黒ずくめの魔戒騎士   作:Hastnr

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5:【想剣】

【想剣】

 

 

――――――

 

 魔戒剣。

 最強の魔戒騎士・黄金騎士”牙狼”を始めとして、最も多くの魔戒騎士が得物とする武具。

 細かなバリエーションの違いこそあれど、多くの魔戒剣は両刃にして細身、鍔を持たず反りのない真っ直ぐな長剣の形を取る。

 人の世を守る者達の牙たるその剣は、硬軟軽重自由自在。その刃は闇に潜む魔獣を斬り裂き、その切っ先は魔界より騎士の鎧を召喚する。魔戒騎士達にとってみれば、魔戒剣とは己が命を預ける相棒であり、騎士たる資格を示す証であり、体の延長――そして、魂の一部だと言える。

 通常、騎士とともに闘い続けた魔戒剣は、親から子へ、あるいは師から弟子へと、鎧と共に次代の騎士達へ脈々と受け継がれていく。超金属・ソウルメタルが、経年劣化や使い込みによる損傷などという常識とは縁遠い存在であることも手伝い、大半の騎士は系譜と共に受け継いだ剣を途中で変えるような事はしない。

 故に、ここ10年ほどの間で新たに()たれた『若い』魔戒剣を持っているような魔戒騎士は、それだけで『珍しい』というカテゴリに組み込まれる。

 いわんや、『受け継いだ剣』と『若い剣』の両方を持っているような魔戒騎士をや。

 

「……どう?」

 

 右手に受け継いだ剣を、左手に若い剣を構える騎士の横に立ち、リズベットは少しばかり間を置いてから問いかけた。

 

「ああ、いい感じだ」

 

 上段よりの振り下ろし。下段からの斬り上げ。逆手に持ち替え、左右より横薙ぎ二連。牽制を兼ねた回し蹴りの後、順手に持ち替えて前方に大きく踏み込みながらの突き込み。

 空気を斬り裂く鋭い音と共に、型に従った一通りの基本動作をこなし終え、騎士は――桐ヶ谷和人は、満足げに頷いた。

 静かな森の中に建つ古屋敷・通称桐ケ谷邸。その地下に設えられた石造りの広い空間は、主に二つの区画に分けられている。その片方、和人とリズが立つこの広いスペースは、鍛錬など主に体を動かすための場として利用されていた。

 

「感触はどう? 結構かっちり調整したつもりだけど」

「大丈夫。おかげで変な感じもしなくなった。ありがとな、リズ」

 

 感謝の言葉と共に微笑みながら、和人は二振りの魔戒剣を鞘へと納めた。

 昨夜の鍛錬の折り、魔戒剣を握る手を通して伝わってきた僅かな違和感。使い手たる和人本人にもうまく言語化できぬ違和感の原因――魔戒剣の刀身と柄を繋ぐ部分のごく僅かな緩み――を、魔戒法師(マスタースミス)たるリズベットは一目で見抜くと、朝一の調整(メンテ)でしっかりと解消した。

 当然、女性であるリズベットが魔戒剣を持ち上げられるわけもないため、実作業時には和人の手も借りることにはなったのだが、それは魔戒騎士と魔戒法師の間ではよく見られる光景である。

 正確に言えば、己が魂の一部を預けるに足るほどの深い信頼で結ばれた騎士と法師の間で、だが。

 

「どーいたしまして。それじゃ、残りもメンテしちゃいましょうか」

「残り?」

「決まってるでしょ。あんたよ、あんた」

 

 有無を言わさぬ様子であるき始めたリズの雰囲気に負け、和人はおとなしくその後に続く。向かう先は、地下室を構成するもう一方のスペース。全体の約3割を占めるその一室は、彼女の仕事場にして工房。

 ぎい、と低い音を立てる両開きの扉を押し開けた先に広がるのは、彼女の希望をふんだんに取り入れた作業スペース。床から天井までをぶち抜き先端が地上部に露出するほど大きな魔導火炉。しっかりと使い込まれた自動式回転砥石の側には、広々とした作業机が設置され、壁にはハンマーや金鋏など鍛造に必要な道具が手入れを施された状態でかけられている。

 壁際にある淡い色をしたカーテンで仕切られた簡易クローゼットの中には、和人達が使う魔法衣の予備がいくつかかけられ、その隣にある背の高い木棚の中には何も書かれていない八卦符の束や予備の薬草、治療用の霊薬を納めた救急箱が詰め込まれている。部屋の最奥、壁に埋め込まれた鍵付き金庫の中には、鍛造に使う金属類に加え、ソウルメタルのインゴットや霊獣の毛皮の断片といった希少品がストックされていた。

 

「そこら辺、適当に座っといてもらえる?」

「ああ」

「それと、上、全部脱いどいてね」

「あ、ああ……わかった」

 

 困惑しつつも魔戒剣を作業机の上に置き、上に着ていた物を脱ぎ始めた和人の横で、リズベットは木棚を開けて中から黒塗りの木箱を取り出す。上部に金属製の取っ手がついた、横幅50センチほどの箱。色とりどりの霊薬が入った様々な小瓶や治療用の薬草類の詰まった三段式の箱を棚から取り出し、リズは作業机の上に置く。

 黒い箱の蓋についた留め金を開け、リズは薄赤色をした液体の入った小瓶を取り出すと、中身を数滴、自分の魔導筆の穂先に振りかける。その魔導筆を炉の中で熾火状態になっていた魔導火の中に差し込むと、ブライトオレンジの炎が一瞬輝き、穂先がルビーのような紅色の淡い輝きを放つ。

 

「それじゃ、始めましょーか」

「せめて、具体的に何をするのか教えてくれないか……リズ」

「あれ、言ってなかった?」

「言ってないし、聞いてない」

 

 不満げな顔をしつつも、言われた通り上半身裸の状態で座って待つ和人の背後に移動しながら、リズベットは魔導筆を軽く振るう。霊薬のおかげでその穂先が熱を持つ事は無いが、念を入れるに越したことはない。

 魔導筆の状態を確かめながら、リズベットは和人の背中に視線を落とす。とうに見慣れた裸身と、いつまでも慣れぬその痕に意識を奪われ、つい手が止まる。

 

「リズ?」

「……あ、ごめん。簡単に言うと、邪気の浄化よ。

 こないだシリカが言ってたんだけどね、ホラーを狩る度に、体にも少しだけ邪気が溜まるんだって。

「そうなのか……なんだか、魔戒剣みたいだな」

 

 感心したような口ぶりで、和人がつぶやく。

 魔戒騎士がホラーを討滅するたび、魔戒剣にはホラーが溜め込んでいた邪気が吸収される。そのため、魔戒騎士は定期的に番犬所に通い、魔戒剣に溜まった邪気を浄化する必要がある。和人が綾の番犬所にちょくちょく顔を出している理由の一つもそれだ。

 

「と、いうわけで。それを今から浄化するから、少しじっとしてなさい」

「わかった。よろしく頼む、リズ」

「ええ。しょーがないから、頼まれてあげるわよ」

 

 憎まれ口を叩きつつ、リズベットは和人の背に筆先を滑らせ、ゆっくりとした手つきで法術の力を発揮させるための紋様を描いていく。丸い図形と、漢字に似た不可思議な文様の軌跡をなぞるようにルビー色の輝きが宙に浮き上がり、線の入り組んだ魔法陣へと変異する。

 

(――本当に、剣みたいな人)

 

 鍛え上げられた鋼の如き体に筆を滑らせながら、リズベットは内心でひとりごちる。

 幾度戦えど、傷一つつかぬソウルメタルの剣。その刀身が本来追うべき傷を肩代わりするかのように、和人の体には戦いの痕跡が刻み込まれてきた。

 左肩を貫き、右手の中に残るのは一番の古傷。右肩から左下に抜ける深い傷跡は、かつての闘いの折、シノンを庇った対価として背負った物。治療が間に合ったおかげで跡として残らなかった浅い傷、打撲痕に骨折などは、数え上げればキリがない。

 『大丈夫だって。死にそうなところは避けてるから』――などと、負傷の度に強がって笑う男の体へ筆が走ると、その肉体に蓄積された僅かな邪気が浮かび上がり、霧散していく。

 

「ねえ。和人」

「なんだ、リズ」

「……痛く、ない?」

 

 筆先が背より左肩を越え、和人の左腕を優しく撫でる。普段、袖の長い魔法衣に覆われ護られているそこにあるのは、黒々とした痛みの証。手首より肩口まで、記号めいた複数の直線で構成されたどこか奇妙な火傷のあと。

 炎に刻まれた印。

 かつて桐ヶ谷和人が受けたものと、これから桐ヶ谷和人か受けていくものと同じ。苦痛と困難を顕すもの。

 

「もう、慣れたよ」 

 

 きっと、彼は笑いながら言っているのだろう。顔の見えぬ場所にいても、その優しい声と、共に過ごした日々の経験がリズベットに教えてくれる。

 誰かを守るためなら、躊躇うこと無く地獄へと飛び込んでいく。誰かを守れるのなら、いくらでも傷を背負う。そんな無茶ばかりする魔戒騎士が、せめて闘いの中ですり減り折れてしまわないよう、常に万全の状態に保つ。

 それは、誰にも譲れぬリズベットの大切な仕事だった。

 

「――ま、こんなとこかしら。もういいわよ、和人」

 

 終わりの合図代わりに、硬く締まった和人の背をぽんと叩く。和人は軽めに体を伸ばしながら立ち上がると、作業机の上に置きっぱなしになっていた上着を着込んでいく。

 

「溜まってた邪気はしっかり浄化しておいたから、しばらくは大丈夫なはずよ」

「ありがとな、リズ。……それにしても、なんていうか、いきなりだな。

 剣はともかく、俺の体の浄化なんて今までしたことなかっただろ?」

「仕方ないでしょ。あたしだって、魔戒騎士の体に邪気が溜まるなんて、こないだ始めて知ったんだから。

 ホラーの出現頻度だって、最近妙に増えてるし……それに」

「それに?」

 

 元の黒ずくめ姿に戻り、顔に疑問符を浮かべながら振り返った和人と、少しばかりの憂いを含んだリズベットの視線が交錯する。

 

「今日、あの日(・・・)でしょ。一応、できることはしておかなきゃ、ってね」

「……そうだな。悪い、リズ。いつも気を使わせちゃってさ」

「ふーん、悪いとは思ってるんだ……だったら、ね?」

 

 その心同様、黒い衣で全ての傷を覆い隠す若き騎士。言葉にできない想いを視線に込めて上目遣いで見つめれば、黒い両腕が桜色の魔戒法師を静かに抱き寄せる。

 

(暖かい……)

 

 触れ合った体を通して伝わるのは、彼が生きている証。

 いつか、この熱を永遠に失ってしまう日が来るのかもしれない――ホラーとの戦いに征く騎士を見送るたびに、そして、ホラーと戦うその姿を側で見るたびに、リズベットはそんな恐れを抱く。

 それを口に出して伝えたことはない。だが、リズベットが恐れを抱くたび、和人はきまって彼女の望むやり方で祓ってくれる。今日という日でも、それは変わらない。

 僅かに力のこもった騎士の両腕に守られるかのように抱きしめられ、深い安心感に包まれながら、リズベットは目を閉じると、しばしの間互いの唇を通して伝わる心地よい熱に身を委ね続けた。

 いつかこの熱が喪われるとしても、それはきっと、遥か遠い日の事だと信じて。

 

 

 

――――――

 

 

 そして、桐ヶ谷和人は死んだ。

 

 20年には僅かに届かぬその一生は、血と、傷と、闘いに彩られ、燃え散る火花の様に苛烈だった。

 魔戒騎士としてホラーを狩り、闇の中より人を護ることに一生を捧げた男。その死に顔は、遊び疲れて眠る子供のように安らかで、いつもの黒衣をまといベッドに仰向けに横たわるその姿は、死人とは思えない程に瑞々しい。

 真っ白なシーツが敷かれた、広々としたキングサイズのベッド。死の眠りの床についた黒い騎士の隣に腰を下ろし、じっと寄り添いながら、桜色の髪をした魔戒法師は死人の白い頬に指先でそっと触れる。

 

(――冷たい)

 

 指先に伝わる、生気の無い冷えた肌の感触。研ぎ澄まされた鋼の刃とは違う、悲しみを呼び起こす冷たさ。

 瞼は硬く閉じられ、呼吸することを忘れてしまった体は仰向けのまま微動だにしない。それでも、もし。彼女が一言――いや、十言くらい声をかければ、和人はいつものように眠い目をこすりながら起き上がり『……おはよう、リズ』と言ってくれそうな――。

 

「……なに黄昏れてるのよ」

「あら、シノン」

 

 呆れかえったような声を背後から受け、彼女は――リズベットはゆっくりと振り返った。

 その視線の先にいるのは、美しい蒼色の髪をした少女・シノン。この家に暮らす、もう一人の魔戒法師。声音同様、『何やってるんだか』とでも言いたげな呆れの篭った視線をさらりと受け流し、リズはベッドの上から降りる。

 

「そりゃあ黄昏れたくもなるわよ。なにせ、和人が死んじゃったんだから。

 ああ、和人。どうしてあなたは死んでしまったの……」

「はいはい」

 

 よよよ、と手弱女のように振る舞うリズベットを冷静にスルーしながら、シノンは後ろ手に扉を閉めると、ゴシック調の透かし装飾が施された黒い丸いテーブルの側に置かれていた椅子を引き、軽く頬杖をつきながら座る。

 床面積は広い割に、元々はベッドと和人の個人用執務机ぐらいしか無く非情に殺風景だったこの寝室も、リズベットとシノンがあれやこれやと家具や装飾品を足していったおかげで、今ではそれなりに賑やかだ。この丸テーブルもそうだが、全体的に黒いカラーリングの品が多いのは部屋の主のこだわりの表れとも言えるし、儚い抵抗の痕跡とも言える。

 

「それで、リズ。あいつ、いつ頃生き返るの?」

「早かったら午後イチ、遅かったら明日の朝だって」

 

 シノンの問いに平然と答えながら、リズもまた椅子を引いて静かに腰を下ろすと、ベッドの上で死んでいる和人になんとなく視線を向ける。

 

「思ったよりばらつくのね……吸われる命は、一日分なんでしょ?」

「そのはずなんだけど……ユイちゃんも、これが初めてのお食事だからよくわからないんですと」

 

 桐ヶ谷和人は死んだ。

 『30日に1度、1日分の命を食事として与える』という、ホラー・ユイと交わした契約――それを果たす最初の日が、まさに今日であったがために。

 契約に従って自らの命をユイに与えるべく、和人は30分ほど前からこうして死んだように眠り――否、実際に死んでいた。鼓動は止まり、呼吸は行われず、瞼の下の瞳孔は大きく開いたまま。無論、ユイの食事が終われば無事に息を吹き返すはず(・・)なのだが、今は仮死状態という言葉が裸足で逃げ出すほど完全なる死の中にある。

 ちなみに、和人の首にかかった魔道具に魂を預けているユイも、初めての食事に集中すべく自らの意識レベルを人間で言うところの熟睡に近い状態に落とし、明日奈の部屋にあるベッドの上で眠っていた。

 

「そんな心配しなくても、ちゃーんと生き返るから安心しなさい。シノン」

 

 ベッドの上で横たわる和人から視線を外そうとしない年下の魔戒法師を、ちらりと横目で見ながらリズベットはつぶやく。

 

「……別に、心配なんて」

「してるでしょ?」

「…………してるけど」

「わかりやすいのよ、こういう時のあんたって。和人ほどじゃないけど」

 

 全身から『不安』のオーラを放っていることに気づいていないシノンを、ここぞとばかりにからかう。こうまでわかりやすいのは、かつて彼女を庇って和人が大怪我をした時と、今のシノンの様子がよく似ているから。ひどく取り乱していないという点を除けば、だが。

 リズにとって、ある意味では妹のような存在である彼女は、彼女自身が思っている以上に心配症だ。援護役として和人と共にホラー狩りに出向く機会がリズ以上に多く、命がけで戦う彼の姿を近くで見続けてきた事もその一因なのだろうが――せめて自分と同じ程度には自覚していてもいいだろうと、リズは考えていた。

 そして、心配性なのはどうもシノン一人ではなかったようで。

 

「――明日奈さーん。扉の前で入ろうか入るまいか悩んでる結城明日奈さーん。

 そんな所で突っ立ってるくらいなら、さっさと入ってきたら?」

 

 扉の向こうへリズが声をかけると、躊躇うような数秒の間を置いて、外側から寝室の扉がゆっくりと開かれる。そこから困惑と気まずさをたっぷり含んだ苦笑いと共に顔を覗かせたのは、誰あろう結城明日奈。

 不安を隠しきれていないその気配は、扉を隔てていてもリズにははっきりと分かってしまった。

 

「お、お邪魔します……」

「どーぞどーぞ」

 

 おずおずと部屋へ足を踏み入れる明日奈を、リズは最後に残った一席へと手招く。リズベットとシノンの間に位置するその席は、普段この部屋の主が座っているもの。

 死の眠りについたままの和人へ、しばしの間シノン以上に不安そうな視線を向けた後。明日奈はようやく招きに応じ、背もたれの高い椅子に腰を下ろした。

 『女三人寄れば姦しい』――などと昔からよく言うが、実際に女三人集まったこの場は意外な程に静かだ。女三人の側に死体が一つあり、その死体に意識も視線も向いてしまう状況下では仕方ないのだが。

 どこか重苦しい雰囲気を打破すべく、リズは努めて明るいトーンで明日奈に話しかける。

 

「そ・れ・で。明日奈もやっぱり、あいつが心配になって様子見に来ちゃったクチ?」

「……うん。キリトくんも、ユイちゃんも、大丈夫って言ってたけど……やっぱり気になっちゃって」

「なるほどねー。『どっかの誰か』と違って、素直でよろしい」

 

 視界の端で、蒼い髪をした『どっかの誰か』が一瞬だけむっとした表情を見せたのは見逃した事にしておき、リズは明日奈を安心させるべく、余裕たっぷりの微笑みを向ける。

 

「大丈夫よ、そんなに心配しなくても。

 今までホラーと契約した魔戒騎士の中で、契約したホラーに喰われて死んだ騎士は一人もいないから。

 そうでしょ、シノン?」

「ええ。特に、ユイちゃんなら心配ないわね。

 うっかり『食べ過ぎ』たりしないように、『誰かさん』が一昨日からずっと魔導具を調整してたもの。

 しかも今朝、和人の体に溜まった邪気まで全部祓ってみたいだし。

 ――そうでしょ、リズ?」

 

 うっ、と。思わぬ反撃に、リズの言葉が詰まる。

 やり返してやったとばかりに含みのある笑みを向けてくるシノンの視線から逃げれば、同じように何か言いたげな笑みを浮かべた明日奈の視線とぶつかる。逃げられる場所はどこにもない。

 小さくため息をつきながら肩をすくめたあと、リズは観念して両手を上げた。

 

「はい、はい。あたしもお二方に負けないくらい、あの無茶で無鉄砲なバカの事を心配しておりました。

 ……これでよろしいでしょうか? お嬢様方」

「そういう事にしておきましょうか、明日奈」

「ふふっ、そうだね。みんな、キリトくんのことが心配でしょうがないってことで」

 

 リズの降伏宣言を受け、シノンと明日奈が揃ってくすくすと笑うと、憂いの空気に満ちていた寝室にようやく姦しさが訪れる。

 結局、ここにいるみな――その剣に護られた彼女も、その闘いを見つめ続けた彼女も、その帰りを待ち続けた彼女も、桐ヶ谷和人の事を心配しているのだ。平穏な人生を歩む道を捨て、無辜の人々のために剣を執ると決めた傷だらけの黒い騎士を。

 

「……ねえ、シノのん」

「なにかしら、明日奈」

「キリトくんって……やっぱり、昔から無茶ばっかりする人だったのかな?

 ホラーと戦う時、とか……」

 

 明日奈の問いに、シノンはその細い顎に手を当ててしばし何かを考えるような素振りを見せた後、やがて視線をこの場にいるもう一人の人物に向ける。

 

「そういう事は、私よりリズに聞いた方がいいと思うわ」

「リズに?」

「ええ。なにせこの人、和人が初めてホラーと戦った時、その場にいたんですって。

 ね? リズ」

「そうなの、リズ?」

 

 蒼と榛、二色の双眸が、桜色の魔戒法師をじっと見つめる。片や興味深げに。片や真剣に。

 なんだかんだで、意外とちょうどいい機会なのかもしれない。

 タダで教えてやるのはさすがにシャクなので、情報量代わりに美味しい紅茶と明日奈お手製ケーキの給仕を要求しつつ、リズベットは大いに語ってやることにした。

 黒の騎士・桐ヶ谷和人との出会いを。

 

 

――――――

 

 

 桜色。

 青き嵐吹く谷を守る騎士と、火の群れなす里から来た法師の間に生まれた『彼女』に、発現した色。

 15歳になったばかりのあの日。大きな瞳と、少しだけ外ハネのある肩の上まで伸びた髪がその色に染まった時。『彼女』は新たな名を持つ事に決めた。

 16歳の誕生日。『彼女』は、『リズベット』になった。

 

(名前負けしてないよね、あたし……)

 

 首から下げたペンダント、その先端についた白い石を指先で弄びながら、『彼女』――リズベットは内心で独りごちた。

 それは、自身が初めて作り上げたソウルメタル製の魔導具(アクセサリー)。トップ部にあしらったのは、白竜晶(クリスタライト)と呼ばれる水晶の一種を親指大のサイズで加工したもの。

 雪のように白く、竜の鱗のように煌めくその水晶には、古くから闇を打ち祓う魔除けの力が宿ると言われているが、それはあくまで言い伝えにすぎず、魔戒法師達が使う魔導筆のように厳然たる力を宿しているわけではなかった。

 

(……なんて、ネガティブなこと考えてどーすんのよ!

 せっかく一人前になったんだから、もっとしゃんとしないと!)

 

 自分の両頬を軽く叩き、リズベットは気合を入れ直す。

 『青嵐(せいらん)の谷』――魔導具造りの名手として名高い魔戒法師達が集う隠れ里に生まれ、両親の元で修行を続けること数年。ようやく一人前の魔戒法師として認められたリズベットは、こかねてからの希望どおり、北の番犬所管轄内にある魔導具制作に長けた工房へ弟子入りすることに決まった。そこで数年、魔導具制作の(スキル)を鍛え、ゆくゆくはあの阿們法師のように一端の魔導具職人(マスタースミス)として独り立ちする。

 そして、いずれは母と同じように、自分も――そんな将来像を、リズベットはぼんやりと描いていた。

 今日はその工房へ出立する日――なのだが。

 

(あい)の蔵、(あい)の蔵っと……)

 

 指令書に在った名前の蔵を目指し、リズベットは北の番犬所内の白い廊下を、一人で黙々と歩いていた。

 番犬所の神官より口頭で下された指令。半分ほど聞き流してしまった内容をざっくり要約すると『工房からソウルメタルが尽きたとの連絡があった。どうせ工房に行くのだからついでに届けてこい』という、いわゆる荷物運び。

 自称・工房期待の新人に与えられる初任務がお使いミッションなのはどうかと思うが、指令は指令だ。初めて任された仕事でもあり、失敗はしたくない。

 命令を承服したリズベットは、ソウルメタル・インゴット――加工しやすいようインゴット状に成形されたソウルメタル――を受け取るために、こうして番犬所の中を歩くことしばし。どこか幻想的な雰囲気が漂う、魔導火に照らされた廊下を通り抜け、リズベットは藍の蔵へと続く扉を開けた。

 

(――誰か、いる?)

 

 薄暗い蔵の中。己以外に誰かが蠢く微かな気配を感じ取り、リズベットは僅かに身を竦ませる。

 ソウルメタルは重要かつ貴重な品であるため、保管には気を配る必要がある。リズベットが受け取りに来たソウルメタル・インゴットも、番犬所の深奥にあるとされる極秘の保管所にしまい込まれた備蓄を、今回必要とされる分だけを選び取り、藍の蔵のような小倉庫に転送するという形を取っている。その小倉庫も立ち入りを許されるのはリズのように運び手として指名された者だけであり――とどのつまり、リズ以外の誰かがいる時点で異常事態と言えた。

 

(まさか……泥棒!?)

 

 仮にもここは番犬所。ホラーの出現は考えにくいとなると、残る可能性は一つ。

 誰かが、ソウルメタルを盗もうとしている。

 

(どうしよ……戻って、神官に連絡して……でもその間に逃げられたら……。

 ……ああ、もう!)

 

 半ば自棄になりながら、リズは懐から魔導筆を抜き出すと、両手でしっかりと握りしめる。足音が響かないよう慎重な足取りで歩を進め、背の高い金属棚の影に身を隠すと、慎重に頭だけを棚から出して気配の方向に視線を向ける。

 ――いた。

 蔵を包む薄暗さの中、その暗さに溶け込んでしまいそうな黒い人影が、ソウルメタルのインゴットを一つずつ棚から抜き出し、足元に置いた革袋の中に詰め込んでいる。

 頭の先から踵まで、黒一色。背丈は自分のそれより少し上だろうか。リズに見えるのは後ろ側なので確実なことは言えないが、年齢も己とさほど変わらないように見える。

 黒ずくめの出で立ちの中で、一際目を引くのは、その背に掛けた黒鞘黒柄の長剣。右肩から斜め下へ背負ったそれは、恐らくは魔戒剣。

 つまり、盗人の正体は――魔戒騎士。

 

「そっ――そこまでよ、泥棒! 手を上げなさい!!

 少しでも動いたら、丸焼きにするわよ!!」

 

 先端に炎の力を込めた魔導筆を突き出すように構えながら、リズは棚の陰から躍り出る。一方のソウルメタル泥棒はといえば、リズの必死の叫びに動じるようなこともなく、棚のインゴットへ伸ばしかけていた手を止めた。

 

「――『手を上げろ』か、『動くな』か、どっちかにしてくれないか。

 両方は、さすがに無理だ」

「うっ、うっさいわね!」

 

 飄々とした調子で事実を指摘しながら、泥棒はおとなしく両手を上げる。

 

「……ゆっくり、こっち向きなさい。さもないと」

「丸焼きにするっていうんだろ? 言うとおりにするから、それは勘弁してくれ」 

 

 追い詰められているはずなのに、そんな様子は微塵も感じさせないまま、泥棒はリズの指示通りゆっくりと振り返る。

 外光の入らぬ蔵の薄暗がりの中でも、その姿はリズの目にはっきりと映った。

 その顔に浮かぶのは、困ったような優しい笑み。年の頃は自分と同じくらいだろうか。羨ましくなるくらい整った造型の中には、思っていたとおりの少年らしい幼さと、思っていた以上の精悍さが兼ね備えられている。

 その身を覆う黒一色の魔法衣は、体格に合わせてサイズ調整している以外は一般的な魔戒騎士達が纏うそれとほとんど同じ。当然ながら、その下に隠された体は見えない――が、これでも魔戒法師の端くれ。その体が、厳しい鍛錬の果てに鍛え上げられ、そして未だ完成に至らぬ成長過程にあることくらいはリズにもわかる。

 その背に負うのは、漆黒の鞘に覆われた魔戒剣。鞘同様に黒い色をした柄から少し視線を逸らせば、降伏のサインとして上げられた右手、その軽く開かれた掌に刻まれた痛々しい傷跡が目に入る。

 

「俺は桐ケ谷和人。事情を説明させてくれないか。何か誤解されてるようだから」

「事情って……ソウルメタル泥棒に、どんな事情があるっていうのよ」

「だから、それが誤解なんだって。証拠を見せるから、それ、撃たないでくれよ」

 

 桐ケ谷和人と名乗った少年は、魔法衣の懐にゆっくりと右手を差し込み、薄青色をした封筒を取り出す。すでに封蝋が破られたそれは、番犬所の敷地外に出ると同時に消滅するよう術が施された簡易な指令書。北の番犬所の紋章が描かれた封筒を、和人はゆっくりと床に置き、そのまま床の上を滑らせてリズの足元まで届ける。

 

「君もだろうけど、俺も指令を受けてここに来てる。確かめてくれ。

 ……読んでる間に斬りかかったりしないから」

 

 そう言って、和人は両手を上げたまま再びリズに背を向けた。

 和人が振り返らないか慎重に警戒しつつ、リズはつま先数センチ手前で止まった封筒を拾い上げ、中に入ったままの指令書を取り出すと、中身に視線を落とす。

 魔導文字で記された文面は、ざっと見た限り偽造品というわけではなさそうだ。

 

(『魔戒騎士・桐ケ谷和人に北の番犬所よりの護衛の任を伝える。

 藍の蔵よりソウルメタル・インゴットを受領し、魔戒法師リズベットに合流せよ。

 合流後は彼女に同道し、護衛の務めを果たすべし』……って、

 ………………もしかして、やっちゃった? あたし……?)

「そろそろ、いいか?」

 

 指令書から視線を上げれば、首だけを振り返らせてこちらを見ている和人の横顔が見える。その困ったような視線と自らの視線が交錯し、リズは慌てて筆に込めた法力を解く。

 

「ご、ごめんなさい! あたし、てっきり……」

「いいよ、別に。自分でも、不審者っぽく見えるって思ってたしさ」

 

 深々と頭を下げようとするリズを苦笑しながら押しとどめ、和人は残っていたソウルメタル・インゴットを革袋に詰め終えると、左手でひょいと持ち上げそのまま左肩へと担ぎ上げる。

 

「それじゃ、俺はもう行くから」

「行くって、どこへ?」

「指令書に書いてあっただろ? リズベットさんっていう人を探して、こいつを……」

「…………その、リズベットって……あたしなんだけど……」

 

 きょとんとすること、数秒。事情を理解した和人が納得の表情を浮かべる一方、リズは今度こそ深々と頭を下げて今までの非礼を詫びる。

 気まずい。ああ、気まずい。一人前になって初めての任務。同行者がいたことも見落とし、挙句の果てにその同行者を泥棒だと誤認し、攻撃しかけた。これからどんな顔をして、工房までの旅路を行けばいいのか。

 

「顔、上げてくれよ。リズベットさん」

 

 声に導かれるようにリズベットがおずおずと顔を上げれば、肩に荷物を担いだまま、どこか困ったように笑う和人の顔が見える。

 

「ちょうどよかった。探す手間が省けたよ」

「……怒って、ないの?」

「え? どうして、俺が怒る必要があるんだ?」

「だってあたし、あんたのこと泥棒扱いして……」

「それだけだろ? 大したことじゃないし、さっさと行こうぜ」

 

 そう言って、和人はソウルメタル・インゴットが詰まった革袋を軽く担ぎ直すと、蔵の出口を目指してすたすたと歩き始めた。自然体そのもの挙措に、リズの非礼を皮肉っているような様子は欠片もない。

 

(……すごい、お人好し……?)

 

 名誉と誇りを重んじ、非礼にはそれ相応の応報を以て対する。魔戒騎士という存在に対して抱いていたそんなイメージが、リズの中でがらがらと音を立てて崩れていく。

 その背を思わず見続けてしまったリズだったが、蔵の出口の前で足を止めた和人が振り返ったところでようやく正気を取り戻すと、先を行く騎士に追いつくべく急いで歩きだした。

 

 

――――――

 

 

「…………うそでしょ」

 

 日が中天を過ぎた昼下がりの一時。

 リズベットの口から零れ落ちたのは、絶望の色に満ちた一言だった。

 

「ひどいな、これは……」

 

 ここまで担ぎ続けてきた革袋を地面に置きつつ、桐ヶ谷和人も彼女の言葉に同意する。

 北の番犬所を離れ、魔界道を抜け、木々が鬱蒼と生い茂る人里を遠く離れた山道を昇り続けること約3時間。歩き通しの上り道に体力的にも精神的にもうんざりしてきた頃、ようやく開けた所に出た――までは、いいのだが。

 

「どうすりゃいいってのよ、これ……」

 

 崖際にわずかばかり身を乗り出しながら、リズベットはため息を漏らした。

 目の前に広がるのは、山道を裂くように大きく広がった峡谷。そして、その峡谷を渡るための橋――だったはずのもの。恐らくは吊橋に簡易な橋脚を合わせた形態だったのであろうその橋は、向こう岸に残った僅かな橋桁とロープの切れ端、それに崖のちょうど中間に立つ細い木の支柱を残し、何処かに消え去っていた。

 崖の間はざっと数十メートルはあるだろうか。底は――恐ろしくて下を見ることはできないが、水が流れる音がかすかに聞こえてくるあたり、恐らく川になっているのだろう。いったいどれだけあるのか、考えるだけで肝が冷える。落ちようものなら100%死ぬのは間違いない。

 

「工房へのルートは向こう岸にあるんだよな? 回り道とか、無いのか?」

「下流の方まで行けばあるにはあるけど、ついた頃には日付変わってるわよ……。

 今日中に到着しろって言われてるのに……」

 

 ソウルメタルが詰まった革袋の側の地面にしゃがみ込み、リズベットは力なくため息をこぼす。ここにあったはずの橋は、崖の向こうに行くには一番の近道だったはずだ。それが使えないとなると、一旦番犬所まで戻り別の魔界道を使うのと、下流まで回り道をするのではどっちがマシか――という事を、リズベットが考え始めて10分ほどが経った頃。

 

「リズベットさん。一つ、聞いていいか?」

「……なによう」

 

 人が落ち込んでいる時に慰めもせず、さっさと姿を消してどこかに消えていた男の声が今更ながら背後から聞こえる。いじけっぷりを隠そうともせず、振り返ることもしないまま投げやりに答えるリズ。その後ろで何かをごそごそと弄くる音をたてながら、和人は再び口を開く。

 

「リズベットさんって、魔戒法師なんだよな? どんな法術が使えるんだ?」

「どんなって……基本的な術と、あとは……魔導具制作に関係したものをいくつか……」

「なるほど。昔、修行仲間に、物の耐久性を上げる術があるって聞いたんだけど、それは使えるか?」

「そりゃあ使えるけど……壊れた橋を治せるような術じゃないわ……よ……?」

 

 先程から和人の言葉の合間に聞こえてきた、ごそごそとという音が気になり、リズベットはゆっくりと振り返る。その視界に映るのは、ぐねぐねとうねりのたくる茶褐色と深緑の塊のようなもの。

 

「……なに、それ?」

「何って、蔦だけど。そこら辺にどっさりあったから、もらってきた」

 

 蔦。

 山の中などによく生えている細長い紐状の植物。

 なるべく太いものをチョイスしてきたと宣いながら、和人は蔦を束ね二重にねじり上げるようにしながら一本に撚り合わせていく。塊の大きさからすると、まっすぐ伸ばせば優に50メートル分はあるだろうか。更に端と端同士を硬く結び終え、和人はその塊を担ぎ上げると、近くに生えていた太い木に向けて歩きだした。

 

「リズベットさん。これに、耐久強化の術をありったけ頼みたい」

「え? ええ、いいけど……」

 

 木の幹に蔦のロープを結びつける和人の横で、リズベットは魔導筆を取り出すと、言われるままに蔦へ法術をかける。物の耐久度を上げる法術は、魔導具作りの道を行かんとする魔戒法師なら誰でも習う術の一つ。達人が使えば、ただの薄紙一枚が銃弾をも通さぬ強度を持つようになるという。魔戒騎士や魔戒法師がまとう基本装備である魔法衣にも、この術がかけられる事で戦闘に耐えうる強度が確保されている。

 リズの強化術で登山用のロープ程度の強さを持つようになった蔦の塊、その端を木に硬く巻きつけたあと。和人はもう一方の端を掴んで全体をドーナツ状に丸くまとめて地面に置き、更に端の一部を左腕に軽く巻きつけながら握る。

 

「術はかけたけど……そんなの、どうするのよ?」

「一つ、アイデアがある。今日中に工房に着けるかもしれない」

「ホント!?」

「ああ。――ここを走って跳ぶ」

 

 真顔。

 あまりにも真顔。

 まっすぐに崖の向こうを見つめる視線と共にあるのは、冗談でもなんでもないことを示す、真顔。

 

「……………………バカ?」

 

 あまりにありえない提言に唖然とさせられ、リズベットはそう口にするので精一杯だった。単純に考えれば誰にでもわかる。できるわけがない。向こう岸までどれくらいあると思っているのだろうか、この男は。

 そんなリズベットを横目に、和人は蔦ロープのたわみを確認しながら崖際より20歩ほど後ろに下がる。

 助走距離を十分にとり、両の足首を1,2度、軽く回して、体を軽く伸ばした後。

 

「馬鹿かどうか――試してみるか」

 

 ようやく思考が現実に追いついたリズベットが止める間も無く、和人は駆けた。

 解き放たれたドラッグカーのように急加速し、闇夜を走るバイクのテールライトのように深緑の軌跡を残しながら、黒い影は崖際へと向けて駆け抜けていき、そして――。

 

「――ふッ!」

 

 跳んだ。

 躊躇いも、迷いも、恐れもなく。そうあるべきだと決められていたかのように、跳んだ。

 引き絞られた弓から放たれた矢の如く、十二分な加速と理想的な踏切の連携により、和人の肉体は天へと跳び立った。

 

「うそぉ……」

 

 ぽかんと口を半開きにしたまま、リズは目の前で起きている非常識な光景を呆然と見続けていた。

 桜色の瞳に映るのは、どこまでも蒼い空の彼方まで飛んでいってしまいそうな和人の姿。黒曜石で造られた鏃の如く、天へ向けて上昇軌道を描く漆黒の騎士。だが、重力というものは誰にでも平等に働く。放たれた矢がいずれは地に落ちるように、和人もまた山なりの落下軌道を描きながら崖と崖の間へ落ちていき――。

 

「はあッ!!」

 

 再び、跳んだ。

 崖下から伸びていた、かつて橋を支えていたのであろう細い木の橋脚。その先端を片足で踏みきり、和人はもう一度天高く跳ぶ。数秒前までの落下軌道とは真逆の上昇軌道を描き、担いだ蔦ロープを伸ばしながら漆黒の影が跳ぶ。その体が二度目の落下軌道を描き始める頃にはもう、和人の足元には固い大地が広がっていた。

 

「うっそお…………」

 

 踏み台にされた橋脚がゆっくりと傾ぎ、やがて耐えきれず倒れていく光景と、向こう岸に無事に降り立った黒い姿を同じ視界に納めながら、リズはただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 

(む、むちゃくちゃがすぎるわよ……魔戒騎士って、みんなあんななの!?

 ……って、あれ……?)

 

 彼岸の大木と此岸の大木に端と端が結ばれ、ぴんと張られた蔦のロープ。その側に立った和人が、こちらに向けて大きく手を振っている。

 何か伝えたいことでもあるのだろうか。そう判断したリズが、和人の大振りなゼスチャーから読み取った内容は、たった3つの言葉。

 

『ロープ』

『上』

『歩け』

 

「――で……で、できるわけないでしょおおおお! ばかああああああああああああああああ!!!」

 

 静かな山中に、リズの心からの叫びが木霊する。

 その木霊が3度ほど崖と山肌に反射し、驚いた鳥達の羽ばたく音がようやく消える頃。

 遠目にでもはっきりとわかるくらいに『しょうがないな』とでも言いたげな様子で肩を竦めたあと、和人はひょいとロープの上に飛び乗ると、そのままリズのいる方へ向けて歩き始めた。

 

「……あ、あはは」

 

 乾いた笑いが、音となって勝手に溢れ出す。最早、リズには開いた口を塞ぐだけの精神的余裕はなかった。

 眼下に広がるは死を免れえぬ峡谷のあぎと(・・・)。足元にあるのは蔦を繋いだだけのロープもどき。だというのに、まるでコンクリートで舗装された歩道の上を歩く時のような『歩けて当然』という態度で、しかも崖と崖の間で顔をちらりと横に向け、山々の間に広がる絶景を楽しむ余裕すら見せながら――桐ヶ谷和人はあっさりと蔦ロープの上を渡りきり、リズのいる崖の上へと飛び降りた。

 

「さてと」

「さてと――じゃないわよ! あ、あんたいったいどうなってるわけ!? なんで大丈夫なの!?」

「鍛え方が違うからな」

 

 『これなら導師と鍛錬してた時の方が100倍怖い』などと事も無げに宣いながら、和人はソウルメタル・インゴットが入った革袋を持ち上げ、2度ほど上下に動かして重さを確かめる。左肩に引っ掛けるようにして背負いながら、どこか不満げな顔のままでしばらくそうした後、今度は革袋を自分の胴側に抱え直し、両手で下から持ち上げること暫し。ようやく何か得心したのか、和人は満足気に頷く。

 

「それに、リズベットさんが術をかけてくれた蔦が足元にあるんだ。

 切れる心配しなくていい場所をただ歩くだけだぞ? 何も怖がる必要ないじゃないか」

「……よくそこまで信じられるわね。さっき会ったばっかりのあたしのこと」

「少なくとも、泥棒に立ち向かう度胸と、こっちの言い分を聞くだけの冷静さはあるって事は知ってる。

 そういうのを兼ね備えた人は信ずるに足るってのを、昔の修行仲間のおかげで知ってるからさ。

 ……あ。皮肉じゃないからな、今の」

 

 どさりと音を立て、インゴットが入った革袋を元の地面に置きながら和人は慌てて付け加える。その気まずさがにじみ出た顔が単純に面白いのと、恐らくは本心から褒められたのだという事実がこそばゆく、リズが思わず笑みを零しかけた、その時。

 手についた汚れを軽く払い落としながら、和人が不意にリズの側へと近づき――次の瞬間、リズの視界には青い空だけが映っていた。

 

「…………え?」

「じゃ、行こうか」

「えっ? ええっ!?」

「掴まってろよ」

 

 背中と膝裏に回された腕の感触が、リズに『抱え上げられた』という事実をようやく認識させる。リズにとって不幸だったのは、そう認識できたときには既に和人が蔦の上に飛び乗り、向こう岸に向けて歩き始めた後だったことだけだ。

 

「いいいいきなり、なっ、なにしてくれてるわけ!?」

「リズベットさんはここを渡れない。俺は渡れる。なら、こうするしかないだろ」

「だ、だっ、だったらせめて一言くらい――」

「言っても言わなくても、ここを渡らなきゃいけないのは一緒だろ」

「そうだけど……心の準備ってものがあるの!」

 

 わたわたと慌てふためくリズとは対象的に、和人は落ち着いた足取りで蔦の上を歩いて行く。まるで、綱渡りに挑むサーカスの芸人が持つバランサーのように――というか、まさにその通りに使われている事が、リズにはなんとなく腹立たしい。

 ここが峡谷の間でなければ――抵抗したい気持ちをぐっと堪え、リズは無茶苦茶を絵に描いたような男の腕の中に囚われたまま、せめてもの抗議の意を込めて和人の顔をじっと睨みつける。

 行きの跳躍に比べれば100分の1にも満たない速度で、帰りの徒歩よりなお遅く、それでも余裕の表情で前を見つめながら蔦の上を歩いていた和人もようやくリズの怒り顔に気づいたのか、視線をちらりと下に向けてリズベットの方をじっと見つめ返す。

 

「なによ。……っていうか、前見て歩きなさいよ。危ないじゃない」

「目を瞑ってても落ちないから、安心しろよ」

 

 足元にピンと張られた蔦は、さすがに男女二人分の体重が相手となるとぎしりと音を立てながら不規則にたわむ上、深い峡谷の合間には時折強い風が吹く。わずかでもバランスを崩し、一歩踏み外しただけで二人まとめてあの世行きというこの状況においても、和人の腕はリズの予想以上に安定している。

 なるほど、鍛え方が違うと言うだけの事はあるらしい。そうリズが納得した矢先、不意に一際強い風が吹き、思わず身をすくませたリズの胸元から白竜晶(クリスタライト)を飾ったペンダントトップが滑り落ちる。ソウルメタル製の細い鎖がリズの柔肌を撫でながら、ペンダントトップを重力に従って首の後へと運ぶ。

 リズは左手を首元に伸ばし、チェーン部を引っ張りながらペンダントトップを元の位置に戻す。もしこんな所で留め具が外れてしまったら回収の見込みなど無いだけに、その手つきは慎重そのものだ。

 

「……もしかしてそれ、リズベットさんが作ったやつか?」

 

 身じろぎしたリズに釣られたのか、和人の視線が白い水晶を飾る魔道具に落ちる。

 

「そうだけど、文句でもあるの?」

「まさか。なんか、いいなって思ってさ。

 俺は魔道具の事はよくわからないけど、なんていうか……『職人』って感じがするっていうか」

「ふふっ。何よ、それ」

 

 こんな高い所を男の腕に抱えられて運ばれているせいか、元の位置まで戻した時になんとなく手放し難くなってしまったペンダントトップを、リズは左手の指先で弄ぶ。

 

「あたしの故郷……青嵐の谷に伝わる魔除けのお守りなのよ、これ」

「へえ、お守りなのか。綺麗な色してるな」

「でしょ? これが作れるようになったら一人前――って言われるくらい、作るのが難しいのよ。

 素の状態だと削れやすい白竜晶(クリスタライト)を加工して、何度も折り重ねたソウルメタルに継いで安定させなきゃいけないんだから。

 一生に一つしか作れない、あたしの魂と同じくらい大事なものよ」

「本当にすごいな……。ところで、どうして一生に一つしか作れないんだ? 

 白竜晶(クリスタライト)が、もう手に入らないとか?」

 

 怪訝な顔をした和人の問いに、リズベットは首を横に振る。

 

「青嵐の谷に暮らす子供はね、10歳になった時に自分の道を決めるの。

 魔戒騎士になるか、魔戒法師になるか。あるいはどっちも諦めて里を離れるか」

「それでリズベットさんは、魔戒法師の道を選んだのか」

「そうよ。だからこのお守りは、あたしがあたしの道を選んで、ちゃんと一人前になった証。

 これをもう一つ造るのは、自分の道を曲げるのと同じ。だから、同じものはもう造らない。

 ……うちの里に伝わる、ふるーい伝統よ」

「そっか……ちゃんと、自分で自分の道を決めててえらいな。リズベットさんは」

 

 ようやく峡谷の向こう岸にたどり着き、和人は蔦ロープの上から降りると、固い地面の上にゆっくりとリズを下ろす。

 いわゆる『お姫様抱っこ』と呼ばれる状態で抱き上げられていたことにようやく気付き、今更ながら気恥ずかしくなってきたリズの様子に気づいているのかいないのかはわからないが、和人は地面に膝をつきながら腕を傾け、リズが立ち上がりやすいような角度で地に足をつけさせた。

 

「じゃあ、リズベットさん。俺はインゴットを取ってくるから――」

「待って」

 

 峡谷の間を再び往復しようとする和人を止めつつ、リズベットは懐から魔導筆を取り出す。霊獣の毛で造られた白い穂先を崖の向こう側に向けつつ、目的のもの――和人が置いてきた、ソウルメタル・インゴットが詰まった袋を探すと、狙いを定めて穂先を向ける。

 

「――『ノゴメ』っ!」

 

 それは『回収』の力を持つ、魔戒法師なら誰もが習う基本の術の一つ。

 法力を込めて呪文を唱えれば、視線の先で革袋がふわりと浮き上がり、そのままリズベットの方に向けて飛んでくる。筆を懐にしまい込み、リズは両手を広げる。そよ風に流される風船のようにゆったりとした速度で宙を漂ってきた革袋を、胸元で抱え込むようにして受け止めると、予想していた以上にずしりと重たい手応えが還る。

 

「持つよ、リズベットさん」

「……リズ」

「え?」

「だから、リズでいいわよ。

 あんたみたいに無茶苦茶なヤツに『さん』付けされると、色んなとこがむず痒くなってしょうがないのよ」

 

 和人が伸ばす手の中に、なんとか革袋を受け渡す。リズベットから受け取ったかなり重い革袋の口を掴み直しながら、和人はあっさりと左手に持ち替えると、そのまま軽々と肩に担ぎ上げる。

 リズ自身、魔戒法師として日頃からそれなりに筋力は鍛えているつもりではあるが、この黒ずくめの実力(ステータス)は、それを遥か高みから見下ろすくらいの所にあるのだろう。

 

「じゃあ……遠慮なくそうさせてもらうよ。俺の事は好きに呼んでくれていい。

 改めてよろしく、リズ」

「よろしく、和人」

 

 そういえば、こいつの名前を呼ぶのはこれが始めてだった気がする。しかも、それがいきなり呼び捨てになってしまうとは。

 リズが今更ながら気付いた事実に、和人の方は気づいているのかいないのか。右に魔戒剣を、左に革袋を背負い、数歩先を歩く和人を追いかけながら、リズもまた工房へと続く山道を登り始めた。

 

 

――――――

 

 

 魔戒法師の工房。その有り様は、いくつかのタイプに分けられる。

 最もポピュラーなのは、通常の商店や民家といった施設と同じ敷地内あるいはその地下に、工房設備を備えた別室を設けたタイプ。次に多いのは、工房が住居施設とほぼ一体化しているタイプ。この類は、青嵐の谷のような魔戒騎士や法師が集う隠れ里の中によく見られる。最近では、大型のワゴン車、あるいは鞄一つに必要な道具を詰め込み、機能を限定した移動可能な工房として用いる者もいる。

 リズと和人、二人が目指してきた工房もまた、最もポピュラーなタイプを踏襲していた。

 

「……出迎えとか、無いんだな」

「そう、みたいね……」

 

 崖を越え、更に山道を歩き続けること1時間以上。既に日は傾き、輝くオレンジ色の残光が辺り一面を照らしている。

 万一迷い込んできた民間人の目をごまかすための位置偽装用結界。三重に張られたそれを、リズの術で通り抜けた先にあったのは、山の中腹を切り開いて造られた魔戒法師の工房施設。

 小さな山門の先には土の露出した広場が造成され、その周囲を囲む木々の間に隠れるように、一昔前のリゾート地によく建てられたログハウスに似た住居が5件ほど立ち並んでいる。また、鍛えた魔道具の実験場なのか、広場の端にはカカシじみたダミー・ターゲットが数体、岩と岩の間の地面に突き立てられていた。

 動くものは、何もない。

 

「ま、みんな見えない所で頑張ってるんでしょ。工房って、だいたい地下にあるし」

「へえ。そういうもんなのか」

「行きましょ。工房の入り口は……たぶん、あれね」

 

 立ち並ぶ住居群とは広場を挟んだ反対側に建てられた、背の低い石造りの四角い構造物。地面から斜めに生えたようなその構造は、金属製の大きな扉と共に、それが地下へと続く道の入口であることを如実に示している。両開きの重たい扉、その片方をリズが両手で、和人が片手で開ければ、案の定そこには下り方向へ続く階段の姿があった。

 扉を開けた途端、外気よりわずかに熱を持った空気が溢れ、リズの肌と髪を擽る。

 

「やっぱり、工房はこの先ね」

「そうなのか? しかし、暑いな……」

「場所が場所だからね。和人、いいものあげるから、手、だしなさい」

 

 怪訝な顔をしつつ、和人は言われるがままに右の手を伸ばし、拳を開いて掌を見せる。リズは魔法位の中に携帯していた小瓶を一つ取り出すと、中に入っていた海のように青い色をした液体を一滴、和人の掌へ向けて落とし、更にもう一滴を自分の手の甲に落とす。

 傷跡のある掌と、傷一つ無い手の甲に触れた瞬間、青い液体は染み入るように薄く広がり、そしてすぐに消えていく。

 

「魔導水よ。本当は消火とか、耐火目的で使うものなんだけど……どう? 涼しくなったでしょ?」

「……すごいなこれ、全然暑くない。こいつは助かるよ、リズ。ありがとう」

「どーいたしまして」

 

 小瓶を懐へと戻し、リズは階段を降り始めた。数段遅れて、革袋を担いだ和人が続く。

 先程まで感じていた熱気は魔導水の効能によって中和され、歩きやすさは段違いだ。両開きの鉄扉を共に閉じ陽の光が遮られると、壁に仕込まれていた術式が発動し、エメラルドグリーンに燃える魔導火が篝火となって足元を照らす。

 

「しかし、なんでわざわざ地下に工房を作るんだ? ここなら、別に隠す必要もないと思うんだけどな」

「そこは、ほら。事情があんのよ」

「例えば?」

「作業環境の安定とか、万が一何かあった時、被害を最小限に抑えるためとか、色々あるけど……一番はやっぱり、ソウルメタルを扱ってるからね」

 

 今ひとつピンと来ていない。そんな雰囲気を背後から感じ取り、リズはそのまま言葉を続ける。

 

「和人。あんた、『金狼の伝説』は知ってる?」

「『未だ魔戒騎士も魔戒法師も無き時代。金色の狼が魔獣に立ち向かい、その腕を噛み千切った』

 ……っていう、伝説だろ。魔戒騎士なら誰でも知ってる」

「じゃあ、その噛みちぎられた腕がどうなったかは?」

「腕……? それは……知らないな。どうなったんだ?」

「伝説には続きがあってね。魔獣の腕は、火山の噴火によって吹き出たマグマと融合し、そして凝固したの。

 その凝固物を魔獣――ホラーは恐れた。だから大昔の騎士達は、その欠片をお守りにしたんだって。

 そ・れ・で、マグマと融合したホラーの腕を研究して生まれたのが……」

「――ソウルメタルか!」

「だーい正解。

 だからソウルメタルを扱う工房は、マグマの力を借りて術を強化する為に地下とか山に作られる事が多いの。

 そうできない所とか、そうしてない所も結構あるけど、理想的なのはやっぱりこういうとこね」

 

 リズは振り返り、得心した表情を見せる和人に頷きながら、長く続いた下り階段の底に降り立つ。そうして、目の前にある魔戒文字で飾られた重たい金属製の扉をゆっくりと開ければ、鉄と火が織りなす独特の匂いと共に魔導具工房の光景が目に飛び込んでくる。

 木炭を燃料に、マグマの力を取り込んで強化されたブライトオレンジカラーの魔導火が煌々と燃え輝く、平たい皿のような形をした巨大な炉。使い込まれた傷が無数に残る広々とした作業机に、丁寧に磨かれた砥石。八卦符の束。元は洞窟かなにかだったらしく、ほとんど天然の状態に近い石造りの空間は地下とは思えない程に広く、天井も非常に高い。階段が長かったのも頷ける。

 閉ざされていた鉄扉を抜け、リズと和人が工房内に入ってきた事に気づいたのか、室内のあちらこちらで作業を行っていたと思しき魔戒法師達がゆっくりと立ち上がる。数は10人ほどだろうか、熱に耐えるためか皆一様にフードを深く被ったまま言葉を発することも無く、ゆっくりとこちらに向けて歩いてくる。

 

「ありがとね和人、ここまで付き合ってくれて。あとは、あたしが――」

 

 恐怖。

 ソウルメタル・インゴットが入った革袋を受取り、和人を任務から解放しようと振り返ったリズベットが最初に抱いたのは、そんな感情だった。

 視界に飛び込んできたのは、革袋を足元に落とし、背負った魔戒剣の柄に右手を添えた和人の姿。その表情は堅く、全身から放つ剣呑な雰囲気を形容するなら、最も近い言葉は『殺気』になる。

 藍の蔵でリズに魔導筆を向けられた時とも、崖を飛び越えたあの時とも違う和人の様子に、リズベットは完全に気圧されていた。

 

「か、和人……?」

「――逃げろ。リズ」

「え? あんた、何言って……」

 

 その言葉をリズが言い終えるより早く、工房と階段を繋ぐ唯一の出入り口である鉄扉が、轟音を上げながら勢い良く閉じる。

 びくりと身を震わせたのもつかの間、驚いたリズが慌てて鉄扉に駆け寄り、扉に手をかけ力を込めるも、まるで扉そのものが溶接されてしまったかのようにびくともしない。

 

「え? えっ!? なんで、どうして開かないのよ……!?」

「そのまま、その辺に隠れてろ」

 

 有無を言わせぬ命令口調に戸惑い、再び振り返ったリズの視線の先で、和人が魔戒剣の柄を右手に握り、鞘から抜き放つ。鈍色をした細い刀身が、炉に燃える魔導火の光を浴びて鈍く輝く。その切っ先が向けられるのは、まるでリズたちを包囲するかのように和人を軸とした扇形を形成した魔戒法師達。

 あるものは鍛造用の槌を、あるものは鍛造された短刀を、そしてあるものは魔導筆を取り出し、魔戒法師たちも応戦の構えを取る。その様子は、どう見ても友好的ではなく。

 

「なあ、リズ。一つ聞いていいか?」

「なっ、何よ、いきなり!?」

「魔戒法師の工房ってのは……死人(シビト)も弟子に取るのか?」

 

 リズを庇うかのように、和人は剣を構える。その口から出てきた冗談めかした本気の問いかけに、リズベットは数瞬の間言葉を失った。

 死人(シビト)。人間の死体に術を施し、術者の意のままに動くようにした物。生を嘲り、死を冒涜するその術は、魔戒法師の間でも忌避すべき術として扱われ、好んで使おうとする者はほとんどいない。

 いわんや、工房にシビトがいることなど――。

 

「ありえない! 絶対に無いわよ!」

「そうか。なら――」

 

 リズとの会話を隙と見たのか、魔戒法師の一人が半包囲陣から飛び出し、黒ずくめの騎士に向けて襲いかかる。肉食獣の如き跳躍の余勢でフードが後ろに流れ、魔導火の明かりが隠されていたその顔を照らす。

 そして、リズは見た。

 瞳孔まで白く濁りきった目を。獣の如く開かれた口を。生気の無い青白い肌を。魔戒文字の呪言が描かれた額を。それは、師匠たる母より聞いたシビトの特徴に酷似していた。

 飛びかかった魔戒法師――否、魔戒法師だったシビトは、和人の頭部めがけて空中から鍛造用の片手槌を振り下ろす。

 

「遠慮は、いらないな!」

 

 そして、シビトはうめき声一つ上げる間もなく、黒い塵となって消滅した。

 ぎりぎりまで敵の攻撃を引き付け直撃寸前でわずかに身を逸らした和人が、下段から振り上げた斬撃でシビトの体を一刀の下に斬り伏せたとリズが理解できたのは、その鮮やかな一連の動作が終わって少しした後の事だった。

 最初の一体が消滅したのを引き金に、筆を構えたシビト達が、筆先に殺意の輝きを宿らせながら一斉に攻撃の構えを取る。その数、7体。

 

「法術よ! 避けて!」

 

 出入り口の側にあった作業台の影に隠れながら、リズは叫ぶ。その声を引き金にしたかのように、7体のシビトが次々に法術を放つ。7つの穂先より放たれた、妖炎と例うべき薄紫色に燃える魔導火が形成する必死必殺の嵐を前に、和人は――。

 

「――ふっ!」

 

 避けはしない。

 隠れもしない。

 ただ単純に、剣を以て切り破る。

 さながら、フルオート射撃のアサルトライフルより放たれる銃弾の如き速度と密度で迫りくる無数の爆炎。その火球を、和人の剣が次々に切り払い、薙ぎ払い、撃ち落とし、ただの火花へと変えていく。

 その剣閃も、その足捌きも、あまりに早すぎてリズの目には漠然と捉えることしかできない。ただひとつわかるのは、和人が何も闇雲に剣を振るっているのではないという事だけ。

 

(すごい……あんな細い武器で、『当たりそうな法術』だけを斬ってる……!)

 

 舞うように、そして軽業士のように体勢を変えながら、なれど一歩たりとも後ろに退くことはなく、和人は紫に輝く呪炎を切り裂いていく。時折その太刀筋を逃れる火球もあるが、それらは全て誰にも当たること無く、その側を通り過ぎ後方にあった壁を虚しく焼くに留まる。

 まるで――いや、きっと、和人には見えているのだ。7つの筆先からアトランダムに放たれる、疾風の如き砲火が辿る予測線(Gun Gale On Line)、その全てがはっきりと。しかも『己に当たる火球』だけではなく、『隠れているリズに当たる火球』の軌道すらも。

 まるで『もっと速い法術(弾丸)を知っている』とでも言うかのように、その剣筋には欠片の迷いすら存在しない。

 幾度も魔導火を切り払い、それ自体が紫に()()のようになった魔戒剣を振るい続ける和人に業を煮やしたのか、包囲網を形成していたシビト二体が不意に身を屈め、獣の如く跳躍しながら和人めがけて左右より飛びかかる。

 

「危ない、逃げて!」

 

 思わず叫んでしまったリズの視界の中で、和人もまた跳躍する。

 魔戒剣を逆手に持ち替え右上方向に飛び込みながら、和人は襲い来るシビトの両腕、そして首筋に魔戒剣を一閃し、瞬く間に一体目を無力化する。逃げ場のない空中にある和人を狙い放たれる法術の炎、それが到達するより早く、今しがた首を落としたシビトの脇腹を踏み台代わりに蹴り飛ばしながら、左方向へと再度跳躍。迫りくるもう一体のシビトの上を取ると、法衣の背中側を左手で掴む。

 

「5秒だけ保ってくれよ!」

 

 遠心力と体重移動をフル活用して空中で体勢を立て直すと、和人はシビトの背を左手に掴んだまま地上へ降り立つ。そのまま左手を内側に引き込みつつ、ショルダータックルをするように左肩を当て、シビトの背を押しながら力強く前方へと踏み込む。

 魔導火の弾丸が降り注ぎ、和人が構えた盾――シビトの体を容赦なく灼く。燃え盛る紫の爆炎に彩られる死地の中を、漆黒の騎士が力づくで押し通っていく。

 剣の間合いまでの約10歩。その道を、業火の中に切り開きながら和人が駆ける。瞬く間にたどり着いた道の終端で携えた盾を躊躇いなく放り投げ、自身の左側にいたシビト3体の体勢をまとめて崩す。

 間合いを詰められた残り4体のシビトが、慌てて槌や手斧、短剣を取り出して構えようとするが――。

 

「遅いッ!」

 

 そこは既に剣の間合い。意志無きシビトが勝てる道理などありえぬ場所。

 右手の剣を横薙ぎに振るって最初の一体の首を刎ね、和人は踏み込みと共に柄に左手を添えて刃を返し、更にもう一体の胴半ばを左より一刀両断。破れかぶれに振り下ろされた手斧を上半身を僅かに逸らす事で避け、がら空きになった胴を撫で斬りにすると、その勢いのまま体を180度回転させ、背後に回ろうとしていたシビトの腰から右肩にかけてを問答無用で叩き斬る。

 不意を突き、攻撃の直後を狙い、今まさに攻撃動作に移らんとする瞬間を襲う。多くの剣術理論において、敵手が防御能力を失うとされる瞬間――いわゆる『勝機』を余さず喰らい尽くす、型通りの水平四連撃(ホリゾンタル・スクエア)が、想定通りに四体のシビトを薙ぎ払い、黒い塵へと返す。

 斬撃の終点で、和人は剣を構えなおす。その剣が狙うは、無論残る3体のシビト。ようやく体勢を立て直し、今まさに逆襲の斬撃を振るわんとしていたシビト達に向け、和人は剣を飛翔させる。

 

「――ッ!」

 

 投擲(シングル・シュート)された剣が、3体並んで立つシビト、その真ん中にいた男の頭部を正確に貫く。首の骨が折れる音と共に額から角のように魔戒剣を生やす格好になったシビトの姿勢が傾ぎ、背中から地面に倒れ込む頃には、既に和人はもう一体のシビトとの間合いを詰め終えていた。

 意趣返しのつもりか、首を狙って突きだされた短刀を躱しつつ、和人は体勢を思い切り低くしつつシビトの無防備な足に下段回し蹴りを叩き込む。シビトの右足スネを構成する二本の骨が共に砕ける嫌な感触の直後、姿勢を崩して倒れ込む敵と入れ替わるように和人は立ち上がり、うつ伏せに倒れ込んだその後頭部に足裏を叩きつける。

 固い頭蓋骨を、まるで飴細工のようにあっさりと踏み砕く強烈な接地。その反動を余さず体に伝え、最後の一撃の動力へと転化する。

 

「ふッ!!」

 

 気を吐く。腰を落とす。軽く広げた足より伝わる力を、引いた右手の中に導き破壊力へと集成。鋭く突き出された掌で狙う先は当然、最後に残ったシビト。振り下ろされた手斧が和人の頭部を捉えるより早く、渾身の掌底がシビトの胸部を打つ。

 四肢十全にして構えも不足なし。百折不撓の果てに磨き上げられつつあるその一撃が、シビトの胸より上を粉微塵に砕きつくし、その哀れな偽りの生に終止符を打つのは当然の結果と言えた。

 

「怪我してないか、リズ」

 

 すっかり鈍色に戻った魔戒剣をシビトの頭から引き抜きながら問う和人に、リズは半ば呆然としたまま、こくこくと首を縦に振る。

 10人ものシビト、その尽くをあっという間に塵へと返した男は、抜身の魔戒剣を右手に携えたままゆっくりとリズの方へと近づいてくる。

 その表情は未だ堅く、まだ何も終わっていないことを言外に示していた。

 

「――いい加減出てこいよ。それとも、またシビトと戦わせる気か?」

 

 物陰に隠れさせたままのリズを背に庇う位置に立ちながら、和人が声を張る。その声は工房を覆う闇の中に吸い込まれていき――やがて、微かな音となって返ってくる。

 それは、金属同士が擦れ合う乾いた音。天井部を覆う暗闇の中から響くその音に、リズは本能的な怖気を抱く。まるで巨大な昆虫が、その足をかさかさと動かし、獲物を狙っているかのようなその音は、少しずつボリュームを上げていき――そして、それ(・・)は姿を表した。

 

《あらあら、なんとも可愛らしい騎士様だこと》

 

 端的に言えば、それは白いワンピースをまとった妙齢の女だった。人形のように整った顔立ちに、陶磁器のような白い肌。それに長く伸びた黒いストレートヘアが見事なコントラストを創り出している。大人の色香を振りまくその姿は、美女にカテゴライズして差し支えないだろう。

 ――天井に突き立っていると思しき左腕の肘から先が、絡まり合う無数の鎖で構成されていなければの話だが。

 くすんだ鈍色の鎖を器用に操りながら、女は天井の暗闇より静かに現れ出で、そしてゆったりと工房の床に降り立つ。同時に鎖が収縮し、人形のような白い腕へと変わる。

 

《せっかく丁寧にシビトにしてあげたのに、全部斬っちゃうなんてひどい子ね》

 

 白衣の怪物は口元に手を当て、なんとも可笑しそうにくつくつと笑う。

 何かを警告するかのように、火炉の魔導火が一度大きく燃え上がり工房内を照らす。煌々と輝くブライトオレンジに照らされたその瞳に映るのは、紛うこと無き魔界の文字。

 人を喰らう魔獣・ホラーの証。

 

「やっぱり、お前がここの人達を……」

《当たり前でしょう。他に、誰がいるっていうの?》

「なぜそんな事を!」

 

 剣を握る和人と怪物の間で、目に見えぬ怒りと殺気の火花がぶつかりあう。

 どくどくと強く拍動する心臓の音に邪魔され、リズは声を上げることもできない。

 

《なぜって……そうね。もったいなかったから、かしら》

「……は?」

《私、魂しか食べない派なの。どう? 余った肉体(ゴミ)のリサイクルとしては、上々でしょう?》

「――ゴミ、だと?」

《ええ。ホラーに手も足も出ず、惨めに泣きながら死んでいったゴミ。

 魔戒法師の魂ってもっと美味しいと思ってたのに、味もイマイチだったから、せめて体は再利用してあげたの。

 はやく口直しをしたいところだわ――そっちのお嬢さんみたいな、とっても美味しそうな魂で》

 

 狂気に満ちた怪物の目が、隠れたままのリズの目を捉える。

 立ち向かわねばならない。戦わねばならない。ホラーは魔戒法師の敵。こいつはこの工房にいた魔戒法師達の仇。そんな事はわかっている。

 ――わかっているはずなのに、体が動かない。

 工房の人々の命を奪い、シビトへと変えた恐ろしい怪物。初めて目にした本物の悪夢(ホラー)を前に、リズの膝がかたかたと震え出す。肌は泡立ち、瞬きを忘れた瞳を怪物の視線から逸らす事もできない。純粋培養の狂気を前に、このまま魂までも氷漬けにされ生きたまま死人へと変えられてしまいそう――そんな恐怖が、リズの心を塗りつぶしかけた寸前だった。

 

「大丈夫」

 

 黒い影が、怪物の視線を遮った。

 鋭くも温かな声と共に、黒い影がリズと怪物の間に割り込んで呪縛を解く。たったの一言、たった一動作だというのに、リズの心に小さくも暖かな火が灯り、凍りつきかけた魂にほのかな熱を与える。

 

「――こいつは、俺が斬る!」

 

 猛る怒りと砕けぬ意思を込めたその叫びは、和人が誓う鋼の決意。振り返ることなく、和人は魔戒剣の切っ先をホラーへと向ける。

 

《いらっしゃい、小さな騎士サマ。死ぬまで可愛がってあげる》

「ほざけっ!」

 

 前方へ踏み込みながらの、風のように早く鋭い刺突。死闘の幕開けを告げる一撃を、ホラーは右手の中に生成(・・)した剣で真正面から受け止めた。

 いや、剣というには、それはあまりに無骨で、あまりに粗雑だった。

 和人が振るう魔戒剣、その5倍はあろうかという長い刀身に、飾りも何もない柄を埋め込んだ大剣。盾と言い張っても納得してしまいそうな幅広の刀身は、研がれもしなければ磨かれもしていない。ただの『鉄塊』と形容したほうが、よほど真の姿を捉えている。

 右手を上げ、切っ先――らしき部分――を地に突き刺すようにして斜めに構えた刀身で刺突を悠々と受け止めながら、ホラーは妖しく嗤う。

 

《へえ……思ったよりやるじゃない。なら、少しは本気を出してあげようかしら》

 

 まるで水中に置かれたスピーカーから無理矢理水上に向けて音を流しているかのような妙にくぐもった声で囁き、ホラーは右手の剣を振るう。剣を押し込もうとした和人を力づくで振り払い、リズが隠れている場所付近まで後退させながら、自身もまた後方へ跳ぶ。

 工房の一角、一際大きな作業台の上に降り立ち、まるで舞台の上に立つ女優のように振る舞うホラー。皮膚の内側に圧縮空気を送り込まれたかのように、その肉体がぶくぶくと膨れ上がり、瞬く間に巨大化していく。肉塊が形造るは、全長3mを優に越える人外巨漢の姿。巨大な胴と太い四肢を革鎧じみた焦げ茶色の装備が覆い、灰色に汚れた布をかぶったような頭部には、目と口を思わせる黒いラインが走る。

 どこか内燃機関を想起させる筒状の金属パーツが覆う左肩に、途中で寸断された三日月に似たフォルムを持つ巨大な槌が接合された左手首が、異形の魔神としての存在感を更に高めている。

 その肩に担ぎ上げた巨大な鉄塊を、上から下に振るって威嚇する。たったそれだけの動作で、工房内の空気そのものが気圧されたかのように震えた。

 

「かっ、和人……あたしも、て、手伝――」

「ダメだ」

 

 恐怖に震える手で魔導筆を取り出し、掠れそうな声で絞り出した申し出を、和人はすげなく一蹴する。

 

「絶対に顔を出すな。そのまま隠れててくれ」

「でも……」

「頼む。リズに何かあったら、俺はたぶん、冷静じゃいられなくなる」

 

 有無を言わさぬ固い声音。その中に、自身の身を案じる優しさが混じっていることを感じ取ってしまったリズには、もう何も言うことは出来なかった。

 

「リズを守るのが、俺の任務(しめい)。だからこれは――俺の、戦いだ!」

 

 右腕を真上に伸ばし、携えた魔戒剣の切っ先を天を穿けとばかりに掲げ、和人はソウルメタルの剣で真円軌道を描く。気高き響きを伴いながら空間に白い裂け目が生まれ、その眩き刻印に切り取られた空間が砕け、天より降り来る輝きが和人の体を包む。

 無論、降り来るは光のみに非ず。その身を包むは輝きのみに非ず。

 命を蹂躙する魔獣へ向けて滾る怒りに応え、魔界より来たるはハガネの鎧。それは、磨き上げられた赤銅色をしたフルプレートアーマー。胴を、肩を、腰を、四肢を、そして頭部を覆い護るソウルメタルの甲冑は、まさに『守りし者』の意思を体現するかの如く。

 腰回りと両肩を覆う増加装甲は、湾曲したラインを持たせることで可動域を広く持たせる工夫が施され、継ぎ目無き分厚い胸部甲鉄と共に騎士を守る要となる。

 かつて魔獣の腕を噛み千切った大狼、その伝説を受け継ぐが如く狼の意匠を取り入れた兜。鼻から下の部分を守る頬当てと、スリット状の構造で形成されるラインアイが組み合わさったそのデザインは、銅色の鎧姿と相まって、古き世に託宣の巫女を守った武人の姿を思い起こさせた。

 

《遊んであげるわ、あなたが壊れるまで》

『ほざいてろ!!』

 

 足元の作業台を踏み砕きながら、ホラーが跳躍。それを迎撃すべく、鎧まとう和人もまた跳んだ。騎士と魔獣、鉄塊と騎士剣が空中で轟音と放ちながらぶつかり合う。

 

『――ぐうッ!!』

 

 膂力とプライドの激突の果て、弾き飛ばされたのは和人の方であった。

 本来であれば背中から床に叩きつけられる所だったが、和人は空中で後方宙返りをきめ、辛うじて両足で着地することに成功する。ただ、それはあくまで『姿勢の安定を犠牲になんとか着地できた』というだけのこと。

 この局面、和人を弾き飛ばし、十分な体勢で着地出来たホラーが先手を取るのは当然と言えた。

 

《その生意気な口は、要らないわ》

 

 騎士の頭上目がけ、鉄塊が振り下ろされる。ソウルメタルの兜すら砕くであろう上段からの重い一撃。姿勢を崩した状態では回避が間に合わない――和人はそう判断したのか、黒い騎士剣の柄を両手で握り、振り下ろされた鉄塊を頭上ぎりぎりの所で受け止める。

 粗暴という言葉をそのまま形にしたような鉄塊と比べると、細く、小さく、頼りなく映る漆黒の騎士剣は、それでも鉄塊の膨大な破壊力を受け止めきる。鎧もまた主人を護りきり、地に伝わった破壊力が工房の床を砕きながら、和人を中心にしたクレーター状に深く抉る。

 

《どこから私の物にしてあげようかしら? 腕? それとも脚?》

『お前なんかに、髪の毛一本だってくれてやるか!』

《本当に……生意気な口ね!》

 

 叫びが交錯し、剣と塊が幾度となくぶつかり合う。鉄と殺意を風と成し吹き荒れる嵐が如き剣閃達の激突が、破壊の洗礼となって工房の壁を、床を、調度品を襲い、触れるもの尽くを粉砕していく。

 跳躍すれば質量差で押し負ける事が明らかな今、騎士に残された手段は、地に脚を付け全身の力で以てホラーの膂力に抗う事のみ。必死の一撃を必殺の一撃で以て弾き返し合うこの戦況は、もはや斬り合いというよりは剣による殴り合いと言う方が正しい。

 命がけで戦場に立つ和人の姿をせめて目に焼き付けようと、じっと見つめ続けていたおかげか。その鬼気迫る剣速に、少しばかり目が追いつくようになったリズは気付く。

 

(……あと一手……あと一手、足りない)

 

 リズの胸中に、もどかしい思いが渦巻く。

 あと一手。あと一手、和人の勝利には足りない。

 武器のリーチ、剣を振るう膂力、それを支える体格の3点で敵に劣り、さらに跳躍による翻弄策を封じられた和人が選んだのはカウンターによる勝利。絶え間なく襲い来る絶殺の一撃を漆黒の騎士剣で弾き、受け流し、時にギリギリの間合いで回避しながら距離を詰めていき、剣の間合いに入った所で斬りかかるというもの。

 だが、敵との距離を詰めるという行為は、即ち敵のもう一つの武器――左腕に接合されたハンマーの間合いに飛び込むということ。二十秒に満たぬ斬り合いの中、和人は何度もアタックを繰り返し、その度に鉄槌の一撃によって理想的な位置までの踏み込みを阻まれ、敵の本体に浅い傷しか付けられないでいた。

 逆に言えば、あのハンマーを封じる何かがあれば――一瞬でいい。何かが。『誰か』があのハンマーの動きを牽制できれば。

 

(和人は、勝てる)

 

 リズは深く息を吸い、吐く。己が為すべきことのために。

 刻まれた恐怖は消えない。手の震えも、膝の震えも止まらない。できることなら今すぐこの場から逃げ出したいとさえ思う。そんな自分が、どう考えても無茶なことをしようとしているのは、きっと剣に命をかけて戦うあの無茶苦茶な男のせい。

 水晶のように、氷のように固めかけられた心を溶かす微かな熱。与えられたその熱を、誰かを守ろうとする意思を一点に注ぎ込むようにして法力を高めれば、白い筆先に紅蓮の炎が灯る。

 恐らくは、最初で最後の機会――その予感を胸に、リズは物陰から飛び出した。

 

「そのまま走って、和人っ!」

 

 視界の先。左に構えた剣で鉄塊を受け止め、ぶつかり合う刃と刃の間で火花を上げながら前進する騎士の背に叫び、怪物が振りかざす巨大な鍛造槌に向け、リズは震える両手で握りしめた筆をかざして紅の炎を解き放つ。

 それは、いくつもの奇跡が重なった瞬間だった。

 戦闘向きでないリズが放った炎が、正確にホラーの槌に直撃する軌道を取ったこと。

 戦いの最中にある和人が、彼女の声を信じて前へと突き進んだこと。

 放たれた爆炎が、振り下ろされかけた槌を撃ち、爆炎を以てその動きを阻んだこと。

 勝利の条件は整った。和人は剣の間合いを詰め、その漆黒の剣でホラーを斬り裂くだろう。

 ――だから、きっと。これはその代価だ。

 

《邪魔を――するなァァ゛ァ゛ッ!!》

 

 憎悪をそのまま音にしたようなホラーの叫びと共に、炎を突き破りながら巨大な槌が射出される。恐らくはアウトレンジに逃れた敵の不意を打つための切り札だったのであろう奇襲の一撃が、その根本で束ねられた鎖がこすれる金属音を伴いながら飛び来る。殺意の軸線上、視界を覆う死を前にして、リズベットの体感時間は無限に引き伸ばされていく。

 きっと、ここが自分の終着点なのだ。抵抗しようにも手は動かず、逃げ出そうにも脚は動かず、目をそらそうとしても瞼すら動かない。もともと、あの物陰から飛び出せた事自体が奇跡だったのだ。確定された死を前に、脳が必死に作り出した脳内物質による対抗手段を活かす道はもうどこにもない。

 故に、リズはただ見ていた。その後に起きた全てを。

 

(――えっ?)

 

 迫りくる槌頭。鈍い鉄の色をした死の化身が、スローダウンしたリズの視界の中で軌道を変えていく。リズの体を肉片に変えるはずだった槌頭は、そのまま直撃コースに入っていた軌道から少しずつ外れていき、ついにはリズの右半身からわずか数ミリの距離を開けるギリギリの場所を飛び去っていく。

 死の危機を脱したその瞬間、リズの視界に映ったのは、鉄の槌頭を貫く漆黒の騎士剣の姿。

 凄まじい速度で投擲された剣が槌を貫き、その質量によって槌の軌道を変えたと気づくのに、大した時間はいらなかった。

 外部から加わった強大なベクトルによって、半ばより無理やり引きちぎられたホラーの鎖が上げる金属の悲鳴が耳朶を打つ中、リズの瞳は銅色の姿に焦点を合わせる。

 

『はああああッ!!』

 

 騎士が跳ぶ。

 今やその手に武器は無く、あり得たはずの勝機は既に無く。なれど騎士は翔ぶ。為すべきことを為すために。

 右腕を引き、ソウルメタルの手甲で覆われた五指の先に己が全ての力を注ぎ込む。左腕を喪失した痛みに呻くホラーが見せた一瞬の隙が消えぬ内に、布頭巾めいた防具で覆われた顔面目がけ真っ直ぐに突き込む。

 それはまさに剣ならざる剣。邪悪を穿つ赤銅の貫手(エンブレイサー)

 乾坤一擲の一撃はホラーの右目を貫き、ドス黒い血を吹き出させながらその眼窩ごと刳り砕く。急所を貫かれたホラーの絶叫が工房中に轟き――反撃は、そこまでだった。

 

《調子に乗ルなアアァッ!!!》

 

 攻撃の直後。武器の喪失。足場のない空中。最悪の状況下にある騎士を、ホラーが狂乱のままに振るう鉄塊が容赦なく打擲する。

 ようやく元の速度に戻ったリズの視界の中に、鈍く重い衝撃音と共に吹き飛ばされていく和人の姿がはっきりと映る。打撃の勢いを減ずることも出来ぬまま工房の壁に叩きつけられたその体から銅色の鎧が外れ、天に昇るかのように魔界へと還っていく。

 衝撃でひび割れた壁にめり込むように倒れ込みながらも、悲鳴を上げるより先になんとか立ち上がろうともがく和人。その和人に向け、片膝をついて体勢を崩したホラーが、口らしき部分から粘着質の液体めいた黒い何かを数度吐きかけた。

 

《次は……殺してやる……!》

 

 左腕を剣に、右目を手に奪われたダメージに苦しみながら、ホラーは鉄塊を支えに辛うじてといった様子で立ち上がる。そのまま傷口から黒い血をどくどくと溢れさせながら真上に高く飛び上がると、勢いのまま天井の一部を鉄塊で破砕して無理矢理通路を作り、地下室から逃げ出していった。

 轟音と共に天井を構成していた土と岩が無数の瓦礫となって落下し、開いた大穴から淡い月光が降り注ぐ。呆然と立ち尽くしていたリズがようやく動き出せるようになったのは、ホラーの気配が消えたと確信できるようになって、しばらく経った後だった。

 

「――っ! かずと……和人ぉっ!」

 

 叫びながら駆け出す。もっと早くにすべきだった事を、死の恐怖から逃れた今になってようやく為している己に強い嫌悪と羞恥を抱きながら、リズは倒れた騎士の元へと駆け寄る。

 

「和人、生きてる? 生きてるわよね!?」

 

 鎧を強制的に解除され黒い魔法衣姿に戻った和人は、叩きつけられた時と同じ体勢のまま擱座していた。まるで炸薬が充填されていない戦車砲で撃たれでもしたかのように深く大きく窪んだ岩壁と、そこを起点に四方八方に長く延びたひび割れが、その威力の大きさを雄弁に物語る。

 強化の法術と共に装着者を守る役割を果たしきった漆黒の衣は至る所が大きく破け、防具どころか衣服としても機能していない。特に鉄塊の打撃を真正面から受けた上半身部分の損壊具合はひどく、もはやボロ布と言う他になくなった黒い破片が、濃い青あざの刻まれた肌の上になんとか乗っているというような状態だ。

 その痛々しい姿以上にリズの視線を奪うのは、ホラーが吐きかけたと思しきどす黒い物体。まるでコールタールで作られたスライムのようにどろりと広がり、和人の右肩より指先に至るまで、そして左脚の足先から腿の付け根付近までの二箇所を大きく覆ったその物体は、リズが近づいた時には既に固体へと変異した後だった。

 

「……ああ、生きてるよ。大丈夫」

 

 壁を背もたれ代わりに座り込むような体勢のまま、和人はゆっくりと目を開け、その側にかがみ込んだリズに微笑む。金属質の光沢を放つホラーの残滓に覆われた片腕、そして片脚を動かそうと試み、どちらも全く動かない口惜しさに――あるいは、打たれて負ったダメージに――一瞬だけ顔を歪め、リズが見ている前であることをを思い出したかのように、慌てて元の表情を取り繕う。

 その体を、どれだけの痛みが襲っているのか。ともすれば険しくなりそうな顔を必死で抑え込みながら、無理矢理に浮かべられた和人の笑みがリズの心をかきむしる。

 

「大丈夫って……そんなわけないでしょ!」

「大丈夫だって……。ちょっと、体中が痛むけど……」

「――そういうのは、『大丈夫』っていわないのよ! ばかぁっ!」

 

 視界がじわり、じわりと歪んでいく。目の端に熱い液体が溜まる。

 自分でそうと気付くより早く、リズは涙を流していた。ようやく実感できた死への怖れに。何も出来なかった己の不甲斐なさに。傷つき、それでも笑う和人の為に。

 止めようとどれだけ努力しても、堰を切ったように溢れ出す涙は一向に止まる気配を見せない。頬を伝う熱い雫が、一滴、また一滴と工房の床に落ちていく。

 へたり込んだまま、もはや和人の顔を見ることもできず下を向いてしまったその頭に、どこか躊躇いがちな手の感触が伝わる。

 

「……さっきはありがとう。リズのおかげで、死なずにすんだ」

「なに、言って……あんた、ひぅっ゛……あたしの、せいで、ケガして……」

 

 あの時、あと一歩か二歩でも歩く事ができたら、和人が己を庇う必要も、傷つくことも無かった。口に出してしまえば、もうその事実に思考が支配される。

 ホラーと対峙した時とは別種の怯えに包まれたリズに恨み言一つぶつけようとせず、代わりにその髪におずおずと触れる騎士の声は、相変わらず残酷なほどに優しい。

 

「バカいうなよ。知ってるだろ? 魔戒騎士の鎧は、100秒も装着してられないってのはさ。

 あの時リズが援護してくれなかったら、ジリ貧になって終わってたんだよ。俺は」

「でも……でもおっ……!」

「だから、さ。気が済むまで泣いたら、その後は、さっきまでの元気なリズベットに戻ってくれよ。

 そうしたら、一緒にここを出よう」

 

 壊れやすいガラスの装飾品に触れるかのように繊細な、それでいてしっかりとした確かな感触がリズの髪をゆっくりと撫でる。触れる手と言葉から伝わる暖かさに、涙腺を抑え込んでいた最後の砦は砕け、リズは赤子のように大声で泣きじゃくっていた。

 ――結局、リズがとめどなく溢れ出る涙を流しきり、和人の言う『元気なリズベット』に戻るまで、だいぶ長い時間を必要とした。その間、和人は何も言うことはなく、桜色をした髪を指先でゆっくりと梳かしながらリズが落ち着きを取り戻すのを待ち続けていた。

 目はとっくに真っ赤で、泣き続けた顔はきっとぐしゃぐしゃのまま。自分がそんな状態であることに少しばかりの気恥ずかしさを覚えながら、リズは一度深呼吸して気合を入れ直す。そうして顔を上げれば、差し込む淡い月光に照らされた和人の瞳と視線が交錯した。

  

「……ごめん、和人。それと……ありがとう。助けてくれて」

「礼を言うにはちょっと早いぜ。どうやって抜け出したもんか……」

 

 どこかニヒルな笑みを浮かべながら天井に開いた大穴を見上げる和人につられ、リズもまた視線を上に向ける。ホラーが脱出時にぶち抜いていった天井から覗く星空は、小粒のダイヤモンドを散りばめた黒羅紗のように美しく、そして手を伸ばすにはあまりにも高く、遠い。

 和人のことだ。こんな状態でなければ、壁を走って登る(・・・・・・・)くらいの芸当は軽々とやってのけそうなのだが――そんな事を考えながら、リズはゆっくりと立ち上がる。

 

「リズ?」

「体、痛いんでしょ? 治療できるもの探してくるから、ちょっと待ってなさい」

 

 返事を待たぬまま、リズは散乱する瓦礫を避けて歩き出す。この工房に来るのは今日が初めてであり、規模も設備も実家のそれとは段違いだが、同じ魔戒法師の工房である事に違いはない。ならば、なんとかなるはずだ。

 未だ火の絶えぬ炉を背にして、向かいにある壁まで真っ直ぐに歩く。入り口が右手側という事は、目当ての物も十中八九そちら側。固い石の壁に左手をつけ、リズは入り口にある金属扉のすぐ手前まで歩を進める。

 

(やっぱり、結界が張られてる……)

 

 シビト達が襲ってくる直前、リズ達の脱出を阻んだ厚い扉。目を閉じ、扉に向けて意識を集中させれば、微かにだがあの鉄塊を持ったホラーと同じ気配を感じる。恐らく、ここにいた魔戒法師達を虐殺した際に、後から訪れる者を引っ掛けるトラップエリアとして使えるように仕込んでいたのだろう。

 どこまでも悪辣なやり口に怒りを覚えながら、リズは後方に三歩下がると、壁の方を向きながら魔導筆を取り出す。

 

(ここがこうなってるってことは……たぶん……)

 

 右手に筆を握りながら、リズは目の前にある壁を注視する。何の変哲もないただの壁にしかみえないそこをよくよく見てみれば、うっすらとだが傷跡のような物が刻まれていることがわかる。

 壁を滑り落ちた水滴が、永い時間をかけ壁の表面を薄く削ることでできたようなその痕跡は、ナメクジが這った後のアスファルトのように周囲と少しだけ光沢が違って見える。リズが白い筆先を壁に当て、その複雑にのたくる跡の中の一筋を上から下までなぞれば、その筆跡を追うように淡い光の線が延びる。

 大きな木製の歯車が噛み合うような重い音を立てながら、リズの目の前にあった壁が左右にゆっくりと分かたれていったのは、まさにその直後だった。

 

「ビンゴ!」

 

 指をパチリと鳴らしながら、リズは壁の向こうに隠されていた空間へと脚を踏み入れる。少し大きめのウォークインクローゼット程度に広いその場所は、工房で使う多種多様なアイテムをしまい込んだ倉庫スペース。

 引火を防ぐために火元より離し、荷物を入れやすいように入り口の側に置き、魔戒法師だけが開けられるように魔導文字をそれとなく刻んだ扉で守るというパターンは、どこの工房でもだいたい変わらない。

 

(でも、正直面倒よね……あたしが工房持ったら、こういうとこは普通の棚で十分かな……)

 

 内心で独りごちながら、リズは倉庫の片隅に置かれていた革袋を手に取り、立ち並ぶ戸棚を開けて必要なものを詰め込んでいく。

 清潔なタオル地の布を数枚。大きな乾燥棚の中を開け、乾いた薬草の束を一掴み。霊薬の類が見当たらないことに落胆しつつ、代わりに何も書かれていない八卦符を数枚詰めて、革袋の口を囲むように通された紐を引いて袋の口をきゅっと閉める。

 その革袋を懐にしまい込むと、リズは倉庫の一角を占める大きな素焼きの(かめ)に近づき、上を覆っていた蓋を取る。腰より少し高い位置まで届く大きな瓶、その中をなみなみと満たすのは無色透明の液体。わざわざこんな所に置かれているという事は、この液体は『仙水』とみて間違いないだろう。魔戒法師しか入れぬ森の奥にある『巡命の滝』に流れるこの水は、法力を高め、様々な魔導具を作成する際の助けとなる。

 棚の上に無造作に置かれていた木桶を瓶の中に突っ込み、仙水を汲み上げた後、リズは倉庫を出て和人の元へと戻る。

 

「おまたせ、和人」

「ああ。なんか、すごい音がしたけど……大丈夫か?」

「気にしないで。伝統と戦ってきただけだから」

「伝統……?」

 

 困惑する和人の側に木桶を置き、リズは懐から出した革袋の口を開け、取り出した薬草を束ごと仙水の中に投げ込む。すっかり乾燥しきっていた薬草はすぐさま水分を吸い込み始め、あっという間に木桶の中に沈んでいく。薬効成分が染み出すのを待つ間、リズは布を一枚手に取ると、和人の額に浮かんだ汗を拭う。

 

「い、いや、それくらい自分でやるよ。左手なら動くし」

「いいから。ケガ人は大人しく看病されてなさい」

 

 半ば強引に納得させ、リズは和人の側に近づいて姿勢を低くすると、顔や体についた汗や汚れをタオルで丁寧に拭う。もはや破片となってしまった魔法衣だったものを脇に避け、傷ついた部分に余計な衝撃を与えないよう、慎重な手つきで上半身全体に白い布を当てていく。

 やはり和人も騎士と言うべきか、戦闘に耐えうるよう鍛えられた体にはしっかりと筋肉が付いている。ボディビルダーというよりは、アスリートのそれを思わせる堅く締まった身体。痣になっている部分に余計な刺激を与えないよう注意しながら、リズはタオルを滑らせて汗や汚れを落としていく。

 左肩に残る大きな傷跡は、今は見えぬ右手に刻まれていたそれとよく似ていた。

 そろそろいいだろうと判断して木桶の中を覗き込めば、たっぷりと仙水を吸い瑞々しさを取り戻した薬草の束が底に沈んでいるのが見えた。水面からほのかに漂うミントに似た香りに、薬効が仙水へ十分に移った事を確認しながら、リズは新たに取り出した布を適当な大きさにちぎって木桶の中に沈める。

 たっぷりと液体を吸わせた所で引き上げ、水滴がこぼれない程度に絞った布を、青あざが出来ている和人の肌に充てがい、その上から落ちてこないように術を込めた八卦符を貼り付ける。鎮痛、そして生来の回復力を高める作用を持つ、リズの母親直伝・即席の湿布薬。

 

「――ねえ、和人。聞いていい?」

「なんだよ、改まって」

 

 じっと夜空を見上げ、脱出方法を考え込んでいるのであろう和人の体に布切れを当てながら、リズは思わず問いかけていた。

 

「なんであの時、あたしを助けたの?」

 

 ちょうど、二枚目の湿布を貼り終えたタイミングだったということもあり、答えを聞きたいという欲求が無意識にリズの手を止めさせる。返答があるまで、実際には2秒も無かったというのに、その僅かな間がリズにはまるで永遠のように思えた。

 

「誰かを見殺しにするくらいなら、一緒に死んだほうがずっとマシだ。

 ――それが、リズみたいな女の子なら尚更だ」

 

 最初の言葉は、夜空を――あるいは、過ぎ去った遠い日を見つめながら。

 最後の言葉は、リズと視線を合わせながら。

 微笑みと共に和人が紡いだ答えが、リズの心の中に灯り続ける小さな種火を、暖かく、そして確かな火へと変えていく。

 

「バカだね、ほんと……。そんな騎士(やつ)、他にはいないわよ」

 

 『悪かったな』と嘯く和人の体に、最後に残った布を貼り付ける。

 自分の顔が赤くなっているような気がして、真正面から和人の顔を見る事ができない。その気恥ずかしさをごまかすように、リズはホラーが残していった黒い物体を見つめる。

 光沢、そして固い手触りからすると、やはり鉄のような金属性の物体に近い。壁と床のひび割れに食い込みながら和人を拘束するその物体に魔導筆を触れさせ、物は試しと弱めに調整した法術をぶつけては見るがびくともせず、結局は『この程度でどうにかなるような物ではない』という事がわかっただけだった。

 

「……戻ってくるわよね、あのホラー」

「だろうな。俺のこと、相当殺したがってるみたいだし。

 奴がダメージを回復して、陽が沈んでから動き出すとして……タイムリミットは次の夜か」

 

 二人の死期までの時間を弾き出しながら、和人はもぞもぞと体を動かし、ホラーの拘束から逃れるべく体に力を込める。しかし、いくら騎士として鍛えているとはいえ、相手がホラーお手製の拘束具となると筋力だけでどうにかなるものではない。

 どう足掻こうと黒い金属質が微動だにしないことに歯噛みした後、和人はため息をつく。

 

「くそっ。鎧さえ召喚できれば、こんなの簡単に吹っ飛ばせるのに……」

 

 鎧の召喚。それに必要不可欠なソウルメタルの剣は、リズを守るために投擲されたが故に今はその手元にない。あの時、槌頭を貫いた剣は、かつてリズが立っていた場所に程近い地面に切っ先を突き立てたまま柄を上にして直立している。

 

「リズ。あの入り口は……」

「ダメね。結界が貼られてて、あたし程度じゃどーにも。

 それこそ、魔戒騎士の剣でもなきゃぶち破れないわよ」

「……そうか」

 

 悔しげに呟きながら脱出手段を考え込み始めた和人の側を離れ、リズも考えを整理すべく立ち上がる。特に何か意図していた訳ではないが、その足は自然とはあの黒い剣の方へ向かっていた。

 あの険しい峡谷や、見上げた先の夜空に比べれば、ずっと近い所にある漆黒の剣。翔ぶ必要もなければ、壁を登る必要もなく、ただ歩くことさえできれば辿り着ける。ここまで和人を連れてこれれば工房から脱出する目が見えてくる。実に容易だ。

 黒い剣の元まで行くには黒い金属を除去する必要があり、黒い金属を除去するためには黒い剣を使う必要があるという、どん詰まり(デッドロック)状態にあることを無視すればだが。

 

「綺麗な剣……」

 

 使い手の元を離れていたせいか、鎧が魔界に戻ったあとだというのに未だその姿を保つ漆黒の騎士剣を、リズはじっと見つめる。

 西洋剣、あるいは騎士剣という言葉が持つイメージそのままに近く、それでいて無骨な両刃の剣。鋭く尖った切っ先を持つ幅広の刀身は、根本部分が三日月状に湾曲している。柄、そして鍔と一体化したL字の治具に、湾曲部の先端と切っ先からの軸線上部を挟み込むように固定させる造りは刀剣というカテゴリーの中では珍しく、リズが知る限り同様のやり方をするものは無かった。

 柄と鍔の境目付近にある、斜めに交差する線を作り出す小さく白い飾りを除けば、装飾らしい装飾を持たぬ漆黒の剣。暗闇よりもなお黒く、淡い月光と炉に燃える魔導火の光を浴びて夜の中にはっきりと存在感を示すその姿は、まるで遠き異国にその名を轟かす伝説の剣を想起させる。

 岩より抜き放ちし者に王の資格ありと示したというかの伝説に擬え、自分もあの漆黒の剣を抜けるかどうか試してみるべきか――一瞬だけそんな事を考え、リズはすぐに詮無い事だと思い直す。ソウルメタルの武具を操れるのは男だけ。生まれ落ちる前から、リズはあの剣に挑む資格すら無いのだ。

 

「どーしたもんかしらねー……っと、あれ……?」

 

 倉庫に何か有用な物が無いか確かめに行く途中、リズは工房の一角に妙なものを見つけ足を止める。さっきは気づかなかったが、落下した瓦礫の影に、何か大きな袋のような物が落ちている。近づいて引っ張り出してみれば、それはソウルメタル・インゴットが詰まった革袋だった。シビトと事を構える直前、和人が地面に落としたものと見てまず間違いないだろう。

 

「はあ……これで鎧が喚べたら、問題解決なんだけどね」

 

 袋の口を開け、インゴットの一つを手に取る。決して軽い物ではないが、それ一つはリズでも持ち上げられる重さだ。それがどうして、武器として完成された瞬間にリズの扱える物ではなくなってしまうのか。

 理不尽とも思える魔戒の常識(ルール)にため息をつきながら、袋の中にインゴットを戻――そうとして、リズはその手を止める。

 頭の中に閃いた、状況を打破する一手、あるいは無謀とも言える思いつきに導かれ、リズは辺りを見渡す。

 

(炉の火は消えてない……使える。仙水も、符も十分にあった。

 ソウルメタルも、インゴットがこれだけあれば……ぎりぎりだけど、足りるはず。

 道具は持ってきてるし、瓦礫を避ければ設備も使える。あとは……)

 

 倉庫の中に飛び込み、もう一度乾燥棚の扉を開く。

 

「あった……! 『宝玉の森』の霊木!」

 

 棚の下部、一番大きな扉の中に積まれていた板材を引っ張り出す。仙水を採取できる『巡命の滝』、その周囲に広がる秘境たる『宝玉の森』に生え、仙水を吸って育った木を伐りだして作られた板材が、今どうしても必要だった。

 板材を抱え、インゴットが入った袋を引きずりながらリズは和人の側に戻ると、使っていなかった布を床に引き、その上に袋と板材を置く。

 

「リズ?」

 

 怪訝な顔をしている和人をそのままにリズは再び倉庫に飛び込むと、八卦符を束にして懐に突っ込む。そして、床に置いてあった木のバケツを瓶の中に入れ、中に仙水を満たす。それを両手に一つずつ抱えると、なんとか和人の側まで戻り、先ほどと同じように床に置く。

 

「リズ? どうしたんだ、いきなり」

「和人。一つだけ……じゃなくて、二つ聞かせて」

「二つ? それは構わないけど……」

「あんた、鎧さえ召喚できれば、そこから脱出できるのよね?」

「あ、ああ。ソウルメタルの鎧なら、この拘束も吹っ飛ばせるからな」

「なら、もう一つ。魔戒剣があれば、鎧は召喚できるのよね?」

「そりゃあな。それが無いから困ってるって話を、さっきから……」

 

 疲労と興奮に揺れる息を整え、リズは和人の瞳を真っ直ぐに見つめる。

 

「一つ、アイデアがあるわ」

「アイデアって……どんな?」

「あたしが、あんたの剣を鍛造(つく)る」

 

 その言葉を聞いた時、和人が見せた反応をリズベットは一生忘れないだろう。

 魔導筆を向けられたときも、峡谷を飛び越えたときも、ホラーと対峙したときですら表情を崩さなかった和人が、呆気にとられたままぽかんと口を開け――やがて、堪えきれなくなったように笑い出す。

 リズが初めて見る、和人の屈託のない年相応の笑み。工房の中に響くほどに声を上げた笑いが収まるまで、たっぷり30秒は掛かっただろうか。

 

「なによ、バカにしないでくれる!? これでもあたし――」

「ごめん、そうじゃない。そうじゃないんだ……」

 

 心底おかしくてしょうがなかったのか、目の端に浮かんだ涙を和人は左手で拭う。

 

「そんな解決法があるなんて、全然考えもしてなくてさ。

 どうやって剣のところまで行こうかって、そればっかり考えてた自分が間抜けすぎて……」

「……ちなみに、結論はでたわけ?」

「まあ、一応」

「どんな?」

「手斧かなにかで、腕と足を切――」

「わーっ! わーっ! それ以上言うなー!!」

 

 あの崖を飛び越えた時と同じ真顔で、冗談の方がまだマシな事を宣い始めた和人の言葉を、リズは慌てて遮る。

 

「あー、もう! なんであんたはそう、変な所で思い切りがいいの!?

 自分の体なのよ! 惜しいとか思わないわけ!?」

「リズの命がかかってるんだ。手足の一本や二本、惜しくないさ」

 

 躊躇いも衒いもない、真っ直ぐな眼差し。『それしかない』のであれば『そうする』。重い覚悟をとうの昔に決めてしまったかのような、危なっかしく――そして、真剣な意思を湛えた黒い瞳から目が離せない。

 

「と、とにかく! 剣はあたしがなんとかするから、あんたのプランはすてなさい! わかった!?」

「わかった、わかったよ。あれは無かったことにする。

 それで――こんな体勢で言うことじゃないけど、何か手伝えることはあるか?」

「ありがたいけど、気持ちだけ受け取っておくわ」

 

 積もった瓦礫を法術で退かし、魔戒剣の鍛造に必要な設備と作業スペースを整える。その間も、頭に叩き込んである魔戒剣の鍛造行程と材料を照らし合わせ、完成までの時間を弾き出しながら、炉の火力を少しずつ高めていく。

 

「どうせ出来上がるまで一晩は掛かるし、あんたは今のうちにしっかり寝て、体力を回復しておいて。

 だいぶうるさいとは思うけど」

「そうか……。わかった、そういうことなら休ませてもらうよ」

「……あと、それと」

「それと?」

 

 燃料となる木炭を炉に入れ、火の様子を見るためにかがみ込んだあと。リズは和人の方に振り返り、少しだけ躊躇いがちに口を開く。

 

「眠るまででいいから……信じてて、あたしのこと。ちゃんと、魔戒剣を鍛え上げられるって」

「今更だな。リズのことなら、初めて会った時からずっと信じてるよ」

「なっ、あっ――」

 

 ごう、と大きな音を立て、火炉からブライトオレンジの炎が大きく伸びる。鍛造に必要な高温度にたどり着いた火に慌てて向き合い、燃え上がる炎をなんとか落ち着かせる。

 

「あ、あんた……さらっとそういうこと言うのね……」

「ん? なにが?」

「なんでもないわよ、ばか……」

 

 顔が熱いのは、魔導火の熱にアテられたからに違いない。鼓動が高鳴るのは、ソウルメタルの剣に初めて挑む緊張のせいに違いない。そう自分を納得させながら、リズベットは自らの両頬をぺしぺしと軽く叩き、自分自身を落ち着けてから振り返る。

 

「片手用直剣でいいのよね?」

「ああ、よろしく頼む」

「他になにかご注文は? 片刃にしてほしいとか、柄を長くして欲しいとか」

「そうだな……」

 

 しばしの間考え込んでいた和人だが、やがてその視線は、今は手の届かぬ黒い剣に向けられる。

 

「それなら、あの剣と同等以上の剣ってことで、どうかな」

「なかなかハードル高いこと言ってくれるわね……普通の騎士剣じゃないでしょ、あれ」

黒解剣(エリュシデータ)。父さん……先代の魔戒騎士から継承した剣なんだ。

 ……作れそうか?」

「あら。信じてくれるんでしょ、あたしの事。だったら、やってみせようじゃない」

 

 自分を鼓舞するように、ぐっと力を込めて笑えば、和人もまた笑い返してくれる。

 魔戒剣の鍛造。それは、高い技量と長い経験を持つ魔戒法師にのみ許された行為。大量のソウルメタルを制御し、剣の形に整えながら、ホラーの力を引き出しつつも制御する。その工程の難易度の高さもさることながら、ホラーとの戦いで最前線に立つ騎士が手にする武器を作る(ほまれ)の高さもあり、魔導具作りを生業とする魔戒法師にとって目指すべき到達点の一つとされる。

  

(――よしっ!!)

 

 深呼吸と共に、改めてリズは気合を入れ直す。

 ソウルメタル。八卦符。仙水。霊木。必要な材料は揃っている。工程は頭に叩き込んである。

 あとは、己の技量が届くかどうか――いや、届かせてみせる。誰かの命を守るため、ホラーに立ち向かうのが魔戒騎士(桐ヶ谷和人)の戦いであるように。ここから先は、魔戒法師(リズベット)の戦いなのだから。

 

「さて、まずは……」

 

 懐から魔導筆、八卦符の束、愛用の鍛造槌を作業机の上に置き、リズは火炉の前に腰を下ろす。

 熟練の魔戒法師曰く、魔戒剣の鍛造工程は地域・流派ごとに様々な手法があるそうだ。その中でもリズが学び、鉄の剣を作る中で磨いてきた手法は、日本刀のそれとどこか似通った部分があるらしい。

 そんな事を思い出しながら、リズは魔導水を数滴自分の体に塗り込むと、インゴットの一つを炉の中に置く。しばらく時間を置いたあと、魔導火の熱が十分に伝わり真っ赤に染まったインゴットを、U字型をした金属挟みで掴んで取り出し、鋼鉄製の鍛造台の上に置く。

 左手の挟みでインゴットを抑えたまま、リズは右手に槌を握り、熱せられたインゴットに向けて振り下ろす。槌に叩かれるたび、発される熱とは対象的な涼やかな金属音を奏でながら、直方体をしていたインゴットが薄い長方形へと伸ばされていく。

 

「それを伸ばして、剣にするのか?」

「うーん、半分正解ってとこね。簡単に言っちゃえば、これは台座よ。

 この上に他のソウルメタル全部を乗せて、それをまとめてから剣にしていくの」

「そうなのか……って、全部? そんなに使うのか?」

「ええ。それくらい使わないと、魔戒剣って作れないのよ。

 ――っていうか、見てないでさっさと休みなさい。ケガ人なんだから」

「はいはい、わかったよリズ」

 

 ようやく観念した和人が目を閉じるのを確認したあと、リズは元の5分の1ほどの薄さまで縮んだインゴットを再度熱し、工房に置いてあった金属棒を取り付ける。テコ台、テコ棒と呼ばれるこの器具は、剣を造る上では欠かせないもの。台座であるテコ台は、鍛造の過程で刀身の一部となるためソウルメタルを使用して作られるが、棒の部分は完成後に切り離されるため、ただの鉄が使われている。

 完成したテコを一旦脇によけた後、リズは残っていたインゴット全てを革袋から取り出し、火炉の中に手際よく積み上げていく。鋼色をした約20個の直方体を『井』の字に積み上げた後、全てのインゴットが均一に熱せられるよう火力を高める。魔導火の燃料として使われた木炭が火花を上げ、ブライトオレンジの火柱を幾度も伸ばす。その熱量は凄まじく、魔導水の護りを越えてリズの肌に玉のような汗を浮かばせる。

 全てのインゴットが魔導火と同じ輝きを持ったタイミングでリズは左手にテコ棒を握り、最下部に作った隙間の中へテコ台を差し入れる。

 

(このタイミングで、術を……)

 

 右手に握った筆を振るい、テコ台に法術の力を送り込む。ソウルメタルの共振作用を励起させ、積み上げられて熱せられたインゴットを、テコ台を形造るソウルメタルの上へ集約させていく。

 日本刀の鍛造に置いては『水へし』、『小割り』、『積み沸かし』といった過程を経て、玉鋼の選別・成形を行う必要があるが、超常の金属であるソウルメタルにおいては、ただ魔導火で熱し、法術によって結合するだけで事足りる。

 大量にあったインゴットが、テコ台の上で一塊に収斂していく。市販されているカステラより二回りほど大きなサイズまで収縮したソウルメタルの塊に繋がったテコ棒を、リズは腰で支え、脇で挟み、全身の力で持ち上げながら鍛造台の上に置く。

 

(真ん中、ちょうど真ん中に置いて……)

 

 ナタに似た分厚い刃物を左手に握り、ソウルメタルの塊の中心を横断する位置へ慎重に下ろし、右手の槌をその峰へと振り下ろす。熱せられているとはいえ、大量のソウルメタルが収斂・結合した塊の強度、そして重量は、最初にテコ台としたそれとは比べ物にならない。一打、また一打と、渾身の力と法力を右手の槌にを込めて叩き続けることでようやく、ナタの刃が塊に少しずつ食い込みながら切れ目を作っていく。

 切れ目が塊の中心部を少し過ぎた所まで達した所でナタを外し、リズはソウルメタル塊が切れ目に沿って折れ曲がるように、オレンジに燃える塊を槌で直接叩く。

 槌を叩きつけるたび、線香花火のようにばちばちと火花を散らしながら、ソウルメタルの塊が折れ曲がっていく。逆L字型に曲がった所でテコ棒をぐるり回し、上に伸びた部分を内側に引き込むようにして叩き続ければ、二つの塊が上下に重なり合う。長さは半分、厚さが二倍になったその塊に向けて更に槌を振るい、元の厚み、元の長さになるまで叩き延ばしたところで、リズはようやく槌を振るう手を止めた。

 

「これで、一回目は完了っと……」

 

 額に浮いた汗を袖で拭いながら、リズは安堵の息をつく。

 熱し、叩き、折り曲げ、重ね、伸ばす。『折り返し鍛錬』と呼ばれるこの工程は、強靭にしてしなやかな剣を作る上で重要な部分であり、魔戒法師の体力と精神力を著しく消耗させる箇所でもある。

 この1度目の折り返しを含め、折り返し鍛錬は計16回行われる。1度めの鍛錬で2層、2度めで4層、3度めで8層と、折り重ね鍛錬の度に積層の数は倍に増し、16度目でついに6万5千層を越えるに至る。

 鎧一つを鍛えあげられる程のソウルメタルを、6万以上もの積層構造で織り上げることで作り出される無敵の剣・魔戒剣。その形を造り上げるまでに魔戒法師が消費する体力、そして法力は、並の魔導具作りなどとは比べ物にならないほどに多い。未熟な者が手を出せば、ソウルメタルは剣の形をなさぬまま力を失うばかりか、最悪の場合、鍛造者がソウルメタルに宿るホラーの力に喰われ命を落とす事すらあるという。

 それでも――。

 

(あたしは、逃げない)

 

 ホラーに立ち向かい、一歩も退かずに戦い続けた彼のように。例えどんな結果に終わろうと、リズベットもまた退くつもりなど毛頭なかった。己の後ろにいる、今は戦えぬ命を守れるのはリズベットただ一人なのだから。

 

(作り上げてみせる。満足のいく、最高の剣を)

 

 ソウルメタルの塊を、炉に差し込む。魔導火の火勢を高め、熱する。輝く火の色に染まった塊を取り出し、ナタを宛がう。ナタの峰を叩き、塊に切れ目を作る。切れ目から上部分を直接叩き、塊を折り曲げ、重ねる。厚みを増した塊を、叩いて延ばす。

 計16度行われるこの工程においてリズが最も強く意識するのは、全体に均等に槌を振るい、塊にムラ無く力をかける事である。ひと塊の中に生じる鍛錬の不足、あるいは過剰。どちらもこの後に待つ『素延べ』――塊を剣の形に延ばす工程において、刀身を歪ませ、剣としての性能を損なう要因となる。

 逆に、この行程を仕損じる事無く終えることができれば、剣の完成度を至高の域に高めることも不可能ではない。ただ金属を積み重ねただけの塊を、鋼鉄よりも頑強、しかして柳の枝より柔軟という矛盾を貫く名剣に変える事ができる。

 力強く繊細に、そして慎重かつ大胆に槌を振るい、リズはソウルメタルを鍛えながら、その内に己の法力を溶かし込んでいく。槌を振るう度に火花が舞い飛ぶ。魔導水の守りを越えるほどの熱が肌を襲い、全身から玉のような汗が吹き出していく。それでも、決して手は止めず、一念の元に槌を振るい続ける。

 槌音はとうの昔に数えるのも馬鹿馬鹿しい程の回数、響き渡った。槌を握る右腕はもちろん、テコ棒を支える左腕、そして全身が訴える疲労を無理矢理に無視しながら、リズは休息も取らぬまま幾度となく槌を振るい続け――ようやく、15度目の折り返しを終えた。

 

(あと、一回……!)

 

 テコ棒を回し、炉の中に先端を押し込んだ後、リズは額を流れる汗を袖で拭う。折り返し鍛錬、最後の一回を前にリズは数度深呼吸して息を整えると、おもむろに首の後ろに両手を回す。槌の振りすぎで痺れつつある指先は動かしにくいことこの上なかったが、なんとか目的のものを捉える事には成功した。

 かちり、という小さな音と共に、首飾りの留め金が外れた。

 

(……やっぱり、全部(・・)必要よね)

 

 白竜晶(クリスタライト)をトップにあしらった首飾りの細い鎖を木製の作業台の上に置きながら、リズは内心で独りごちる。

 魔戒剣を鍛え上げるには、ここにあるソウルメタル全部が必要。その全部(・・)に、リズの首飾りは最初から含まれている。剣同様、作成過程で折り返しを重ねたソウルメタルの首飾りを使わなければ、理想とする剣を作り出すには量が足りぬだろうと、インゴットを見た時点で気づいていたのだから。

 塊の総量と比較すると、リズの首飾りに使われているソウルメタルの量はごくわずか。刀身の長さを少し縮めれば、あるいは厚みを減らして薄く伸ばせば、足りぬ分を誤魔化し、辛うじて剣の形を成す事はできる。

 だが、その果てに完成するのは、己が描く理想とは僅かに――そして、確実に違うもの。

 妥協に折れた剣もどきで何が守れる。極致への到達を棄てた金属棒で何が貫ける。剣と呼ぶのも痴がましいそんな中途半端なものを作り上げて納得できるほど、リズは己の中にある誇りを捨てた憶えは無かった。

 

「……ま、しょーがないわよね」

 

 腰を入れてテコ棒を引き抜き、赤熱に輝くテコ台を取り出し、鍛造台の上にゆっくりと置く。塊の中心に合わせたナタを槌で押し込み深い切れ目を刻み込んだあと、鍛造台の縁を利用して下側へと折り曲げ、そのままテコ棒をぐるりと回して、曲がった部分を上へと向ける。

 ほんのわずかの間だけ振り返れば、いつの間にか眠りに落ちていた和人の安らかな寝顔が見えた。

 

「あんたの手足に比べたら、惜しくないわよ」

 

 微笑みと共に、伝わらないであろう覚悟を口にする。最後に残ったわずかな迷いを振り切るには、それで十分だった。

 作業台の上に置いた首飾りを右手で掴み、熱せられた塊の真上へと持っていき、リズは握りしめたその手を静かに離した。

 白い水晶が。鈍色の鎖が。紅とブライトオレンジの輝きを共に纏うソウルメタル塊の上に静かに落ち、跳ねることもないまま激しい熱の中で一つに絡み合い、溶け合っていく。折り返し鍛錬、その最後の過程において重ねられる場の上で。

 そこは、超常金属による単一積層構造を持つ魔戒剣をつなぎ支える(かなめ)。剣の重心を決め、出来栄えを大きく左右する部位。

 さながら鋭く硬い日本刀を内より支え守る、柔軟にして折れ砕けぬ心鉄(しんがね)のように。己の想いが、傷を負う事を厭わぬ騎士の護りになれという願いを心鉄(ソウルメタル)の中に込め、リズは祈りと共に槌を鍛ち込む。

 16度に及ぶ折り返しを越え、想いと共に大量のソウルメタルを積層熱圧縮した塊。握り拳3つを縦に並べた程度の長さと厚みにまで圧縮された塊めがけ、リズは槌を振るいながら目的の姿形になるよう長く伸ばしていく。日本刀の工程に例えるなら、それは『素延べ』、そして『火造り』と呼ばれる工程に近い。

 

(長く、真っ直ぐに……もっと鋭く……)

 

 テコ棒から切り離した塊を再び熱し、リズは先を仙水で濡らした槌を振り下ろす。超高温度の物体に触れた水分が一瞬で蒸発し、直後に発生した小規模水蒸気爆発が金属塊に付着した余計な物を吹き飛ばす。さながら、熱を帯びて破裂する水の力をも喰らい成長する貪欲な竜の如く、槌が一振りされる度に金属塊は剣の姿へと近づいていく。

 伸ばした金属塊の先端が山の形になるよう斜めに切り落とし、(きっさき)を形成。横手――打ち出した鋒と刀身の境目になる部分――から鎬筋(しのぎすじ)を真っ直ぐ伸ばしながら、刃を、そして刀身を形成していく。

 炉に燃える魔導火、仙水、そして片手用鍛造槌。そのたった3つが、金属の塊を真っ直ぐに伸びる四角い金属棒に育て、そして金属棒を剣の姿へと鍛えあげていく。そうして刀身を作り上げたあと、リズは根本部に槌を当て、(なかご)――柄の内側に入り込む部分――の形を整える。刀身より一回り小さく、鋒の真逆に向かうに従って細くなるように伸ばしきった所で、ようやく刀身の形成は完了する。

 切り落とした先端部に小槌を細かく当ててハバキを作り終えたあと、茎の先端が眼前に来るように両手で持ち上げ、鋒が奥になるように腕を固定しながら、リズは刀身の姿をじっと見つめる。

 

(――よしっ!)

 

 理想的なその姿に、内心で快哉の声を上げる。歪みも狂いもなく形作られたその姿を底面から見れば、刀身は鈍色をした僅かに横に長い菱形を描き、左右の刃から先端に至るまでわずかのブレも無い。

 鋒から茎まで魔戒剣の形を整え終え、リズは炉の火勢を弱めると、その火から少し離れた所に刀身を置く。こうして低温で全体を熱したあと、炉の火を熾火まで弱め、時間をかけて刀身を一度冷ます。

 それを待つ間もリズは休むことはなく、霊木を削って魔戒剣の柄を作り上げていく。柄の長さと太さは、黒解剣のそれと和人の手の大きさを参考に、握りやすく、そして邪魔にならぬように整える。刀身同様真っ直ぐに伸びる立鼓形に近いフォルムを作り上げた後、茎を入れる空間を工房から拝借した小刀で丁寧に削り込む。さらに、柄の表面に目釘孔――柄と茎を繋げて固定する小さな棒を通す為の孔――を一箇所開け、全体が滑らかになるまでヤスリをかける。

 目釘孔がある部分を除き全体に隙間なく八卦符を貼り付けて柄の下準備を終え、ふと天井の大穴を見上げれば、東の空から登ろうとする太陽が空を白ませつつある光景が見える。

 結局、ほとんど一晩中、槌を振るい続けていたらしい。

 

(この陽が沈んで、ホラーが動き出すまで12時間として……残りの工程を考えれば……。

 …………ぎりぎり、間に合いそうね)

 

 残る工程はあと一つ。刀身が十二分に冷めてから取り掛かる必要があるため、8時間ほどインターバルを置く必要はあるが、それを計算に入れても十分に間に合うはずだ。

 柄を作業台の上に置き、凝り固まった全身の筋肉を伸ばしながらリズは立ち上がる。体は強い疲労感に包まれ、少し気を抜いただけであくびが勝手に口をついて出る。一旦休憩を取るべく、リズは炉のそばを離れた。

 

「はぁっ――くしっ」

 

 炉の火が弱まったことと、天井に開いた大穴から早朝の冷気が流れ込んできたことの相乗効果で、工房内の温度が急に下がっていく。くしゃみを堪えきれなかった鼻をこすりつつ、リズはまだ目を覚まさない男の体に倉庫から持ってきた毛布をかける。地上にある家に戻る手間を惜しんで作業に勤しむような法師のために用意されていたもののようで、寝袋代わりに使う事を企図したのか、厚手かつサイズが大きいのはいいことなのだが、生憎と一枚しか無い。

 毛布は一枚。人間は二人。空気は冷たく――となれば、道は一つしか無い。

 

(…………ちょ、ちょっとだけ……ちょっと暖まって休むだけだから……)

 

 ほんの5分ほど休んだら、あとは倉庫の中にでも移動してそちらで寝よう。

 疲れによってぼんやりとした頭でそんな言い訳じみた事を考えながら、リズは和人の左腕側に身を寄せ、自分が先程かけた毛布の中にいそいそと潜り込む。石の壁は硬く、寝心地――もとい、座りごこちにはお世辞にもいいとは言えないが、柔らかな毛布に包まれた感触と、すぐそばにある命の温もりが心地よい。

 

(なーんか、変な感じ……普通じゃありえないよ。

 初めてくる場所で、初めて会った人の隣で寝るなんて……まあ、寝ないけど……。

 ちょっと……休む、だけ……だか……ら……)

 

 寒さから逃れるようにぎゅっと身を寄せれば、和人の肌を通して心臓の拍動が響く。

 うつらうつらと睡魔に囚われ始めた意識の中で、リズは5分間のカウントダウンを始め――それが8時間の熟睡に変わるまで、さほど時間は必要なかった。

 

 

――――――

 

 

「――なあ。謝るから、機嫌直してくれないか、リズ」

 

 背中にそんな声を聞きながら、リズは『湯船』と呼ばれる細長く底が深めの木箱を、抱え上げた腕の中から床へと下ろした。

 

「別に、あんたに腹立ててるわけじゃないし……」

「じゃあ、なんでそんなに機嫌が悪いんだよ」

「それは……なんでもないから! 変なとこ気にすんなー!」

 

 理由を口にしようとして、そのあまりのくだらなさと恥ずかしさに思わず憎まれ口がついてでる。

 言えるわけがない。ちょっと休むだけのつもりだったのに、気づけばぐっすりと眠りに落ちていたばかりか、同じ布団の中で一夜を共にした挙句、目覚めるまでの間に寝顔をばっちりと見られた。その事実が恥ずかしく、まともに顔を見られないなどと――言えるわけがない。

 体に貼り付けていた湿布を剥がし、怪訝そうな顔でこちらを見つめる和人の視線を背中に感じながら、リズは湯船の中を仙水で満たす。一旦、深呼吸をして己を落ち着かせたあと、冷え切った刀身を手に取り、茎の中に目釘を通す為の孔を一箇所開ける。錬成されたソウルメタルと槌が歌う、鋭くも涼やかな響きがその完成度の高さを物語る。

 朝の冷気を存分に浴びて熱が取り払われた刀身は、その形だけをみれば完成の姿に近い。しかし、リズが持ち上げられるということは、それは未だ『魔戒剣』ではないただのソウルメタルの塊。

 剣を剣たらしめ、魔戒剣を魔戒剣たらしめる最後にして最も重要な工程。

 リズが修めた流派では、それを『焼入れ』と呼ぶ。

 

(刃は、薄く……峰は、厚く……符を重ねながら、隙間を作らないように……)

 

 粉末状に削り出したソウルメタルの破片を溶かし込んだ墨で魔導文字を描いた八卦符を、リズは茎より先の刀身へ丁寧に貼り付けていく。この『焼入れ』の工程によって、魔戒剣の斬れ味、そして強度が決まってくるだけに、その手つきは今まで以上に慎重なものになる。

 通常の刃物であれば、鍛造までの段階で刀身の形を作り、その後『研ぎ』を経て刃を作る。しかし、魔戒剣の場合は『研ぎ』を経ず、『焼入れ』の際に法力と魔導火を作用させることで刃を成す。冷たいソウルメタルの中に、熱く燃える火の力を封じ込めることで、刃毀れすることのない無敵の刃を生み出すのだ。

 

「……よしっ」

 

 刀身の隅々まで八卦符を貼り終えたあと、リズは茎にハバキを履かせ、更に柄をはめ込む。魔戒剣の元となるパーツたちはカチリと小気味良い音をあげ、一振りの剣の形を成す。まだ目釘をはめ込んでいないため、あまりに力を入れて振り回せば刀身がすっぽ抜けてしまうが、鍛造に用いるだけであればこれで十分だ。

 リズは火炉にたっぷりと木炭を焼べ、法力を流し込んで魔導火の火勢を一気に強める。火柱が天に向かってそそり立ち、夜闇に舞う蛍のように舞い上がる火花が厚い雲に覆われた黒い空に吸い込まれていく。

 左手に符を、右手に符に覆われた柄を握りしめ、リズは燃え盛る魔導火の中へ刀身をゆっくりと挿し入れる。

 

「――これは、憎しみの炎に非ず。これは、復讐の炎に非ず」

 

 聖なる誓いの(ことば)を唱えながら、リズは右手を前後に大きく動かし、刀身全体に炎を当てていく。木炭から撥ねた火の粉が一斉に舞い上がり、八卦符に描かれた魔導文字が金色に染まりながら一斉に輝きを放つ。

 

「これは、魔を断つ鋼を生む炎。これは、希望の下に掲げられし炎」

 

 母の故郷である火群(ほむろ)の里に、古より伝わる厳かな聖句。魔導火を操るその言葉の本質は『祈り』。燃え盛る黒炎の中を突き進むが如き、凄絶な戦いの道を征く者に捧げられる儚き願い。

 唱える度に身の内の法力が吸い上げられ、魔戒剣と魔導火の中に取り込まれていく。少しでも気を抜けば、意識そのものを刈り取られそうなほどに強力なその流れに抗い、リズは刀身に炎を当て続ける。

 

「暗闇の中に輝きを。憎悪の夜に光を。魔獣蠢く影の世を征く者に、祈りと共に我は捧ぐ……っ!」

 

 摂氏1000度を越える超高熱を放つブライトオレンジの炎の中で、一振りの剣が産まれいづる時を待つ。赤熱の色に満ちたその姿を顕現させる為、リズは最後の力を振り絞り、叫ぶ。

 

「立ち塞がる万難焼き尽くし、立ちはだかる万魔討ち滅ぼさん! 之即ち――《炎の護り》!!」

 

 聖句を唱え終えた瞬間、火炉から火柱が伸びあがる。それはまるで、天へと昇る金色の竜。希望の色に輝く雄大な火柱は天井の大穴を越え、空を覆う黒雲すらをも貫く。

 その火柱と同じ輝きを放つ刀身を、しばし呆然と眺めたあと――リズははっと正気を取り戻し、筆を作業台の上に置くと、柄を両手で握ってゆっくりと持ち上げる。すっかり火の消えた炉の中から現れいづる金色の刀身を、リズは慎重な手つきで仙水に満ちた湯船の中に沈めた。

 

「――くぅっ!」

 

 噴き上がる水蒸気に吹き飛ばされそうになる体を、必死で抑え込み、リズは体勢を維持する。

 天に昇る火柱が竜の体だとするならば、高熱の刀身を受け止め、一瞬で液体から水蒸気に変わる仙水が響かすその音は、目覚めを告げる竜の咆哮。もはや爆発とでも例えるべき熱反応の中で刀身は一気に冷却され、強度を増し、刃を成し――ついに剣としての形を成す。

 

(やった……うまくいった……!)

 

 僅かに残った仙水の中に沈む、鋼色の刀身。槌と炎によって描かれたその鋒は鋭く、ハバキにまで至る両刃は共に欠けも歪みもない。反りのない細身の長剣の姿は、和人が振るう黒解剣が変化する前の姿によく似ている。

 符に塗り込まれたソウルメタルの共振作用によって刀身と共に鍛え上げられた柄は、目には見えぬほど細かく薄いソウルメタルの金属層によってコーティングされ、黒解剣の刀身同様の黒い色に染まりきった。

 後はこれに目釘をはめ込めば、ついに魔戒剣は完成する。それは即ち、リズが扱うことができなくなるのと同義。霊木から削り出した目釘を懐にしまい、リズは魔戒剣を地面と平行に傾けると、右手で柄を、布を当てた左手で刀身を下から支えながら和人の側へと歩く。

 

「できたんだな、リズ」

 

 しずしずと歩み寄るリズと、その両手が携える剣を目にして、和人はほっとしたように微笑む。その言葉に首を横に振りながら、リズは地面に片膝をつき、黒い柄を和人へと差し出す。

 

「あと一つ。それが終わったら、あんたの剣の完成よ。まずは受け取って、和人」

「ああ」

 

 唯一動く左の手が、剣の柄を握る。静かな感触と共にリズの両手にかかっていた重さが消失し、剣はついに鍛冶師の手を離れる。

 和人が握る剣の柄、そこに開いた目釘孔に、リズは丁寧に目釘を宛てがい、その上から被せるように八卦符を一枚貼り付ける。『焼入れ』の際、柄に貼り付けたものと同様、ソウルメタルの粉末を混ぜた黒い墨で呪文が描かれた符に向け、魔導筆を振るう。

 符の文字が僅かな熱と金色の輝きを放ち、貼られた符が目釘を柄の中へ押し込む。柄と刀身を繋ぐ最も重要なパーツが収まるべき場所に収まり、ソウルメタルの黒いコーティングがその上に被さる。

 ぎぃん、と。工房内に響くその鋭い音は、目釘によって刀身と柄、そしてハバキが完全に一体化した証。金属の塊と木材が、魔戒剣として生まれ変わった事を示す産声。

 

「これで、完成よ。あたしの最高傑作」

「ありがとう、リズ。これで――」

《へえ。なにかしてる思ったら、そんな事してたのね》

 

 聞こえるはずのない、聞こえてほしくない声が耳に届く。慌てて振り返ったリズの視界に映るのは、薄汚れた白いワンピースをまといながら、天井の大穴から降り立つ黒髪の女。

 瞳があるべき右の眼窩には黒々とした空洞が広がり、長く伸びる赤黒いワイヤー状の筋繊維でなんとかつながっているような左腕は、至る所から指や爪のようなものが突き出たまま不規則に蠢いている。

 

「お前、どうして……!」

《言ったでしょう、殺してあげるって。

 もっとキズを癒やしてから来てあげたかったけど――面白そうなものが見えちゃったから、ねえ?》

「日光の下じゃ、ホラーは活動出来ないと思ってたんだけどな……」

《ええ、その通りよ。でも……幸運な事に、空は私に味方してくれたわ》

 

 火柱が貫いた空は、再び厚い雲に覆われ陽光を遮る。

 くつくつと嗤いながら、ホラーは片方が空洞になった瞳で、じとりと和人の方を睨みつける。

 その挑発に応じるかのように、左手で魔戒剣を構える和人の横を慌てて飛び退き、リズもまた和人の左側で魔導筆を構える。魔戒剣鍛造の工程で使い尽くした体力は回復しきってはいないし、法力に至ってはほぼ0に近い。それでも、何もしないでいる事などできなかった。

 リズの視線の先で、リズの隣で、ホラーが、和人が、不敵に笑う。

 

《今度こそ》

「今度こそ」

 

 動けぬ騎士が、剣を握る手を天に掲げる。

 傷癒えきらぬホラーの表皮が、内側からぶくぶくと泡立つ。

 

《殺す!》

「斬る!」

 

 皮膚が弾け飛ぶ音が轟き、空間が斬り裂かれる音が響き――怪物と騎士は、共にその姿を変えた。

 ホラーの姿は、リズが最後に見た時とあまり変わっていない。その体躯は見上げる程に巨大。右手に携えるのは、神話の巨人の武具を思わせる無骨な鉄塊。穿たれた右目には深々と傷跡が刻まれたままの一方、肘より先が失われた左腕からは、先端に分銅のついた鎖が複数本垂れ下がり、じゃらじゃらとやかましい音を立てる。

 周囲の岩壁を吹き飛ばし立ち上がる和人の姿もまた、リズが最後に見た時に近い。無骨な銅色の鎧が隙間なく全身を覆い、リズの打った魔戒剣は鎧と同じ色をした両刃の騎士剣に変異している。

 ――変異しているはずだった。

 

「…………えっ?」

 

 その剣を見た瞬間、リズの脳裏を駆け巡ったのは、絶望。

 割れている。

 強靭無敵を誇るソウルメタルの剣が、一目見ただけではっきりと分かる程にひび割れている。まるで長い干ばつに喘ぐ大地の様に、鋒から柄頭に至るまでの全てに、黒々とした裂け目が刻まれている。剣としての形を保っているのが不思議に思える程の、痛々しい姿。

 鍛造に失敗した――その事実をリズの意識がはっきりと認識した瞬間、絶望はさらなる絶望の呼び水となった。

 

『なっ――ぐっ、あ……ぁあ゛あ゛あ゛ッッ!!!』

 

 ひび割れてゆく鋼の体。吹き出した(あか)い炎。

 リズの絶望がそのまま伝染したかのように、剣のひび割れが銅色の鎧を侵食していく。剣を握る左手から腕、肩、そして兜の左半分に至るまでの領域を裂け目が蹂躙し、更にそこから突如吹き出した炎に焼かれ、和人は苦悶の声を上げながら地面に膝をつく。

 

『ああ゛あ゛あああああっ、ぐうう……がああああッ!!』

「うそ……うそよ……! 和人……!!」

 

 取り落とした魔導筆を拾うことも忘れ、リズは咄嗟に懐から魔導水の小瓶を取り出すと、燃え盛る騎士に瓶ごと投げつける。ついに刀身からも火を吹き始めた剣から手を離す事も出来ず、苦悶の声と共に動けなくなった和人が纏う鎧に触れた小瓶は、小さな音を立てて割れ砕け、蒼い中身を全てぶちまける。

 熱を防ぎ、強力な消火作用を持つ魔導水。それを一瓶ほぼまるごとぶつけたのだ。これで炎は消えるはず――その期待も虚しく、紅の炎はまるでそれ自体が確固たる意思を持っているかのように、騎士の体を焼き続ける。

 何かできないかと伸ばした指先が炎に焼かれ、リズは思わず手を引っ込める。

 

「そんな……こんな、こんなのって無いわよ! 和人ぉっ!」

《――くはははハハハはハハ! そンな出来損ないで、私に挑むつもりだったとは、笑わせる!!》

 

 けたたましい高笑いと共に、ホラーの左肩に付いていた内燃機関めいたパーツが外側へと張り出す。紅蓮の炎が燃えるそのパーツの中へ、ホラーが手にした鉄塊を先端から奥まで差し込むと、灰色をしていた塊が一瞬で高熱を帯びて赤く輝く。

 パーツの下部に伸びるシャフトが駆動音を上げ、内側に挟み込んだ鉄塊へ、外側に張り出した蓋めいたパーツを幾度も幾度も叩きつける。そのピストン運動が為されるたび、鉄塊は鋭く締まり、鈍く光る刃が打ち出されていく。

 それは即ち、鍛刀。たった今完成させたばかりの、巨大にして無骨、しかし不足なき両刃の大剣の出来栄えを確かめるように、ホラーはぶんと腕を振るい、剣を工房の床に叩きつける。大地そのものが揺れたかのような衝撃と共に床の広範囲に裂け目が奔り、衝撃で作業机が吹き飛ぶ。

 その威力に満足したかのように、ホラーは大剣をその肩に担ぎ上げ、快哉の声をあげる。

 

《どう? これこそが剣! これこそが力! 

 あんたみたいなクソガキなんかじゃ、決してたどり着けない至高の領域!!》 

「――それはっ……!」

 

 違う。そう叫びかけた声が詰まる。

 自分が鍛えた不完全な剣のせいで、炎に半身を包まれ苦しむ騎士を目の前にして、どうして反駁などできようか。

 言葉を口にする代わり、リズは和人に背を向け、ホラーとの間に立ちはだかる。

 

《あーらぁ? 昨日みたいに隠れないの?》

「ええ……あいにく、今のあたしは冷静じゃなくてね」 

 

 なけなしの勇気を振り絞り、リズはホラーと向かい合う。あの時リズを後ろに庇い、ホラーの前に立ちはだかった和人のように。

 勝てはしないと理性が諭す。今すぐ逃げろと本能が叫ぶ。法力を鍛造で使い果たしたリズにできることなど皆無に等しい。せいぜいこうして前に立って、薄紙のように脆い盾になることくらいだ。

 それでも。たとえ、それでも――。

 

「――こいつを見殺しにするくらいなら、一緒に死んだ方がずっとマシよ!」

《なら――諸共に、死ねええええッ!!》

 

 風を切り裂く凶音と共に、一切の容赦なく大剣が振り下ろされる。

 死地に飛び込むのもこれで二度目ともなれば、恐怖を学習した脳が反射的にリズの瞼を閉じさせる。それはそれで都合がよかった。もし、最後まで目を開けていようものなら、自分は恐怖のあまり逃げ出してしまうかもしれなかったから。 

 頭からミンチにされるか、あるいは縦に一刀両断されるか。どちらにしても訪れる死を、己が作り出した暗闇の中でリズはじっと待った。

 待ち続けた。

 そして、知ったのだ。

 ――そんな時は、未来永劫訪れないことを。

 ぶつかり合う剣と剣が響かせる、鋭く気高い二重奏と共に。

 

《なぁっ――!?》

 

 驚愕に満ち満ちたホラーの叫び声につられて、リズはもう二度と開くことはないだろうと思っていた目を開く。

 その視界を占めるのは、鈍く輝く銅の色。

 思わず上げた視線の先に映るのは、頭上寸前まで迫ったホラーの刃。その事実がどうでもよくなってしまうほど、目の前で起きている事で頭がいっぱいになる。

 誰が信じられよう。

 炎に焼かれ倒れたはずの、銅色を纏う騎士が再び立ち上がったなどと。ボロボロにひび割れた騎士剣を構え、リズを背に庇いながら、振り下ろされた大剣を受け止めているなどと。

 両手で握った剣を騎士が振るい、下からホラーの刃を跳ね上げるように刀身を叩きつける。予想だにしない状況に隙をみせたホラーが衝撃と共に体勢を崩し、大きく後方に下がりながらたたらを踏む。

 

『――重いな。()い剣だ』

 

 跳ね上げた剣をそのまま振り抜きながら、騎士は左手一本で柄を握り直し、鋒に半円軌道を描かせるようにしながら下段の位置へと導く。

 魔戒剣より幅の広い騎士剣。銅色の装甲に包まれた左腕、背に庇うリズを見る横顔を覆う兜の左半分には未だ炎が燃え続けている。鋒からラインアイに至るまでの尽くを覆うその太い亀裂が、ぴしり、ぴしりと音を立て――砕ける。

 

『魂が篭ってる気がするよ』

 

 迷いのない信頼に満ちた和人の声と共に、銅色をしたソウルメタル――もはや『外殻』とでも呼ぶべきその結晶が弾け飛び、炎をかき消しながら内にある姿を現出させる。

 それは可能性の片鱗。いつかきっと辿り着く『果て』の断片。

 『卵の中より産まれる雛の様に』と例えるには、その有り様は鋭すぎる。『蛹を破り羽化する蝶の様に』と例えるには、その勇姿は眩しすぎる。それは命の誕生に非ず。命の外にありて、命を守るモノ。炎によって鍛えられる鋼鉄(ハガネ)と同じ、受け継がれてきた技術と願いの結晶。

 銅色が剥がれ落ちた刀身の中から、白く輝く十字光が溢れ出し、工房内の全てを照らし出す。ホラーすら怯ませるその光の源は、白竜の鱗の如き色に染まった両刃の剣。

 菱形を描く鋭利な(きっさき)。その左右の頂点から収束軌道を描く直線の半ばから、柄へと向けて真っ直ぐに伸びる刀身には、一片のヒビも欠けもありはしない。セルリアンブルーに染まった柄、それと同じ色をした治具が、内なる目釘と共に支えとなり、刀身と柄の境から左右に突き出した菱形の鍔が守りとなって、十字を描く正統派騎士剣のシルエットを形成する。

 その白い剣を握る左手、そして左腕から肩までを覆う装甲は、光の剣とは正反対の闇を湛えていた。太陽なき世界を体現したかような漆黒(ミッドナイトブラック)のアーマーパーツ。その縁を、淡く輝く星光(ランベントライト)のディティールラインが駆け抜け、その存在が暗黒の中に溶け込み消えてゆかぬように守る。その二つの色はまるで、手が届かぬほど遠くにあったあの夜空の如く。

 左腕装甲同様、瞳の少し上まで銅色が剥がれ落ちた兜の左半分から姿を表すのは、獰猛にして誇り高き黒狼の貌。フェイスカバーめいた装飾が消えた口元からは、噛み合わさる銀色の牙がむき出しになり、砕けたラインアイの下から現れた金色に輝く左瞳が、胸中に燃える正しき怒りと共に眼光鋭くホラーを睨みつける。

 基調(ベース)となった銅色の中に、新たな輝きを得た騎士に向け、ホラーが吼える。

 

《鎧をまとった所で、所詮は虚仮威しよ!!》

『それは、どうかな』

 

 狂気の叫びが静かな決意が交錯し、騎士が、ホラーが、互いの命を狩るべく前方へと駆け抜けるように一気に間合いを詰める。左手に構えた白い剣で、挨拶代わりに放つ下段からぶち抜く突進刺突(ソニックリープ)を、ホラーは大剣の刀身で受け止める。

 

《愚か者が! その程度の力で、私に勝つつもりか!》

 

 刺突の威力によって大きく後方へと押し込まれながらも、ホラーは刀身の裏に左肩を叩きつけるように当て、圧倒的な質量差を武器に和人を弾き飛ばす。そのすさまじい威力に為す術なく斜め後方に吹き飛ばされながら、和人は右手を伸ばし――そこにある『勝機』を掴む。

 

『ああ。勝つさ』

 

 地面に突き立つ、漆黒の超金属。その質量を以てホラーの打撃の勢いを無理矢理に殺して静止した後、和人は握った柄を真上に引き抜く。

 剣を振るい、ホラーと戦う騎士――『守りし者』の心に応え、漆黒、そして白銀の剣が左右の手に納まる。

 集うべきモノは、今ここに集った。

 

『俺が生きている間は、誰も殺させやしない』

 

 右手に構えるは、降り注ぐ光を拒む黒き闇。なれどもそれは憎悪に非ず。一片の光注さぬ闇の中に挑み、理不尽に摘まれゆかんとする命を、死の運命より解き放つ黒の誓い。

 左手に携えるは、襲い来る闇を阻む白の光。なれどもそれは独善に非ず。光に溢れた穏やかな生を棄て、か弱き命の為に戦う事を誓う者に、闇を祓えと捧げられた白の祈り。

 対極にして相似。背反にして表裏一体。相克にして比翼連理。その光は夜道を這う旅人に灯す命の煌めき。その闇は染まらぬ、揺らがぬ、迷わぬ、不変たる愛。

 決して交わらぬ二振りの剣を一つ(・・)に成すという矛盾を貫く構え。切実なる命の叫びを胸に戦う者が目指す、譲れぬ意地と誇りの極致(ユニークスキル)

 人はそれを、『二刀流』と呼ぶ。

 

『闇に潜み、人を喰らう魔獣・ホラー! 命を弄ぶお前の陰我、俺が斬り裂く!!』

 

 解き放つ闇を、凶祓う光を諸共に手にし、和人は再び前方へと駆け出す。

 

《やれるものなら、やってみろオオオオッ!!》

 

 狂乱する暴虐の咆哮と共に、ホラーが左手を振るう。いかな外法の再生を遂げたか、かつて槌があったその腕は、先に分銅を付けた鎖の束へと変貌を遂げている。金属同士が擦れ合う耳障りな音をあげながら振り抜かれた鎖の束は、八本の首を持つ大蛇(オロチ)の如く大きく上下左右に広がりながら、その分銅を以て鎧ごと打ち砕かんと迫る。

 

『うおおおおおおッ!!』

 

 迫りくる鋼の蛇を、漆黒の剣が討つ。攻撃の始点となるのは、一呼吸の間に繰り出される刺突5連撃。右腕の肘と肩を僅かに前後させるだけの刺突でありながら、正面より迫る分銅5つを粉砕するだけの威力をもつ所以は、直前に行われた前方への踏み込み。全力の加速と共に進む足を無理矢理に停止させ、その接地反動を掌打同様に威力に転化することで、極小のストロークによる連撃が十二分な破壊力を持つに至る。

 加速からの急停止によって産まれる余剰ベクトルと共に、和人はもう片方の足を前方に出しながら右手の剣を上段から振り下ろし、6本目の鎖を寸断。鋒が地面に振れる寸前で上方へと跳躍し、斬り上げで7本目の分銅を叩き割りつつ、その刀身が己の背に触れんばかりに右腕を後方へ移動させる。

 

『はあッ!!』

 

 跳躍した騎士を追い下方から迫る最後の鎖を、上方より振り抜かれた漆黒の剣が迎え撃つ。漆黒の刃に触れた分銅は、それを繋ぐ鎖ごと一刀両断され、甲高い悲鳴をあげて消滅するのは必然と言えた。なにせ、神話の時代より決まっているのだ。剣を得た英雄に、大蛇は決して勝てぬのだと。

 共鳴する鋼の八奏撃(ハウリング・オクターブ)に、再生した左腕の尽くを絶たれながらも、ホラーは――嗤っていた。勝利を確信したかのように。

 

《驕ったなあ! 付け焼き刃ぁああ!》

 

 攻撃の直後に訪れる僅かな隙――即ち、『勝機』を狙うための囮として使い潰した左腕が十全な働きを成したことに狂笑しながら、ホラーは和人の着地を狙い、右手に握る大剣を振りかぶる。その質量、その威力、その斬れ味は、ついに鎧の防護を破り、騎士の命を一撃のもとに狩る。

 ――そう確信していたのかどうかは、ホラー以外には知るべくもない。ただ一つ確かなのは、彼奴が重大にして致命的な誤算を抱き、それに一切気づいていなかったということだけだ。

 隙が発生するとしても、それを突けるかどうかは全く別の話だということを。

  

『――ここだッ!!』

 

 剣が振るわれる。

 左手に握られた、白き騎士剣が振るわれる。

 勝機を――敵が今まさに攻撃せんとした瞬間を過たず襲う横薙ぎが、巨大なホラーの腹部を左から半ばまで深々と抉る。

 

《があッ――!!》

 

 攻撃の機会を逸したばかりか、手痛い反撃を喰らうハメに陥りながら、ホラーは心――そんなものがあればだが――の中で問うだろう。『なぜ』と。

 ホラーは見誤っていた。

 確かに、攻撃動作の終端で隙は発生する。八連撃(ハウリング・オクターブ)の場合、斬り下ろしを終えて着地した瞬間がまさにそれだ。斬撃の威力も速度も十二分であるが故に、僅かばかり屈んでしまう上半身の体勢は回復しきっておらず、剣の鋒は地面を向いたまま。敵の攻撃に対し、剣を振り上げて応戦するには、重さと己の体が邪魔となる。そこに遅滞の発生すること自体は免れ得ない。

 その道理を踏み越えて、和人の剣は先制を成す。その絡繰は案外単純なものだ。

 八連撃の終端。渾身の振り下ろしを成すために、右半身は前に進み、反対に左半身は僅かに後ろへ下がる形になる。その際に発生する腰のひねりを活用し、左腕を大きく背中側へと伸ばしておく。この時手首を曲げ、刀身を背中側に持ってくる。これが絡繰の一。

 次に着地時の足位置。真上から真下に振り下ろされる右腕、その邪魔にならぬ事を考えるなら、前に出すのは必然的に左脚となる。その脚の間を本来のそれより幾ばくか大きめに開き、斬撃終了時、右足の踵が少しばかり浮いておくようにする。これが絡繰の二。

 最後の仕込みは、ソウルメタルという超金属の特性そのもの。刀身が獲物を切り裂き終えた瞬間、和人はソウルメタルの重量を操作。右手に握る剣の重みを極限まで減らし、腕に込めた力を僅かばかり抜くことで、想定されうるそれより数段早く剣を止める。重たい金属バットと空のペットボトル、片手で振り下ろす途中で止めるならどちらが容易いかというだけの単純な理屈。これが絡繰の三。

 あとは、仕込んだ絡繰を逆順に動かしていくだけでいい。剣を素早く止めることで、次動作へ移る際に発生するタイムラグを極限まで削る。浮いた右足の踵を地面につける要領で重心をわずかに後方へ移動させる事で、前方に傾いだ上半身を引き起こす。その引き起こしによって引きつけられる左腕に、体を元の位置に戻す腰の捻り、更に着地時に発生する接地反動を加えながら、後方の待機位置に置いた刀身を思い切り振り抜く。

 これらの力の総合により、体重の乗らぬ引き斬りを、敵手の機先を制するに十分な速度を持った斬撃と成す。

 

『はぁぁぁあああああッ!!!』

 

 人間で言うならば、へその少し下――丹田に、刀身を地面と水平にした状態で突き立った白い剣。ホラーの腹部をかき回すようにその刃を力づくで上へ向ける。直後、後ろに向けていた重心と共に右足を前に出し、柄まで通れとばかりに白い剣を深々と押し込みながら、左肘をぐいと曲げてホラーの肉体と己をほとんど密着させる。

 

『付け焼き刃は……お前の方だ!!』

 

 柄を握ったままステップを踏むように、和人はホラーへ背を向ける。突き刺した柄の下へ体を潜り込ませせ、左手に握った剣を、ボールを投げるようなフォームで上方へ振り抜き、ホラーの胴に深々と裂け目を刻む。

 粗野にして重き三連斬(サベージ・フルクラム)の軌跡をなぞるように炎が吹き上がり、爆轟となってホラーの肉を焼く。その火は正に、かつて騎士の半身を焼いたものと同じ。

 輝ける業火を背に、騎士の連撃は続く。

 

『もっと早く! もっと、鋭く!!』

 

 振り返りながら右手を引き、黒の剣を攻撃の始動位置へと運び、踏み込みと共に振り下ろす。魔導火が燻る斬撃の痕を更に深く刳り、返す刃の斬り上げで胴を裂く。咄嗟にホラーが伸ばす左腕の残滓を、斬り上げの終端で担ぎ直した剣を叩きつけるようにして吹き飛ばしつつ、その斬撃の余勢を使って右足を軸に体を360度回し、再度の斬り下ろしによって内燃機関めいたパーツごと左肩を破壊する。

 垂直四連撃(バーチカル・スクエア)によって体勢を崩されたホラーは、たまらず後方へと大きく下がり体勢を立て直そうとする。剣が届かぬ程に開いた間合い、なれどその場所すら、既にホラーにとっての安息の地に非ず。

 既に、和人は準備を終えていた。左肩に担ぐようにして背に回した白の刀身。その刃に、煌々と輝くブライトオレンジの炎が宿る。邪悪を灼き、正義を守る輝きが宿る。

 僅かに低くした体勢から、床を蹴り潰す程の勢いで駆けながら加速。超高温の炎に焼かれた空気が発する悲鳴を響かせながら、瞬く間に詰まる間合いの中、和人は白の剣を突きこむ。

 

『これで――終わりだあああああッ!!』

 

 盾の様に構えられたホラーの大剣。その巨大な刀身をついに粉砕した龍鱗貫く英雄の一撃(ヴォーパル・ストライク)が、ホラーの胸部を穿ち、貫き、深々と突き刺す。

 肉を貫く鈍い音の直後、白き刃に纏う炎がホラーに注ぎ込まれ、内側よりその存在そのものを灼き尽くす。おぞましい怪異の肉体は大きく膨れ上がり――やがて耐えかねたようにその背が破裂し、輝ける爆炎がその中より溢れ出す。

 噴き上がる炎、全てを焼き払う。(はげしき)火炎(まと)う剣の一撃を受け、ホラーは肉片一つ残らず塵と化し――ついに、現世より消滅した。

 刀に付いた血を払う侍のように、両手に携えた剣をぶんと力強く振るったあと、和人は鎧を魔界へと返還する。魔法衣を失った裸の上半身が露わになり、疲れきった――そして、どこか誇らしげな男の瞳がリズを見つめる。

 

「思った通り、いい剣だったよ。リズ」 

 

 そのまま背中の鞘に剣をしまおうとして、鞘自体が無いことに戸惑う和人に向け、リズは思わず駆け出していた。

 そのうち、鞘も拵えてやるべきか――そんな事を考えながら。

 

 

――――――

 

 

「――ほんとに、なんともないの?」

「ああ」

 

 ふわりと柔らかなクッションで作られたソファに腰掛けた和人。その左腕をじっと見つめながら、リズは困惑の表情を浮かべていた。

 あの巨大なホラーが倒されたあと、入り口を塞いでいた結界も解除され、二人は無事に地上へと戻る事ができた。すぐにでも山を降りるべきではあったが、リズも和人もそんな体力は残っておらず。夜の山道を下ることになろうとも、今は体を休めたいという点で意見は一致した。

 殺され、シビトにまでされた法師達の魂に祈りを捧げたあと、二人は死んだ法師たちの中の誰かがかつて使っていた家を拝借し、しばし休息を取っていた。もう誰も使わないクローゼットの中からリズが見繕ったシャツと上着を着込み、まくり上げた袖から左腕を露わにしながら、和人もリズ同様に怪訝な表情をみせる。

  

「でもこれ……すごい火傷よ。治療だって、応急処置くらいしかしてないのに……」

 

 左肩を起点に、手の甲に繋がる腕の外側を奔り、手首のすぐ手前まで伸びる火傷の痕。かつて鎧に刻まれた裂け目をなぞるように、組み合わさる複数の直線で構成されたその痕跡は、見ようによっては竜の鱗のようでもあり、あるいは何かの文字のようにも見える。

 ホラーとの戦いの後、炎によって焼かれた和人を治療した際、最後まで消えずに残ったのがこの文様めいた痕跡だった。

 

「ねえ、和人。あの時……体が燃えた時、何があったの?」

「……よくは、わからない。鎧を召喚した後、急に左手から火が出てきて……。

 死にそうなくらいに痛くて、苦しかったんだけど……ただ、そのあと……声が聞こえたんだ」

「声?」

 

 問いかけるリズに、和人は静かに頷く。

 

「『お前の炎を恐れるな』……って。

 その声が聞こえたあと、不思議と痛みが消えて……あとは、リズが見たとおりさ」

「知ってる人の声?」

「いや。初めて聞く男の声だったよ。でも……なんだか少しだけ、『懐かしい』って気がしたな」

 

 どこか感慨深げに語り、和人はテーブルの上に置かれた二振りの剣に視線を落とす。

 黒い鞘に納められた一振りは、和人が受け継いだ剣。未だ鞘すら無く、簡素な布で刀身を包んだだけのもう一振りは、リズが手ずから鍛え上げたもの。

 まさかその二振りを共に使いこなし、ホラーを倒すような使い手だったとは――少し前に目の前で繰り広げられていた闘いの光景を思い出し、リズは改めて驚愕を覚える。

 

「いやー、でも。まさか、和人があんなに器用な闘い方するなんて思わなかったわよ。

 『二刀流』……って言うんだっけ? あんな連続攻撃、一体どうやったの?」

「あれは単に、片手用剣技(ソードスキル)を両手で交互に使ったんだ。技後硬直(ディレイ)を削りながら繋げられるのは、いいとこ3,4回だけどな」

「……さらっと言ってるけど、それ、かなりすごいことなんじゃ……?」

「そうでもないよ。技を繋げるだけなら、ちゃんと練習すれば誰でもできる。

 それに、技の繋ぎでどうしたって隙はできるんだ。『二刀流』って言うには……まだ、足りない」

 

 剣の(スキル)()結合(コネクト)し、絶え間なき連撃と成す。瞬時の判断が生死を左右する戦場の只中で、敵から意識を逸らさず、今振るう技から意識を離さず、次に放つ技に意識を向ける。そして当然ながら、意識が散漫になってもいけない。

 脳味噌を三分割でもしなければ出来ないような芸当であることぐらいは、剣を振るわないリズにもわかる。間違っても、『誰でもできる』ようなものではない。最も、その『誰でも』が指しているのが、『鍛え上げた魔戒騎士』という狭い範疇であるならば話は別だが。

 しかも、それですら『足りない』そうなのだから――『二刀流』の完成形は、いったいどんな高みにあるのだろうか。騎士でないリズには、想像すら出来なかった。

 深々とため息をつくリズの横で、和人は鞘の無い剣を手に取り、刀身を覆う布を外した。

 

「まあ。それもこれも、リズがこの剣を完成させてくれたからできたんだよ。

 この……えっと、名前は……」

「――白撃剣(Dark Repulser)。名前は、白撃剣(ダーク・リパルサー)

 

 剣の名は、自然にリズの口をついて出た。

 黒解剣と対を成す剣。迫りくる闇を祓い、白き光と共に邪悪を撃つ刃。その剣は、きっと騎士の助けとなり、和人の守りとなるだろう。

 リズの心に灯った火が消えぬ限り、永遠に。

 

白撃剣(ダーク・リパルサー)……いい名前だ。大事に使わせてもらうよ。

 リズの魂と一緒にさ」

「っ!? いっ、いきなり何言ってんのよ!」

 

 どぎまぎとするリズを尻目に、和人は開いている右手で、自分の首の少し下あたりを軽く叩く。

 かつてそこにあり、今はもうどこにも無いリズの――いや、己が握る剣と共に在り続ける魂(Remains Heart)、それをしっかり受け取った事を示すように。

 

「……気づいてたの?」

「ああ」

「いつから?」

「首飾りが無い事に気づいたのは今朝。それがどこに行ったか確信したのは、ついさっき。

 薄々予感はしてたけど……あの白い剣を見た時、はっきりわかった」

 

 今は鈍い鋼の色に染まった細身の剣を、和人は丁寧に布で包み立ち上がる。休息は終わり、そろそろ山を降りるべき頃合いだ。そう言外に告げる和人につられるように、リズもまたゆっくりと椅子から腰を上げた。

 鞘に包まれた魔戒剣を背に、布に包まれた魔戒剣を腰に佩いたあと、和人は不意にリズと視線を合わせる。

 

「剣のお礼をするよ。何がいいかな」

「ああ……えっと……」

 

 しばしの間うつむき、リズは両手の指をぎゅっと絡め、覚悟を決める。

 

「お礼は、いらない」

「……?」

「その代わり……」

 

 そこから先を口にするには、勇気が必要だった。今までのリズであれば、決して得られなかっただろう勇気が。胸の中に残る熱に後押しされるように、リズは勇気を振り絞る。

 

「その代わり、あたしを和人の専属法師(スミス)にして欲しい」

「それって、どういう……」

「ホラー狩りから戻ったら、あたしに装備のメンテをさせて。毎日――これからずっと!」

 

 ホラーと対峙した時以上の速度で、リズの心臓が早鐘を打つ。心の中にある火が顔まで上ってきたかのような熱さを頬に感じる。きっと、顔はもうとっくに真っ赤なのだろう。脚は今にも震えだしそうで、逃げたくてたまらない。

 それでも、ここまで来て逃げ出すくらいなら――それこそ、死ぬほうがよっぽどマシだ。

 

「……リズ」

「和人。あたし……あたしね……」

 

 じっとしていられず伸ばしてしまった右手は、暖かさを求めるかのように和人を目指す。

 リズのその手を――和人の左手がぐいと力強く引き、そのままリズの体を抱き寄せる。

 

「か、かずっ――!!」

 

 突然の情熱的な抱擁に、心の準備など一切出来ていないリズの声が上ずる。触れ合う肌と衣服を通し、鼓動の音が相手に伝わってしまうのではないか。混乱する頭の中でそんな懸念を抱いたまま視線を上に向ければ、そこに見えるのは、眉間に皺を寄せた険しい表情の和人と、背中の鞘から抜かれ行く魔戒剣の姿。

 リズの体を抱きしめたまま、和人がバックステップで軽々とテーブルを飛び越えた直後。

 

「来る」

 

 その言葉を引き金としたかのように、屋根の破壊される轟音と共に、何かが上方より降下してくる。屋根に使われていた木材の破片が降り注ぐ中、さっきまでリズ達が座っていたソファが粉々に破壊され、中に使われていた綿が噴き上がる。

 その様は降り積もる雪か、あるいは舞い散る天使の羽か。どちらにせよ、その中に立つ異形には似つかわしくないことだけは確かだ。

 瞬く事のない、白く濁りきった二つの目。節足動物の脚に似た二本の角が伸びる頭部。全身の肌は山火事で燃え尽きた樹木のように荒れて捻くれ、辛うじて人間めいた四肢の先には鋭い爪が伸びる。片や白鳥の、片や蝙蝠のそれを想起させる一対の翼が生えた背、その下部から伸びるのは、かえし(・・・)をつけた巨大な鏃めいたパーツを先端に生やした長い尾。

 その姿は悪魔めいて――否、それは実際に悪魔だ。人の心に付け入り、人を惑わし、人を喰らう者。そして、魔戒騎士にとって最大の敵。

 

「妙な気配がすると思ったら……やっぱり、ホラーか。

 さっきのデカブツの敵討ちにでもしにきたか?」

 

 左手にリズを抱えたまま軽口を叩き、和人は悪魔――ホラーに右手に構えた魔戒剣の切っ先を向ける。

 ホラー、その悪魔の如き姿は、まだ陰我持つ人間に憑依していない証。魔戒の側に立つ者達の間で、俗に『素体ホラー』と呼ばれるそれは、ほとんどのホラーにとって基本となる姿だった。

 和人の挑発に対し、素体ホラーは大きく口を開き咆哮する。牙の間から垂れた唾液が床に落ち、しゅうしゅうと耳触りな音を立てて床材を溶かしていく。

 

「――3数えたら、後ろに跳ぶ。目と口を閉じててくれ、リズ」

 

 ホラーに視線を向けたままの和人が囁く声に、リズはこくりと頷き、言われたとおりに目を閉じ唇を固く結ぶ。

 直後、ホラーが動く。前方へ宙返りしながら、尻尾の先にある鏃を叩きつけようとする。1。

 その鏃を魔戒剣で弾き返し、和人はそばにあったテーブルをホラーへと蹴り飛ばす。2。

 

「――ッ!!」

 

 3。

 蹴り上げられたテーブルの直撃を受けホラーが一瞬怯んだ瞬間、和人はリズを抱きかかえたまま後方へ大きく跳躍。背後にある外を一望できる大きな窓を、右の肘鉄でぶち破りながら外へと飛び出す。更に、二度、三度とバックステップを続け、ガラスの破片を吹き散らしながらホラーと距離を取る。

 

「さっきのホラーの邪気につられて、現世に出てきたってところかな。あれ」

「……だと、思う」

 

 抱きしめ続けていたリズの体を離し、和人は空いた左手に二本目の剣を握る。はらりと外れた布が地面に落ち、すっかり夜を迎えた空の下に二振りの鋼が姿を表す。

 リズをその場に待機させ、和人は今しがた飛び出してきたばかりの家に向けて静かに歩き出す。数歩進んだ所で、ホラーが家の中から放り投げたテーブルが真正面から迫るが、その程度で今更どうなるような男ではない。

 交差する十字軌道で振るった左右の剣で、テーブルを四分割に寸断したあと。和人は剣を天に掲げ、白く輝く二重円を描く。

 空間に裂け目が刻まれ――魔界より召喚された銅色の鎧がその総身を覆う。

 

『……こっちは、元に戻るのか』

 

 白撃剣を握る左腕にちらりと視線を落としながら、和人は呟く。白と黒の騎士剣、そして銅色の鎧に一切のひび割れはない代わりに、あの時現れた星と闇の色は消え失せていた。まるで『今はまだその時に非ず』と伝えるかのように。

 視線を前に向け直し、和人は足を止めて左右の手に携えた剣を構える。左腕を前に、右腕を後ろに。白と黒の剣を油断なく構えた鋼の騎士の先に、地面に散らばったガラス片を踏み潰しながら、家の中よりホラーが進み出てくる

 黒い悪魔の姿が一つ、さらに、もう一つ。唸り声をあげながら、左右に並び立つ。

 

『二人組だなんて――聞いてないんだがな!』

 

 舌打ちとともに叫びながら、弓に番えた矢のように和人は前方へ己を撃ち出す。踏み込みと共に振るう剣閃は、基礎中の基礎たる右手よりの斬撃。横に振り抜かれた黒解剣が、向かって右側にいたホラーが突き出す爪が鎧に届くより先に、その腕ごとを胴体を叩き斬る。

 ホラーの肉体が消滅し、邪気が黒解剣に吸い込まれていく中、その振り抜きの余勢を使い、和人は右足を軸にその場で一回転。先程の振り抜きと同じ腕の動きで、握った黒い剣をホラーに向けて投擲する。

 しかし相方が斬られた時点で不利を悟っていたのか、漆黒の風車の如く翔ぶ剣が到達するよりも、ホラーが背中の羽で天に羽ばたく方が早かった。

 必殺の剣をつま先が掠める寸前、辛うじて回避することに成功したホラーが天に飛び立っていく。

 

『逃げる気か!?』

 

 天空へ舞い上がるホラー。その翼がはためき、更に高度を得ようとした次の瞬間。

 夜に染まりつつある空を斬り裂くように超高速で飛来した『光』が、その翼を撃つ。

 

(今の……まさか、法術!?)

 

 視界で一瞬だけ捉えることができた、朝日を浴びる氷柱が放つ光にも似たその輝き、その気配は、間違いなく魔戒法師が使う法術の一種。しかしその飛来速度はリズが知るどの術よりも早い。

 さながら、アンチ・マテリアル・ライフルから放たれた弾丸の如き速度で翔ぶその法術に翼を撃たれたホラーはバランスを大きく崩し、飛行体勢を保てずに真下へと落ちていく。

 

『もらったッ!!』

 

 落下してくるホラーに向けて、白撃剣の柄を両手で握った和人が真下より跳躍。落下するホラーと入れ替わるように上昇する刃に背中から胴を絶たれ、もう一体の素体ホラーもあっさりと消滅した。

 それから数秒の後。重力に抗えなくなった和人は、鎧を魔界へ返還しつつ地面へと降り立つ。リズは地面に落ちた布を拾い、瓦礫の中に突き立つ黒解剣だった剣を回収する和人の元へ駆け寄る。

 

「和人……さっきの、見た?」

「ああ」

 

 リズの手から布を受取り、魔戒剣に巻きつけながら和人は頷く。

 

「相変わらず、いい腕だ」

「え?」

「何でもない。独り言だよ」

 

 まるで懐かしいものを思い出すようにどこか遠くを見ながら呟き、里の出口に向けて歩き出す和人。黒い鞘に収まった剣を背負うその後ろ姿を、リズも数歩遅れて追いかける。

 隠れ里の入り口にある山門の側まで近づいた所で、リズは山中へ続く坂道から聞こえてくる足音に気づく。リズ同様足音に気づいたのか、不意に立ち止まった和人の側に場所を移し、リズは視線をその先に向ける。

 

(魔戒法師……よね?)

 

 山門の向こうから姿を表したその少女を、リズはじっと見つめる。

 坂道から最初に見えたのは、晴れた日の空の様に蒼い髪。顔の左右で一房ずつ束ねたその髪の色は、恐らくは自分と同じように強い法力の作用によって発現した色。

 年の頃は自分とさほど変わらないか、あるいは少し年下といったところだろうか。怜悧な印象を与える整った顔立ちの中にあるのは、髪と同じように蒼く染まった瞳。淡いグリーンをベースにした上着と、動き易さを重視したようなホットパンツ状の魔法衣からは、僅かにだが位置偽装法術の残滓を感じる。

 それ以上にリズの目を引くのは、彼女が背負う大型の魔導筆。軸長はざっと1mはあるだろうか。筆先の長さは通常のものとさほど変わらないだけに、軸の長さが余計に際立つ。

 まるで氷を削り出して作られた彫像の様に冷たく固い表情のまま、蒼い髪の少女は和人の正面に立ち、ほんの一瞬だけリズの方を見たあと、睥睨するようにじっと和人に視線を固定した。

 剣呑な雰囲気が漂う中、その視線を受ける和人の態度は、どこまでも飄々としていた。

 

「――助手(スポッター)になればいいか? 詩乃」

 

 その言葉が、和人の口から零れ落ちた直後。

 まるで冬の終わりと共に春が始まった直後、いきなり夏が訪れたかのように、少女の顔を支配していた冷たさはどこかに吹っ飛んでいき、朗らかな満面の笑みが一瞬で取って代わる。

 あまりに急な表情の変わりっぷりにリズは心底驚かされ、蒼い髪の少女が何の前触れもなく和人に抱きついた時も、間に割り込んで止めることすらできなかった。

 

「ふふふっ。約束、ちゃんと憶えててくれたのね。和人」

「当たり前だろ。詩乃」

「シノン」

「え?」

「シ・ノ・ン。私の新しい名前。一人前の魔戒法師としての、ね」

「お、おう……わかった。これからはそう呼ばせてもらうよ」

 

 困ったような笑みを浮かべた和人の手が、詩乃、いやシノンと呼ばれた少女の背をぽんぽんと叩く。それを合図に、シノンは和人の首に巻いた両腕をようやく解き、密着させていた体を離した。

 和人の背負う剣、そして腰に佩いた剣の柄に視線を向けた後、シノンは小さく首を横に振る。

 

「残念だけど、私の負けね。約束通り、あなたを私の助手にするのは諦めてあげるわよ。

 一人前の魔戒騎士サマ」

「――えー、ごほん、ごほん。おっほん、おっほん」

 

 わざとらしい咳を繰り返す事、数度。ようやくリズの存在を思い出したのか、黒と蒼の瞳がそろってリズの方を向いた。黒い瞳の持ち主には苦笑いが浮かび、蒼い瞳の持ち主はきょとんとした顔でリズを見つめている。

 

「ねえ、和人。あたし、話がぜんっぜん見えないんですけど。説明してくれる?」

「あ……ああ、ごめん。リズ、紹介するよ。彼女はシノン。俺の昔の修行仲間で、魔戒法師」

「へえ……もしかして、前に蔵で言ってたのって、この人のことだったの?」

「ああ、その通り。ついでに言えば、さっきのホラーを撃ち落としてくれたのも、彼女」

 

 和人の紹介を受け、リズは改めてシノンを見つめる。一瞬だけどうしても値踏みするような見方になってしまうが、それはお互い様というものだ。

 内心に気合を燃やしながら、リズは右手を差し出す。

 

「はじめまして、リズベットよ。よろしく、シノンさん」

「はじめまして。『さん』付けはしなくて結構よ。あなたもご同類(・・・)みたいだし」

「……そういうことなら、あたしの事もリズでいいわ」

 

 リズの右手と、シノンが差し出した右手が握手を交わす。笑顔で交わす視線の上で、凍てついた吹雪のような意思と、燃え盛る爆炎のような意思がぶつかり合っていることに、恐らく和人は気づいていないのだろう。

 この期に及んで、譲る気など微塵もない。もし、相手が付き合いの長い親友であるなら話が別だが、今日出会ったばかりのご同類(・・・)に負けてやるつもりなどあるはずがない。無言の宣戦布告を互いにぶつけ合いながら、二人は握った手を解く。

 

「そういえば、シノンはなんでわざわざこんな所に?」

「番犬所の指令よ。あなたがなかなか戻ってこないから、様子を調べに行けって言われてね。

 途中でホラーの気配を感知して追いかけてみたら、丁度逃げ出そうとしてたから……バンっ、て」

「そうだったのか」

「ええ。それにしても……いったい、何があったの?」

「ああ、実は――」

 

 ここに来てからの顛末を和人がシノンに説明している間、リズは山門の柱に寄りかかり、これからの事について思いを馳せる。

 配属されるはずだった工房はホラーの襲撃を受け、先輩になるはずだった法師たちは皆殺しにされた。残された設備も、最早使い物にはならないだろう。この工房は死んだも同然だ。

 『専属の魔戒法師にして欲しい』なんて口走ってしまったのにも、行く先を見失った心細さは無関係では無いのだろう。

 

「――って事があってだな……」

「なるほどね……事情はだいたい理解できたわ」

「とりあえず、山を降りよう。リズもそれでいいよな?」

 

 和人の問いかけに、首を縦に振る。

 これからのリズの人生、何がどうなるにせよ、少なくともその向かう先はこの場所ではなくなったのは確かだ。ならば、悩んでいてもしょうがない。

 先頭に立って山道を降りていく和人の後に続き、リズはシノンと共に命の消えた隠れ里を後にする。

 

 

 

 なお。

 帰路においても、和人の腕に抱え上げられながら蔦の橋を渡る羽目になったのは言うまでもない。

 自力で渡ってきたシノンが、少しばかり羨ましそうな顔をしていたことも付け加えておく。

 

 

――――――

 

 

「――っと、いうわけで。あたしは見事行く宛を無くしたのでした」

 

 そう言い、明日奈お手製のレモンケーキ、その最後の一欠片をリズは口の中に放り込む。舌の上で躍る爽やかな酸味となめらかな口溶けは、そこらの洋菓子店で売られている品に全く引けを取っていない。

 

「……あれ? リズって、『綾の番犬所』に所属してるんじゃなかったの?」

 

 リズが語る過去の話と、現在の状況が結びつかず困惑する明日奈。その問いに対し、答えを返したのはシノンだった。

 

「元々、『綾の番犬所』に所属するのは、和人と私だけの予定だったんだけど、そこにリズを加えたの。

 和人が直接、北の番犬所の神官に話をつけに行ってね」

「キリトくんが?」

「ええ。『リズは俺の専属魔戒法師です。行先が未定なら、綾の番犬所所属としてください』って。

 二つ返事とはいかなかったけど……綾の番犬所も人手不足だったし、最終的にはなんとかなったわ」

 

 綾の番犬所を統轄しているのは『東の番犬所』であり、リズがかつて所属していた北の番犬所ではない。番犬所間でどういった話し合いがされたかは定かではないが、最終的に和人、そしてシノン同様、リズもまた綾の番犬所に籍を置く事になった。

 紅茶のお代わりに口をつけたあと、シノンがぽつりと呟く。

 

「色々あったわよね……。東の番犬所が『和人のお父さんの遺産を預かってる』っていうから、3人で確認しに行ってみたら……」

「まっさか、こーんなでっかいお屋敷だなんて思わなかったわよ。ね?」

「ええ。家とは聞いてたけど、昔はギルドハウスとして使われてたの屋敷だなんて思わないわよ」

「おかげで、掃除もリフォームも大変で……全部綺麗になったのって、半年ぐらい経ってからよね……」

 

 喉元過ぎればなんとやら。昔の苦労も、時間が経った今ではいい思い出の一つだ。 

 和人に『鎧を装着した状態で使えるバイクって……用意できないかな?』と言われ、苦労して試作機を用意してみたはいいが――デビュー戦でお釈迦にされ、今は番犬所内で修理されていることも。

 シノンに『私の魔導筆なんだけど……いっそ、狙撃銃みたいにできないかしら?』と言われ、考えてはいるものの、そちらには大した進捗がない事も。

 

「……ねえ、リズ」

「どうしたの、明日奈?」

 

 何か得心しきっていないような表情を浮かべた明日奈が、リズの方をじっと見つめ、少しだけシノンに視線を移した後、再びリズの目をじっと見つめる。

 

「その……私の勘違いだったら謝るけど、もしかしてリズって、きっ、キリトくんの事……」

「好きよ」

「……へっ?」

 

 予想外のタイミングで機先を制され、明日奈の動きが石像のようにぴしりと固まる。

 

「あ、ちなみに。シノンもそうよね?」

「ええ。私も好きよ。和人のこと」

「あいつ……めちゃくちゃ鈍いくせに、こっちをドキドキさせる言動を自然に繰り出してくるから……」

「時々、わざと鈍感なフリしてるんじゃないかって疑いたくなったわよね……」

 

 次々放たれる追い打ちに、止まっていた明日奈の時がようやく動き出す。しばしの間、餌を求める金魚のように口をぱくぱくとさせたあと、明日奈はようやく意味のある言葉を紡ぎ出す。

 

「ち、ちっ、ちなみに……キリトくんと……お、お付き合い的な関係にあったり……」

「するわよ」

「ど、どっちが!?」

「どうだと思う? あたしと、シノン」

 

 リズの意地悪な問いかけに対し、明日奈はきょろきょろと視線を彷徨わせる。悩みに悩み続けた末、最終的に榛の瞳が向けられた先にあったのは、桜色の瞳。

 

「ざーんねん、ハズレ」

 

 それでは、と。見つめられた先にあるのは蒼色の瞳。

 

「ハズレよ」

「……え?」

「まあ、惜しかったわね。50点ってとこかしら」

「え? ええっ?」

 

 困惑を露わにする明日奈に、シノンは片目を閉じてウィンクを返す。提示された選択肢は正しく、正解はその中にしっかりとあった。間違っていたのは、あくまで選び方だ。

 リズはくすりと笑いながら、シノンの顔の横へ頬を寄せる。明日奈の視界の中に、二色の瞳が揃って映るように。

 

「正解は……『どっちも』でした」

「えっ――――――えええええええええええええええ!?!!?」

 

 リズとシノン。二人が言わんとする所を正しく理解し、明日奈は驚嘆と混乱の叫びを上げる。

 事情説明は明日奈が落ち着きを取り戻してからになるだろうが――一番の理由は、同類が欲しかったという事になるだろうか。

 リズは魔戒法師。どれだけ大切に想っていても、傷つくと分かっていても、ホラーの蠢く戦場に征く騎士を『いかないで』と止める権利は無い。リズにできるのは、自分の身をほとんど顧みないような騎士を送り出し、その帰りをじっと待つ事だけ。 

 もし『誰か』が――戦場に赴き、騎士を援護できる『誰か』がいれば。

 その『誰か』も、きっと考えていたのだろう。騎士の装備を不足無きよう整え、傷ついたその体を癒やすことできる『誰か』がいれば、と。

 そして『誰か』と『誰か』は、同類になった。大切な人を笑顔で死地に送り出し、戦場に導く罪を共有する同類(ともだち)に。

 

(でも……もし、シノンが魔戒法師じゃなくても、きっとこうなってたわよね。あたしたち)

 

 カップを持ち上げ、残っていた紅茶を味わいながらリズは内心で独りごちる。

 昔から言うではないか。『英雄、色を好む』と。

 桐ヶ谷和人は、間違いなくリズにとっての英雄(ヒーロー)。それは、シノンにとっても同じ。なら、こういう関係に落ち着くのは必然だったのかもしれない。

 

(明日奈。あなたにとっての和人は――英雄? それとも……)

 

 ショック状態から戻りつつある明日奈を見つめ、リズはカップに残っていた紅茶を飲み干した。心の中に留めた問いかけをぶつけてやる日が、いつか来るかもしれないと考えながら。

 

 

――――――

 

 

 光。

 降り注ぐ太陽の輝き。あるいは燃え盛る炎の煌めき。

 視界を、そして周囲全てを埋め尽くす光の中に、騎士は――桐ケ谷和人は、ただ立ち尽くしていた。

 

「ここは……」

 

 内心の疑問が、問いとなって口の端よりこぼれ落ちる。記憶の糸を辿れば、最後に思い出せる光景は、自室のベッドから見上げた天井。ユイに命を分け与える為――つまりは、死ぬため、体を横たえたはずだというのに、気づけば見たことのない場所に立っている。

 状況への理解は追いつかず、頼れる剣も共に無い。だというのに、不安や恐怖を感じないのは、この空間に満ちた光のせいなのだろうか。

 

『――時の流れより外れし世界』

「……ッ!?」

 

 背後から聞こえてきた声に驚きつつ、和人は振り返る。

 その視線が捉えたのは、またもや光だった。ただ一つ違うのは、その『格』。

 周囲に満ちるそれとは一線を画する、金色の光。揺らめきながらも確かな姿を保ち、人の形を象った金色の輝き。その中で唯一、燃える炎のような紅色をした二つの点は、瞳とみて間違いないだろう。

 

『契約により、お前の命は一日分、ホラーに呑まれた。

 ここは、呑まれて消えた(とき)揺蕩(たゆた)う場所』

「刻の……揺蕩う場所……」

 

 威厳と誇り、信念に裏打ちされた静かな声。遠い日の彼方、どこかで聞いた憶えのある声で和人にこの場の所以を教えながら、金色の光は和人に向けてゆっくりと歩きながら近づいてくる。

 揺れめく光に覆い隠され、細部の姿形がはっきりとわかるわけではない。それでも、その勇壮な立ち居振る舞いと、圧倒されるほどの存在感に和人は確信する。

 彼もまた魔戒騎士。言うなれば『光の騎士』とでも呼ぶべき、気高き存在なのだと。

 

『過去。現在。未来。全ての刻が分かたれること無く、ここにはある』

「あなたは……いったい……」

『若き騎士よ、お前の征く道に待つ苦難を恐れるな。迷う時は自らの剣に問え。

 守るべきは、何者かと』

「――守るべき、者……」

 

 重厚なる超金属が響かせる鋼の足音と共に、光の騎士は歩みを進め、動くこともできないでいる和人とすれ違う。

 

『全ての答えは、そこにある』

 

 その足音が、和人の横で止まった。

 

『――なるほど。俺よりは、オヤジに似たな』

「えっ?」

『強くなれよ。二刀流』

 

 今までとは僅かにトーンの違う、どこか親しみの篭った声音に当惑する和人の背を、大きな金色の手が、どんと力強く叩いた。

 思わず振り返った先に、もうその姿は無い。

 ――きっと、活を入れられたのだろう。背に未だ残る、『炎』の熱さと、『獅子(Leon)』の気高さを秘めた一打の感触が、和人にそう教える。

 

「俺の……守るべき者」

 

 視線の先で、光が道を成す。消えそうな程に儚く(VANISHING)、しかし決して消えぬ系譜(LINE)の如き道を成す。

 あの道の先に、きっと。桐ヶ谷和人の『守るべき者』が待っている。

 ならば征こう。たとえその道が、ホラーとの死闘に満ちた屍山血河であろうとも。

 

 光となって揺蕩う刻の中より、和人は足を踏み出した。

 今一度新たにした、誓いと信念を胸に。

 

 

 5:【想剣】 終

 

 

――――――

 

 

 お前達、アスカ・エンパイア(ゲーム)をやらないか。

 ただしゲームオーバー即ち死。命がけのプレイになるがな。

 

 次回 【幽戯】

 

 還魂の聖晶石(レアアイテム)を使ったって、生き返らないぜ。

 

 

――――――

 


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