黒ずくめの魔戒騎士   作:Hastnr

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6:【幽戯】(上)

【幽戯】(上) 

 

 

――――――

 

 魔戒騎士。

 ソウルメタルの刃を振るう、心身ともに極限まで鍛え抜かれた戦士。

 常人の想像しうる領域を易易と飛び越え、常人には想像し得ぬ闇の世界で魔獣と戦い続ける彼らですら、時には己の体力全てを使い果たし、どうにもならぬ限界を迎える事もある。

 契約による一時的な死から目覚めてから、10日が過ぎた後。

 桐ヶ谷和人は、まさにそんな状態だった。

 

(…………)

 

 いつ以来だろうか。

 鍛錬の末に一歩も動けなくなり、背中から倒れ込んで天を見上げる他に何も出来なくなるほどに消耗しつくしたのは。

 無論、日々の鍛錬を欠かした事は無く、時折シノン相手に繰り広げる組手でも手を抜いているつもりは無い。それでも、ここまで自分を追い込んだのは――追い込まざるを得なかったのは久しぶりだ。

 

子供(ガキ)じゃあるまいし……何やってるんだ、俺は)

 

 桐ヶ谷和人が父親から受け継いだ屋敷。その地下の鍛錬場に広がる石造りの硬い床に背中を預け、全身から吹き出した汗を拭う事もできぬまま、和人は一人静かに呼吸を繰り返す。

 深く、三度。浅く、二度。肺に取り込んだ空気を不可視の氣力(エネルギー)に転換し、体の中心部から末端へ流し込むようにして送り出し、再び中心部へと戻す。

 冬の日に冷えきった四肢を温かい湯に浸けた時にも似た、閉じられた回路を押し広げていくような感触と共に、その循環を繰り返すこと数度。

 機能を取り戻した手足の感覚を確かめながら、和人は倒れ込んでいた体を起こす。

 

「……よし、っと」

 

 鍛錬によって失われた体力を『発勁』によって回復させ、和人は小さく頷く。

 『発勁』。主に呼吸を操ることで生み出した『勁力』――気功、あるいは功夫(カンフー)などとも呼称される生命エネルギー――を用い、操り、放つ行為。あるいは『勁力』を練り上げ操る技術そのものを指す。

 魔戒騎士として重ね続けてきた修行の日々の中で、和人は『勁力』を操る術、その一端を体得し、己の技として磨き続けてきた。

 体得せざるを得なかった、と言い換えてもいい。一般人としてはともかく、騎士としてはそこまで恵まれた体格とは言えない桐ヶ谷和人にとって、強大な力を持つホラーと渡り合っていく為には、己が持つ破壊力を高める『何か』がどうしても必要だった。

 百折不撓の果てに辿り着いた答え。剣においてのそれは、体重、そして全身の力を遍く活用した『剣の術理(ソードアーツ)』であり、徒手空拳においてのそれは、全身に巡らせた勁力を用いる『発勁』、そしてその発勁を活用した『拳の術理(ストライクアーツ)』だった。

 

(外なる流れを身の内に。招き集わせ、手繰る……)

 

 和人が納めた勁の流派においては、『発勁』それ自体の用法を大きく二種類に分けている。

 掌打のように勁力を直接的な破壊力に転化して敵手に打ち込むものを『外勁』。反対に、勁力を己の内に向け、性能を高めたり強力な回復作用を齎す『内勁』――という具合だ。

 この『内』と『外』の流れを合一させ、さりとて混在させず、意識と無意識の狭間において自然かつ意図的に操れるまでの域――斯様な矛盾を内包した境地に至った所で初めて、修行が完成したと見做される。

 和人の場合、鍛えた肉体に剣の術理を応用する事の相乗効果もあって『外勁』はそれなりの形にはなっているものの、『内勁』は『無いよりはマシ』程度。こうして鍛錬で使い果たした体力程度ならさほど時を置かず回復できるが、これが実戦であればそうもいかないだろうし、回復しきるより先に敵がトドメを刺しているだろう。

 せいぜい削られた体力を少しずつ回復する(バトルヒーリング)のが関の山。所詮、和人が体得出来たのは深奥秘技たる発勁、そのほんの入口にすぎないのだから――。

 

(当然と言えば、当然だよな……)

 

 『勁』を極めた者――果たしてそんな者がいるかどうかは別として――が十分に練った氣を込めれば、たとえそれがただの木の棒、あるいは紙や布であっても、肉を切り裂き骨を断つだけの威力を持つという。その氣を自分に用いれば、鬼すら没するような広大な砂漠の地を歩いて渡りきる事も叶うとも言われている。あるいは、体内を流れる電気信号を勁力によって瞬間的に高め、あらゆる電子回路を灼き尽くす紫電(・・)を纏った()を繰り出す事すら不可能では無いはずだ。

 その窮極の領域に――桐ヶ谷和人は程遠い。生涯、届くことは無いだろう。

 もとより勁に対する天賦の才があったわけでもないし、死線を10や20くぐり抜けた所で身につくような簡単なものでもない。その程度で極められるような浅い道であれば、今頃和人の回りは発勁の達人だらけのはずだ。

 

(ま……やれることを、やってくしかないよな)

 

 調息を終え、和人は床に落としてしまっていた魔戒剣二振りを拾い上げる。

 ホラーとの戦闘において、勁の力はあくまで補助。シビトや号竜人、ホラーが使役する低級の魔物程度ならともかく、本物のホラーとなれば体術をいくら叩き込んだ所で倒せはしない。美術館で相手にしたホラー・ルナーケンの人間体――掌打で首から上をへし折ってもぴんぴんしていた――が、いい例だ。

 よしんば体術だけでホラーを滅する事ができる騎士がいたとしても、それは常識の埒外にある筋骨隆々の偉丈夫――例えば分厚いレアステーキを毎日平らげて筋肉に変えているような――にしか出来ぬ事であろうから、どのみち和人には関係の無い話だ。

 今手にしている魔戒剣で、敵の体を貫く為の隙を作り上げる事が目的なのだ。それを忘れてしまっては元も子もない。

 

「よしっ」

 

 軽く頭を振って気持ちを切り替え、別の鍛錬メニューに移るため、和人は姿勢を整えて剣を構え直す。体が温まりきっている今、準備運動としての素振りは必要ない。

 右腕の肘関節を曲げ、剣を肩に担ぐようにして(きっさき)を自身の後ろへと向けた上段へ。逆に、左腕は関節に余裕をもたせながら前方へと伸ばし、鋒が敵を向くように構える。

 

「……」

 

 二刀流は異端の構えだ。長剣二振りを操るものは、特に。それは決して常道を、正道を、王道を征くものではない。

 片手で一振りの剣をグリップする以上、両手で剣を握るオーソドックスな構え――便宜上『一刀流』とでも呼ぶべきか――に比べて構えの安定性や剣の保持力は大きく劣る。両手で剣を支えようとするならば、片方の手に握った剣を捨てる必要がある。それではわざわざ二刀を構える意味はない。

 攻撃と防御を兼ね備えたいのであれば、利き手の逆に剣を握る代わりに盾でも構えた方がよほど使い勝手がよいのが事実であるし、剣を二本持っているから攻撃力も2倍になるなどという都合のいい事があるわけもない。

 そうして考えた時、デメリットも多い二刀流を敢えて選ぶ理由はないように思える。

 ――桐ケ谷和人のような、ごく一部の人間以外には。

 

(状況。敵1、得物は……)

 

 和人はしばしの間目を閉じ、仮想の状況を設定する。

 型稽古などと呼ばれる実戦を想定した鍛錬に於いて、状況の設定は重要な事柄の一つである。敵の数、味方の数、得物、位置、体格。多種多様な状況を想定し、それらの状況に応じて最適な剣を振るおうとする事が肝要であった。それはなにも実戦で想定通りの状況が向こうからやってくるのを待つためではない。状況に即した『勝機』を自ら引きずり出す為に、である。

 今回の敵手は1。味方は無し。得物は剣――いや、細剣(レイピア)

 和人より小柄な体格の剣士がとるのは、剣を握る右手を後方に引き、細い刀身を地面と平行になるように寝かせた刺突の構え。互いの間合いは一足一刀よりほんの少し遠いが、どちらかが僅かでも動けば即座に必殺の間合いに届く距離。

 その距離を挟んで、膠着する。

 

(…………よし)

 

 状況想定、完了。

 和人は静かに目を開け――地面に足裏を滑らせるようにして、半歩の更に半分ほどの距離だけ体を前に出す。

 必然、膠着した状況が破れる。

 想定された敵手が、陽の色をした長い髪(・・・・・・・・・)をなびかせながら、和人の心臓を突き穿たんと飛び出してくる。

 

「――っ!!」

 

 勝機はそこにあった。

 和人はしゅっと短く息を吐き、全身に巡らせた勁を活性化する。右足を前に出し、銃口より飛び出す弾丸が如く体を前方へ撃ち出すようにして踏み込む。

 突きこむと見せかけた左手の剣を細剣が描く刺突軌道の内側に潜り込ませ、そのまま左腕を開くようにして刀身を当てて軌道を逸らす。鋼と鋼がぶつかりあう甲高い音の最初の一音が産まれるのと同時に、斬り払いの軌道に従って内から外へ移動する左腕の動作に連動させた腰から上を僅かにひねりつつ、和人は右手に握った剣を振り下ろす。

 体が前へ動く力。体重が移動する力。振り下ろされる腕の力。体内を巡る勁力。そして、ソウルメタルの超重量。それら全ての相乗効果が、ただの棒振り芸とは次元の異なる剣閃を作り出す。

 真上から真下へ垂直な軌道を描きながら、無防備となった敵手の頭目がけて神速の斬撃(バーティカル)を叩き込む。

 全身の力を余すところなく載せた一閃が、頭蓋ごと敵手の首を寸断し、更には胴体を正中線に沿って二分割する。

 それだけの威力を持つ一撃を、その威力に応えるだけの斬れ味を持つ剣で振るうのだ。当然の帰結と言えた。

 

「……ふぅ」

 

 斬撃の終端でわずかに腰を押し出すようにして姿勢の崩壊を防ぎ、和人は剣を振るう手を止めた。

 此度の勝機は、敵の攻撃直後――所謂『後の先』と呼ばれる類のもの。あえて間合いに飛び込むなり隙を見せるなりして敵の攻撃を誘い、それを躱す、あるいは弾いてて無力化した瞬間に訪れるもの。その直後に叩き込む一撃はまさに必殺であった。

 もし、敵が誘いに乗らなければどうするか。その時はすり足からの踏み込みでこちらから間合いを詰め、そのまま左手の剣による刺突で貫く。

 ならばもし、敵が誘いに乗りつつも、突き出された左の剣に僅かばかり怯む素振りを見せたらどうするか。その時はそれこそが勝機だ。同様に間合いを詰め、左の剣の鋒に意識を向けさせたまま、右の剣を振り下ろす。

 敵の行動・意図に合わせて取りうる選択肢。その多さという一点において、『二刀流』は他の追随を許さない。状況に対し柔軟に対応しやすいと言い換えてもいいだろう。

 確かに、右手と左手それぞれに攻撃と防御の役割を固定して割り振るのであれば、盾装備に軍配が上がる。しかし、右と左に割り振った攻撃と防御の役割を状況に応じて自在に入れ替え、更には時に両方で攻め、時に両方で守る。それぞれの剣を逆手に構え、なんならいっそ片方の剣を投じる。状況に応じて即座に剣の運びを切り替え、変幻自在な術理を行使できるのであれば、他のあらゆるファイトスタイルの利点を無視してでも『二刀流』を選ぶ理由に足る。

 そして、桐ヶ谷和人が『二刀流』を選んだのも、まさにそのためだ。

 

(まあ……()れたか)

 

 鋒が地に付く寸前で止めていた剣を引き起こすように戦闘態勢を解きながら、和人は内心で今の一撃を思い返す。

 あのタイミングで剣を弾くと同時に斬撃を叩き込まれ、無事に済む人間はまず(・・)いない。ホラーであっても、それは同様だろう。

 『敵の攻撃を受けながら反撃を行える』というのは、二刀流が持つ利点の一つである。仮に両手で一振りの武器を握る場合、敵の攻撃を武器で受けた時点で、同タイミングでの反撃はほぼ不可能になる。脚撃や体当たり、あるいは柄から手を離し拳で殴りつける――例えば、無防備な腹部あたりを――という手段もありはするが、それを以て決着と成す程の一撃にすることは難しい。どんな速度で得物を振るおうと、必殺足りうる反撃の一手を放てるのは、敵の攻撃を一度受けた『後』の話になる。

 その点、二刀流は片手の剣で敵の攻撃を弾くのと『同時』に、もう片方の剣で反撃の一手を叩き込む事ができる。これは片手に盾を構えた場合も同様ではあるが、左右どちらでも攻撃・防御を担わす事ができるのは、盾にはない利点である。

 

(……理屈の上では、な)

 

 だがそれも、敵の意図を正確に見抜き、それに合わせた剣技を選択できてこその話だ。その点において、桐ヶ谷和人が持つ『武器』――超人の集団である魔戒騎士の中でも更に頭一つ抜けた『反応速度』は相性がよかった。

 仮に敵が己の想定を超えた挙動を見せたとしても、和人は即座に次の行動へ移ることができる。受けるにせよ、躱すにせよ、あるいは攻撃によって敵の挙動自体を潰すにせよ――左右の手それぞれに、堅固あるいは必殺の力があることは選択肢の幅を増やし、出遅れの不利を潰す可能性を高める。

 とはいえ。結局、一振りの剣を持つとしても、双剣を操るとしても、あるいは槍や他の獲物を持つとしても、それに応じた有利不利はどうしても発生する。絶対無敵のファイトスタイルなどどこにも存在せず、完全無欠の武器もまた存在しない。それを鑑みた上で己の強みをどう生かすか――その考えの果てに桐ヶ谷和人が選んだのが、『二刀流』だった。

 そこに、父の姿を象り剣と鞘を操ってみせた黒い影への対抗心が無かったと言えば嘘になる。もちろん、リズが鍛え上げてくれた”魂”を、ただ倉に納めて埃を被せるままにしたくなかったという想いもある。

 その選択が間違いではなかった事は、今日に至るまで桐ヶ谷和人が生きている事自体が雄弁に物語っていた。

 

(しかし……なんで俺、明日奈を敵にしたんだ……?)

 

 軽く呼吸を整えながら、和人は己自身を訝しむ。

 普段、型稽古で想定する敵の姿は素体ホラー、あるいはリズ、またはシノンだ。無数に存在するホラーそれぞれの特異な能力を想定して型稽古を行うのは現実的ではない。それに、多くのホラーを人間の皮をかぶった状態で発見され、そのまま交戦に入る。

 ホラーに憑依された時点でその人間は死んでいる――とはいえ、『人の姿をしたもの』を斬る覚悟だけは常に持っておく必要がある。故に和人は、ホラーの基本形である素体ホラー、そして自身の最も近くにいる大切な者――リズ、そして、シノンを仮想敵とする事が多かった。

 だが、今回。和人の心中で像を結んだのは、陽の色をした長い髪の女剣士・明日奈――いや、『アスナ』。明日奈本人から伝え聞いた『SAO』の中にいる、もう一人の明日奈。そのアスナが放つ、文字通り閃光が如き速度の刺突(リニアー)を和人は細剣ごと躊躇わず打払い、その肉体を一刀両断した。

 驚愕と嘆きの表情を浮かべながら、和人の剣の前に命を散らすアスナ。その仮想(ヴァーチャル)()光景(リアリティ)が、和人の心を妙にざわつかせる。

 

(俺は……戦ってみたいのか? 明日奈、いや――『閃光』のアスナと)

 

 胸中に抱いた己への問いに応えるより早く、訓練場の扉が外から叩かれる音が和人の耳に届いた。

 それを都合よく解釈し、迷いを一度棚上げにすることを決め、和人は双剣を共に鞘へ収めると扉の外に向けて声をかけた。

 

「ああ、どうぞ」

 

 どこか遠慮がちなノックの音へ応ずれば、見慣れた二人が揃って顔を覗かせる。

 桜色の魔戒法師・リズベット。蒼色の魔戒法師・シノン。

 心配と呆れがないまぜになったような表情を浮かべた二人の魔戒法師は、扉を開けた直後、訓練場内を満たしていた熱風をまともに浴びてしまい、その端正な顔立ちを揃って歪める。

 

「――あっづ!」

「…………」

 

 たまらずリズが悲鳴を上げ、シノンが何か言いたげなじとりとした視線を向けてくる。うっかり警告を忘れていたことを視線で詫びながら、和人は二人の側へと近づいた。

 

「おかえり、ふたりとも」

「ただいま、和人。……で、あなた。リズを工房から追い出しておいて、朝っぱらから一体何してたわけ?」

「いや、ちょっと鍛錬を」

「へえ。何をどうしたら、『ちょっと鍛錬』しただけで、ここがサウナに変わるのかしら?」

「それは……」

 

 地下室の中に脚を進めてきたシノンの問いに言葉を詰まらせつつも、和人は差し出された清潔なタオルとドリンクボトルを受け取る。ふわりと柔らかな白いタオルが、和人の顔、首、頭に浮いていた大量の汗を吸い込んで瞬く間に湿り気を帯びていく。水分を失い続けるばかりだった体に冷えた液体を流し込んでやれば、本能的な欲求を満たす快感が喉から胃の腑までを駆け抜けていった。

 

「シノンの代わりに当ててあげる。『烈火炎装』でしょ?」

 

 シノンより遅れること数歩。部屋の暑さに辟易しながら、魔法衣の胸元を左手で掴みぱたぱたと煽ぎながら近づいてきたリズが、和人の言葉を補足する。ボトルの中身を一息で飲み干した後、和人はリズの言葉に首肯した。

 

 『烈火炎装』。

 魔戒騎士が操る無数の技の中でも、奥義の一つに数えられる秘中の秘。

 鎧を纏った総身に煌々と燃える魔導火を宿すその技、そしてその姿は、魔獣たちを恐れ怯えさせるばかりか、ソウルメタルの能力そのものを飛躍的に引き上げ、騎士の持つ力を数段上の領域に導き高めると言われている。

 無論、騎士ならば誰でも使えるというわけではない。精神によって御するソウルメタルを操りながら、同時に全身にまとった魔導火をコントロールし続ける必要があるのだ。その制御難度の高さが仇となり、恩恵は多くとも使い手の数は限られている。

 実際、和人も烈火炎装を自在に扱えるような騎士ではない。

 それでも、『いつか』と思いながら鍛錬を続けてはいたが――『いつか』などと悠長に構えてもいられるほど、事情は楽観的ではなくなった。

 『今』必要なのだ。

 『これから』の戦いを越えていくための力が。

 

「呆れた……。『しばらく一人でトレーニングさせてくれ』って言い出すから、何かと思ったら……。

 そういう鍛錬するなら鍛錬するって言えばいいじゃないの」

「ごめん、シノン。さすがに……言葉が足りなすぎた」

「ま、お説教はあとでたっぷりさせてもらうとして。和人、あなた何か大事なこと忘れてない?」

「明日奈のお迎えだろ? 今から行ってくるよ」

 

 大学生である明日奈の講義が終わるのは、だいたいが夕刻から夜にかけての時間帯であり、つまりはホラーが活動を開始する頃合いでもある。女性同士ということもあり、これまではシノンやリズが明日奈を迎えに行く事がほとんどだったが、ホラーが異常な頻度で現れ始めた今、万一の交戦に備えてお迎え役は和人に一任されていた。

 理由こそ未だ不明なれど、明日奈がホラーに狙われている以上、綾の番犬所内最強戦力である魔戒騎士・桐ヶ谷和人をその護衛に任ずるのは必然であった。

 明日奈が通う女子大の敷地内やその付近に、自分のような人間が毎日のよううろついていては、明日奈に色々と迷惑をかけてしまうのではないか――と、心配はしたが。魔法衣に込められた認識妨害の術――ただでさえ目立つ魔戒騎士・法師の出で立ちを凡人の目から逸らし、まとう人間を雑踏を行く見知らぬ他人程度の印象に薄める力――があるおかげでどうにかなっている。和人の知る限り、迷惑はかかっていないはずだった。

 鍛錬場の隅に畳んでおいた魔法衣を手に取って部屋を出ようとする和人の前に、リズが予期していたかのようなするりとした動作で立ちはだかる。

 

「そ・の・ま・え・に」

「前に?」

「あんたねえー……そんな汗臭い格好で明日奈の前に行く気?」

「……あ」

「軽くでいいから、シャワーくらい浴びてきなさい。着替えはバスルームに用意してあるから」

 

 『発勁』より、『烈火炎装』より先に、まずは『人への気遣い』をもう少し磨かねばならないのかもしれない。

 魔戒法師二人の嘆息を背に受けながら、桐ヶ谷和人は大人しく風呂場へと向かった。

 

 

―――――

 

 

「――それで、どう思う?」

「何が?」

 

 良く言えば一意専心。悪く言えば猪突猛進。

 一つの事に熱中すると時折回りが見えなくなる黒い騎士の背を見送った後に発生したわずかな沈黙を破り、先に切り出してきたのはシノンの方だった。

 

「和人のことよ。『烈火炎装』、本当に会得できると思う?」

「それをあたしに聞かれてもねえ。あいつの左腕を焼いた女よ? あたし」

「……」

「冗談よ、じょーだん。そんな『あ、でかい地雷踏んだわ』みたいな顔しなさんなっての」

 

 うっ、と言葉を詰まらせた友人にけらけらと笑いかけつつ、リズは地下室の中央へと足を進める。

 自分たちが街で邪気の浄化を行っていた間、和人はそこに立ってひたすらに鍛錬を続けていたのだろう。そう類推できるのは、何もそこが鍛錬場のど真ん中だからというわけではない。

 

「ま、会得できるかっていうより――会得『する』んでしょうね。あいつのことだから」

 

 鍛錬場の中央。

 灰色をした石床の中で、直径数メートルの円周状に焼け焦げた(・・・・・)、真っ黒なその縁に屈み込みながらリズは伸ばした指先を床に触れさせる。

 ほのかな――というには些か熱を持ちすぎているその場所が、この部屋を満たしていた熱風の発生源であったことは疑いようがない。

 触れた指先を黒く染める痕跡。炎と汗が染み込んだ鍛錬の証を弄びながら、リズは言葉を紡ぐ。

  

「目の前で誰かが苦しんでいるなら、どうにかする。危険な目にあいそうなら、命がけで守る。

 どうにかできないなら、どうにかできる手段を探して実行する。

 ……そういうヤツでしょ? あたしとあんたの知ってる、桐ヶ谷和人ってオトコは」

 

 どこか諦めの境地にも似た感傷を懐きながらリズはゆっくりと立ち上がり、後ろに控える友人に向けて振り返る。恐らくは同じ思いを抱いているのであろう友人は、リズの視線の先で、こくりと首を縦に振った。

 

「……そうね。そこが、すごく頼もしくて――」

「余計に危なっかしくて、目を離してられないのよね……」

「ええ、まったく。少しでいいから、心配する方の身にもなってもらいたいわ」

 

 騎士になる前の和人を、そして騎士になったばかりの知る共犯者たちは、そう言ってくすくすと笑い合う。

 かつての桐ヶ谷和人を支配していた使命感の姿を真似た自殺願望、あるいは己の原罪への裁きを求める叫びは、和人が魔戒剣を引き抜いた時に消え去った。少なくとも、シノンはそう信じている。

 だから、桐ヶ谷和人が『死ぬ為に戦う』事はもう二度と無いだろう。どんな状況でも、最後の一瞬まで生きることを諦めないだろう。

 ――ただ、もし。

 桐ヶ谷和人が代価を支払えば、誰かを守る事が叶う。そんな状況が再び訪れるような事になったら。そうするしか、他に手段が無いのだとしたら。

 いつもと同じ微笑みを浮かべながら、和人は代価を支払ってしまうのだろう。峡谷を飛び越え、手足を失う覚悟すら決めたあの日のように。たとえその代価が、自らの命であったとしても。

 『死にたくない』という思いと、『死なせたくない』という願いを天秤にかけた時、後者の皿が沈む男。それが桐ヶ谷和人という魔戒騎士に対するリズとシノンの共通認識であり――そうさせないために、手を尽くし続ける理由でもあった。

 

「だから……烈火炎装だって、死ぬ気で会得するわよ。あいつは。

 明日奈を守り続けていくためには、きっと今以上の力が必要になるんでしょうから」

「……じゃあ、やっぱり。この間の話は、本当だったのね」

「ええ」

 

 シノンを伴い、最早鍛錬する者のいなくなった地下室を後にしながらリズは頷いた。

 話題に上がるのは、先日、神官たるシリカより伝えられた奇妙で不可解、そして重苦しい事実。

 

「あいつが明日奈と出会ってから戦ったホラー……ルナーケン、シガレイン、それにルーザギン。

 そいつらは全部――当代の牙狼が、かつて討滅したホラーだった」

 

 牙狼――黄金騎士・牙狼。

 あらゆる魔戒騎士達の頂点に立つ『最強』の体現者。

 ここ最近の異常なホラー発生頻度の中で和人が交戦した3体のホラーは、いずれも牙狼の剣によって封印された事があるという共通点を抱えていた。

 

「……『二度ある事は三度ある』っていうけど……」

「三度目でおしまい……って考えるのは都合が良すぎかしらね、リズ?」

「残念だけど、あたしも同意見」

 

 靴音をコツコツと響かせ、二人揃って鍛錬場を後にしながら、シノンの問いにリズは肩を竦めて返答する。

 ホラーが死ぬ事はない。

 魔戒騎士の剣によって一時その肉体を失い、邪気となって封ぜられた魂を魔界へ送り返されたとしても、長い時の果てにいずれ再び蘇る。そしてまた、人の陰我を伝ってゲートよりこの世へと現れる。

 人に邪心ある限り――つまりは永遠に――魔戒騎士たちの戦いは終わることはない。それは、魔戒の側に立つ者達にとっての常識だ。リズも、シノンも、今更それを『虚しい』とは思わない。永遠に続く人とホラーの戦いに終止符を打たんとしたある男が闇に堕ち、挙句の果てに多くの騎士や法師を苦しめたあの大乱を経た今となっては、尚更に。

 しかし、いくらホラーが蘇るにしても――早すぎる。正式な統計があるわけではないが、一度封印されたホラーが再び現世に現れるまでは数年単位のインターバルが発生すると言われている。牙狼がルナーケン達を封じたのは昨日今日の出来事ではないとは言え、ほぼ同時期に3体ものホラーが再度現れ、しかもそれがよりにもよって牙狼が手ずから倒したホラーだというのが、リズ達の不安に拍車をかけていた。

 『牙狼が倒したホラー』が襲ってきたのが不安なのではない。

 『牙狼でなければ倒せなかったホラー』が襲ってくるかもしれない――それが不安なのだ。

 

「『使徒ホラー』なんてのまで、出てこないといいんだけど……」

「リズ……」

 

 『使徒ホラー』。それはいずれ劣らぬ強大な力を持ち、他のホラーとは一線を画する狡猾さと特異な能力を持つとされる最凶の魔獣七体の総称。

 総身が微粒子で構成された『魔塵』。電光以上の速度を誇る『魔雷』。奇しき歌声で人を惑わす『魔音』。針を用いてあらゆる生物を操る『魔針』。描いた絵でキルゾーンを形成する『魔紙』。鋼鉄の如き強度と断頭台の如き巨躯を誇る『魔塔』。そして、鏡の向こう側に作り出した深淵に潜み、欲望に魅入られた人間を取り込み喰らう『魔鏡』。

 封印から目覚める度、ただの人間はもちろん、多くの魔戒騎士・魔戒法師の命を奪い続けてきた七体の使徒ホラー。その全てを、黄金騎士牙狼はたったの数ヶ月で一体残らず叩き斬り、再び封印することに成功している。

 しかし、それはあくまで牙狼だからこそ成し遂げられた偉業なのだ。もし、そのうちの一体でも封印を破り、明日奈に牙を剥くような事になれば――桐ヶ谷和人は、勝てるだろうか。

 その問いに即座に首を縦に振れなかったからこそ、桐ヶ谷和人は新たな力を得るべく、己に苛烈な鍛錬を課していた。

 たとえどんな敵が現れようと、大切な者を守り抜く為に。

 

「……ね、シノン」

「なに?」

「明日奈の事、ちょっとだけ……うらやましいって思っちゃうのは、不謹慎かな」

 

 唐突なリズの問いかけに、地下施設と地上部を結ぶ階段、その踊り場に脚をかけていたシノンがきょとんとした顔をしながら振り返る。

 

「……どういう事?」

「明日奈がホラーに狙われて、めちゃくちゃ大変なのは知ってるけど……。

 あいつが……和人が、必死になって烈火炎装を会得しようとするくらい大切に想われてる明日奈が、ちょっとうらやましく思えちゃってさ……」

 

 羞恥と後ろめたさで染まった頬を、リズは指先でぽりぽりと引っかく。

 『立てば芍薬、座れば牡丹。歩く姿は百合の花』。結城明日奈という女性は、そんな故事成句をDNAに刻んで生まれてきたのだろうとリズは共に過ごしてきた間に思わされていた。

 美貌・性格・器量全て良し。そこにいるだけで周囲の空気を和ませ、その所作にはどこか上流階級の雰囲気を漂わせる。それでいて自らの良い部分を鼻にかけず、しかし時折大胆な行動に出て間合いを詰めてくるあたりがあざとい。それが計算ずくではないのだろうから尚更に。

 もし、ホラーに狙われ続けているのが明日奈ではなく自分だったとしても、桐ヶ谷和人は己の限界を超えんと決意し、烈火炎装を会得しようとしてくれただろう。

 だが、もし。和人と先に出会ったのが自分ではなく、明日奈だったなら。自分は今のように、彼の隣に居ることができただろうか。

 ――いや、彼がその答えを出すより先に、自分は身を退いてしまうだろう。特に、明日奈が自分と同じ想いを和人に抱いていた場合は確実に。

 抱いてしまった内心の迷いに、リズは答えを出せないでいた。

 

「まあ、不謹慎かどうかはおいといて……明日奈がうらやましいって思えるのは、私も一緒よ。

 明日奈は、私が持っていないものを持っているから」

「シノン……」

「私はまだ明日奈ほど美味しい料理を作れないし、和人に『心配させてほしい』なんて言う勇気はない。

 その点は素直にうらやましいと思うわ。……恥ずかしいから、明日奈に言うつもりはないけど」

 

 『それなら』、と。

 リズの唇が、同意を求める接続詞を音にするより早く。シノンの細い人差し指が唇にそっと触れ、その動きを制する。

 

「それにね、リズ。あなたも相当(・・)、和人に大切に想われてるわよ。

 私がうらやましくなるくらいには、ね」

「……根拠を、聞いても?」

 

 唇から離れていく人差し指をどこかぼんやりと眺めながら、リズは訝しむ。

 和人に欠片も大切にされていないと思うほど自己卑下をするつもりは無いが、今のシノンの言葉には、それ以上の何かを示すアクセントが含まれていた――気がする。

 和人をからかうと時と同じ、どこか悪戯っぽさを含んだ笑みを浮かべながら、シノンは焦らすようにゆっくりと答えを口にする。

 

「投げないの」

「え?」

「和人ね。あなたが鍛えた剣だけは、絶対に投げないのよ」

「…………それが? そういう戦い方ってだけじゃないの?」

「私もそう思ってたわよ。でも昨日、あなたの話を聞いたら、考えが変わっちゃった」

 

 昨日の話――リズが和人と出会い、彼が左手に握る剣『白撃剣』を鍛造した過去の話。その話と、和人が剣を投じないという話が今ひとつ繋がらない。

 疑問符を浮かべるリズを置いて、シノンは先程と変わらぬ足取りで階段を上っていく。その後を追って踊り場にたどり着いたリズが見上げれば、一足先に地上へとたどり着き、階段の頂上で振り返ってこちらを見つめているシノンの瞳と視線が絡み合う。

 

「意識してるのか、無意識なのかは知らないけど……投げ捨てるような真似だけは、したくないんでしょうね」

「剣を?」

「あなたの魂を、よ。

 ――そういう剣なんでしょ? 白撃剣(ダーク・リパルサー)は」

 

 段上から放たれたシノンの言葉を、リズは暫しぽかんと口を半開きにしたまま受取り――それからたっぷり数秒の間を置いて、ようやくその意図を察した。

 剣はあくまで剣だ。どこまでいこうがそれは『武器』であり、その運用には複数の選択肢が存在する。投擲もその一つだ。もしその選択肢を和人自身が封じているのだとしたら、それは戦闘における柔軟性を減ずるということであり、それがいつか和人自身を危機に陥れるかもしれない。

 だというのに――リズは、己の頬が勝手に緩んでいくのを止められなかった。

 闇を撃つ白の剣。その心鉄に白竜晶(クリスタライト)と共に込めた己の魂を、あの時からずっと和人が大切にし続けてくれているのだとしたら――そう考えただけで、抱えていた問いはどこかに吹き飛んでいき、心臓がどくんと一際大きく高鳴る。

 

「愛されてるわね。あーあ、うらやまし」

「――んぅぅぅ~~~!!」

 

 羞恥と困惑と歓喜と期待。その全てが混ざりあって生まれた声にならない声を上げながら、揶揄100%の捨て台詞を残して去っていったシノンの背に追いつくべく、リズは早足で階段を上っていった。

 風呂上がりの和人と鉢合わせしてしまい、心臓の鼓動が更に高鳴る羽目に陥るのは、これから約数十秒後の事であるとも知らずに。

 

 

―――――

 

 

 誰しも一つや二つ、心休まる場所を持っている。

 それは静かな図書館かもしれないし、喧騒と音楽に包まれたクラブかもしれない。涼やかな木陰かもしれないし、ギラつく太陽が降り注ぐ砂浜かもしれない。

 木の質感を大事にしたおしゃれなバーカウンターと、濃褐色の肌をした禿頭の主人が名物になっているこの店は、結城明日奈にとっての心休まる場所の一つだった。

 

(――キリトくん、遅いな……)

 

 待ち人至らぬこの僅かな時間が、どうしてか胸がささくれ立たせるのを感じながら、明日奈はティーカップを持ち上げ、中身に口をつけた。

 白いティーカップの内側に形成された、薄くスライスされた輪切りのレモンが浮かぶ紅い水面。丁寧に抽出された茶葉の味と、その中に入り交じるレモンの爽やかな酸味が舌の上を撫ぜる。

 

「どうしたの、明日奈。この世の終わりみたいな顔してるよ?」

 

 昼はカフェ、夜はアルコール類も提供するバーとして営業しているこの店の一角。

 お気に入りのテーブル席を占拠するもう一人の『ユウキ』――紺野木綿季はそう応えた後、皿の上に残っていた最後のひとくち分をフォークで突き刺した。

 講義が早めに終わった日、二人の『ユウキ』がこの店で穏やかな時間を過ごすのは定例行事となっている。

 

「……してた?」

「してたしてた」

 

 明日奈の問いかけに頷きつつ、木綿季はフォークの先を口へと運んだ。

 カラメルでコーティングされた大粒の甘栗と、濃厚ながら後味にしつこさのない黄金色のマロンクリームとのコントラストが目にも舌にも嬉しい、上質なモンブランケーキを味わい尽くした木綿季の顔には得も言われぬ陶然とした微笑みが浮かんでいる。

 きっと今の自分は、その木綿季の顔と対照的な顔をしているのだろう。心休まる場所から一匹だけ弾き出された子犬のように。

 

「ねえ、明日奈。もしかしてだけど……」

「?」

「うわさの”黒騎士様”と、ケンカでもした?」

「してません。って、いうか……そういうんじゃないから……」

 

 テーブルに頬杖をついたままニヤリと笑う木綿季の言葉を二重に否定し、明日奈はカップに再び口をつける。

 

『素性もわからぬ黒ずくめの男が、我が大学の華たる結城明日奈をしょっちゅう迎えに来るようになった』

 

 そんな噂が大学中を駆け巡っている事くらいは、明日奈も既に把握していた。勝手に耳に入るくらい出回っている、という方が正しいか。

 さもありなん。大学随一と名高い美貌の持ち主でありながら、これまで浮いた話の一つもなかった明日奈の周囲に、突如として男の影が現れたのだ。多感かつ娯楽に飢えた女子大生達にとって、話の種としてこれ以上のものは無い。

 しかも、何故か『何度か姿を見ているはずなのに、どんな男なのかちゃんと思い出せる人間がいない』という点が、ただの噂にミステリアスな雰囲気をまとわせ、静かな狂騒を加速させていた。

 

『すっごくシュッとした、モデルみたいな人だよね。明日奈を迎えに来てる人』

『え? 物凄く陰気で地味な人だって聞いたけど……』

『何それ……? 筋肉が山みたいになってる外国人なんでしょ?』

『なんとなんと、実はとある国の王子様なんだって!』

『……髪の長い日本人形みたいな女の子、じゃなかったっけ?』

 

 明日奈本人がほぼノーコメントに近い状態にあるが故に、噂は加速に加速を重ねる。

 『あわよくば』を狙って、講義を終えて帰路に付く学生を狙って声をかけてくるタイプの――週末になると大学の周囲に増えだす見境のない軟派な――『送り狼』達とは一線を画す、何もかもが謎に満ちた男。

 誰が呼んだか『黒騎士様』。

 狼達から姫君を護り、お(うち)へと送り届ける装黒の騎士(ナイト)

 

(案外正鵠を射てるのが、なんとも……)

 

 名も知れぬ黒ずくめ――桐ヶ谷和人は、確かに明日奈を護る騎士。ただし、その和人がその刃を向ける相手は送り狼などよりよほど恐ろしい怪物・ホラーであるし、送り届ける先は王族の住まう城ではなく彼の(ねぐら)であったが。

 それに、どちらかといえば彼もまた狼。しかもただの狼ではなく、淑女二人を(ねや)に侍らす、強欲なる群狼の王(アルファ)。それでいて、迂闊にもその前で寝入った明日奈には一切手を出さなかったあたり、理性や分別があるのか無いのかよくわからなくなってくる。

 まあ、よくわからないのは、そんな男の側にいる時、心地良さと安心感を不思議と感じてしまう己自身も同様であったが。

 結局、自分たちを巡るそんな噂のことを和人に切り出せないまま既に数日を無駄にしている明日奈の顔を、木綿季のくりくりとした紅い瞳が興味深そうに覗き込む。

 

「ほんとかなー? あやしいなー? でも、指輪は貰ったんでしょ?」

「貰ったけど……これはそういうのじゃなくて、お、お守りっていうか……」

「おーまーもーりー? ほんとにー?」

「もー、本当に、ただのお守りだから!」

 

 明らかに納得していない友人の視線から逃れるように、明日奈は右手の人差指にはめたリングをもう片方の手でさっと隠す。

 飾り気の無い、銀一色をした細身の指輪。木綿季の言うとおり、それの送り主は誰あろう桐ヶ谷和人その人である。古来より破邪の力を持つと謳われる純銀をベースに、微量のソウルメタルを配合してリズが手ずから鍛造したリング。その中には、ユイが提供した彼女の髪の毛が一筋含まれているそうだ。

 ユイ自身の一部が仕込まれていることで、明日奈とユイの間に距離がある場合でもバイタルチェックが可能になったばかりか、明日奈がホラーとニアミスした際はそれを素早く察知し、明日奈の現在位置を和人に伝える事ができるらしい。

 だからこの指輪は、本当にお守りであった。

 指輪を受け取った日の朝、明日奈が差し出した人差し指に、和人が手ずからはめてくれた銀の指輪。時折、それをわけもなく眺めてしまう理由はよくわからない。繊細なガラス細工に触れるような、おずおずとした優しい手の感触を時折思い返してしまう理由も。

 

「だからね。本当に、みんなが思ってるような関係じゃないの。

 キリ……向こうにも色々事情があって、あんまり詳しいことは話せないんだけど……。

 みんなが言うような……”恋人”とか、そういうんじゃ……」

「ないの?」

 

 親友の問いかけに、明日奈は肯定を返す必要がある。首を縦に振る必要がある。

 彼の隣――いや、両隣には、もう大切な人がいる。そして、それは結城明日奈ではない。頭ではそうわかっているのに、どうしてもそのワンアクションを起こせない。

 それを認めてしまったら、頭の中に色濃く残る『SAO』の記憶、その全てを――『アスナ』の想いの全てを、否定してしまう気がして。

 たとえ、それが己自身の記憶ではないとしても、胸の中にうずく痛みは残酷なほどに鋭く明日奈を苛む。その痛みが記憶によって作り出されたものなのか、あるいは己の内から湧き出てくるものなのか、それすら今の明日奈には判然としなかった。

 不意に訪れた暫しの沈黙を無言の肯定と受け取ったのか、木綿季は『やれやれ』とでも言いたげな様子で肩を竦めた。

 

「わかったよ、明日奈。皆にも、あんまりやいのやいの言わないようにって、頼んどくから」

「ありがとう、木綿季」

 

 興味こそあれど、相手に事情があるならすっぱりと深入りを止める。親友のそういった心遣いが、明日奈にはありがたかった。

 飛び級によって同窓生になった年下の友人・紺野木綿季。いわゆる『いいとこのお嬢様』である明日奈にも、物怖じすることなく接してくれる彼女の明るさに、何度救われたかわからない。見合い話に辟易し、家を飛び出した明日奈を快く迎え入れてくれた時もそうだ。

 

「……そういえば、木綿季」

「ん?」

「木綿季こそ、好きな人とかいないの? そういう話、全然聞いたことないよ」

 

 意趣返しとばかりに話題の矛先を向けてやれば、木綿季は静かに腕を組み、しばしの間目を閉じて悩み始める。

 

「う~ん……好きな人、っていうか……。気になる人は……」

「いるの?」

「いるのかどうか、探してる?……っていう感じ、かな」

 

 要領を得ない木綿季の回答。眉間に皺を寄せて悩んでいるその表情は、明日奈をからかっているようなものとは思えず、だからこそ余計に事情が飲み込めない。

 もっと問うてみるべきだろうか。そう迷っている間に、明日奈の携帯端末がぶるりと震える。スリープ状態だった画面を起動してみれば、そこに表示されているのは和人からのメッセージ――『いつもの所にいる』とだけ書かれたシンプルな文面が、寒い日に味わうホットチョコレートのように心の中に染み渡る。

 

「ごめん、木綿季。わたし、そろそろ」

「お迎え?」

「うん。また明日ね、木綿季」

「わっ、ちょ、ちょっとだけ待って! 明日奈」

 

 席を立ち上がりかけた明日奈に慌てて声をかけ、木綿季はごそごそと自分の荷物をあさると、中から一枚のチケットホルダーを取り出し、明日奈に差し出す。

 訝りつつも受取ってチケットホルダーを開いてみれば、中には大型レジャー施設の無料入園チケットが2枚収まっている。有効期限日は今週の日曜日――今日が木曜日ということは4日後、実質的には明々後日までという事になる。

 

「サチ先輩から貰ったんだ。ボクは行く相手いないし、先輩は地元で同窓会があって行けないらしいから、明日奈が使いなよ」

「いいの?」

「いーのいーの。お見合い話と噂話で、色々大変でしょ? ボクも乗っかっちゃったし……お詫びの品とでも思ってさ」

「そういうことなら……ありがと、木綿季」

 

 にっと快活に笑う黒髪の親友に礼をいい、明日奈は受け取ったチケットが折れてしまわぬよう気をつけながら、自分のバッグの中に大切にしまいこむ。

 木綿季に小さく手を振り、明日奈は席を立つと店の外へと続く扉に手をかけた。

 

「あーすなっ」

 

 ドアノブに手をかけたまま呼びかける声に振り返れば、視線の先にはもちろん木綿季がいた。

 

「いつかでいいから、紹介してよ。明日奈の黒騎士様」

「……うん、いつかね」

 

 その『いつか』が来ることは、きっと永遠に無い。騎士の思い出と共に、恐怖(ホラー)の記憶を忘れることができた木綿季には。

 そう知っていながら親友に嘘をついた心の痛みを無視して、明日奈は店の扉を開けて外に出た。

 オレンジ色の空は端から徐々に黒く染まりゆき、もうすぐ世界は夜の闇に包まれる頃合い。この空の色を見る度、明日奈はどうしても思い出してしまう。警察官の姿をした異形の怪異、己のすぐ側まで迫った死を。

 その記憶を、明日奈はもう恐ろしいとは思わない。呼び覚まされる記憶に伴うはずの恐怖を打ち消す、闇と光を共に纏う騎士の存在を知っているから。

 

「――よ、明日奈」

 

 店を出た少し先にある、メインストリートからは外れた裏路地。

 両脇を高いビルに挟まれているせいで夕日の残光も届かない暗い路地の一角に、黒い出で立ちの男が闇の中へ溶け込むようにして立っている。

 

「ただいま、キリトくん」

 

 影の中より身を起こす影。それは黒ずくめの騎士にして、欲深き狼王。

 桐ヶ谷和人のお迎えに、明日奈は笑顔で応じる。大学よりの帰り、明日奈がいつもの店にいる場合、この暗い路地裏が二人の秘密の待ち合わせ場所になっていた。

 

『おかえりなさい、ママ!』

「ただいま、ユイちゃん。今日ね、新しいケーキのレシピを貰ったの。お休みに入ったら、また一緒に作ろっか」

『はい!』

 

 ソウルメタルの唇をカチカチと打ち鳴らしながら、快活に返答する愛娘・ユイ。和人の首から下がったペンダントのトップを指先で撫でてやれば、ユイはくすぐったそうな笑い声をあげた。

 そのまま視線を上方へと向ければ、慈しみの色を湛えた黒い瞳と視線が絡み合う。吐いた息さえかかってしまいそうなこの至近距離が、今はなぜか自然に思える。

 

「キリトくん。そろそろお米が減ってきたはずだし、帰りに買っていきたいんだけど……いい?」

「ああ、もちろん。じゃ、いつもの商店街でいいかな」

「うん。よろしくね」

 

 和人は懐からライター型の魔導具――『魔導火』を取り出し、指先で蓋を弾く。がきりという稼働音と共に灯ったブライトオレンジに輝く炎を、和人は路地を形成するビル壁の一角に翳す。直後、ビル壁に縦横無尽の黒い切れ目が走ったかと思うと、厚いコンクリートが精緻な絡繰細工のパーツのように分割されて移動していき、目の前には黒々とした空洞が広がる。

 魔界道――魔戒騎士のみ通ることを許された、異次元の通廊。ここはその入口の一つであり、明日奈の通う大学からみて最寄りの入り口であることから、自然とここをよく通るようになっていた。

 明日奈が店で茶を愉しんでいる時は入り口の側で待機し、大学にいる時は大学の近くで明日奈が出てくるのを待つ。和人が明日奈を迎える際のルーチンは、概ねそういったものだ。

 

「ねえ、キリトくん」

「ん?」

「大学のことなんだけど……キリトくんの事が、噂になってるみたいなの。

 私の回りに、不思議な人がいるって」

「俺が?」

 

 明日奈を先導するように半歩先を進んでいた和人の歩調が僅かに緩む。そのタイミングを利用し、明日奈は和人の前に出ると、その顔を正面から真っ直ぐに見つめた。

 やはりというべきか、その顔には困惑と迷い、それに後ろめたさをミックスしたような、少なくとも明るさとは無縁の表情が浮かんでいる。

 

「魔法衣の力なら大丈夫だと思ってたんだけどなあ……」

 

 そう呟いた和人の着込んでいるロングコートめいた衣服・魔法衣。その魔法衣には、人通りの多い場所において他者の認識を阻害する力がこもっていると、明日奈は前に聞いたことがある。『黒騎士様』の存在こそ噂として出回っているものの、その顔や姿が判然としていないのも魔法衣の効力だろう。

 『街の雑踏で行き交う人をいちいち気にするやつはいないだろ?』と、和人は魔法衣が持つ認識阻害の力を説明してくれたが――男性の数が圧倒的に少ない女子大の敷地周辺ともなれば、どうしたって和人は目立つ。

 しゅっと整った顔立ちに無駄なく引き締まった体躯。ふわりと柔らかな雰囲気の中に潜む僅かな影と、内よりにじみ出る確かな信念。近くにいれば気を引かれ、遠くにいても視線を惹かれてしまう彼の印象を薄めているだけ、むしろ魔法衣はよくやっている方だと明日奈は思う。

 

「ごめん、明日奈。なんだか、迷惑かけちゃってるみたいだな」

「迷惑? どうして?」

「大方、『不審な黒い男が明日奈をストーキングしてる』って噂になってるんだと思ってさ」

 

 肩を竦めて、なかなかに沈痛な面持ちで切り出された和人の言葉に、明日奈は吹き出しそうになるのをこらえるのが精一杯だった。

 

「もう、なんで君はそんなにネガティブなのかなあ……」

「そう言われても……俺が、明日奈の回りで噂になるって言ったらさ。それが一番ありそうだろ?」

「ふふっ、そんなことないのに。ねー、ユイちゃん」

『はい! 私もママと同意見です! ママ、パパはいったいどういう風に噂されているんですか?』

 

 ユイの問いかけに、頬に指先を当てながら明日奈は数秒ほど考え込んだあと、ありのままの事実を伝えることに決めた。

 

「んーとね……優しくてかっこいい騎士(ナイト)様――って、言われてるよ」

『わあっ! パパにぴったりの噂ですね!』

「いやいや、さすがに持ち上げすぎじゃないか……?」

「そんなこと無いよ。ね?」

『はい!』

 

 くすくすと笑い合う母子の側で、『優しくてかっこいい騎士様』は頬をぽりぽりと掻いた。篝火だけが照らすこの通廊の中でも、その頬に赤みがさしていることは簡単に見て取れる。

 

「キリトくん……照れてるでしょ?」

「照れてないぞ、別に」

「ほんとに?」

「…………照れました。大人しく認めるから、さっきのは『嘘』には数えないでくれ」

「しょうがないなあ。キリトくんの珍しい顔も見られたし、それでチャラにしてあげる」

 

 顔を真赤にした和人をからかいながら歩く内、気づけば魔界道の出口にまでたどり着いていた。指先でもう一度ユイの頭を撫でたあと、明日奈は再び和人の隣へと立ち位置を戻す。

 入り口同様、出口もまた人目につかない路地裏の一角に設置されていた。西日の差し込む眩しい方へ向けて歩みを進めれば、そこは行き交う人々で賑わう商店街。新鮮な食料品が手頃な値段で手に入るこの通りは、明日奈の以前からのお気に入りのスポットであった。自分以外が食べることのない料理をする時の。

 

「キリトくん、揚げ出し豆腐って好き?」

「ああ、好きだよ」

「じゃあ、晩御飯の献立に足しちゃうね。

 メインは鮭の西京焼きの予定だけど、それだけじゃ物足りないでしょ。キリトくんは」

 

 味を想像したのか、ごくりと喉を鳴らしながら和人が首を縦に振る。そのなんでもない仕草が、お預けを喰らった子犬のようでどこか可愛らしい。

 明日奈が桐ケ谷邸で暮らすようになってそれなりに経ち、既に厨房と冷蔵庫は明日奈とシノンの共同支配下にあった。日々の食事も同様で、調理を担当するのは専ら明日奈かシノンのどちらか、あるいは両方という状態が続いている。

 ホラーより守ってくれている和人たちへの細やかな恩返しになればという思いがあるのももちろんだが、なにより明日奈自身料理をするのが好きなのだ。それに、自分の料理を食べてくれる誰かがいるというのはそれだけで幸せだった。

 

「お豆腐はストックがあるから……ししとう、大根……キリトくん、ミョウガは大丈夫だっけ?」

「もちろん」

「じゃあ、薬味はミョウガにしよっか。後で、大根おろすのだけ手伝ってもらえると嬉しいな」

「喜んで手伝わさせてもらうよ、明日奈」

 

 肉屋に豆腐屋、魚屋におしゃれなインテリアショップ。100円均一の雑貨屋にコーヒーの香りが芳しいカフェ。カラオケルームに大衆食堂といった雑多な店舗が軒を連ねる商店街のメインストリートを和人と共に歩きながら、明日奈はまずは八百屋を目指す。

 

「じゃあ、キリトくん。お米はお願いね」

「ああ」

「なんだか面白そうだからって、もち米とか古代米とか買っちゃダメだよ?」

「買わないよ。……たぶん」

「ほんとかなー? ユイちゃん。パパの監視、よろしくね」

 

 和人の首から下がった魔道具は、町中で声を発する代わりにカチカチと唇を打ち鳴らし、明日奈に『了解』の意を伝える。

 苦笑いを浮かべながら米屋に入っていく和人と別れ、明日奈は反対側にある八百屋へと脚を進める。色とりどりの新鮮な野菜が並ぶ店先にたどり着いてみれば、店主であるふくよかな女性が、段ボールに詰まったじゃがいもを店内の一角に並べている所だった。

 

「すいませーん」

「あら、いらっしゃい。いつも来てくれてありがとねえ。今日はね、かぼちゃがおすすめよ、かぼちゃ。

 とっても甘いから煮物にするのもいいし、パンプキンパイにしても美味しくなるわよ~」

 

 人の良さそうな笑みを浮かべた店主は、ずっしりと重たそうなかぼちゃを明日奈に指し示す。言うだけあって、緑色の皮にはしっかりとハリがあり、新鮮な雰囲気を漂わせている。

 しばしの間、店主の世間話と営業トークに付き合いながら、明日奈は買うべき野菜をじっくりと見定める。買う予定の物は大体決まっているが、鮮度がいいものを選びたくなるのが人情というものだ。

 

「それじゃあ、この南瓜と、こっちの大根。あと、ししとうとミョウガもお願いします」

「はいはい。毎度どうもねえ」

 

 白い大根と身がぎゅっと詰まっていそうなかぼちゃ、瑞々しさを感じさせる緑のししとうと薄赤と白がグラデーションを描くミョウガ。明日奈がセレクトした野菜を、店主は買い物袋の中に詰めていく。

 そうして明日奈の手から代金を受取った店主は、買い物袋を差し出す直前、ふと何かを思い出したかのようにその手を止めると、真っ赤な色をした林檎が3つ入ったかごを掴み、中身を袋の中へひょいとつっこんだ。

 

「あ、あの……」

「いーのいーの。常連さんへのサービスだから」

「……じゃあ、ありがたくいただきますね」

 

 そのまま買い物袋を差し出そうとした店主だったが、何かに気づいてその視線を明日奈の肩越し後方へと向ける。

 釣られて振り返った明日奈の視線の先にいるのは、そそくさと買い物を終えていた和人の姿。もち米でも古代米でもなく、いつも食べている銘柄の米が10キログラム詰まった米袋を左手で小脇に抱えたまま、どこか手持ち無沙汰な様子で八百屋の軒先に並んだ野菜類を眺めている。

 

「ちょっと重くなっちゃったからさ、ちゃーんと持ってあげなよ。旦那さん」

「だっ、だっ、だん――」

 

 からかいを含んだ店主の言に、明日奈の頬が林檎と同じように赤く染まる。その熱を自覚するより早く、黒いロングコートの袖に包まれた腕がフリーズしきった明日奈の横を通り過ぎ、、店主が差し出した買い物袋を掴んだ。

 

「いつもありがとうございます。それと、俺は旦那じゃないですから」

「あら、そうなの? それじゃあ、まだ彼氏さんかい?」

「それも違います。ただの親戚です。

 だいたい、俺と明日奈じゃ逆立ちしたって釣り合いが取れませんよ」

「あらあら……そうだったのお。しょっちゅう一緒に来てくれるから、あたしてっきり……」

 

 店主相手になんでもないように嘯く和人の気遣いが、ちくりと明日奈の胸を刺す。曖昧な笑みと共に買い物袋を受け取った和人の後に続き、明日奈は半ば無意識に店主に一礼して店を出た。

 何か言おう――そう思えはすれど、明日奈の口は言葉を忘れてしまったかのように、音の一つ発する事もできない。商店街と帰路の魔界道を結ぶ途中にある人気のない寂れた公園の中を、少し先を行く和人の背を追ってぼんやりと歩いていると、不意に和人が脚を止め明日奈の方へと振り向いた。

 

「さて、と……出てきちゃったけど、買い忘れは無かったよな。明日奈」

「……」

「明日奈?」

「――ひゃいっ?」

 

 両腕に荷物を抱えた和人に正面から顔を覗き込まれ、明日奈は思わず素っ頓狂な声を上げていた。

 怪訝な顔と共にこちらを覗き込む黒い瞳。ずっと前から知っているようにも、つい最近知り合ったばかりのようにも思える、優しい瞳。

 明日奈の恋人ではない男の瞳。天に浮かぶ鋼の城においてアスナが愛した者――に、よく似た男の瞳。

 

「大丈夫か? なんか、ボーッとしてたみたいだけど」

「だ、大丈夫だよ!」

「……なら、いいけど」

 

 どこか疑り深い表情をした和人を誤魔化しながら、喫茶店から商店街までを繋いでいたのとは異なる、和人の家に近い場所へと通じる魔界道を歩く。

 和人にだけ荷物を持たせるのは気が引けたので、せめて買い物袋だけでも持たせてもらおうと言ってはみたもののあっさり断られ。押し問答の末、同じ買い物袋の片側を明日奈が、もう片側を和人が持つという形に落ち着いた。

 手をつなぐより遠く、ただ隣を歩くより近く――買い物袋一つ分のもどかしい距離を挟んで、明日奈は和人と並んで帰路についた。

 

 

―――――――

 

 

 誰しも一つや二つ、心躍る場所を持っている。

 それは静かな図書館かもしれないし、喧騒と音楽に包まれたクラブかもしれない。涼やかな木陰かもしれないし、ギラつく太陽が降り注ぐ砂浜かもしれない。

 魑魅魍魎が蠢き、『人肉饅頭』、『(きつね)室ビデオ』、『わんこ熊鍋』、『にゃんこそば』なる看板を掲げた怪しげな店舗が立ち並ぶ『宵闇通り』の名で知られたこの通りは、紺野木綿季――もとい、『ユウキ』にとっての、心躍る場所の一つだった。

 

(……空振りってのは、予想してなかったなあ……)

 

 腰まで伸びた濡れ羽色の長い髪を揺らし、細身の刀を収めた鞘を腰に刷いて歩くことしばし。通りの一角に据え付けられた、竹を編んで作られたと思しき休憩用の長椅子に腰掛けたあと、ユウキは小さくため息をついた。

 脳裏にリフレインするのは、5日程前からとある探偵に依頼していた『プレイヤー捜索』に関する結果報告。

 

『――結論から言えば、そんなプレイヤーはまず存在しない』

 

 十数分ほど前。この世界――VR対応型MMORPG『アスカ・エンパイア』における、恐らくは唯一の探偵が告げた調査結果は、ユウキを落胆させるに十分な物だった。

 

『黒い甲冑を装備したプレイヤーならごまんと居る。双剣を装備したプレイヤーも同様だ。

 だが――騎士鎧(フルプレートアーマー)を装備し、二振りの騎士剣を操るプレイヤーとなれば話は別だ』

『どうして?』

『簡単な話だ。今の所、そんなアイテムは アスカ・エンパイアには実装されていないからだ』

 

 どこか狐めいた印象を覚える、目の細い洋装の青年――のアバターは、優雅な雰囲気を崩さぬまま、依頼主への報告を続ける。『探偵』というジョブ自体はアスカ・エンパイアに実装されていないため、あくまで彼の人の自称でしかないのだが、見るものを納得させるだけの風格と実績は確かに存在している。

 明らかに『形から入るタイプのプレイヤー』であるその探偵は、世界一有名な探偵小説の主人公をモチーフにしたと思しき自らの衣装を軽くつまみながら、依頼人であるユウキに視線を向けた。

 

『私の洋装のように、運営の気まぐれか何かで実装された【和風とは言い難い】アイテムはとにかく目立つ。

 だというのに、騎士の鎧も、騎士剣も、どれだけ調査しようと尻尾すらつかめない』

『最近実装されたばっかりの、超レアアイテムって線は?』

『仮にそうだったとしても、6時間も過ぎれば噂として出回っている。

 君が【人食い虎狩り】を為して、その両刃刀を手に入れたときと同じようにね』

 

 探偵は一度言葉を切り、伸ばした両手の指を重ね合わせたまま、執務机越しにじっとユウキを見つめる。軽装鎧の守りを越えて、心の奥底まで見透かしてしまいそうな視線を受け、ユウキは思わず身を竦めていた。

 

『それすらもないという事は、君が探しているプレイヤーは実在しないと思うほうが自然だ。

 依頼人を疑うというのは気分がいい物ではないが……君が見たという【二刀流の黒騎士】とやらは――本当に、この世界(ゲーム)住人(プレイヤー)だったのか?』

 

 結局、彼の問いかけにユウキは答えられなかった。

 ノックもなしに入ってきた小柄な『忍』と袴姿の『戦巫女』――探偵とは違い、どちらもアスカ・エンパイアのシステム上に実装されているジョブ――の二人組の登場を口実に、ユウキは手間賃を探偵に支払い、そのまま三ツ葉探偵社を後にした。

 腕のいい探偵である事は、”ナイツ”の面々から聞いていた。彼ならば、この広大なMMORPGの中から、『白と黒の騎士剣を振るう、二刀流の黒騎士』その人を見つけてくれると思っていた。

 

(お礼、言いたかったんだけどなあ……)

 

 長椅子にかけた両脚をぷらぷらと揺らすユウキの隣に、白い襦袢を着た女の幽霊――を模したNPCが腰掛ける。白く透けたその体の向こう側では、毛羽毛現が未だに呼び込みを続けている。

 

「アスカ・エンパイアくらいしか、思いつかないんだけどなあ……」

 

 ため息をつきながら、ユウキは沈み込むようにして背もたれに体重を預ける。

 ここ最近、ユウキの夢に、そして記憶の中にフラッシュバックする光景。襲い来る人知を越えた怪物と、その怪物に立ち向かう『黒い剣士』の姿。それは印象派画家の作品のようにどこか曖昧な印象ではあったが、ただの夢や妄想と切り捨てることのできない恐怖、そして確かな暖かさを備えていた。

 しかし、ユウキにも理性や一般常識というものくらいちゃんと持ち合わせている。現実世界に、人を食らう怪物が存在するはずもない。

 

(……だよね。あんな怪物、リアルにいるわけないもん……)

 

 いるはずがないのだ。人の皮を被り、闇に紛れて人を食らう怪物など。

 だとすれば、怪物、そして黒の剣士と出会ったのは『アスカ・エンパイア』――世間に多数存在するMMORPGの中で、いち早くVRに対応したこのゲームの中と考えるのが妥当な結論になる。

 ただし、その結論は今さっき否定されてしまった。

 コミカルな仕草で手招く毛羽毛現に手を振り返した後、ユウキは指先を伸ばし――握っていたコントローラのトリガースイッチを、カチカチと二度押し込んだ。

 

「――リンク・エンド。ログアウト。電源オフ」

 

 音声認識ユニットがユウキの言葉を正しく理解し、命令(コマンド)を実行。視界を埋め尽くしていた宵闇通りの姿が溶けるようにかき消え、暗闇が視界を覆い尽くす。

 

「……んんっ、と……」

 

 軽い虚脱感と共に被っていたヘッドセット型VR機器を持ち上げれば、代わりに乾いた現実の光景が視界を埋め尽くす。紅い瞳に映るのは、一人で暮らすには広すぎる2LDKのマンション。進学を期に越してきたこの部屋も、今となってはどこか虚しさを醸し出す。

 ヘッドセットをかぶる前に部屋を照らしていた夕日はとっくの昔に沈み、夜の闇と月の光の比率が作り出す薄暗闇だけが、木綿季以外誰もいないこの部屋を包み込んでいた。

 

(……やっぱり、ちょっとさみしいな)

 

 内心でつぶやきながら、木綿季はゲーミングチェアの上で両膝を抱える。小さな自分を自分の腕で抱きしめる木綿季を載せたゲーミングチェアが、大きな背もたれと共に音も立てずゆっくりと回転する。

 かつて一緒に暮らしていた両親、そして姉は、今は木綿季の手の届かぬ遠い場所にいる。

 少し前に転がり込んできた親友は、『親戚の所に匿ってもらうことになったから……』という理由で、木綿季の家を去っていった。

 一人暮らしにはとっくに慣れたつもりだったが、誰かと一緒に過ごす暖かな時間を再び味わってしまった後では、胸の奥がじくじくと疼くのを止められない。

 

(フルダイブVRゲーム、かあ……。本当にあればいいのに)

 

 フルダイブVR。明日奈が夢で見たという仮想世界。ゲームでありながら五感全てを完全に再現可能というその世界では、実際に物に触れることはもちろん、食事を取ることも眠ることもできてしまうという。

 『アスカ・エンパイア』で実装されているVRシステム――ヘッドセットとコントローラを使用するごく一般的なもの――とは、比べ物にならないほどに進んだ技術によって支えられた、もう一つの現実と呼んでも差し支えない場所。現実の場所がどこであろうと関係なく、人と人を結びつける事のできる場所。

 そんな世界が、もし本当にあるのなら。そこに行くことができたのなら。

 一人きりで過ごす夜の寂しさも、少しは薄れるのだろうか。

 

「ひとりは、ヤだな……」

 

 木綿季の小さな声は、誰に届く事もないまま、薄闇の中へと溶けていった。

 

 

――――――

 

 

 ユウキがアスカ・エンパイアの世界で、探偵の報告に困惑を憶えている頃。

 結城明日奈もまた、小さな困惑と出会っていた。

 

「――この下に、キリトくんが?」

「はい、ママ」

 

 明日奈の問いかけに、本来の少女の姿に戻ったユイがこくりと首を縦に振った。

 いつものように皆が揃ったどこか穏やかで賑やかな夕食のあと。大学の課題をさらりと終わらせ、先に入浴していたユイを迎えに行こうとしていた矢先に、地下方向へと続く階段を前にして、何かに逡巡している様子の彼女を見つけたのは、今から数分前のことだ。

 

「ちょうどパパの後ろ姿が見えたので、追いかけようと思ったのですが……」

「ここ、『危ないから入っちゃダメ』って言われてる所だもんね。ちゃんと憶えててえらいえらい、ユイちゃん」

 

 かがみ込みつつ、わずかにしっとりと濡れたユイの頭を撫でながら、明日奈は踊り場へと続く下り階段を見つめる。これまで、なるべく明日奈を束縛しないように努力しているキリトが設けている数少ない制約の一つが、この下への無断立ち入り禁止だ。

 色々とバタバタしていた事と地下に用事らしい用事が無いことも相まって、今まで思い出しすらしなかったが――こうしていざ目の前にしてしまうと、妙に気になってしょうがない。

 

「キリトくん、一人で下りていったの?」

「いえ、ママ。シノンさんもご一緒でした」

「シノのんも……」

「……? どうかしましたか、ママ?」

「う、ううん。別に、なんでもないよ」

 

 怪訝な顔をするユイに苦笑いしながら、明日奈は慌てて平静を取り繕う。

 

(……まさか。そういうこと、なのかな……?)

 

 人払いされた場所に向かった和人、そして和人の大切な人。人目の無い所でしっとりと言葉を交わしあい、互いの体に触れ合いながら睦み合う二人――そんな光景を思い浮かべてしまう。それだけで、胸の中がじくじくと痛む。

 

「――あれ? 二人揃って、こんなトコでいったい何してるの?」

 

 背後からの声に振り返ってみれば、不思議そうな表情を浮かべたリズベットが二人を見つめていた。

 先程までユイを伴って入浴していたせいか、茉莉花を思わせる入浴剤の柔らかな香りがほのかに漂ってくる。

 

「リズ! ちょうどよかった。実はね……」

 

 ゆっくりと立ち上がりながら、明日奈は事の次第をリズに説明する。

 

「あー、なるほどなるほど。そういえば、二人ともこの先には来たこと無かったわね。

 ……ん? いや、そうでもないか。ユイちゃんは何度か来てるわよね、この下」

「え? そうなのですか、リズさん?」

「『え?』 と言われても……ああー、そっか。うちにいるときは本体にいるから、自覚無いんだ」

「???」

 

 リズの言わんとする所を掴みかね、揃ってきょとんとする明日奈とユイ。そんな母娘の様子にくすくすと笑わせられながら、リズは階段を数段降りると、振り返って二人を手招く。

 

「ま、気になるなら行ってみましょ。明日奈だって、興味あるでしょ?」

「あるけど……いいの?」

「もちろん。ほら、こっちこっち。途中で色々説明してあげるわ」

 

 先導するリズに従い、明日奈はユイと手をつなぎながらゆっくりと階段を降りる。

 幅広の階段は明日奈が思っていたよりも長く続いており、途中にある踊り場を越えて更に下れば空気がどこかひんやりとしたものに変わった気がした。

 

「……お、オバケとか、いないよね……リズ」

「いるわけないでしょ。まあ、ほんとにいるならあたしは会ってみたいけど。

 ユイちゃんは、どう? オバケは怖い? それとも、会ってみたい?」

「オバケさんですか? わたしも、お会いしてみたいです!」

「ユイちゃんまで……もう、二人とも調子いいんだから。本物が出たって知らないんだからね」

「大丈夫ですよ、ママ。もしママに悪さをするオバケさんがいたら、パパがやっつけてくれます!」

「ふふっ……そうだね。確かに、キリト君がいてくれれば何が出ても安心だね」

「はい!」

 

 真っ黒なホラーと、白装束の幽霊を諸共に叩き切る和人。闇の中に射す一筋の光のように、誰かを守るために戦う――そんな和人の姿を想像するだけで、不思議と安心感が湧いてくる。

 そうこうしている間に長い下り階段は終わりを告げ、丸い壁に囲まれた広間のような場所に明日奈達は足を踏み入れた。

 広間の壁にはいくつかのランプが据え付けられており、明るいオレンジ色をした灯火が周囲を照らしている。周囲を見渡してみれば、壁に埋め込むように設置されている扉が一枚と、廊下に続いていると思しき開口部が一つあった。

 

「そっちの扉の向こうがワインセラー……って言っても、誰もワインなんて飲まないし補充もしないから、ただの倉庫になっちゃってるんだけど」

「じゃあ、こっちの通路は?」

「そっちが大本命。ほら、来てきて」

 

 両側を石壁に囲まれた通路を、リズに先導されながら明日奈は歩く。

 

「この先にね、和人の訓練場があるの。あと、あたしの工房も」

「訓練場に……工房?」

「そそ。刃物とか、ちょっとやばい可燃物とか置いてある場所だからね。あんまり不用意に近づいて、なにかあったら大変でしょ」

「なるほど……それで、私やユイちゃんを遠ざけてたのね」

「そーいうこと」

 

 広間同様、壁にかかったランプが照らす石の通路を歩くことしばし。通路の突き当りに見えてきたのは、大きな両開きの扉。まるでファンタジー映画に出てくるお城の入り口のようなその構えに、明日奈は少しばかり驚きを覚える。

 半ば寄りかかるようにして体重をかけながら、リズが見た目通りに重たそうな扉をゆっくりと開ける。向こう側の光景が目に入るより早く明日奈の耳に飛び込んできたのは、硬いモノ同士がぶつかり合う乾いた音の連なりだった。

 鋭い風切り音をバックコーラスに従え、幾度となく響き渡る流麗な激突音に混じり、男と女の吐息の音が微かに聞こえてくる。

 

「おーおー、今日はまた一段と激しいご様子で」

 

 にやりと笑うリズの後に続いて、明日奈とユイも鍛錬場の中へと足を踏み入れた。

 暗闇に包まれて見ることの出来ぬ天井部を戴くその空間は、古代のコロッセオを思わせる大きな円形の石壁が周りを囲っている。

 戦うもののための空間、その中心部で研ぎ澄まされた技と技をぶつけ合うのは、才気冴え渡る二人の戦士。

 

「そこっ!!」

 

 身の丈よりも長い槍――正確に言えば、槍に見立てた木の棒を手にした戦士の片割れことシノンは、気合の声を放つと同時に素早いステップで踏み込み、鋭い突きを相手に向けて叩き込む。

 

「甘いな!」

 

 心臓、首、頭を狙って突きこまれる三連一体の槍撃。その穂先の尽くを紙一重で躱してみせたもう一人の戦士・和人は、ぐいと体を前に出して相対距離を縮め、己が振るう剣が届く間合いへと飛び込む。

 両手に一振りずつ手にしているのは、普段扱う騎士剣に見立てて作られた木剣。右手の木剣の刀身を、槍の柄に滑らせるようにして相手の動きを封じながら槍の柄半ばより内にまで攻めかかると同時に、己の背面に回していた左手の中で剣を逆手に握り直し、そのまま真横に思い切り振り抜く。

 

()った!」

「まだよッ!」

 

 胴に喰らいかかる軌道を描く木剣より逃れるべく、シノンは躊躇わずに槍を手放すと、空いた両手で和人の腰のベルトを掴む。それをグリップとして使い、ブランコを加速させる時の要領で体重を前方にかけながら思い切り姿勢を屈めてスライディング。

 踏み込みの為に開かれていた和人の足の間にしなやかな動作で滑り込むと、今まさに床面に当たろうとしていた槍の柄を掴み、そのまま体を滑らせて大きく間合いを取る。

 独楽のように体を半回転させた和人が放った、木剣の鋒が床面を抉るかのような追撃の一閃が空を切ったのは、まさにその直後だった。

 

「シノのんって、槍まで使えるんだね……」

「ええ。すごいでしょ? 閑岱で修行してた頃、魔戒騎士の人に習ったんだってさ」

 

 リズ、そしてユイと共に壁際で立ったまま、明日奈は二人の訓練の様子を見つめる。訓練と言っても、そこに相手への遠慮や躊躇いは欠片も見て取れず、次々に放たれる攻撃の手はそのどれもが本気の威力を有している。体に当たろうものなら良くて骨折、当たりどころが悪ければそのまま死んでもおかしくないだろう。

 それでも見ていて苦痛に感じないのは、これが本気の殺し合いでないと分かっているからだろう。

 双剣と槍が斬り結ぶたび、訓練場の空気が震え、黒と薄緑の魔法衣が翼のようにはためく。木の武具同士が奏でる乾いた音が幾度となく響き渡る中、床に突き立て槍の石突を法術で固定したシノンがポールダンサーのように体を振り回しながら蹴りを放てば、腰を軸に放たれる和人の鋭い飛び後ろ回し蹴りがシノンの脚を真っ向から迎撃する。

 繰り出される技の応酬は苛烈だが、それはどこか舞踏めいた美しさすら備え、連なる打撃音の響きはまるで二人の戦場を彩るBGMのごとく。

 気づけば、明日奈は自分の胸の内がほんのりと熱くなってくるのを感じていた。

 

「……キリトくん達を見てたら、ちょっと体を動かしたくなってきちゃったな」

「お、明日奈も結構いけるクチ? せっかくだから、少しやってみる?」

「いいの?」

「もちろんよ。じゃあ、こっちで準備しましょ。運動するなら着替えたほうがいいでしょうし」

 

 手招くリズの後に続き、明日奈は訓練場の壁際に設置されていた扉を潜る。ぎい、と鳴く大きな両開きの扉の先には、リズベットの工房と思しき空間が広がっている。

 

「そこにかかってる魔法衣、使っていいわよ」

「この白いの?」

「そーそー。あたしの予備だけど、サイズ的には問題ないと思うわ」

 

 白をベースに、差し色として赤を添えたリズの魔法衣の予備に、明日奈はそそくさと袖を通す。ふわりと靡く法衣の裾を揺らしながら身支度を整える明日奈、その前にあった作業台の上に、リズは運んできた訓練用の武具をどっさりと並べてみせた。

 

「こんなにたくさん……」

「お好きな物をどーぞ」

 

 長剣。短剣。片刃剣。長槍に短槍、太刀、脇差、手斧に斧槍に薙刀。鎌に戦鎚(メイス)にメリケンサック。弦の張られていない弓、ブーメラン、円月輪から、先端に銃剣のついたライフル銃もどきに至るまで。

 眼前に並べられた様々な武具の形を模した木製の訓練用武器を前に、明日奈はわずかばかり迷ったあと――その中の一振りをそっと手に取った。

 

「これに……しようかな」

「へえ、細剣(レイピア)。いいんじゃない。それなら片手でも扱えるから……盾と併用してみるのはどう?

 あたしもそうしてるし」

「ありがとう、リズ。でも、これだけでいいよ」

「そう?」

「うん。……なんとなくだけど、この方がしっくりくるの」

 

 軽くて丈夫な無垢材で作られた細剣を手に取り、明日奈は二、三度軽く振る。角度によっては針のようにも見える細い剣は軽くて扱いやすく、それでいて柄の造りが丁寧なお陰で力を込めるのも容易い。

 半ば直感的に選んだ武器ではあったが、細剣は己が思っている以上に手に馴染み、まるでずっと以前から振るい続けて来たかのような錯覚を齎す。

 その錯覚に導かれるようにして視線を刀身に向ければ、その刀身が一瞬、迷宮の闇を裂く刃金の色を湛えているように見えた気がして、明日奈は慌てて頭を振る。

 

「……? どうかしましたか、ママ」

「な、なんでもないよ、ユイちゃん。それより、ユイちゃんも何か貸してもらったら?」

「私もですか?」

「そうそう。大丈夫よね、リズ?」

「もっちろん。ユイちゃんも、好きなの持ってっちゃって」

「ありがとうございます。それでは……こちらと、こちらをお借りしますね、リズさん」

 

 ぺこりと小さく頭を下げたあと、ユイはテーブルに並べられた武具の中から短剣を二振り手に取ると、左右の手に一振りずつ握る。

 右手の短剣を肩に担いで後方に、左手の剣の鋒を前方に向けるその構えは、明日奈のよく知る人物の構えを模したもの。可愛らしい二刀流の剣士を前にして、明日奈とリズの頬は自然にほころんだ。

 

「わあ、ちっちゃいキリトくんみたい! とってもかっこいいよ、ユイちゃん」

「本当ですか? ありがとうございます、ママ」

「いやー。親子揃って二刀流とは、血は争えませんなあ……。

 さあて、お二方とも準備ができたところで、そろそろいきましょうか」

「うん」

「はい!」

 

 木製の細剣を腰に刷いた明日奈は、リズ達と共に工房の扉をくぐって再び鍛錬場へと戻る。

 ちょうど一戦を終えたばかりらしく、ボトルに入れた冷たい水で喉を潤していた和人、そしてシノンが、3人に気づいて視線をそちらに向けた。

 

「よう。明日奈、ユイ」

「みてください、パパ! わたしも、パパとおそろいです!」

 

 とてとてと駆け出したユイが木製の短剣二振りを両手に握り、和人の前で構えを取り、可愛らしい掛け声を挙げながら両手をぶんぶんと振り回す。小さな黒い剣士の登場に破顔しながら、和人はゆっくりとかがみ込むと、愛らしい娘の頭を優しく撫でた。

 

「おおう、これは驚いた。まさか、ユイに剣士の才能まであったなんて……。

 あと5年……いや、あと3年もしたらきっとものすごい使い手になるぞ、これは」

「ふふっ。強力なライバル登場だね、キリトくん」

「ああ、俺もうかうかしてられないな。……で、今日はいったいどうしたんだ? 明日奈」

 

 褒められてご満悦な様子のユイの頭にぽんぽんと優しく触れた後、和人は立ち上がって明日奈と視線を合わせる。

 薄く水分を含んだ髪と男の体からほのかに漂う汗の香りが、繰り広げられていた鍛錬の激しさを物語っている。

 

「キリトくん達を見てたら、私もちょっと運動してみたくなっちゃって……」

「それで、その格好ってわけか。なんていうか……すごく似合ってるよ、それ」

「ほんと?」

「ああ。まるで、最初から明日奈の為に誂えられてたみたいだ。なあ、ユイ?」

「はい。わたしも、パパと同感です!」

 

 二人がかりで褒められるとあっては、さすがの明日奈とて頬が緩むのは避けられない。胸の中を温めるどこかくすぐったいような感覚に心地よさを抱く明日奈の前に、和人はふと何かを思いついたような表情を見せると、どこか戯けた調子で開いた右手を差し出した。

 

「せっかく準備ができてるんだ。

 よろしければこの不肖の黒ずくめと、一戦交えていただけますか。白き閃光様」

 

 共に恭しく差し出された深い傷跡の残る掌。傅くようなその仕草は、可憐な姫君を舞踏会ヘと誘う貴公子のようでもあり、あるいは夜の華を己の支配領域(テリトリー)に誘い込まんとする悪魔のようでもある。

 まあ、そのどちらであるにせよ。あるいは両方であるにせよ。結城明日奈にとって、桐ヶ谷和人が差し出した手を取らないという選択をする理由にはならないのだが。

 

「ふむ……そこまでいうのなら。よろしい。私と剣を交わすとっても特別な栄誉を、貴方に与えましょう」

 

 和人に調子を合わせて振舞いながら、明日奈は差し出された右手に自分の手を重ねる。

 日頃から剣を握っているせいだろうか。明日奈の手を包むように優しく握り返す手付きとは裏腹に、和人の手は見た目よりがっしりと固く引き締まっている。

 戦う者の手。誰かのために、己の命を張れる者の手の感触だ。

 

「……なーんてね。私、初心者なんだから、どうぞお手柔らかにね。キリトくん」

「ああ。それじゃ、こっちに」

 

 シノンとリズ、そしてユイの興味深げな視線を背中に浴びながら、明日奈は和人に手を引かれるまま訓練場の中央に歩を進める。

 そこだけ何かに灼かれたかのように黒く染まった訓練場の中央。そこを挟む位置に立ち、明日奈は黒の剣士と真っ直ぐに向かい合った。

 

「明日奈、一応聞いておくけど。こういう……剣術や武術みたいなことの経験はあるか?」

「ううん、全然ないよ」

「そうか。じゃあ、そうだな……まずは好きなように構えてみてくれ。

 理屈(セオリー)とかは考えず、自分がやりやすいような構えでいいからさ」

「好きなように? わかったよ。とにかく、やってみるね」

 

 壁際に置かれた椅子に座りながら、リズが『ちゃんと手加減しなさいよー』と茶々を入れる。その声に手を振り返しながら、和人は木剣を左右の手に携え、戦闘の構えを取る。

 戦闘態勢に入ったキリトの姿を見て、壁際の長椅子に座ったシノンの膝に抱えられたユイが、きゃあきゃあと無邪気な声をあげた。

 当の和人はと言えば、両刃の騎士剣を模した幅広の木剣二振りを構え、その鋒を明日奈に向けつつも、ゆったりとした笑みを浮かべる。『余裕』という言葉が滲み出ているその顔を真っ直ぐに見つめたあと、明日奈は細剣を握る右手をゆっくりと動かす。

 

(こう、かな……)

 

 右手の拳が左胸に重なる位置に来るよう右腕を引き込み、天井を向いていた刀身が床と平行になるように寝かせる。間合いを詰める時に動きやすいよう、両脚をわずかに開き、足の位置を調整する。そして重心をわずかに下方に調整し、ステップ一つで間合いを詰めると同時に高速刺突を叩き込める姿勢を作る。

 細剣を用いる戦闘における比較的オーソドックスな構えを取り、明日奈は改めて和人の方を向く。

 

「……驚いたな。明日奈」

 

 見つめ返す和人の顔は、いつのまにかいたく真剣な戦士のそれへと変貌している。その表情は、シノンと組手を交わしている時と同じであり、そして、魔獣・ホラーを前にした時と少し似ていた。

 

「『驚いた』って……そんなに、ダメな構え方だった?」

「いや、その逆だ。すごくいい構えだよ」

 

 細剣の鋒ごと明日奈を貫くような鋭い視線を向けたまま、和人が問いかけを否定する。

 

「少なくとも、俺からみれば文句のつけようがない。打ち込む隙だって……いったい、どこにあるんだか」

「じゃあ……どうして?」

「『剣術も武術も経験が無い』明日奈が、まさかいきなり、そんな隙も無駄もない構えができるなんて思ってなくてさ。だから驚いたんだよ。

 俺が思うに、明日奈は規格外の天才か……そうでなけりゃ、本当はどこかで剣術を嗜んでたか、だ」

「あはは。全部偶然だよ、キリトくん。私、昔から天才なんて言われたこと無かったし。

 それにスポーツならともかく、剣術の経験なんて、あるわ……け……」

 

 和人の問いかけを笑って否定しようとした瞬間。明日奈は思わず息を飲み、その言葉を途切れさせていた。

 戦ったことがない? 

 剣を振るったことが無い?

 『そんなハズはない』と、もうひとりの明日奈――『アスナ』が叫ぶ。頭の中で、記憶の内で、心の奥より叫ぶ。

 

「……ごめんね、キリトくん。私、嘘ついちゃった」

「嘘?」

「うん。私ね、前にも剣を振るってた。それも、たくさん。

 ――『SAO』の中で」

 

 在り得ざる記憶より絞り出した答えは、掠れる声となって訓練場に染みていく。

 それが一笑に付されてもおかしくない返答だったと、口にしてしまってから明日奈は気づく。目の前にいるのは、5年近くもの間、命をかけて魔獣・ホラーと実際に戦い続けてきた男。その彼の前で、夢の記憶を以て『剣を振るっていた』なんて言い放ってしまったのだ。

 

「なるほど、『SAO』で……そういうことか。やっと納得がいったよ。

 だったら、今更俺のレクチャーは必要なさそうだな」

「納得してくれるんだね、キリトくんは。

 ……『馬鹿なこと言うなよ』って、笑われるんじゃないかなって……ちょっと、思ってた」

「誰が笑うか。あの世界――『SAO』の記憶は、今でも確かに明日奈の中にあるんだろ。

 明日奈はその記憶を受け入れた。そして、その記憶が、今こうして実際に明日奈の体を動かしてるんだ。

 たとえ『SAO』が存在しなくても……その記憶と積み重ねを笑うなんて失礼なこと、俺にはできないよ」

 

 鋭い鋒と確かな敬意、そしてぶれることのない視線を互いに向け合ったまま、明日奈と和人は言葉を交わす。傍から見れば剣呑な光景に違いないだろうが、明日奈は不思議と心地よさを感じている。

 そして同時に――己を認めてくれる相手に、己の全てをぶつけてみたいとも思う。

 

「だから、アスナ。君の『全力』を俺に見せてくれ」

 

 真剣な眼差しでこちらを見つめ返す黒ずくめの男に。明日奈が知る限り、『最強』という言葉が誰よりも相応しい男に。

 たとえ結城明日奈が『剣士』でいられたのは、あの世界( SAO )でだけだったとしても。たとえ、一合で決着をつけられてしまうのだとしても。

 少しだけでもいい。彼が見ている『世界』に、近づいてみたい。

 

「ありがとう、キリトくん――じゃあ、いくよ」

 

 故に、結城明日奈は剣を執る手を降ろさない。

 

「――ああ、来い。アスナ」

 

 故に、桐ヶ谷和人も剣を執る手を降ろさない。

 見つめる視線の先で待ち構える最強の相手。桐ヶ谷和人――キリトを前に、すぅ、と小さく息を吸って呼吸を整え。

 結城明日奈――アスナは、前方へ力強く踏み出した。

 

「やあああああっ!!」

 

 鼓動よりも早く詰まる間合い。

 時間そのものが粘性を得たかのように引き伸ばされる、瞬き一つに満たぬ極小の瞬間。

 挑発するかのように突き出されたままの左剣をかいくぐり、キリトの内懐へと踏み込んだアスナは、細剣を用いて刺突三連撃(トライアンギュラー)を繰り出す。

 三位一体を為す連撃が過たずキリトの胴を狙う――が、三度戻るはずの手応えはどこにもない。

 

(全部避けられた!? この距離で!?)

 

 それは、最小限のスライドステップと上半身の体幹を生かしたスウェーイングによる瞬間回避。キリトが見せた絶技の一端によって、細剣は受け止められる事も無いままに空を切る。

 まるで蜃気楼の中に剣を突き刺したかのような錯覚を味わわされながら、アスナはキリトの反応速度、そして眼の良さに改めて舌を巻く。

 

(それなら!)

 

 空振った右腕をそのまま引き込み、再び刺突連撃を繰り出す――と見せかけた直後、アスナは細剣の刀身をキリトの右肩めがけて振り下ろす。左斜め上方から、右斜め下方へ抜ける一閃。軽い細剣が為すその斬撃は疾風の如く速く、そして刺突とは比べ物にならない攻撃範囲を有する。

 十二分な速度を以て放たれるこの一撃は、もはや必中を約束されたも同じ。この距離、この間合で、この一撃を回避できる者など一体どこにいるというのか。

 ――いるのだ。アスナの目の前に。

 

「――(はや)いな」

 

 いかな鍛錬の賜物か。あるいは死闘の果てに磨かれた技の發現か。唇の端に余裕の笑みを浮かべたまま、予備動作すら要らぬほどに強靭な全身のバネを駆使してキリトは真上に跳躍。

 振り下ろされる細剣とすれ違う軌道を描きながらアスナの上方を取ると、そのまま体を捻りこむようにして回転させ、右腕の剣を振るう。

 回転と跳躍、そして落下の勢いを載せた騎士剣がアスナを狙う。敗北必至の危機の渦中にありながら、アスナはそれでも不敵に笑ってみせた。

 

思った通り(・・・・・)、上からのカウンター!)

 

 最初の三連撃(トライアンギュラー)が尽く躱された時点で、キリトの捷さ(AGI)が規格外である事を理解できぬアスナではない。

 それでも喰らいつこうとするのなら、キリトの先の先を読みきり、機先を制して追い詰めねばならない。

 初手はアスナの様子を確かめる為に回避に徹する。ならば次は、敢えてアスナに先手を取らせた上で、攻撃後の隙に打ち込んでくる。

 その予測がドンピシャだったのは今更言うまでもない。最初の剣閃がキリトに回避される事を前提にした、空振り上等のフェイントだということも。

 

(――行ける!!)

 

 すばやく体勢を立て直しながら、アスナは細剣を握る手を引いて刺突の姿勢を取り直すと、体を更に前に出しながら上方へ向けて鋒を突きこむ。

 天より迫り来る漆黒の墜星(メテオブレイク)と、地より駆け上る閃光の如き上段刺突(ストリーク)が、真正面から交錯する。

 

「はああああッ!」

「おぅらあッ!!」

 

 轟き渡る剣と剣の激突音。騎士剣と細剣の交錯が生み出した衝撃波が、地下室の空気を容赦なく揺らす。

 一秒に満たぬ僅かな空白の後。鋭い一合を為し終えたキリトが悠々と着地する一方で、アスナはほとんど動けずにいた。

 

(予想はしてたけど、なんて威力……)

 

 衝撃に痺れる右手に力を込め、アスナは鋒を床に向けてしまっていた細剣をなんとか持ち上げる。

 キリトの『メテオブレイク』に合わせ、アスナが放った『ストリーク』。キリトの対応を読み切った上での一撃は、墜星(メテオブレイク)が地を穿つより早くキリトの胴を打ち、漆黒の騎士を天より叩き落とす――そのはずだった。

 しかし、アスナがカウンターに出ると見てとるや、キリトは即座に剣の軌道を変え、己へ迫りくる細剣の刀身を過たず打った。

 キリトの凄まじい反応速度も、疾風の如き剣の速度も最初から織り込み済みだ。それを踏まえた上で、カウンターを読み切ればキリトの上をゆける――その計算を狂わせた原因、それは誰あろうアスナ自身だ。

 

(……やっぱり、違う。私の――アスナの剣は、こんなに遅い剣じゃなかった)

 

 『閃光』とまで謳われた、神速の剣は今や何処。

 記憶の中にあるアスナの鋭い剣閃と比べれば、結城明日奈が振るう剣の速度はあまりに遅い。レーシングカーと亀の歩みを比べた方がまだマシなほどだ。

 刻まれた『SAO』の記憶によってなまじ体が動くだけ、『アスナ』と『明日奈』の間に横たわる深い断絶と、聳え立つ力の差を痛感させられずにはいられない。

 

「さて。どうする、アスナ。まだやるか?」

「当然!」

 

 アクロバティックな一撃を繰り出しておきながら息一つ乱していないキリトをにらみつけるように、アスナはきりりと表情を引き締めると、再び細剣を構え直す。

 たとえ理想の剣に届かぬとしても、たかだか一合を交えただけで諦めてなどいられるものか。

 

「やる気十分だな……じゃあ、これならどうだ」

 

 言うが早いか、キリトは獲物に忍び寄る蛇を思わせる靭やかな歩法で間合いを詰めると、下段に構えた右手の剣をアスナめがけて振り上げる。

 アスナがとっさに取った回避行動は功を奏し、逆袈裟の軌道を描く刀身が鼻先数センチ先を掠めて過ぎ去っていく。その振り抜きが生み出した風に揺らされた前髪がもとに戻るより早く、アスナは細剣を横薙ぎに振るう。狙うは、無防備になったキリトの右胴。

 

「おっと!」

 

 しかし、キリトの捷さはアスナの上を行く。

 横一文字の剣筋を読み切り、振り上げた剣の柄を手の中で回して逆手に持ち替えたキリトが、アスナの一撃を刀身によって阻む。力と力が刹那の間に交錯し、二振りの木剣を挟んだだけの至近距離で、二人の戦士は闘志をぶつけ合う。

 

「さっきも思ったけど、すごい剣捌きだな。アスナ」

「それを余裕綽々でいなしてるよね、キミ。しかも、右手の剣だけで」

「……言われてみれば、確かにそうだ」

「――そういう人に言われても、皮肉にしか聞こえないんですけど!」

 

 気合の叫びと共に間合いを取り直し、アスナはひたすらに攻撃を繰り出していく。もっと早く、もっと鋭く。影すらも切り裂き、蜃気楼をも穿てとばかりに刃を重ねる。

 

「やあああああッ!!」

 

 刺突(リニアー)上下二連刺突(パラレル・スティング)。上方へ逆袈裟に斬り上げ、直後に下方への袈裟斬りへと移行する反転斬撃(フォーリウム)。そこから下方へ抜けた鋒をすぐさま持ち直し、縦方向に三連、横方向に三連の刺突を繰り出す十字六連刺突(クルーシフィクション)

 『SAO』の記憶に導かれるまま、アスナが放つ剣技の嵐。放てば放つほど、脳裏に思い描く『閃光』の剣には精度も速度も足りぬ事を理解させられてしまうが、それでも剣を振るう手を止める気にはなれない。

 ここまできたのだ。この連撃を尽く躱し、いなし、捌き続ける黒の剣士の余裕を崩し、本気を出させたい。

 そして――。

 

(――勝ちたい。キリトくんに、勝ちたい!)

 

 いつのまにか心中に湧き上がっていた勝利への欲求。己の力をキリトに認めさせてやりたいという渇望。

 今まで意識することのなかった己の新たな一面に驚きを覚えつつ、アスナは剣を握る手に改めて力を込め、刃を奔らせ続ける。

 

「上の方を狙う。うまく避けろよ、アスナ」

「!?」

 

 わざわざ予告した数秒後、キリトが繰り出してきたのはアスナの左肩を狙ったハイキック。空気を押し潰しながら迫りくる解体用鉄球クレーンを思わせる重い一撃を、アスナは後方へ飛び退るようにして大きく間合いを取ることで回避することに成功した。

 

「……はあっ……はあっ……」

 

 連続攻撃を行った代価は、体力の消耗という形でアスナにフィードバックされている。立っているだけで全身から汗が吹き出し、呼吸は既に肩を上下させるほどに荒い。

 一方のキリトはと言えば、始まった時と様子に大差がない。シノンとの手合わせに続けてこれが二戦目だというのに、消耗した様子が欠片も見受けられない。

 『SAO』でならともかく、現実世界(ここ)では基礎体力(レベルとフィジカル)に差がありすぎる事を、アスナは理解せざるを得なかった。

 

「がんばってください、ママ。私もここから、いっぱい応援します!」 

「ありがとね、ユイちゃん……!」

 

 後方から聞こえてくる娘の声に振り返る余裕すらもないまま、アスナは細剣を構え直す。

 視線の先に映るのは、両手の剣を下段に構えながら堂々とした態度で歩みを進めてくるキリト。脚が竦んでしまいそうなほどに強大なその重圧感と、地下室内を照らす灯によって作られる影が、まるでキリトがあの鎧をまとっているかのような錯覚を生み出す。

 それでも、ここでおめおめと引き下がるつもりはない。

 

(残り体力(ヒットポイント)を考えたら、これ以上長引かせられない……次の一合で、決める!)

 

 決意とともに、右足をわずかに後方へ。右手に構えた細剣を、刺突に適した態勢へ。弩に矢をつがえるように準備を終えた肉体を、アスナは記憶と感情の赴くまま己の体を前方へと飛び出させた。

 互いの距離が再び縮まる中、アスナが剣の間合いへと踏み込んだ瞬間、キリトは過たず右の剣を逆袈裟に振り上げる。

 

「「はあッ!」」

 

 叫びが重なり、刀身がぶつかりあう。

 下方から迫るキリトの剣が己の身を喰らう寸前、アスナは細剣を合わせてその軌道をわずかに乱す。細剣の刀身というレールに載せられたキリトの剣が、そのまま上方へと受け流されていく。

 刀身は天を向き、相手の右腕は伸び切っている。反撃するには絶好の機会(タイミング)――というのは、あくまで相手が常人であった場合の話だという事を、アスナが今更理解していないはずがない。

 あえて回避に徹し、地に伏せる体勢で身をかがめたアスナの上を、振り抜きの勢いと腰の捻りを使って繰り出されたキリトの飛び後ろ回し蹴り(カウンターストライク)が通過していく。

 

「はッ!」

 

 恐竜が振り回す尾を思わせる一撃を回避した直後。アスナは全身のバネと筋肉をフル稼働させて身を起こし、そのまま己の体を空中へと跳ね上げる。

 跳躍加速、そして落下する体重の全てを載せた上段からの斬撃で狙うは、今まさに地に脚を付けたばかりのキリト。その脳天をかち割れとばかりに振り下ろす反撃の刃を、キリトは右手の剣で真正面から受け止めると、アスナの体勢を崩すべくそのまま力を込めた右手を下方より振り上げる。

 魔戒騎士の膂力。その力を込めた剣によって無理矢理押し上げられたアスナの肉体は空中に飛び出し、バランスを失う――アスナ以外の誰もがそう考えた、その直後。

 

「嘘だろ!?」

 

 瞳に映した想定外の光景――キリトの力を踏切台替わりに利用し、華麗に空中へと舞い上がるアスナの姿を視界に捉え、キリトの口から驚愕の叫びが溢れる。

 下方からの膂力によって十二分な加速を得たアスナは、わずかの間だけ膝を抱え込むような姿勢を取って後方宙返りを成功させると、そのまま体操選手のように流麗な着地を決める。直後、脚位置を整え、姿勢を低く取る。そして、大きく開いた間合いを加速のための助走距離に変えながら、再び攻勢へ。

 

「行くよ、キリトくん!」

「来い!!」

 

 キリトの右剣、その鋒が二連撃の刺突となって、間合いを詰めるアスナを狙う。その軌道をぎりぎりの所で看破したアスナは、首をわずかに左右に振り、直撃寸前の距離で刺突を回避しつつ更に前進。

 互いの瞳の中に互いの姿が映る程に縮まった彼我の間合いの中。アスナの細剣が中段から上段へ斬り上げる軌道を描いた瞬間、右腕を引き戻したキリトの剣が上段より縦一文字に奔る。

 渾身の力が籠もりし閃光の刃と流星の剣が重なり合い、今日最も鋭く重い激突音を謳い上げる。

 吐息が混じり合い、睫毛が絡み合いそうなほどに密着する相対距離。剣は鍔迫り合い、斬れざる刃が互いを相食む必至必殺の間合いこそ、言うなれば――『剣の世界』。

 剣を手に戦う者のみがたどり着く、互いの存在だけが全てとなる場所。阻む者無き隔絶空間の中で、アスナは左腕をわずかに引き、鋭く前方へと押し込む。

 

「――ッぐ!」

 

 永遠の如く、なれど現実の時間にしてみれば0.1秒にも満たぬほどの刹那に存在したその世界を破るのは、キリトの口から溢れた苦悶の声。

 その腹部に突き刺さる、アスナの左拳。必中距離まで間合いを詰めた上、己の体と細剣を目くらましにして放たれたレバーブローによって、さしものキリトも姿勢を崩して後方にたたらを踏む。

 無論、大したダメージは受けていないだろう。しかし、この瞬間、この一瞬を作り出した事を考えれば、それは間違いなく値千金の一撃だ。

 

(これが、最後のチャンス!!)

 

 鉄板でも殴りつけたかのような感触に苛まれる左拳と入れ替わるように突き出した右腕が描くのは、乾坤一擲の剣技。

 心臓を貫く(ハートブレイク)()高速刺突四連(カドラプルペイン)

 残る体力、そして気力の全てを絞り尽くして放つアスナの最後の一撃(ラストアタック)。実態無き蜃気楼すらも揺らがし砕く旋風の疾さへと辿り着いたこの剣を、この距離で誰が、この間合で何が阻めるというのか。

 

「――やああああッ!!」

 

 裂帛の叫びと共に、研ぎ澄まされた刺突が奔る。

 アスナには見えていた。

 勝利への道筋。

 副部殴打によって後方に押し込まれた彼の体。その右腕と共に、今や無限に等しき遠さにある彼の剣。そして、黒の剣士の護りを破り、ついに一撃を喰らわせる己の未来――その全てが。

 その未来へと導く予測線を辿るように、アスナは鋒を押し込む。

 

 そして、地下室中に響き渡る乾いた音と共に、一つの勝負に決着の幕が下りた。

 

 

――――――

 

 

 『戦闘』という行為を『勝機の奪い合い』と定義するのであれば、望む勝機を引きずり出し、そこを突くことができた者が勝者となるのは必然と言える。

 此度の戦闘においても、それは変わらない。勝機を得た者は、即ち勝利者となる。

 

「――さて。俺の勝ちでいいかな」

 

 右手上段から斜め下に駆け抜ける袈裟斬りの剣筋を描くはずだった右手の剣。その刃無き刀身を、アスナの首筋と薄紙一枚の距離を挟んだ場所で押し留めながら、キリトは眼の前にいる彼女に降伏の意を問う。

 その問いかけにアスナがしぶしぶといった様子で頷いたのは、彼女の右手の中から弾き飛ばされた細剣が床にぶつかり、甲高い音を立てたあとの事だった。

 

「今日はここまでにしておこうか、アスナ」

「う、うん……」

 

 二振りの木剣を共に腰に佩かせたあと、キリトは床に転がっていたままの細剣を拾い上げる。あれだけの打ち合いを繰り広げたというのに、細剣の刀身に目立った傷やひび割れが発生していないのは、造りが丁寧な証といえる。

 

「悔しいなあ……最後、絶対勝てると思ったのに……」

「勝ったと思った瞬間が、一番危ないんだ。まあ、確かに最後のアレはいい連携だったけどな。

 危うく一本叩き込まれる所だったし……正直、二本目の剣まで使わされる事になるなんて思ってなかったよ」

「……もしかして、敗者に情けとかかけていただけてます?」

「まさか。本当のことしか言ってないよ。少なくともあの瞬間、俺は本気を出さざるをえなかった」

 

 勝敗を分けたのは剣速、そして見切りの差。

 アスナが突きこんだ刺突、その剣が奔りきるより早く、その軌道の内側に潜り込んだキリトの左剣の一閃が細剣を弾き飛ばすのと同時、ひねりこまれる腰の動きに連動させた右剣が無防備となったアスナの首筋を裂く――その寸前で剣を留め、決着と為した。

 あえて相手に仕掛けさせ、攻撃後の隙――即ち『勝機』を造り、討つ。型稽古通りの動きといえばその通りだが、逆に言えば型通りであるが故に手加減の入り込む隙などどこにもない。

 あの瞬間、キリトは本気で剣を振るっていた。それだけは、疑いようのない事実だった。

 

「……やっぱりすごいね、『二刀流』って。もちろん、キリトくんも」

「お褒めいただき光栄にございます。でも、アスナもすごかったぞ」

「そんなこと無いよ。全然。

 ……やっぱり、私が剣士でいられたのは、あの世界でだけだったみたい」

 

 諦念と失望が入り交じったような、少しばかり悲しげな笑みを浮かべたアスナは、キリトが拾い上げた細剣の柄を手に取ろうとはしない。その様子はまるで、己が剣士であることを否定するかのよう。

 

「そうか? 少なくとも、俺には立派な一廉の剣士に見えるんだけどな」

「そういってもらえるのは嬉しいよ。でもね、やっぱり……今の私じゃ、SAO(あの世界)にいた『閃光(わたし)』の剣には全然届かない。

 こんな、遅くて鈍い剣じゃ……情けなくて、剣士だなんてとても名乗れないよ……」

 

 宝石のように美しい大きな瞳から、今にも涙をこぼしそうな表情でうつむいてしまったアスナがあまりに見ていられず、キリトは彼女の側まで歩みを進めると、その頭に左手を優しく宛てる。

 SAOにいた、もうひとりの明日奈――『閃光』のアスナ。理想とするその姿に届かない歯がゆさともどかしさに苦しんでいる彼女は、いつかの自分の姿と重なって見えてしまう。

 不器用なキリトの手にされるがまま、アスナはされるがまま、こてんと頭を倒してキリトの胴にわずかに体重を預ける。

 

「なあ、アスナ。『魔戒騎士』と、そうじゃない人の一番の違いって、なんだと思う?」

「え……? ……あの『鎧』を召喚できること、かな?」

「大正解。そして、俺は昔……鎧を捨てて、魔戒騎士を廃業するつもりだった」

 

 キリトの腕の中に収まったまま、アスナが驚愕に小さく身を震わせる。

 好き好んで思い出したい過去ではないが、かつての己とよく似た迷いと諦めを抱いてしまった彼女に、もう一度前を向いてもらうきっかけになるのであれば、口に出す事にためらいはなかった。

 

「アスナと出会う少し前……俺は『破滅の刻印』という呪いを承けて、生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い詰められた事があるんだ。もちろん、今は呪いも解けて、ぴんぴんしてるけどな」

「知ってるよ。……キリトくん、刻印を受けてからも無茶ばっかりしてたって、リズとシノのんが怒ってたよ……」

「……面目ない」

 

 喉元の少し下、胴の中央。ちょうど『破滅の刻印』が刻まれていたあたりに額を押し当てたまま、何かを訴えかけるようにアスナはじっとうつむく。

 『破滅の刻印』は、魔戒騎士が鎧を召喚するたびにその生命を削り、耐え難い痛みを齎す死の呪い。その事実をわかっていながら、キリトは狩りを辞めることはなく、ホラーや魔導兵器と対峙した時は躊躇わず鎧を召喚した。戦いの中で命が尽きなかったのは、偏に幸運としかいいようがない。

 力無い様子のアスナの頭に優しく触れながら、キリトは言葉を紡ぐ。

 

「『鎧を守り、騎士として死ぬ』か、『鎧を捨て、惨めに生きる』か……。

 刻印が発動する直前、俺達魔戒騎士には、そんな選択肢が提示されてさ」

「もちろん、生きる方を選んだんだよね? ね?」

「まあ……一応。ただ、正直……最後の最後まで悩んだよ。

 鎧を――魔戒騎士である証を捨てて漠然と生きるより、騎士として最後まで戦うべきなんじゃないかって。

 ……でも、その時さ。ある人が言ってくれたんだ」

「……?」

 

 やっと顔を上げたアスナがみせる、不思議そうな表情と視線を、キリトはしっかりと受け止める。

 

「『大事なのは鎧じゃない。騎士の心だ』――ってさ」

「騎士の、心……」

 

 噛みしめるようにつぶやくアスナに、キリトは力強く頷きを返す。

 かつて、騎士の頂点に立つ者より受け取った言葉。惑いの闇を払う金色の光にも似た決意と信念の言葉を、今度は己の口を通して、アスナに送る。

 

「今、自分には何があって、何ができて、何が足りなくて――そんな事じゃ、何も決まらない。

 大事なのは、自分がどうありたいか……『どういう自分であろうとするか』なんじゃないかな、アスナ」

「キリトくん……」

「だからさ。今がどうであれ、アスナが心からそうあろうと望むなら……どこの世界にいたって、アスナは剣士だ。

 その意思と、剣を握る覚悟さえあれば、実力なんて後から勝手についてくるさ」

 

 安心させるつもりで浮かべた笑顔に、アスナもまた微笑みを浮かべ、頷きを返す。迷いの全てが断ち切れたわけではないだろうが、彼女の表情は、リズやシノンが言う所の『マシな顔』に戻っている事は間違いなかった。

 それが証拠に、彼女から手を離したキリトが改めて差し出した細剣の柄を、アスナはしっかりと握りしめ手の中に収めた。

 

「……また、手合わせしてね。キリトくん。時々でいいから」

「ああ、もちろんだよ。アスナ」

 

 地下室の薄暗がりをも照らすような微笑みと共に、ようやく明るさを取り戻したアスナ――もとい、明日奈に、和人もまた笑みを返す。

 不意に聞こえてきたとてとてという足音のする方に視線を向ければ、重く沈んだ雰囲気が去った事を察知したらしきユイが、満面の笑みを浮かべながら和人の方へ駆け寄ってくる。その向こう側に、ふと、妙に含みのある笑みを浮かべたリズとシノンの姿が見えた気がしたが――。

 

「パパ!」

「おう、ユイ」

 

 抱きしめろと言わんばかりに両手を広げる愛娘の前では些細なことと思い直し、和人は足元にやってきたユイの体に両腕を回し、そのまま抱き上げる。

 幼子の体は、その気になれば片腕だけでも持ち上げられてしまう程に軽い。魔法衣を通して伝わる肌の温もりに、思わず彼女がホラーであることを忘れそうになる。文字通り己の命を分け与えている存在を腕の中に収めながら、和人が妙な感慨深さに浸っていると――不意にユイが両手を思い切り広げ、和人の両腕をがっしりと掴んだ。

 

「ユイ?」

「ふふふ。引っかかりましたね、パパ」

「ん? え?」

 

 虚をつかれて間抜けな声を出した和人の腕の中で、ユイは必死に後ろの方へ顔を向ける。

 

「今がチャンスです! ママ! わたしがパパの両腕を抑えているうちに、さっきのお返しを!」

「――そういうことね! よーし、そのままキリトくんを捕まえててね! ユイちゃん!」

「はい!」

 

 すばやく状況を理解した明日奈は、ニヤリと不敵に笑いながら再び細剣を構え直す。

 そのままじりじりと距離を詰めてくる彼女から、和人は一瞬だけ視線をそらす。その視線の先で、シノンとリズが『してやったり』とでも言いたげな表情を浮かべているのがはっきりと見えた。ユイに入れ知恵したのがあの二人なのは、今更確かめるまでもない。

 

(さあて、どうしたもんか)

 

 心のうちでため息を付きつつ、和人は次の一手を思案する。

 無論、切り抜けようと思えばどうにでもできる。例えば、ユイを力づくで腕から剥がし、そのまま明日奈に放り投げ、体勢を崩した二人をまとめて貫くといった抵抗手段をとることもできる。あるいは、明日奈の打ち込みに対する盾としてユイを用い、そこから反撃に移ることも可能だ。ユイを抱えたままでも脚は使えるという事を勘案すれば、回し蹴り二連撃――初撃で細剣を弾き飛ばし、続く二撃目で明日奈の首をへし折る事も選択肢として挙がってくる。

 

(まあ……それはさすがに、なあ)

 

 やろうと思えば可能な手段も、やろうと思えないのならそれは不可能と同じ。

 結局、脳裏に思い描く複数の抵抗手段を全て放棄した和人は、されるがままになる覚悟を決める。その和人の頭に、明日奈が上段に構えた細剣をゆっくりと振り下ろす。

 

「『勝ったと思った瞬間が、一番危ない』んだよね、キリトくん?」

「……肝に命じます」

 

 苦笑しつつ頭を下げる和人の頭部に、木製の刀身が軽く触れた。当然、その威力は皆無に等しく、ごく軽い感触のみを伴う剣に痛みなどあろうはずもない。

 見事な面一本を和人の頭部に喰らわせた明日奈と、協力者であるユイがハイタッチをして喜ぶ様子を見届けながら、和人は明日奈と共に壁際――シノンとリズが待つ、休憩スペースじみた一画へと戻る。

 

「リズさん、やりました! パパ捕獲作戦、大成功です!」

「ね、あたしたちが言ったとおりだったでしょ? 和人のやつ、ユイちゃんにはだだ甘だからうまくいくって」

「はい! パパ、とっても『だだ甘』でした! そうですよね、パパ?」

「まったく……今日はみんなにいい訓練させてもらったよ」

 

 そうぼやきつつ、和人は抱きかかえていたユイをリズに預け、代わりにドリンクの入ったボトルを受け取る。トレーニング二連戦を終えた体に流れ込む、冷えた液体の感触が心地よい。

 ボトルの中身をほとんど飲み干した所で一息つくと、明日奈にタオルを手渡していたシノンと不意に目が合った。何か言いたげなその様子に、和人は口を付けていたボトルを下ろす。

 

「どうした、シノン?」

「ううん、別に。訓練といえば、あっちの方はうまく行ってるのかなって思っただけよ」

「ああ、アレか。……まあ、正直。あまり芳しくはないって所かな」

「……? 一体何の話? シノのん、キリトくん」

「ああ、明日奈には言ってなかったか。実は――いや、口で説明するより、見てもらった方が早いな」

 

 ボトルと木剣を邪魔にならない場所に置いた後、和人は壁に掛けておいた魔戒剣、その一振りを鞘から抜き放つ。そのまま明日奈達から距離をとり、再び訓練場の中心部まで歩みを進めると、鋒が頭上で円を描くように剣を回す。

 魔戒剣によって空間が切り裂かれ、召喚陣が形成される。世界と世界の壁が砕け、魔界の深奥より呼び醒まされた夜闇色の鎧が和人の――キリトの身を覆い、右手の魔戒剣が漆黒の騎士剣・黒解剣へと変化する。

 

『少し危ないからな。そこから動かないでくれよ、明日奈』

「う、うん。わかったよ」

『もちろん、ユイもだぞ』

「はい。わかりました、パパ」

 

 事情を理解しきれていないであろうユイは若干不安そうな顔をしながらも、明日奈に背を預けるような形で壁際に立つ。ユイの体に後ろから手を回した明日奈が絶叫マシンの固定ベルトのようにユイを抱きしめる様子を視認し、万が一に備えて二人を挟み込むような位置へ自然に陣取ったリズ、シノンとごく小さな頷きを交わしたあと、和人は左手に大型の火鑽(ライター)に似た魔道具を握る。

 開かれた人の片目を思わせる意匠が施されたその魔導具こそ、『魔導火』。

 魔戒騎士や魔戒法師が操る神秘の炎『魔導火』と同じ名を持ち、その火を内に宿すモノ。この魔道具を用いて魔導火を灯すことで、人に憑依したホラーの存在を看破することが叶うため、魔戒騎士にとって必需品とも言える一品である。

 

(さて……そろそろ、うまくいってほしいんだがな……)

 

 火鑽の蓋を跳ね上げると同時、夕日の残光を思わせるブライトオレンジに輝く神秘の火が目覚める。左手に握った火鑽に魔導火を灯したまま、キリトは黒解剣の刀身、その『(マチ)』――鍔に接する根本部分から、先端部分である(きっさき)までの全てが魔導火に触れるようスライドさせていく。

 まるで刀身に可燃剤でも塗られていたかのように、魔導火を宿して煌々と燃え盛る黒解剣。その柄を両手で握りしめたキリトは、中段・正眼の構えを取り、静かに息を吐く。

 

「シノのん。あれって……」

「『烈火炎装』。魔戒騎士が操る、奥義の一つ。

 それを会得するために……あいつは、必死で掴もうとしてる。あいつ自身の、内なる何かを」

「内なる、何か……」

 

 明日奈の問いにシノンが答えている間に過ぎた、ごく僅かな時間。その僅かな間に、キリトは先の鍛錬二連戦、その百倍は体力を消耗していた。

 普段はキリトの意思に応えて自在に重量を変えるソウルメタルの剣が、今は凝縮された鉛の如く重い。剣を自身の手足の延長の如く扱えるようになって数年が経つというのに、魔導火輝くこの剣の感触は、まるで初めて魔戒剣を手にした時と同じ――いや、それ以上に重く、扱いきれぬほどに強大な力で溢れていた。

 

(この剣を……この炎を、どう操ればいいんだ……!?)

 

 両腕に全ての力と全神経を集中し、キリトは鋒を天頂に向け、刀身を面の前に持ってくる。燃え盛る魔導火の輝きが視界を埋め尽くし、ソウルメタルの兜越しにキリトを照らす。

 『烈火炎装』。その究極は、刀身に魔導火を灯すことではない。神秘の炎と己を一体化させるかの如く、鎧をまとう総身の尽くに魔導火を燃やすことができて初めて、会得を認められると言われている。

 剣一振りの制御に手一杯であるキリトが、その究極に辿り着くには、一体どれだけの時間と努力を積み重ねる必要があるのだろう。想像する事すら叶わぬその道程に――光明は未だ見えなかった。

 

(……ここまでか……!)

 

 剣を握る手から力が失われる直前、キリトは鎧を解除する。体力の殆どを持っていかれ、膝を付きそうになる己を必死に抑えこむ。崩れ落ちることをどうにか防いだ体から、どっと汗が吹き出して床に黒い染みを作りだしていく。

 10日前にこの鍛錬を始めた時、数秒で失神していたことを考えればずいぶんと成長したと言えなくもないが――こんなザマでは、実戦で使い物になるはずもない。

 

「大丈夫!? キリトくん?」

「ああ……ありがとう、明日奈。大丈夫だよ」

 

 駆け寄ってきた明日奈と、共にやってきたユイからタオルを受け取り、キリト――もとい、和人は顔に浮かんだ汗を拭う。

 

「こんな感じでさ、ここしばらく訓練を続けてたんだ。『烈火炎装』を会得したくてさ」

「そうだったんだ……でも、あんまり無茶しちゃだめだよ。キリトくん、時々頑張り過ぎちゃう人だから……」

 

 心配そうに見つめてくる明日奈に小さく頷きつつ、和人は魔戒剣を鞘へと収める。未だ、烈火炎装会得への道筋は見えてこないが、今日はさすがに体力を消耗しすぎた。万一、夜にホラーが出現した場合に備え、鍛錬はこれくらいにしておくべきだろうと、和人は判断した。

 

「悪い、明日奈。先に、風呂使わせてもらってもいいかな」

「もちろん。ごゆっくりどうぞ」

 

 疲労にまみれ、汗でべたつく体を無理矢理動かして訓練場の片付けを終え、和人は一足先に訓練場を後にしようとした。

 

「待って、和人」

「シノン?」

 

 背後から呼び止める声に振り返ってみれば、いつの間にか明日奈の隣にシノンが立っている。ユイに策を吹き込んだ時と同じような表情を浮かべたシノンは、勿体付けるようにゆっくりと歩きながら、和人との距離を詰めてくる。

 

「私も、お風呂まだなんだけど」

「ああ、そうだったか。……なら、ここはシノンが先に――」

「え? まさか、その汗まみれの体で、私がお風呂を済ませるまで待ってるつもり?」

「じゃあ、どうしろと……?」

 

 戸惑う和人の隙をつくように伸びたシノンの両手が、そのまま和人の右腕に絡みつく。

 

「簡単じゃない。一緒に(・・・)、入りましょ?」

「……………………はい?」

 

 突然の申し出に思考ルーチンがフリーズしかけた和人の口から、なんとも間抜けな音が漏れる。

 実のところ、シノンと共に湯に浸かった事が無いわけではない。だが、まさかこの場で、このタイミングで、しかもあのシノンがこんな事を言い出すなどとは全く予想していなかった和人に、対抗策を用意するほどの余裕はなかった。

 

「疲れてるでしょ? 背中くらい流してあげるわよ」

「それは、非常にありがたいけども」

「なら、さっさと行くわよ。後もつかえてることだし」

 

 視線をちらりと後ろに――正確に言えば、明日奈に――向けて、どこか挑発するようにそう言い放ったシノンは、和人の腕をぐいと引き寄せる。

 いつもの彼女と比べて妙に積極的な所が引っかかりはしたが、無碍にするのも気が引けた和人は、腕を引かれるままに歩みだそうとして――。

 

「……キリト、くん」

 

 右腕の袖を、くい、くいと引かれる感触に思わず脚が止まる。遠慮がちに、しかし簡単に離さないようしっかりと袖を掴む手と、少しだけ震えた声に思わず振り返ってしまう。

 羞恥と困惑、覚悟と情熱が綯い交ぜになった表情のまま微かにうつむき、上目遣いで見つめてくる彼女のに、どうしたって視線が惹きつけられる。

 

「……私も、その……お風呂、まだなんだよね」

「そ、そうなの……か……」

「だ、だからね! えっと……その……私も、キリトくんのせっ、背中、流してあげてもいい、よ……?」

 

 予想外の事象を処理しきれなかった和人の思考ルーチンが、今度こそ完全にフリーズしたのは言うまでもない。

 

 

――――――

 

 

 桐ケ谷邸の風呂は、無駄に広い。

 ちょっとしたアパートの部屋以上の面積を誇る床には、大理石によく似た石を丁寧に磨き上げて作られた床材が敷かれている。浴槽は大人の5人や6人が入ってもまだ余るほどに大きく、座って肩までつかれるほどには深い。

 壁の一角は外へと続く大きな窓になっており、そこからひさし(・・・)のついたテラスへと出る事ができた。

 ウッドデッキが敷かれたテラスの周囲は背の高い木の柵で囲われており、火照った体を冷ますためのデッキチェアと、寝転びながら浸かるための浅く広い寝湯が設えられている。ひさしと柵の間には開口部が作られており、空を見上げながら寝湯に浸かる事ができるデザインになっていた。

 

(どうして、こんな展開に……)

 

 内湯と外湯まで用意された、ちょっとした旅館顔負けの浴室。その壁際に置かれた風呂用の椅子(バスチェア)に腰を下ろしたまま、和人は頭上から振るシャワーの雨をじっと浴びていた。

 理由は単純。扉一枚向こう側から聞こえてくる、二人分(・・・)の衣擦れの音を、魔戒騎士の鋭敏な聴覚で捉えないようにするためである。

 

(いつもどおり、平常心、平常心……)

 

 慌ただしく体を洗った後に感じる、軽い満足感を味わうどころではない。髪を伝って落ちていく温い雨の雫達が、穿いているトランクスタイプの水着に当たって流れ落ちていく。

 普段は魔法衣を、そして鎧をまとって己の身を守る騎士は、今や水着一枚を残して何も身に着けていない状態にあった。当然といえば当然――いや、むしろ入浴という行為を考えれば、水着を着けている方が不自然と言えるのだが、万一の備えとしてこれは必要不可欠な装備だった。

 

「入るわよ、和人」

「…………どうぞ」

 

 扉の向こうから聞こえてくる声に返答しつつ、立ち上がった和人がシャワーを止めたすぐ後。きい、というかすかな音を立てて浴室の扉が開く。背後から聞こえてくる、素足が床に触れるぺたぺたという音を耳にして、いよいよ腹を括った和人はゆっくりと振り返った。

 

「よう、シノン」

「不思議ね。なんだか、変に緊張してるように見えるんだけど?」

 

 シノンの両手がするりと伸び、そのまま和人の両頬を甘く抓る。

 蒼い瞳を揺らして悪戯っぽく微笑む彼女が身にまとうのは、濃青(インディゴ・ブルー)に染まった水着。トップ部の紐を首の後で結ぶホルター・ビキニが作る独特のラインが、彼女の薄青の髪、そして白い肌との間で絶妙なコントラストを生み、どこか儚げな、それでいて芯のある雰囲気を見事に演出している。

 その彼女の魅力を更に増しているのが、日々の鍛錬によって引き締まった脚と、最上級品の弓のように美しいくびれを描く腰によって作られるボディライン。比較的小柄な事も相まって、どこか妖精めいた美しさを放つシノンにいいように弄ばれたまま、和人は言い訳の言葉を口にした。

 

「誰だって緊張するだろ、こんな状況なら」

「そう? ま、あなたの顔に免じて、納得しておいてあげるわ」

「助かる……ああ、それとさ」

「何?」

「似合ってるよ。シノンにぴったりっていう気がする」

「……ありがと」

 

 指先から力を抜き、今の今まで自分が抓っていた場所を軽くさすったあと、シノンは和人の両頬から指先を離した。その感触にくすぐったさを覚えつつ苦笑していると、和人の耳にもう一つの足音が届く。

 シノンの瞳にアイコンタクトで詫びを入れたあと、和人は音のする方に視線を向けた。

 

「お待たせ、キリトくん」

 

 心構えをしていたつもりではあった。しかし、それでも――浴室に脚を踏み入れた彼女の姿を目にした瞬間、和人は息を呑む。

 美しい。そんな言葉を100度重ねようが、それでもまだ追いつけない領域があることを本能が悟る。そして、その領域に身を置く事を許された者がいることを――そしてその者は、『結城明日奈』という名を持っている事を知る。

 

「変じゃない……かな?」

「…………綺麗だ。凄く」

 

 見惚れそうになる――いや、完全に見惚れていた己をなんとか正気に戻し、和人はありきたりな言葉をどうにかこうにか絞り出す。

 清楚さと高貴さを兼ね備えた白雪(スノウ・ホワイト)を基調に、目の醒めるような深い(ルージュ)に染まったフリルとリボンを縁取りとして従えたシンプルなビキニタイプの水着。普段は露出されていないきめ細やかな肌の白さはこれでもかという程に強調され、風に靡く陽の色のロングヘアをアップでまとめた、入浴用のヘアスタイルによって作り出されるギャップが新鮮さを伴って視覚と理性を征服する。

 桐ヶ谷和人は善人――少なくとも、善人たろうとはしているが、しかし当然ながら聖人ではない。人並みの欲望程度ならば人並み以上に備えているし、己の中に滾る欲望を理性で御さなければならない事も理解している。

 故に、ビキニという水着の構造上、どうしたって強調される胸元と、そこに形作られた豊かな肌色の凹凸(おうとつ)に視線を釘付けにされたのは認めざるを得ない。コンマ数秒の単位でその自覚にたどり着き、不自然にならぬように視線を反らしてみたはいいが、それでもあらゆる女神像の原型(モデル)であるかのように理想的な腰へのラインと、健康的な色香を放つ脚線美が網膜に焼き付く。

 不躾に見つめてしまったのは、せいぜい1秒あるかないかだっただろうが――和人の反応速度と、明日奈の圧倒的な魅力の前では、それすらも十分すぎるほどに長い時間であった。

 

「よかった。家出してくる時にたまたま持ってきた物だから……『似合ってない』って言われないか、ちょっと心配だったの」

 

 喜びの中に若干の羞恥が交じった朗らかな微笑みを向けてくれる明日奈に、和人は己の鼓動がドキリと高鳴るのを感じる。意識するなという方が無理な話だ。

 

(なんというか……とんでもない事になってるな、俺……)

 

 才色兼備にして羞月閉花。そんな女性二人を伴って入浴しているという事実。代われるものならいくらでも出すという人間の数を数えたら、両手足の指ではとても足りないだろう。無論、誰が相手で、いくら積まれようとも、代わってやるつもりなど微塵もありはしないが。

 

「ええと、じゃあ……お願いしてもいいかな。明日奈。シノン」

「もちろん。それじゃあ……そこだと、ちょっと狭いよね、シノのん」

「そうね。和人、もう少し後ろの方に座ってもらえる?」

「後ろ……? ああ、わかった」

 

 壁際付近に置いたままにしていたバスチェアを後方に引き、壁とバスチェアとの間に無駄なスペースを作ったあと、和人は改めて腰を下ろす。

 

「今更だけどさ、明日奈。俺、背中とか、色んな所に……」

「『傷跡があるから、見るのが嫌なら無理しなくていい』とでも言うつもり? キリトくん」

「……敵わないな、明日奈には」

 

 言うべきことを先回りされ、和人は小さく肩を竦める。

 背中を斜めに流れる傷を始めとして、和人の肉体にはいくつもの傷跡が刻まれている。加えて、左腕には紋様じみた火傷の痕跡も。大半が既に治癒された物だとはいえ、見ていて気持ちの良いものではないだろう。

 そう考えた和人の提案を一蹴した明日奈が、和人の背後に膝をつく気配が伝わってくる。傷跡に優しく触れる、細い指の感触と共に。

 

「こうやって見ると……キリトくんの背中、すごくおっきいね」

「そうか? 普通だと思うけど」

「そんな事ないよ。凄く大きくて、がっしりしてて……頼りがいがあるっていうのかな。

 シノのんも、そう思うよね?」

「ええ。なんたって、私と、明日奈と……そして、沢山の人を守るために戦ってきた人の背中だもの」

 

 くしゅくしゅという音を上げて泡立てられたスポンジが、離れゆく明日奈の指先と入れ替わるように、和人の背に触れる。肌を洗い、汚れを落とすと共に、戦いの痛みをも癒やす祈りが籠もっている事が伝わる、優しい感触。

 背の右側に一つ、左側に一つ。明日奈とシノン、二人それぞれが滑らせるスポンジの感触はどこかこそばゆく、そして心地いいい。

 

「ほんと。誰かが危ない時は、必ず自分が前に出て庇ってくれるよね。キリトくん」

「まあ、『人を守る』ってのが俺の……魔戒騎士の使命だからな」

 

 騎士の『仕事』はホラーを討滅すること。そして。騎士の『使命』は人を守ることだ。両者はほぼ表裏一体とはいえ、全くの同一ではない。

 祈りを込めた『剣』を携え、闇に抗う最後の『盾』となる。『守りし者』たる魔戒騎士であり続けようとするならば、その信念を見失う事は許されない。

 

「……ねえ、キリトくん」

「ん?」

 

 背に伝わる感触が一つに減ったすぐ後。和人の横を抜けて移動した明日奈が、和人の正面にぺたりと座り込む。ちょうど明日奈とシノンに前後を挟まれる形になりつつも、真っ直ぐに見つめてくる榛色の視線の中に、どこか真剣な光を見た気がして、和人もまた彼女の瞳を見つめ返す。

 

「キリトくんが守る、人の中に……私も、入ってるの?」

「ああ。当然だ」

 

 迷いのない和人の返答が、明日奈の顔にぱっと輝く笑みを浮かばせる。

 その一方、シノンはといえば、和人の背後でくすくすと小さな笑い声を零す。

 

「ふふ。魔戒騎士相手にそんなわかりきったこと聞いたの、たぶん世界であなただけよ。明日奈」

「そうかな? 当たり前のことかもしれないけど……やっぱり、キリトくんの口から直接聞きたかったの。

 すごくほっとするし、『嬉しい』って気持ちでいっぱいにしてくれるから」

 

 何か言おうとした和人を、『というわけで、嬉しいからシャンプーしてあげる。頭、下げてね』と明日奈が遮る。言われるがまま、和人は大人しく頭を下げ、瞼を閉じる。

 粘性を含んだ液体と共に、明日奈の細い指先が和人の髪、そして頭皮に触れる。

 視界が失われたことで作られる薄闇の中、和人はふと、少し前の事を思い出していた。

 

「この間……ユイに、俺の命をあげた時。あの時、夢を見たんだ」

「夢? 夢って、どんな?」

 

 美容師がそうするように、和人の髪の中で丁寧に指を動かしながら、明日奈が問いかける。

 

「それが、不思議な夢でさ……見たことのない魔戒騎士が出てきて、俺に言ったんだ。

 『迷う時は剣に問え。守るべき者は、何者かと』……って」

「『守るべき者』……」

 

 噛みしめるように、明日奈がつぶやく。

 

「本当に、不思議な夢だね……。それで、キリトくんの『守るべき者』って、もう見つかったの?」

「ああ。俺の周りにいる、大切な人たち……そしてもちろん、ホラーに狙われる全ての人。数えたらたぶん、きりが無いくらいにいる。

 そんなこと、今更剣に問わなくても……とっくにわかってるんだけどな」

「そっか……。だから、こんなにも強くて、いつだって一番危ない場所に出ていけるんだね。キリトくんは」

 

 シャワーヘッドから降る温水の雨が、和人の頭と背中についていた泡の群れを洗い流していく。

 数多の魔獣の牙が向かう先。それは桐ヶ谷和人が立つ場所の先にある、彼の守るべき者達がいる場所に他ならない。

 もし、魔獣がその翼をはためかせて和人の守るべき者を狙うなら、全てを斬り裂く剣を以てその翼を断つ。もし、魔獣の爪が和人の守るべき者に迫るなら、邪悪を弾く無敵の鎧を以て受け止める。

 この剣は、この鎧は、そしてこの命は、きっと、そのためのものなのだから。

 

「あーあ。なんだか、ちょっと悔しいなあ……。私が《SAO》の私と同じくらいに強かったら、キリトくんの隣でサポートしてあげられたのに」

「ははっ。《閃光》のアスナと組んで戦えるなら、どんな怪物(ホラー)が相手でも負ける気がしないな」

「でしょ? その時は切り込み役(フォワード)も交代制にして、キリトくんを助けてあげるからね」

「ありがたい。……まあ、明日奈は今でも十分、俺を助けてくれてるけどな」

「え? そうかな?」

 

 シャワーの雨が止んだあと。和人が静かに顔をあげれば、きょとんとした顔の明日奈と視線がぶつかった。水滴が溢れる髪を無造作にかき上げ、和人は改めて明日奈を見つめ返した。

 

「今の俺が戦えるのは、守りたい人がいて、守ってくれる人がいるからなんだ。明日奈もその一人だし、もちろん、シノンやリズ、ユイもそうだ。

 俺が強いんだとしたら、それはきっと俺一人の力じゃなくて……俺なんかの周りにいてくれる、皆のおかげなんだと思う」

「キリトくん……」

「だから、俺は俺の全力を以て、明日奈を守る。そしていつか必ず、明日奈を元の居場所――ホラーと関わりのない世界に帰してみせる」

 

 潤々とした榛色の瞳に、和人は改めて誓う。戦う意味を、剣を執る理由を捧ぐ。その果てに待つものが、彼女との別離を意味するものだとしても。

 その決意を受け止めたかのように、明日奈の両手が和人の右手を包み込む。

 

「約束だよ。もし、全部解決した時に、キリトくんが居てくれなかったら……大人しく忘れてなんてあげないんだからね。私」

「それは大変だ。じゃあ、何が相手になろうと、意地でも切り抜けないといけないな」

「そうだよ。それに、ほら。流れ星を見に行く約束も、まだ叶えてもらってないんだから」

「……へえ。いつの間に、そんな約束までしてたのね。あなた達」

「い、いや、シノン。 単に、みんなで星を見に行こうって話だから! そうだよな、明日奈?」

 

 背後から聞こえてきた詰るような声に、慌てて事情を説明する和人を見て、明日奈がくすくすと笑う。

 

「どうだったかなー。キリトくんには、『俺と二人きりで行こう』って誘われた気もするような……」

「あ、明日奈さん!?」

「やっぱりそういう事だったのね……和人って、釣った魚に餌を上げないタイプだとは思っていたけど。

 リズとユイちゃんにも、言いつけちゃおうかしら」

「か、勘弁してください……!」

 

 結局、明日奈が約束の内容を『思い出し』、シノンの誤解を解いてくれるまでの間。和人は二人に左右を挟まれたまま、風呂の湯に肩まで浸かり続ける羽目になった。

 風呂の熱にあてられ、わずかに汗ばむ肌。上気した頬の赤み。普段以上に魅惑的な明日奈とシノンに寄ってたかられ――

 

「やっぱり、あなたの手って大きいわね……私のとは大違い」

「本当だね……節々が固くて、ゴツゴツしてる。爪も綺麗に整ってるし」

「男女差ってこういう所に出るのかしら……武器を握りやすそうで、なんだかちょっとズルいわね」

 

 ――などと言われながら、両腕を弄ばれたり、普段酷使している筋肉をマッサージされながら過ごしたあの瞬間、和人は間違いなく天国に一番近い場所にいた。

 内なる欲望の圧力に苛まれ続けた己の『理性』だけは、生殺しの生き地獄を味わっていたのは言うまでもない。

 

 

――――――

 

 

【幽戯】(中)へ続く。


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