何故か筆が進まず難産でした……(汗)
今回は三回ほど視点や場所が変わるので、読み難かったら申し訳ありません……。
王国王都を突如襲った“御方”及びヤルダバオト率いる悪魔の軍勢。国が滅びかねない超弩級の危機の中、多くの者たちの奮闘と、何よりアダマンタイト級冒険者“漆黒”のモモンと帝国のワーカーであるレオナール・グラン・ネーグルが“御方”とヤルダバオトを追い払ったことにより、王国王都は未曽有の危機を脱することに成功した。
しかし、国の危機は防げたものの、被った被害は莫大である。悪魔が襲撃した区画が倉庫区であったこともあり、王国王都が所有する財の大部分は悪魔たちによって根こそぎ奪われてしまっていた。
また、人的被害も非常に大きい。その多くは実際に悪魔たちと戦った冒険者や衛士、王城守護の騎士や兵士が殆どではあったが、死傷者の数は優に三桁を超えていた。不思議なことに倉庫区に初めからいた市民の被害は驚くほど少なかったが、それでも決して皆無ではない。
悪魔に追われた際、逃げようとして怪我を負った者。悪魔から逃げようとして将棋倒しになって圧死した者。転んだ際に多くの人々に踏まれ、蹴られ、そのまま命を落とした者。
どれもが直接悪魔を原因とした被害ではなかったものの、それでも悪魔たちが襲撃してさえ来なければ起こらなかった悲劇でもある。
生き残った者たちは壮絶な戦いの後始末に追われながら、悪魔を呪い、自身の運命を嘆き、そして自分たちを守ってくれなかった貴族への怒りを胸の内に燻らせていた。
冒険者“漆黒”のモモンに扮するモモンガとワーカーのレオナールに扮するウルベルトもまた、拠点としている都市やナザリックには未だ戻らず、他の人間たちと共に戦場の後処理や復興活動に参加して何かと手を貸していた。ナザリックの方でも今回の作戦での後処理があるため本音を言えば早くナザリックに帰還したいのだが、とはいえこちらを疎かにしては今後の名声などに大きく関わってくる可能性もある。幸いナザリックにはペロロンチーノや守護者たちもいるため、ナザリックについては一先ずは彼らに任せることにした。
そして今。
モモンガとウルベルトは王女ラナーとアダマンタイト級冒険者チーム“蒼の薔薇”に呼ばれて、ナーベに扮するナーベラルを引き連れて王国王都の魔術師組合まで足を運んでいた。
「アダマンタイト級冒険者チーム“漆黒”のモモン様とナーベ様、ワーカーのレオナール・グラン・ネーグル様ですね。お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
魔術師組合の建物の前に立っていた男から声をかけられ、そのまま建物の中へと促される。
モモンガとウルベルトとナーベラルは大人しく男に従うと、どんどんと奥へと歩を進めて最奥の部屋へと案内された。
「モモン様、こちらだ!」
「ネーグルさん、こっちです!」
室内に入ってすぐに聞こえてきた声。
目を向ければ“蒼の薔薇”のイビルアイとラキュースが手を上げてこちらにアピールしており、モモンガたちはそちらへと足先を向けた。
彼女たちの元へと歩み寄り、この場に集められた面々へと目を向ける。見ればこの場には錚々たるメンバーが揃っていた。
王国王女ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフと彼女の護衛兵士であるクライム、王国戦士長ガゼフ・ストロノーフ、王国王都の冒険者組合の組合長、そして“蒼の薔薇”の全メンバー。あと一人、見知らぬ壮年の男もこの場にいたが、王女ラナーから魔術師組合の組合長であると紹介された。
「それで……、何故我々をここに呼んだのですか?」
この場にいる面々を順に見やりながら、小さく首を傾げてウルベルトが誰にともなく問いかける。
彼女たちは互いに顔を見合わせると、次にはこの場を代表するように王女ラナーが口を開いてきた。
「……実は昨日、“八本指”が所有していたと思われる倉庫からあるアイテムが発見されました。それがこれなのですが……」
途中で言葉を切り、王女ラナーが自身の目の前にある小さな台座へと目を向ける。彼女の視線の先には拳大の大きさの宝玉が鈍い光を放って台座の上に安置されていた。
淀んだ青緑色のそれは表面に銀色の九芒星が描かれており、まるで鼓動しているかのように一定間隔で振動のようなものを発していた。
「……これは……っ!」
宝玉を目にした瞬間、モモンガが兜の奥で小さく驚愕の声を零す。暫くマジマジと宝玉を見やり、次には隣のウルベルトへとすぐさま〈
『ちょっ、ウルベルトさん、これ“ジレルスの結界石”じゃないですか! よりにもよって、こんなアイテムを証拠品として置いていくなんて!!』
『そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、モモンガさん。大体“ジレルスの結界石”を使えるのは100レベルのプレイヤーだけじゃないですか。この世界に100レベルの存在がそうそういると思います?』
『それは! ……いないかもしれないですけど……!』
ウルベルトの言い分に、モモンガは言葉を呑み込んで内心小さな唸り声を上げる。しかし、ウルベルトの言い分も一部は分かるものの、モモンガはどうにも納得しきれなかった。
今現在これといった存在は確認されてはいないものの、それでも絶対に100レベルの存在がこの世界にいないとも限らない。仮に100レベルの存在が本当にいなかったとしても、この世界特有の方法……例えば
モモンガは無言のまま心の中で唸り声を上げると、ジトリとした視線をウルベルトへ向け続けた。
暫くの後、モモンガの視線に耐え切れなくなったのか、はたまた少々考えを改めたのか、不意にウルベルトが〈
『……はぁ、分かりましたよ。確かに少々考えなしだったかもしれませんね。何とか手元に戻せないかやってみるか……』
まるで独り言のように〈
モモンガが注視する中、ウルベルトは“ジレルスの結界石”から目を離すと、自然な動作でラナーたちを見やり小首を傾げさせた。
「もしや、このアイテムが例の……?」
「……はい、“御方”なる存在やヤルダバオトが言っていた“盗まれた至宝”にほぼ間違いないと思われます」
「……なるほど。つまりあの“御方”から至宝を盗んだコソ泥というのが“八本指”だったと言う訳ですか」
ウルベルトの言葉に、しかし誰もが答えようとはしない。無言のまま“ジレルスの結界石”を睨むように見つめる彼女たちに、その態度が何よりもウルベルトの言葉を肯定しているようだった。
ウルベルトは暫くの間彼女たちの様子を観察すると、再び徐に口を開いた。
「それで……、これからこれをどうするつもりなのですか?」
ウルベルトの問いかけに、誰もが王女ラナーへと視線を向ける。
この場では誰よりも高い権力を持つ彼女は、暫く瞼を閉じて何事かを考え込み、次にはゆっくりと瞼を開いて大きな瞳に強い光を宿らせた。
「まずは、このアイテムが一体どういった物なのか調べなくてはなりません。そして、出来得る限り外部に漏れないように、厳重な警備を行いながら隠しておこうと思っています」
「つまり……、王国王都で保管および所有すると?」
「このアイテムが“御方”なる存在の所有物であった以上、どんな危険な物であるかも分かりません。そんな物を外に出すわけにはいかないと思うのです」
「なるほど……」
細長い指を顎に添えて何事かを考え込むウルベルトに、モモンガもまた無言のまま“ジレルスの結界石”を見つめる。
何か良い方法はないかと頭を悩ませる中、不意にラキュースが控えめに声をかけてきた。
「それで……、あなた方をここに呼んだのは知恵をお借りしたかったからなのです。このアイテムが一体どういった物なのか、そして今後どう対処すべきなのか……。どうか知恵を貸して頂けませんか?」
ラキュースの言葉に、モモンガとウルベルトは思わずチラッと互いを見やった。
一体何をどこまで話すべきか……。
暫く互いに思い悩み、モモンガはまずは彼女たちがどこまで把握しているのかを聞いてみることにした。
「……そもそも、あなた方はどこまでこのアイテムについて把握しているのでしょうか? 見れば、そちらにも優秀な魔術師の方がいるようですし、アイテムの性質についてなどもある程度は既に分かっているのでは?」
チラッと魔術師組合の組合長を見やるモモンガに、他の者たちも自然と組合長の男へと視線を向ける。組合長の男は皺が刻まれた顔に尚も深い溝を刻み込みながら、まるで苦悩するかのように小さく表情を翳らせた。
「………残念ながら、未だ何も分かってはいないのです。強い魔力が宿っており、何かを召喚する物であることまでは分かりましたが……、それ以外のことが未だ全く分かっていないのです」
苦々しげに顔を歪める男に、モモンガとウルベルトは再びチラッと互いを見やる。モモンガは兜で顔を隠しているため傍からはウルベルトがモモンガを見つめているだけにしか見えないが、しかしモモンガとウルベルト自身は互いに相手の視線がかち合ったのを感じ取っていた。互いの纏う空気を察しながら、どうすべきかと無言のまま探り合う。
暫くの後、ウルベルトは不意に視線をモモンガから外すと、どこか考え込んでいるような素振りを見せながら、ゆるゆると口を開いた。
「……恐らく、ではありますが……このアイテムは召喚ではなく、何かを封じ込めているのだと思います」
「っ!! このアイテムが何か知っているのですか!?」
ラキュースが驚愕の表情を浮かべて身を乗り出し、他の面々も驚愕の表情を浮かべてウルベルトを見つめてくる。
モモンガが探るような視線を向ける中、ウルベルトは殊更にゆっくりとした動作で首を横に振った。
「知っている……と言うほどではありません。ただ、以前に古い書物で似たようなアイテムの記述を見た記憶があるのですよ。ですので、もしかしたら……という程度ですが」
「その書物とやらは一体どこにあるんだ? それで調べてみるのが一番手っ取り早いかもしれないな」
「残念ながら、それは無理ですね。その書物はとても古いもので、惜しいことに既にこの世にはないのですよ。ボロボロに朽ちて、私の手元からなくなってしまいました」
イビルアイの提案に、しかしウルベルトは再び頭を振る。続いて口にした言葉に、一気にこの場の空気が重苦しいものへと変化した。
誰もが八方塞がりの状態の中、ウルベルトはラキュースへと真っ直ぐに視線を向けた。
「アインドラさん、宜しければこのアイテムを暫くの間、私に預けてはいただけませんか?」
「…っ!? な、なにを……!!」
「実はワーカーになる以前、私は各地を転々としながら魔法や魔法のアイテムについて研究を行っていました。……もしかすれば、このアイテムの正体も解明できるかもしれません。それに、このアイテムが封印しているモノが何なのか、そして解放条件が何であるのかも分からない以上、王都に置いておくよりも秘密裏に外に持ち出した方が安心ではありませんか?」
「それは……、確かにそうですが……」
ウルベルトの言葉に、ラキュースが途端に言葉を濁らせる。困ったような表情を浮かべてラナーへと視線を向ける彼女に、王女も小さな笑みを浮かべながらも少しだけ困ったように眉を八の字に傾けさせた。
「……ネーグル様の申し出は大変ありがたいのですが、それは非常に危険だと思います。このアイテムを悪魔たちが見つけられなかった以上、どこに彼らの監視の目があるかも分かりません。そもそも彼らが自分たちの目的を口にしたのも、私たちにアイテムを探させて横から奪い取ろうとする目論見があってのことかもしれないのです。このアイテムを悪魔たちの手に渡さないためにも、外に出すわけにはいきません」
「ですが、少なくともこの場にいるメンバーはアイテムの存在を知ってしまっています。アイテムの存在を知っている者が複数人いる以上、いつこの情報が悪魔たちの手に渡るか分からないのでは?」
「私たちが奴らに情報を漏らすとでも言いたいのかっ!!」
ウルベルトの言葉に激昂したイビルアイが、途端に噛み付かんばかりに身を乗り出して声を荒げてくる。彼女の行動にナーベラルが無言のまま顔を歪ませて殺気立ち始めるのに、ウルベルトは後ろ手にチョイッチョイッと小さくナーベラルに落ちつくように合図を送りながらも、しかしそれでいて一切表情を変えることはなかった。軽く腕を組み、真っ直ぐに王女ラナーに視線を向ける。
「勿論、私としても皆さんが情報を漏らそうとするとは欠片も思ってはいません。しかし、相手はあの悪魔たちなのです。それこそ魅了の魔法をかけられたら? もしくは頭の中を覗かれたら? あなた方は、彼らの魔法に対抗できると断言できますか?」
ラナーに向けていた視線を他の面々に移し、ウルベルトは淡々とした声音で解いを投げる。それに、この場にいる誰一人として反論の言葉を口にはしなかった。誰もが苦々し気な渋い表情を浮かべ、イビルアイなどは仮面の奥から小さな唸り声を零している。
何の返答も返ってこないことを確認すると、ウルベルトはまるで彼女たちの背を押すかのように更なる言葉を紡ぐために口を開いた。
「それに……、こう言っては何ですが、私が普段拠点として活動しているのは王国ではなく帝国です。もし私の身に何かあり、このアイテムが発動してしまったとしても、被害を受けるのは王国ではなく帝国となるでしょう。……帝国との小競り合いが絶えない王国にとっては渡りに船の提案に思えますが」
「「「っ!!」」」
ウルベルトの言葉に、この場にいるモモンガとナーベラル以外の全員が驚愕の表情を浮かべて息を呑んだ。王女ラナーでさえ、その愛らしい瞳を少なからず見開いてマジマジとウルベルトを見つめている。
「………確かに、一理ある」
「悪魔の関心も帝国に移るかも……」
まるでウルベルトの提案に同意するかのように“蒼の薔薇”の双子が短く感想や考えを言葉に零す。
双子の言葉を皮切りに、他の面々も互いに顔を見合わせながら見るからに心を動かしたように悩み始めた。
言われてみれば、王国にとっては確かに悪くない話である。悪魔の脅威も帝国との小競り合いも、王国にとっては無視できない危機なのだ。その一つでも防ぐことができ、加えて何かあればもう片方にも大打撃を与えられるとあっては、断る方がおかしいだろう。
誰もが少なからず納得の雰囲気を醸し出し始める中、しかしラキュースだけは不安そうにウルベルトを見つめていた。
「……確かに、ネーグルさんの申し出は王国にとっては有り難いものです。しかし、それでネーグルさんの身に危険が及ぶことになっては……」
「心配くださり、ありがとうございます。しかし、それは無用ですよ。仮に悪魔たちが勘付いて襲ってきたとしても、倒すことはできなくとも追い返すことくらいはできるでしょう。帝国にはリーリエやレインもいますしね」
ワーカーでの仲間の名を口にしながら笑みを浮かべるウルベルトに、しかしラキュースの不安そうな表情は変わらない。逆に何故か翳りを帯びたようで、ウルベルトは内心で小さく首を傾げさせた。
(……おかしいな、何故だ? 王国にとっては厄介ごとが二つも取り除けるかもしれない好条件のはずなんだが……。)
何とも的外れなことを考えながら、実際に首を傾げそうになる。
もしこの場に愛の求道師たるペロロンチーノがいたならば『……馬鹿じゃないですか?』と嫉妬と呆れが入り混じった視線をウルベルトに向けたことだろう。
しかし幸か不幸か、この場にペロロンチーノはいない。
ウルベルトが尚も内心で首を傾げる中、まるでラキュースに助け舟を出すかのように王女が再び口を開いてきた。
「ネーグル様の提案は確かに素晴らしいものだと思います。しかし、やはりこのアイテムをネーグル様にお預けすることはできません」
「ふむ……、何故か伺っても?」
「このアイテムはあらゆる面でのカードとして利用できると思うのです。確かに我が国にとって大きなリスクを伴うことは分かっていますが、それと同時に大きな利益や危機回避の手段にもなり得る。恐らく悪魔たちに対抗する手段にも使えるであろう物を、王国の外に出すわけにはいきません」
「………このアイテムを使いこなすことが出来るとでも?」
「使いこなすことは難しいかもしれませんが、それでもあらゆることに利用することはできるでしょう」
「……………………」
どこまでも朗らかな声音で言ってのける王女に、ウルベルトは返す言葉が見つからず思わず黙り込んだ。流石は“黄金”と名高い王女だけはある……と内心で苦々しい感情ながらも感心する。
言い負かされたことへの屈辱と、攻略の方法を間違えたことへの後悔。
しかしそれらの感情を表情に出すことはなく、ウルベルトは意識して表情を引き締めさせると、納得したように一つ大きく頷いてみせた。
「なるほど、そうですか。そこまで言われてしまっては仕方がありませんね」
人間の顔に苦笑を張りつかせ、小さく肩を竦ませる。
そのまま引き下がるウルベルトに、すぐさま再びモモンガから〈
『……どうしますか、ウルベルトさん?』
『ああ言われたら仕方がないだろう。無理に食い下がっても怪しまれるだけだろうしな……。念のため
『そうですね……。でも、ウルベルトさんを言い負かすなんて、あの王女すごいですね』
感心したような声を上げるモモンガに、途端にウルベルトはムッと不機嫌になる。
しかしすぐさま何とか自身を落ち着かせると、目の前で繰り広げられている王女たちの会話へと耳を傾けた。
どうやらこれといった良い案が出るわけでもなく、取り敢えずは最初の予定通りに厳重な警護を行いながらアイテムの解析を進めていくことにしたようである。
「――……とはいえ、いつ何が起こるか分かりません。有事の際はモモン様やナーベ様、そしてネーグル様にも再び力を貸して頂ければと思っています。どうか、よろしくお願い致します」
躊躇なく丁寧に頭を下げる王女の姿に、途端に人間側から感嘆にも似たため息の音が聞こえてくる。
しかしモモンガとナーベラルとウルベルトは表情一つ動かすことなく、ただ静かに頷くのだった。
その頃、ナザリック地下大墳墓の第九階層では……。
「………はぁぁ~…、早くモモンガさんとウルベルトさん帰ってこないかなぁ~……」
自室にある執務室にて、ペロロンチーノが大きなため息を吐き出していた。
傍らにはアルベドとデミウルゴスが控えるように立っており、ペロロンチーノの作業の補佐を行っている。周りでは多くの一般メイドたちが忙しなく動き回っており、優雅でいて素早い動作で部屋と外とを行き来していた。
彼女たちが動く度にメイド服の裾が蝶の羽のようにひらひらと動いて宙を踊る。
可憐なその様を視界の端で眺めながら、ペロロンチーノは再び出そうになったため息を寸でのところで呑み込んだ。
彼の手には複数枚の書類が握られており、その傍らには幾つもの書類の束が塔のように積み重なって聳え立っている。
この書類は全て今回の悪魔騒動での後処理などの報告書であり、先ほどから地道に処理しているというのに一向に終わる様子を見せなかった。逆にメイドたちが次から次へと新しい書類を持ってくるため、永遠に続くのではないだろうか……と錯覚すら覚える。しかし自身の今の立場上放り出すわけにも逃げ出すわけにもいかず、ペロロンチーノは遅々としながらも何とか書類に目を通してはメイドたちに指示を飛ばしていた。
とはいえ、どんなに己を律しようとも身体や精神は正直である。例え異形種であったとしても気が乗らない作業は肉体だけでなく精神にも疲労を蓄積させていく。
そろそろ少しだけ休憩しようかな……と小さな誘惑が頭に浮かび上がったその時、まるでペロロンチーノの思考を読んだかのように不意に扉からノックの音が響いてきた。
『……ペロロンチーノ様、失礼いたします』
断りの言葉と共に姿を現したのは、大きなワゴンを手に持ったエントマ。
茶器一式と目に鮮やかな茶菓子を乗せたワゴンを運んでくるのに、ペロロンチーノは湧き上がってきた喜びを隠すことなく満面の笑みを浮かばせた。
「エントマ、ナイスタイミングだよ! アルベド、デミウルゴス、少し休憩にしよう!」
嬉々とした声を上げて書類をテーブルの上に置くペロロンチーノに、アルベドとデミウルゴスも満面の笑みを浮かべて頷くように頭を下げてくる。周りのメイドたちもペロロンチーノの言葉に反応してすぐさま周りにある書類を片付け始め、一拍後には目の前の光景が見事なティータイムの様相に早変わりしていた。
ペロロンチーノはすぐさま椅子に腰を下ろし、アルベドとデミウルゴスにも椅子に座るよう促す。二人の悪魔は恐縮したような素振りを見せたもののどこか嬉しそうな笑みを浮かべると、一つ礼を取ってペロロンチーノと向かい合うように椅子に腰かけた。
一つのテーブルを囲むように座るペロロンチーノたちの目の前に、メイドたちがすぐさま紅茶を淹れたカップを置いていく。
ペロロンチーノは嘴で器用にカップから紅茶を飲むと、フゥッと一度大きな息を吐き出した。熱い液体が喉を通っていくのを感じ、身体に入っていた余計な力が抜けていくような気がする。
心地よい適度な脱力感にもう一度小さな息をつきながら、ペロロンチーノは腰かけている椅子の背もたれへと深く背を凭れ掛からせた。
傍から見れば少々だらしないかもしれないが、しかし今この場にはペロロンチーノを注意するモノなど誰もいない。逆にここまで寛いでいる姿を見ることが出来て幸せだとばかりに、アルベドもデミウルゴスもメイドたちも全員が満面の笑みを浮かべていた。
彼女たちの反応に気恥ずかしい様なむず痒い様な気持ちになりながら、ペロロンチーノはこの休憩の一時を堪能することにした。
差し出される茶菓子用のクッキーやスコーンを摘まみながら、目の前のアルベドやデミウルゴスと雑談を交わす。
話題は主にユグドラシルでの思い出話で、ペロロンチーノが何かを話す度にアルベドたちは顔を輝かせて話の内容に聞き入っていた。頬を紅潮させて目をキラキラと輝かせる様は幼い子供のようでとても微笑ましく愛らしい。
しかしある一人の様子が気にかかって、ペロロンチーノはチラッとそちらへと視線を向けた。
彼の視線の先にいるのは戦闘メイド・プレアデスの一人であるエントマ・ヴァシリッサ・ゼータ。
素顔は仮面状の蟲で隠しているため一見変わりないように見えるものの、しかしペロロンチーノはどうにもシニョン型の蟲から生えている触角がいつもより元気がないように見えてならなかった。
一体どうしたのだろう……と内心で首を傾げ、そこでふと先日の作戦の時のことを思い出す。
先日の悪魔騒動の作戦の際、エントマはアダマンタイト級冒険者チームの“蒼の薔薇”と交戦し、瀕死のダメージを負うはめになった。間一髪ペロロンチーノが駆けつけたため止めを刺されずにすんだものの、あの時のことを今思い出してもヒヤリと背筋に冷たいものが駆け抜ける。
エントマを救い出した時はすぐに拠点としている館に戻って傷を癒させたのたが、もしかすれば何か不調が出てきているのかもしれない。
ペロロンチーノは持っていたカップをソーサーに戻すと、改めてエントマヘと視線を向けた。観察する目に気が付いたのだろう、エントマもペロロンチーノへと視線を向けてくる。首を傾げる仕草を小さくしたかと思うと、次には少々慌てたようにポットを手に取った。
「失礼いたします、ペロロンチーノ様」
「あ、あぁ……。ありがとう、エントマ」
恐らく紅茶のおかわりの要請だと思ったのだろう、エントマが一言断りを入れてから空になったペロロンチーノのカップを手に取りポットから紅茶を注いでくる。ペロロンチーノは取り敢えず礼を言うと、エントマに差し出されたカップを手に取って新しく淹れられた紅茶を一口飲み込んだ。フゥッと一つ小さな息をつき、改めてエントマへと目を向ける。しかし幾ら観察してもどうにも分からず、思わず内心で小さな唸り声を上げた。
どんなにマジマジと観察しても、少なくとも動きに関しては別段変わった様子はないように思う。声に関しても、一時は“蒼の薔薇”のメンバーによって喉に装備していた口唇蟲を殺されたため本来の声に戻っていたものの、それも今では予備の口唇蟲を再度装備していつもの声に戻っている。ではやはり問題が起きているとすれば体調の不調か、或いは精神的なものか……。
しかしここでいくら考えても想像の域を出ず、ペロロンチーノは早々に諦めて本人に聞いてみることにした。
「……あー、そういえばエントマ、身体の調子はどう?」
まずは体調面を聞いてみようとエントマへと声をかける。
エントマはペロロンチーノを振り返ると、次には手に持っていたポットを置いてその場に跪いた。
「はい、全ての傷は既に癒えており、体調に何ら不調はございません。助けて下さいましたペロロンチーノ様には心より感謝を申し上げます」
「あー、いや、うん……、もう万全になったなら良いんだ。それに、君たちのことを助けるなんて当たり前のことだよ」
「ああっ、何て慈悲深い御言葉!! そのように思って頂けるだけで、恐悦至極にございます!!」
「いやいや、そこまででも……、あー、うん………。……えっと、それより、少し元気がないよう見えたんだけど、俺の気のせいだったかな?」
「それは……」
ペロロンチーノの言葉に、エントマは途端に言いよどむ。アルベドやデミウルゴスや一般メイドたちもエントマを見やり、この場にいる全ての視線が彼女に突き刺さった。
エントマは何か言うのを躊躇っているのか、はたまた何かを恥ずかしがっているのか、小さく顔を俯かせてもじもじとしている。
暫くしてエントマは身体の動きを止めると、次には意を決するように俯かせていた顔を上げてペロロンチーノを見つめてきた。
「……実は、あの小娘が口にした言葉が……その………」
「うん? 何か言われたの?」
エントマの言う“あの小娘”とは、恐らく“蒼の薔薇”のメンバーの誰かのことだろう。
もしや、彼女たちに何か嫌なことでも言われたのだろうか……。
しかしペロロンチーノにはどうにも、彼女たちナザリックのシモベたちが外の人間たちの言葉に心を動かすところなど想像することができなかった。逆に鼻で笑って気にも留めない様子なら想像できるのだが、それともそれは唯の思い違いなのだろうか。
ペロロンチーノが内心で悶々と考え込む中、エントマは再びガバッと深く頭を下げてきた。
「申し訳ありません! 至高の御方々の御手より創り出されたモノとして、本来ならば唯の下等生物の言葉に心を揺らすなど許されぬこと!! かくなる上は、この命を持ってお詫びを……っ!!」
「いやいやいや、そこまでしなくて良いから! 大丈夫だから! それよりも、何を言われたんだ?」
「それは、その……“お前の様な血の臭いを漂わせるモンスターを傍において喜ぶ者がいるとは思えない”、と……」
ガタッ!!
エントマの言葉を聞いた瞬間、ペロロンチーノは気が付けば勢いよく椅子から立ち上がっていた。驚いたように勢いよく顔を上げるエントマや驚愕の表情を浮かべるアルベドたちには構わずに、真っ直ぐにエントマの元へと歩み寄る。未だ跪いているエントマの目の前まで来ると、その場にしゃがみ込んでエントマの細い両肩を両手でガシッと掴んだ。
「そんなわけないじゃないかっ!! エントマが側にいてくれて、すっごく助かってるよ!!」
「っ!!」
まるで怒鳴るように言い放つペロロンチーノに、エントマは驚いたようにビクッと身体を大きく跳ねさせる。
傍から見れば怯えているようなその様子に、しかしエントマの胸に湧き上がる感情はそれとは全く真逆のものだった。
彼女の胸を占めたのは、大きな歓喜と感動と感謝の気持ち。心は舞い上がったように浮足立ち、顔だけでなく全身が熱く痺れるほどに感情が溢れ出す。
しかしそんなエントマの様子には気が付かず、ペロロンチーノは変わらずエントマの両肩を強く握りしめながら更にグッと覗き込むように顔を近づけた。
「エントマみたいな可愛い女の子に側にいてもらえて、俺はすっごく嬉しいよ! それに、そう思っているのは俺だけじゃない。モモンガさんとウルベルトさんも絶対にそう思ってるよ!」
「かわっ!? そ、そんな……っ!!」
「勿論、これはエントマだけに言えることじゃない。この場にいるアルベドやデミウルゴス、それに他のプレアデスの皆や一般のメイドたち、他のナザリックのシモベたち全員に対してだって言えることだ。君たちが俺たちの傍にいてくれるだけで、俺たちは本当に助かっているし心強く思っているんだ!!」
「「「っ!!? ……ペロロンチーノ様!!」」」
次に胸を高鳴らせたのは、この場にいるナザリックのシモベたち全員だった。
崇拝するいと尊き至高の御方にこんな事を言われて、喜ばないモノなどナザリックには存在しない。自分たちの存在を認められ、役に立っていると実感するだけで彼らは至福の喜びを感じるのだ。加えて今回の場合、ペロロンチーノ本人から感謝の言葉と役に立っているという言葉をもらったため、彼女たちの喜びは最上にまで引き上げられていた。
普通に考えれば、それは全て良いことであると言えるだろう。
しかし幸か不幸か、“ある人物”にとっては少々刺激が強すぎたようだった。
「……ペロロンチーノ様っ!!!」
「うおっ!?」
歓喜の雄叫びと共にペロロンチーノを襲ったのは大きな衝撃。
気が付けば目の前には金の双眸をギラつかせたアルベドの顔がドアップに映し出されており、彼女の背後には天井の景色が小さく覗いていた。
のっしりと身体の前面に感じられる重さと、背中と硬い何かに押し潰されている四枚二対の翼。
どう考えてもこれまでやってきた数多くのエロゲーでよく見たシチュエーションに、ペロロンチーノは思わず呆然と目の前のアルベドを見上げていた。
通常であれば大いに萌えてもいいはずのシチュエーションなのだが、背筋にゾクゾクとした悪寒が走るのは何故なのだろうか。まるで肉食獣に捕らわれた雛鳥のような心境に、ペロロンチーノは無意識にブルッと小さく身体を震わせた。
「ペロロンチーノ様…、アルベドはもっとペロロンチーノ様や至高の御方々のお役に立ってみせますっ! ……そう、もっと……もっと……っ!!」
「えーと、アルベド!? それは嬉しいんだけど、ちょっと離れてもらえると……!!」
「そう、お望みなら今からでも、アルベドはペロロンチーノ様のお役に立ってみせます!! 今この場で……っ!!」
「キャーーっ、何やってんのぉーー!!?」
未だギラギラと目をギラつかせながら白いドレスのスカート部分をたくし上げ始めるアルベドに、ペロロンチーノは思わず少女のような悲鳴を上げる。しかしアルベドに馬乗りで身体をガッチリと固定されているため、どうにも抵抗することが出来なかった。こんなところで純粋な前衛職との力の差を見せつけられるとは思わなかったと内心で冷や汗を流す。
(待って、待って、アルベドさん! 俺、襲われ攻めはちょっと! それにまだ心の準備が……、心の準備がぁぁ……っ!!)
内心で悲鳴を上げながら、アタフタと身動ぎを繰り返す。
無意識に助けを求めるように周りに視線を走らせる中、ここで漸く周りのシモベたちがハッと我に返ったようだった。
「ちょっ、アルベド! 何をしているんだ!! ペロロンチーノ様から離れたまえっ!!」
「はあぁんっ、ペロロンチーノ様……、ペロロンチーノ様ぁぁ!!」
「くっ、なんて馬鹿力だ……!! エントマ、君も力を貸してくれ!!」
「っ!! は、はいぃっ!!」
デミウルゴスがアルベドを止めようと彼女の肩に手を掛け、しかし彼女はビクともせずにエントマも慌ててデミウルゴスの加勢に入る。しかしデミウルゴスとエントマの二人がかりでも、やはりアルベドはビクともしない。一般メイドたちはただアタフタと狼狽えるだけで、どう考えても助けになるとは思えなかった。
正に絶体絶命の中、しかしペロロンチーノの運は尽きてはいなかった。
「――……なぁぁにやってんだぁぁ、アぁぁルヴぇドぉぉおぉおぉぉっ!!!」
「「「っ!!?」」」
地獄の咆哮とも思える怒号と共に現れた一つの影。
紅蓮の双眸をギラつかせて白銀の髪を逆立てる吸血姫の登場に、アルベドは鬼の形相を浮かべて振り返りながらチッと鋭い舌打ちを零した。
身体に纏わりついているデミウルゴスとエントマを振り払い、こちらに勢いよく突撃してくるシャルティアを迎え撃つ。
「ペロロンチーノ様から離れろやぁぁっ!!!」
「邪魔させるかぁぁっ!!!」
シモベとしての理性をかなぐり捨てて、欲望のままに暴れ始める吸血姫と淫魔。
目の前で繰り広げられる激闘に、ペロロンチーノは身動き一つできずに悲鳴を上げることしかできなかった。
「ちょっ、二人とも落ち着いて……!! 俺のために争わないでぇぇ……っ!!」
激しい戦闘音が鳴り響く中、ペロロンチーノの悲鳴が響いては消えていった。
◇◆◇◆◇◆
深夜の闇に染まった王国王都リ・エスティーゼ。
大通りに立てられた最上級の宿の一室にて、ワーカーチーム“サバト・レガロ”のレオナール・グラン・ネーグルに扮しているウルベルトは、一人寝台に腰掛けて物思いに耽っていた。
冒険者チーム“漆黒”のモモンとナーベに扮しているモモンガとナーベラルは、別の部屋でそれぞれ休息をとっているはずだ。
同じ宿に宿泊しているウルベルトたちは、しかし周りから怪しまれないようにワザと別々の部屋をそれぞれ取っていた。一部屋の値段が超高額であるこの宿は、普段であれば複数の部屋を取るなどモモンガが顔を蒼褪めさせようものである。しかし今回は王家がその支払いは全て負担してくれるとのことで、ウルベルトたちは何の気兼ねもなく王都に滞在中はこの宿屋を利用していた。
『――……ウルベルト様』
一人静かに思考の渦に沈む中、不意に聞こえてきたのは独特の深みを持った聞き覚えのある声。俯かせていた顔を上げれば、目の前の床に横たわっている家具の影から一体のシャドウデーモンが姿を現した。
片膝をついて深々と頭を下げている悪魔に、ウルベルトは金色の双眸を小さく細めさせる。
無意識に足を組んで至高の主たる堂々とした姿勢を取る中、シャドウデーモンは頭を下げながら恐る恐るといったように口を開いてきた。
「ウルベルト様、監視しておりました王国王女ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフについて、また不審な動きを見せましたので報告に参りました」
「………またか……」
シャドウデーモンの言葉に、ウルベルトは思わず大きなため息を一つ零す。今まで聞いてきた報告内容の数々を思い出し、ウルベルトは無意識に小さく顔を顰めさせた。
王国王女ラナーにシャドウデーモンを潜ませたのは、戦士長ガゼフがカルネ村について王女とラキュースに相談した頃である。最初の頃は何もこれといった不自然な動きは見られなかったのだが、セバスの裏切り疑惑が浮上した頃から一気に王女に関する報告がウルベルトの元へと上がってきていた。
化け物と思えるほどの人間離れした叡智と推理力。しかしそれに伴って報告される王女の異常と思えるような思考回路や歪んだ精神構造。自身の護衛兵である少年に向ける歪な愛情と性癖。
これだけでも辟易させられるというのに、まだ何かあるのか……と少々うんざりさせられる。
しかし報告を聞かないわけにもいかず、ウルベルトはできるだけ表情に出さないように努めながらシャドウデーモンに話を続けるように促した。
「はっ。実はセバス様が襲撃した娼館から助け出したはずの娼婦たちを秘密裏に全員殺したようです」
「全員殺した……? 娼婦となっていた女ども全員か? 何故……、何か理由を口にしていたか……?」
「いいえ。その意図すら分からず、念のため報告に参りました」
「そうか……。因みに、そのことについて誰かに何か言っていたか?」
「自身の護衛兵であるクライムという人間にだけ、娼婦たちが何者かに全員殺されたと伝えておりました」
「………ほう、……なるほど……」
瞬間、ウルベルトの身に纏う空気が一気に冷たく重たいものへと変化する。
シャドウデーモンは意図が分からないと言っていたが、しかしこれまで報告されてきたラナーの思考回路や優先順位、また娼婦たちと王女ラナーとの繋がりなどを組み立てて考えていけば、何故彼女がそんな行動を起こしたのかなど容易に想像することが出来た。
恐らく……、しかし高い確率で、王女ラナーが娼婦たちを殺したのは嫉妬と独占欲のためだろう。
そもそも殺された娼婦たちはどういった者たちだったのかというと、“八本指”が運営する娼館で働かされていた女たちだった。
セバスが館でモモンガたちに洗いざらい話した報告によると、セバスはツアレの存在によるゆすりからの時間稼ぎとして、“八本指”が運営する娼館を襲撃したのだという。しかしそれはセバス一人がやったのではなく、偶然知り合ったクライムという少年と共に行ったとのことだった。クライムが王城の兵だったこともあり、助けられた娼婦たちは必然的にクライムの預かりものとして保護された。
恐らくそれが、王女ラナーが彼女たちを殺した理由なのだろう。
つまり、愛する少年の意識をほんの少しでも惹いた彼女たちの存在が許せなかった、と……。
「………ふんっ、くだらん……」
胸に湧き上がってくる苦々しさに、思わず小さく吐き捨てる。
殺された娼婦たちに対して思うことはこれと言って何もないが、しかしそれでもラナーの行動はウルベルトを十分不快にさせるものだった。
「……上流階級の豚どもは尽く救いようがない者ばかりだな。不愉快でならない」
「では、始末しますか?」
当然のように問いかけてくる悪魔に、ウルベルトは思わず悪魔を凝視する。
少しの間考え込み、しかしウルベルトは甘い誘惑に小さく頭を振った。
「いや、やめておけ。今はこれ以上の騒ぎを起こすべきではない。……今は、な……」
「はっ」
ウルベルトの言葉に、シャドウデーモンは短い言葉と共に再び深く頭を下げてくる。ウルベルトは一つ頷くと、次には部屋に備え付けられている大きな窓へと目を向けた。
窓の奥には夜の闇に染まった王城が静かに佇んでいる。
ウルベルトは冷ややかな光を金色の瞳に宿らせながら、ただ静かに王城を見つめていた。
壁に浮かぶウルベルトやシャドウデーモンの影が怪しくゆらりと揺らめいた。