――――――
「…………はぁ」
橙色に染まった日差しが、少しずつ夜の闇に飲まれようとしつつある夕暮れの一時。屋根のない美術館の中庭からは、暮れゆく夕空が見える。
開けた場所に置かれたベンチへ腰掛け、その髪の色によく似た残光を眺めながら、結城明日奈は深々とため息をついた。
(……どうして、こうなっちゃったのかしら)
きっかけは数日前、明日奈が20歳の誕生日を迎えた日のこと。
そんな日ですら、家族が仕事で家にいないのはいつもの事であり、今更どうこう思う事もない。
問題は、『誕生日おめでとう』の言葉よりも先に届けられた大量のお見合い写真の方だ。
京都にある《本家》が送ってきた写真の数は、両手両足の指ではとても数え切れぬほどの量であり、やれどこぞの大企業の御曹司だ、やれどこぞの有力国会議員の二世だと、政略結婚の色を隠そうともしていない。
後で聞いた所によると、去年も大量に届いていたそうなのだが、家族が様々な理由をつけて押しとどめてくれていたおかげで、明日奈の視界には入らなかったそうだ。
ただ――去年跳ね除けた分、今年はどうにもならなかったらしい。
加えて、写真だけでもうんざりだというのに、直接明日奈の自宅に押しかけてきた男までいたのだからたまらない。
父の友人を名乗る、須郷という男。
幾分年上らしきその男は、数時間に渡り自らの優秀さや将来性、理想の結婚生活を一方的にまくし立てた後、ようやく帰っていった――明日にでもまた来る、と言い残して。
明日奈が自宅を飛び出し、同じ女子大に通う友人のマンションに転がり込んだのは翌日早くの事だ。
「………………はぁ……」
我ながら勢いに任せすぎた処はあったとは思う。一応、お手伝いさんに言伝はしてあるし、家族にも家出めいた事をした旨は伝えてある。
当然、母親にはこっぴどく叱られたが、事情が事情であるため家族みながそれなり以上の理解を示してくれたのが救いだった。
急にルームメイトになった年下の同級生――1年飛び級して、明日奈と同じ大学に入った才女――も、
『気にしないで。誰かと一緒に暮らすなんて楽しいし、ボクは大歓迎だよ!』
と、好意的に言ってくれるおかげで、なんとか生活できてはいるのだが。
(……そろそろ、帰らないと。木綿季にまで心配かけたくないし、ね)
ここ数日分の気晴らしに、美術館の特別展示を見に来たのはいいものの正直に言って気分は晴れることはなかった。繊細なタッチで描かれた美しい絵画も、アーティスティックな彫像たちも、今の明日奈の心には響いてこない。
展示のメインである『女神を抱く月』というブロンズの像を見ても、それは同じだった。
『この像は、さる芸術家が亡くなった妻を女神に見立てて創り上げたと言われています。
月は芸術家自身を表しているとも、失われた彼女の魂を表しているとも言われ――』
中央ホールに堂々と飾られた、髪の長い女性が満月を抱く像。ホールにいた時偶然聞こえてきた、ツアー客を案内している学芸員の説明も、今の明日奈の心を上滑りしていく。こんな状況でなければもっと美しく感じられたのかもしれない。
(……ん? あれって……)
夕暮れの残光に照らされながら、明日奈はベンチから立ち上がり――ふと、視界の端に人影を捉えた。
中庭の隅に建つ、背中に羽根の生えた子供――まるでおとぎ話に出てくるピクシ――ーを象ったオブジェ。そのオブジェを支える台座が、夕日の輝きを遮ることで生まれた影の中に、誰かがいる。
見た目と背丈からすると、小学生、あるいはそれ未満だろうか。白いワンピースを着た、長い黒髪と幼い顔立ちの少女は、どこか不安そうにあたりを見回している。
恐らく、親とはぐれた迷子なのだろう――そう判断した明日奈は、ゆっくりと少女に近づいて、声をかけた。
「こんにちは」
怖がらせないよう、しゃがみこんで少女の目線と高さを合わせて話しかけたつもりではあったが、少女は明日奈の声にびくりと体を震わせ、怯えと困惑を混ぜたような瞳でじっと見つめ返してくる。
敵意や害意が無いことを示すため、明日奈はとびきり優しい声音で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「こんにちは。私、結城明日奈っていうの。お名前、聞いてもいいかな?」
「なま、え……わたしの、名前……」
黒髪の幼子は、緊張した様子でおずおずと口を開く。
「ユ……イ……」
「――ユイちゃん、でいいのかな? 可愛い名前だね」
少しばかり戸惑った様子を見せたものの、幼子――ユイは、明日奈の言葉にこくこくと頷いた。そのシンプルな仕草が、どうしても可愛らしく思えてしまうのはなぜだろうか。
当然だが母親ではなく、その相手や候補すらいない明日奈ではあるが、母性本能というものを意識せざるを得ない。くりくりとした黒い瞳が、明日奈の顔をじっと見つめてくる様は、どこか妖精めいていて実に可愛らしい。
「あ、すな……アスナ?」
「うん、そうだよ。私は、明日奈」
動かし方を確かめるように、ゆっくりと明日奈の名前を口にするユイ。
彼女の小さな頭に振れ、なめらかな黒髪を優しく撫でてやると、ユイはようやく安心したような微笑みを浮かべた。その可愛らしさにつられてしまい、気付けば先程までの憂鬱な気分もどこへやら、明日奈も自然に笑顔をみせていた。
「じゃあ、ユイちゃん。私と一緒に、入り口までもどろっか。
ユイちゃんのパパやママも、きっとユイちゃんの事を探してると思うから」
「パパ……ママ……?」
「そうそう、パパとママ。ユイちゃんだって、会いたいよね?」
「……はい。パパとママに、会いたいです。会えますか?」
「うん。会える会える。入り口に案内所があったから、そこできっと会えるよ」
入館した際、正面入り口付近に総合案内所と、その地殻に臨時の託児所のようなものがあったことを、明日奈は記憶していた。
そこまでユイを連れていけば、スタッフに親を呼び出してもらうこともできるはずだ。そろそろ閉館時間が近いのか、あたりには自分たち以外に人影はない。
はぐれないようユイと手を繋ぎ、彼女の歩調に合わせて、明日奈はゆっくりと入り口へと足を進めた。
「私ね、ここからあんまり遠くない所に住んでるの。ユイちゃんは、どこから来たの?」
「私は……えっと、わかりません……」
「そっかー。それじゃあ、なおさらパパとママを見つけないとね」
他愛もないことを話しているうち、気付けば明日奈たちは美術館の入り口ロビーにたどり着いていた。正面扉をくぐってすぐの所に、明日奈の記憶通り、総合案内所の看板を掲げたカウンターがある。
ただ、不運なことに係りの者が席を外しているらしい。
近くにあった託児所も同様らしく、中をちらりと覗いてみたが、大人も、子どもも、誰一人いないようだ。美術館のスタッフがいれば、館内放送などでユイの父か母を探せると思っていた明日奈だったが、ここに来て手詰まりに陥ってしまった。
(どうしよう……ユイちゃんのご両親、心配してるだろうし……)
近くに交番などはあっただろうか。
そんな事を考えながら、明日奈はふと、正面扉の方を見た。
――その瞳に映る、夜闇の如き漆黒。
沈みゆく夕日を背に、その陰は、閉館間近の美術館へ、静かな足取りで踏み込んできた。
夜をそのまま切り取ったような黒いロングコート。その内にある上下はもちろん、髪や、靴すらブラック一色で固めたその姿は、夕日の逆光と相まって、明日奈の目には一瞬、暗黒の塊が入り込んできたかのように思えてしまう。
その”黒ずくめ”は軽くあたりを見回した後、明日奈の存在に気付いたのか、進行方向を変えて近づいてきた。
(男の人……? 誰だろう、もしかして美術館のスタッフ……まさか、ね)
夕日を背負わなくなったことで、明日奈はようやくその人物の姿かたちをはっきりと捉えることができた。
全体的に中性的ではあるが、ところどころでしっかりと男性らしさを示している顔立ち。背丈は明日奈より幾分大きいが、年齢はそう変わらない――いや、もしかしたら明日奈より一つか二つ、年下かもしれない。そんな印象を抱かせる青年。
上から下までほとんど黒一色に近い服装は強烈だが、慣れれば意外と似合っているような気がしてくるのが不思議だ。
「あの、すいません」
「あの、すいません」
戸惑ったような顔の青年と、明日奈の口から出た言葉が奇妙なシンクロをみせた。
一瞬、気まずい雰囲気が流れる中、青年はその整った顔に苦笑とも微笑ともつかない、曖昧な色を浮かべながら、『お先にどうぞ』と言うかのように右手を差し出し、場の優先権を明日奈に譲る。
同様の事をしようとして、機先を制された明日奈だったが、この場に来た目的を思い出し、ありがたく提案に乗ることにした。
「あの、すいません……美術館のスタッフの方ですか? 実は、迷子を……」
「……迷子って、君?」
黒衣の青年が、多分の戸惑いを含めながらその視線を明日奈に向ける。
「まさか! 迷子は私じゃなくて、こっちの……ユイちゃん? あれ、ユイちゃん?」
――いない。
つい先程、いや、今の今までその小さな手を握っていたはずの、ユイがどこにもいない。慌ててあたりを見回し、その名を呼んで見ても、影も形も、帰ってくる声すらもない。まるで最初からそんな子どもはいなかったかのように、ユイの姿は忽然と掻き消えていた。
「本当にいたんです! 中庭で、ユイちゃんっていう、髪が長くて、これくらいの小さな子を……」
事態の変化についていけないながらも、明日奈は必死に、目の前の男にユイの事を説明する。その真剣な様子に、ユイの存在が明日奈の妄想でも狂言でもない事を確信したのか、青年の表情から困惑の色が消え、代わりに真剣な眼差しを明日奈に向けてくる。
「あー……ちょっといいかな、えっと……」
「結城。結城明日奈です」
「そうか、結城さん。俺は桐……キリト。うん、キリトって言うんだ」
キリトというのが、黒衣の青年の名字、もしくは名前らしい。
自分がフルネームを名乗ったのに、向こうがそうしなかったのは少しだけムッとしたが。
もし、ユイが突然消えた状況下でなければ、明日奈は彼が名乗る際、妙に口ごもった事を不審に感じていたのかもしれないが。
キリトと名乗った青年は自らの懐に手をいれると、困惑する明日奈の眼前にいきなり何かを突きつけた。
がきり、という小さな作動音と共に、明日奈の視界に夕焼けに似た輝きが満ちる。
――ライターのようなもので、目の前に小さな火を突きつけられたと気付くのに時間が必要だったのは、その火の輝きがあまりにも美しく、不思議と熱を一切感じなかったせいかもしれない。
ブライトオレンジの炎を通して、青年の黒い瞳が明日奈の瞳をじっと覗き込み――やがて、ふっと、微笑むのが見えた。
「……よかった。君は違うみたいだ」
「い、いきなり何す――」
突然のことに混乱する明日奈に、青年は素早い動作で懐から一枚の紙を取り出し、再び明日奈の眼前に突きつける。
炎に変わり、明日奈の視界に映ったのは、赤い色をした短冊状の札。
表面には黒い墨で、漢字と何かの記号を合わせたような文字らしきものが描かれている。その赤と黒の札を見た瞬間、明日奈の思考は、ぼんやりと――まるで眠りに落ちる直前に似た、
柔らかな感触に包まれていた。
意識と判断力の箍が緩んでいく明日奈の思考に、青年の言葉がするすると入り込んでくる。札に描かれていた黒く複雑な紋様が解け、浮き上がり、明日奈の身体に流れ込むのと同時に。
「結城さん。美術館はもう閉館だ。だから、君はまっすぐ家に帰るんだ。いいね?」
「家に……帰る……。だめ……ユイちゃんが、まだ……」
「ユイちゃんの事は、俺がなんとかする。ここは……なんていうか、危険なんだ。
だから、君はもう帰ったほうがいい。わかったね?」
――そうだ。結城明日奈は、家に帰らなければいけない。
ユイの事は彼――何故か信頼できる初対面の男――に任せて、帰らなければ。
まるで想定された結論に、力づくで誘導されているかのように、明日奈の思考が一方向に固定されていく。
「……ユイちゃんをお願いします。キリト、さん……」
「ああ、任せろ」
黒衣の男に頭を下げ、明日奈は半ば朦朧としたまま、美術館を後にする。
意識の片隅に、黒い髪の少女の不安げな面持ちが過るが、それをどうしたらいいのか、今の明日奈にはわからない。
迷いを抱えながら、明日奈は言われた通り、木綿季が住むマンションへと向けて歩いて行く。夕闇が夜へと変わりゆく、逢魔が時の街の中を。
――――――
「…………行った、かな」
陽の色をした長い髪が印象的な女性――結城が美術館から出ていくまで。
キリト――もとい、桐ヶ谷和人はしっかりと見送って、小さく息を吐いた。
咄嗟に名乗った偽名――本名を縮めただけのもの――が、バレていなかった事を祈りつつ、和人は自分の首から下げた鎖をつまみ上げた。
黒一色で固めた自らの出で立ちの中で、唯一そうではないもの。シルバーに輝く鎖の先に繋がっているのは、中央に白い丸石をはめ込んだペンダントトップ。石の周囲を、桜色と薄青にカラーリングした細い金属を編み上げた細工で飾ったそれを、和人は掌に載せる。
「シノン、聞こえるか」
『――ええ』
シノン――この美術館を見下ろせる高層ビルの屋上で、法衣をさながらギリースーツのように被りながら、じっと待機しているであろう仲間の落ち着いた声が、ペンダント型の魔道具を通して和人の耳に届く。
「今、一人出た。十分離れるまで、見ておいてくれないか」
『構わないけど……ねえ、リズの術で人払いしたのに、まだ残ってる人がいたの?』
「ああ」
『ああ、って……あなたねえ。そこは怪しむべきでしょ、普通』
顔の見えない通信手段ではあるが、シノンが呆れ顔を浮かべている事がわからないほど、付き合いの短い間柄ではない。シノンの方も、和人が困ったような顔で苦笑いをしている事ぐらいお見通しだろう。
「憑依されてない事は確かめてあるし、大丈夫だろ。俺はこれから、中を調べてくる」
『……了解よ。わかってると思うけど、気をつけて』
「ああ、シノンも……あ、そうだ。もう一つ」
『なに?』
「さっきの人が、美術館の中で迷子を見かけたみたいなんだ。もし、外に出てきたら」
『任せて。こっちの方で保護しておくから、あんたは本命に集中しなさい』
ありがとう、と頼れる仲間に礼を言い、和人はペンダントを元どおり首から下げる。
人の気配が消えた美術館は、忍び寄ってきた夜の闇に包まれ、異様な雰囲気を醸し出している。館内には電灯こそついているが、動くものが自分だけしかいないという空間はそれだけで何処か不気味なものだ。
『狩り』の度に感じる、研ぎ澄まされた鋼の刃にも似た緊張感を全身に張り巡らせながら、和人は美術館の奥へゆっくりと進んでいく。
『番犬所』の――シリカの調査によると、邪気が集まっている場所は、この美術館の中庭と中央ホール。
”あれ”が出現するとしたら、そこにある何かをゲートにする可能性が高いというのが、彼女の分析だった。
(まずは……中庭だな)
館内図を眺めてみれば、中庭を経由する形で、中央ホールに入る事ができそうだ。先程の女性が『迷子と会った』と言っていたその場所が気になった事もあり、和人はそちらの調査を優先すべく足を進めた。
――――――
自分は何をしているのだろうか。今日、そう感じるのはこれで三度め。
一度目は、勢いで家出してしまった挙句、美術館の中庭でぼんやりとしている自分に気付いた時。
二度目は、なぜかはわからないが、あの黒ずくめの言うままに、家に帰ろうとしている自分に気付いた時。
三度目は、木綿季に帰りが遅くなる旨を伝え、あの美術館に戻ってきてしまった、まさにこの瞬間。
黒ずくめ――キリトの言葉に、一度は納得したはずだった。だから大人しく美術館を離れ、帰ろうとしたのだ。
その足を引き返させたのは、ユイの――世界の全てから切り離され、寄る辺を失ったかのような、あの瞳。あのつぶらな、そして寂しそうな瞳を思い出した瞬間、明日奈の脚は止まり、気付けばこうして引き返してしまっていた。
(ユイちゃんが大丈夫かどうか、ちょっと確かめるだけだから……)
自分に言い訳をしながら、明日奈は『本日一日有効』の入館券を片手に、美術館に脚を踏み入れる。
相変わらず、館内に人の気配はない。こうして来てみたはいいが、行く宛があるわけでもない。中庭まで行って、誰もいなければ諦めて帰ろう。そう考えたのは、そこがユイと出会った場所だからだろう。
明日奈の足は自然と、中庭へと続く扉へと向かい――そして、見てしまった。
(なっ――!!)
夕日は既に消え、夜を支配する闇を人工の光が駆逐している中庭。人影は二つ。
怯えを露わにした表情で、小さな身体をすくめながらベンチに座っているのは、誰あろう黒髪の少女・ユイ。
その眼前に奇妙な形状のライターを突き出し、ブライトオレンジに輝く炎を突きつけているのは――。
「――何をしてるの! キリトくん!!」
気がつけば、明日奈の体と声は勝手に飛び出していた。
本当なら呼び捨てにしてやるつもりだったのだが、染み付いた礼儀作法が、勝手に『くん』を付けてしまう。もっとも、今の明日奈にそんな事を気付く心の余裕は無い。
予想外の乱入者に驚き、ラグ――いや、フリーズしているキリトを横目に、明日奈は大急ぎでベンチに駆けよると、両の瞳に涙を浮かべているユイの小さな体を抱きしめ、自分の体を盾にするようにして身を寄せる。
「……あ、あのー。結城さん……?」
「君ね! 一体、何考えてるの! こんな小さな子を脅かして、恥ずかしいと思わないの!?」
場の勢いのまま、相手は恐らく年下だろうという直感に従うまま、明日奈はキリトに言葉をぶつけていく。今思い返してみれば、自分が同じことをされた時に言っておくべきだったのだ。
なぜあの時、自分はすんなりと帰ってしまったのだろうか。
「君、言ったよね。ユイちゃんの事は任せろって! それがこれ?
キリトくんの言う『なんとかする』は、こんな小さい子を脅して怖がらせることなの!?」
「いや、あのー……これには深い事情が……」
「事情って、どんな? どんな事情があれば、ユイちゃんを泣かせていいっていうの?」
「それは誤解で……いや誤解ではないといえばその通りなんだけども……」
「とにかく、ユイちゃんは私が警察に連れて行きます。いいよね、キリトくん?」
舌鋒鋭く責め立てる明日奈に、歯切れの悪い調子でなんとか応じていたキリトだったが、なんとか反論をしようと口を開きかけた直前、不意に黙り込むと、体ごと振り返り明日奈たちに背を向ける。
――その顔が見えなくなる直前、明日奈は見た。
今まで苦笑いを浮かべていたキリトが、一瞬で別人のように鋭い顔付きに変わった瞬間を。
「わかった、結城さん。そうしてくれ」
ぞっとするほどに冷たい声音で、キリトはこちらを振り返ることもなく呟く。
その背に、黒鞘に収まった二振りの長剣――ほんの一瞬、キリトの後ろ姿にそんな物騒なアイテムが見えた気がして、明日奈は思わず目をしばたたかせる。
何度かまばたきをする頃には、そんなものは見えなくなっていたが。
急に態度を――その身に纏う雰囲気すらも、変えたキリトに困惑しつつも、明日奈はユイの手を取って立ち上がる。
「……行こ、ユイちゃん」
「は、はい……」
ユイと手を繋ぎ、明日奈は中庭を後にする。
振り返れば、キリトが中央ホールへ続く扉を開けて中に入っていく後ろ姿が見える。その姿に何故か胸騒ぎを覚えながらも、明日奈の足は再び美術館の正面玄関に向けて進んでいた。
――――――
中央ホールに脚を踏み入れながら、和人は思考を支配するのは、彼女――結城明日奈の事。思えば、彼女にはおかしい所が多すぎた。
リズの法術がかかっているというのに、美術館の中に残っていたというのが一つ目。
八卦符――あのリズベットお手製の逸品――まで使ったというのに、平然と戻ってきたというのが二つ目。
しかもその一部始終を、外で監視しているシノンに一切気づかせなかったというのが三つ目。
そして、最後は――。
「――あら、お客様。入館券はお持ちですか?」
やはり、いた。
あの二人を逃がす事を最優先にしなければいけないほど、はっきりとした気配を放つ存在。言外の威圧感で和人を誘う、今宵の狩りの獲物。
(ようやく、本命のお出ましか……)
様々な芸術品が展示された広い中央ホールの中でも、一際目をひく展示である、女性を模したブロンズ像。
声の主――像を支える台座の前に佇む女性が、和人の方にゆっくりとした足取りで近づいてくる。首からかけられたカードホルダーには、学芸員であることを示すプラスチックプレートが挟まっており、フレームの細い眼鏡と、ひとつ結びにくくられた髪が、どこか知的な印象を与える。
――こんな状況下でなければの話だが。
「あいにくと、これしか無くてね」
油断のない歩法で、一気に間合いを詰める。
和人は懐から取り出した特異なデザインのライター、もとい『魔導火』を女性学芸員の眼前に突きつけ、太陽の如く輝く炎を灯す。
ブライトオレンジの光に照らされた彼女の瞳孔。
それに導かれるように、女性の白目部分に、四方八方から黒い文字列が顕れる。蛞蝓が這い回った痕跡にも似たその文字は、人類が使うどの言語にも属さない、この世ならざる者の言語。
目の前の彼女が、人ならざるものである証。
「さようですか。では――死んでいただけますか」
直後。
ひゅっと風を切る鋭い音と共に、女性の細い右足が高く振り上げられる。
プロの格闘家も裸足で逃げ出すような、高速高打点のハイキック。その一撃で肘を打ち砕かれ――る寸前まで引きつけてから、和人は伸ばした腕を引き戻して回避。
最初の一撃が空転した勢いを利用して繰り出された追撃の左足をも、上半身を僅かに反らして躱す。
支えとなる両足が宙に浮いた隙を逃さず、和人はごく短いステップで踏み込みつつ、学芸員の顔面に鋭い掌底を叩きつけた。男の体重を載せた一撃をまともに喰らった学芸員は後方に大きく吹き飛ばされ、ブロンズ像の台座に頭から激突する。
静寂を是とする美術館内に響くのは、眼鏡が壊れ、頚椎が折れ、頭蓋骨が砕け、脳髄が潰れる音の四重奏。
疑いようのない、致命傷。
「――あらあら。こんなに美しい芸術品に触れるなんて、なんてひどいお客様」
相手が人間であるという前提に立つのであれば、の話ではあるが。
首の付根から上の全てがまるごと背中側にへし折れた状態で立ち上がる学芸員"だったもの"をにらみつけながら、和人は背負った二振りの剣、その柄を左右の手に一振りずつ握りしめ、ためらいなく抜き放つ。
『魔戒剣』――鈍い輝きを持つ鋼色をした両刃の刀身に、鍔と飾り気のない拵えを持つ、和人の主武装。
左右の手に一振りずつ握った魔戒剣を、二刀一体として振るう自身が最も得意とする構えをとる和人の目の前で、学芸員だったものの体が内側からはじけ飛ぶ。
飛び散った肉片が無数の夜光蝶に変異し、狂ったように舞い飛ぶホールの中央。
顕現するのは、宿主の皮を脱ぎ捨てた怪異――それはさながら、極彩色の衣を纏う魔女。生気を感じぬ蒼白い肌と鮮血で染め上げたような赤い髪、悪意の滲み出た魔貌を包むのは、闇夜に煌く満月が放つ、狂気を誘う無慈悲な輝き。
背後にあるブロンズ像をトレースするように、人の頭より二回りほど大きな球体――鈍い金色に輝く『月』を、体の周囲に浮遊させ、自身を軸とした円周上にくるくると回転させながら狂い笑む魔性の化身。
暗黒に潜み、無垢なる命を貪る、人類の天敵たる魔獣――その存在を知るものは、怒りと恐怖を込めてこう呼ぶ。
『ホラー』と。
「――はあっ!!」
中央ホールの固い床を踏み切り、和人はホラーとの間合いを詰めて一気に斬りかかる。
カウンターとして放たれた『月』は左の剣で弾き飛ばし、右の剣をホラーの腹部に突き立てる。魔戒剣の柄まで通らんばかりに深く踏み込んだ、その手応えは――。
(――軽い!?)
内心の驚愕を押し殺し、和人は右腕を引き戻すと同時にわずかにバックステップ。
和人の首を刈り取らんと伸びるホラーの両腕から逃れ、直後に双剣を上段から振り下ろし、蒼白い腕に叩きつける。
左右の肘関節めがけた一閃、半ばから断ち切る刃の手応えもまた、胴を貫いた時同様にひどく軽い。
この手応えが絶無であればまだいい。目の前のホラーを幻と断じ、一度退く事も出来る。舞い飛ぶ無数の羽虫――むしろ蝶と言うべきか――の群れに、剣を突き刺し、振り回しているかのような曖昧な感触。
その薄い手応えがホラーの実在を証明している時点で、和人の思考から撤退の選択肢は消える。
(こいつは、ここで狩る!)
ホラーが反撃に繰り出した正面蹴りを、
こちらの斬撃の手応えは朧気だというのに、向こうの一撃は十二分なダメージを持つ重さなのだからたちが悪い。さながら乗用車にはねられるような一撃を受け止めた和人の体が、勢いのままホールの床を滑る。
体幹の軸をぶらさず、床につけた両足で体を支え、転倒を免れた和人に放たれるのは、追撃の『月』。表面に太く鋭い刃を無数に生やし、変幻自在な軌道を描きながら獲物を抉らんと飛び迫る『月』を、双剣で打ち払う。
(くそっ……なんて早さだ、こいつ!)
魔戒剣の刃と、月の刃が幾度となくぶつかり合い、文字通りに火花を散らす。
それ自体が武器である『月』と、二刀流を操る和人。ここに繰り広げられるは、攻防一体の斬撃によって相手を仕留めんとする者同士の演舞。
変幻自在の攻撃軌道に翻弄され、なかなか間合いを詰められずにいる和人を、ホラーは不気味な微笑みを浮かべて傍観し続けている。
そうして十合に渡り打ち合い、いなし続け――ようやく見出す、僅かな隙。
「もらった!!」
『月』が直線軌道を取った瞬間を見切り、和人は狙いすました双剣を振り上げる。
その、刹那。
「――があぁぁっ!!」
誘われた、と気付いた頃には時既に遅し。
剣を振り上げた和人が、『月』への反撃に転じようとして生まれた一瞬の隙。その隙を狙い『月』とスイッチ――入れ替わるように前へ出たホラーの掌底が、攻撃直前の無防備な胴を直撃した。
強烈な痛みと共に、僅かに浮き上がった和人の体を弄ぶように、ホラーが追撃の回転蹴りを叩き込む。胸骨がみしみしと悲鳴をあげ、内臓が前後に激しくシェイクされる。
そのままの勢いで後方へと吹き飛ばされた和人の肉体は、中庭へと続く扉を破壊し、庭の片隅にあったオブジェの台座に激突してようやく止まる。
ギリギリの所で受け身が間に合ったのと、身にまとう法衣のおかげで、致命傷とはならずに済んだが、全身に走る痛みは尋常なものではない。
「がはっ……あ゛ぁっ……!」
魔戒剣を支えに辛うじて立ち上がろうとするも、痛打を受けた肉体は意志通りには動かない。
常人であればゆうに5回は死んでいるだけの打撃を受けて、意識と剣を手放さなかっただけ僥倖と言うべきか。
霞む和人の視界の中で、『月』を従えたホラーが氷上を滑るような足取りで中庭に入り込む。その顔に狂気を含んだ笑みが浮かび――。
彼方より飛来した光の弾丸が、その顔面を吹き飛ばす。
『援護するわよ、和人!』
首にかけたペンダントから、シノンの声が響く。
倒れた和人をカバーするため、ホラーの肉体を吹き飛ばし続ける超音速の光弾。天井の無い中庭めがけ放たれるは、高層ビルの屋上に陣取ったシノンが描く、法術の力を込めた破壊の予測線。
1mを越す長軸の特注魔導筆を銃身に見立て、八卦符の魔力を弾丸の如く装填し放つ、超長距離からの狙撃――それはさながら、アンチマテリアルライフルの砲火。
頭部を撃ち抜かれて一瞬怯んだホラーの四肢と胴体に、シノンは輝く弾丸の如き術を正確に叩き込んでいく。
魔戒剣による斬撃同様、それ自体はホラーへの明確なダメージソースにはなっていないようではあるが、秒間一発に近い速度で正確に撃ち込まれる魔術弾のインパクトは、ホラーを足止めするに十分な威力を持っていた。
「悪い、シノン……助かった」
『礼ならあとでたっぷり聞いてあげる!
ペンダントから檄が飛ぶ。
シノンの狙撃術は強力だが、欠点も存在する。弾丸となる八卦符のストックがきれると、連射速度が大きく低下するというのが一つ。連射を続けると魔導筆に負荷が溜まり、負荷が一定量を越えるとしばらく発射できなくなるというのがもう一つ。
現在、ホラーを足止めするため、シノンは自身の最高速度で術を放ち続けている。八卦符も、魔導筆も、そうそう長くは保たないだろう。
彼女が作った貴重な時間を使い、和人は魔戒剣を支えに立ち上がろうとする。だが、ホラーの打撃で、内と外にダメージを負った体は未だ自由が利かない。
「ぐうっ……」
漏れ出たうめき声と共に、和人の体が傾ぐ。
受け身が間に合わず、顔面から砂利道へと倒れ込む寸前の和人を、誰かの柔らかな手が支えた。
「――キリト君、しっかりして! キリト君!」
「なっ……えっ……!?」
ここで聞こえるはずのない声。ここで見るはずのない顔。ここに居るべきでは無い人。闇夜の中で輝く、太陽のような髪と瞳をした、今日最も和人を困惑させた美しき人。
結城明日奈。
その姿を視界に捉え、和人は今度こそホラーの幻術に囚われたのではないかと一瞬自問自答し、即座に否定する。
この暖かな感触が、幻であるものかと。
「ゆっ、結城さん!? どうしてここに? 帰ったんじゃ!?」
「そうしたかったんだけど、扉がどこも開かなくて……。そしたらユイちゃんが、
『パパが危ないから中庭に戻る』って言い出して……ユイちゃん一人で行かせられないから、ついてきたの!」
和人に肩を貸し、中庭と入り口側を隔てる壁際まで共に歩きながら明日奈が叫ぶ。
壁際に敷かれた白い通路と中庭を遮る、大理石で造られた仕切り板めいた背の低い飾り壁。明日奈はそこに和人を寄りかからせ、持っていたハンカチで和人の額に浮いた脂汗を拭う。
「ユイちゃん、来ていいよ!」
「はいっ!」
明日奈の呼びかけに答え、少し離れた所に隠れていたユイが、とてとてと和人の所に駆け寄ってくる。見た目は幼子そのものながら、真剣な光を宿したその瞳に、和人はこれが気まぐれでも何でもない事を理解する。
「聞いてください、パパ!」
「ああ――パ、パパ!?」
こんなタイミングでユイの口から出てきた予想外の単語に当惑する和人を他所に、ユイは先程と同じ真剣そのものの表情で言葉を続ける。
「あれは……あの『ホラー』は《ルナーケン》。陰我を持つ女性に寄生し、美しい女性を餌にするホラーです!」
「ルナーケン……」
「ルナーケンの本体は『月』の方――女神の姿をした方は、ルナーケンの『武器』なんです。
『月』を破壊しなければ、ルナーケンには絶対に勝てません!!」
「……なるほど。完全に一杯食わされてたわけか」
二人の会話の内容を理解できていない明日奈を他所に、和人はユイの言葉に頷く。
ホラー・ルナーケンの武器――あの女神じみた姿の魔性に『あちらこそが本体である』と思い込んでしまっていた。
だが、考えてみれば思い当たるフシはあったのだ。
いくら斬りつけようと、大した手応えが無かった女神に対し、魔戒剣と切り結ぶほどの硬度を持つ月。その月が斬られかけた瞬間、傍観していた女神が急襲に転じたのは、和人の隙をつくためではなく本体を守るため。
そこまで分かれば、勝機はある。
「ありがとう、ユイちゃん。おかげでなんとかなりそうだ」
「どういたしまして、パパ」
「パ――いや、もうそれは後で話そう。結城さん、君はユイちゃんと逃げ――」
『ろ』、と和人が言い終える直前。
中庭と、明日奈達がやってきた入り口側へと繋がる唯一の扉に、ルナーケンが吹き飛ばしたオブジェが突き刺さる。強烈な衝撃で扉は埋まり、壁は崩れ落ち、通行しようと思うなら重い瓦礫を撤去する必要がありそうだ。
魔獣が暴れまわる戦場をすぐ横にして。
「――る、のは無理だな。悪いけど、落ち着くまでユイちゃんとここに隠れててくれ」
「わ、わかったわ……けど、君はどうするの?」
狂乱のままに暴れまわるルナーケンを一瞥した後、和人をじっと見つめながら、明日奈が問う。
困惑と恐怖、そして何より心配を色濃く湛えた榛色の瞳を見つめ返す、和人の答えは一つ。
「あいつを、斬る」
「そんな……無茶よ! 事情はわからないけど……君、怪我してるのよ!?
さっきだって、倒れそうになって……!」
「大丈夫だって。これくらい、しょっちゅうだからさ。それに」
立ち上がり、二振りの魔戒剣をしっかりと握り直し。
ほんの数時間前に会ったばかりの男の身を、真剣に案じてくれる彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、和人は告げる。
「結城さんの顔見たら、なんだか元気出てきた。だから、大丈夫。
君は、俺が守る」
骨が痛む。内臓が軋む。悲鳴をあげる四肢は十全に程遠く、口の中には血の味が交じる。
それでも、それでもと意地を張って浮かべた精一杯の笑顔に、明日奈が微笑みを返してくれた事を嬉しく思いながら、和人は飾り壁を飛び越え、ルナーケンのいる戦場に戻る。
遥かな古から受け継いだ使命を果たす為に。
『和人、ごめん! 限界!!』
「十分だ! ありがとう、シノン!!」
限界まで――いや、彼女の事だ。限界などとうに超えていたに違いない。
だというのに。
和人達を襲おうと暴れまわったのであろうルナーケンを、シノンは完璧に抑えきっていた。先程まで自分が隠れていた壁を除き、殆どの構造物がルナーケンによって破壊され尽くした中庭で、和人は月を抱く女神――いや、『女神を抱く月』の姿を真似た不出来な魔獣と対峙する。
「もうネタは割れてるんだよ、『お月様』」
不敵に見えるよう笑いながら、和人はルナーケンに宣言する。
その言葉、その意図を正確に理解したのか、ルナーケンの『武器』が、その表情を醜く歪める。これでルナーケンの怒り――ヘイトは、ほぼ確実に和人の方を向いただろう。
あとは――
「お前を、斬る!」
柄を握った両腕を真上にまっすぐ伸ばし、和人は二振りの魔戒剣を頭上で交差させる。金属の刃同士が接触し奏でるのは、きぃん、という高く清浄な音。その音をも切り裂くように、和人は掲げた両剣を回転させた。
切っ先が描く
ほぼ同時だった。
自らの正体を看破した者を粉砕すべく、ルナーケンの『武器』の突進が、和人の立っていた場所に突き刺さったのは。
「キリトくん!!」
「パパ!!」
抉られた中庭の土と砂利が、濛々とした土煙を上げる。
辛うじて残った壁に隠れながら、一部始終を見つめていた明日奈とユイが、そこにいたはずの彼の身を案じ、叫ぶ。
彼女たちが見つめる視線の先で、吹き飛ばされ、壁に深い亀裂が入るほどの勢いで叩きつけられた。
――ルナーケンの『武器』が。
「……キリト、くん?」
風が舞う。
土煙が吹き飛ぶ。
消え行く光の中に立つ雄々しき姿を目にし、明日奈の唇から思わず言葉が漏れる。
その瞳が見つめる者を表すならば、それはまさに"黒の剣士"――いや、騎士と言うべきか。総身に纏うのは、夜空を凝縮し、鍛え、磨き上げたような漆黒の金属にて創り上げられ、星の如き
中世の騎士とファンタジーの英雄を同時に想起させる、幻想的にしてどこか畏敬の念を抱かせる造型。
頭部を守る兜には、流麗ながら尖ったラインを描く飾りが施され、金色に輝く二つの目、口元を覆うように噛み合わされた鋭い牙とともに、まるで闘争本能を露わにした黒狼の如き強烈な印象を見る者の目に焼き付ける。
刮目せよ。それは異界より召喚せし鎧をまとい、魔獣跋扈する戦場に立つ”守りし者”。
彼を、"彼ら"を知る者は、そしてユイは、希望を込めてその名を呼ぶ。
「あれが――
黒の魔戒騎士――キリトが頷いたのは、ユイの呼び声に対してか、あるいは明日奈の問いに対してか。
後ろにいる二人を一瞥し、無事を確かめたあと、キリトは中庭を蹴って跳躍。
今まさに壁から這い出ようとしたルナーケンの『武器』に、先程の意趣返しとばかりに追撃の拳を叩き込む。
『はああッ!!』
裂帛の気合とともに繰り出された鋼の拳が、もろくなっていた壁ごと『武器』を中央ホールへと吹き飛ばす。『武器』はホールの床をバウンドし、展示されていた美術品をなぎ倒しながら転がっていく。
轟音とともに舞い散る破片を着地の勢いで祓い、再び中央ホールへと戦場を移したキリトは、『月』を視界に捉えた。
ゲート――ホラー・ルナーケンがこの世に顕れる道となった『女神を抱く月』の像の前に漂う、金色の本体。
その本体を守らんと、ようやく体勢を立て直したルナーケンの『武器』が、『月』を背にしながら、キリトの前に立ちはだかる。その顔にもはや美しさは欠片もなく、悪意と憎悪に満ちた本性だけがただ露わになった、魔獣そのもの。
『終わりだ! ルナーケン!!』
残り83.8秒。カウントダウンを続ける鎧をまとい、キリトは叫び、剣を抜き放つ。その手に握るのは、片や漆黒、片や蒼白の刀身を持つ、二振りの両刃剣。
右手に、闇の如き黒の剣『
左手に、光を顕す白き刃『
鎧の召喚とともに魔戒剣より変異した、自身の魂とも言える剣を構え、キリトは駆ける。
『はあッ!!』
金属の鎧がホールの床を踏みしめ、重々しい鋼の足音を奏でる。
女神の姿をかなぐり捨てた魔獣の咆哮が、ホールの空気を震わせる。
『月』に向けて間合いを詰めるキリトに向け、『武器』が繰り出すのは捨て身の突進。その一撃を避けても、脚を止めても、『武器』と切り結んでも、後方で待機する『月』が動き、死角からキリトの心臓を抉るだろう。
故に、選ぶ道は一つ。
(――押し通る!!)
白撃剣の切っ先を『武器』に突き出すように構え、キリトは接敵の瞬間、床を力強く蹴り飛ばす。漆黒の鎧を纏う騎士が、弾丸の如き軌道で跳び迫る。
蒼白の閃光をまとうキリトは、『武器』の頭部に、胴に、脚に。白撃剣を突き込みながら、最短経路を斬り開く。
手応えは弱い。だが、押し通るだけならむしろ都合がいい。
断ち切られていく『武器』が慌てて頭部から再生を始める頃には、キリトは既にその肉体を貫通している。
その真正面には、全速力で浮上し、騎士の刃を回避せんとする『月』。
――間に合わない。
そうだ、間に合わない。
そこは既に、キリトの必殺の間合いの内。
『もらったッ!!』
最初の跳躍から着地した瞬間、キリトは床を踏み砕くほどの勢いで蹴り飛ばし、再加速。
一瞬きさせる間もなく詰まった間合いの中、右腕に構えた黒解剣を柄まで通れとばかりに突き出す。
確かな手応えと共に『月』の真芯を捉え、キリトはホラーの本体を黒解剣で深々と貫通した。直後、円形の全身に黒々とした亀裂を走らせた『月』が、内側から爆散し、塵となって消滅していく。
ルナーケンの核たる本体を失った『武器』はそれでもなお両手で床を這いずり、自らの肉体が崩壊していくのにも構わず、中庭へと身を躍らせる。
その目指す先にあるのは、怯えた表情を浮かべながら、それでもなお必死にユイを庇う明日奈の姿。
『消えろ』
明日奈を狙い、腕を振り上げる女神の身体を軽く飛び越し、キリトはその進路上へ割って入る。
重々しい着地音を響かせながら地を踏みしめると同時、左右の剣を袈裟懸けに振るう。交差した剣筋が、胴体ごと女神の両腕を斬り飛ばす。返す刃で女神の首を撥ね、ホラーの返り血が明日奈達にかからぬよう、剣圧をもって吹き飛ばす。
びしゃりという飛沫音と共に、どす黒いホラーの血が白い壁を汚し、すぐに蒸発していく。
結局、最後の最後まで手応えは薄かったが――月を失った女神は二度と蘇ることなく、塵と化して消滅した。
『…………ふぅ』
刀についた血糊を払う侍のように、キリトは黒解剣、白撃剣をぶんと振るうと、背負った鞘へと収め、まとっていた漆黒の鎧をあるべき場所――真魔界へと返還した。
全身を覆っていた鎧がパーツごとに分かれ、天に昇る龍のように魔界へ還っていくのと時を同じくして、背負った双剣はシンプルな造型の魔戒剣に戻り、キリトもまたいつもの黒いロングコート姿へ。
無敵を誇る魔戒騎士の鎧にも、現世で装着していられる時間に制限があるという弱点が存在している。
99.9秒の制限時間の内、残ったのは57.4秒――これまでの戦いで、最も時間がかかる結果となった事を考えつつ、キリト――和人は振り返った。
「――パパ! とってもかっこよかったです、パパっ!」
「あー、うん……その件があったね、ユイちゃん……」
途端に、満面の笑みを浮かべて飛びついてきたユイを抱きとめながら、和人はぽりぽりと頬を書く。飛び出したユイに少し遅れる格好になった明日奈も、和人の側に近づいてきた。
一部始終を見届けてしまったの彼女の顔には、深い安堵と、それと同濃度の困惑の色が、ありありと浮かんでいる。
「ありがとう……それとも、お疲れさま? で、いいのかな? キリトくん」
「あー、はい……どっちでも大丈夫です、結城さん……」
「あはは……それで、その……キリトくん」
「はい」
「あの怪物は、何? 君は、どういう人なの?」
彼女のその瞳は、真剣で。
下手なごまかしは見抜くだろう。嘘は通じないだろうし、八卦符を使うのは仁義にもとるし、先程の様子を見れば通じない可能性も高い。
ここまで関わらせてしまったのだ。ある程度事情を説明したほうがいいのかもしれない。
しかし、どこからどこまで話したものか――ホラーとの戦闘より、よほど悩まされる事になりながら、和人は抱きついて離れないユイの頭を軽く撫でた。
――――――
時計の短針が、そろそろ11の数字を指そうとする頃。
ほんのりと赤みがかった半透明の液体の中に、角ばった氷が数個浮かぶグラスを傾けながら、和人は窓の外に広がる森をぼんやりと眺めていた。
煌々と輝く満月に照らし出された夜の森は、ダイニングからこうして眺めているだけでどこか幻想的だ。森だけでこの美しさなのだから、少し歩いた所にある湖は、今頃まるで絵本の1ページのような光景を描いているのだろう。
「――そんなとこで寝たら、風邪引くわよ。和人」
グラスを大きなテーブルに置き、声のする方を見てみれば、そこにいるのは薄青の髪をした少女。
「寝てないって。シノン」
「どうかしら。あなた、今にも眠っちゃいそうな顔してたわよ」
気付いてなかったのかしら、とでも言いたげな表情で、シノンはテーブルの反対側の椅子に腰を下ろした。シンプルながらも見た目に気を使った、女性用の少し厚手のナイトウェア姿。
その上に、防寒性のみを考えたような、ナイトガウンに似た上着を羽織ったシノンの雰囲気はふんわりと優しく、数時間前にホラーへ弾丸を叩き込んでいたスナイパーと同一人物なのか疑わしくなる。
こんな静かな夜なのだ。このまま、共にゆったりと時を過ごすのも悪くないが――グラスの中の氷が、からんと音をたてたのを切欠に、和人は口を開く。
「寒くないか、シノン」
「ええ。おかげさまで」
肩に羽織った男物の――そして真っ黒の――ナイトガウンを細い指先で摘み、シノンが笑う。彼女のものにしては少し大きすぎるサイズのそれは、夜の冷たさからシノンの熱をしっかり守っているようだ。
「それで、どこまで話したの?」
「……なにが?」
「誤魔化さないで。結城さんに、色々話したんでしょう?」
窓から入る月光と、ランプの灯りに照らされて映える、空に似た色の瞳が、和人をじっと見つめる。
その視線に少しだけ気まずさを感じながら、和人はグラスの中身を流し込む。疲労と傷を回復する作用を持つ薬草を煮出した茶に、酒精を飛ばした赤酒を少々ブレンドした後、十分に冷やして作るドリンクが、清冽な苦味と共に和人の喉を滑り落ちていく。
ホラー・ルナーケンとの戦いの後。
明日奈が現在暮らしているというマンションの近くまで送り届けながら、和人は彼女の望みに応え、伝えるべきことを伝えた。
明日奈を襲ったのは、『ホラー』という、人間を喰らう種族の一体であるということ。
自分は『ホラー』を狩り、人を守る『魔戒騎士』であるということ。
そして――ユイもまた、『ホラー』の一体であるということを。
「そしたら?」
「ものすごい勢いで、睨まれた」
「誰に?」
「結城さんに。『もしかして、君。ユイちゃんを斬る気?』って言ってる目だったよ、あれは」
そうする気ならとっくにやっている――と説明したが、それでも誤解を解くには時間がかかった。
美術館の中庭。明日奈が乱入してくる少し前。魔導火に照らされたユイの瞳の中に、魔戒文字――ホラーの証が浮かび上がるのを、和人は確認していた。
魔戒騎士とホラーは不倶戴天の敵同士である。
ホラーは人を喰らうモノであり、魔戒騎士は人を守る者であるから、それは当然だ。ただ、何事にも例外というものは存在する。ユイは、その数少ない例外――人を愛し、人と共存することを望むホラーだった。
「ふふっ。言ってあげたらよかったんじゃない? 『俺達の娘を斬る気はない』って」
「あのなあ……」
中庭にあった、妖精を模したオブジェ。
その影をゲートにこの世へとまろび出たユイは、名前以外のほぼ全てを忘れた状態で明日奈と出会い、美術館の入口にいた男女を――すなわち、和人と明日奈を自らの『パパ』と『ママ』として認識した。
誰あろう、明日奈がそう言ったのだ。『入り口で会える』と。
後に事情を理解した和人は、明日奈と二人がかりで誤解を訂正しようと試みたものの、結局、どれだけ言葉を尽くして説明しても、ユイが認識を変える事はなかった。
それは卵から孵った雛が、初めて見た者を親と認識するのと同じ仕組みかもしれない。あるいは、単にユイが頑固なだけか。
入り口で和人の姿を視認した直後に、ユイのホラーとしての本能が、天敵――魔戒騎士たる和人からの逃走を選ばせたせいで、明日奈は混乱させられ、最終的にルナーケンとの戦いにまで巻き込まれることになったのだが。
「……とにかく。ユイはルナーケンみたいに、邪念を以てこっちの世界に来たわけじゃない。
リズに魔道具を仕立ててもらい次第、『契約』しようと思ってる」
今頃、2階にある寝室でリズと共に眠っているであろうユイの事を考えながら、和人は言う。
魔戒騎士とホラーの間でかわされる『契約』。騎士は30日に1度、一日分の命をホラーの食事として与える。代わりに、ホラーは自らの魂を指輪やネックレス、腕輪などの様々な形をした魔道具に込め、魔戒騎士に力を貸す。
例えば、ユイがルナーケンの正体を看破し、和人の突破口を開いたように。
古の時代より、ホラーと契約を交わした魔戒騎士は複数存在しているものの、そのほとんどが、他の騎士を圧倒する高い実力か、連綿と続く騎士の血筋――そのどちらか、あるいは両方を持っている者に限られていた。
そのどちらにも当てはまらない和人が、ホラーと契約するかどうか考える日が来るとは、純粋に予想外だった。
「まあ。ユイちゃんはそれでいいとして……結城さんの方はどうするの?」
「――どうするもこうするも、ないだろ」
そうだ。どうするもこうするもない。
魔戒騎士たる和人、魔戒法師たるシノンやリズベットにとって、結城明日奈は守るべき者ではあるが――それだけだ。
闇に生まれ、闇に忍び、闇を切り裂く魔戒騎士たる和人が、一般人である明日奈に積極的に関わる理由はない。それが魔の世界に携わる者の原則ではあるが、どこか言い訳めいて聞こえる事を和人は自覚している。
自覚した上で、押し殺す。
「シノンとリズのおかげで、俺は結城さんを助けられた。それで終わり。
……あとは結城さんが、今夜の事を忘れてくれるのを祈るだけ。それだけだろ?」
そう言って、シノンの瞳を見つめ返す。
八卦符の件など、結城明日奈に妙な所があったのは事実である。ただ、それを理由にしてまで、彼女をこちら側に巻き込む必要は無いというのは、シノンも納得済みだ。
だというのに――空色の瞳が『それでいいの?』と問いかけてくる気がするのは、何故だろうか。
「ふぅん…………ま、和人がそれでいいなら、私は何も言わないわ」
「……え?」
「おやすみ」
どことなく含みのある言葉に、和人が疑問を呈する前に。
シノンは立ち上がり、和人の頬に軽い口付けを落とすと、寝室へと続く階段を登っていった。
からり、と。グラスの中の氷が音を立てる。
窓の外に視線を向ければ、夜を照らす大きな丸い月の姿。この月を、彼女もどこかで見ているのだろうか――そんなことを考えてしまう自分に僅かな驚きを覚えながら。
明日奈の平穏と、互いの道が二度と交わらぬことを祈り、和人は残っていたグラスの中身を一息で飲み干した。
――その祈りが届かない事を、和人はまだ知らない。
1:【遭甲】 終
――――――
いつまでも、無垢なるままではいられない。
望もうとも、望まずとも、いつか背負わねばならぬ時が来る。
次回 【命銘】
それが名であれ、命であれ。
――――――