夜の闇に浮かび上がっている朱色の光。頭上遥か高く燃え上がる炎の壁と、炎の色に赤々と染まる街中の家々。
現実ではあり得ないような光景の中、多くの冒険者や衛士たちが複数の列を形作って慎重に歩を進めていた。
遥か上空から見下ろせば、お世辞にも綺麗な列とは言えない。戦場で見る陣形のような真っ直ぐな一直線でもなければ、矢のようなすべらかな弧を描いている訳でもない。建造物という名の障害物がある中で、その列は歪でいて進行速度も一定ではなくばらつきが見られた。
しかし、そうであっても壁の役割を担えるだけの形は保たれている。冒険者や衛士たちは慎重に周りを見回しながら、ゆっくりとした足取りで歩を進めていた。
彼らの視線の先にあるのは、無人の街並みの光景。人どころか悪魔の姿さえ見えず、家々の壁や扉には破壊された跡や傷跡が大きく深く刻み込まれている。人っ子一人いない状況に、最前列の冒険者たちは誰もが少なからず疑問に首を傾げ合った。
一体この区画に住んでいた人々はどこに行ったのか……。
誰もが判断に迷う中、一つの高い声が気迫に満ちて勢い良く響いてきた。
「
声の主はアダマンタイト級冒険者チーム“蒼の薔薇”のリーダーであるラキュース・アルベイン・デイル・アインドラ。彼女の言葉に異論を唱える者は誰もおらず、冒険者たちは一つ頷いてラキュースの言葉通りに行動を開始した。捜索する組と前進する組に別れ、ラキュースは前進する者たちと共に改めて足を動かし始める。
注意深く周りを警戒しながら前進する彼女に、不意に横に並んで前進していたオリハルコン級冒険者が声をかけてきた。
「……そういえば、あのレオナール・グラン・ネーグルとかいう人物は一体何者なんですか?」
突然男の口から零れ出たレオナールの名に、ラキュースは思わずドキッと心臓を跳ねさせる。慌てて男へと視線を向ければ、他にも多くの冒険者たちが怪訝と困惑を綯い交ぜにしたような表情を浮かべてこちらを見つめていた。彼らの言葉と反応から、そういえばレオナールのことを詳しく紹介していなかった……と思い出す。しかしどう説明するべきか判断しかねて、ラキュースは少々頭を悩ませた。
彼らにどこまで話し、どこまで話さずにおくべきか……。
例えば“唯のワーカーである”と答えたところで、彼が冒険者モモンと同じく“矢”の役目を担っている以上、彼らがその言葉だけで納得するとは思えなかった。とはいえ、何でもかんでも話してしまえば、下手をすればカルネ村であったことも全て話さなくてはならなくなる。
ラキュースは少しの間思い悩んだ後、まずは当たり障りのない部分だけを話すことにした。
「彼は……、帝国に拠点を置いているワーカーなの。実力はアダマンタイト級冒険者にも引けを取らないから、彼の実力について心配しているのであれば、それは無用よ」
「「「っ!!?」」」
“アダマンタイト級冒険者にも引けを取らない”という言葉に、途端に冒険者たちが驚愕の表情を浮かべてくる。
しかし予想通りというべきか、彼らの顔にはまだまだ疑問の色が色濃く浮かんでいた。
「しかし……、何故そもそも帝国のワーカーが王国にいるんですか?」
「彼の知り合いが王国に暮らしているのよ。それで、ちょくちょく王国に来ているらしいの。私たちも、それで偶然彼と知り合ったのよ」
「そんな理由が……。それじゃあ、モモンさんたちやストロノーフ様も、それで知り合いになったのか?」
「モモンさんたちは、これまで直接会ったことはなかったみたいだったぞ。ほら、声をかける時に挨拶していただろ」
「ああ、そういえばそうだったな。それじゃあ、噂か何かで知ったのか……。帝国ではそんなに名の知れた男なのか?」
先ほどラキュースから聞いた情報を元に、冒険者たちが互いに顔を見合わせながら各々の考えを口にしていく。
彼らの話を意識の端で聞きながら、ラキュースもレオナールへと思いを馳せた。
まるでこちらの危機を察したかのように突然目の前に現れたレオナール。
彼の登場に、どれだけ胸が弾んだことだろう。
本音を言えば、彼にはモモンやナーベやイビルアイとではなく、自分と行動を共にしてほしかった。彼が側にいてくれたなら、どれほど心強かったことだろう……。
しかし現状や敵の首魁の強さなどを考えた場合、彼はモモンたちと行動を共にした方が良いことは目に見えていた。それでも納得しきれていないのは、これから自身を襲うであろう戦闘への恐れや心細さだけでは決してないことをラキュースは自覚していた。
彼女の頭にあるのは、一人の美女の姿。
冒険者モモンの相棒であり、絶世の美女である"美姫”ナーベ。
あの時……ラキュースたちがレオナールたちを呼びに行ったあの時、レオナールとナーベは楽しそうに笑みを浮かべながら語り合っていた。魔法について話していたのだろう、二人はとても親し気に言葉を交わしており、ナーベなどは頬を紅潮させて恍惚とした表情すら浮かべていた。少なくとも、ラキュースの目にはそう見えた。
楽しそうに語り合う二人の姿を思い出した瞬間、胸がきゅぅぅっと切なく軋みを上げる。
湧き上がってくる切なさと嫉妬心に思わず顔を小さく歪ませ、しかしラキュースは頭に浮かんでいる光景を振り払おうと一度小さく頭を振った。今はこんなことを考えている場合ではないと自身に言い聞かせ、気持ちを切り替えるために小さく息を吐き出す。今やるべきことは目の前のことに集中することであり、考えるべきことは如何にこの作戦を成功させるかだ。ラキュースは愛剣の魔剣キリネイラムの柄を強く握り締めると、そのまま強く前を見据えた。
(……ネーグルさん……いえ、レオナールさん、どうかご無事で……。そして……、どうか私に力を……!)
頭に浮かぶ美しい笑みに、思いを込めて祈りを捧げる。
ラキュースはもう一度鋭く息を吐き出すと、前方に見えてきた怪しい影を睨み据えた。
一方その頃、ラキュースに思われているレオナールことウルベルトはと言えば……――
「なぁぁにやってんだっ、この鳥野郎ぉぉおおぉぉぉおぉぉぉおぉぉぉっ!!!」
「すみませんごめんなさいこれは俺が悪かったですエントマがピンチだったんでついぃ~~~~~~~!!!」
顔に何もつけず素顔となった
そしてウルベルトと行動を共にしていたモモンガはと言えば……。
「いやぁぁ、またこのような場にお呼び頂けるとはっ!! 正に! 正に望外の極みでございますっ!!」
「………どうして、お前がここにいるんだ……」
興奮したようにはっちゃけている黄色の軍服姿の
そしてそして、そんな彼らの傍らでは……。
「ウ、ウルベルト様……どうか、どうか御心をお鎮め下さい……」
「えっとぉ……あのぉ、そのぉ……」
仮面を取ったデミウルゴスと杖を両手に持ったマーレが、それぞれの傍らでおろおろと狼狽えていた。
そもそも何故こんなカオスな状況になったのか……。
事の始まりは今から数分ほど前まで遡る。
“矢”の役目を担った冒険者モモンに扮したモモンガとナーベに扮したナーベラル、“蒼の薔薇”のイビルアイ、レオナールに扮したウルベルトの四人は、作戦通りに街の奥へと突撃していった。街の奥ではヤルダバオトに扮したデミウルゴスと、ヤルダバオトと同じ仮面をかぶったプレアデスのメイドたちが待ち構えており、彼らはすぐに戦闘を開始。プレアデスたちの相手はナーベラルとイビルアイに任せ、モモンガとウルベルトはデミウルゴスへと突撃し、そのまま街の中へと身を隠した。戦闘している振りをしながら街中を移動し、デミウルゴスに促されるままに一つの家の中へと雪崩れ込むように入る。そのまま一つ息を吐いて奥へと進むと、奥の部屋にはペロロンチーノとマーレ、そして何故かビシッと敬礼したパンドラズ・アクターがモモンガたちを待っていたのだった。
そして先ほどの状況に陥るのである。
ウルベルトは未だガクガクとペロロンチーノを揺さ振っており、モモンガはパンドラズ・アクターがこの場にいたという予想だにしなかった事態に思わず頭を抱えて椅子の上で大きく項垂れている。何ともどうしようもない状況に、しかし初めに立ち直ったのは――やはり流石というべきか――多大な精神的ショックを受けていたはずのモモンガだった。
「………はぁ、とにかく一先ず落ち着こう。……ウルベルトさんも少し落ち着いてくれ」
一つ大きなため息を吐き出し、漸く気持ちを持ち直したモモンガが支配者用の口調でウルベルトへと声をかける。
瞬間、ウルベルトはピタッと動かしていた腕を止めたかと思うと、次にはグリンっと勢いよくモモンガを振り返ってきた。
「これが落ち着ける訳ないでしょう、モモンガさん!!」
「…っ! だ、だが、こうなってしまっては仕方がないだろう。ウルベルトさんの気持ちも分かるが、ペロロンチーノさんのおかげでエントマも助かったようだし、ここは許してやってはどうだ?」
「ゆ・る・し・ま・せん! 今や“御方”っていう存在の方が魔王扱いされてるんですよ!? 俺、言いましたよね? 俺が駄目ならデミウルゴスに魔王役をやらせて下さいって、俺言いましたよねっ!!?」
ペロロンチーノの胸ぐらを掴んだまま勢いよく迫ってくるウルベルトに、モモンガも思わず気圧される。ウルベルトよりも自分の方が正しいことを言っている筈なのに、何故か間違ったことを言っているような気さえしてきてしまう。
しかしモモンガはハッと我に返ると、ブンッブンッと大きく頭を振った。
(……駄目だ、流されるな、モモンガ。相手はあのウルベルトさんだぞ? 隙を見せたら一気に言い包められるぞ、しっかりしろ! 大丈夫、俺の方が正しいことを言っているはずなんだから……、俺ならできる! ファイトだ!)
ユグドラシルの頃に幾度となくウルベルトに言い包められたことを思い出し、何とか流されまいと心の中で自身に活を入れる。
そもそもモモンガとてウルベルトやペロロンチーノに対して言いたいことも聞きたいこともまだ多くあるのだ。ウルベルトの気持ちも分かるが、まずはこちらの疑問に応えてもらわなければならない。
「分かったから! 取り敢えずまずは落ち着いてくれ。そもそも俺……じゃなくて、私からも二人に言いたいことや聞きたいことがまだ沢山あるのだぞ!」
「……はぁ、仕方ありませんねぇ……。良いでしょう」
モモンガの言葉に、ウルベルトも漸く渋々ながらも頷いてくれる。ウルベルトは小さく息をつくと同時にペロロンチーノの胸ぐらを離し、そのままモモンガと向かい合うような形で近くに置いてあった椅子へと深く腰掛けた。デミウルゴスもホッとした様子でウルベルトの背後へと控えるように立ち、パンドラズ・アクターはモモンガの背後に、そしてマーレはデミウルゴスの横に移動してちょこんっと立つ。因みにペロロンチーノは未だ反省しているのか、モモンガとウルベルトの間で床に直接腰を下ろして正座した。シモベたちは心配そうにチラチラとペロロンチーノを見つめていたが、しかしウルベルトはそれに構うことなくモモンガへと目を向けた。
「それで……、まずモモンガさんは何が聞きたいんですか? 俺がデミウルゴスから聞いた計画の内容については既に粗方説明したはずですが」
ウルベルトの言葉通り、確かにモモンガは既に計画の全容は説明されていた。しかしモモンガにとってはそれだけでは全くもって不十分だった。
「計画の内容自体は分かっている。しかしそれ以前に、そもそも何故ツアレ救出が“八本指”の殲滅に変わっていて、しかも魔王まで出しているんだ? 魔王の役目は、そもそも法国の囮として創り出す予定だったはずだろう」
「確かに。しかし、ペロロンチーノとパンドラズ・アクターの働きで、目下魔王という囮による情報収集の必要性は低くなったと判断したのだよ」
「それにツアレちゃんを助ける以上、“八本指”には少なからず接触する必要があります。最小限に接触を控えた場合、彼らがどういった反撃行動を取って来るかも分からないので、大々的に接触してこちらにこれ以上手を出してこられないようにすることにしたんです」
ウルベルトに続くようにして、ペロロンチーノも正座したまま言葉を続けてくる。
彼らの言い分に、モモンガは一部納得しながらも再度小さく首を傾げさせた。
「しかし、流石に魔王を出すのはやり過ぎではないか? 下手をすればこちらの存在がこの世界にばれてしまう可能性がある」
「逆だよ、モモンガさん。これだけ大きな闇組織だ、いきなり姿を消したら誰もが怪しむだろう? だからこそ魔王という存在を出して、誰の目から見ても分かるように大々的に“八本指”を襲撃したんだ」
「……なるほど、偽の目印と言う訳か」
漸く全てに納得がいってモモンガが一つ大きく頷いた。
確かに突然“八本指”がこの世から消えた場合、王国はあらゆる意味で騒然となるだろう。一体何が起こったのかと、国も大々的に調査をするかもしれない。そう考えれば、確かに“魔王”という存在は良い目くらましになると言えた。
内心何度も頷く中、しかしそこでふとウルベルトが苦々しげな表情を浮かべていることに気が付いて、モモンガは内心で首を傾げさせた。ウルベルトの視線の先を追い、ペロロンチーノへと目を向ける。
「……尤も、ペロロンチーノが表舞台に出たことで、偽の目印の効果も危うくなりましたがね。………これは少し方向性を変える必要があるかもしれないな……」
一人小さく呟くウルベルトの金色の瞳が、徐々に怪しい光を帯び始める。
何とも不穏過ぎるその様子に、モモンガとペロロンチーノは一気に嫌な予感に襲われた。
ウルベルトの金色の瞳が舐めるようにペロロンチーノの全身を眺めまわし、ペロロンチーノは無意識にブワッと全身の羽毛を膨らませる。
「……幸いなことに、今ペロロンチーノが装備している物は一見バードマンとは分からないものだしな……。人間側も“死神のような存在”としか感じていなかったし、それを利用しない手はない」
ブツブツと独り言を呟くウルベルトの様子に、どんどん嫌な予感が強くなっていく。長年の経験と勘が警鐘を鳴らし、必死に『今すぐ彼を止めろ!』とモモンガやペロロンチーノ自身を煩く急き立てていた。
しかし、いざ行動を起こそうにも既に全てが遅すぎた。
モモンガやペロロンチーノが口を開きかけるその前に、ウルベルトが真っ直ぐにペロロンチーノを見つめながら口を開いてきた。
「……ペロロンチーノ、その役を俺に寄越せ」
「「………は、はあぁぁあぁぁあぁぁぁああぁぁああぁぁあぁっっ!!!?」」
モモンガとペロロンチーノが声を上げたのはほぼ同時。ウルベルトの予想外過ぎるその言葉に、二人はこの場がどこなのかも忘れて揃って大きな声を上げていた。
しかし、それも無理からぬことだろう。
ナザリック一の知恵者であるデミウルゴスですら理解が追いつかず呆然とした表情を浮かべてウルベルトの後ろ姿を見つめているのだ、モモンガやペロロンチーノが驚かないはずがない。
モモンガとペロロンチーノはほぼ同時に立ち上がると、そのまま勢いよくウルベルトへと身を乗り出して詰め寄った。
「なっ、何言っちゃってるんですか、ウルベルトさん! ウルベルトさんは今、ワーカーのレオナールとしてここにいるんですよ!? そんなこと出来るわけないでしょう!!」
「そうですよ! この通り謝りますから、もう少し冷静になって下さい!!」
口調のことも忘れてモモンガはウルベルトの両肩を掴んで激しく揺さ振り、ペロロンチーノは再びその場に跪いて深々と土下座をする。
シモベたちも大いに狼狽えて動揺する中、しかし悪魔であるが故なのか、ウルベルトの思考は一ミクロンたりとも揺らぐことはなかった。それどころか、諭されている側であるはずのウルベルトの方が逆にモモンガたちを諭すように慈愛に満ちた優しい表情を向けてくる。
「大丈夫ですよ、モモンガさん。そこは俺なりに考えがあるんです。こんな事もあろうかと、パンドラをこの場に呼んだんですから」
「「っ!!?」」
ウルベルトの言葉に、モモンガとペロロンチーノは思わず愕然とした。無意識にウルベルトとパンドラズ・アクターを交互に見やり、しかしもはや驚き過ぎて言葉も出てこない。
「念のためとはいえ、ペロロンチーノやデミウルゴスを呼び寄せた時に、パンドラズ・アクターにもこの場に来るように声をかけたのは正解だったな。……取り敢えず、今回は俺は引き続きレオナールを演じます。しかしペロロンチーノはパンドラズ・アクターとバトンタッチ。パンドラズ・アクターは“御方”役として再度表舞台に出て貰おう。勿論、魔王の更に最上位の存在としてな。それから……そうだな、俺と一つ戦ってもらおうか。冒険者モモンはヤルダバオトと戦うわけだし、“御方”にはレオナールの名声向上の踏み台になってもらうとしよう。そして今後、再び“御方”を表舞台に出す際は、俺がその役を引き継いで演じます」
ニッコリとした爽やかな笑みを浮かべて宣言してくるウルベルトに、モモンガとペロロンチーノは思わず怖気を走らせた。
正に用意周到。
ペロロンチーノやデミウルゴスを〈
そのあまりの手回しの良さにモモンガとペロロンチーノは思わず恐怖にも似た感情を抱いた。
果たして目の前の悪魔は、こんなにも頭の回る男であっただろうか……。
この世界に来てから悪魔らしい狡賢さに磨きがかかっているような気がして、モモンガとペロロンチーノは思わずブルッと小さく身を震わせた。
しかし、ここでいつまでも黙っている訳にはいかない。何とか止めなければ……という使命感にも似た感情に突き動かされて、モモンガは再び椅子に腰掛けながら半ば反射的に口を開いた。
「いくら今回はレオナールを演じると言っても……。第一、それだとそもそもウルベルトさんを魔王役にしなかった意味がなくなっちゃうじゃないですか」
「それはペロロンチーノの働きで半分以上意味をなくしたでしょう。それは俺のせいじゃありませんよ」
「……ぬうぅ…」
正に撃沈。
確かにウルベルトが魔王役を志願した当初、モモンガは“冒険者モモンやワーカーのレオナールの名声向上に利用する可能性”と“囮という役割は危険度が高いため”という理由で何とかウルベルトを説得していた。それを考えるならば、確かにそれらの理由は現状では既に殆ど効力を持たないように思われた。加えてペロロンチーノが“御方”として表舞台に出た以上、ウルベルトは駄目だとは非常に言い辛い。
思わず小さく唸り声を上げるモモンガの傍らで、ペロロンチーノが恐る恐る地面から立ち上がった。
「……あの~、そもそも魔王の上位者ってどういうことですか? 普通に考えて、魔王がウルベルトさんになって、デミウルゴスがその右腕って感じになるんじゃ……?」
「一度魔王役を命じたのに、それがなくなったらデミウルゴスが可哀想だろう! あくまでも魔王役はデミウルゴスで、その上位者として俺が出るんだ!」
「……ぇ~…」
「ウ、ウルベルト様……っ!」
言い負かされてモモンガとペロロンチーノが小さく唸り声を上げる中、ウルベルトの背後ではデミウルゴスが感動したような表情を浮かべている。
声もなく小刻みに身体を震わせている悪魔に、ウルベルトは背後を振り返ると胡散臭いほどに柔らかな表情を浮かばせた。
「ほらほら、そんな顔をするものではないよ、デミウルゴス。お前は私の最高傑作。正に魔王役に相応しい悪魔なのだからね」
「あ、ありがとうございます、ウルベルト様……。そのお言葉だけで、身に余る栄誉にございます……! ですがこのデミウルゴス、我が身の至らなさや身の程は重々理解しております。また、ウルベルト様の寛容さやペロロンチーノ様のご意向、そしてモモンガ様からの度重なるご配慮に、深く感謝を申し上げます」
「「「……ぇ……?」」」
深々と頭を下げながら言われた言葉に、次に疑問と困惑の声を上げたのはモモンガとペロロンチーノとウルベルトの三人共だった。一体何を言っているのか意味が分からず、疑問が頭の中でグルグルと大きな渦を巻く。
しかし幸か不幸か、デミウルゴスもマーレもパンドラズ・アクターもそれに気が付くことはなかった。また、デミウルゴスの言葉もマシンガンのように止まる様子がない。
「ペロロンチーノ様が表に出られたのは、エントマの身を心配して下さったお優しさだけでなく、私では魔王役は務まらないと判断されたからだとは重々承知しております。また、ウルベルト様は予てより魔王役をご希望されておりました。ウルベルト様も先ほど仰られていた通り、当初ウルベルト様が魔王役を務めることが出来なかった幾つもの要因は既に無く、だからこそペロロンチーノ様は、ウルベルト様が魔王役を務められるように敢えて表に出られたのだと、このデミウルゴス、重々理解しております!」
「………え、いや……別にそう言う訳じゃあ……」
「また、モモンガ様におかれましては、今回の計画での至らない点や修正点を我らシモベ一同に分かり易く理解させるため、叱責という形ではなく、敢えてわざとご自身が理解されていない振りをしてまで順を追って説明して下さいました。そのご配慮と大いなる慈悲深さに心からの感謝と共に、今後はこのような御方々様の手を煩わすことのないよう、身を粉にして精進していく所存にございます」
「……いやいや、待て、どうしてそういうことに……」
「そしてウルベルト様におかれましては、我らシモベ一同を思いやってのご配慮の数々。そして今もなお私に魔王役をと仰って下さったそのお優しい御心に、深い感謝を申し上げます」
「……あー、まぁ……うん………」
とてつもない良い笑顔で一息に言ってのけた悪魔に、もはやモモンガたちは言葉もなかった。一体どんな思考をすればそんな考えに行きつくのか、と不思議でならない。
しかしそう思っているのはモモンガたちだけなのだろう。マーレやパンドラズ・アクターはデミウルゴスの言葉を否定する素振りも見せず、逆に肯定するように感謝と尊敬の眼差しを向けてくる始末であった。
以前から、彼らの自分たちに対する重く過剰すぎる忠誠心や思い込みの激しさには薄々気が付いてはいたが、しかしまさかここまでとは思わなかった……と心の中で大きく項垂れる。もはや否定する気力もうせて、モモンガたちは力なく頷くだけに留めた。
「……あー、ありがとう、デミウルゴス。それで、えーと……何でしたっけ……?」
「……今回の作戦と、ウルベルトさんが今後“御方”役を務める件だな」
「あー、そうでした……」
すっかり逸れてしまった話に気力を大いに削がれながらも、しかし何とか気を取り直して話を元に戻そうとする。
モモンガとペロロンチーノは互いに視線を交わすと、無言のままどうすべきかと相談し合った。しかしいくら思考をこねくり回しても、なかなか良い案は浮かんでこない。
そもそもペロロンチーノが“御方”として表舞台に出た時点で、モモンガとペロロンチーノはウルベルトよりも不利な立ち位置になっていた。加えてモモンガやペロロンチーノにとっては不幸なことに、ウルベルトは数多くいたギルドメンバーの中でも特に仲の良かった人物である。ウルベルトは悪知恵が働くだけでなく、モモンガやペロロンチーノの弱い部分もよくよく理解していた。
「話を元に戻すが……、そもそも“御方”役ができたのはペロロンチーノが最初の計画を無視して表舞台に出たからだ。言うなればお前のせいとも言えるんじゃないか、ペロロンチーノ?」
「うっ……! それは、そうですけど……」
「モモンガさんも、そんなに俺の力を信じてくれていないんですか? 心配してくれるのは嬉しいですけど、信頼してもらえないのはすごく悲しいですね……」
「あっ、ち、違いますよ! ウルベルトさんの強さは分かっていますし、信頼もしています!」
早速とばかりにペロロンチーノとモモンガの弱い部分を的確に突いてくるウルベルト。ペロロンチーノには威圧的に、モモンガにはしゅんっとした悲しげな表情を浮かべて精神攻撃を仕掛けてくる。
言葉や表情を使って相手の精神を揺さぶる悪魔に、ペロロンチーノとモモンガはまんまと翻弄された。
ぐうの音も出ずに項垂れるバードマンと、アタフタと慌てふためく
正に悪魔の掌の上。
あれよあれよという間に掌の上で転がされ、最終的にはウルベルトは見事二人を言い包めて魔王の上位者である“御方”役を勝ち取った。
無言のままガッツポーズを決めるウルベルトと、敗者として大きく項垂れるモモンガとペロロンチーノ。
ウルベルトは掲げていた拳をゆっくりと下ろすと、次にはニヤリとした笑みを浮かばせた。
「さて……、では最後に確認とおさらいをしましょうか。まず確認ですが……、デミウルゴス、当初の計画ではこの区画……つまり倉庫区に存在する財と人間は全て手中に収める予定になっていたが、それはどうなっている?」
「はい。財につきましては既にシャルティアの〈
「よろしい。引き続き、この区画に最初からいた人間に対しては手を出すな。今暴れている悪魔たちにも徹底させよ。後、捕獲する冒険者や衛士たちの数も怪しまれない程度に程々にしておきたまえ」
「畏まりました」
深々と頭を垂れるデミウルゴスとマーレに、ウルベルトは鷹揚に一つ頷く。
しかしモモンガとペロロンチーノにしてみれば何とも彼らしくない珍しい命令内容に、思わず疑問のままに首を傾げさせた。
「ウルベルトさんが見ず知らずの人間を気にかけるとは珍しいな。どういった風の吹き回しだ?」
「フフッ、ちょっとしたイメージ戦略の一環だよ。この行動がどの方向へ何処まで転がるかは分からないが、手を抜く訳にはいかないからねぇ」
「そもそも、そんな命令いつ出したんですか?」
「お前とデミウルゴスとパンドラに〈
「いつの間に……!」
大袈裟なまでに驚いて見せるペロロンチーノに、ウルベルトは小さな笑い声を零す。
しかしすぐに笑い声を収めると、次には再びデミウルゴスへと視線を向けた。
「では次だ。私が作戦前に与えたアイテムはどうした?」
「はい。我々が王都を襲撃した理由として、下賜頂いたアイテムは既に“八本指”の拠点の一つの物資倉庫に紛れ込ませております」
未だ深々と頭を下げたまま報告してくるデミウルゴスに、ウルベルトは再び大きく頷いた。
人間側でも、ヤルダバオト率いる悪魔たちの目的は『人間のコソ泥によって盗まれた至宝の回収』であるという認識を既に持っている。ここで証拠品であるアイテムが見つかれば、悪魔たちの目的の信憑性も一気に増すことだろう。
ウルベルトが思わず満足げな笑みを浮かべる中、気を取り直したモモンガが徐に座っていた椅子から立ち上がった。
「さて、ではそろそろ今後の動きについておさらいをして終わりにしよう。まずは私と“ヤルダバオト”役のデミウルゴスが戦闘を開始し、ウルベルトさんは“御方”役のパンドラズ・アクターと戦闘を開始する。ペロロンチーノは監督に戻り、何かあればフォローに動いてもらうこととしよう」
「……分かりました。次は表に出ないように気を付けます」
「くれぐれもそうしてくれ。……それで、戦闘方法はどうする? 共同戦線にでもするか?」
「いえ、それだと些か迫力に欠けてしまうでしょう。モモンガさんとデミウルゴスは当初の計画通り、街の奥で戦って下さい。私は、そうですね……街中を練り歩こうか、パンドラ」
「かっしこまりましたぁぁっ!! ウルベルト様の引き立て役を精一杯務めさせて頂きますっ!!」
「フフッ、期待しているよ。……だが、くれぐれもオーバーにならないようにな。その“御方”役は今後私が引き継ぐのだから、くれぐれも……くれぐれもオーバーにするな。オーバーアクションも大袈裟すぎる口調も駄目だ。あくまでも気品に優雅に私自身を演じるつもりで尽力しろ!」
余程心配なのか、ウルベルトは鬼気迫る勢いで何度もパンドラズ・アクターに注意を繰り返している。
彼の気持ちは非常によく分かるため内心で何度も頷きながら、しかし気になることもあってモモンガは少々申し訳ない気持ちになりながらもウルベルトへと声をかけた。
「街中を練り歩くとは……、つまりこの区画全体で戦うということか? それでは被害が拡大して逆に名声が落ちる可能性があるぞ」
「そこは加減して被害が拡大しないようにするのでご心配なく。大丈夫、上手くやりますよ」
モモンガの不安も何のその、ウルベルトは自信たっぷりに胸を張って笑みを浮かべてくる。
しかしこの男はついつい調子に乗ってしまう部分があるため、どうにも心配でならなかった。
『……ペロロンチーノさん、出来るだけウルベルトさんの方を重点的に監視しといてもらえますか? それで何か事が起こりそうになったらフォローしてあげて下さい』
『了解です、モモンガさん……』
すぐさまペロロンチーノに〈
ウルベルトはと言えばそんな彼らの会話も知らぬげに、非常に楽しそうな笑みを浮かべていた。
「それでは早速準備を始めるとしよう。デミウルゴス、モモンガさんの鎧に戦闘の傷をつけておけ。パンドラズ・アクターは私の姿に変化してからペロロンチーノの装備品を装備しろ。ペロロンチーノ、さっさとその装備を脱いでパンドラに渡せ」
次々飛んでくる命令に、シモベたちは慌ただしく動き始める。モモンガの元へ行くデミウルゴスや装備を脱ぎ始めるペロロンチーノ、そして山羊の悪魔の姿に変化するパンドラズ・アクターを確認すると、ウルベルトも自身の準備に取り掛かり始めた。
とはいえ、することはさほどない。精々自分自身にも戦闘の傷を幾つか刻むだけである。
ウルベルトは一度“人化”を解くと、悪魔の鋭い鉤爪で身体の至る所に傷つけた。頬、首筋、手首……と爪を滑らせて肌を引き裂き、血が流れるのも構わずに再び“人化”を施す。
ウルベルトの行動にデミウルゴスたちが顔面蒼白になるのも構わずに、ウルベルト自身はペロロンチーノの装備を身に纏ったパンドラズ・アクターへと目を向けた。
「後は街中を練り歩きながら傷をつけるとしようか。時折お前の攻撃にわざと当たるから、その際は動揺などしないようにな」
「………畏まりました」
何か言いたげな雰囲気を漂わせながらも、パンドラズ・アクターは深々と頭を下げてくる。
ウルベルトは満足そうに一つ頷くと、次にはニヤリとした悪魔らしい笑みを浮かばせた。
「それでは楽しい喜劇の第二幕を始めるとしようか」
悪魔の弾んだ声に死の支配者とバードマンは深いため息をつき、異形のシモベたちは深々と頭を垂れた。
◇◆◇◆◇◆
街中に多くの音が響き渡る。
高い金属音と破壊音。怒号と悲鳴。術を唱える声と、それに被さる咆哮。
誰の目から見ても地獄のようなその光景の中で、多くの人間と悪魔たちが激しい死闘を繰り広げていた。
誰もが死の恐怖と傷の痛みに耐えながら武器を振るう。
戦況は正に一進一退。一時は悪魔のあまりの物量に押され劣勢となっていたものの、戦士長ガゼフ・ストロノーフや多くの王城守護の騎士や兵士たちを引き連れた国王ランポッサ三世がこの場に現れたことで戦況は一気に優勢へ傾いた。加えて一時はヤルダバオトに殺されてラキュースの手によって復活したものの、今までは回復のため戦場を退いていた“蒼の薔薇”のガガーランとティアも合流し、人間側の士気は最高潮にまで引き上がっていた。
しかし、それでも油断できない戦況であることは変わらない。
悪魔たちはまだまだ多く犇めいており、加えて目の前にいる悪魔の存在に、ラキュースは背筋に冷たい汗を流していた。
彼女たちの目の前にいるのは体長三メートルにも及ぶ巨大な悪魔。
筋骨隆々の体躯は爬虫類のような鱗に覆われており、蛇のような長い尾がゆらりと宙を揺らめいている。背には蝙蝠のような皮膜の翼。頭部は山羊の頭蓋骨で、ぽっかりと空いた暗い眼窩には青白い炎が爛々と燃え上がっている。
王国最強と謳われるガゼフがいても、多くの騎士や兵士がいたとしても、ガガーランやティアが合流しても、それでも決して油断ならない相手。
ラキュースは悪魔を鋭く睨み付けると、魔剣キリネイラムの柄を強く握りしめた。
「……皆、行くわよ!!」
仲間たちに声をかけ、覚悟を決めて強く地を蹴る。
魔剣キリネイラムを振りかぶり、勢いよく攻撃を繰り出そうとした。
その時……――
「――……邪魔だぁぁああぁぁあぁあぁぁぁあぁっっ!!」
「っ!!?」
聞き覚えのある声が聞こえてきたかと思った瞬間、目の前の悪魔が勢い良く横へと吹き飛んだ。
咄嗟に急ブレーキをかけながら驚愕に目を見開くラキュースの目の前に、一人の男が地面へと着地する。
ひどく乱れて前に垂れ下がってくる髪を鬱陶し気にかき上げたその男は、間違いなくモモンたちと共に戦っているはずのレオナール。
どうやら先ほどのは、こちらに飛んできたレオナールがそのままの勢いで悪魔に飛び蹴りをくらわせたものらしかった。
しかし何故彼がここにいるのかラキュースは理解できなかった。
よく見ればその頬にも首筋にも腕にも脇腹にも身体の至る所に傷が走っており、纏っている服にも至る所に焦げ跡や血痕が染みついている。
一体何があったのかと愕然となり、胸に溢れてくる激しい感情のままにレオナールへと駆け出した。
しかし、突然ゾクッと背筋に冷たいものが走り抜け、ラキュースは思わず動かしていた足を止めた。レオナールが自身の飛んできた方向を睨んでいることに気が付き、ラキュースも恐る恐るそちらへと視線を向ける。
瞬間、目に飛び込んできた存在にラキュースは思わず鋭く息を呑んだ。彼女の背後にいたガガーランやティアやティナ、ガゼフやランポッサ三世など、この場にいる全ての人間も同じように大きく息を呑んで驚愕に目を見開かせている。
誰もが緊張と恐怖に身体を硬直させ血の気を引かせる中、その存在はまるで宙を泳ぐようにゆっくりとこちらに飛んできた。
大きな単眼以外の装飾が一切ないペストマスクと、フード付きの漆黒のローブ。その場にいるだけでヒシヒシと感じられる強烈な存在感。周りで犇めいていた悪魔たちが一斉に動きを止めて畏まるような素振りを見せるのに、この場にいる全員がその存在が何者であるのかを理解した。
この目の前の存在こそ、ヤルダバオトに“御方”と呼ばれていたモノなのだ、と……。
「………アインドラさん……」
「っ!!」
不意に名を呼ばれ、ラキュースは反射的にそちらを振り返る。
彼女の視線の先ではレオナールがじっと“御方”なる存在を睨み据えていた。
「……アインドラさん、すぐにこの場にいる全員を連れてここを離れて下さい」
「っ!? な、なにを……、私たちも共に戦います!」
「いいえ、どうか避難を。流石にあなた方を庇いながら戦う余裕はありませんので」
「っ!!」
こちらを一切見ることなく言われた言葉が、鋭く深く胸に突き刺さる。
咄嗟に口を開きかけ、しかし状況は言葉を交わすことさえ許してはくれなかった。
「オオオォォオオォォオォオオォン!!」
地獄の咆哮のような声と共に勢いよく姿を現す一体の悪魔。
レオナールに蹴り飛ばされたはずの悪魔が鋭い咆哮を上げ、手に持つ
咄嗟にラキュースは応戦の構えを取り、しかしレオナールはどこまでも静かに視線のみで悪魔を振り返る。
「………私は邪魔だと言ったはずだぞ。〈
「……ガッ……!!」
瞬間、突如悪魔の足元の地面が大きく盛り上がり、巨大な槍上の赤黒い楔が勢いよく姿を現した。そのまま下から悪魔に襲い掛かり、巨体を貫いて悪魔の頭蓋すらも突き破る。一直線に串刺しに貫かれた悪魔はまるで磔にされた魚のようにピクピクと身体を震わせると、次の瞬間にはまるで最初からそこにいなかったかのように闇の粒子となって消滅してしまった。
強大な悪魔の唐突の死に、この場にいる誰もが思わず呆然と立ち尽くす。たったの一撃で悪魔を葬ってしまったレオナールに、誰もが信じられないといったような視線を向けていた。
しかしレオナールはそんな周りの様子を気にする素振りも見せず、ただ視線を楔から離して再び“御方”へと向ける。小さく細い息を吐き出すと、次にはこの場にいる全員に向けて鋭く声を張り上げた。
「早くこの場から逃げろっ!! 〈
どこからともなく青白い雷が姿を現し、のたうつ龍のようにレオナールの指先から宙へと躍り出る。落雷にも似た放電を発しながら一直線に“御方”へと食らいつこうと襲いかかる。
しかし“御方”はひらりとそれを躱すと、次には人差し指をレオナールへと突きつけた。
「〈
「〈
“御方”の指先から幾つもの雷を束ねたような巨大な豪雷が放たれ、レオナールと彼の側にいたラキュースへと襲い掛かる。
あまりの迫力に目を見開いて思わず身体を硬直させるラキュースに、不意にレオナールの手が彼女の肩を掴み、そのままグイッと力強く引き寄せた。ラキュースはまるで守るように懐深く抱き込まれ、それとほぼ同時にレオナールの詠唱によって巨大な石壁が地面から姿を現す。
激しい衝撃と破壊音を響かせ、眩い閃光を放ちながら石壁へと激突する豪雷。
それら全てを全身で感じながら、しかしラキュースは、今はそんな時ではないと分かっていても高鳴る心臓を抑えることが出来なかった。力強い腕の感触も、硬い胸板も、自分よりも広い肩幅も、全てがすぐ側にあって鼓動を更に激しくさせる。
しかし幸か不幸か、その時間はすぐに終わりを告げた。
不意に身体を包み込んでいた腕が離れ、両肩を掴まれて体温からも引き離される。至近距離から見つめられて思わず頬を紅潮させるものの、しかしレオナールの真剣な表情に気が付いて、ラキュースはすぐに意識して顔を引き締めさせた。
「良いですか、アインドラさん。今すぐこの場にいる者たちを連れてこの場を離れて下さい。悪魔たちも、あの“御方”と呼ばれる存在がいるうちは大人しくしているようです。今のうちに撤退するか他の場所に援護に向かって下さい」
「……いいえ、私も一緒に戦います! 確かに足手まといになってしまうかもしれませんが、あなたの補助をするくらいならできます! 〈
役に立てることを証明するように、レオナールへと治癒魔法をかける。
レオナールは小さく驚愕の表情を浮かべると、次にはフッと小さな笑みを浮かべてきた。
「その気持ちだけ受け取っておきましょう。そして治療して下さり、感謝します」
「っ!! ……レオナール様!」
両肩を掴んでいた手すら離れて、こちらに背を向けるレオナールに思わず引き留めようと名を呼ぶ。しかしレオナールは一切こちらを振り返ることなく、石壁の影から前へと足を踏み出した。
そこにいるのは、静かに宙に浮かんでこちらを見つめている“御方”なる存在。
レオナールと“御方”が静かに対峙する様に、誰もが知らずゴクリッと固唾を呑んだ。
「……別れの挨拶は終わったのかな?」
「おや、待っていて下さったのですか? 尤も、あなたに負けるつもりは微塵もありませんが……」
「フフッ、大層な自信だ。私の力に屈し、彼らが苦痛を味わうのを見たら、君はどんな表情を浮かべるのだろうねぇ」
「私以外の者に手を出すことは許しませんよ」
「それは全て、君次第だ」
「……そうですね。……では、その通りにいたしましょう…!!」
言い終わったとほぼ同時にレオナールの姿が掻き消える。
一瞬後、再び姿を現したのは“御方”のすぐ目の前。
懐深く入り込んだレオナールは、勢いよく右手を“御方”の胸元へと手を突き出した。
「〈
瞬間、大きな衝撃波がレオナールの掌から放たれ“御方”が成す術もなく後方に勢いよく吹き飛ばされる。近くにあった大きな家に突っ込んで破壊音と大きな土煙が上がるのに、ラキュースだけでなくこの場にいる誰もが思わず唖然となった。突然のことに頭が付いていかず、逃げることも参戦することもできずに立ち尽くす。
しかし、もちろん全員がずっと呆けているわけではない。
「………相変わらず、すげぇな……」
「っ!! ……ガガーラン、それに皆も…」
不意に聞こえてきた声に振り返れば、“蒼の薔薇”の仲間たちとガゼフがこちらに駆け寄ってくるところだった。石壁に身を隠すように屈み込みながら、ラキュースと並んでレオナールと“御方”の方を窺う。
彼らの視線の先では、既に吹き飛ばされたはずの“御方”が舞い戻っておりレオナールと激しい戦闘を繰り広げていた。
互いにあらゆる魔法を発動し、その度に騒音と衝撃と色とりどりの光が荒れ狂う。ギリギリで攻撃を避けながら反撃する“御方”とは打って変わり、レオナールは転移魔法を連発して攻撃を躱したり距離や方向を縦横無尽に変動させながら魔法を繰り出していた。
想像を絶する光景と、常人には決して真似できない動き。何より、あの“御方”という恐ろしい存在と渡り合えているという事実。
レオナールの底知れない力と戦闘センスに、ラキュースたちは純粋な驚きや心強さだけでなく大きな戦慄を覚えていた。
「……これが…、ネーグル殿の力……」
「前の時より強くなってんじゃねぇか?」
「……いいえ。恐らく……これがレオナール様の本当の力よ……」
彼女たちの目の前で、レオナールと“御方”の戦闘は更に激しさを増していく。互いの実力は拮抗しているのか、中々戦況は動く様子を見せなかった。
ラキュースたちが手に汗握って彼らの戦闘を見守る中、不意にレオナールが“御方”から距離をとる。
今までになかった動きに誰もがレオナールを注視する中、突然に“それ”は起こった。
「……行くぞ……」
ポツリと一つ呟いたとほぼ同時に、真っ直ぐに背筋を伸ばして立つレオナール。
軽く両手を広げた瞬間、レオナールを中心に様々な魔法陣が地面や宙、そしてレオナール自身と至る所に同時に浮かび上がった。
続いて起こったのは、正に魔法の嵐。
水が、雷が、炎が、氷が、風が、衝撃が、地面が、毒が、酸が……ありとあらゆる魔法による事象が次々と発動する。数多の無詠唱の魔法が同時に、そして矢継ぎ早に発動し、次から次へと“御方”へと襲い掛かる。
今までに見たことのない戦闘方法と光景に、誰もが驚愕の表情を浮かべながら目を奪われた。
同時に希望を抱く。もしかすれば“御方”なる存在は、これで死ぬではないか、と。こんな魔法の嵐を諸に受けて、死なないはずがない。
誰もが希望とある種の興奮を胸に見守る中、レオナールの攻撃は数分まで続いた。
そして後に残ったのは数多の魔法による煙と、耳に痛いほどの静寂。未だ空気はビリビリと震えており、ラキュースたちの肌にもピリピリとした小さな痛みを与えている。
「……やった、のか……?」
「分からないわ。でも、恐らく……」
ガガーランの呟きにラキュースは口を開き、しかし途中で言葉を途切らせる。曖昧なことは言うべきではないが、しかしこんな攻撃を受けて生きている訳がないという思いもあった。
取り敢えずレオナールの元へ行くべきだろうと判断し、目の前の石壁へと手を掛ける。
しかし、いざ足を踏み出した、その時……。
「……ふむ、素晴らしい力だ。敵ながら敬服する」
「「「っ!!?」」」
突然聞こえてきた声と、煙から徐々に浮かび上がる見覚えのあるシルエット。
煙が徐々に風に流れて薄れていき、姿を現したのは未だ余裕綽々といった“御方”の姿だった。
思わず誰もが息を呑み、驚愕の表情を浮かべて恐怖に身体を震わせる。あんな攻撃を受けて平気だなんて……と一気に大きな絶望感に襲われた。
一体どうすればいいのか。
一体何をすれば、この存在は倒せるのか……。
誰もが目の前が真っ暗になる中、しかしまるでそれを断ち切るかのように唐突にレオナールが声を張り上げた。
「それは、ありがとうございます。それで……、まだやりますか? それとも降伏でもしますか?」
その姿は堂々としていて、とても心強い。力強いその姿に、誰もが知らず心を奪われる。
誰もが魅了される中、“御方”は少し考えるような素振りを見せた後、次にはゆっくりと小さく頭を振ってきた。
「……いや、そろそろタイムリミットだ。残念だが、ここは退散させて頂こうか」
「「「っ!!?」」」
「ほう、何故だ? 目的の『盗まれた至宝』とやらが見つかったのかな?」
「いいや、残念ながらまだ見つかってはいない。ただ先ほども言っただろう? タイムリミットだ」
“御方”がひょいっと軽く肩を竦めながら言ってくるのに、誰もが困惑の表情を浮かべる。
本気なのか、それとも罠なのか……。
どうにも判断しかねて、周りの冒険者や騎士や兵士たちはラキュースやガゼフやランポッサ三世へと目を向ける。
ラキュースも彼らの視線を感じながら、どうすべきかと頭を悩ませた。
見逃すべきか、それとも追撃するべきか。しかし追撃するとして、本当にそんなことが可能なのか。
思わず顔を顰めさせる中、まるでラキュースたちの悩みなど知らぬげにレオナールが再び口を開いた。
「この場を退くとして、他の悪魔たちはどうするのです? あなたの配下のヤルダバオトは……ここに残るのですか?」
「いいや、それは君たちが許さないだろう? それに、私も大切な配下をこれ以上傷つけるのは忍びないからねぇ」
“御方”は再び小さく肩を竦めると、徐に右腕を軽く掲げてパチンっと一つ指を鳴らした。瞬間、今まで大人しくしていた周辺の悪魔たちが徐に動き始める。クルッと踵を返してこちらに背を向け、そのまま次々と街の奥へと消えていく悪魔たちに、誰もが呆然とした表情を浮かべてそれらを見送った。
「ほら、これで安心だろう? ヤルダバオトも既にここを去っているはずだ。……さて、では私も引かせて頂こうか」
クツクツと不気味な笑い声を零す様が不気味でならない。
そのままこちらに背を向ける“御方”に、しかしその存在を引き留める者がいた。
「ちょっと待て!」
誰もが驚いて声の方を振り返れば、そこにいたのは“蒼の薔薇”のガガーラン。
“御方”が後ろ姿を見せたまま顔だけで振り返ると、ガガーランは睨むように強い双眸で“御方”を見据えていた。
「あんたはウチんところのイビルアイを欲しがってたよな? それは何故だ? まだあいつを狙うつもりなのか?」
瞬間、ピタッと“御方”の動きが止まる。そのまま微動だにせず、まるで石のように固まる。
誰もが固唾を呑んで見守る中、しかし“御方”は黙り込んで、また何も話そうとはしなかった。
まるで何かを思案しているかのようなその様子に、誰もが少なからず疑問の表情を浮かべる。
しかし質問をした本人であるガガーランは苛立ちを募らせていた。
「おい、何か言ったら……!!」
「いや……、少し確認したいことがあったのでね……。それでご足労願いたいと思ったのさ。……今後どうなるかは分からないが、今のところはこれ以上狙うつもりはないよ」
「それは……、信じていいんだろうな……?」
「フフッ。それは君たちが判断したまえ」
ガガーランの言葉に、“御方”は小さな笑い声を零す。それでいて振り返っていた顔を元に戻すと、次にはバサッと少々大袈裟な素振りで纏っているローブの裾を振り払った。
瞬間、突然何もない空間に楕円形の闇が現れる。
“御方”はその闇に消えていき、一拍後にはその闇すらもスゥッと空気に溶けるように消えていった。
後に残ったのは、戦場の跡が深く刻まれた街の景色のみ。
誰もが暫く呆然となる中、しかし徐々に思考がついてきたのか、徐にざわつき始め、次には一人一人が歓喜の声を上げ始めた。一つの声が二つに、二つの声が三つに……と、どんどん複数に多く大きくなっていく。
「「「オオォォォォオオォォオオォオオォッォオォォオオォっっ!!!」」」
最後には多くの大歓声が街中の大気を大きく震わせた。
今回、ウルベルトさんが使用した魔法の中に〈石壁〉が出てきたのですが、〈石壁〉は一体第何位階魔法なんですかね。ウルベルトさん扮するレオナールは第五位階までしか使用できない設定にしているのですが、果たして……。第五位階以内に入っていることを祈る……(汗)
また、ペロロンチーノがイビルアイを狙った理由が最後にぼんやりと語られましたが、更に詳しい理由は今後書く予定にはなっております。
*今回のウルベルト様捏造ポイント
・〈重奏狂歌〉;
種族:魔術の神王の特殊技術。三つまでの魔法を同時に詠唱でき、詠唱中に動き回ることも可能。ただし消費するMPは1.5~2倍になる。
・〈血の楔〉;
地面に槍上の楔を生やし、対象者を串刺しにする即死系魔法。即死に対するレベル差などの対処は可能だが、即死した者はその時まで残っていたHPとMPを詠唱者、あるいは詠唱者のギルド・メンバーに吸い取られる。