「ん……。ここは……どこ……?」
穏やかな日差しを受け、目覚めた小百合が体を起こす。
そこは綺麗に磨き上げられたフローリングの床に、モノトーンを基調とした家具が置かれた部屋。全ての物が整然と片付けられたその部屋は、まるでホテルのように生活感が無かった。
「お目覚めか、お嬢様。言いたいことはあるが、とりあえずは無事で何よりと言っておくべきだな」
黒いソファに腰掛けたエクスが、目覚めた小百合に片手を上げて挨拶する。
黒いコートを身に着けたままのその格好は、黒いソファと相まってまさに黒ずくめだった。
「貴方は……確か……」
まだ意識がはっきりしていないのだろう。小百合は自らのおかれた状況が分からず、きょとんとした顔で自分の周囲を見回す。
白いシーツ、白い枕、白い包帯、白い湿布、黒いエクスと対比するように小百合の周囲は白に染め上げられていた。
小百合はしばらく考え込むと、やがて何かを思い出すような表情でまじまじとエクスをみつめる。そして──
「ッ! 天狗! 貴方が天狗の正体なのね! そう、ここが躍進機関のアジトなのね!?」
その瞳に棘を宿してエクスを睨みつけた。
「ま、待て! 俺のどこが天狗に見える!? 俺は何一つ怪しくないだろう!? いかにも善良な一般市民だ!」
慌てて両手をあげて立ち上がるエクスを、小百合は手近にあった枕を容赦なく投げつけて威嚇する。
「動かないで! 見るからに怪しでしょう!? 部屋の中で真っ黒いコートなんて着て! 私をどうするつもりなの!?」
枕だけでは収まらず、小百合は置時計にルームライトと手近にあるものを次々とエクスへと放り投げていく。
「くそっ、マキナ、交代、交代だ。どうもこのお嬢様は俺が怪しくて仕方ないらしい」
自らの怪我も忘れて物を投げ続ける小百合に参ったのか、エクスは両手を上げたまま近くに居たマキナにしかめっ面を向けた。
「無理もないと思います。せめてそのコートだけでも脱いでおけばいいのに」
マキナは小さく苦笑いした後、小百合のベッド近くに置いてあった椅子に腰掛けた。
「はじめまして、私はマキナです。そして後ろの怪しい人はエクスですよ」
言って、朗らかに微笑むマキナ。
「え、はじめ、まして……?」
夜の黒が似合う男に次いで現れた昼の明るさが似合う見目麗しい少女に、小百合は手に持った引き出しを横に置き、目をぱちくりさせながら挨拶を返す。
「マキナ、お前まで怪しいはないだろう、怪しいは。大体俺の服装にケチをつける権利はお前だけにはないんだが──」
「昨日、天狗さんに攫われそうになった所を、私とエクスで助けたんですよ。覚えていないですか?」
後ろで抗議するエクスをあえて無視して、マキナは優しい口調で話を続けていく。
「ん……。覚えて……いないわ」
先ほどよりも精神的余裕ができたのだろう、小百合は周囲の様子をさりげなく探りながら返答していく。
「ううん、そうですか……。ええと、そうです、まずは名前を教えてもらっても構いませんか? お名前知らないとお話し難いですもんね?」
「…………」
微笑みを絶やさず小百合の顔を見続けるマキナの顔を見て、小百合は暫し思案する。
マキナは小百合を警戒させないよう、笑顔を作ったまま無言で返答を待つ。
「…………」
「…………」
「そうね、ジョン万次郎よ」
無言と思案の末に小百合はそう答えた。
「む、むうぅん、ジョン万次郎ちゃんですか。ええ、はい、そうですか、それはクラシカルなお名前ですね……」
あからさまな偽名を聞いて、マキナはしょんぼりとうな垂れて両手の指先を合わせるのだった。
「ハハッ、ほらみろ、マキナ。俺が怪しいのならお前だって怪しいに決まってる。なあ、小百合お嬢様?」
「ッ! 私の名前を知っているなんて……そう、やっぱり天狗だったのね!?」
横から知らないはずの小百合の名を出すエクスに、小百合は僅かに緩んでいた表情を引き締め、エクスの方へ敵意を剥き出しにした表情を向け直した。
「馬鹿を言え、攫ったのならいちいち名前なぞ尋ねん。ちゃんと身分証を持ち歩くなんて、用意周到な逃亡者様じゃないか。ハハッ」
エクスは小百合の身分証を指でつまみ上げ、ひらひらと振ってみせる。近くのテーブルには全ての中身を広げられた巾着が置いてあった。
「最低ッ! 普通、女の子の手荷物をチェックしたこと、そんなに楽しそうに語る!?」
小百合はベッドから跳ねるように起き上がると、エクスの指から身分証を奪い取り、テーブルの上にあった手荷物をかき集めていく。
そしてその間、手負いの獣のように殺気に満ち溢れた眼差しでエクスを睨み続けるのだった。
「ふん、よく言う。見るからになお嬢様が路地裏で倒れていたんだ。どこの誰か位は確かめて当然だろう? 俺はむしろ助けられて名前を偽るほうが最低だと思うが」
「う……。それはそうね」
エクスの言葉が正論だと感じたのだろう。睨みつける眼光を緩ませ、小百合は申し訳なさそうに視線を逸らした。
「だがしかし、だ。マキナのスタイルがずば抜けているのは理解しているが、肉体年齢ではひとつぐらいしか違わんのだろう? その発育と言うのも哀れだな」
「…………へ?」
小百合は丸くした目でエクスを見たまま、暫しぺたぺたぽむぽむと自分の胸の辺りを触る。胸を隠すものは巻かれた包帯以外に何もない。ついでに下も同様だった。
かあっと顔を赤らめ、胸を隠すように腕を交差させる小百合。
「さ、さ、さ、さ、さ、さ! 最低ッっっっっ!! だいっきらいっ!!」
小百合は慌ててベッドに戻り、剥ぎ取ったシーツを体に巻きつけると、部屋の角で追い詰められた猫のようにフーッと威嚇をはじめた。
「ふん、他者を度々最低呼ばわりするのなら、せめて助けられたお礼ぐらい言って見せたらどうだ? 嫌味のひとつも言いたくもなる」
「っく! そう、ええ、そうね、あ・り・が・と・う! でも私は孤独で結構。余計なお世話よ! 私は誰にも助けられたいなんて言ってないし、思ってないもの! 私は独りで十分っ」
小百合は一瞬だけ寂しげな表情をした後、口惜しげにエクスを力一杯睨みつけ、部屋から飛び出そうとする。
「あっ、待ってください、小百合ちゃん!」
慌てて静止するマキナの声も聞かず、小百合は干してあった自らの服をむんずと掴むと、シーツ姿のまま扉を蹴破るように走り去っていってしまった。
「……エクス」
嵐が過ぎ去り静かになった部屋で、マキナがエクスを非難するように冷ややかな視線を浴びせた。
「む、すまん。あまりの非友好的な態度に余計な挑発をしたのは認める」
エクスはむすっとした表情で、もたれるようにソファに深く腰掛けた。
マキナはその様子を見て軽くため息をつく。
「もう、不器用なんですから。照れ隠しで毒を吐かずに、そんな態度じゃ余計に心配ですよって言ってあげればよかったのに」
「ふん、そんな恥ずかしいことを面と向かって言えるものか。そもそもだ、マキナ。お前はあいつがそれで可愛く頷いてくれるように見えたのか?」
「う、うぅん、どう見ても見えません、よね……」
マキナは軽く苦笑いをしながら困ったように言う。
「そう言うことだ。あいつは俺達に心なんぞ開いていなかった。籠の鳥ならいざしらず、野生の鳥なら飛び立つさ。俺達はそれを邪魔などできまい」
「でも……あの様子ではまた襲われちゃいますね」
「元々躍進機関には用があるんだ。そのついでだ、助ける。あいつに似ているだのの前に、あんな顔で孤独で結構だのと言われたのなら……友好的でなかろうが助けるしかないだろう、俺達は」
マキナはその言葉に何も返さず、窓を開けて静かに空を眺めた。
先程まで青空だった空には雲が広がり、今にも雨が降り始めそうだった。