黒ずくめの魔戒騎士   作:Hastnr

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3:【継翔】

―――――

 

「――まあ、こんなものか」

 

 未だ野鳥すらも目覚めきらぬ、早朝。

 年季の入った巻物(スクロール)を、リビングの大きなテーブル上に広げながら、キリト――もとい、和人は誰にともなくため息をつきながら、背もたれに体重を預けた。

 『綾の番犬所』で、刻銘の儀式を終えた翌朝。普段なら眠っている時間帯に目を覚ましてしまったのは、彼女らが横にいない夜を、普段と違うベッドの上で過ごしたせいか。

 あるいは、魔戒騎士の称号――『夜天騎士斬討』の名を背負って迎える、初めての朝だからか。

 不思議と二度寝する気にもなれず、気付けば誰もいないリビングで椅子に腰掛けながら、和人は番犬所の神官・シリカから昨夜借り受けたスクロールを広げていた。

 そこに刻まれているのは、脈々と受け継がれてきた魔戒騎士の系譜図。その末尾。当代の継承者を示す部分に記されているのは、『夜天騎士 斬討』、『桐ヶ谷 和人』、『綾の番犬所』という3行の言葉。騎士の称号、開祖の名、所属する番犬所の名だけという実にシンプルなもの。この後、誰かが夜天騎士の鎧を継承すれば、その者が和人の後に記載されていくのだろうが、当然そちらは未だ空白だ。

 見るべきものを見終え、スクロールをしまおうと手を伸ばしかけたその時。扉が開かれる小さな音に気付き、和人はそちらを向いた。

 

「おはよう、シノン」

「お、おはよう……和人。……珍しいわね、あなたがこんなに早起きするなんて」

「ああ。正直、俺もそう思うよ」

 

 蒼い髪をした少女――シノン。怜悧な微笑みと共に、僅かに心配と不安を滲ませながら『何かあった?』と問うてくる視線に、和人は首を横に振って応える。

 そんな和人に小さく頷きを返し、シノンは後ろ手に部屋の扉を閉める。淡いグリーンを基調にしたシンプルなナイトウェアは、形状こそ和人の寝間着代わりである黒いジャージ上下と大差ない気がするのに、どうしてシノンが着ると健康的かつ、それでいて微かに蠱惑的な美しさを漂わせつつ見栄えするのだろうか。

 

「シノンこそ、今日は早起きじゃないか。みんなは?」

「まだ眠ってるわ。和人も、私達と同じ部屋で寝ればよかったのに。

 ユイちゃん、パパがいなくてちょっと寂しそうだったわよ?」

「いやいや。それはさすがに……明日奈と木綿季もいるし……」

「冗談よ――半分くらいは、ね」

 

 いたずら好きな子猫のように笑うシノンに、和人は曖昧な苦笑を返す。

 昨夜、明日奈と木綿季が、和人の刻銘の儀を見届けた後。だいぶ遅い時刻になってしまった上に、服がまだ乾いていないという事情もあり、二人はそのまま和人の家に一泊していた。古屋敷の空き部屋は数こそ十分ではあったが、普段ほとんど使われていないせいで、客人を泊めるには適さず――結局、和人が自分の寝室を明け渡し、そこに明日奈と木綿季、ユイ、更にリズとシノンが眠るという形に落ち着いた。

 理由としては至極単純。そこに大人6人や7人程度なら余裕で横になれる、所謂キングサイズのベッドがあったから。明日奈(ママ)達と一緒に寝たがったユイの希望を叶えてやれるのと、今後の事など女同士でしか話しにくい事もあるだろうから――と、彼女らに快く寝室を明け渡し、和人自身は空いている部屋のベッドを適当に片付けて横になった。

 その気になればだいたいどこでも眠れる自分の体質に感謝したのは、久しぶりだ。

   

「それで。こんな朝早くから、一人で何してたの?」

「ああ。妙に時間が空いちゃったからさ、昨日借りてきた系譜図を見てた」

「私も見ていいかしら?」

「もちろん」

 

 椅子に座ったままの和人の体に両腕を回し、後ろから抱きしめるようにしながら、シノンは系譜図に視線を落とす。寄せられた頬の柔らかな感触と、僅かに清涼感のある軟らかな薫りが、和人の感覚器官に心地よい刺激を与える。

 羊皮紙に似た質感を持つ特殊な紙に描かれた系譜図の最後。『夜天騎士斬討(キリト)』の名が刻まれた、最も新しき者のための場所に、彼女の水色の瞳は向いているようだった。

 

「――あの和人が、まさか称号持ちの魔戒騎士になる日がくるなんて……。

 あなたと初めて会った時の私に教えたら、いったいどんな顔するのかしら」

 

 過ぎし日を懐かしむ温かさが滲んだ声で、シノンが呟く。

 

「たぶん……ものすごく呆れた顔されて、終わりだろうな。

 ……あの時のシノンさ。俺の事を、魔戒法師を目指す女だと思ってたし」

「ふふっ、確かに。呆れられて終わりよね。だって――」

 

 今より7年ほど前。和人がようやく12歳になったばかりの子供だったころ。

 和人はシノンと初めて出会い、シノンは和人の事を『女の子』だと誤解した。確かに、男女比が半々ぐらいの環境ではあったし、その頃の和人は華奢な子供で背も今より低かったから、性別はわかりにくかったのだろう。

 シノン曰く、

 

『あなたね……自分の顔と、当時の年齢を思い出して考えてみなさい。

 どこに誰が見たって、女の子だって思うわよ』

 

 という事らしいが、それを素直に受け入れるのは――心理的(プライド)にやや抵抗があった。

 

「――女は、どうやったって魔戒騎士になれないもの」

 

 薄緑のなめらかな布地が包む細い腕に込められた力が、僅かに強くなった。

 女はソウルメタルの武具を扱えず、女は魔戒騎士の鎧を纏えない。

 魔戒の側に生きる者にとって、それは常識中の常識だ。どれだけ体を鍛え、どれだけ技を磨き、どれだけ術を操ろうと、それは変わらない。

 リズやシノンのように、ホラーと直接戦う事も出来るような魔戒法師であっても、女である限りは決して魔戒騎士にはなれない。和人のように魔戒剣を振るうどころか、僅かに持ち上げて動かすことすらも不可能なのだ。当然、鎧の召喚など出来るはずもない。

 その一方で、同じソウルメタル製であっても、魔導具ユイなどであれば、何の支障も無く持てるのだから不思議としか言いようがない。細かい理由は以前に誰かから聞いたような気がするが――和人には今ひとつ理解できなかったような記憶が、うっすらとある。

 

「大事にしなさいよね。皆で考えた、あなたの称号(なまえ)なんだから」

「ああ。シノン――それに、みんなが俺にくれた称号(なまえ)。大切に背負っていくさ」

「約束よ。いくら重たいからって、途中でどこかに捨てたら、許してあげないんだから」

「もしそんな時が来たら、シノンが拾って、俺に突っ返してくれ」

 

 冗談めかした声音(トーン)の中に、真剣な願いを包み込みながら。和人の耳元に唇を寄せ、シノンはしっとりと囁く。その細い指先がなぞるのは、系譜図に刻まれた和人の名。

 幾代にも渡り続いてきた系譜の中で、個人の名が刻まれているのは、この一箇所だけ。和人より上の世代の騎士達――『ハガネ』を継承してきた騎士達の名は、系譜図に刻まれることはない。たとえ、それが実の父親であっても。

 番犬所の名と、大まかな管轄地だけが記された系譜図を遡っていくシノンの指が、スクロールの起点に近づいた所で静かに止まる。

 

「……? ねえ、和人。地名よね、これ……?」

「だと思うんだけど……聞いたことないよな、こんな場所」

「ええ。ブイ、エー、エル……『Valiante』……『ヴァリアンテ』で、いいのかしら?」

「たぶん……な」

 

 系譜図の始点。

 夜天騎士斬討につながる最初の魔戒騎士。

 その名も知れぬハガネの装い手は、『ヴァリアンテ』と呼ばれる地域、あるいは国を守る魔戒騎士だったらしい。和人はもちろん、シノンもその地名に心当たりは無かったが、少なくともこの国、そして東アジア圏の地名では無いだろうという見解は一致した。

 系譜図を辿る限りでは、初代から数代を経た後、ハガネの継承者は鎧と共にヴァリアンテなる地を離れたようだ。それが番犬所の指令なのか、個人の意思だったのかは分からないが、その後もハガネの魔戒騎士は代を重ねつつアジアを経由し、和人の4代ほど前にこの国に入ると、そこでようやく腰を落ち着けたようだった。

 

「とても長い旅をしてきたのね、あなたの鎧」

「ああ。俺も、初めて見た時は驚いたよ。ずっとこの国にあったんだろうって、なんとなく思ってたからさ」

「きっと……色々な場所で、誰かの為に戦い続けてきたんでしょうね。あなたのご先祖様達は」

「………………」

「和人?」

「いや……その。こんな凄い鎧の後継者が俺でいいのかって、改めて考えたら……自信が……」

 

 和人を除いて数えたとしても、10名以上の騎士が受け継いできた鎧。きっと数百年の、いや、千年の黄昏(ミレニアム・トワイライト)の残光をまとい、闇に蠢く悪魔(ホラー)達と戦い続けてきた騎士の魂。自分が思っていた以上に長く重い来歴に圧倒され、和人は思わず呻き声を漏らす。

 今更ながら妙なプレッシャーを感じている和人の耳元で、シノンはくすくすと控えめな笑い声を零した。

 

「そんな心配しなくても、あなたは立派な騎士よ、和人。初めて出会った時から、ずっとね」

「シノン……」

「だから、リズやユイちゃんの為にも胸を張って堂々と前に進みなさい。『夜天騎士斬討』。

 あなたの背中は――私が、もう誰にも傷つけさせないから」

 

 氷細工のように繊細な手を、和人の手に重ねながら。シノンはしっとりとした声と共に、静かな決意を捧ぐ。

 場所も知らぬヴァリアンテの、名も知れぬ騎士から始まった遥かな系譜。鎧の継承は一子相伝とはいえ、時に魔戒騎士は血の繋がらぬ弟子を取り、鎧を継承させる事もある。あの冴島家や楠神家ならともかく、ただのハガネの系譜、その全てが血縁者とは限らないし、和人が初代の騎士の血を継ぐ者なのかはわからない。

 それでも、一つだけ。確かに受け継がれたものがある。それは、戦う牙を持たぬ無辜の民を、魔獣・ホラーの邪爪より守り続けんとする鋼の志。

 その永遠に続く想いを、今度は和人が次代に繋げていく番だ。それは、死する事も、折れる事も許されぬ険しき道。だが、その道を歩む若き騎士は、もう孤独な戦士(ソロプレイヤー)ではない。

 

「……なあ、シノン」

「なに?」

「これからも、よろしく頼む――相棒」

 

 短い言葉の中に、頼れる魔戒法師(スナイパー)への信頼と、大切な魔戒法師(シノン)への親愛を込めて。

 この先も幾度となく訪れるのであろうホラーとの戦いに、共に挑んでゆく彼女の方に顔を向け、和人は蒼い瞳を真っ直ぐに見つめる。

 

「ええ、こちらこそ。私の――」

 

 言葉を最後まで紡ぎきるより早く。白氷の怜悧さと太陽の眩しさが絶妙にブレンドされた、穏やかな微笑を浮かべたシノンは、静かに目を閉じ、艶めく唇を和人のそれと重ねる。暫しのキスが、受け継がれる想いの長さにも負けぬ永い永い交歓(くちづけ)に変わるまで、そう時間はかからなかった。

 

 

 

―――――

 

 

 

『――パパ。そこの路地を右に入ったところに、邪気を感じます』

「ああ、わかった。ありがとな、ユイ」

 

 ユイ――首から下げた魔導具が、かちかちという金属音と共に告げる。目から上がヘルムめいた装飾で覆われた、少女を象ったメタルシルバーカラーの首飾りを優しく撫でながら和人は礼を言う。そうして、自分を父親(パパ)と慕ってくれる少女(ホラー)・ユイのナビゲートに従い、彼女が邪気を感じた方向に足を進める。

 リズ、シノン。明日奈と木綿季、そしてユイ。食卓を囲む人数が増えたことで、いつもより賑やかになった朝食の後。大学生である明日奈達を木綿季のマンションまで送り届け、シノンに日中の監視役(スポッター)を任せたところで、和人は3人とは別行動を取っていた。

 大学に用は無いし、明日奈(念の為、木綿季も含めて)の周囲に、ホラーの気配が無いか探るだけなら誰か一人がついていれば事足りる。そもそも、ホラーが本格的に活動を行うのは夜間なのだ。日中はそこまで厳重に監視する必要もない。その役目をシノンに任せ、和人が向かうのは『綾の番犬所』の管轄地である街の中。

 

「――『夜天騎士』(称号持ち)になっても、やることはいつも通りなのね」

「そりゃあな……別に、俺が魔戒騎士(おれ)じゃなくなる訳じゃないし」

 

 左右をビルに囲まれた、狭い路地裏の道。先頭を進む和人のすぐ後ろに続くのは、桜色の髪をした魔戒法師・リズベット。夜天騎士斬討を支えるもう一人の戦友にして、魔導具ユイを始めとした様々な魔導具を創り出してきた、夜天騎士専属魔戒法師(マスタースミス)

 その手の平より一回り小さい、カバーの付いたコンパスに似た形状の魔導具――邪気を探知するための指針を持ったリズを連れ、和人はユイのナビどおりに路地を右手に曲がる。10歩ほど歩いた所で、和人の視界に目的のものが入る。

 

「こいつか」

『はい、パパ』

「……そうみたいね」

 

 和人の問いかけに、ユイが、そして魔道具を持ったリズが肯定を返す。

 乱雑に積まれた荷物の影に隠れるように置かれた、小さい天使を象った像。左右揃っていたはずの羽根は片方が失われ、白かったのであろう全身は、風雨に晒され続けた事で薄汚れ、ところどころが抉れてしまっている。

 背負った魔戒剣、その一振りを抜き放つと、和人は天使像がアスファルトの上に落とす影の中に、その鋭い切っ先を突き立てた。小さい影の中から、歪んだ球体状をした黒い靄のような物体――邪気の塊がふわりと浮かび上がり、そのまま宙に漂う。

 和人は突き立てた魔戒剣を左手で引き抜くと、その柄を手の中でくるりと器用に回し一瞬で逆手に持ち替え、浮かんだままの邪気を鋼色の刃で一閃。ソウルメタルの刃が描く、斜め下から上に抜ける斬撃に斬り裂かれ、黒い靄は跡形もなく霧散した。

 

『浄化に成功しました、パパ。これで、ここをゲートにホラーが出てくることはありません』

「ああ、わかった。……今日はこんなもんかな、リズ」

「……そうね。ゲートになりそうな邪気の塊は、感知できないわ」

 

 ユイとリズ、二人の言葉に小さく安堵の息を吐き、和人は魔戒剣を背中の鞘へと収める。

 『陰我』――憎悪や嫉妬、殺意といった負の想念の塊。それらを宿した物体は、ホラーがこの世に現れるための通路『ゲート』となる。かつてユイが美術館の中庭にあった少女像の影を通り、この世に現れた時のように。

 魔戒剣を振るって邪気を祓い、ゲートを封じる事でホラーの出現を未然に防ぐ――それは、魔戒騎士が日中に行う重要な仕事である。ゲートの封印を徹底できていれば、基本的にホラーがこの世にまろび出てくる事はない。むしろどちらかと言えば、ホラーと直接戦うことの方がイレギュラーなのだ――最近の和人のように。

 

「でも、これで10箇所目よ……? いくらなんでも、多すぎるわね」

「……ああ、同感だ」

 

 深刻な表情で考え込むリズの言葉に、和人は頷く。

 明日奈たちを見送った後。リズを伴い、ゲートを封印するためこうして街を歩き始めて数時間。今しがた封印したばかりの天使像のような芸術品らしきものから、捨てられた自転車、時に道端の電柱やマンホールに至るまで、多種多様な陰我持つ品やその影の中に魔戒剣を突き刺し、浮き上がった邪気を祓うこと、10度目。

 少し前までなら、和人が一日に封じるゲートの数は、どんなに多くても5個ほどだった。ゲートの封印はそれで事足りたし、ホラーとの戦闘も月に1度あるか無いか。綾の番犬所の管轄域がそこまで広くないというのもあるが、仮にこれが他の番犬所の管轄域でも、普通の魔戒騎士一人あたりが担当する数字にそこまで大きな差は無いはずだ。

 明らかにゲートの数が増えたと感じ始めたのは、今から一週間――いや、8日前。それは正に、美術館で『彼女』と出会った日。

 

「……なあ、リズ」

「わかってるわよ。『明日奈と関係ありそうか?』って聞きたいんでしょ?

 今のところ、それは無いわね。『血に染まりし者』にホラーが寄ってくるのは知ってるけど、明日奈は違うし。

 ……仮に明日奈がそうだったとしても、ゲートの数までどっさり増えるなんて、聞いたことないもの」

「そうか……リズ、とりあえず明日奈がホラーの血を浴びてる可能性は捨てよう。

 もし、明日奈とこの件に関連があるとしたら……恐らく、それ以外の何かが原因だ」

 

 和人の言葉に、リズもまた頷きを返す。

 リズやシノンが調べ、ユイが否定している以上ありえない話だが、明日奈が『血に染まりし者』(血のドルチェ)――ホラーの血を浴びた者であるならば、ルナーケンからシガレインの襲撃までの間に、一週間ものラグが発生するはずがない。ホラーにとっては、それくらい極上の獲物であるからだ。そしてリズの言うとおり、万が一そうだとしても、ゲートそれ自体を大幅に増やすような存在ではない。

 

「あたしとしては、明日奈はこの件と無関係って断言できたらいいんだけど……。ホラーに狙われてる事といい、ゲート増加のタイミングといい、ついでに言えば術が効かない事といい……」

「『無関係』って考えるほうが、無理があるよな。

 ……そうだ、ユイ。ユイの方で、明日奈に関して何か気づいた事はあるか?」

 

 首飾りを覗き込むように軽く下を向きながら、和人は問う。リズも同様に、魔導輪ユイに視線を送り、彼女の返答を待った。しばしの間、じっと考え込んでいた様子のユイではあったが、やがてその口角が力なく下がる。

 

『……ごめんなさい、パパ、リズさん。ママとホラーの関連性は、私にはわかりません……。

 ゲートが増えた理由も、まったく……お役に立てなくて、ごめんなさい』

「謝らなくていいよ、ユイ。そもそも、明日奈に関係がある事なのかどうかも分かってないんだ。だよな、リズ?」

「そうそう。むしろ『ユイちゃんにもわからない』って事がわかってるだけ、十分すぎるだけありがたいわよ。だから元気だして、ね?」

『……はいっ』

 

 少しだけ声音が明るくなったユイを、リズは指先で数度、優しく撫でる。自らが作り上げた器の中に、魂を納めたユイに向けるその微笑みはどこまでも穏やかで、そして朗らかだ。

 暫しの間リズの指先で弄ばれ、くすぐったそうにしていた彼女が元気を取り戻した事に和人が安心していると、金属同士がぶつかる微かな音を奏でつつ、ユイが再び口を開いた。

 

『――あの、パパ。そういえば一つ、ママに関して気付いた事がありました』

「本当か、ユイ!?」

 

 突然のユイの言葉に、和人はもちろん、リズも若干驚いた表情でユイを見つめる。

 

『はい。ただ……ホラーやゲートに関係しているのかどうかは、わからないのですが……』

「いや、それでもいい。何かのヒントになるかもしれないし、教えてくれないか、ユイ」

『わかりました、パパ』

 

 本来のユイの姿であれば小さく咳払いをしていたような、僅かな間をはさんだ後。和人とリズ、二人の視線に見つめられながら、かちかちという音と共に口を開いた。

 

『実は、ママの生体反応(バイタルサイン)を観察していて気づいたのですが――』

「ちょっ、ちょ、ちょっと待ってくれ、ユイ。明日奈の生体反応? 観察?」

『はい。パパが、ママのことをとってもとっても心配しているようでしたので。

 ママの脈拍、体温、意識レベルなどを観察し、異常があった時はお知らせできるように』

「ストップ。ユイ、ストップ。一旦そこで止めようかー、ユイ。

 悪いけど、ちょっとだけ待っててくれ、うん」

 

 まだ喋り足りないといった様子のユイを押しとどめ、和人は視線を向ける先を、ユイから

リズに変える。

 

「……どういうことですかね、リズさんや」

「うーん……あんたの娘(ユイちゃん)って、やっぱりすごいわね。

 邪気を感知する精度はあたしの自信作以上だし、バイタルチェックまでとなると……」

「いやいやいやいや、俺が言いたいのはそこじゃなくてだな……」

「冗談よ、冗談。昨日、みんなで寝てる時に、ユイちゃんから『そういう事ができるかも』って話があってね。試しに観察をお願いしてるってわけ。

 私達の目の届かない所で明日奈に何かあった時、ユイちゃんが気づけたら助かるでしょ?」

「念のため聞いておくけど……その話、明日奈は」

「承知してるに決まってるでしょー。あんたと違ってその場にいたんだから」

 

 ユイの突然の発言に驚かされてしまっていたが、言われてみれば確かにその通りだ。昨日は和人以外の全員が同じ部屋で就寝していたし、そこで話されていた事を、当人が知らぬはずもない。

 それに、明日奈に危機が迫った時、それを察知することが出来る手段が増えるのはいい事だ。脈拍や体温といったバイタルサインを感知するだけなら、行動を監視し続けるよりは、明日奈のプライバシーに踏み込みすぎる事は避けられる。メリットの方が大きいだろう。

 

「そういう事なら……。

 なあ、ユイ。ちなみになんだけど、今も明日奈のバイタルをモニターしてるのか?」

『いえ、パパ。今は私とママとの距離が離れているので、モニターできません』

「距離?」

『はい。パパのお家の中くらいでしたら、ママがどこにいてもモニターできるのですが、

 今のように私とママの距離が離れてしまうと、わからなくなってしまうようです』

「なるほどな……」

 

 ソウルメタルで作られた、ユイの髪を撫でながら和人は頷く。

 そんな和人の横で、ユイの言葉にふんふんと興味深げに頷いているのは、リズ。現状の問題点をもとに、魔戒法師(マスタースミス)の頭の中では、改良プランのアイデアが練り上げられているのだろう。腕を組み、小さい顎に手を宛て「中継器……身に付けてても不自然じゃないもの……」などと呟きながら、真剣に考えこんでいる彼女の側に立ち、和人は視線をユイに向けた。

 

「それで、ユイ。明日奈について、気付いたことってのは?」

『はい、パパ。実は、一定の状況下において、ママの体調に変化が見られたのです』

「明日奈の体調に変化……まさか、危険なものだったりするのか?」

『いえ、そんなことはありません。変化自体はありますが、どれも正常値の範囲内です。

 これまでの分析で、鼓動と脈拍に若干の加速、体温の上昇、頬部に微かな紅潮、

 それに加えて肉体のリラックス、また精神の緊張に対しても同様に強いリラックス効果を検知しています』

「……色々あるんだな」

 

 医者ではない和人でも、ユイの言わんとする所はなんとなく理解できる。隣で考え込んでいたリズも、ユイの話はちゃんと聞いていたようだ。視線をちらりと向け、目だけで『わかるか?』と問うてみれば、桜色の瞳が『まあね』と応える。

 明日奈の生体反応が、ホラーを呼ぶ何らかのトリガーになっている――その可能性も、考えられなくもない。無論、根拠は無いし、そんな事例は聞いたこともないが、なんにせよ今は情報が不足しすぎている。手がかりになりそうな物は、なんでもかき集めていくべきだろう。

 

「ユイ。明日奈のバイタルに変化が起きるのは、どんな時なんだ?」

『はい。主にパパを中心とした半径約3m以内にいて、なおかつパパの存在をママが認識している時、ママの体調に変化が見られます』

「……俺?」

『はい』

 

 聞き間違いだろうか。

 

「……………………俺?」

『はい。パパです』

 

 聞き間違いではなかった。

 なるほど、明日奈に変調をもたらす原因は、どうやら和人自身らしい。しかし、そうなるとわからないことが一つ。和人の近くにいる時、明日奈のバイタルが変化する理由だ。

 先程までのリズの様に顎に手をあてながら、和人は考え込む。原因として真っ先に思いつくのは、魔戒剣、魔導火、八卦符に魔法衣。和人が魔戒騎士として常から携えている装備が、彼女になんらかの影響を――いや、明日奈には法師の術が効かないのだから、影響も何も――。

 

「…………ねえ、ユイちゃん」

『なんでしょう、リズさん』

「あなたのパパ……もしかして、気付いてない? 本ッ気で考え込んでるわよね、これ?」

『リズさんの言う『気付く』に関しては不明ですが、考え込んでいるのは間違いないです』

 

 魔導具ユイに目線の高さを合わせ、何やら深刻な表情で話しかけていたリズの顔に、唖然とした表情が浮かぶ。信じられない物を見た、とでも言いたげなそれは、今朝方シノンが見せた驚きの色によく似ていた。

 はあああああああああ、と。大きな、実に大きなため息をついた後、リズはじっと和人の瞳を見つめる。

 

「やっぱり……あんた、全っ然変わってないわ。むしろ逆に安心したわ」

「リズ?」 

「いい、和人? こればっかりは自分の力で気付きなさい。あたしやシノンに頼るのはダメ。

 じゃないと……じゃないと、明日奈に失礼ね、これは」

「お、おう……」

 

 ビシリ、と。

 眼前に指先を突き出されながらリズに宣言され、和人は喉まで出かかっていた『何かわかってるなら教えてくれ』という言葉を飲み込む。リズがこう言うということは、少なくとも明日奈の命やホラーに関わるような話ではないはずだ。魔戒法師として、いや、人として、リズは誰かの命がかかっているような時に、こんな回りくどい言い方をするような女性ではない。

 

「……なあ、リズ。せめて、ヒントだけでももらえたりは……」

「うーん……そうね。ヒント……ヒントかあ。

 あんたに一生気付かれないままってのは、流石に不憫すぎるし……そうね……」

 

 しばし考え込んだ後――リズは何かを思いついたらしく、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ユイの方に視線を向けて口を開く。

 

「ねえ、ユイちゃん。昨日、明日奈の他に二人、体調の観察をお願いしたわよね?」 

『はい。リズさんと、シノンさんですね』

「うんうん、そうそう」

 

 その意図を読みきれず、若干怪訝な顔をして見つめる和人に、リズは上目遣いで「比較検討するのは基本でしょ?」とさらりと答えると、再びユイの方に目線を合わせる。

 

「じゃあ、ユイちゃん。あたしやシノンのバイタルが、明日奈みたいになった事はあった?」

『はい。お二人とも、パパの近くにいる間は常に、ママと同様の状態になっていました』

「やっぱり。……ってことは、あたしの場合、今もそうなってるのよね?」

『はい。仰るとおりです』

 

 満足する答えを得たのか、リズは「ありがと」とユイに礼を言い、鋼色の髪を再び撫でた。魔道具につながる鎖に、ちゃりちゃりと小さな音を立てさせながら、リズは和人の顔を正面から見つめた。騎士に向けられるその微笑みは、頬にさした僅かな赤みも相まって、惚れ惚れとしてしまいそうなほどに魅力的だ。

 

「今のが、超・大ヒントのつもりなんだけど……わかった?」

「…………」

「予想通りだけど……なんというか、安心を通り越して泣けてくるわね」

「……ごめん、リズ」

「謝らないでよ。まあ、正直、あんたならこうなるだろうと思ってたし」

 

 騎士の首へ魔導具ユイをかける時の様に、リズは両の腕を和人の首にするりと回す。いつものように抱擁をねだる彼女を抱きとめつつ、和人は彼女の腰と背に腕を回し、リズの身体を自分の方へと抱き寄せる。ぎゅっと押し当てられる柔らかな感触と共に、わずかに早くなっているという彼女の鼓動までもが伝わって来そうな程に、二人の間から無粋な距離が消え失せた。

 

「ほーんと、あんたってこういう方面になると、途端になまくら(鈍感)になっちゃうのね……」

「どういう方面なのかはわからないけどさ……なんとか鍛えなおしていただけませんかね。

 俺のマスタースミス様」

「あのね……3年かけて鍛えたはずなのに、全然変わらないから驚いてるのよ、こっちは。

 ……明日奈ー。あんた、たぶんあたしやシノン並に苦労するわよー」

 

 昔から特定の方面にだけ『鈍い』、黒ずくめの騎士の胸板に頭を寄せて静かに目を閉じながら、リズは友人へ届くことのないアドバイス、あるいは和人に対するあてつけめいた呟きを零す。

 その言葉の意味がピンとこないあたり、やはり自分は『なまくら』なのだろうか。

 邪気の浄化を連続して行った事で、寒気にも似た嫌な感覚に襲われた和人の肉体を、抱きしめたリズの温かさが癒やし、悪影響をゆっくり緩和していく。今は魔法衣越しに触れ合っているため、いつものように互いの鼓動を感じ合う事はできないのが少しばかり残念ではある。

 指通りのよい桜色の髪を手ぐしで優しく梳き、穏やかな吐息を肌に感じる。次の目的地である番犬所に向かうまでの暫しの間、和人はリズを抱きしめながら、静かな睦み合いを通して身の内の熱がじわりじわりと戻ってくるのを感じていた。

 

 

―――――

 

 

 『番犬所』。

 魔戒騎士、そして魔戒法師を統括し、支え、人の知らぬ所から人の世を守る聖域。その番犬所を守る役職――『神官』と呼ばれる彼らは、皆一様にどこか人間離れしている。噂の域を出ないが、あるものは精神を若い肉体に乗り移らせ続けることで永遠の生を得、またあるものは自らの法力が強すぎるあまり肉体が老いる事が無いという。

 そういった事情もあり、大半の魔戒騎士は番犬所の神官とビジネスライクな付き合いしかしていない。番犬所も番犬所で、指令書一枚出すだけで騎士を動かせるのだから、騎士と親密になろうとする姿勢を見せない所が殆ど。互いに険悪にならないだけマシ、というのが実情だ。

 なお、ここ『綾の番犬所』の場合はというと。

 

「――ひどいと思いませんか! 向こうが『とっとと報告に来い』って言うから、あたしだってあのあとすぐに、和人さんが刻銘の儀を終えた事を伝えに行ったんですよ! そしたら東の番犬所の偉い人、なんて言ったと思います?

 『わかった。我々は忙しい。とっとと自分の管轄に帰れ』ですよ!? 信じられます!? 信じられませんよね! ありえませんよね!? リズさんお紅茶のおかわりお願いします!」

「はいはい。あ、クッキーも買ってきたけど、食べる? シリカ」

「はい!」

 

 白い毛皮(ドレス)をまとった、怒れる小動物。

 『綾の番犬所』唯一の神官・シリカの今の姿を例えるなら、その言葉がふさわしいだろう。

 闇を織り上げたようなヴェールで包まれた、番犬所の一角。ほのかに白い輝きを放つ椅子とテーブルが用意されたシリカお気に入りのスペースに腰を下ろした和人は、リズと共に午後のティータイムに与っていた。

 空になったシリカのカップに、リズが紅茶を淹れる間、シリカはマーブル模様が入った四角いクッキーを両手で掴み、さくさくと小気味よい音を立てながら小さな口の中で咀嚼していく。その様子に、餌を食べるハムスターかなにかを想起させられてしまい、和人は笑い出しそうになる自分をカップに注がれた紅茶を飲むことでなんとか誤魔化す。

 

「なんていうか、神官も神官で大変ね……よしよーし、うちのシリカ様はえらいえらーい」

「うう……リズさーん……」

 

 ストレス社会に揉まれる、女子中学生にしか見えない小柄な神官。その薄褐色をした髪をリズの手が優しく撫でる。

 和人が魔戒騎士として独り立ちし、シノン、そしてリズと共に、ここ『綾の番犬所』の管轄下で本格的に活動を始めて、そろそろ5年目に入ろうとしている。初めてここを訪れた時は、どんな神官が出てくるのか戦々恐々としていた和人であったが、蓋を開けてみれば、そこにいたのは実に可愛らしく、それでいてフレンドリーなシリカ。

 出会った当時と彼女の全く見た目が変わっていないことに対して、未だに詳しいことを問う勇気だけは無いが、それでも和人はこれといった用事の無いときでも、ちょくちょく番犬所を訪れては、シリカと特に何でもない世間話に興じる事が多くなっていた。

 

「シリカ。これ、貸してくれてありがとな。じっくり見させてもらったよ」

 

 懐から取り出したスクロール――昨夜、シリカから借り受けた騎士の系譜図をテーブルに置き、和人はシリカに礼を述べる。今日、和人が番犬所を訪れた理由のうち、系譜図の返却はその一つだった。

 

「はい、確かに返していただきました。――ピナ、お願いしていい?」

 

 スクロールを受け取ったシリカがそう言うと、ピナ――『試作大型号竜・ピナ』が、足音を響かせながら番犬所を覆う闇の中から現れ、シリカが手にしたスクロールを器用に口に咥えた。

 昨日、メンテナンスを終えて帰ってきたばかりの鋼の魔竜が、以前と変わらぬ調子で主であるシリカに仕えている事に、回収と運搬を担当した和人もほっと胸をなでおろす。

 全身の大半が蒼く、翼の先などの一部が白く染まった、全長5m近い巨躯を持つ大型竜。現在主流となっている号竜、そのプロトタイプであるピナは、スクロールを咥えたまま巨大な翼を羽ばたかせて宙に浮くと、保管場所である結界の中へ系譜図を器用にしまい込む。

 

「相変わらずすごいわね、ピナ。空は飛ぶし、繊細だし、シリカの言うことちゃんと聞くし」

「はい。ピナはすごいんです。そこら辺の号竜やホラーにだって負けてませんから!」

 

 子供を自慢する母親のような、自信と自慢に満ちたいい顔で、シリカがリズに応ずる。見た目以上の器用さと、見た目通りの高い戦闘力を持つピナがいる限り、綾の番犬所にちょっかいをかけようとする不埒者は恐ろしい目に合うことうけあいだ。

 ――番犬所のような聖域内か、ホラーの故郷である魔界でしか稼働できないという大きな欠点はあるが、それを差し引いても心強い存在であることは間違いない。  

 

「なんか、ちょっと気になってきたわね……ピナ2号とか、いないのかしら」

「……この間、見たな。ピナ2号」

 

 リズがなんとなく漏らした呟きに、和人がなんとなく答えると、途端に二人の視線がこちらに集中する。

 

「ほんとですか、和人さん!? ピナ2号って!」

「それ、詳しく聞かせてほしいんだけど、和人」

 

 片や飼い主として、片や法師として。若干異なったベクトルの興味を向けてくる二人をどうどうと押しとどめつつ、和人は軽く咳払いをした。

 

「ほら、ピナって号竜のプロトタイプだろ? データを取るために、同型がもう一騎作られてたみたいでさ。そいつを、俺が勝手にピナ2号って呼んでるだけ。

 正式名称は……確か、ドルゼルって言ってたかな、あの開発者の人……」

「それでそれで? そのドルちゃんは?」

「…………斬った」

「「――ええええええええええええええええええええ!?」」

「しょうがないだろ……斬らなきゃ、こっちが死んでたんだから」

 

 驚きのこもった二人の視線に射抜かれ、和人は「すまん」と大人しく頭を下げる。

 今を遡ること少し前、赤い仮面の男が引き起こした大乱の折。

 巨大魔導兵器、そしてホラーの群れを倒さんと、魔界に飛び込んだ和人達魔戒騎士の前に立ちふさがったのは、骨組みだけが動く機械兵器とでも形容すべき魔導具・号竜人の群れ。その号竜人の群れの中にまじっていたのが、赤黒い鋼皮と巨大な翼を持つ暗黒竜――和人が『ピナ2号』と呼ぶ存在。正式名称『試作大型号竜・ドルゼル』。

 ピナ同様の巨躯、騎士の鎧並に固い装甲、鋭い爪と牙、口から放たれる魔導火の爆炎弾、打撃盾の如き巨大な翼、尋常ではない破壊力を持つ尾を駆使してくる強敵を、和人は別の魔戒騎士と共同戦線を張ることで、辛うじて撃破することに成功した。

 和人にとっては、できることなら二度と戦いたくない相手の一つだ。

 

「あ、あんた……よく生きて帰ってこれたわね……そんなの相手にして」

「ああ。咄嗟にあいつと組んで、二人がかりで戦ってなきゃ……やばかっただろうな」

「なんとか生け捕り(テイム)できなかったんですか、和人さん!?」

「真剣な顔でさらっと無茶を言わないでくれ、シリカ」

 

 スクロールを収めるべきところに収め、ピナが翼のはためき音と共にゆっくりと着地する。太い鋼の脚が番犬所の地面を踏みしめ、ずしりというメタルサウンドを響かせる。ぐるるる、という鳴き声と共に、魔鋼の鱗に覆われた首が伸び、和人達の方にピナが頭を寄せる。

 リズと共に、和人がピナの額から鼻先に掛けてのラインをかりかりとひっかくように撫でてやると、巨大な号竜はなんとも嬉しげに身を震わせる。

 そうしてピナの鱗に触れたまま、和人は本題を切り出す。

 

「……しかし、『東の番犬所』の方でも、手がかり無しとはな……」

「はい。東の番犬所(むこう)にいる知り合いにも聞いてはみたのですが、やはりただの人間が原因で、ゲートが急増するような事例は過去に無かったそうです。

 あくまで、東の番犬所の管轄内では、の話ですが……」

 

 昨晩、刻銘の儀を終えた後、そのまま東の番犬所へ報告に向かうというシリカに、和人はゲート増加について何か手がかりがないか調べてくれるよう頼んでいた。東の番犬所の中には、シリカの知己である神官も何人かいる。その神官達に依頼し、東の番犬所内に蓄積された過去の事例を探ってもらったが、明日奈を取り巻く現状の原因につながるような情報は得られなかったそうだ。

 ため息をつきながら、シリカは力なく両肩を落とす。

 

「ゲートが増えるとしたら、誰かが陰我持つアイテムをばらまいているか、あるいは強大な力を持つ魔導具、もしくはホラーの影響……と考えるのがセオリーなんですけど……」

「いやいや。ゲートの数をばかすか増やすようなとんでもない魔導具やホラーがここら辺にあるなら、あたしかシノン、ユイちゃん、それにアンタがとっくに気付いてるでしょ」

「そうなんですよね……」

「それに、誰かが綾の番犬所の管轄内で陰我持つアイテムをばらまいてるとしても、もう一週間以上続いてるのよ? さすがに、そんな長期間、和人の目を誤魔化し続けるのは無理よ」

 

 リズの言葉に、和人も静かに頷く。さほど広くなく、加えて勝手知ったる綾の番犬所の管轄域。この一週間以上、誰かがゲートになりうるアイテムを大量にばらまいているなら、必ず和人の目に入るはずだ。それに、今のこちらにはユイという契約ホラーもいるのだ。その目を逃れ続けながら、ゲートを増やすのは不可能に近いと言ってもいいだろう。

 結局、原因が分からない以上、今はとにかく対処療法、そして情報の収集を続けていくしかない。

 

「――とにかく、俺は今まで通り、ゲートの浄化を続ける。誰かが関与していないか調べながらな。リズ、ユイ。これからもサポートを頼む」

「ええ、任せなさい」

『もちろんです、パパ!』

「シリカ、悪いけど、もう少しこの件について調べてもらえないか。明日奈との関連性がわからなくても、せめてこれ以上ゲートの数が増えるような事だけは避けたい」

「わかりました。他の番犬所や、できれば元老院にも、なんとかお願いし――」

 

 まるで、流れる時を剥奪されたかのように。決意を込めたほほえみを浮かべていたシリカの動きが不意に静止する。一瞬で光を失った瞳孔が、限界まで開かれ――数秒の後、彼女の表情に人間らしい色が戻ってくる。

 

「シリカ?」

「和人、さん……」

 

 怪訝な顔をしながらシリカの瞳をのぞきこむ和人に、シリカは困惑と驚愕がない交ぜになったような表情を見せる。その口は、まるで伝えたくない言葉をどうにかこうにか言葉にしているようで。その先に続く言葉も、内容も、和人には簡単に想像出来てしまう。たとえ、考え得る限り最悪に近い結末であっても。

 

「……まさか」

「――我が綾の番犬所管轄域に、ホラーの出現を感知しました。

 神官として、速やかなる討滅を命じます。夜天騎士斬討」

 

 『なぜ』も、『どこから』も、『どうして』も、今は意味をなさない。神官がホラーの出現を感知したのならば、それを斬るのが魔戒騎士の使命。たとえそれが、同じ月に3度目という異常な出現頻度の中であっても。

 苦虫を10匹まとめて噛みつぶしたような表情を露わにしながら、和人は穏やかな茶会の席から立ち上がる。温かなティータイムは終わった。これからは、闇の中で戦うべき時間だ。

 ロングコートの裾をはためかせながら、和人はホラーの出現地点と目されるポイントにもっとも近い魔界道を進む。

 

「――シノン、聞こえるか」

『ええ、聞こえてるわよ』

 

 魔道具ユイを手に持ちながら和人が発した声に、今は離れたところにいるシノンの応答が帰る。

 

「今、明日奈はどうしてる?」

『どうしてるも何も、一緒に森の中の古屋敷(うち)に帰ってる途中よ。

 木綿季の記憶も封じ終わったし』

「なら、急いで帰ってくれ。……ホラーが出た」

 

 魔道具を介した通信の向こう側で、シノンが驚愕に息を呑む声が聞こえた気がした。彼女にも分かるのだろう、ホラーの出現頻度が異常な領域に入ってきたことが。

 

「シノン。俺たちが戻るまで、明日奈の事を頼む。今回のが、明日奈狙いのホラーかは分からないけど――状況が状況だ。警戒を怠らないでくれ」

『任せなさい。そっちも、気をつけて』

「ああ。シノンもな」

 

 手のひらに載せていた魔道具を、和人が元の位置に戻そうとした直前、『ああ、それと』という手紙の追伸めいたシノンの声が聞こえ、和人は耳を澄ます。

 

『言い忘れてたけど、今日の晩ご飯は、私と明日奈で作るから』

「シノンと明日奈が? そりゃあ、楽しみだな」

『でしょう? だから……ちゃんと、みんなで一緒に帰ってきなさい――待ってるから』

 

 そう言ったきり、通信がふつりと途切れる。

 和人の帰りを待つ者がいる。待ってくれる者がいる。ならば、為すべき事は決まっている。

 待ち受けるホラーを倒し、リズとユイを連れて無事に帰る――言うは易く、行うは難し。なれど、その難事に立ち向かうための力は、和人の内に、そしてすぐ側にある。

 

「リズ、ユイ……行こう!」

「ええ!」

『はい、パパ!』

 

 頼もしき魔戒法師(マスタースミス)の声を背に、愛娘(ユイ)の声を胸元に受け。夕焼けの輝きが放つ残光の中を、装黒の魔戒騎士が駆ける。

 

 

―――――

 

 

 夜が来る。

 黄昏を飲み込み、漆黒の闇夜が訪れる。

 古の時代より、人は暗闇を恐れた。それは、視覚を封じられる事への恐れか。あるいは、闇に潜む魔獣の存在を本能的に察知する事から生ずる恐れか。

 暗き闇を駆逐するため、人は様々な手段を編み出した。頭頂部に掲げられたランプより輝きを放つ『街灯』も、その一つ。

 実に、陰我――いや、因果なものだ。闇を祓うはずの光の塔が、闇に潜む魔獣・ホラーのゲートとなってしまったのだから。

 

「――やあ。待ちくたびれたよ、魔戒騎士」

 

 ゴシックホラーの世界から抜け出てきたような黒いドレスを身にまとった女が、手にした文庫本をテーブルの上に置き、理性を蕩かすような声を発した。

 ホラーの気配を追って飛び込んだ埠頭エリア付近の倉庫。鉄の壁に四方を囲まれた、広々とした空間の中央で、地面から無造作に生えた街灯の光に照らされながら、ソイツはまるでデートの待ち合わせに時間ぴったりで現れた恋人を甘く咎める少女のように、和人を出迎えた。

 見た目で判断するなら、和人より幾分年上の、大人の女。その顔は絵画に描かれた聖女のように美しく、その笑みは娼婦のように妖しい。だが、その内側に潜むのは、まともな人間の精神ではない。

 

「……ふふっ」

「何がおかしい」

 

 狂気的な佼しさをまとった笑みを向けてくるホラーを、和人は睨み返す。

 

「いや、なに……前の魔戒騎士(おとこ)は完璧すぎてつまらなかったけど、キミは、面白いね。造形は中性的なのに、眼は惚れ惚れしそうなくらいに『男の子』してる……一緒にいても疲れない、コレクションの再スタートにピッタリの顔だ」

 

 テーブルにゆったりと頬杖を付き、和人の顔を品評する黒髪の女に向け、和人は両の手で魔戒剣を抜き放ち、鋼色をした刀身を構える。魔導火で照らし出す必要すらないほど、濃密なホラーの気配をユイに感じさせる女を、和人は油断なく睨み付けた。

 余裕の表れか、それとも既に諦めたのか。長い黒髪が目を引く女ホラーは、くつくつと笑いながら、構えることも無くゆったりと和人に視線を向ける。

 

「怒った顔も魅力的だね……ますます、手に入れたくなってきた。

 どうだい、魔戒騎士? 私の新コレクション第一号(オトコ)にならないかい?

 ――そこの扉の影に隠れている女なんて、捨ててさ」

 

 無造作、かつ優美な手つきで、ホラーがテーブルに置いた文庫本を投げつける。鋭い投擲軌道が向かう先は、和人の胴よりわずかに左に外れた後方。和人が入ってきた倉庫の扉、その脇にある鉄の壁。

 

「ちっ!」

 

 騎士の口より、舌打ちが漏れる。

 何もせずとも自分には当たらない軌道を描く文庫本を、和人は右の魔戒剣で、斜め下から上に切り上げてはじき飛ばす。本来の目的地とはかけ離れた倉庫の側面壁に叩き付けられた小さな本が、着弾と同時に輝く炎を上げて爆発し、金属の固い壁に大穴を開ける。もし、その壁の向こうに誰かがいたら、今頃粉みじんになって消滅していただろう。

 そして、和人が魔戒剣を振るわなければ、今頃、その『もし』は現実化していた。

 

「……あら、気付いてたの。

 ざーんねん。あんたが油断した所で、吹っ飛ばしてやろうと思ってたんだけど」

 

 扉の影。奇襲のタイミングを測るために隠れていたリズが、もはや隠れる意味もないと、観念して歩み出てくる。その立ち位置は、ホラーと自分との間に和人を挟みつつ、そこから半歩ずれる絶妙な位置。魔戒騎士の背後を守りながら、正面にいるホラーを視界に収めつつ、敵の攻撃範囲からは外れる事が出来るポイント。

 右手に魔導筆を握り、突き出すように構えるリズの姿を視認したホラーが嗤う。憎悪と、殺意と、食欲が入り交じった邪悪な貌で。

 

「……決めた。最初の食事は君にしよう。生意気な――魔戒法師(メスタヌキ)にね」

 

 一切の予備動作も無いまま、ホラーは跳躍し、白いテーブルと椅子を蹴り飛ばす。矢のような速度と共に床との摩擦で火花を上げながら迫る白い殺意を、和人の魔戒剣が諸共に両断し明後日の方向に吹き飛ばす。

 

「リズ!」

「ええ!!」

 

 金属の床を蹴立てながら、和人がホラーとの間合いを一気に詰める。それと同時に、リズが魔導筆を用い、空中に魔戒法師が使う術文字を描く。その文様から放たれるのは、ブライトオレンジに輝く魔導火の火球。人の頭より一回り大きい火炎弾が三発、ホラーと剣戟の間合いに入らんとする和人の背中に迫る。

 

「――はッ!」

 

 魔導火の火球が体を焼く、そのコンマ数秒直前。和人は身をひねるようにして上方に跳躍。直後、和人がいたはずの空間を魔導火が飛び、ホラーの肉体に正面から突き刺さる。自分の体を敵への目隠しに使うという、古典的ながら、互いへの信頼と阿吽の呼吸が無ければ出来ぬ技。

 無論、間合いを詰めたのは、目隠しになるためだけではなく、跳躍の目的は、魔導火を避けるためだけではない。魔導火に灼かれ、防御がおろそかになったホラーの首筋に、和人は体を横に回転させながら両の魔戒剣を叩き付ける。人間で言うところの首筋裏の肉を抉り取ると、更にホラーの背中に交差する軌道で二刀を振るい、長い黒髪ごとドレスの女を切る。ちぎれ飛んだ髪の毛が、魔導火に灼かれて焼失していく。

 そうして敵の背後に着地した和人を、そのままにしておくほど敵も甘くはなかった。

 

「どうして私を拒むのかな、君は!」

 

 ぎゃりぎゃりと床を抉る摩擦音を上げ、片足を軸に180度回転しながら、ホラーが和人の胴を狙ったミドルキックを振るう。着地の反動をそのまま使い、和人は再度跳躍。紙一重の所で胴を砕かれる一撃を回避すると、ホラーの上半身めがけて魔戒剣を振り下ろす。同時に、敵が背を向けた好機を逃すまいと、リズも一気に間合いを詰めて魔導筆を突き込む。

 形成されるは、回避を許さぬ剣と術の領域――なれど。

 

「――残念でした」

 

 倉庫の中央にそびえ立つ、街灯。その頂点に存在するライトが突如煌々と輝き、スポットライトのごとき光のラインを描いてホラーを照らし出した次の瞬間――そこにいたはずのホラーの姿がかき消える。黒髪の女の体を斬り裂く筈だった魔戒剣は、虚しく空を切る。

 驚愕と共に床に降り立つ和人とは対照的に、ホラーに一撃をたたき込もうとしていたリズの体が――床から突如生えた何かによって、斜め方向に勢いよく吹き飛ばされていく。

 

「――!!」

「リズ!!」

 

 街灯――プロボクサーのアッパーもかくや、という速度で生え伸び、リズの腹部へ叩き付けられた強烈な一撃は、彼女に悲鳴を上げさせる間も与えず、魔戒法師の肉体を倉庫の壁面に叩き付け、壊れた人形のように床へ転がさせる。

 うつ伏せに倒れたリズは、僅かにもがいたものの、痛みに意識を刈り取られたのか、そのままぴくりとも動かなくなる。

 リズを吹き飛ばした最初の一本を切欠に、10本近い街灯が規則性のない位置にバラバラに林立し、一斉に光を放つ。目を開けていられない程にまぶしい訳ではないが、真の脅威はそこではない。

 

「リズ、しっかりしろ、リズ!!」

「――おや、他の女の心配かい? 妬けるね」

 

 倒れたまま動かないリズの側に駆け寄ろうとした和人の背後から、今もっとも聞きたくない声が響く。とっさに体ごと振り返りつつ、反射的に魔戒剣を振るうものの手応えは無い。微かな移動の気配を残し、ホラーは霞のようにかき消え――無数の街灯の輝きが作り出す光の道の中に、再び音もなくその姿を表す。

 

『――わかりました、パパ! このホラーの名は、ルーザギン! 光の中を自在に移動する、灼熱のホラーです!』

「へえ、私のことを知っているのか……物知りだね。まあ、君が契約ホラーなら当然か。

 じゃあ――これも、知っているかい?」

 

 黒髪の女ホラー――ルーザギン人間態は、両手の指をぴしりとそろえて伸ばすと、指先を和人に向けて突きつける。その白い先端に点るのは、赤熱の色に燃える死の輝き。まともに触れようものなら、数秒で魔戒騎士のステーキが出来上がる事は間違いなさそうだ。

 

「嬉しいね……これでやっと、二人きりだ」

「黙れッ!!」

 

 理性を浸食するような甘い響きをまとう声と共に、突き込まれた灼熱の指先を、和人はソウルメタルの刃で受け流す。二撃、三撃と続けざまに突き込まれるルーザギンの死突を、ぎりぎりのタイミングで読み切り、硬質物体同士の鋭い衝突音を奏でさせながら両手の魔戒剣で受け止める。更に、頭部の破壊を狙って放たれたハイキックを、床に沈み込むように身を屈めて回避。

 

「ふんッ!!」

 

 一瞬で逆手に持ち替えた魔戒剣二振りを、切っ先から床に突き刺して支えにすると、和人は低い位置に構えた身体のバネを活用し、ルーザギンの腹部を下から思い切り蹴り飛ばす。ゴシックドレスをまとった悪魔の身体が、倉庫の天井まで打ち上げられ叩き付けられる。直後に魔戒剣から手を離して立ち上がり、和人は天井に跳ね返り落ちてくるルーザギンの体へ、右、左、右と連続した拳を打ち込み、更にその顔面へ渾身の右後ろ回し蹴りを叩き込む。

 風をも置き去りにするような鋭い脚撃をまともに喰らい、黒いドレス姿のホラーは林立する街灯の一本に為す術なく叩き付けられる。支柱を『くの字』に歪ませながら、その根元に転がり落ちたホラーの上に、衝撃で砕けたランプの破片がばらばらと降り注ぐ。

 

「――今のは、リズの分だ」

 

 大事な仲間を傷つけられた怒りが、その声に滲む。和人は突き刺した魔戒剣を引き抜き、あらためて順手に構え直す。

 その視線の先で、取り繕った笑顔を憤怒に引きつらせたルーザギンが、歪んだ支柱に寄りかかるようにしながら立ち上がる。

 

「……全く。これだから、魔戒騎士(おとこ)ってやつは」

 

 にたりと嗤うホラーに向け、和人は右の魔戒剣を風車のように横回転させながら投擲する。その刀身がホラーの肉体を切り裂く寸前、街灯の一つが輝き、ルーザギンの姿を光の中に隠す。目標物を失った魔戒剣は、くの字に折れた支柱を寸断し、そのまま倉庫の奥へと飛んでゆく。

 

『パパ、ルーザギンは光の中に消えました。つまり――』

「光の中より現れる」

 

 ランダムな配置で林立する街灯のうち、無事なものは合計10本。その全てがルーザギンの通り道となる可能性がある。どう動いても、視界に収められるのは5本が限度。残り5本は、常に和人の視界外、及び背後をとる嫌らしい配置。いかに魔戒騎士の、そして和人の反応速度が図抜けていても、これだけの数を相手に対処しきれはしない。ユイのナビゲートがあっても間に合わないだろう。

 機械の駆動音にも似た、ぶぅんという僅かな音を発しながら、街灯が一斉に輝きを放つ。

 

『ルーザギンが来ます、パパ!』

「ああ、わかっている」

 

 もはや、既に勝負は決している。ルーザギンはそう確信し――和人もまた、同じ確信を抱きながら、右腕を地面と平行に伸ばし、空となった右手を開く。

 その耳に響くは、鋼の風切り音。

 先ほど投げ放たれた魔戒剣が、倉庫の壁に跳ね返りながらブーメランの如き軌道を描き、和人の背後にあった街灯をことごとく粉砕しながら騎士の手の中に帰ってくる。重量を自在に操る事が出来る、ソウルメタルの剣だからこそ可能な一撃。

 再び両手に魔戒剣を携えた和人。もはやその視界から逃れられなくなった街灯の一つから光の道が開き、ルーザギンが姿を表す。

 

「残念だったな」

「――おのれええええええええええ!!」

 

 もはや笑顔を取り繕うことすら出来なくなったルーザギンに向け、和人は魔戒剣を振るう。両の手に構えし剣が描く、鋭き四連一体の剣戟(バーティカル・スクエア)が、黒いドレスを切り裂いてホラーの肉を抉る。ついでとばかりにその胴体に蹴りを叩き込むと、和人は反動を使って後ろに大きく宙返りし、倒れ伏したリズの側に降り立つ。

 

「立てるか、リズ」

 

 視線はホラーに、意識は彼女に向け。和人はダメージを負ったリズを庇うように、そのすぐ手前に立つと、双剣を身体の前に交差させるように構える。それは、攻撃より防御を重視したカウンタースタイル。

 先ほどの蹴りで後方に弾かれ、大きく離れた間合いの先で人の皮を脱ぎ捨てる魔獣の姿を、和人は静かに睨み付ける。騎士の問いに――答える声は、聞こえてこない。

 

「……あとは任せろ」

 

 応えぬリズに、和人が呟く。

 無事を確かめるために視線を落とせば、きっと彼女は怒るだろう。今、魔戒騎士が見るべきは、背に庇う者の姿ではなく、その先にいる魔獣の姿なのだから。

 宿主の皮を脱ぎ捨て、本来の姿になったルーザギンは、ゲートにしたものによく似た不出来な街灯とでも言うべき異様な容姿をしていた。太く長い胴を支えるのは、身体の底面から横につきだした、二対四本の白い脚。禍々しい両腕の先に続くのは、嫉妬心の如く灼ける指先。瞬きすることなく見開かれた白い瞳を湛えた顔の左右、両肩の上には、三角柱のステンドグラスじみた突起物が伸びる。

 その極彩色の柱から、和人達めがけて放たれるのは、人間など一瞬で灰燼に帰す火球の嵐。

 

『パパ!』

「ああ!!」

 

 危機を伝えるユイの声に応え、魔戒剣を天に掲げた和人が召還の二重円を描く。

 斬り裂かれた空間は、輝ける光の道へと変わる。その道は魔獣が身を潜めるための物ではなく、守りし者の鎧を魔界から現世へと運ぶ、誉れ高き輝きに満ちた道。

 星の輝きに縁取られた夜闇の鎧――『夜天騎士斬討(キリト)』の鎧をまとい、和人は――キリトは、迫り来る呪わしき炎の嵐を、輝ける剣の乱舞で以て切り払う。

 

『ルーザギン――偽りの光に潜むお前の陰我、俺が斬り裂く!』

 

 咆哮一声。

 黒と白の双剣を構え、キリトはルーザギンとの間合いを瞬く間に詰める。放たれる火炎の悉くは、ソウルメタルの刃で斬り裂き、貫き、叩き落とす。

 

『はあッ!!』

 

 夜天を駆ける狼が、惑いの光で人を喰らう魔獣に飛びかかり、鋭き刃を上段から振り下ろす。重い一撃を受け止めた灼熱の指先と、黒解・白撃の剣がぶつかり合い、文字通り火花を散らす。四本の脚に支えられたルーザギンはともかく、その足下にあるただの金属の床は、夜天騎士の一撃がもたらした衝撃に耐えきれず、四方八方に無数のひび割れを産む。

 

『愚かな騎士よ! おとなしく、私の愛を受け入れればよかったものを!』

『黙れ! 人を傷つけ、喰らう事しか知らない魔獣(ホラー)が、愛を騙るな!!』

 

 魔獣(ルーザギン)が吠える。騎士(キリト)が吼える。

 砕けた床に降り立ち、固く踏みしめながら、キリトは渾身の力を以て双剣を突き込む。灼熱に燃える指先が、黒と白の切っ先を受け止め、弾き、逸らす。ルーザギンの両肩から伸びたステンドグラス状の柱から放たれる無数の火炎弾が、漆黒の鎧を襲う。

 爆炎に包まれながら、ルーザギンの体勢を崩さんと振るった下段への斬撃は、後ろ脚で身体を持ち上げたルーザギンに回避される。狙いを脚から胴をに切り替え、下から上への真一文字の切り上げに移行するも、振り下ろされる前脚によって黒解剣を受け止められ、降り注ぐ爆炎を全身に浴びる羽目に陥る。

 

『パパ、ルーザギンの正面には隙がありません! 危険です!』

『――なら、背後(うしろ)を取るだけだ!!』

 

 床を転がり、全身にまとわりつく邪炎を無理矢理吹き飛ばしながら、キリトは一度ルーザギンと距離を開ける。

 追撃に放たれる火炎弾を、地面に白撃剣の柄ごと腕を叩き付けた反動でかわし、自分の身体を宙へ浮き上がらせる。そうして近くにあったまだ無事な街灯を蹴って、キリトは再度跳躍。倉庫内に突き立つ金属製の街灯、そのしなる支柱を使い捨てのジャンプ台として使い、へし折りながら蹴り翔び続けること、実に5度。その動きは、さながら妖精郷の天を舞う黒き影妖精(スプリガン)が如く。

 

『ひ、光よ! 私に――』

 

 キリトの動きを追いきれず、ルーザギンは咄嗟に光の通路の中に飛び込もうとする。そこは、キリトの剣が届かぬ領域。ルーザギンにとっての安全地帯。

 飛び込むことが出来れば、の話だが。

 

お前(ホラー)を照らす光など、どこにもない!!』

 

 ルーザギンの背後方向にある壁を最後の踏み台にしながら、キリトが叫ぶ。街灯の半数は魔戒剣のブーメランが砕き、残りの半数はキリトが跳躍の踏み切り台として使用した際の反動で粉砕されている。

 ルーザギンの逃げ場は、もはやどこにもありえなかった。

『はああああッ!!!』

 

 鉄の壁を蹴り砕き、輝ける漆黒をまとったキリトが飛翔する。その両手に携えた魂の剣が描くのは、必殺の剣技(ソードスキル)二段式重刺突(ダブル・サーキュラー)

 光と闇を湛える両刃の長剣が、ルーザギンの無防備な背面に突き立て、刳り、貫き通す。

 

『――ぎいいい……あああああああ!!!』

 

 黒解剣、そして、白撃剣の刃を、背後から深々と突き刺されたルーザギンの絶叫が轟く。ホラーの肉体を背から胸まで見事に貫通した黒と白の刀身が、その切っ先から半ばまでをどす黒いホラーの血に塗れさせながら姿を顕す。

 もはや勝負は決した。

 ホラーの肉体は消滅し、邪気は剣に封じられる。そう判断したキリトは、刀身を引き抜こうと力を込め――そして、気付く。剣が、動かない事に。

 もはや勝負は決した――そう判断したのは、キリトだけではないのだ。

 

『逃がさないよ……私の、魔戒騎士(コレクション)……!』

 

 めきり、ごきり、ぐきりと。

 骨と関節が本来あり得ない方向にねじ砕ける音を響かせながら、ルーザギンの後ろ脚が、腕が、夜天騎士の鎧に絡みつく。瞬くこと無く見開かれた白い眼が、首を真後ろに回転させながらキリトを見つめる。

 ソウルメタルの鎧に触れたルーザギンの表皮、その比較的柔らかい部分が、しゅうしゅうと音を立てながら灼けていく。それでも、ホラーはキリトを解放しようとはしない。どうせ消滅する肉体なのだ、使い潰す事を恐れる必要がどこにあると言わんばかりに。

 

『パパ、危険です! ルーザギンは、パパを道連れに自爆するつもりです!』

『……そうらしいな』

 

 鎧をまとったまま、キリトはどこか落ち着いた様子でユイに答える。いかな夜天騎士の鎧と言えども、ルーザギンの様に爆炎を操るホラーの自爆攻撃を至近距離で受ければ、無事にすむ事は無いだろう。かといって鎧を解除して逃げだそうとすれば、その瞬間、ルーザギンの四肢が騎士の身体を粉砕するのは明白だ。

 ルーザギンの身体に、自らの肉体すら燃料に変えた濃密な邪気が集まる。

 事ここに至り、キリトに出来ることは何一つ無く――いや、違う。すべきことは何も無い。

 

『君の身体は手に入れ損なったけど、命はもらっていく! 私の、魔戒き』

「――残念でした。そいつは、あたし達の夜天騎士(キリト)なのよね」

 

 もはや勝負は決した。

 そう判断したのは、キリトも、ルーザギンも――そして、彼女も同様だった。

 ルーザギンの正面――いや、今はもう背後というべきか。キリトが向ける視線の先で、構えた魔導筆を手にし、痛みを堪えて立つのは、誰あろう、魔戒法師リズベット。

 

『リズ、やれ!』

「はいよっ、と!!」

 

 反射的に逃げだそうとしたルーザギンの身体を、剣から手を離したキリトの腕が拘束する。ホラーのおぞましい肉体、先ほどまで身体の正面だった部分には、いつの間にか十数枚もの八卦符が貼り付けられていて――桜色の魔戒法師・リズが魔導筆を振るうのをきっかけに、仕込まれていた術式が一斉に起爆し、輝ける魔導火を解き放つ。

 

「――言ったでしょ? 油断したところで、吹っ飛ばすって」 

『おのれ、おのれえええええ゛え゛え゛!!!』

 

 黒解剣、白撃剣による刺突創を受けた時点で、半ば限界を迎えていた肉体。そこに叩き付けられるのは、リズ渾身の法術が作り出した魔導火。

 それが、ダメ押しのラストアタックとなった。自爆する間すら与えられず、その身にため込んだ邪気ごと、ルーザギンの肉体は現世より消滅した。

 ホラーの身体を焼き尽くしたブライトオレンジの魔導火が、希望の色に輝く火柱となって燃え上がる。その中より、ソウルメタルの重い足音を響かせながら歩み出てくるのは、漆黒の鎧をまとう魔戒騎士。夜天騎士・斬討。携えた両剣を背中の鞘に納め、重々しい足音を響かせながら、騎士は堂々と炎の中を歩む。

 星光に縁取られた闇夜の鎧は輝ける火の色を全身に浴び、反射させ、普段のそれとは全く異なった輝きを放つ。桜色の瞳の中に映るその姿は、まるで――。

 

「……ふう」

 

 危うい勝利に、安堵のため息がこぼれる。

 重く響く金属音と共に、キリト――和人は夜天騎士の鎧を魔界へ返還する。パーツごとに分割された鎧が全て魔界に戻りきる頃には、魔導火は既に消えている。黒い魔法衣が、その光を反射することはない。

 首から提げた魔道具ユイを軽く撫でて労ったあと、和人はリズの元へと駆け寄る。

 

「大丈夫か、リズ」

「だいじょうぶ、だいじょーぶ……ちょーっと、体中が痛むだけで……」

「そういうのはな……『大丈夫』って言わないんだよ」

 

 街灯に打たれた腹部を押さえながら、やせ我慢を隠しきれない笑みを浮かべるリズの身体を、和人は優しく抱き寄せて運ぶ。まだまともな様相を呈している一角を選び、自分は床に直接あぐらをかいて座る。そうして、組んだ脚を座椅子代わりにするようにしてリズを座らせると、傷ついた彼女を休ませるべくその背を寄りかからせる。座り心地はよくは無いだろうが、固い金属の地べたに直接座らせるよりは幾分いいだろう。

 

「悪いな、リズ。本当なら……もうちょっとマシな所で休ませてやりたかったんだけど。

 ……俺も、あんまり大丈夫じゃなくてさ」

 

 鉄の壁に身を寄りかからせながら、和人は歯切れ悪く言葉を口にする。鎧に守られていたとはいえ、ルーザギンの放つ爆炎をこれでもかと浴び続けたのだ。その衝撃と熱は、魔戒騎士の肉体にダメージを与えるには十分すぎた。

 

「……その、和人。痛いんだったら、下ろしていいわ、よ……?」

 

 横顔が見えるくらいに振り返り、遠慮がちに目を伏せながら、リズが和人を気遣う。そこに一切の嘘は無いのだろうが、その言葉とは裏腹に、後ろから腰に回された和人の両手を自分がぎゅっと握りしめていることに、リズは気付いているのだろうか。

 

「いや、このままでいいさ」

「でも……」

「遠慮するなよ。『あたし(リズ)達のキリト(おれ)』なんだろ?」

 

 白い横顔が、桜色を通り越して、桜桃のような真っ赤な色に染まる。

 大慌てで前を向き顔を伏せてしまったリズの、今は見ることの出来ぬその唇からこぼれた、『……しばらく、このままで』という言葉に静かな肯定の声を返す。

 大事な仲間(リズ)が少しでも痛みを忘れられるよう願いながら、和人は静かに目を閉じ、彼女の傷ついた身体をそっと抱き寄せた。

 

 

―――――

 

 

 溶けた氷がバランスを崩し、グラスの中でからりと音を立てる。

 空になったグラスに次の一杯を注ごうと、木製の丸いテーブル上の水差しに手を伸ばしかけ、和人は水差しそのものを持ってきていなかった事を思い出す。

 

(取りに……いや、あとでいいか)

 

 古屋敷の2階部分にある、自分の部屋からもつながる広いバルコニー。

 そこに2つ並んで置かれているのは、V字型のロングウッドフレームに、シート素材を張って作られたシンプルなデッキチェア。その片方に全身を横たえながら、和人は一人静かに星空を見上げる。

 街の明かりも見えぬ、静かな森の中。

 ホラー避けの結界を張れる程、人の営みに欠けたこの一帯は、街の光より遠ざけられていることで夜空の星と月がその輝きを十全に放っている。

 この時期の夜間はさほど蒸し暑くもなければ、かといって寒くもなく、星を眺めたいのであればうってつけの時期といえる。と言っても、和人自身は星を見に来たわけではないのだが。

 

(……まだ、痛むな)

 

 先程まで魔導具ユイをかけていた首の下から、前胸部にかけての一帯に軽く触れてみる。そこに奔るのは、青あざを作った時に似た、鈍くしつこい痛み。

 ルーザギンの放った無数の砲火は、鎧を貫通することは無かったものの、着弾の度に与えられる強烈な衝撃そのものは、鍛えられた騎士の肉体にしっかりとダメージを残していた。ホラーを倒したあとすぐ、痛み止め兼回復薬である、赤酒をブレンドした薬湯を服用しはしたが、さすがに今日のように何発も何発もホラーの攻撃を浴びてしまっては、効果が薄れた頃に痛みが再発するのも当然だ。

 もっとも、『破滅の刻印』を刻まれていた時に味わった激痛に比べれば、この痛みも遥かにマシだ。20年には僅かに届かない和人の人生。その全てをかけたようなあの戦いを、どこか懐かしく感じ始めてしまうほど、最近は色々なことがありすぎた。

 そんな事を考え、ぼんやりと月を眺めていた和人の耳に、バルコニーと屋内を隔てる扉の一つが静かに開かれる音が届く。

 

「こんばんは、キリト君」

「明日奈……。こ、こんばんは」

 

 月の光を全身に浴び、その輝きを増す榛の姫君。

 星の不思議な巡り合わせの下、今日から和人と同じ屋根の下で暮らすことになる少女。

 結城明日奈。

 彼女が右手に携えた精緻なカットガラス製の水差しの中を満たすのは、うっすら赤みがかった半透明の液体。和人達が愛飲している薬湯(ポーション)。魔導具ユイが載ったた台座と、和人のグラスが乗った丸テーブルの上に水差しを置き、明日奈は自分が入ってきた扉を静かに閉める。

 

「シノのんがね、『そろそろカラにする頃だから、持っていってあげて』って」

「シノのん……? あ、ああ。シノンの事か」

 

 予想外の訪問者に驚きつつ、和人は慌てて居住まいを正す。といっても、背もたれに預けていた身体を起こし、デッキチェアに改めて座り直した程度だが。

 ライダースーツに似たいつもの黒い上下を着ているせいで、闇夜にそのまま溶けていきそうな和人とは対象的に、白いワンピースの上に派手になりすぎない程度に明るい色の上着を合わせた姿の明日奈は、月光すらもスポットライトとして傅かせる女神、あるいは映画の主演女優(メインヒロイン)の様に輝かしく、そして美しい。

 

「お注ぎいたしましょうか? 旦那様」

「じゃあ……いただこうかな」

 

 テーブルに置いた水差しを持ち上げながら、主人に給仕するメイドのように戯けてみせる明日奈に、和人は空のグラスを掲げて応ずる。喜んで、とでも言うような眩しい微笑みを浮かべ、明日奈は優雅な手つきで水差しを傾けると、グラスの七分目程の所まで冷えた薬湯を注ぐ。浮力を得た氷が浮き上がり、グラスの壁にぶつかって小さな音を立てる。

 からり、からりと。グラスの中で氷を回すようにして、少しばかりなじませた後。和人は冷えた中身を二口程含み、薬湯の清冽な苦味を味わいながら胃の腑に沈めていく。

 僅かな間を置いて、胸部に感じていた痛みがゆっくりと散じていくのを感じる。

 注いだ分、内容量が減った水差しを、明日奈がテーブルの上に置く。和人も、自分が飲んだ分容量が減ったグラスを、その隣に置く。

 

「あー……っと。よかったら、少し話さないか。明日奈」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 和人の勧めに従い、明日奈は空いていたもう片方のデッキチェアに腰を下ろす。二つ並んだデッキチェアの間には何も無く、軽く手を伸ばせば簡単に触れ合えてしまうほどに近い。こんなに互いを近くに感じるのは、泣きじゃくる明日奈達を抱きしめた時以來か。

 いくら非常事態を切り抜けた直後とはいえ、さすがにアレはまずかったのではないか――今更ながら、和人は自分がした事を思い出し、自問自答のループに陥りそうになる。それを断ち切ったのは、明日奈の声。

 

「今日のディナー、私とシノのんで一緒に作ったんだけど……どうだった、かな?」

「すごく美味かったよ。特にあの、若うさぎ肉のデミグラス風シチュー(ラグー・ラビット・シチュー)が、最高でさ……。

 あんなに美味しいシチュー、生まれて初めて食べたよ。毎日だって食べたいくらいだ」

「ほんと? お世辞でもそう言ってもらえると、腕によりをかけて作ったかい(・・)があるなあ」

「お世辞じゃないって。約束したじゃないか、明日奈に嘘はつかないって」

「もう、そういう使い方は、ずるいよ……でも、ありがとう」

 

 照れたように、明日奈が微笑む。

 世辞でもなんでもなく、あのシチューは絶品だった。いや、シチューが、というより、ディナーの全てが絶品だったと言い換えてもいい。断じて、普段の食事が不味いという訳ではないが、それでも、(レベル)が1つか2つ、明らかに違っていたのは確かだ。

 

「でも、珍しいよな。ウサギ肉の料理って。ジビエって言うのかな」

「珍しいよね。うちに――私がもともといた家の方に来てくれてるお手伝いさんが、前に振る舞ってくれたのを思い出して。それがすっごく美味しかったから、頑張ってみました」

「頑張ってくれて、本当に嬉しいよ。でも、よく手に入ったな、うさぎ肉……」

「私も最初は無理かなって思ってたんだけど。シノのんに相談してみたら、”かって”くれて」

「……”狩って”くれて?」

「違うよー! ”買って”くれたの! たまにジビエを仕入れてるお肉屋さんがあるから、って」

 

 凄まじい敏捷性と速度で飛び跳ねる白ウサギを、過たず一発で仕留めるシノン――そんな光景が、和人の脳裏に浮かぶ。『どうかしら?』という、実に自慢げなシノンの微笑つきで。シノンなら軽々とやってのけそうな光景だけに、細部まで妙にリアルだ。

 穏やかな微笑みを浮かべる明日奈の視線と、和人の視線が、月光の中で静かに混じり合う。

 

「でも、よかった。私ね、誰かに自分の料理を食べてもらうの、これが初めてだったんだよ?」

「は、初めて!? 嘘だろ、あんなに美味かったのに……」

「もちろん、作ったのは初めてじゃないよ? でも、頑張って作った料理を、自分じゃない人に食べてもらったのも、美味しいって言ってもらったのも――今日が初めて」

 

 『変なところとか、無かった?』と少しばかり自信なさげに呟く明日奈に、和人は全力で首を横に振って否定する。変な所があるどころか、むしろどこかの店で出したって全く問題ないほどに素晴らしい出来だ。

 そんな和人の様子がおかしかったのか、明日奈はくすくすと笑いながら、ふと何かに気づいて、視線を夜空に向ける。

 

「わあっ……キリト君、見て見て! お星様が、いっぱい!」

「すごい眺めだろ。ここ、街から離れてるからさ。星がよく見えるんだ。

 ……もしかして、これも初めてか? 明日奈」

「うん、うん! 私が住んでた所は、いつも空が明るくて……星もよく見えないの」

 

 感嘆の声を上げながら、星空に目を奪われる明日奈。和人が見つめるその横顔は、ユイのように無邪気で、それでいて高名な芸術家が作る女神像の様に美しく、どこか神秘的だ。

 

「明日奈。この近くにさ、大きな湖があるんだ。そこから見る星空も、すごく綺麗なんだよ。

 大きな湖面に、星の光が反射してさ……流れ星が降ってくるときなんか、もう」

「湖に、流れ星……! ね、ねえ、キリト君……」

 

 夜空の輝星に向けられていた明日奈の視線が、夜天の騎士に注がれる。この期に及んで、彼女にみなまで言わせるのは野暮というものだ。

 

「わかってるって。今日は流石に遅すぎるけど……流星が降ったら、見に行こうか。

 ……みんなで」

 

 一瞬『二人で』といいかけた迂闊な自分を、心の中で叩き切り。和人はぎりぎりのタイミングで、別の言葉を付け加える。いくら和人が魔戒騎士であっても、恋人でもなんでもない男と、夜中に人気のない湖までいくのは明日奈も不安だろうから。

 

「そうだね……。みんなで、流れ星を見に行こうね、キリト君。約束だよ?」

「ああ、約束だ」

 

 実に嬉しそうに、ほんわかとした微笑みを浮かべる明日奈に、和人は頷く。

 流星の降る夜が、いつになるのかは分からない。それは明日のことかもしれないし、遠い先のことかもしれない。例えそれがどれくらい遠い先の事であっても、和人は約束を違えるつもりはない。例えどんなホラーが襲ってこようと、誰一人欠かす事なく、その夜を迎える。

 ふんわりとした微笑みを向けてくれる明日奈の、榛色をした美しい瞳の中に、和人は秘かな約束(ちかい)を捧げた。

 しばしの間、そうして見つめ合い、やがて、どちらからともなく視線を天に向ける。星々の輝きに照らされながらデッキチェアに並んで寝そべり、共に穏やかな時間を過ごす。魔獣蠢く夜の中にありながら、今ここだけは月光のゆりかご(ムーン・クレイドル)に包まれ、静かな光に満ちている。

 その淡い輝きの中、先に言葉を紡いだのは、明日奈の方だった。

 

「流れ星……流れ星かあ……早く見たいなあ。

 ――『アインクラッド』では、星が見えなくて残念だったから……」

 

 明日奈が、ぽつりと呟く。

 

「ああ、楽しみだな。……ところで、明日奈」

「どうしたの、キリトくん?」

「――『アインクラッド』って、なんだ?」

 

 後から思えば、その一言がトリガーだったのだろう。

 隣に寝そべり、共に夜空を見上げていたはずの明日奈が、突如身じろぎしたか思うと、弾かれたかのように急に身体を起こす。それに気付いた和人も、同様に急いで上半身を起こし、明日奈を見つめる。

 

「明日奈? どうかしたか?」

「あ、ああ……き、りと、くん……キリト、くん……?」

 

 困惑。恐怖。驚愕。混乱。そんな感情を全て混ぜて濃縮したような表情をした明日奈が、声を震わせて和人を呼ぶ。美しい榛色をした瞳は、視線こそ和人の方を向いているものの、本人の意思に寄らない所でかっと見開かれているようにも見え、まるで、ここではないどこか遠くに向けられているかのよう。

 その右手は、何かを掴もうとしているのか、あるいは何かを指差そうとしているのか。人差し指だけが少し伸びた状態で、何もない空間を小さく上下する。

 ぱくぱくと口を動かし、明日奈は混乱の叫びと嗚咽の声を紡ぐ。

 

「大丈夫か、しっかりしろ。俺はここにいるぞ」

「キリト君、キリト君……! 助けて……いや、いやあっ……! いかないで……!!

 一人にしないで……やだよぉ、キリト君……!!」

「明日奈! どうした、明日奈!? 

 くそっ――リズ! シノン! すぐに来てくれ! 明日奈が!!」

 

 バランスを崩して倒れ込み、大粒の涙を零し続ける明日奈の身体を抱きとめながら、和人はサイドテーブルの上に置いた魔導具ユイ、そして、その向こうにいる魔戒法師に向けて叫ぶ。

 わなわなと身体を震わせながら、駄々をこねる幼子のように両手で頭を抱えて、いやいやと首を横に振る明日奈。その肩を掴み、いくら声をかけても、和人の声が明日奈の耳に響くことはない。彼女の瞳から溢れ出した無数の涙が、和人の黒い服の上に落ちて丸い跡を作る。

 

 

 

 リズとシノンが駆けつけた10分ほど後。明日奈はようやく落ち着きを取り戻すと、そのまま眠りに落ちた。調べた限りでは異常は発見できなかったものの、二人の魔戒法師達は明日奈を寝室へと運び、万が一に備え交代で仮眠を取りながら、一晩中彼女の様子を確かめて夜を明かす。

 

 その場に、和人はいない。

 明日奈の狂乱を引き起こした原因として、一番可能性が高い人間が、彼女の側に居ていいはずがないのだから。リズとシノンは、「ここは任せて眠れ」と騎士を気遣ってくれたものの、明日奈のあんな様子を見てまともに眠れるはずもなく。気付けば、和人の脚は屋敷地下の訓練場に向かっていた。

 

 その夜。

 朝日が昇るまで、訓練場から剣音が絶える事は無かった。

 

 3:【継翔】 終 

 

―――――

 

 無敵を誇る魔戒騎士も、最初から強かったわけじゃない。

 消えぬ約束を刻む時。少年は一歩、前に進む。

 

 次回 【蒼筆】

 

 その身にまとえ、鋼の宿命。

 

―――――


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