黒ずくめの魔戒騎士   作:Hastnr

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7:【幽戯】(中)

7:【幽戯】(中) 

 

 

――――――

 

 

「――ふっ!」

 

 丹田に込めた氣と共に、オブジェの影に右手に握った剣を突き刺す。ソウルメタルの刃に誘発されて浮き上がる邪気の塊めがけ、左手に握った剣を振るう。

 超金属の剣によって分断された黒い靄の塊が空中に散じていく様を見届け、桐ヶ谷和人は二振りの魔戒剣を背中の鞘へと収めた。

 

「これで全部かな、ユイ?」

『はい、パパ。感知できる邪気の塊は、全て浄化完了しました』

 

 首にかけた魔導具からの返事に頷きつつ、和人はふっと小さく息を吐く。

 少しばかり日が傾き始めた遅めの午後。ここしばらくリズとシノンに任せきりだった、町に散らばる邪気の塊を浄化するという魔戒騎士の基本的な仕事を和人は久しぶりに遂行していた。ユイ以外は誰も連れず、たった一人で。

 

『よかったのですか? パパ。リズさん、それにシノンさんと一緒ではなくて』

「ああ。最近、ずっと任せっぱなしだったからな。いくら魔戒法師とはいえ、二人にも息抜きできる日くらい必要だろ?

 それに……」

『それに?』

「……ちょうど俺も、気分転換がしたかった」

 

 相変わらず成功の兆しが見えぬ『烈火炎装』の習得。その鍛錬から一時離れ、慣れた仕事を遂行することは、己に向けた苛立ちの解消に存外役立っている。

 それに、孤独――ユイはいるが――な状況で、すべきことを淡々とこなすということは、己の内面と改めて向き合う一助となるのではないかと、和人は感じていた。

 

「……っと。そろそろいい時間だな。明日奈を迎えに行こうか、ユイ」

『はい!』

 

 元気よく返事をするユイの頭に触れたあと、和人はあえて人気の無い裏道を選んで歩きだす。このあたりに邪気の籠もったアイテムをばらまいている者を探すためというのもあるが、何より魔導具であるユイと会話している姿を誰かに見られたくないというのが理由の大部分を占めていた。

 

『パパ、今日もあのカフェの側で待ち合わせですか?』

「いや、直接迎えにいくよ。お土産のケーキはお預けだな」

『むうう……残念です』

 

 裏通りを抜け、多くの人が行き交うメインストリートを歩くことしばし。明日奈が通う女子大、その正門を和人は視界に捉えた。大きな白い門の向こう側には、周囲を背の高い金属フェンスに囲まれた大学の敷地と、立派な校舎の姿が見て取れる。

 周りを行き交う学生と思しき女性達と、十中八九大学関係者ではなさそうな男達が彼女らに声をかけようとうろついている姿を一瞥したあと、和人は荷物を運ぶ宅配業者の車が通り抜けるタイミングに合わせて構内へと脚を踏み入れた。

 息を殺し、気配を殺す――という、本気の隠形まではしないものの、和人は屯する学生たちの死角を肌で意識し、植込みや建物の影に己を溶け込ませながら歩む。隙のない滑らかな所作に魔法衣が持つ認識阻害の力を合わせれば、和人の存在に気付くものはほとんど居ない。

 それはまるで、夜闇の中に潜む影法師。いかに桐ヶ谷和人がこの場における異分子とはいえ、音もなく歩む彼の姿を誰にか捉えられよう。

 捉えられる者がいるとすればそれは、よほど勘のいい者か、あるいは――。

 

「――あっ、キリトくん!」

 

 夜を彩る月にも優る輝きを備えた、闇を照らす者に他ならない。

 

「悪い、待たせちゃったみたいだな。明日奈」

「ううん。私が早く来すぎただけだから、気にしないで」

 

 大学図書館の裏手にある、木々に囲まれた静かな一角。四本の柱に支えられた屋根が設えられた粗末な四阿の中でベンチに座ったまま、明日奈は夏に咲く向日葵のように明るい笑顔を見せた。

 彼女のこうした顔を間近で見る度に、和人は素直な喜びと共に、どこか昏い欲望の色を孕んだ優越感を覚えてしまう。

 どこをとっても魅力に満ち溢れた彼女。きっと遠くないいつか、生きる世界を別にすることになる彼女。その彼女が、自分にだけ見せる深い信頼と慈愛に満ちた喜びの顔。その表情をもっと見たいと心のどこかで望んでしまっている事を和人は自覚し、己以外の誰にも悟られる事の無いよう願っていた。

 悟られてしまえば、己の中にいる欲望という名の獣に歯止めをかける術を失う――そんな気がして。

 

「ところで……今日も私の勝ちみたいだね、キリトくん?」

 

 得意げな笑みを浮かべたまま、明日奈は右手を差し出して言外に次の行動を要求する。

 言うなればこれは、ちょっとしたゲームだった。明日奈を大学構内まで直接迎えに行った際、和人が声をかけるより早く、明日奈が彼の存在に気づけば明日奈の勝ち。逆に、明日奈に気づかれる事無く、彼女に声をかけることができれば和人の勝ちという単純なゲーム。

 その単純なゲームに、和人はこれまで一度たりとも勝てていない。

 肩を竦めて敗北を認めたあと、勝者の要求に従い、和人は差し出された左手に己の右手を重ねる。繊細なガラス細工を扱うときのように慎重な手付きと力加減で御する指先に、明日奈の白い指が絡まり、柔らかな肌の感触を伝えてくる。

 

「それじゃあ、帰りのエスコートよろしくね。キリトくん」

「お、お望みのままに……」

 

 『和人が勝ったら、晩御飯の献立に一品追加』。

 『明日奈が勝ったら、家まで手をつないで帰る』。

 勝者に特典があった方が盛り上がるだろうと、この他愛もないゲームを始める時に決めたルール。当然ながら和人は全戦全敗中であるため、夕食の献立に何かを追加してもらった事はなく、毎度毎度明日奈と手をつないでは共に家路についている。

 ――ただ、こうして手をつないで帰ったあとの明日奈は妙に機嫌が良く、夕飯も普段より気合の入ったメニューが出てくる気がしないでもない。

 実際のところ、勝とうが負けようが――いやむしろ、負けた方が大いに得なのではないだろうかと、和人は最近感じ始めていた。

 

「……なあ、明日奈。やっぱり、まずいんじゃないか?」

「まずいって、何が?」

「いや、ほら……こんな風にしてると、また噂されるんじゃないかと思ってさ」

 

 わざわざ視線を動かさずとも、周囲から向けられる視線程度なら簡単に感じ取れる。大学構内の裏手側に設置された通用門に向けて足を進めている間、十や二十では効かぬ視線が遠巻きに和人達を見つめている。魔法衣の術も、明日奈を伴っている状態では十全に機能しないのは当然だ。

 視線の主達が直接寄ってこないのは明日奈に遠慮しての事だろうが、きゃあきゃあと囃し立てるような声は遠くからでも耳に届く。魔法衣が持つ認識阻害の力によって和人自身の顔を覚えられることはない。しかし、元より魔戒の術が効かぬ明日奈はそうもいかない。

 この調子では、週明けにはまた話題の中心人物として色々と面倒な事になるのは火を見るよりも明らかだった。

 

「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ。友達は色々気を使ってくれてるし、それに……」

「それに?」

「ふと気づいたの。私、キリトくんが相手なら、噂されても嫌じゃないな――って」

「まあ、明日奈がそれでいいなら……」

 

 渦中にいる人物がそれで良いと言うのであれば、和人もこれ以上食い下がる理由はなかった。

 

「……まあ。そんなに心配してくれるんなら、早く私の索敵スキル……ううん。

 ”索キリトくん”スキルに勝ってくれるだけでいいんだけど?」

「め、面目ない……」

 

 苦笑を浮かべさせられた頬を空いている手で掻き、もう一方の手に明日奈の細い指を絡めたまま、和人は裏手の通用門を通って大学の敷地を後にした。

 暑くもなく、かといって寒くもないこの時期の夕刻は、のんびりと歩くにはうってつけと言える。

 和人が覚えている限り、今日は買い物の予定も無ければ、どこかに寄っていくような用事もない。そういう時、大学と魔戒道入り口を結ぶ帰り道のルートとして、近くにある大きな公園を通り抜ける事を選択するのは二人の恒例行事となっていた。

 

「……なんだか、不思議な感じ」

 

 ボールとスマホを抱えた幼い兄妹が、笑い声をあげながら和人達の横を駆け抜けていく。その微笑ましい様を眺めたあと、明日奈はそんな言葉をつぶやいた。

 

「不思議って……あの子達が?」

「ううん、そうじゃなくて」

 

 怪訝な顔をした和人の問いに対し、明日奈は首を横に振る。

 

「こうしてキリトくんの隣で歩いていると、魔戒騎士とか、ホラーの事とか……。

 まるで、全部夢の中の出来事だったみたいに思えてきちゃうなあ……って」

「――いつか、そうなるさ。怖かったことも全部忘れて、明日奈が平和な世界に戻れる日が来る」

 

 明日奈と繋いだ手に、無意識の内にわずかな力が籠もる。

 彼女が己の側にいるのは、あくまでホラーの脅威に晒されているためにほかならない。最初から終わる事が決まった、終わらせなければならない関係なのだ。

 

「……忘れなきゃ、ダメなんだよね。キリトくんや、みんなのことも」

「ああ」

 

 古傷のように、心中をじくりと苛む微かな痛みを無視しながら、和人は首肯する。

 魔戒の知識とは、秘されねばならぬ外方の術の塊。都市伝説や噂話程度の認知ならともかく、只人がその存在をはっきりと知る事は許されない。

 明日奈の場合も同様だ。ホラーに狙われている件に片が付き、法術の効かない彼女の体質をどうにかする事ができ次第、魔戒騎士やホラーに関する記憶を封じ、日常に戻さなければならないだろう。

 

「――それじゃあ。今のうちにたくさん思い出、作っておかないとね。

 私が忘れちゃっても、キリトくんやみんなが、私のことを覚えててくれるように」

「ああ、そうだな」

 

 いつか訪れる永遠の別離を抱えたまま、和人は明日奈と微笑みを交わし、手をつないだまま帰り道をゆっくりと歩む。

 夕時の公園には多くの人が集まり、思い思いの時間を過ごしている。小型の自転車を乗り回し、トリッキーな機動に挑戦している若者もいれば、芝生の上に寝転んで寝息を立てている壮年の男性もいる。

 ふと、和人の視界の端に、先程走り抜けていった幼い兄妹の姿が映る。イベントスペースか何かと思しき場所に乗り入れた、ひさしのついた赤いフードトラックの前に揃って並んだ兄妹は、販売スタッフからカップに入ったジェラートアイスを受け取ると、満面の笑みを浮かべて走り出していった。

 

「へえ、ジェラートの屋台か。なんだか珍しいな」

「ジェラート? ……ほんとだ。ここら辺では初めてみたかも」

 

 和人同様にフードトラックの存在に気づいた明日奈が、物珍しそうな視線を向ける。この公園はそれなりに人が集まることもあってか、ケバブやクレープを売るフードトラックが出ているのを見かけたことはある。しかしジェラートの屋台となると、和人は初遭遇だった。

 

(食べたそうだな、明日奈……)

 

 ちらりと横に視線を向ければ、フードトラックの前に置かれたメニュー表をじっと見つめている明日奈の顔が見える。ならば、和人が次にする事は決まっていた。

 

「よかったら、奢るよ。明日奈」

「ほんとに!?」

「ああ。買ってくるから……そうだな、そこのベンチで少し待っててくれ」

 

 フードトラックからさほど離れていないところに設置されている木製のベンチを見つけ、和人は明日奈をそこまで案内する。その場の空気すらも華やがせてしまうような笑みを浮かべ、明日奈はベンチに腰を下ろした。

 

「おっと、そうだ。何味がいいかな、明日奈」

「うーん……色々あるから迷っちゃうなあ……」

 

 メニュー表をじっと見つめながら思い悩むことしばし。明日奈は何かを思いついたらしく、ぽんと両手を叩き、視線を和人へと向けた。

 

「ね、キリトくん。せっかくだし、キリトくんが選んでくれる?」

「俺が?」

「うん。私が好きそうな味を選んでくれると嬉しいな」

「……よし、わかった。ただし、『激辛タバスコ風味』とか出てきても知らないからな」

「大丈夫。そこは、キリトくんを信頼してますから」

 

 軽口一つに対し、信頼9割、念押し1割が混じったような眩しい微笑みを返されてしまっては、和人に為す術などあろうはずもない。

 ぱたぱたと手を振る明日奈に、敗北宣言代わりに手を振り返しつつ、和人はジェラートの屋台へと歩を進める。

 屋台の前に置かれたメニューリストには、目にも鮮やかな色とりどりのジェラートアイスの画像と共に、それぞれのフレーバーの説明文が書かれている。ざっと数えたところ、20種類程度だろうか。『チョコレート』や『マンゴー』といった、甘い物にはさほど詳しくない和人でも味を想像できるものから、『北欧の風と神話をまとう七色のプリンセストールタ風味』という全く想像のつかないものまである。

 

(明日奈が好きそうな味……明日奈のためのフレーバーか……)

 

 メニュー表とにらみ合いながら、和人はじっと思索を巡らす。味の想像がつかないものは候補から外す――本当に唐辛子風味だったら目も当てられない――として、残る候補は15種類ほどか。

 写真写りのよいジェラート達を30秒ほど眺めたあと、和人はようやく答えを決めた。

 

「すいません。この『マスカルポーネ』と『レッドラズベリー』を、ダブルで」

「ありがとうございます~。ジェラートダブルで700円です~」

 

 和人が小銭を用意している間に、屋台の店員はフードトラック奥の冷凍庫を開け、使い捨てのカップに手際よくジェラートを盛り付けていく。急峻な山脈の頂上のように屹立する紅白2色の冷たい角が作られ、その合間に黒いプラスチックスプーンが突き刺さる。

 

「じゃあ、これで」

「ちょうどいただきました~。またどうぞ~」

 

 小銭3枚と引き換えにジェラートを受け取り、和人はフードトラックに背を向け、ベンチへと歩く。

 

「お待たせ、明日奈」

「おかえり、キリトくん。さてさて、キリトくんはどんなフレーバーを選んでくれたのかな?」

「誤解を生む前に言っておくけど、唐辛子味じゃないからな」

 

 期待に満ちた表情で迎えてくれた明日奈にジェラートのカップを渡し、和人は彼女の隣に腰を下ろした。

 

「白いほうがマスカルポーネ。赤いほうがレッドラズベリー」

「わあ、どっちも美味しそう……。それじゃ、さっそく。いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」

 

 白と赤の山脈から黒いスプーンを引き抜いた明日奈は、2つの山肌を削り取って口へと運ぶ。

 

「――んんん~~~っ!」

 

 舌の上で溶けていくジェラートの感触と風味を堪能している明日奈の口から、感嘆の声が漏れた。喜びにほころんだ顔のまま、明日奈は心底嬉しそうにジェラートを味わう。

 こうして彼女を喜ばせる事ができ、そしてその笑顔をこんなに近くで見られる権利を得るための費用が、たったの700円というのはあまりにも安すぎる。10倍、いや、1000倍出したってお釣りがくる。

 

「キリトくん。これ、すっごく美味しいよ!

 マスカルポーネの方はチーズの濃厚さがしっかり主張されてるおかげで、舌に載せただけで風味がふわっと広がって……。

 そこにちょっと酸味のあるラズベリーが合わさると、ベリーの風味がより深く際立つし、後味もすっごく爽やかで……。

 とにかく、お互いに味を引き立てあってて、すっごく最高だよ!」

「お、おう……。とにかく、お気に召す味だったようで何よりだ。明日奈」

 

 太陽以上にまぶしい明日奈の笑顔は、ジェラートが溶けてしまうのではないかと一瞬心配になるほど。

 

「ちなみに、キリトくん。どうして、このフレーバーを選んでくれたの?」

「それは……」

 

 明日奈に問われた和人は、思わず答えに詰まる。それは何も『なんとなく選んだから』というわけではない。むしろ、これを選ぶべきだろうと判断した理由があるからこそ、答えに窮してしまう。

 素面で口に出すには少しばかり気恥ずかしい理由であるがゆえに。

 

「キリトくん?」

「……あー、言う。言うけどさ……笑わないでくれよな」

「笑う? よくわからないけど、そんなことしないよ」

 

 きょとんとする明日奈から一瞬だけ視線を外し、小さく咳払いをしたあと。和人は意を決して再び口を開いた。

 

「実は……こないだ作ってくれたチーズケーキと、添えてあったベリーソースがめちゃくちゃ美味かったなってのを……思い出してさ」

「ははーん……なるほど。要は、自分の食い意地が張ってる事を知られたくなかったんだ」

「まあ、それも大いにあるんだけど」

「けど?」

「……その。屋台の前にあるメニュー表を見た時、ピンと来たんだ。

 『これ、明日奈の色だな』……って」

 

 カップの中に残る、白いマスカルポーネと真っ赤なレッドラズベリーのジェラートに視線を向けながら、和人は答えを口にした。

 純白(ビアンコ)()鮮紅(ロッソ)。明日奈の魅力をどこまでも引き立てる対象的な二色。あの世界――『SAO』で、『閃光』のアスナがまとっていたという色。そして昨晩、剣を振るった明日奈がまとっていた色。その印象が強烈に焼き付いている和人が、その二色を持つアイスを選んでしまったのは、半ば必然的なことだったと言えるかもしれない。

 

「そっか……そんな事まで考えて選んでくれたんだ。

 だから、こんなに美味しく感じるんだね。このジェラートも」

「いや、気持ちでジェラートの味は変わらないと思うけどな……」

「変わるよ。ほら、料理には作る人の気持ちが籠もるってよく言うでしょ?

 それと同じように、このジェラートには、選んでくれたキリトくんの気持ちがいっぱい詰まってるんだから、その分美味しくなってるんだよ」

「……明日奈にそう言われると、なんだか説得力があるな」

「でしょ?」

 

 得意げに頷いたあと、明日奈は再びスプーンを手に取ってジェラートに突き刺す。その明日奈の視線が、不意に和人の手元へと向いた。

 

「……そういえば。キリトくん、自分の分は買ってないの?」

「ん? ……ああ。明日奈の分を選ぶのに夢中で、買うのを忘れてた」

「よかったら、一口食べる?」

「……いいのか?」

「もちろん! ご馳走してくれたお礼と、真剣にチョイスしてくれたお礼って事で」

「なら、喜んで」

 

 明日奈の厚意を無下にするのも悪いと、和人はジェラートのカップとスプーンを受け取るべく両腕を伸ばす。その指先がカップに触れる直前、明日奈は手にしたカップをすっと動かし、和人の腕から距離を取る。

 更に、手にしたままのスプーンで白と赤のジェラートを器用にまとめてすくうと、和人の方へと差し出した。

 

「えーと……明日奈、さん……?」

「キリトくん。はい、あーん」

「いや、あーんって……えっ!?」

「ほーら、早くしないと溶けちゃうよ?」

 

 明日奈の微笑みと共に、口元へと差し出された二色のジェラート。こういう状況で、次にどういった行動を求められているかがわからないほど、和人は世間知らずではない。

 もっとも、行動に移すにはそれなりに勇気が必要ではあったが。

 

「あ、あーん……」

 

 大きく開けた口の中に、明日奈がスプーンを差し込み、ゆっくりと引き抜く。

 舌の上に置き去られたジェラートがとろけ、丁寧に練り込まれたフレーバーの味わいが広がっていく。

 濃厚なマスカルポーネフレーバーは重厚さと共にしっかりと存在感を発揮していながら、それでいて嫌味なくどさを感じさせない絶妙なバランスを保ち、豊かな満足感を醸し出す。

 そこに、野趣溢れる甘さと鮮烈な酸味で作り出されたレッドラズベリーフレーバーの爽やかな甘酸っぱさが加わることで、両者の味の違いがくっきりと浮かび上がっていく。後味もしつこくなく、ひんやりとしたジェラートの感触だけが口内を包む。

 甘いものにはさほど詳しくない和人でも、このジェラートのクオリティの高さは理解できた。

 

(東の管轄にあったあの店にも負けてないな、このジェラート……)

 

 数年前、故あって東の番犬所の管轄エリアを訪れた際、ふらりと――正確に言えばリズとシノンに強請られて寄ったスイーツショップで食べたケーキのクオリティを思い出させるすばらしい出来だった。

 この間、メンテ明けのピナを回収するために東の管轄を訪れた際も、土産として何か買っていこうと同じ店に寄ってみたが、残念なことにメインパティシエを務めていた女性が事故で亡くなったために閉店するという張り紙が店先に出されていた。

 

「……本当だ。すごくうまいな、これ。明日奈の色を選択して正解だったよ」

「でしょ?」

 

 そう言って、明日奈はジェラートを一匙すくうと、今度は自分の口の中へと運んだ。そうしてしばしの間、この世全ての喜びを集めたような笑顔で冷たいジェラートを堪能していた明日奈だったが、ふと何かに気づいた様子で手を止めた。

 

「ねえ、キリトくん。私、今更だけど気付いたことがあるの」

「ん?」

「さっき、『明日奈の色で選んだ』って言ってたでしょ?

 でもね。よく見たら、ここにキリトくんの色もちゃんとあるんだなーって」

 

 明日奈はそう言うと、ジェラートの最後の一口分が乗った黒いスプーンを、再び和人の方へと差し出した。

 赤と白を引き立て、支え、ここではないどこかに運ぶ黒。明日奈の言う通り、その黒の色は確かに、和人の色と言って差し支えなかった。

 

「はい、あーん」

「あーん……

 

 二度目ともなればさすがに戸惑いは薄れるものの、それ以上に気恥ずかしさの方を強く感じる。しかし、こうなってしまっては他に取れる道がない。

 和人は再び口を大きく開け、明日奈が差し出す彼女の色を口に含み、その味をしっかりと堪能した。相変わらず、美味い。

 

「ご、ごちそうさまでした……」

「こちらこそ、ごちそうさまでした。キリトくん」

「……それでさ、明日奈。今更だけど、俺も気付いたことがあるんだ」

「なになに? 教えて」

 

 興味津々という様子の明日奈から、和人は空になったジェラートカップとスプーンを受け取る。

 和人が気付いたことはひどく単純なことであり、もしかしたら気付いたことを言う必要すらないかもしれない。しかし、ここでそのことを明日奈に伝えないのはひどく不誠実な気がする。

 その不誠実さを抱えていくよりは、いっそ詰られでもした方がマシだと考え、和人は事実を伝える決意と共に口を開いた。

 

「その……不愉快だったら、頬の一つや二つ張ってくれていいんだが」

「?」

「かっ……」

「か?」

「『間接キス』になっちゃったよな。さっきの」

 

 和人の言葉が明日奈の耳に届くまでにかかった時間は、0.1秒にも満たなかっただろう。

 だが、熟れたリンゴのように顔中を真っ赤に染めたまま俯いてしまった明日奈が、次の言葉を発するまで、たっぷり30秒は時間が必要だった。

 そのわずかな時間――和人にとって永遠に思えるほどの時間だったが――が過ぎたあと。ようやく、明日奈は口を開いた。

 

「……いっ、嫌じゃないから……だ、だいじょうぶだよ……?

 その……キリトくん、だし……」

「な、なら……よかったです……。はい……」

 

 明日奈の返答は実にたどたどしいものではあったが、とりあえず頬を張られるような事はないらしい。

 なぜか敬語になってしまう己に困惑しつつ、和人は自分をごまかすように、手に持っていたゴミをゴミ箱に向けて放り投げる。日頃鍛えていた投剣スキルはここでも無駄に働き、スプーンとジェラートカップは鋭い風切り音を立ててゴミ箱の中に突き刺さった。

 投擲の衝撃によって、からり、からりとゴミ箱が音を立てる。やがて、その音が止んでしまうと、互いの間に沈黙が訪れてしまった事を誤魔化す術は無くなっていた。

 端的に言って『気まずい』状況を、どうにか打破する術を探して思い悩む和人の首元で、金属同士がぶつかり合うかちかちという小さな音が響く。

 

『――お話中ごめんなさい、パパ』

 

 首元にかけていた魔道具・ユイから響く声に、和人は若干慌てつつ居住まいを正しつつ、周囲の気配を探る。近くに明日奈以外の人影はなく、誰かに会話を聞かれる心配はない事を確認し、和人は軽く咳払いをしてから口を開いた。

 

「ああ。どうした、ユイ?」

『リズさんから伝言です。

 シリカさんが呼んでいるから、番犬所まで来てほしいとの事でした』

「番犬所に? わかった。明日奈を送ってから、そっちに向かうと伝えてくれ」

 

 いつものようにユイを介した通信ではなく伝言というのが若干気になったものの、詮無いことだと思い直し、和人はベンチから立ち上がる。

 

『それが……ママも、番犬所に連れてきてほしいとのことでした』

「明日奈も?」

『はい。なんでも、ママとパパにシリカさんから大事な話があるそうです』

 

 和人同様に立ち上がって移動の準備を進めていた明日奈が、きょとんとした顔で和人を見つめている。その表情から察するに、明日奈にとっても寝耳に水の話なのだろう。

 

「……という事らしい。悪いけど、番犬所まで付き合ってもらっていいかな。明日奈」

「うん、いいよ。久しぶりに、シリカちゃんとも会いたいし」

 

 些か事情を把握できない番犬所への呼び出しではあるが、気まずい空気を霧散させる役には立った。

 いつもと同様のふわりとした笑顔を浮かべる明日奈と共に、和人は公園を離れると番犬所へと続く魔界道の入り口を目指して歩んでいく。半ば無意識に、それが自然な事であるかのように、どちらからともなく指と指をを絡ませあいながら夕暮れの道を歩く。

 結局、魔界道の入り口前にたどり着き、魔導火を取り出すべく右手を動かす寸前まで、和人も、そして明日奈も、お互いに手をつないでいたことに気付かなかった。

 

 

――――――

 

 

「――さて。わざわざ俺達を呼び出した理由を聞かせてもらえるかな、シリカ」

 

 薄闇に包まれた聖域――『綾の番犬所』、その最奥部。

 足元に巨大な鋼の竜を従え、視覚では捉えられぬ天井から伸びる二本の綱で吊り下げられたブランコの上に腰掛ける少女――神官・シリカを前にして、和人は本題を切り出した。

 

「期待させたら申し訳ないので先に言っておきますが、明日奈さんの件について大きな進展があったわけではありません」

「そうだろうな、とは思っていたよ」

 

 嘯く和人の傍らで、明日奈がこっそりとため息をついたのが分かった。彼女が番犬所を訪うのはこれが二度目。どこか神秘的かつ厳粛で、それでいて何かが信用ならないような空気に満ちた異空間――そんな番犬所独特の雰囲気に慣れていない明日奈に無駄な負担をかけないよう、和人は積極的にシリカとの対話役を務めていた。

 それになにより、今日の番犬所、そしてシリカは、普段とはどことなく雰囲気が異なっている。それも喜ばしくない方向に。

 当然、シリカが悪人ではないことは言うまでもない。だが、今だ得体のしれない部分の多い番犬所というシステムそのものに、シリカに預けているのと同じ全幅の信頼を寄せていいかと問われれば、すぐには首肯しかねるというのが和人の正直な心境であった。

 闘う者特有の直感が導き出す胸騒ぎに突き動かされ、和人はいざとなれば即座に抜刀できる程度には気を張ったまま、明日奈より半歩前の位置に陣取ってシリカの言葉を待つ。

 

「――ホラー・『ダンタリアン』。人を惑わし、欲望に魅入られた人間を喰らう怪物。

 このダンタリアンが我が『綾の番犬所』領域内に潜み、既に幾人もの人間を喰らっている可能性が高いと『東の番犬所』より連絡がありました」

「新手のホラーか……。それを討滅すればいいんだな」

「はい。……ですが、それには一つ、大きな問題があります」

 

 沈鬱な表情で言い淀むシリカ。その様子に、和人は自分の直感が少なくとも大外れというわけではなかった事を察する。外れてほしいと願っていた類の直感ではあったが。

 

「ダンタリアンは自らの支配領域(ゲームフィールド)――要は、結界のようなものを展開し、そこへ人間を誘い込みます。

 そのため、人界で大っぴらに暴れまわる他のホラーと比べて正確な居場所を掴み難いのです」

「今の今まで奴の存在に気付けなかった理由も、それか」

「はい。現在、リズさんとシノンさんに、ダンタリアンの居場所を調べてもらっていますが……それでも大まかな位置を絞り込むので精いっぱいだと思われます」

 

 シリカの話を聞きながら、和人はリズが伝言を残した理由はこれかと得心する。確かに、ホラーの位置を探っている最中とあれば、長々と話をするのは非効率的だろう。

 

「加えて言えば、ダンタリアンは狡猾な類のホラーです。魔戒騎士や魔戒法師が自らの存在に気付いたと知れば、戦わずに行方を晦ます可能性もあります」

「……確かに、それは厄介だな」

「はい。ですがこれ以上、罪なき人々をダンタリアンの餌食にするわけにはいきません。

 ――もちろん、和人さんもそう思いますよね?」

「ああ」

 

 問われるまでもない問いに、当然すぎるほどの答えを返してしまった後――和人の背筋に一瞬、ぞくりとした怖気が走る。

 今、自分は何かの一線を越えてしまったのではないか。そんなかすかな疑念が、僅かな恐怖を孕みながら脳裏に居つく。

 

「ですので、今回は策を弄する事にしました」

「策? 具体的には、何をするんだ?」

「単純な話です。ダンタリアンが潜んでいるエリア内に、ホラーを引きつける『餌』を用意します。

 その餌でダンタリアンをおびき寄せ、現れたところを和人さんに討滅してもらいます」

「なるほど……。確かに、シンプルかつ合理的な作戦だとは思う。だけどな、シリカ」

「なんでしょう?」

「そんな都合のいい『餌』――いや、『血に染まりし者』なんて、どこにいるんだ?」

 

 狡猾なホラーが何もかもをかなぐり捨て、他の人間など視界に入らないほどの欲望を持って追い求める存在など、『血に染まりし者』――つまりは、ホラーの血を浴びた人間以外にはありえない。

 実際、『血に染まりし者』をホラーを集める餌として使い、効率的にホラー狩りを為した魔戒騎士が過去に何人かいると、和人は聞いた覚えがある。

 しかし、それはあくまでごく一部の例外にすぎない。『血に染まりし者』はその場で介錯するのが魔戒騎士の掟であり、そうしなかったとしてもその命は持って100日。どこにでもいる存在などではない。

 無論、今から誰かにホラーの血を浴びせて『血に染まりし者』にするなど以ての外だ。

 

「……確かに、和人さんの言う通り、『血に染まりし者』はいません」

「なら――」

「ですが」

 

 『作戦の前提そのものが成り立たない』――和人がそう口にするより早く、シリカの言葉が割り込みをかける。

 その瞬間、不意に桐ケ谷和人は理解した。先ほどの直感も、胸騒ぎも、最悪なことにどうやら大当たりだったという事を。

 

「ダンタリアンは、当代の牙狼に討滅されたホラー(・・・・・・・・・・・・・・)です。

 それがどういう意味か、もうお分かりですよね? 和人さん。そして……明日奈さんも」

 

 シリカの唇から決定的な言葉が零れ落ちた直後。和人が起こしたアクションは、半ば無意識の反射に突き動かされたものだった。

 斜め前方に半歩進んで明日奈の体全てを己の背後に隠しつつ、背負った魔戒剣の柄を右手で掴んで鯉口を切る。一方、下方へだらりと垂らした左腕の内では、小指と薬指を軽く握り込みつつそれ以外の三指を緩く伸ばし、剣訣に近い型を結ばせる。

 一呼吸の内に練った氣力が丹田より全身に行き渡った今、和人は薄紙一枚破るにかかる刹那より早く戦闘の構えを取り、『拳術』、『掌打』、『閃脚』、『斬撃』、『刺突』、『殴打』、『投剣』――無数の状況に対応した様々な攻め手を繰り出す用意が整っている。

 それを即座に実行しないのは、これが一種の警告であるからだ。『これ以上世迷い言を抜かすようなら、こっちにも考えがある』という己の意思を、番犬所側が理解し斟酌しないのであれば、和人はためらいなく剣を抜く覚悟があった。

 

「明日奈を『餌』として使う気はない。誰かに使わせる(・・・・・)気もない」

 

 かつて一度たりともシリカに向けたことのない冷たい声が、和人の喉から響く。

 ルナーケンやシガレインのように、当代の牙狼によって討滅されたホラーが、なぜか明日奈に執着していることは知っている。その性質を利用すれば、明日奈を餌として利用し、ダンタリアンを釣り上げられるのではないかという番犬所の判断に不合理な部分はない。

 しかし、和人のように自ら望んで魔の側に身を追いた者ならともかく、巻き込まれただけの人間――つまりは明日奈をホラー狩りの餌として用いると聞かされて『はいそうですか』と納得できる理由がどこにあるというのか。

 守るべき者なのだ、明日奈は。決して、危険だとわかっている場所に送り込んでいいはずがない。

 剣呑な雰囲気を隠そうともしない不敬な魔戒騎士に反応し、シリカの守護竜(ペット)・ピナ――和人の倍以上の体躯を誇る鋼の魔竜が長い首を擡げ、鋭い牙をむき出しながら低い唸り声をあげる。

 

「ピナ、大丈夫だから落ち着いて。和人さんも」

「ピナはともかく、俺は冷静だ」

「それ、頭に血が上っている人のセリフです」

 

 主人の命を受け、鋼の巨竜はしぶしぶ怒りを鎮め、その牙を収める。

 普段は見た目相応の少女然としているシリカも、神官としての職務を遂行している間は真剣そのもの。地獄の鬼ですらたじろぎ後ずさる程に強烈な和人の怒気を真正面から受けても、その態度を崩すような事はない。

 

「もちろん、強制するつもりはありません。これはあくまで、我々から明日奈さんへの協力要請です」

「……明日奈が断ったら?」

「引き下がります。ダンタリアンは通常の手段を以て発見し、その上で和人さんに討滅してもらいます」

 

 しっかりと言質を取ってから数秒の後。和人はこれ見よがしに息を吐くと、戦闘態勢を取っていた肉体の緊張をわずかばかり緩める。

 神官がここまで言った以上、それを翻して明日奈に協力を強制する事はまずないだろう。そう理解した証として、和人は鯉口を切った剣を再び鞘へと戻し、右手を柄より離した。

 

「明日奈さん、改めてお願いします。ダンタリアン討滅のため、力を貸していただけないでしょうか」

「断ってくれていいぞ、明日奈。ダンタリアンは俺が討滅する」

 

 シリカと和人、二人の言葉を受けた明日奈は、しばしの間思い悩むような仕草を見せたあと、和人の隣へと足を進めた。

 

「シリカちゃん。一つ確認させて」

「なんでしょう? 明日奈さん」

「もし、私が『餌』にならなかったら……ダンタリアンは、私以外の誰かを襲うの?」

「はい」

 

 即答したシリカが指先を宙に向け、ニ、三度動かして印を切る。すると、薄緑色の光で編み上げられた半透明の巨大な地図が、シリカと和人達の中間にあたる空間に展開された。

 

「今しがた、シノンさん達から報告がありました。

 ダンタリアンが根城にしていると思われるのは、『ファミリーリゾート・アルヴヘイム』と呼ばれる家族向け大型レジャー施設内のどこか。恐らく、ここを訪れる客を狙い、捕食しているのでしょう」

 

 シリカの声を合図に地図の一角がズームインされ、拡大された部分に赤い光が灯る。照らし出された範囲は和人の想像以上に広く、『東京ドーム○個分』というありふれた単位で数えても文句を言われないだけの面積を持っていた。

 この広大な中から、結界を展開する程に厄介なホラーを探し出す――それがどれだけ大変なことか、和人は身をもって知っている。心底腹の立つ話だが、『餌』を用意したくなる番犬所側の気持ちも理解できなくもない。

 

「幸いなことに、リゾートは一昨日から今日まで、大規模メンテナンスのために休園期間を取っているようです。当然入場客はいないため、被害が出ることも無いでしょう。

 そのため、ダンタリアン討滅作戦の決行は明日を予定しています」

「なるほど……よし、決めた」

 

 わずかの間、その小さな顎に手を当てて考え込んでいた明日奈だったが、やがて自らの中で結論が出たらしく小さく頷いてみせる。榛色をした瞳がじっと和人の方を見つめている事に気づき、和人も明日奈の瞳を見つめ返した。

 

「キリトくん」

「ん?」

「明日、デートしましょ。『ファミリーリゾート・アルヴヘイム』で」

「――――はい?」

 

 油断しているつもりはなかった。

 たとえば、何かの弾みで箍の外れたピナが明日奈に飛びかかってきたり、いつかのように施設内に潜んでいた号竜人の群れが明日奈に襲いかかって来たとしても、即座に適切な制圧行動に移れる準備はできていた。

 しかし、まさか。よりにもよって明日奈本人から、こんな形で奇襲を喰らうなど誰に予想できようか。

 少なくとも桐ヶ谷和人にとって、明日奈の一連の台詞は全くの予想外であり、彼女の瞳を見つめたまま呆然とするだけで精一杯だったのは言うまでもない。

 

「その『はい』は、『YES』と受け取っていいの?」

「――いや、えっ!? そ、そういうことじゃなくて!」

「あ、入場券なら大丈夫だよ。ちょうどこの間、木綿季にペアチケットをもらったの。

 それに今週のラッキーカラー、黒だし」

「そういうことでもない! 自分が何を言ってるのか、本当にわかってるのか!?」

 

 たじろぎつつも必死に訴えかける和人に対し、明日奈ははっきりと首を縦に振る。

 

「ちゃんとわかってるよ。ホラーが待ち構えてる場所に行って、ホラーに狙われてくるんでしょ」

「なら、どうして……」

「――『迷う時は剣に問え。守るべき者は、何者かと』なんでしょ?

 私は騎士じゃないけど……私の答えもキリトくんと同じ。

 守りたいの。私の大切な人を。そして、私の大切な人が守ろうとしている、たくさんのものを」

 

 真剣な光を湛えた、榛色の瞳。自分がこれからしようとしていることを、その危険性をはっきりと理解していながら、その決意に揺らぎがないことを示す眼差しが和人を射抜く。

 『ファミリーリゾート・アルヴヘイム』を訪れる無辜の人々の命を守るため、明日奈は自らの身を危険に晒す覚悟を決めている。その覚悟に報いる勇気はあるかと、明日奈の瞳は無言の内に問いかける

 答えを返すまでに間を置いたのは、逡巡したからではない。腹を括るためだ。

 

「――わかった。ダンタリアンを見つけるために協力してくれ、明日奈。

 その代わり、明日奈の安全には俺が責任を持つよ」

 

 決意を言葉にし、あとから言い訳などできぬよう己の退路を絶つ。

 守るべきものの為、守るべき者を死地へと送るという矛盾した決意に、何があろうと明日奈を無事に連れ帰るという誓いを重ねた和人に微笑みを向けたあと、明日奈は再びシリカの方を向く。

 

「――というわけで、喜んで協力させてもらうね。シリカちゃん」

「ありがとうございます、明日奈さん。魔戒の側に立つ者を代表し、礼を述べさせていただきます。

 それと、和人さん」

「……え、俺?」

「先程は失礼な言い方をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」

「いや、俺の方こそ大人げなかった。すまない、シリカ」

「…………本当に怖かったんですよ、本当に……。あたしの短い人生の中でも過去に類を見ないくらいに怖かったんですよ……。

 一歩間違ったらピナごと細切れにされるんじゃないかと、内心びくびくびくびくしてたんですよ……」

「お、おう……」

「あたしは明日奈さんに強制するつもりなんて最初からなかったのに、和人さんときたら人をまるで鬼か悪魔のように……」

「は、はは……本当に申し訳ない……」

 

 乾いた笑いと共に頭を下げて詫びる和人の頭上から、仕事モードから解放されたシリカの恨めしげな声が響いてくる。今度、詫びの品の一つでも持ってこようと思いつつ、和人はゆっくりと顔を上げた。

 若干怯えの色が見えるシリカと視線が合うのも束の間、シリカは小さく咳払いをしてから再び口を開いた。

 

「ダンタリアン討滅作戦についての詳細は、今夜の内に追って連絡します」

「了解した。じゃあ、俺達はこれで引き上げるよ。行こうか、明日奈」

「うん。またね、シリカちゃん」

「ああ、その前に。明日奈さん、わたしも一つ、明日奈さんに質問したいのですが」

「私に? なんでもどうぞ」

 

 きょとんとした表情の明日奈に対し、シリカはいたく真剣な眼差しを向ける。

 ――妙な予感がする。嫌な予感とは言い難いが、さりとてそれほど喜ばしくない類の何かが近づいている。そんな直感が和人の背筋を通り抜けていった時には、既に手遅れだった。

 

「先程、和人さんとデートと仰いましたが、あれは一体どういう……?」

「ああ、あれ?」

 

 どうやら、予感は当たったらしい。

 明日奈の予想外の返答に困惑し、さらには彼女の考えを翻させようと必死だったせいで頭からすっぽ抜けていた事実が、さながら手元から放たれ帰ってくるブーメランの様に時間を置いてから和人を直撃する。

 どうリアクションしたものかとっさに判断できず、彫像のように固まっている和人を横目で一瞥し、明日奈はくすくすと微笑んだ。

 

「シリカちゃんは、私をどうにかして『アルヴヘイム』に送り込みたい。

 でも、キリトくんは、私を『ホラー狩りの餌』として使いたくない。

 だったら、私がキリトくんと『アルヴヘイム』でデートするってことにすれば、二人の望みをまとめて叶えられるかなって」

「なるほど。明日奈さんと和人さんがデートを楽しんでいる所に、偶然(・・)ダンタリアンが襲ってくる、と……」

「そういうこと。それなら、『餌』扱いされてることにはならないからね。

 ね、キリトくん?」

「あ、ああ……確かに、そうかも……な?」

 

 シリカが感心したような顔で頷く一方、和人は曖昧に反応するに留める。明日奈のペースに乗せられ、上手く丸め込まれた――そんな気がしてならない。

 その和人の表情に何かを感じ取ったのか、明日奈はお互いの体がくっついてしまいそうなほど近くまで寄ってくる。必然、互いの身長差が作用し、和人が明日奈の顔を上から覗き込む形になる。

 

「それとも……嫌だった?」

 

 番犬所の闇の中に溶けていきそうなほどにか細い声と、不安に潤む榛色の瞳が、明日奈の心情をはっきりと伝達する。

 和人の答えは決まっているが、直接口にだすのはやはり気恥ずかしい。それに、粗野な己の言葉では、この気持を伝えきれる気がしない。それならばいっそ、彼女自身の言葉を借りるしかないだろう。

 

「俺の答えも、同じだよ。ジェラートをくれた時の明日奈と」

「…………ずるい」

 

 和人の問いに、明日奈が返したのはその一言だけ。

 ただ、あのレッドラズベリーフレーバーのジェラートのように頬を真っ赤に染め、そしてその事自体を恥ずかしがるように顔を伏せたまま和人の胸に頭を預けてくるその仕草と、和人の右手を包み込むように握る明日奈の両手の感触――それら全てが、言葉以上の雄弁さを以て明日奈の想いを伝える。

 彼女の答えを知るには、それで十分だった。

 

 

――――――

 

 

 覗き込むスコープの先に映るもの。それ即ち、撃ち抜くべき相手。

 これまでもそうだったし、これからもそれは変わらない。

 地面の上に敷いたシートの上に全身を預けるようにして伏せ、上半身をわずかに起こす。銃床(ストック)を肩に当て、ボルトハンドルを動かし初弾を装填。

 

(標的確認。距離764メートル。時速4.5キロで東に移動中。無風……捉えた)

 

 スコープレンズの向こう側にいるターゲットは、その命運を握られている事に未だ気づいていない。夕日を思わせる色をしたロングヘアを揺らし、できたてのクレープを両手に一つずつ握ったまま、レジャー施設の屋外通路を浮かれた様子で歩いている。

 対象の移動速度はほぼ一定。あの連中のように、不意に翼を広げて空を飛ぶような可能性は考慮しなくていいし、影の中に潜られる心配をする必要もない。そしてこの程度の距離とくれば、外す理由を探すほうが難しい。

 肺の中に空気を送り込み、そこで止める。

 今の己は、狙撃ライフルを構成する一つのパーツと同じ。パーツは呼吸をしないし、躊躇う事もない。誰が相手でも、どんな状況であっても、獲物を正確に狙い撃つ。

 標的の――結城明日奈の後頭部に狙いを定め、シノンは指先へほんの僅かだけ力を込めて、引き金を引いた。

 

(ばあんっ……なんて、ね)

 

 銃声は響かない。法術が発動する事もない。

 今、シノンが握っているのは、対物ライフルでも長軸魔導筆でも無く、ただの高倍率単眼鏡(スコープ)なのだから当然だ。

 

(……楽しそうね、あの二人)

 

 『ファミリーリゾート・アルヴヘイム』の一角。青々とした芝生が生い茂るスペースに隣り合って腰を下ろし、クレープに齧りつく和人と明日奈の姿を望遠レンズ越しに眺めながら、シノンは内心で呟く。

 傍目には恋人同士の休日デートとしか思えないこの光景を見て、実はこれがダンタリアン討滅作戦の一環であると誰に察せられようか。

 『アルヴヘイム』の敷地外周部に聳える小高い山、その山中に陣取って明日奈をウォッチしているシノン自身ですらも、「ホラーをおびき出す作戦だ」と事前に言われていなければ気付くことはできなかっただろう。

 

「本ッ気で楽しんでるわね、あの二人。いくらデートスポットとはいえ、あんなにくっつきおって……」

 

 偽装用のネットをかぶりながら、シノンの隣で監視任務についているリズベットがなんとも忌々しげに呟く。どうやら彼女もシノンと同じような感想を抱いていたらしい。

 こうしてリズと二人、山中から明日奈達を監視し続けること、はや数時間以上。

 ダンタリアンの目や耳が『アルヴヘイム』のどこにあるかわからない以上、至近距離でのサポートや魔導具ユイを介した通信は余計な危険を招く可能性がある。そう判断して、このポイントからの監視援護を提案したのは誰あろうシノン自身だったが、あの楽しそうな光景を朝からずっと見せつけられているのだ。

 正直、思うところが無いでもない。

 

「『ふふっ、キリトくん。頬っぺたにクリームついてるよ。拭いてあげるね』

 『え? い、いいよ。それくらい自分でやるから』

 『だーめ。ほら、じっとしてて』」

 

 レンズ越しに見える唇の動きで読み取った会話の内容を、リズベットがつぶさに読み上げる。

 今日の明日奈は、ふわりと風になびくフレアスカートを中心とした、普段より洒落たよそ行きの格好。しかしながら、歩きやすさと相手を身構えさせない気軽さも備えた、いかにもデート向きなコーディネートが完璧にきまっている。

 一方の和人は、いつものオールブラック装備――に少し似た、ダークカラーのテーラードジャケットをベースとしたシンプルな構成。整った顔立ちと滲み出る人柄の良さを活かす気負いのないコーディネートを見繕ったのはもちろん、和人の隣に座って頬をハンカチで拭っている明日奈その人だ。

 あの朴念仁は、ちゃんと明日奈の気合の入りっぷりに気づいただろうか。そして、ちゃんと褒めただろうか。自分の時には少なくとも3回はかかった事を思い出し、シノンは内心で明日奈に同情せずにはいられなかった。

 

「『……はーい、これでよーし。キレイになりました』。

 『ありがとう、明日奈。……でも、さすがにちょっと恥ずかしいな』」

「……監視(ウォッチ)しろとは言われてるけど、あんまりいい趣味とは言えないわよ。それ」

「一時間おきに明日奈を狙撃してるあんたにだけは言われたくないわ」

「それもそうね。じゃ、次からは和人の方を狙うわ」

 

 そう嘯きつつ、シノンは片手を少しだけ動かして口元に細いチューブを持ってくる。チューブの反対側は傍らに置いたバックパックにつながっており、先端を咥えて吸い上げれば、よく冷えた薄めのスポーツドリンクが細い管を通り抜けて口内を流れ、喉を滑り落ちていく。

 以前、『48時間に一度ランダムなタイミングで現れ、100秒経過したら逃げ去るホラー』を討滅するため、和人と共に出現地点近くに張り込んだ際に使用していた装備が、こんな時に意外と役立っている。

 

「まったく、こーんな美女二人を山の中に放置して、自分は明日奈とデートとは……いいご身分ですこと、うちの騎士様は」

 

 雨後に次々に伸びてくるタイプのイネ科植物をモチーフにしたチョコ菓子のパッケージを開け、中の菓子をつまみながらリズがぼやく。

 

「あれはあれで、かなり辛いと思うわよ。

 ――惹かれ合ってるくせに、それをお互いに認められないまま『デートごっこ』を続けてるんだから」

 

 仲睦まじく手をつなぎながら、ウォーターアトラクションが織りなす水の造形を眺める和人と明日奈の姿を視界に収めながら、シノンはぽつりと呟く。

 傍目八目という言葉を引くまでもなく、あの二人が互いに互いを好ましく想っている事は手に取るように分かる。もし仮に、シノンが和人と褥を共にするほどに深い間柄でなかったとしても、あの甘い雰囲気を近くで感じていれば、あの二人がお互いのことをどう思っているかくらいは簡単に察せられてしまう。

 だというのに。いつか来る別れの日のため、お互いに一線を引いて自らの気持ちに蓋をし続けている二人の姿は、はっきりと言えば『痛ましい』の一言に尽きた。

 

「それ、『経験者は語る』ってやつ?」

「どうかしら。私に聞くより、自分の胸に聞いてみた方がよっぽどわかりやすいんじゃない?」

 

 適当に煙に巻いたシノンに『それもそうね』と付け加えたあと、リズはチョコ菓子を二つ摘むと、一つを自分の口に、もう一つをシノンの口の中に放り込んだ。さくさくとしたクッキー生地は歯と歯の間で容易に砕け、チョコレートの甘味が口内に染み渡る。

 

「『二度あることは三度ある』って言うけどさ……『2.7度目』くらいまでは来てるわよね、明日奈」

「そうね……。どこかの誰かさんと同じで、間合いの詰め方が天才的なのよね。明日奈」

「そうそう。無自覚な人たらしというか、羊の皮をかぶっているつもりの狼というか……」

 

 明日奈に半ば無理矢理手を引かれ、メリーゴーラウンドの白馬に跨る和人の姿を眺めつつ、シノンとリズは揃ってため息をついた。

 和人本人は自覚していないが、桐ヶ谷和人という人間は女性から好感を抱かれやすい。端的に言うなら、モテる。

 惚れられた数は片手の指では足りず、友人以上に好ましく思っている者となれば両手足の指を使ってもまだ足りない。シノンやリズが認知していない人数も含めれば、その数は倍以上になってもおかしくない。

 もし、和人の性格が今の真逆――つまり、誰でも彼でも構わずに手を出すような軽薄な性格であったのならば、その牙の餌食となっていた者の数は今頃どれだけの数に上っていたか、想像だにできない。

 

「とはいえ――そういうとこに引っかかっちゃったのよね、あたしたち……」

「引っかかった相手をわざわざ逃がしちゃうくらいのお人好しだったもんだから、こっちから飛び込んでいったの間違いでしょ?」

 

 自称『桐ヶ谷和人被害者の会』の会員番号1番、そして2番がこぼす乾いた笑い声が、心地よいそよ風と共に山肌を流れていく。

 和人とリズ、そしてシノンが少々特殊な――言ってしまえば『爛れた関係』にあることはおおっぴらに公言しているわけではないが、さりとて別段隠しているわけでもない。

 もちろん一般的な常識に照らし合わせれば褒められたものではないだろうが、血脈で以て鎧を継承させる事は魔戒騎士の伝統であるし、そもそも世俗を縛る法の理からは半ば外れた身分なのだ。当人達が納得ずくである以上、些事の一つとして捨て置いても特に問題はなかった。

 大概の人間は付き合いを重ねる内にそこら辺の実情を察する。事実、これまで和人と深い仲になろうとして近づいてきた者はそれなりに居たが、シノン達の存在を知ってなおアプローチをかけるような気概を持った者はほとんどいない。一部の例外を除けば、大半は和人が知らぬ間に身を退いている。

 故に『結城明日奈』という女性は、リズにとってもシノンにとっても、非常に特殊な存在といえた。

 

「……あれ?」

「どうかしたの? リズ」

「今、あの売店の辺りに、木綿季が居たように見えたんだけど……」

「木綿季が?」

 

 首を傾げて困惑するリズにつられる形で、シノンも単眼鏡を動かして周囲を探るが、それらしい人影は見受けられない。

 

「…………あれ、いないわ。ごめん、あたしの見間違いだったみたい」

「そう。なら、いいけど」

「おっかしいなあ……確かに、それっぽい子がいたと思うんだけど……」

 

 再び単眼鏡を動かし、シノンは和人と明日奈の監視に戻る。相変わらず休日を楽しんでいる二人の様子に、これといって変わったところはない。姫君をエスコートする騎士のように、明日奈の手をとってメリーゴーラウンドから降りてくる二人の姿は、そのまま一枚の絵にでもなってしまいそうなほどだ。

 

(なんにせよ……あいつが笑ってられるのは、いいことよね)

 

 いかな星の下に生まれたか、厄介事に巻き込まれては命を張る事を迫られる宿命の持ち主たる黒騎士・桐ヶ谷和人。そんな和人が、普通の人間であるかのように振る舞っていられるこの時間が、少しでも長く続くけばいい。それは、シノンの偽らざる願いでもあった。

 

(ま、そのうち埋め合わせはしなさいよね。銀座のケーキあたりで手打ちにしてあげる)

 

 レンズの向こう側に捉えた、年相応の青年らしい屈託のない笑みを浮かべる和人の姿によって呼び起こされた、心をちくりと刺す僅かな嫉妬心。その小さな欠片を幻の弾丸(ファントム・バレット)に変えて装填。

 夕暮れに向けて傾き始めた日の下、桐ヶ谷和人の心臓(ハート)をめがけて、シノンは引き金を引いた。

 

 

――――――

 

 

 『何かを楽しみにして待つことは、その喜びの半分にあたる』。そんな事を書いていたのは、いったい誰だっただろうか。著者の名前も、本のタイトルも思い出せないが、幼い頃に目にしたその一節だけは今でも覚えている。

 幼い頃の結城明日奈にとって、その言葉の意味するところは今ひとつ理解できなかったが――いざこうして待つ身になってみると、なるほどと頷けることに気付く。

 

(早く戻ってこないかな、キリトくん……)

 

 山向に沈みゆく太陽が放つオレンジ色の光が照らし出す、ファミリーリゾート・アルヴヘイム。その一角に建つ電灯の側に立ちながら、明日奈は一人、デート相手が戻ってくるのをじっと待っていた。

 なんとはなしにスマホを取り出し画面を見てみれば、明日奈に待ちぼうけを喰らわせている男――桐ヶ谷和人と離れてから、まだほんの数分しか経っていないことに気付く。

 はたから見れば、明日奈がデートの途中で愛想を尽かされて置いてけぼりにされたようにしか見えないが、そうではないことは明日奈自身がよく知っている。

 問題があるとすれば――アルヴヘイムの路面をコツコツと鳴らす、和人のそれとは違う靴音が明日奈の耳に届いていること。だというのに、未だ彼の気配は近くにないということの二つだけだ。

 

「――こんにちは、美しいお嬢さん。いえ、もうこんばんはというべきですか」

 

 足音が去ってくれる事を期待していた明日奈だが、その望みは儚く散った。観念して顔を上げれば、ライトイエローに染め上げられたスーツにサテンパープルのシャツを合わせた壮年の男が明日奈の目の前にいた。

 コーカソイドの血が混じったような白い肌と高い鼻が印象的なその男は、表情こそ笑みを浮かべているが、明日奈はどうも好印象を抱けなかった。

 

「少々遊びませんか、お嬢さん?」

「お生憎様ですけど、ナンパなら間に合ってます」

「いえいえ、ナンパだなんてとんでもない。私、こういうものでして」

 

 人差し指を左右に振って明日奈の言葉を否定しながら、イエロースーツの男はスーツの内ポケットに手を差し込むと、中からカードホルダーを取り出す。透明なホルダーの中に収められているのは、『アルヴヘイム』のスタッフである事を示す身分証だった。同じような身分証が清掃スタッフや土産物屋の販売スタッフの首にかかっているのを、明日奈は今日何度か目にしていた。

 

(パフォーマースタッフ、Gavial(ガヴィアル)Dantes(ダンテス)……?)

 

 明日奈の視線が身分証の上を走ったのを読み取り、とても変わった名前のスタッフ――ガヴィアルは芝居がかった動作で大仰に頷いてみせる。

 

「最近は色々と面倒でしてね。こういった物が無ければ、お客様にすら警戒されてしまうんですよ」

「は、はあ……」

「では、早速。貴女のツキを試してみましょう」

 

 明日奈が止める間もなく、ガヴィアルはどこからともなく一枚の金貨を取り出すと、それを自分の左手の上に置く。その上に右手を重ねてスライドさせれば、既に金貨はそこにない。直後にガヴィアルが握り込んだ左手を開けば、消えたはずの金貨はその手のひらの上にあった。

 まるで魔法かなにかの様に、金貨は変幻自在に左右の位置を変える。右手にあるはずのものが左手へ、左手にあったはずのものが右手へ――右に左にと目まぐるしく移り変わるクロースアップ・コインマジックに翻弄され、明日奈が金貨の行方を見失ったまさにその瞬間。

 

「さあ、お嬢さん。コインは……どこでしょう?」

 

 ガヴィアルは左右の拳を握りこむと、その両腕を明日奈に向けて真っ直ぐに差し出した。

 

「……こっち?」

 

 悩んだ末に明日奈が指差したのは、ガヴィアルの右手。

 ガヴィアルはゆっくりと頷くと、勿体つけるように右手の指を一本ずつ動かして拳を開く。露わになった掌の上に、明日奈が求めていた金貨は影も形もない。

 ならば、と次いで開かれた左手に視線を向けるが、そこにすらも金貨の姿はない。

 

「どういう……」

「『右手か、左手か?』――そう尋ねてはいないはずですが」

 

 いつの間に移動させたのか、スーツの内ポケットから金貨をつまみ上げながら、ガヴィアルはウィンクと共にそう告げた。明日奈は最初から、この胡散臭い男の掌の上で踊らされていたらしい。

 

「残念。貴女の負けです。まあ、気を落とさないでください。私のコインテクニックを破れたのは、これまでたった二人しかいないんですから」

「そうなんですか。じゃあ、私はこれで」

 

 思っていた以上に時間が経過していたらしく、いつの間にか明日奈の周囲には既に夜が訪れていた。

 これ以上ガヴィアルのパフォーマンスに付き合う気にはなれない。自分が待ち合わせ場所にいなければ、ユイが居場所を追ってくれるだろうと判断した明日奈は、さっと踵を返し、ガヴィアルに背を向けて歩き出す――歩き出す、はずだった。

 

「おっと、言い忘れていました。ゲームに負けた以上、貴女には対価を支払っていただきませんと」

「――っ!?」

 

 理解不能な出来事に、動き出そうとしていた脚が止まる。驚愕に囚われた呼吸は息を吐き出すことを忘れ、肌の上を怖気が奔る。

 どう理由をつけて納得すれば良いというのか。

 たった今背を向けたはずの相手が、振り返った先――つまりは目の前(・・・)にいるなどという理不尽を。

 

「対価といっても大したものじゃありません。私が欲しいのは――」

 

 ガヴィアルの言葉を最後まで聞くことなく、明日奈は再び踵を返す。

 

「貴女の魂。ただそれだけです」

 

 危機感と本能に突き動かされ咄嗟に駆け出そうとした脚は、再び目の前に現れたガヴィアルによって進路を塞がれてたたらを踏む。

 悪夢に囚われたかのような恐怖を全身が撫でる。少しでも距離を取るべく、怯えてうまく動かない脚をどうにか動かしながら後ずさる明日奈に、ガヴィアルは追い詰めた獲物をいたぶる捕食者の如く、一歩、また一歩とゆっくりと近づいてくる。

 

「後始末ならご心配なく。魂が抜けたあとの肉体は、私が責任を以て食べ尽くしてさしあげます。

 魂の抜けた肉体ほど、美味なものはありませんからねえ」

 

 次第に濃くなる闇の中。もはやアルヴヘイムのどこを歩いているのかすらわからなくなりながらも、明日奈は必死に後ずさりを続ける。

 そんな儚い抵抗を重ねる獲物を追うのにも飽きたのか、ガヴィアルは明日奈を捕まえんと、ついにその腕を伸ばした。

 

「さあ、美しいお嬢さん。大人しくこちらへ――」

 

 後ずさりし続けていた己の体がついに壁にぶつかる。

 ほとんど同じタイミングだった。必然的に脚が止まったのと、明日奈がそれらのことに気づいたのは。

 

「――悪いな」

 

 一つ。頭の上から、聞き間違いようの無い声が聞こえてきたこと。

 二つ。明日奈の退路を絶った『壁』から伸びる左腕が、明日奈の体を優しく抱き寄せたこと。

 三つ。その『夜闇のように黒い壁』から伸びる右腕が、ガヴィアルの腕を弾くのと同時、握っていたライターを彼奴の眼前に突き出したこと。

 

「お前さんが言うところの『美しいお嬢さん』は、今日は俺の貸し切りなんだ」

 

 闇を祓う魔導火の輝きが、たった一つの事実を照らし出す。

 明日奈が待ち望んでいた者・桐ヶ谷和人が、ついに現れたということ――即ち、ガヴィアルの魔の手が明日奈に届かなくなったという事実を。

 

「……すまない、明日奈。遅くなった」

 

 明日奈にだけ伝わる小さな声で、和人が詫びる。

 その場に乱入した漆黒の男に気分を害されたのか、ガヴィアルは先程までの薄笑みをかなぐり捨て、眉間に皺を寄せながら表情を歪める。

 魔導火の光に照らされた双眼に、人外怪生(ホラー)の証たる魔戒文字を映し出しながら。

 

「いやはや。ようやくお連れ様のお出ましですか。まったく、こんな素敵な方を放って、いったいどこで油を売っていたのですか?」

「こっちにも色々事情があってな。まあ……おかげで獲物は釣り出せたみたいだがな。

 そうだろ、ダンタリアン?」

 

 明日奈と入れ替わるようにして即座に前に出た和人は、黒い魔法衣(ロングコート)の裾を翻しながら明日奈を背後にかばいつつ、左右の手で魔戒剣を抜き放つ。一方のガヴィアル――ダンタリアンはといえば、その風体からは想像できない程にシャープな後方宙返りを行い、和人、そして明日奈との間合いを離す。

 和人とダンタリアンの間に、一足一刀の倍より少しだけ短い間合いが生まれる。その間合いを挟んだまま、和人は二振りの魔戒剣を油断なく構える。対するダンタリアンは、深々とため息を吐くと同時に掌を広げ、両腕を頭の上まで上げてみせた。まるで『降参』の意を示すかのように。

 

「何のつもりだ」

「見てわかりませんか? 降参ですよ、降参。煮るなり焼くなり斬るなり、ご自由にどうぞ」

「……見え透いた罠だな」

「それは心外。生憎、他のホラーのように力任せで戦うのは私の美学に反します。

 自分の美学を捨てるくらいなら、無抵抗のまま斬られた方がよっぽどマシというものです」

 

 飄々とした態度で嘯くダンタリアンは、何かを仕掛けてくるような様子も無く、それどころか警戒する素振りすらも見せない。明日奈が見てもそうと分かるほどに。

 今ならば、幼子や老人であっても容易くダンタリアンの首を掻っ切る事ができるだろう。しかし、そんな甘い誘いに即座に飛び込むには、桐ヶ谷和人という魔戒騎士は戦闘経験を積みすぎている。

 ――それを踏まえて尚、和人が更に前へと進んだのは、背後にかばう明日奈の存在故か。

 足裏を地面からほとんど離さない慎重な足取りでわずかに間合いを詰めたあと、和人は夜天騎士の鎧を召喚すべく、手にした二刀を天に掲げる。

 

『――っ!? ダメです、パパ! ダンタリアンを斬ってはいけません!!』

 

 首飾りのパーツ同士がぶつかりあう金属音と共に、和人の首にかかった魔導具・ユイが必死に声を上げる。その声に、和人は円を描くはずだった剣閃を途中で止め、魔戒剣を中段で構え直す。

 

『今、ここの奥……ダンタリアンの結界の奥に、木綿季さんの気配を感じました』

「木綿季の!? まさか……何かの間違いじゃないのか!?」

『本当です! 木綿季さんは……木綿季さんは今、ダンタリアンの結界内部に、生きたまま閉じ込められています!

 もし今ダンタリアンを斬れば、木綿季さんも結界の消滅に巻き込まれて……!』

 

 ユイの言葉に、明日奈、そして和人は揃って息を呑む。

 確かにここに来る少し前、共にメリーゴーラウンドに乗っているとき、一瞬、木綿季らしき姿の人影を見た覚えはある。その事に明日奈自身が妙な胸騒ぎを覚えたからこそ、わざわざ和人に確かめに行ってもらっていたのだ。

 胸騒ぎが最悪に近い方向で的中してしまった事で胸中をかき乱される明日奈とは対象的に、ダンタリアンはまるで見事な演技を披露した子飼いの役者を褒めるパトロンのように、ゆったりとしたリズムの拍手を送る。

 

「Bravo,Bravo! 大正解です! さすがは、魔戒騎士と契約しているホラーだけの事はありますねえ」

「――黙れ。木綿季を解放しろ」

 

 満面の笑みを浮かべるダンタリアンとは対照的に、和人は奥歯で苦虫を噛み潰したかのような顔で、魔戒剣の鋒をダンタリアンに向ける。荒れ狂う業火を凝縮したかのような和人の怒りの声は、その背に守られているはずの明日奈さえも怯えを感じざるを得ないほどの苛烈さを秘めていた。

 

「言ったでしょう? 力任せで戦うのは私の美学に反すると。

 彼女を助けたければ、私のゲームへ参加していただくほかにありません」

「ゲーム、だと?」

「ええ。ダンジョンを突破し、最終地点で待つラスボスを倒すことができれば、あなたの勝ちです。その時は木綿季さんを解放し、私も大人しくあなたに斬られましょう。

 ただし……」

 

 にたりと笑うダンタリアンの視線が、和人の肩越しに明日奈を射抜く。

 

「あなた方の敗北条件は二つ。一つは、『あなたが鎧を召喚する』こと。

 そしてもう一つは……『そちらのお嬢さんが、このゲームに参加しない』こと」

「明日奈も!? ふざけ――」

 

 和人の言葉が終わるのを待たず、ダンタリアンの足元が妖しく発光を始め、白い円形をした大穴がその口を開ける。その穴から、赤、青、黄、緑――様々な色をした光の円柱が吹き出しては、シャボン玉の様に空中で力尽きて消えていく。

 

「では、私の世界でお待ちしておりますよ。魔戒騎士」

「待てッ! ダンタリアン!!」

 

 そう言うが早いか、ダンタリアンは再び後方宙返りをきめると、そのまま白い穴の中に身を躍らせた。咄嗟に駆け出した和人が穴の縁にたどり着く頃には、ダンタリアンの姿は既に消え去っていた。

 

『パパ。この穴……ダンタリアンの結界内部に続いています。木綿季さんの気配も、そこから』

「……ああ、わかった」

 

 舌打ちをこらえたような険しい顔つきのまま、和人は魔戒剣を鞘に戻す。

 ユイがここまで言っている以上、ダンタリアンの結界の中に木綿季が囚われている事は間違いない。もし、自分がこの穴――ダンタリアンが手ぐすね引いて待つ領域に飛び込まなければ、親友の命は永遠に失われてしまう。ならば、迷う理由など何処にあろうか。

 

「キリトくん」

 

 引き止める言葉が和人の口から放たれるより早く、明日奈は彼の隣に立ち、彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。今の明日奈が何を考えているのかを伝えるには、それだけで十分だろう。

 見つめ返す黒色の瞳の中に諦めと決意を入り交じらせながら、和人はその右手を恭しく差し伸ばす。

 

「……付き合ってくれるか、明日奈。地獄の底まで」

「キリトくんとなら、喜んで」

 

 差し出された和人の手に、明日奈はそっと己の手を重ねる。そのまま明日奈を抱き寄せた和人は、右腕で明日奈の背を支えるのと同時、左腕を明日奈の両膝裏にまわし、明日奈の体をするりと抱え上げた。

 和人ならそうしてくれるだろう――心の何処かで、なんとなくそう思っていた明日奈に大きな驚きはない。されるがままに体を預けつつ、魔導具ユイのペンダントトップに軽く触れたあと、明日奈は両腕を和人の首に回して抱きついた。

 

「行くぞ」

 

 明日奈がこくりと首を縦に振ったのを確認した後、和人は穴の縁からその身を躍らせた。

 内臓が強制的に浮き上がるような浮遊感と共に、明日奈と和人が落ち行く穴の内部は、壁面も向かう先も全てが白一色に染め上げられている。落ちていく方向に視線を向ければ、先程穴から吹き出していたのと同じ、多種多様の色に染まった細長い光の円柱達が幾本も昇り来ては、感触も何も無いまま明日奈達の体にぶつかって消えていく。

 ここは正に、世界と世界を繋ぐ通廊。初めて見るはずの光景だというのに、この通廊の姿は、既に明日奈の記憶の中に灼き付いていた。

 世界と世界を繋ぐ言葉――全ての始まりとなった言葉と共に。

 

「……リンク・スタート」

 

 唇が無意識にその言葉を紡いでいたのは偶然か、あるいは必然だったのか。

 極彩色の光の柱と、眩いほどの白光に埋め尽くされた穴の中を、漆黒の騎士に抱きかかえられたまま。結城明日奈は悪夢へと続く奈落の道を、ただひたすらに堕ちていった。

 その先に、親友が待っていることを信じて。

 

 

―――――――

 

 

 迷わなかったと言えば嘘になる。

 片方の皿に『紺野木綿季の命』、もう片方の皿に『結城明日奈の安全』を載せた天秤。その天秤をどちらに傾けるべきかという重い問いに、いち早く答えを出したのは、和人ではなく明日奈の方だった。

 そんな明日奈に――親友のため、己の命を危険に晒す覚悟を決めた明日奈の勇気に、和人は知らず知らずの内に甘えていた。

 きっと、心の底から怖ろしかったのだ。自分を信じて側に居てくれる明日奈の命を、目の前で失うことになる――そんな可能性が少しでも増えるようなこと、それ自体が。

 

(……情けないな、俺)

 

 自嘲と共に吐き出してしまいそうなため息を和人が押し殺していると、全身を包んでいた浮遊感がようやく薄れ、光に包まれていた視界が実像を取り戻し始めた。

 重力加速に従って自由落下を続けていた体は緩やかに減速し始め、やがて速度が皆無になると同時、足裏に固い床の感触が帰ってきた。

 

「どうやら、着いたみたいだぞ。明日奈」

「う、うん……」

 

 身を屈め、両腕で抱えていた明日奈を降ろしつつ、和人は周囲に視線と気を巡らせ、脅威の有無を探る。

 ざっと見る限り、比較的新し目の学校、その教室の内部と言ったところだろうか。天井に設置されたLED灯らしき器具が光を放ち、きれいに整列された机と椅子、教卓や電子黒板と言った設備の存在を照らし出している。

 和人達が降り立ったのは、教室のちょうど中央辺り。その一帯だけは本来有り得べき机と椅子が片付けられており、妙に気が利いている。向かって右側には廊下へと続く扉が続いており、左側に居並ぶ窓の外は暗闇一色に染まりきり、外の様子を伺う事はできない。

 人影もなければ、気配もない。明日奈を除いては完全に無人の空間と化した教室の中に、ダンタリアンは和人を配置したようだった。

 

「ここが、ダンタリアンのダンジョンの中なの……? たぶん、学校の教室だよね。ここ」

「ああ。……ん? 明日奈、その格好は……?」

「え? 格好って……」

 

 何を言われているかわからないといった表情のままきょとんとする明日奈だったが、それ以上に困惑しているのは和人の方だった。

 

「その恰好、まるで――」

「――『閃光』の、アスナ……?」

 

 夜闇に塗りつぶされた窓を姿見代わりにした明日奈が、和人が言おうとした言葉の続きを紡ぐ。

 困惑に揺れる榛色の瞳が見つめるのは、初めて目にする、よく見知った己の姿。

 汚れなき白色に染まった長衣とロンググローブをまとう上半身を守るのは、パールホワイトカラーに磨き上げられた胸甲(ブレストプレート)。丁寧に襞が折られた赤いプリーツスカート、そしてニーソックスから上半身装備に至るまで共通した差し色として入る紅が、清廉さの中に確固たる意思を秘めたるが如く、全体の印象をきりりと引き締めている。

 腰に佩いたる細剣(レイピア)は、恐らくさぞかし名のある刀工の手に拠る逸品だろう。刀身を鞘に収めたままでも、相当に造りの良い品であることが分かる。

 その有り様は正に、弱き者の為に剣を振るう騎士の理想を体現した姿の一つ、あるいは気高くも慈愛に満ちた女神の(すがた)を模した生ける芸術品と表しても過言ではなかった。

 

「これ……私、だよね……?」

「あ、ああ……そう見えるけど……」

 

 薄れてしまった現実感を取り戻すかのように、自分の頬をぺたぺたと触りながら明日奈は――アスナは、夜の闇が映す己の姿にただただ戸惑う。

 無論、戸惑っているのは和人も同様だ。一応、魔戒騎士や魔戒法師が使う術の中に、変装用の衣服から一瞬で魔法衣姿に変化するための術や符は存在する。だが、アスナがそんな物を使用した形跡は無いし、そもそも彼女に魔戒の術は効果を及ぼさない。

 結城明日奈を、閃光のアスナに変えたものの正体――それが何かを和人が掴めずにいる間に、電子黒板の上に設置されたスピーカーが耳障りなノイズ音を発し始め、不愉快な男の声が校内放送の回線に乗って響き渡る。

 

『――プレイヤーの皆々様。私の理想世界(デス・ゲーム)へようこそ!

 私の名はダンタリアン。この世界を支配(コントロール)する唯一の存在です!』

「ダンタリアン……!」

 

 思わずスピーカーを睨みつける和人を一顧だにせず、ダンタリアンは一方的な通告を続ける。

 

『あなた方がこの世界より脱出する方法は唯一つ。全てのダンジョンを突破し、最奥部にいるボスキャラクターを倒すこと!

 しかし、努々お忘れなきよう。視界左上に出ているHP(ヒットポイント)がゼロになった瞬間、同時にあなた方の命も失われるということを!』

 

 自分に酔いしれたようなダンタリアンの声に苛立ちそうになる己を抑えつつ、和人は視界の左上に意識を向ける。ヘッドセット型デバイスのユーザーインターフェースのように、そこには確かにHPを示す緑色をしたゲージが表示されている。

 命を賭けることに今更躊躇いを覚えはしない和人であっても、自分の命の残量が見えるというのはさすがにゾッとしなかった。

 

『皆様方の健闘と、そして、最後の一瞬まで無様に足掻き、泣き喚きながら無残な死を迎えていただけることを心より期待しております!

 では、どうぞ楽しんでいただきたい! 亡者蠢き、亡霊彷徨う、このガッコウを!!』

 

 好き放題言って満足したのか、ダンタリアンの校内放送は唐突に途切れる。そうして教室が静寂に包まれた直後、天井に設置されたLED灯の一つが一際眩く輝いたかと思うと、直後に光る事を辞めてただの棒と成り果てる。

 このままここにいれば、恐らく暗闇の中に取り残されるハメになる。そう理解した和人は、ひとまずはこの施設から脱出する道を探すことを決め、明日奈の方を向いた。

 

「明日奈。このままここにいてもしょうがない。木綿季を探して、ダンジョンを突破しよう」

「……う、うん。そうだね」

 

 幾分元気のない様子で頷く明日奈を気遣ってやりたいが、敵地の只中とあっては何を言っても大した気休めにもならない。そのまま明日奈を引き連れ、和人は教室の扉を開けて廊下へと足を踏み入れた。

 二人が廊下に出ると同時に、教室内を照らしていたLED灯の電源が一斉に落ち、代わって廊下の窓から差し込む淡い月光が、薄暗い校舎内をどうにかこうにか照らしている。

 

「ユイ、木綿季の気配は辿れるか?」

『……ごめんなさい、パパ。ダンタリアンの結界が邪魔をしていて、木綿季さんの気配を辿れません。

 今の私では、パパやママのお役には立てないと思います……』

「そうか……わかった」

 

 板張りの廊下は和人が思っていた以上に広い。向かって右手側は行き止まり。左手側には板張りの長い廊下が続き、先の方は暗闇に覆われて見通すことができない。

 和人の耳に届くのは、緊張を孕んだ二人分の呼吸音。そして、暗闇に閉ざされた廊下の奥から響く、床板を軋ませながら近づいてくる足音だけ。

 

「木綿季?」

「いや、違う」

 

 親友との再会を期待する明日奈の願いを否定しつつ、和人は数歩前に出る。廊下の床をぎしり、ぎしりと軋ませる音は次第にボリュームを増し、やがて足音の主が淡い月光のもとにその姿を晒した。

 強いて木綿季との共通点を挙げるとしたら、それは『女』であり、木綿季と同じ黒い色の髪をしていた。

 

「ちょうだい」

「――ひっ」

 

 『女』に問いかけられた明日奈が、引きつった悲鳴を上げる。

 それは確かに女だった。長い黒髪を振り乱し、憎悪と羨望が入り交じる表情を浮かべ、妙に長い両腕を脚代わりに使って進んでいたとしても、それは確かに女だった。

 ――しかし、それは絶対に『人間』ではありえない。肋骨の少し下からの一切が無く、背骨を構成する腰椎のいくつかが覗く切断面から、ぼたりぼたりと血を撒き散らしながら平然としていられる存在を、どうして『人間』とカテゴライズすることなどできようか。

 

「ちょうだい。ちょうだい。ちょうだい」

 

 失った脚の代わりに用いられるのは、女の両腕。白い掌が床板に触れる度、『てけ、てけ』と不気味な音が響く。そのおぞましい光景と音に、明日奈は思わず後ずさる。

 最初こそ芋虫が這うような速度だったというのに、女の進む速度はまたたく間に増していく。そればかりか、女は両腕を廊下に叩きつけると、その反動で体を浮き上がらせ、そのまま明日奈めがけて飛びかかった。

 

「あなたの脚を、ワタシにちょうだい!」

「ああ、くれてやるよ――俺のでよければな!」

 

 明日奈の命を噛みちぎらんと女が口を開けて鋭い牙をむき出しにした瞬間、和人は右足を振り上げ、直後に渾身の踵落としを女の顔面に振り下ろした。12時を示す時計の長針のように天井に向けてまっすぐ伸びた足から放たれた一撃をまともに喰らった女の鼻骨が粉々に砕け、口内の牙が尽く圧し折れる。

 女の体は垂直角度を描きながら廊下に叩きつけられ、結果、断面ともども床に激突した腰椎が粉微塵に破壊される。無論、たったそれだけの衝撃吸収構造(クラッシャブルゾーン)が魔戒騎士の一撃を受け止めきれるはずもなく、女の体は床板の上で大きくバウンドする。

 和人のちょうど目の前、もっとも拳を叩き込みやすい高さまで。

 

「ふッ!!」

 

 振り下ろした脚を引き込む動作を起点に体を半回転させ、和人は女の胴に向けて右の裏拳を叩き込む。拳の一撃に込められた勁力は衝撃波となって肉体内部に浸透し、一切の容赦無く敵を蹂躙する。

 裏拳そのものの威力によって吹き飛ばされた女の体が窓に激突し、空中に《Immortal Object》――『破壊不能構造物』を意味する表示ウィンドウが浮かぶ。その頃には既に、女の体は強度という強度を失い、光の粒子となって消え去っていた。

 体の向きが反転したことで、唖然とした表情のまま立ちすくんでいた明日奈と和人の視線がちょうど重なった。

 

「なるほど、なるほど……。さっきのがダンタリアンの使い魔って所か。ケガは無いか、明日奈」

「う、うん。私はだいじょ――キリトくん! 後ろ!!」

 

 叫び瞠目する明日奈の視界に映っていたのは、乾いた血がべったりと付いた鎌を振り上げ、和人の背後から襲いかかる口裂け女の姿だったのだろう。

 もっとも、背後から忍び寄ったつもり(・・・)の敵意に振り返りすらしないまま後ろ回し蹴りを叩き込んだ和人がその事実を知るのは、吹き飛ばされた口裂け女の体が廊下の奥から猛スピードで走りくる二宮金次郎の石像と正面衝突した後の事だ。

 

「破ァッ!!」

 

 蹴り出す一歩で体を撃ち出し、跳ぶが如き二歩で間合いを詰め、三歩目にて震脚。運動量の全てと体重の力を集成させた右手による掌打を、未だ二宮金次郎像に折り重なったままの口裂け女の胴体めがけて叩き込む。

 口裂け女の胴体が内側より破裂し、辛うじて残った四肢がそれぞれの方向に弾け飛ぶ。しかし、その下に重なっていたはずの石像の姿はどこにもない。

 ――さっきまで何かの形を成していたと思しき、粉々に砕かれた石の欠片だけは山のように転がっていたが。

 

「ひとまず、片付いたか。今のうちに移動しよう、明日奈」

「そ、そうだね……今のうちに……」

 

 こくこくと頷く明日奈を伴い、和人は人気のない校舎を進む。淡い月明かりに照らされた、どこかうっとりとするほどに幻想的な空間を二人きりで歩くその姿は、見るものが見ればまるで不埒な騎士と高貴な姫君による密やかな逢瀬のようでもある。

 時折現れる、亡霊じみた怪異たちの存在さえ無ければ。

 

『おねーちゃん、サッカーしようよ! ボクがボールね!』

「――いや゛ああああああっ!!」

 

 腐り落ちかけた眼球が揺れ、蛆虫が這い回る自分の生首をサッカーボール代わりにリフティングする首なし少年の亡霊に誘われた明日奈が、絹を裂くような悲鳴を上げる。

 直後、少年は右足から稲妻のような速度で自分の生首を蹴り出す。シュートされた生首はけたけたと笑いながら無回転状態で飛び来るが、言うまでもなく和人によって蹴り返され、そのまま首なし少年の体に激突すると持ち主諸共に爆散して消滅した。

 

「……なあ、明日奈。こんな時に聞くのもどうかと思うんだけど」

「に゛ゃっ、なんでしょうか、キリトくん……?」

 

 『赤いマントをあげましょか』と歌いながら視聴覚室の天井より伸びてくる異常に長い腕と、『青いマントをあげましょか』と歌いながらリノリウムの床を貫通して伸びてくる異常に太い腕を共に掴み、力づくで根本から引きちぎることで消滅させたあと、和人はおもむろに問いかけてみた。

 

「もしかして、こういうの苦手なのか? 明日奈」

「こっ、こういうのって、いうと……?」

「お化けとか、幽霊」

「…………うん」

 

 絞り出すような明日奈の答えに『なるほど』と首肯した後、和人は無人の音楽室で『月光』を奏でていた青白い肌の亡霊に向けて駆け出す。回転しながら飛来するベートーベンとモーツァルトの肖像画をかわしつつ、背後から亡霊へ飛びかかると同時に両腕を相手の首に引っ掛け、ピアノの鍵盤めがけて亡霊の顔面を勢いよく打ち付ける。

 後方急襲式頭部破撃(リバース・スリング・ブレイド)が奏でる破壊の不協和音が響く中、鍵盤にめり込んだ亡霊は悲鳴すら上げることなく消滅する。高名な音楽家たちの肖像画を縦横無尽に飛び回らせていたポルターガイスト現象が終わりを迎えたのは、それとほとんど同時だった。

 

「なるほどね……。さっきから妙にそわそわしてると思ったら、そういうことか」

「だって……だってぇ……。キリトくんこそ、なんでそんなに平然としてられるのよ……?」

「なんでって、そりゃあ……。幽霊(ホラー)の相手とか、慣れっこだし」

 

 目の端に涙を浮かべる明日奈を慰めつつ、和人は用務員室の扉を開ける。途端に、強酸で焼けただれたと思しき顔をした幽霊が足元に這い寄ってくるが、一瞥することもなく無造作に顔面を踏み潰す。頭部を粉砕された幽霊は、これまでの手合い同様に光の粒に代わりながら消滅していく。

 人の陰我に寄生するホラーと、亡霊(ゴースト)は違うものなのだろうが、ここで相手にしているのは所詮ダンタリアンが作り出した使い魔の類。その姿形がなんであれ、赤手空拳で以て殲滅できる程度の相手を恐れるような繊細さは、とうの昔に擦り切れている。

 

「でも、驚いたな。あの明日奈に、まさかこんな弱点があったなんて」

「し、仕方ないでしょ! 怖いものは怖いんだから……。

 キリトくんにだって、怖いものの一つや二つくらい、あるでしょ?」

「怖いものねえ……」

 

 『明日奈を傷つけるかもしれないことが怖い』――そう言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。

 益体もない事を考えながら開けた扉の先は、どこかの舞台袖に繋がっていた。薄暗い空間の中、天井から垂れ下がる緞帳の端に近づき、和人は周囲の状況を探る。

 

(これは……御大層な準備しやがって……)

 

 視界の先に広がっていたのは、学校の式典を思わせる光景だった。

 恐らくこの空間は体育館で、自分たちがいるのはその奥に設えられたステージなのだろう。正面に据え付けられた大きな階段が、ステージと体育館の床をつないでいる。

 その床を埋め尽くすのは、体育座りの姿勢で待機する学生服姿のマネキン達。数は少なく見積もっても数百、下手すれば千体を越えているかもしれない。マネキンであるが故に表情らしいものは無く、区別できるとしたら男女の制服違いくらいなものだ。

 ご丁寧に壁際には白黒の横断幕が張り巡らされており、ステージ上に用意された祭壇には白い仏花がこれでもかと並べられていた。

 

「……罠だと思う人」

「はーい」

「だよなあ……」

 

 元の廊下へと通じていた扉には既にロックがかかっており戻る事はできない。念の為に蹴りを入れてみたが、窓と同じように《Immortal Object》の表示が出て終わりだった。

 舞台袖は狭い上に特にめぼしいものはない一方で、ステージ側は広いスペースが確保されている。大量のマネキンが整列する場所を挟んだ反対側には、『EXIT』の文字を緑と白に光らせる看板と、どこかへ通じていると思しき大きな扉があった。

 明らかに罠だ。しかし、その罠の中に飛び込んでいかなければならないというのも、また事実だった。

 

「明日奈。何があっても、俺の側から離れないでくれ」

「……うん」

 

 すぅ、と静かに吸い込んだ一呼吸分の活力を丹田に送り、経絡の中に改めて活を入れ直したあと。和人はステージの中央へと足を進めた。それに一歩遅れる形で、明日奈が後に続く。

 頭上からあの不快な声が聞こえてきたのは、二人がちょうどステージの中央部分に来たタイミングだった。

 

『あー、あー。全校生徒の皆さんに、校長先生(ダンタリアン)より大事なお知らせです。

 たった今、校内に不審な魔戒騎士とほか一名が紛れ込みました。生徒の皆さんは、不審者を発見次第、速やかに抹殺(・・)してください。

 そして、見事魔戒騎士の首を取れた子には――』

 

 ぎゃりぎゃりという金属の摩擦音と共に、ステージの天井部分から降ろされたのは白い十字架だった。左右に突き出た横柱に繋がった鎖は地上3メートルほどの所で長さが尽きたのか、ぴんと張った状態となり、十字架を空中に静止させる。

 その十字架に磔にされた、黒髪の乙女ごと。

 

『こちらの少女を、好きに弄ぶ権利を差し上げましょう』

「――ゆ、木綿季……っ!? 木綿季っ!!」 

 

 目の当たりにした信じられない光景に、明日奈は慟哭の声をあげた。

 ステージ上の祭壇を埋め尽くす白い仏花と同じ高さに宙吊りにされた白い十字架。その十字架に、ワイヤーのようなもので両手足を拘束されているのは、誰あろう紺野木綿季その人だった。

 和人が最後に見たときよりも髪はずっと長く伸びており、まるで剣客か侍かのような格好をしてはいるが、それは確かに紺野木綿季と見て間違いない。

 意識を失っているのか、あるいは既に事切れているのか。だらりと伸びた彼女の四肢に力は無く、その瞳は固く閉じられたまま、明日奈の叫びに何の反応も返す事はない。

 

「そんな、嘘……! 木綿季! 目を開けて! 木綿季っ!!」

 

 顔色を蒼白に染めた明日奈が、堪らず親友の元へと駆け出す。

 その一方で、体育館の床に座っていたマネキンたちが、一糸乱れぬ機械的な動きで立ち上がる。その懐から取り出されるのは、鈍い金属色に輝く片手棍(メイス)短剣(ショートソード)長鞭(ロングウィップ)片手斧(ハンドアックス)などの多様な凶器。

 表情のない顔、瞳のない眼窩らしき窪みから放たれる視線を和人の方に向けたあと、マネキンたちはステージと体育館を繋ぐ階段めがけて一斉に歩き始めた。

 

(斬り込むか? ……いや!)

 

 自分一人であればその手も取れるが、この状況下で明日奈を一人にするリスクは犯せない。

 幸いなことに階段はステージ正面に一つ。救いを求める餓鬼の群れの如く殺到するマネキン達の前に仁王立ちし、和人は魔戒剣を鞘より抜き放った。

 

「ここで時間を稼ぐ! 明日奈、今のうちに木綿季を!!」

 

 背後に向けてそう叫びつつ、和人は襲い来るマネキンたちに向けて両手の魔戒剣を振るう。

 今まさに階段を上がりきろうとしていた一体目のマネキンを肩口より袈裟懸けに一刀両断し、返す刃でようやく現れた二体目の首を刎ねる。

 斬撃の余勢のまま反転させた姿勢より放つ回し蹴りで、手斧を振り上げていた三体目の胴を粉砕。その破片によって一瞬足止めを喰らった四体目と五体目のマネキンの隙を逃さず、頭部を左右の魔戒剣で諸共に貫く。

 刀身に反射した月の輝きが、鈍い光となって刃の軌道を照らす。その剣光が奔る度、無機質なマネキンの体が斬られ、穿たれ、砕かれ、光の粒子となって消えていく。

 その様はまさに、火に誘われる羽虫の群れと、己が領分を弁えぬ痴れ者を尽く焼き滅ぼす黒き炎が如し。両者の間にある力量の差が明白であることは、誰の目から見ても疑いようがない。

 ――なれども、しかし。脆く愚かな羽虫とて、群れを成せば時に陽の光を遮る闇となり、時に地の実りを喰らい尽くす死の化身へと変わる。

 

(凌ぎきれるか……)

 

 内心に焦りを抱えたまま、和人は逆手に構えた魔戒剣の一閃で二体のマネキンを同時に寸断する。

 交戦の火蓋が切られて未だ150秒も経過していない。しかし、和人が破壊したマネキンの総数は既に3桁の大台を突破していた。

 無論、この程度の雑兵未満の手合い、百や二百を相手にした所でどうという事はないが――その数倍が相手となると流石に話が違ってくる。

 多勢に無勢、孤立無援の状況下。自らの能力と長所を鑑みるなら、機動力を以て敵を撹乱し、敢えて敵中に飛び込んで活路を見出すが常道。しかし、その背に二人分の命を預かっている今、和人はこの場の守りを放棄するわけにはいかなかった。

 一体を砕けば二体が迫り、二体を斬れば四体が飛び来るほどに高まった敵群の密度。魔戒騎士の一撃が敵を破壊する速度よりも、敵が押し寄せる速度が上回りつつある中、和人は刹那の間に調息を重ねては全身に勁力を巡らし、己が心身をひたすらに駆動させ続ける。

 

(何匹来ようが……通すワケにいくかッ!!)

 

 もはや、荒ぶる濁流をたった一人で押し止めるに等しい程の数の差に晒される、孤独の戦場。そんな無謀な戦況の中にありながらも、和人の闘志に揺らぎは無く、その体捌きに消耗の気配は微塵も無い。

 迸る剣戟、荒ぶる空拳によって繰り出される阿修羅もかくやという怒濤の連撃が、寄り付く敵を一切の区別なく塵へと返す。

 体を外側へと捻りつつ、和人は敵の眼前で魔法衣(ロングコート)の裾を振り払う。はためく黒衣に視覚を一瞬幻惑された敵が怯んだ瞬間、和人は体を駒のように一回転させ、その動きに連動した横薙ぎの剣筋で敵二体の胴を切断。

 

(次ッ!)

 

 そのままステージに身を捻り込むかの如く姿勢をぐいと下げ、地面すれすれの鋭い水月旋脚(スピニングキック)でマネキンの両足を破壊。死神の鎌を思わせる鋭い一撃に両脚を刈り取られ、脚を失って階段より転がり落ちていく同胞を踏み越え迫る別のマネキンの顎に、下方から弦月翔脚(サマーソルト)を叩き込み頭部を粉砕する。

 直後、和人の顔面を狙って飛来するダガー。その軌道を見て取るや咄嗟に回避行動に移るも、攻撃直後の無理な体勢からではそれも至難の業。完全には躱しきれなかった鋭い鉄の鋒が、和人の頬を掠めて飛び去っていく。

 戦いの中、傷つく事には慣れていても、傷つく痛みだけは常に新鮮さを伴って和人の神経を苛む。なれど、傷口より血の流れるいつもの感触は無く、代わりに視界の左上に表示された緑色のHPゲージが僅かに削れる様が目に入る。

 

「ちぃッ!!」

 

 舌打ちを吐き捨てながら、両手の魔戒剣に正面で交差する軌道を描かせ上方へ振り抜く。短槍の柄で以て身を守ろうとした正面のマネキンが四分割されると同時、衝撃波(ショックウェイブ)となって解き放たれた剣圧が付近にいた三体のマネキンを直撃。そのまま吹き飛ばされたマネキン達は、側面の壁に頭から激突して動きを止める。

 マネキンに埋め尽くされていた前方空間に僅かな空きが生まれた直後、未だ舞い飛ぶ破片を貫くようにして飛来する分銅鉄鎖と鉄連接軟鞭。獲物に飛びかかる毒蛇の如き武具の群れが、和人の四肢に絡みつき動きを阻害する。

 

(まずい! 後ろに抜かれる!)

 

 コンマ一秒ですら惜しいこの状況に於いて、四肢を封じられる事は即ち絶対防衛線の崩壊を意味する。それだけは、何があろうと避けねばならない。

 

(――リズ、悪い!)

 

 咄嗟の判断で魔戒剣を二振りとも手放した和人は、ほとんど倒れ込むに等しい勢いで上半身を後ろへと流し、両腕を拘束する二本の鞭を力づくで手繰り引き寄せる。

 魔戒騎士の筋力に、体重が後方へと動く力が加わった状態で発揮される瞬間馬力は並大抵のものではない。突然の事に己が武器を手放すことも叶わなかった二体のマネキンは、宙を飛びながら和人の正面へと釣り上げられる。

 

(今だ!)

 

 魔戒剣の斬れ味を以てすれば、自由落下の速度ですら和人の両足を縛る鎖を切断するには十分すぎる。断ち切られる鉄鎖の悲鳴を聴覚で捉えるより早く、和人は拘束を解かれた下肢を即座に組み替えると同時、上半身の姿勢を前方へと引き戻す。

 結果、振り子の如く勢いを増して加速した体重移動力と勁力が集約されるは――今や空となった両手の内。

 

「砕けろぉッ!!」

 

 気息導引、万氣収斂。猛る叫びと共に叩き込む渾身の双撃勁破掌(デュアル・インパクト)が、宙を舞い来る哀れな人形二体の胴を過たず討つ。

 己が持つ力の全てを込めたその双撃の凄まじさたるや、直撃を受けた二体が全身尽く粉砕されるに留まらず、縺れるように迫っていた数十体のマネキンの群れが、解き放たれた勁力の余波を受けて次々に爆散するほど。

 連鎖する火花の如く砕け散るマネキンのボディが響かせる破砕音多重奏の中、久しぶりに開ける視界はまるで嵐が過ぎ去った後の空の如く。しかし、和人の胸中に快哉の色は無い。

 目下最大の懸念事項は、いかに凌ぐかということ――槍衾の如く迫りくる、矢の群れを。

 

(――あいつら、味方ごと撃つつもりだったのか!)

 

 階段への突撃に参加せず、体育館の床に陣取っていた一部のマネキンは、既にその短弓に番えていた矢を解き放ち終えている。

 たとえ他の味方(マネキン)を巻き込もうと、桐ヶ谷和人を()る――その醜悪な意図の下に放たれた矢の雨が空を裂き、最悪のタイミングで飛来する。

 

(回避は――間に合わない! 耐えきれるか!?)

 

 戦局ここに至り、数百の犠牲の上に成り立つ数の暴力が、孤軍奮闘する騎士をついに捉える。

 神速を失わぬ為に選んだ無手、殲滅を必定とされたが故に放った渾身の一撃。その直後とあっては、数を頼りに迫りくる矢の群れより逃れ得るだけの回避機動を取る事は、いかな達人とて不可能に等しい。

 どうにか腕を引き戻して防御姿勢だけでも取らんとするが、それでもどこまで耐えられるものか。奥歯を噛みしめる和人、その視界に映るのは無情なる矢の雨と――閃く、光。

 

「はあああっ!!」

 

 その足音は背後より届き、その声は頭上より聞こえ、その剣音は眼前より響いた。

 和人を飛び越え、その前へと割り込んだ白と紅の衣を、降り注ぐ月の光がスポットライトの如く照らし出す。

 その光の中、風を斬り裂く細剣の奔りが三度。和人の体に突き刺さるはずだった矢は全て細剣の刃の下に散り、辛うじて剣刃を逃れた矢の残りがステージ上に音を立てて突き刺さる。

 和人の視界に映るのは、見事に役目を果たした細剣(レイピア)を下段に構える、清冽な後ろ姿。

 

(――綺麗だ)

 

 そう、思った。

 迷いの無いその太刀筋を。剣風に靡く燈色の髪を。静かに揺れる白い騎士の衣を。

 そして何よりも――戦舞台の中に飛び入る事を躊躇わない、その稀有にして真っ直ぐな勇気を。

 

「キリトくん、お待たせ!」

 

 月光が、彼女の――アスナの横顔を照らす。

 闇を斬り裂く閃光の如く眩い、結城明日奈の姿を照らす。

 

「アスナ、どうしてここに……?」

「なによ、『俺の側から離れるな』って言ったのはそっちでしょ? とにかく、今は――」

 

 対角線軌道上に奔る上下二連刺突(ダイアゴナル・スティング)が、今まさにアスナへ飛びかかろうとしていたマネキンの頭、そして腰を正確に貫き、光の破片へと還す。

 流麗な剣捌き、そしてその刺突の速度は、以前アスナと手合わせした時とは比べ物にならないほどに疾く、そして鋭い。

 

「ここを切り抜けるのが先! ステージ中央まで下がって、そこで迎撃するよ!」

「お……おう!」

 

 有無を言わせぬアスナの様子に思わず頷かされつつ、和人は床に突き立ったままの魔戒剣二振りを引き抜くと、指示通りにステージ中央まで後退。そこで改めて体勢を立て直す。

 

「木綿季は?」

「大丈夫、ちゃんと助けられたよ。キリトくんが頑張ってくれてたおかげでね」

「そうか、それなら……あとは、俺が敵を片付けるだけだな」

 

 ふっ、と呼吸を整え、和人は両手の魔戒剣を構え直す。半身を流し、左手の剣の鋒を前方に突き出し、階段を登りくる敵の群れに向けて牽制する。

 

「『俺が』じゃなくて、『俺たちが』って言ってほしいなあ。そこは」

 

 その背に寄り添うように、自然な所作で和人の隣に歩を進めたアスナが細剣を構える。

 曲げた右腕を体側に寄せ、剣を握る右手を左胸の高さにゆるりと運び、刀身を地面と水平に寝かせた刺突の構え。その鋭い鋒が向く先は、ステージ前方に陣取った(マネキン)の群れ。

 

「危険だ」

「知ってる。だけど、キリトくん一人に戦わせるほうが、よっぽど危険だよ」

 

 そう断言しつつ、アスナは山なりの軌道を描いて飛来した数振りの手斧を容易く打ち落とす。

 アスナを危険な目に合わせたくはない――その意思は今も変わらない。しかし、この数の敵を相手に、和人一人で戦い続けた場合、木綿季も含めた全員が無事に済む可能性は低い。

 正直に言えば、猫の手も借りたい状況だった。もちろん、借りられる手の主に剣の心得があればそれに越したことはない。剣の腕前が確かならば、尚更。

 それにどの道、逃げ場など無い。目の前の敵を殲滅する以外に活路を見出す方法は無いのだ。括った腹に短刀(ドス)を突き刺すような心持ちで、和人は言葉を絞り出した。

 

「もし、君のHPバーが8割を切ったら、木綿季を連れて全力で逃げてくれ。アスナ」

「4割なら」

「7割5分」

「は・ん・ぶ・ん!」

「……なら、それで」

「もちろんその時は、キリトくんも一緒に逃げること。自分だけ残って時間を稼ぐ――とか言い出したら怒るよ、私」

「……わかった」

 

 視界の左上。わずかに削れた自分のHPバーの下に、いつの間にか表示されていたアスナのHPバーを一瞥する。彼女の命の残量が尽きるより早く、目の前の敵を殲滅しこの場を切り抜ける――アスナの安全に責任を持つと宣言した以上、和人が目指すべき結末はその一つのみ。

 それを邪魔する者がいるのならば、剣技を以て断ち切るだけだ。

 

「まずは俺が敵を切り崩す。サポートを頼む、アスナ」

「まかせて、キリトくん」

「――行くぞ!」

 

 駆け出すと同時に、和人は左剣を真っ直ぐ突き出したまま、右手を抱え込むように移動させ刀身を左腕の下へ。

 狙うは正面、両手騎士剣を構えたマネキン。

 

「しゃあッ!!」

 

 手首を返し左剣を肩の上へ構え直すと同時、その影に隠していた右腕を振り抜き繰り出すは蛇斬双牙(スネークバイト)。右上方へ抜ける逆袈裟軌道の初撃で騎士剣を弾いた直後、左に切り返した斬撃でがら空きになった胴を断つ。

 正面の一体が光の粒に変わった直後、和人が企図するは二連縦斬(バーチカル・アーク)。時を置かず左腕の剣を振り下ろし、騎士剣持ちの背後に隠れていた別のマネキンを一刀両断。直後、敵群の間隙を縫って飛来する矢の雨に向けて刃を振り上げ、剣圧の力で一本の例外も無く圧し折る。

 

「キリトくん、スイッチいくよ!」

「スイッチ!?」

前衛(フォワード)交代ってこと!」

「――そういうことか!」

 

 手近な所に居たマネキンの首を刎ねるついでに、和人は魔法衣の裾を翻し、前方にいた別のマネキンの視界を一瞬塞ぐ。

 向かって外側に避けた和人の体を追い、マネキンが視線を横にずらした瞬間――白き流星が、ステージの上を奔る。

 

「はっ!!」

 

 宵闇色のコートの内より、その裾までも突き破らんほどの速度で放たれるアスナの流星刺突(シューティングスター)。夜空を駆ける流星の如きその一撃に、視線すら合わせていなかったマネキンが応じられるはずもない。

 獲物の胴を見事貫き破壊したアスナは、光の粒子をまとったまま更に前へと出ると、自身と同じく細剣を構えたマネキンを狙う。間合いへと飛び込んできたアスナを迎え撃たんと、マネキンは細剣を突き込む――いや、正確にいえば、突き込もうとした。

 

「てえぇぇいっ!!」

 

 マネキンの反応速度よりも更に上を行くアスナの剣閃が、迎撃に先んじて敵手を襲う。躊躇いのない加速、正確な狙いが描く三連刺突(トライアンギュラー)は、マネキンの頭部、首、胸部を一瞬の内に穿つ。急所を立て続けに破壊されたマネキンがどうなったかは、今更言うまでもない。

 軽快にキルスコアを伸ばすアスナに業を煮やしたか、右手に大鉈を、左手に盾を構えたマネキン二体がその進路を塞ぐように並び立つと、手にした凶器をアスナめがけて振りおろす。

 

「――キリトくん!」

 

 鉄の刃に膾にされる直前、アスナは地面を蹴り飛ばすようにしてブレーキをかけ、揃えた両足で床を蹴り飛ばすようにして後方へと跳躍。脚力と無駄のない身のこなしで背面宙返り(ムーンサルト)を決めたアスナが華麗に天を舞う一方、勢いよく振るわれた刃はステージの床板に突き刺さる。

 

「任せろ!」 

 

 月の光が作る影のように、既に和人の体は宙を舞うアスナの下にある。

 駆け出す勢いのまま敵との間合いを詰め、獲物を失って虚しく突き出されたままの腕をめがけて双剣を振るう。二体の敵、その腕をほぼ同時に切り落とし、続けざまに胴を断つ水平四連斬(ホリゾンタル・スクエア)の技の冴えはまさに二刀流の面目躍如。

 

(――不思議だ)

 

 同胞の仇を討たんと、穂先の長い突撃槍(ランス)を構えたマネキンが迫り来る中、和人はふとそんな感慨を抱く。

 

(組むのは初めてのはずなのに……アスナの動きが、手に取るようにわかる気がする)

 

 間合いに騎士の姿を捉えた敵手が、突撃槍に最後の一押し分の力を込めて突き出すタイミングに合わせ、和人は静かにバックステップを踏む。

 同時に、下段にゆるりと流していた左の魔戒剣を振り上げれば、カウンターの一撃によってかち上げられた突撃槍の穂先が誰も居ない天を向く。

 敵が無防備な姿を晒した一瞬を逃さず、和人と入れ替わるように前に出たアスナの細剣が敵手の腹部を一閃。腹を掻っ捌かれたマネキンは臓物の代わりに光の粒子をこぼしながら消滅する。

 同時に開けた空間に向けて、和人は右手の魔戒剣を投擲。ブーメランの用に回転しながら飛翔する超金属の剣が、アスナの右手側より迫っていた敵の群れを薙ぎ払うと、そのまま湾曲する軌道を描いて体育館床に陣取った短弓使い達に襲いかかる。

 

「キリトくん、ナイス援護!」

 

 まるで、右側が空くことがわかっていたかのように飛び出したアスナが狙うのは、片手が無手となった和人めがけて両手斧を振り下ろす男性型のマネキン。

 それとほぼ同時に左の剣を逆手に持ち替えた和人は、背後よりアスナを切り裂かんと迫る両手爪装備の女性型マネキンに向けて刃を奔らせる。

 黒の剣士と白の閃光がステージの上で交錯。直後、両手斧を掻い潜った細剣の一撃と、両手爪を打ち払った両刃剣の一閃が、互いの隙を狙った敵を打ち破ったのは、奇しくも全く同じタイミングであった。

 

「幽霊は苦手なんじゃなかったのか? アスナ」

「こんなのただのお人形でしょ! 体は透けてないし、浮いてないし、変な恨み言とか言わないし!」

「なるほど、確かに!」

 

 冗談を交わしあう余裕すら保ちながら、二振りの剣がステージの中央で舞う。

 相当数を破壊したとは言え、残る敵は未だ数百以上。押し寄せる敵の勢いに変化はない。桐ヶ谷和人一人だけが立っていた孤独な戦場に、剣が一振り、味方が一人増えただけで何かが変わるというのか。

 ――その答えは、次々に斬り裂かれるマネキンの惨状が如実に示していた。

 

(手練が一人いるだけで、戦況が安定する……!)

 

 数の暴力を以て舞台上を圧していた敵の群れが、引き潮が始まったばかりの海のように、徐々に後方へと押し返されていく。戦況の流れがこちら側に傾きつつあることを『肌』の上で感じながら、和人は左腕を振るい、逆手に握ったままの剣を敵が掲げる大盾目掛けて叩きつける。

 体勢を大きく崩しながらもどうにか魔戒剣の一撃を受けきった敵をそのままに、和人は腿力と勁力に物を言わせて真上に跳躍。敵が姿勢を立て直すより早く、和人の下を潜って間合いを詰めたアスナが叩き込む六連十字撃(クルーシフィクション)が、その命を奪う。

 当然、剣技を振るった直後のアスナを狙って別のマネキンたちが殺到する。しかし、殺意の嵐の只中にありて尚、彼女の態度はあまりにも泰然自若としている――が、それも別段不思議な事ではない。

 其の身に絶対に届くことのない刃を恐れる必要など、ありはしないのだから。

 

「――スイッチ」

 

 その時、彼女の微かな声を聞き取れたのは、使い手の元へと還ってきた魔戒剣を空中で掴み取った和人ただ一人だけだった。

 手の中に還った剣を即座に構え直すと同時、落下の勢いのまま敵群に向けて刃を叩きつける二連縦斬(バーチカル・アーク)。そしてそこから繋ぐ二連水平斬(ホリゾンタル・アーク)。双剣が描く変則的な四連撃の軌道は、上方からの奇襲に対応しきれなかったマネキン達を容易く寸断してみせた。

 

「このまま片をつけるぞ、アスナ!」

「まかせて!」

 

 体育館中にひしめいていた敵の群れは、今やその数を大きく減らしつつある。

 元より数の差を以て、たった一人の守護者を圧することでどうにか均衡を保っていた戦場。その数の差が埋まり、そして闘う者が孤独(ひとり)で無くなった今――戦場がどのような結末を迎えるかは、火を見るより明らかだった。

 

「ふっ!」

「はあっ!!」

 

 差し込む月光を照明に、ステージ上で繰り広げられ続けるその様相を『戦闘』と呼ぶには、いささか一方的であり、そしてあまりに流麗にすぎた。

 剣が奔れば首が飛ぶ。細剣が伐てば胴が砕ける。幾度となく繰り返されるその光景は、結末こそ同一なれど、しかして同じ振る舞いを見せることは一度たりとて無い。

 剣を執り、刃を振るい、互いの背を守り、隙を補い合う。視線一つ、吐息一つだけで互いの意を汲み織り成される絶妙な連携。それは『阿吽の呼吸』などとも称される、同じ世界(ばしょ)を共有する者だけが掴む事を許される相互感応(つながり)

 それは目には見えず、音にも聞こえず。さりとて確かに存在する靭やかな感応(リンク)の元に、黒の剣士と白き閃光が繰り広げる光景は、文字通りの――”黒と白の剣舞”。

 

「これで――」

「ラストだ!」

 

 天に舞う妖精(フェアリィ・ダンス)の姿を想起させる剣の軌道が、押し寄せたマネキンの群れを尽く切り裂く。そして最後に残された一体に向け、空気を切り裂く鋭い風切り音と共に二振りの刃が奔った。

 着撃はほとんど同時――得物のリーチと体格の差でコンマ数秒和人の方が早かったが、素人目にはわからないほどの微々たる差。体格、あるいは得物の長さのどちらかが同じであれば、彼女の方が先に敵を穿っていたかもしれない。そう感じながら、和人は静けさを取り戻した体育館内に気を巡らせる。

 目に映る範囲に敵はなく、ここにいる二人を除いて動く者の気配は無い。いや、正確に言えば、向かって左手側の舞台袖に何某かの気配はあるが、それはどちらかと言えば喜ぶべき類の物だろう。

 差し迫った危難が無いことを確認し、和人は両手に握った剣を背中の鞘へと戻した。

 

「……あーあ。キリトくんに、ラストアタック取られちゃった」

 

 戦闘態勢を解いた和人に倣い、アスナも細剣を腰の鞘へと戻す。

 

「そうか? ほとんど同時だったし、ラストアタックは二人のものって事でいいだろ」

「いいの?」

「ああ。さて……とりあえず、行こうか。アスナ」

 

 数歩進んだ所で、後についてくるはずのアスナの足音が不意に止まった事を、和人の聴覚が察知した。

 

「アスナ?」

「ご、ごめんね、キリトくん……。その……安心したら、なんだか急に、力が抜けちゃって……」

 

 振り返った和人の視線の先で、アスナはまるで歩くことを忘れてしまったかのように脚を止めていた。動かない自分自身の体に当惑しつつ、和人を気遣うかのような笑みを無理に浮かべながら。

 放っておいていいものではない。即座にそう理解した和人は、すぐさまアスナの側へと戻る。思わず伸ばした手が無意識の内に彼女の肩に触れ――微かな、しかし誤魔化しようのない震えを伝えてくる。

 

(そうか、そうだよな……。怖かったよな、そりゃ)

 

 当たり前と言えば当たり前だ。いくらアスナの中に《SAO》の記憶があり、その剣の技を支えているとはいえ、アスナにとってはこれが初陣。しかも、元より戦うことを目的としていたわけではないのだ。

 戦場の高揚が薄れた今、殺気と敵意に晒され続けていた身体が恐怖を改めて感じていたとしても無理からぬ。和人とて、初めてホラーと戦った時は同じ様に恐怖を覚えたものだ。

 

「アスナ」

 

 潤む彼女の瞳を見つめ、その小さな肩に回した手に僅かばかり力を篭めて誘えば、アスナは小さく首を縦に振る。和人もまた頷きを返し、未だ震えを残す彼女を己が腕の中へと抱き寄せた。

 おとぎ話に語られる姫君のように、ゆっくりと体重を預けてくるアスナの身体から、温かな血の温度と拍動が伝わってくる。

 

「ずるいよ、キリトくん……。そんな慰め方、一体どこで覚えてきたの?」

「それは……企業秘密ってことで」

「もう、調子いいんだから」

 

 月光に照らされながら、アスナはくすくすと小さな笑い声をこぼす。その榛色をした瞳の中に、和人が作る黒い影が落ちる。

 既に彼女の身体から震えを感じることはない。それでも、アスナは和人の腕の中より離れようとはせず、和人の顔を真っ直ぐに見つめる。

 

(やっぱり、綺麗だ)

 

 改めてそう思う。

 その白い(かんばせ)を。そして、あの勇猛果断な戦いの技を。

 『閃光のアスナと共に戦えるのなら、負ける気がしない』――あの夜、冗談めかして言ったセリフが、確かな真実を指し示していた事を和人は今更ながら理解する。

 

「不思議だね……。あの時、『キリトくんが危ない』って思ったら……体が勝手に動いちゃった」

「そのおかげで俺は命拾いできたよ。

 しかし、『明日奈の安全には責任を持つ』なんて言っておいて、結局アスナに助けられるなんて……なんだかちょっと情けないな」

「そんな事ないよ。あそこで…たった一人で戦ってくれてたキリトくん……すっごく、かっこよかったもん」

 

 微笑みかけるアスナの指先が、小さな傷の残る和人の頬にそっと触れる。

 

「一緒に戦ってくれてありがとう。アスナ」

「こちらこそ。一緒に戦ってくれてありがとう。キリトくん」

 

 互いの瞳の中に互いの顔を映すほどの近くで微笑みを交わす間に、ほとんど密着していたに等しい二人の距離は更に縮まり――何かが床にぶつかる、がしゃん、というけたたましい音が静寂をぶち破った。

 

「――ひゃっ!? な、なにっ!?」

 

 慌てた様子のアスナが、音のした方へと振り返る。音のした瞬間には彼女の腕に回していた腕を解いていた和人も、アスナに合わせて同じ方へと視線を向けた。

 

「あ、え、えっと……ボクのことはお気になさらず、続きをどうぞ……」

「木綿季!?」

 

 向かって左手側の舞台袖。そこに連なる天井より吊り下げられた緞帳の影へ隠れるようにしながら、顔だけを覗かせる少女――紺野木綿季の姿に、アスナが驚きの声を上げた。

 腰のあたりまで伸びた長い黒髪を微かに揺らし、困惑と興味の様子が見て取れる紅色をした瞳でこちらを見つめる木綿季の足元には、有線式の小型照明スタンドが倒れている。先程響いたけたたましい音の正体は、アレとみて間違いないだろう。

 

「木綿季! よかった……目を覚ましたのね!」

「うん。ごめんね、明日奈。なんだか心配かけちゃったみたいで……」

「本当よ。すっごく、心配したんだから……」

 

 目の端から安堵の涙を零しながら、アスナは木綿季に駆け寄ると、その手をぎゅっと握りしめた。

 白い騎士装備をまとうアスナと、濃紺色をベースにした侍を想起させる軽装鎧をまとう木綿季の姿は、対象的なコントラストが効いているせいかそれだけで独特の美しさを放っていた。

 

「木綿季、一体何があったの?」

「えーと、話せば長くなるんだけど……遊園地で、黄色いスーツ着た変な人に会って……色々あって、気がついたらここに居て……」

 

 その小さな顎に人差し指をあてて自身の身に起きていた事を思い返していた木綿季だったが、不意に言葉を切る。その視線が一瞬、アスナの後方から近づく黒い影――すなわち、桐ヶ谷和人を一瞥した。

 

「まーまー、詳しい話はあとあと。それより明日奈、紹介してよ。明日奈の『黒騎士様』」

「え? ……う、うん。わかったよ、木綿季。

 紹介するね。この人が、キリトくん。私の……遠い親戚で、私がお世話になってる人だよ」

 

 木綿季にねだられるまま、アスナが紹介する和人のプロフィールは、以前から打ち合わせていた架空のものだ。まさか、事情を知らない一般人相手に『私をホラーから守ってくれている魔戒騎士です』などと言うわけにもいかないのだから。

 

「はじめまして、木綿季さん。アスナの親戚の、『影山キリト』です。よろしく」

 

 これもまた事前に決めておいた偽名を名乗りつつ、和人は右手を差し出して握手を求める。木綿季は少しの間、何かに迷うような怪訝な顔をした後、差し出された手に手を重ねた。

 

「よろしく、キリト。ボクは紺野木綿季。

 明日奈とは同じ大学に通ってて、こないだまで明日奈がうちに居候してたんだけど……なるほどね。明日奈の『黒騎士様』ってこんな人だったんだー……」

「はは。君のことは明日奈からしょっちゅう聞いてるよ。よろしく、木綿季さん」

 

 そう言って握手を終えようと、指を解きかけた和人の右手を――木綿季の小さな右手が、がしりと力強く掴み直す。

 

「えーっと、木綿季、さん……?」

「……ねえ。ボクたちってさ……ホントは、初対面じゃないよね? キリト……ううん。 

 ――魔戒騎士の桐ケ谷和人(・・・・・・・・・・)さん?」

 

 どうやら、窮地を脱したと判断するのは、いささか早計にすぎたらしい。

 相手の力量を感じ取り、一閃交える事を求める剣術家を思わせる挑発的な笑みと共に、和人の瞳から視線を逸らそうとしない木綿季。

 磨かれた紅玉を思わせる彼女の瞳を、和人もまた真っ直ぐに見つめ返し――懐から抜いた火鑽(ライター)の蓋を撥ね上げ、煌々と輝く魔導火を木綿季の眼前へと翳した。

 

 

――――――

 

 

【幽戯】(下)へ続く。


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