ぶほかない。
――そんな人物から、「恩返しをする」なんて言われたら、そりゃあ当然、
「ありがとうございます。まあ、返せる時にどうぞ」
なるべく強制力を伴わないように、あやふやな物言いをした。
また、出会えるかどうかも分からないから。何より、アズミさんには気負って欲しくはなかったから。
なのに、
「うん。絶対に返すからねぇ、白岩くんっ」
ほんとうに嬉しそうな顔をして、俺のことだけを見つめてくれるのだ。
ひと息つく、眼前の西区アパートに視線を向ける。
ただ自室へ戻っていくだけなのに、一歩一歩踏みしめるごとに緊張感が沸いてくる。アズミさんの肩をぎゅっと握って、俺は「絶対に、この人を守る」と心から誓う。
西区アパートは五階層で構成されていて、自分の部屋は三階にある。ルームナンバーは333、実に縁起が良い。
そろそろ秋が近づいてきているからだろうか、虫の音があまり聞こえなくなった。心なしか肌寒くなってきて、半袖の限界を感じ取る。すっと鼻で息をしてみれば、酒と香水の香りがよく伝わってきた。
もう一度、アズミさんの顔を見る。聡いらしいアズミさんが、すぐにでも自分の視線に気づいて、
「よろしく、お願いします」
アズミさんは確かに酔っているはずなのに。
きっぱりと、言った。
アズミさんを支えながら、俺の部屋までゆっくりと足を進めていく。この時のアズミさんは、俺に身を寄せてくれていた。
↓
――記憶の限りを尽くして、俺は先日の流れを語り終えた。一晩が経過したからこそ、よくも冷静に口を動かせたのだと思う。
俺とアズミさんは、部屋の一角で正座をし合い、見つめあっていた。こうして俺が長々と話している間でも、アズミさんはずっと「うん」とか「なるほど」とか「しまったなあ」とか、小さく反応し続けてくれていた。やっぱり、生真面目な人なんだなあと思う。
――さて、
「だからまあ、その、アズミさんはここにいるわけで」
「把握しました」
自室が、ずいぶんと狭く感じる。こんな空間の中で、俺はアズミさんと一晩を過ごしたのか。
意識したくないのに、遅れてやってきた思春期が俺のことをむんずと掴み取る。お前は、異性を部屋の中に――
頭を振り払う、アズミさんが「ん?」と反応する。互いに納得した事柄であるはずなのに、今更になって恥だの罪悪感だの事の重大さだの何だのが襲い掛かってきて、それを背負いきれそうにもなくて、
「マジですいませんでしたッ! 男の部屋に連れ出して!」
俺は、土下座した。
「いえ! こちらこそ、本当にご迷惑をおかけしましたッ!」
ちらりと目を向けてみれば、アズミさんも土下座していた。
俺はそのまま「アズミさんは何も悪くない!」と言い張って、アズミさんも土下座を維持しながら「顔を上げてください! あなたは何も悪くはありません!」と主張する。やばいどうしようこんな経験初めてだと狼狽するが、解決の糸口なんて、
「ゴメンナサイ! ゴメンナサイ!」
コミカルな声が、部屋全体に反響した。
俺が、アズミが、鳥かごに注目する。インコのソラが、頭をへこへこと下げていた。
――俺は、思わず笑ってしまった。アズミさんも、「か、かわいい」とこぼしてくれた。
「こ、この子は?」
「ソラ、俺の話し相手ですよ」
「へえ……かわいいね」
目には見えない空気が、緩和するのを実感する。サンキューソラ。
「……その、ごめ……ううん、ありがとう」
「いや。信じてくれて、俺の方からも、その、ありがとう」
「アリガトー!」
ソラのお喋りとともに、俺もアズミさんも笑ってしまう。先ほどまでの強張った空気は、日光の中に消え失せてしまったらしい。
「あ、そだ。朝飯食う? ……買い置きの野菜パックと、冷凍食品だけど」
「あ、いいの?」
「いいよいいよ。いやー、料理できない男はこれだから」
「ううん、私もこんな感じだから」
そっか。俺は、小さく頷いてみせた。
少しの間を置いて、朝飯を長方形のセンターテーブルの上に配していく。いつもの千切りキャベツに毎度のインスタント味噌汁、恒例の冷凍チャーハンが、空きっ腹を程よく刺激してくれた。
ここまでなら、本当に「いつもの」光景だ。
「おいしそう! ……本当に、いいの?」
「どうぞどうぞ」
「ありがとう。では、」
「いただきます」
「いただきます」
そして、いつもじゃない朝食が始まった。テーブル一枚を挟んで、異性との朝食がはじまる。
まずは千切りキャベツを箸で摘まみ、うんうんと味わう。程よく柔らかく、僅かに苦い食感が、早速とばかりに食欲を促してくれる。
「なんというか」
「うん?」
「ごめんね、ホント。出会いとかそういう愚痴って、一番めんどくさいっしょ」
「いやー、別にいいですよ。気にしないで」
「そお? ……あと君、大学生って言ってたよね? おいくつ?」
「21」
アズミさんが、「お」と嬉しそうに一言。
「じゃ、同い年だ。……敬語は、ここまでにしない?」
「そう? 分かった、いいよ」
正直、この提案はけっこう嬉しかった。喋りやすくなったというのもあるし、アズミさん――アズミとの距離感が縮まった気がしたから。
――それにしても。
「不思議だよねえ」
「なにが?」
「いやさ。アズミってこんなにも美人さんなのに、どうして出会いに恵まれないんだろうなーって」
アズミがチャーハンを頬張りながら、「美人さん? そお?」と悪くないように微笑む。
俺は、調子づいて「うんうん」と頷いた。
「……ホント、なんでかなぁ」
「なんでだろねえ」
「一応、月刊戦車道の広告塔をやってるんだけどなぁ」
「ほう」
すかさず、充電器から携帯を引っこ抜く。慣れた手つきで「月刊戦車道」と検索して、すぐにでも今月号の表紙が引っかかって、目の前で千切りキャベツを食べている女性が、ウインクばっちりで出迎えてくれた。
「可愛くキメてるじゃん」
「そーお?」
「何処で売ってんの、これ」
「本屋ならどこでも、コンビニにもあるよ」
「よし買う」
「やったー」
決まった。今月号は、何が何でも発掘してみせる。
携帯の電源を切って、ポケットにしまい込む。再び箸を握りしめて、チャーハンに手をかける。
「で、なしてアズミが広告塔なん?」
俺の質問に対し、アズミが「それがさー」とこっ恥ずかしそうに笑う。
「私ってばたまたま容姿が良かったらしくて、編集者から直々にスカウトされたのよ。まあ断る理由もないし、正直嬉しかったから、あっさり引き受けたんだけどね」
「あー、納得。俺が編集者だったら、間違いなくアズミを選ぶ」
アズミが「馬鹿言わないでよー」とへらへら笑う。確かに軽率さを口走ったが、冗談を漏らした覚えはないのだった。
「それで、広告塔っていうけれど、具体的には何を?」
「『戦車道履修者の魅力に迫る』とか『戦車道履修者のコーデ特集』とか。お陰様でちょっとは有名人になったらしくて、同じ履修者には少しモテてますー」
「へえ……アイドルみたい」
「いやいや、単なる広告塔よ、広告塔」
アズミが気楽そうに笑って、
「日本戦車道はさ、今年から世界大会に向けて羽ばたこうとしているのよ」
「ほう」
「だからこそ、男女問わず興味を惹かせる必要が出てきたわけ。戦車の迫力もそうだけれど、一番なのはホラ、『顔』じゃない?」
「うむ」
まったくもってその通りだと、俺は力強く頷く。
「ねー? だから、今の月刊戦車道って履修者の写真が多いのよ。実際可愛い子は多いと思うし、礼儀正しいとも思うけど」
「けど?」
アズミが、味噌汁を口にする。そうして一杯飲み終えた後、アズミが「はー」とため息をついてみせて、
「……ウケているのは、ほとんど女性なのよねぇ」
「えー? なんでだろうねえ」
「さあ……女所帯だからじゃないかなぁ。戦車道って、女性だけの世界だからさぁ」
「ふーむ。顔良し、礼儀正しいのに、出会いがないなんておかしい……」
「だよねー……あ」
名案が思い浮かんだとばかりに、アズミの目と口が丸く開かれる。俺は何となく「あ、やばそう」と察して、
「男の君に、是非とも問いたい。何故だと思う?」
やばかった。
けれど、断る理由も無かった。アズミという「異性」を前にして、建設的な意見が言いたくなってきた。
戦車道に関する知識は、ほぼゼロだ。となると、アズミからもたらされた情報のみで推測するしかない。戦車道とは女所帯であって、男が入り込める余地なんてこれっぽっちもなくて、戦車道履修者は――アズミの、期待するような目――礼儀正しくて、義理堅い。
これらの情報を総括すると、
「まあ、俺は戦車道についてはよく知らないから、適当に言っちゃうけど」
「うん」
チャーハンを一口飲み込み、
「戦車道ってさ、武芸、なんだよね? やっぱり生真面目な感じ?」
「そうねえ。礼に始まり、礼に終わるから」
アズミが、味噌汁を飲む。
「きっと、それじゃないかな」
「え?」
「女性だけの、真面目な世界と認識されているからこそ、男は『迂闊に近づかないようにしよう』と思っちゃうんじゃないかな。こー、女子大を見るような感じ?」
「そう?」
「そうそう。大多数の男ってばモテたいからさ、『女性に嫌われそうなこと』はしない。カッコつけだから、悪評とかには敏感だしさ」
「なるほど」
ソラが、エサである豆をガツガツ食っている。よく話し相手になってくれる為、いつだって飯の種は奮発しているつもりだ。
「あと、戦車道って武芸なんだよね。となると、履修者ってけっこう逞しい感じ?」
「そうね。試合となると、轟音とか衝撃に堪えなくちゃいけないから。だから、必然的に気が強くなっちゃうかな」
「となると、男どもは戦車道履修者と見比べちゃうか」
アズミが、きょとんとした顔で「比べる?」と聞いてくる。俺は、チャーハンを完食しつつ、
「男ってのは面倒くさい生き物でさ、良くも悪くも『強さ』を見ちゃうのよ。身体的能力、地位、金、容姿……まあ、そういうの」
「うーん。そう、比べっこなんかしなくても良いんじゃないかなぁ」
「いやー、そうもいかないんですわ。男ってのは、メンドイ生き物だから」
鳥かごから、じゃらじゃらと豆が弄ばれる音がする。
「戦車道履修者は、強くて真面目で可憐らしいじゃない」
正確に言えば「らしい」ではない、「だ」だ。その証拠は、俺の目の前にいる。
「だからこそ、それに比べて自分は……とか考えちゃうんじゃないかなぁ。俺も、そんな風に考えてるフシがあるし」
「ふむ……なるほど、そういうものなのね」
「うんそうそう。男ってば『俺がこの人を護るぜ!』みたいな願望があるからさ、だから強くて可愛い女性を見ると『かなわないな』とか思っちゃうのよ。それにプラスして、女性だけの戦車道っていうのもハードルを高くしている……かも?」
「へえ……なんだろう、くすぐったいな」
アズミが、苦笑しながらもチャーハンを食べ終える。窓の向こう側から、スズメの鳴き声が伝わってきた。
「あー、あと、アズミ個人の問題もある、かも。問題というか、利点?」
「え? わたし?」
どうしよう、これ言っちゃっていいんだろうか。気まずそうに、恥ずかしそうに、俺はううんと唸り始める。
対してアズミは、「何なに? 教えて欲しいな」と目をきらきらさせてくる。一度口にしてしまった手前、喋るしかない。
「あのね」
「うん」
「アズミはさ、月刊戦車道の広告塔を務めているんだよね?」
「うん、まあ」
「理由は?」
「成績が割かし良いのと、あとはやっぱり……まあ、容姿、でしょうね。うまく着飾れば、みんなキレイになれるとは思うけど」
やっぱりかと、男の俺は思った。戦車道という先入観がなければ、アズミは間違いなく「遠目から」モテる逸材であろうから。
――そんな人を前にしているからこそ、しょげているアズミを何とかしたくなった。俺だって男なのだ。
ちらりと、ソラの方を見る。ソラは、餌を食うのに必死で目も合わせてくれない。
覚悟を決めるように、小さく鼻息をついた。
「アズミはさ」
「うん?」
アズミの顔を見る。うむ。
アズミの体つきを覗う。パーフェクト。
アズミのこれまでを回想する。イイ性格。
それ故に、
「格好良すぎるから、男が近づけないんだと思う」
間。
「へ、へええ!?」
「うわあびっくりした。……でもまあ、嘘は言ってないよ」
「そ、そうなの?」
「そうなの。――アズミはさ、麗しい女性たちの中から、広告塔として選ばれたんだよね? それってつまり、誰よりも綺麗で逞しいっていう解釈が通ると思う」
「そ、そんなことないと思いますけどっ。この前は、高校生に負けちゃったし」
高校生と、試合をすることもあるのか。それで勝ち負けがバラつくあたり、戦車道とは奥が深いんだなと思う。
「一度の負けなんて誰にでもあるよ。敗北したところで、アズミの魅力が損なわれることはない」
「隊長の方が魅力的で強いんですけどっ」
俺はあえて、「いやいや」と反論した。
なぜだろう。
「もうね、アイドルなんだよね、アズミは。顔は整ってるし、ファッションセンスもグンパツだし、性格も礼儀正しい。しかも、戦車道という武芸の中でイカした成績持ち。これじゃあ、そんじょそこらの男どもなんて近づけるはずがないよ。俺なんかじゃ敵わないって、『自覚して』逃げ帰っちゃう」
よくも言えたものだと思う。我ながらクサメタル丸出しの主張だったが、本心本音なんて大体こんなものだと自らフォローしておく。
肝心のアズミだが、酔ったように顔が真っ赤っかだ。「えと」とか「あの」とか「そうなんだ」とか、そういう風にしか呟けていない。
――だから、
「あ、水飲みます?」
「あ、これはどうも」
一旦立ち上がり、二人分のコップを用意する。キッチンから水を引き出して数秒後に、さっとコップを前に出す。
中身が満たされたのを確認して、「はい」とテーブルの上にコップを置いた。
「ありがとう。……うまい」
「うまいね」
「ウマイ!」
ソラも同意してくれたらしい。
「あ、アイドル……は言い過ぎかもしれないけど。でも、服を褒めてくれたことは嬉しいな」
「そうかい? よかった」
アズミが「うん」と小さく頷いて、
「この服はね、Beautiful Charmingっていうアパレルメーカーが作ったものなの」
「あ、知ってる知ってる」
Beautiful Charming社、通称「BC社」は、今も昔もときめいているアパレルメーカーだ。老若男女問わず、「格好良さ」を追求したファッションを開発しているということで、非常に安定した人気を誇っている。少しテレビをつければCMが、少し街を歩けば広告が覗える程に。
俺もBCの服は格好良いと思っているし、着てみたいという願望もある。だのに行動に移せないのは――ずばり、値段だ。高いんだ。
「そのBC社って、BC自由学園のOG達が設立した会社なの。あそこってば、もともと服装関係には力を入れているから」
「ほう……」
俺は見逃さない。アズミがとても明るく、熱っぽく語っているのを。
――もしかしてこの人、
「で、私もそこの卒業生でね。だからこそ、BC社を贔屓しているっていうか」
「あー、わかるわかる。母校って忘れらないよね、思い出がぎっしり詰まっちゃうから」
だろうな、と思った。アズミのファッションセンスは、そのBC自由学園で培われていったものなのかもしれない。
アズミが、愛着たっぷりの目で、己が服の袖を眺め始める。本当に真面目なんだなと、ぼんやりと思っていると、
「だから、その。服のことを褒めてくれて……ありがと」
アズミが恥ずかしそうに、けれどもにっこりと笑ってくれた。俺を見てくれながら。
つばを飲み込む、心臓が死にそうになる。
言え、気の利いたことを言え。
「お礼なんてそんな。アズミと会えて、俺の方が礼を言いたいのに」
「へっ!?」
気をぶち込み過ぎた。
言ってしまった後悔を抱えながら、水を飲んで脳味噌を冷却させてやる。
「ああいや何でもない! ……と、とにかく、アズミはさ、その、あらゆる意味でパーフェクトだからさ。良い意味で、男が寄り付けないだけなんだと思う。劣ってる、なんてことは決してない」
ようやく、ましなことを言えた。
けれどもアズミは、控えめに「そうなんだ」と言って、音も立てずに水をちびちび飲み干していく。その上目遣いは、俺からけして外れようとはしない。
ワンルームマンションという密室に対して、俺は危うく意識してしまう。この嬉し恥ずかしい空気に対して、俺は大真面目に受け止めてしまう。二人きりの世界と直面して、俺が蒸発しそうになる。
――思う。
アズミ以外の女性と二人きりになった時、同じようにああだこうだと感情的になるのだろうか。アズミ以外の笑顔を見て、欲張りな独占欲が沸いてくるのかも分からない。俺はひょっとしたら、いつの間にか、
「アズミ!」
甲高い声に、俺の意識がはたき起こされる。アズミもひどく驚いたのか、「ひゃい!?」と体をびくりとさせた。
互いに目と目が合って、まばたきを数回繰り返して数秒後、俺とアズミは鳥かごに注目した。餌を食い終えたらしいソラが、俺達をのんびりと見下ろしている。
「キレイ! カッコイイ! パーフェクト! ケッシテナイ!」
アズミが「え」と戸惑うが、俺はすぐにでも解読出来た。五年も付き合っていると、オウム返しだろうが自動的に解釈されるものだ。
俺はまず、「えっとね」と前置きして、
「あいつもね、『アズミは綺麗で格好良いから、パーフェクトだから、劣ってなんてない』って主張してる」
「そ、そうなの?」
「うん。オウム返しではあるけれど、悪口とかは言わないからね。ソラも、アズミのことをそういう風に見ているみたいだ」
俺の説明を聞いて、さぞ物珍しそうに「へー」とアズミが漏らす。一方ソラは、羽をばたばたと動かしながら「アズミハアイドル! アイドル!」とやかましく主張していた。
――それを見て、アズミがぷっと吹き出した。かくいう俺も、「すげーなあお前」とソラに苦笑い。慣れない空気が、払拭されていくのを感じた。
「……そっか」
アズミが、安心するように笑う。
「プラスに考えてみて、いいのかな」
「うん。戦車道履修者は、アズミは何も悪くはない。履修者たちも、普通に出会いを求めているって認知させられれば、男どもは決してほっとかないと思う」
「へえ……それって、あなたも?」
「俺も。真面目な女性っていうだけで、ガンガン惹かれるね」
「そっかー。じゃあ、あなたの交際相手は絶対に履修者ね。懸け橋決まりっ」
「うわーやべー、責任重大じゃん。逃げてー」
「大丈夫大丈夫。アイドルでグンパツな私と、こーんなにもべらべら会話できたんだから」
アズミが、気軽そうに微笑する。俺も、たははと力なく笑ってみせる。
アズミの緊張感が解けたのか、味噌汁を飲み終えて「ふう」のひと息。
「うん、白岩の主張をアテにしてみる」
「サンキュ」
「今度インタビューされた時は、うまいこと言ってみるわね」
「分かった。俺の主張云々はフリー素材だから、いくらでもパクっていいよ」
「えー、それはどうかなー」
アズミが上機嫌そうな顔をしながら、千切りキャベツを頬張る。
「白岩」
「ん?」
俺も、千切りキャベツを口に入れる。機嫌が良いからだろう、苦味がずいぶんと美味く感じられた。
「何から何までありがとね。また貸しが増えちゃったかなー」
「いやいやいいからそういうの」
「そお? でも、朝食まで出してもらったしなー」
恩義に関しては、アズミは決して退こうとはしない。恐らくは、戦車道の影響もあるのだろう。
アズミが箸を動かそうとして、皿の上が空なことに気づく。後はそのまま食器の上に箸を置いて、アズミが両手合わせで「ごちそうさま」と告げた。
間もなく「食器、洗うね?」とアズミが提案して、俺が「いや、任せて」と言う。すかさずアズミが「世話になったし」と異議を唱えるが、俺は間髪入れずに完食してごちそうさまして「いいからいいから」と食器をかっさった。対してアズミは、「もー」と苦笑してくれる。
キッチンへ二人分の食器を持ち出して、早速とばかりに水に浸す。食べたばかりであるから、洗剤で容易に洗浄出来るだろう。
――貸しか、どうしようかな。
ちらりと、アズミの方を見る。アズミはきょろきょろと男の部屋を見渡していて、ふと「ふーむ」と聞こえてきた。視線の先には学習机が、その壁には、
「さっきから気になってたんだけれど、」アズミはゆっくりと立ち上がって、壁を見て、「これ、鳥の写真?」
「うん、そう」
壁にはコルクボードが張り付けられていて、画鋲で「戦果」の写真が何枚も刺し込まれている。なるだけ色が被らないように配置したつもりだが、女性のアズミには大ウケしたらしく、「きれー」と感想をいただいた。
俺の感性に、グッジョブと言わざるを得ない。
「鳥、好きなのね。本棚にも、鳥に関する書籍が沢山あるし」
「まあね。鳥好きが興じて、いつの間にかバードウォッチャーにも目覚めた。週末になったら、サークルのメンバーとよく鳥を見に行ってるよ」
「そうなんだ。いい趣味ー……」
興味津々に写真を眺めながら、アズミが「この青い鳥、綺麗ね」と言う。皿を洗いながら、俺は「オオルリだね、初めて見た時は感動した」と一言。アズミは「ほー……この赤い鳥は?」と聞いてきて、出が悪くなった洗剤に悪戦苦闘しながら「アカショウビン、かっこいいよね」と一言。アズミが「確かにかっこいい」と同意してくれた。
「あ、この黄色い鳥、すごく綺麗! 名前は?」
どうも好みのツボにハマったらしい。俺は嬉々として、「コウライウグイス、撮るのにちと苦労した」。
それを聞けてたいへん満足したのか、アズミが「へー、ウグイスなんだ。可愛いなあ」と、とろけるような声でコウライウグイスを拝見している。俺は心の中で、「あんたの方が可愛いよ」ときっぱり評価した。
――それにしても、
「気に入った?」
「うん。わたし、黄色が好きなんだ。高級感があって、縁起も良くて」
「おー、わかるわかる。黄色っていいよね、見てるだけで元気が出てくるカラーだし」
そこでアズミが、さぞ嬉しそうに口元を曲げる。
「そっかそか、白岩も黄色好きか。――ちなみに、戦車のパーソナルマークも黄色」
「こだわってますなーアズミさん。かくいうソラも、目の健康の為に黄色いインコをチョイスしたんだ」
「ほほー、賢いですなー白岩さん」
「いえいえ」
アズミが、歯を見せてにっかり笑う。
――やっぱりこの人、可愛い。
共通点を見い出せたことに、ばかみたいに喜びの感情が沸いてきた。
「いい写真を見させていただきました」
「こちらこそ」
皿を水で洗い流しながら、俺はこくりと頭を下げる。アズミも「うん」と小さく頷いた後で、ふと腕時計を見て、
「もう、こんな時間か。そろそろ帰ろうかな、長居してもあれだし」
その、当たり前の一言を聞いて、俺の体温がさっと冷たくなった。
「昨日、そして今日も、本当にお世話になりました。――貸しは、必ずお返しします」
貸し。
その言葉を聞いて、手前勝手な名案が思い付く。自分勝手な願望を閃いてしまう。
けれど、でも、「貸しを返して、ぜんぶ元通り」なんて心底嫌だった。これからもここからも、アズミと関わっていきたかった。
どうして、そんな風に思うのだろう。
未知の高まりに導かれながら、俺は、
「――あの」
「うん?」
貸しを利用するつもりなんて、まるでなかったけれど、
「その、お願いがあるんだけれど」
「お、何なに? 言って言って」
恩義を返せることが嬉しいのだろう。アズミが、明るく元気よく俺の事を見つめてくる。ミディアムヘアが、小さく揺れた。
そんな顔で見つめられて、もうわやだった。
「……あのさ、」
何でもないことを言うつもりなのに、俺の血液がよく熱くなっていく。意識全体が、緊張感に飲み込まれていく。
アズミの顔を見て、「えと」と情けなく呟く。何故こうなってしまったのか、どんな風にアズミを見ているのか、どうしてアズミと別れたくないのか――
ふと、ソラと目が合う。ソラはお喋りもせずに、俺のことをただただじいっと見つめているだけだった。
この先は、俺次第ということか。
改めてもう一度、アズミの顔を見る。ウェーブがかったミディアムヘアが、いつだって俺の心を掴んで離さない。程よく垂れた瞳に射抜かれて、嬉しいような緊張するような感覚。気取らない喋り方が、かえって記憶から忘れられない。天性の体つきが、俺の脳を刺激する。その上で、根は真面目で礼儀正しいというギャップつき。
ああくそ、最高だ。
こんなの、ホの字を覚えてしまうに決まっているじゃないか。
――認めよう、俺の感情を。ソラも言っていたじゃないか、パーフェクトだって。
オウムのソラは、俺の言葉しか喋らない。
ぐっと拳まで作って、世間体をあえて考えないまま、
「俺とさ、その、これからも話し相手に……友達に、なってくれないかな?」
ようやく言えた。
アズミが、「え?」と硬直する。しばらくして、「その、いいの?」と聞いてくる。
戸惑うアズミに対して、俺は「嫌でなかったら」と応えながら、
「アズミとこうして話が出来て、俺はすっごく楽しかった。……まあ本音を言っちゃうと、こんなべっぴんさんと別れたくないなーっていうのが」
「うわー、男の子だねー」
あえて、本音をぽろっと口にする。気楽な人間関係を築きたい時は、多少なりとも本心を口にした方が「あ、こいつそういう奴か」と接しやすくなるのだ。
それに、アズミとは一晩「も」過ごした仲だ、嘘くさくは聞こえなかっただろう。そこはアズミも分かっているようで、目を半分閉じながらで悪く微笑んでくれた。
「うん、いいよいいよ。ぜひ、お友達になりましょう」
「っしゃあ」
「ふふ。……男友達を持ったのは、これが初めてだから。何か失礼があったら言ってね?」
「いやいや、俺の方こそ。――俺が初めての男友達か、やったぜ」
「やったね。……この際だから言っちゃうけど、君のことはけっこー高く評価してるんだよ」
そうして、アズミが手を差し伸べてくれた。
俺はまず、手洗いをしっかりして、布巾で手を拭って、アズミから「大袈裟ー」と笑われ、
「あなたは、私に対して『何もしなかった』。床にまで眠って、なんて真面目なんだろうって、思ってたんだよ」
「そう、なんだ」
うん。アズミが、優しく微笑みながら、
「……私を助けてくれて、とっても嬉しかったんだから」
アズミが、目と口をにこりと曲げる。
俺は、笑うことしか出来なかった。内心はめちゃくちゃなくせに。
「これからもよろしく、アズミ」
「よろしくね、白岩」
俺は堂々と、その手を握り返すことが出来た。
「ヨロシク! アズミ!」
「うん。ソラも、よろしくね」
アズミが、鳥かごの隙間めがけて人差し指を入れる。
その行為に対して、ソラはクチバシで軽く突っついてみせた。
↓
無事平穏に仲良くなった後は、サイドテーブルを挟んで互いに腰を下ろし、ちょっとした雑談に興じることが出来た。
まずはソラの名前について問われ、「鳥らしい、愛着が沸くような名前をつけようと思って」
次に、通っている大学について語りあって、「同じ大学だったの! へー、なんか嬉しいな」
お次に、バードウォッチングの魅力を聞かれ「凄く癒されるよ。沢山の鳥と、出会えるから」
更には、アズミは戦車道についてどう思う?「止められないわ。だって、格好良いんだもの」
――そういう風にして語り合っていれば、いつの間にやら午前十時だ。先ほどまでは八時だったはずなのに、楽しい時というのは経つのが早い。
「――じゃあ、そろそろ帰るね」
「暗証番号は覚えてる? 忘れたら管理人に聞き出すけど」
「だいじょうぶだいじょうぶ、覚えてる覚えてる」
眉をハの字に曲げ、アズミがてへへと笑う。俺は二重の意味で、よかったよかったと思考した。
アズミが手提げ鞄を持って、「うし」と気分を一新させる。後はそのまま玄関まで歩んでいって、鉄製のドアを開けて、
「それじゃ、またね」
「また」
俺は手をひらひらと振るって、アズミをそのまま見送っていく。後はそのままドアが閉まっていって、金属音とともに休日の一区切りがついた。
ため息をつく。
夢のようだった、と思う。
胸を抑えてみて、夢じゃなかったと改める。
深呼吸する、大きく息をはく。
沈黙したまま、俺はそのまま振り返る。広々とした自室の中を、ずかずかと歩む。目指すは、
「なあ、ソラ。聞いてくれよ」
「キクー!」
いつもの挨拶を交わして、
「あのさ、」
いつもじゃない話題を、切り出そうとする。
もう一度、自分の胸に手を当てる。間違いなく、心臓がはち切れそうに動き回っていた。
嬉しくて興奮したことは、これまでに数回もある。恐怖と不安を抱いたことも、幾度もある。不安混じりの興奮を覚えたことも、年に数回は。
――とてつもなく不安だけれど、めちゃくちゃ興奮して、こんなにも手放したくない気持ちが芽生えたのなんて、はじめてだった。
鳥かごの前で、俺は深呼吸する。冷静になろうとしても、思い浮かぶはアズミの顔ばっかり。
俺ももう、二十一歳か。
「俺さ、」
アズミ、失礼だけれど思わせてくれ。
君に出会いというものがなくて、俺はほっとしているんだ。
だって、俺は、
「俺さ――」
ソラに全てを話した後、俺は、買い物へ出かけることにした。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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