第四章
百数十畳はあろうかと言う畳敷きの大広間。
その中心で頭を垂れる初老の男。
広間はシンと静まり返り、その場に居る全員が御簾の向こうで肘をつく
この国の宰相であるはずの男が、叱られている子供のように恐れるその姿を、烏丸は勤めて無表情を作りながら横目で観察していた。
エクスに宣言したとおり、あれから烏丸は月人と躍進機関を探るために行動していた。
そして、伝手と貸しを使い、男の警護として月人の傍に立つこの機会を得たのだった。
「ほう、なるほどのう。儂の予想通りの時節にこの問題が顕在化したのう」
「流石は月之大神様。見事な見識でございます」
「うむ、お主達に儂の英知の一端を与えよう。たちどころにその問題は霧散するであろうぞ」
部屋に流れる雅楽の音と共に、バゼットはしゃらんと鈴の音を鳴らして右手をあげる。
廊下に控えていたバニースーツの女が部屋へと立ち入り、三方に乗せた書類の束を男の目の前に置いた。
「ははっ! この国のために役立てて見せます!」
「うむ、それよりも葦原。儂に謝罪すべきことがあるのではないかのう?」
再び肘置きに肘をついたバゼットが言うと、男は頭を垂れたまま凍りつく。
その表情は床を向いているため誰にも見えなかったが、青ざめた表情をしているのだとその場の全員が理解していた。
「この土地は遊閑地とするよう言っておいたはずじゃが、儂に無断で病院なぞが建っておるようじゃのう?」
しゃらんとバゼットが袖口の鈴を鳴らすと、天井から掛け軸のようなものが下り、病院の映像が映し出された。
「も、も、も、申し訳ございません! ですが……」
「民は己の幸せを求める、それは偽り無き人の性。じゃがのう、その今が彼方先の未来に影を落とすのじゃ」
男が言い終わるのを待たず、バゼットが言う。
「は、はい! 心得ております!」
「あそこは然るべき時に然るべき場所となる。刹那の享楽に使わせるわけにはいかぬ。病院を潰してでも、直ちに遊閑地に戻すのじゃ。よいな?」
先ほどまでとは変わらない口調に、静かな威圧感を含めてバゼットが言う。
「その……」
「よいな?」
有無を言わさず同意を求めるバゼット。
バゼットが男の意見など聞くつもりがないことは明白だった。
「こ、心得ました!」
男はバゼットの言葉を全身に刻みつけるように硬直した後、大声でそう言って畳に頭を擦り付けた。
「うむ、では即座に立ち上がり、直ちに実行せよ」
バゼットが言うと同時に、青ざめた顔をしたまま男は立ち上がる。
「それと、烏丸。お主はここへ残るがよい」
その最中、バゼットは烏丸に声をかける。
男の後ろを歩いていた烏丸の足が止まり、その背筋に冷や汗が流れる。
烏丸はどうにか断る口実を探そうと思索を巡らせるが、
「月人様がそう言うのならば残れ。月人様のお言葉は絶対だ」
男は青ざめたままの顔で烏丸に強くそう言って、足早に他の護衛をつれて立ち去ってしまう。
置き去りにされた烏丸は、苦々しげに小さく下唇を噛んだ後、覚悟を決めて御簾の向こうに居るバゼットに視線を向ける。
バゼットは肘をついたまま微動だにしていなかった。
「どうした、何も言わぬのかのう? 儂は多少の無礼は許す度量を持っているつもりじゃが」
「……とは言われましてもね。オレは月人様に呼び止められても、盛り上がるような話題は持っていませんのでね」
烏丸は気圧されつつも、勤めて平静を装う。
「ほう、そうかのう? お主が儂のことを知りたがっていると聞いたでの。ここに来れる様に手引きしてやったのじゃが」
バゼットは口元を手で隠すと、仮面を揺らして愉快そうに笑う。
「い、いえ、オレにはそんな大層な野心はありませんな。ただ他の人間と同じく月人様の英知を恭しく受け取るだけです。失礼します」
烏丸は搾り出すように何とかそう言って立ち上がると、部屋から出るべく閉じられていた襖を開く。
──そして絶句した。
烏丸が部屋に入るときに使った左の襖を開けた先は、外へと繋がる廊下ではなく、この部屋の右側の襖だった。
合わせ鏡のように連なる自らの後ろ姿を眺め、烏丸は何故あの男があそこまで怯えていたかを理解する。
それは幾度か体験したことのある死への恐怖とは全く異質のもの。自らが到底理解できぬ未知への恐怖、畏怖と言い換えてももいいかもしれない。
「まあ、どちらでもよい。暫しの間、儂の話し相手にでもなって貰うかのう。例えばお主の好きな躍進機関なぞの話題でもよいのじゃぞ?」
先ほどまでと全く同じ語調でそう言うバゼット。
バゼットが烏丸の行動を完全に把握しているのは明白だった。
烏丸は恐怖に支配されかけていた思考を総動員し、必死に状況を打破する手立てを思案する。
だが、どれだけ思考を巡らせても打破する手立ては当然の如く思いつかない。
その代わりに思考の冷静さを取り戻した烏丸は、覚悟を決めてその場に胡坐をかいて座り込んだ
「ああ、もう止めだ止めだ。ここまでくりゃ敬語も何も要りやしねぇ。話し相手にもなってやろうじゃねぇか。ただしテメェの知りたい情報は完全黙秘させてもらう」
恐怖に震える我が身を律し、烏丸はとびきりの眼光でバゼットを睨みつける。
それを見たバゼットは愉快そうに笑った。
「ほほほ、話に聞く通り、お主は面白い者じゃ。安心せよ、お主の口を割らせようと呼びつけたのではない。そも、既に主から欲しい情報などないでのう」
「ケッ、じゃあ何だってんだ?」
「儂の思いやりとでも言おうかのう? 主の性分も調べは付いておる。野放しにしては無闇矢鱈に躍進機関と対峙し、無駄に怪我をするじゃろうよ」
「好きに言いやがる。月人様ってのはくたびれたオヤジのお守りもしてくれるってのかい?」
烏丸は胡坐をかいたまま勤めて無礼に振舞う。烏丸にとってそれがこの場でできる最大の抵抗のつもりだった。
「無論、目に見えぬ微生物から人の一人、果ては月人も、全て儂にとっては等しく我が子じゃ。いや、意思持つ者でなくとも素粒子一つ、数無限にある宇宙、平行領域、その他全てを導く義務がある」
「それはそれは大層なこって、けどオレについては躍進機関が穏便に働いてくれりゃ済む話だろうよ」
「それができぬので呼び寄せたのじゃ。何、玉手箱が欲しくなるほどは留まらせぬよ。儂が本来の全知全能を取り戻すまでで十分じゃ」
バゼットは淡々と宣言するように言葉を紡いでいく。
先程男としたやり取りと同様に、バゼットには烏丸の意見を聞く気が無いのは明白だった。
この時、烏丸もようやく理解する。
バゼットは烏丸と会話しているようで、最初から会話などしていないのだと。
他者の言葉を聞いて自らの意見を述べるのが会話だとすれば、バゼットがしているのは"説明"であり"命令"なのだ。
バゼットは他者の意見を踏まえた上で自らの答えを述べるのではなく、自らの出した回答への理解を他者に強いているに過ぎない。
自身の中で全てが完結し、そこに他者の介在は存在しない。
他者が居ない事を孤独と言うのなら、恐らくバゼットは孤独なのだ。
「ケッ、胸糞悪ぃ。ああ、そうかいなら好きにしな。どうせお前さんのやることは変わんねぇんだろ?」
嫌悪感を露にして吐き捨てる烏丸。
バゼットは当然その言葉も表情も全く意に介さない。
もう話は終わったとばかりにただ烏丸を眺めるだけだった。
間もなくして現れたバニースーツの女性達が烏丸を別室へと連行していく。
「さて、我が同位体よ。主が現世で遊び呆けるのも終いじゃ。全ての終わりを迎えぬためにも、再び共に歩もうではないか」
バゼットは烏丸が連行されていく様子を見届けると、独り残った部屋でそう呟くのだった。
「…………」
「…………」
その日、エクスとマキナはかつてなく真剣な表情で対峙していた。
相手は躍進機関ではない。テーブルの上に乗った食べ物"らしき"物体とだ。
それは名伏し難き形状と、大よそ食品には似つかわしくない色相を持って、皿の上から二人を嘲笑っていた。
「二人とも、せっかく作ったのだから遠慮せずにどんどん食べてちょうだい」
無言で料理と睨み合う二人とは対照的に、エプロン姿の小百合は明るい調子でその物体を摂取することを二人に勧めている。
「…………あ、ああ、分かっている。だが、なんだ、お前が料理をするだなんて珍しいからな。理由を考えていた」
エクスが歯切れ悪い調子で答える。
無論、エクスが口に出した理由は小百合を気遣っての嘘であり、直ちに食さない理由は他のところにある。
「ふん、何よ、珍しいって。貴方があれだけしでかすんだもの、私だって少しぐらい変わらないとって思うわよ」
その言葉に、小百合は少し顔を俯かせ、上目遣いでエクスを見ながら拗ねる様に口を尖らせた。
「あ、ああ、ふむ、なるほどな。見上げた心意気だ」
エクスは感心するように頷いた後、「参った、そう言われては断れんぞ」と小百合に聞こえないような小声で呟く。
「はい、そうですね。そこまで言われては食べるほかありませんね」
マキナは不安げな表情をしたまま料理を見つめていたが、やがて意を決してフォークで料理をつつく。
フォークが触れるやいなや、料理はまるで生物のようにその端を反らせて、痙攣するようにぷるぷると震えあがった。
まるで生きているかのような料理の様子に驚き、マキナは咄嗟にフォークを引っ込めてしまう。
「きゃっ!? さ、小百合ちゃん、このお料理、動きますよ!? 食べたらお腹を食い破る……とかはありませんよね?」
「大丈夫よ、マキナさん。心配性ね。材料はマキナさんが買ってきたものしか使っていないもの。生きてるわけながないわ」
「……そう、ですか。で、でも、熟練の錬金術師は生物をも作り上げると何かのご本で読んだことがありますし」
マキナはフォークを構えたまま、料理との睨めっこを再開した。
「ねえ、二人とも……気が進まない様子だけれど嫌なの? それなら無理をして食べることはないのよ。料理するのは七転生前ぐらいぶりだから、確かに少し失敗しちゃった部分もあるもの」
一向に食べようとしない二人を見て、小百合は留守番前の子犬のような表情をして言う。
「い、いえ、決してそんなことはありませんよ。そうですよね、エクス」
「は……はははっ! 当然じゃないか。俺はマキナの料理を奪うタイミングを狙っていただけだ。丁度今のようにな!」
エクスは無理やり作った笑いを顔に貼り付け、マキナの皿の上の料理と自分の皿の上の料理をあっという間に平らげていく。
その後、ハムスターのように両頬を膨らめたエクスは、死んだ魚のような目でマキナに目配せをする。
マキナは全てを察したように潤んだ瞳をエクスに向けた。
「ちょ、ちょっと、エクス! 一人で食べてどうするのよ!? 私はマキナさんにも食べて貰いたかったのに」
「そ、そうですよ、エクス。私も小百合ちゃんのお料理を食べたかったですー」
棒読み気味に同意するマキナ。
「は、ははは……すまんな。しかし、見てくれの割りに意外といけたぞ。だが、転生以来だのと言うだけあって、少々現代向けではないな」
額に脂汗を浮かべながらも、エクスは必死にいつも通りの表情を取り繕う。
「う、うん、そう。そういうもなのかしら? 自分では普通の味付けなのだけれど」
その言葉にエクスとマキナは揃ってギョッとしたが、急いで勤めて平静を装った。
「そ、そうか。ならば今度はマキナと一緒に料理を作ってみたらどうだ? それなら勘を取り戻すにはちょうどいい」
小刻みに痙攣する指をテーブルの下に隠しながら、エクスはいつも通り不敵に笑う。
「は、はい。それはいいアイデアです。ね、小百合ちゃん、今度は一緒にお料理を作ってみましょう」
胸の前で指先を合わせて、マキナがにっこりと微笑む。
「確かに料理の勉強ならそれがいいわね。でも……そうなると恩返しじゃなくて、またマキナさんにして貰うことになるわ」
難しい顔をして小百合は考え込む。
「ははっ、お前は難しく考えすぎだ。そう言うものは、そんな風に収支計算してこなしていくものじゃないだろう」
エクスはそんな小百合の姿を軽く笑い飛ばした。
「むっ、そうね。けれどそうやって笑う必要はないでしょう? 本当に少し余計ね、貴方って」
小百合はエクスを睨みつけると、空になったお皿を持って台所へと向かっていく。
エクスはそれを見届けるとテーブルの上に勢いよく突っ伏した。
「お疲れ様です、エクス」
小声でマキナが言う。
「ああ……。悪意なら幾らでも足蹴にしてやるが、善意は無下にできんからな。それも、ついぞこの前まで他人を知らんと言っていたお嬢様の善意なら尚更だ」
テーブルに突っ伏したままエクスが答えた。
「本当に小百合ちゃん変わりましたね。戻ったと言うのが正しいのでしょうけれど」
「だろうな。後はあの馬鹿天狗共が諦めてくれれば安心なんだが、今までを見るに大天狗とやらに直談判せねば解決せんだろうな」
「そうですね。近いうちに行くしかなさそうです」
言って、マキナはエクスの背中をポンと軽く叩く。
突っ伏していたエクスは慌てて体勢を起こす。
エクスが体勢を起こし終えると、間もなくして隣のキッチンから小百合が帰ってきた。
「二人とも何の話をしていたの?」
小百合が不思議そうに小首を傾げる。
「ん、ああ……あまり楽しい話じゃない。天狗の話だ」
「あ……そうね、最近は静かだからすっかり忘れていたわ」
「降臨祭も近いからな。月宮庁も忙しいのだろうさ」
エクスはくいっと視線を窓の方へと向ける。
「はぁ、あれで月宮庁なのだものね。困ったものだわ。せめて、そのまま諦めてくれれば皆で降臨祭にも行けるのに」
「でも、ここまで動きがないのも逆に心配ですね。この間までは執拗に追いかけてきましたから」
マキナがそう言った瞬間、その疑念に回答するかのように携帯端末から着信音が鳴り響いた。
「珍しい。お前の端末に俺以外から連絡が来るなんてな。誰からだ?」
「烏丸さんですね。何かあったんでしょうか?」
マキナは端末に表示された烏丸の名前を見て首を傾げる。
「かもしれん。早く出てやれ、あいつは厄介事の最中には端末を連絡に使わん。それでも掛けてくるなら相当だ」
真剣な顔をしてそう言うエクス。
マキナは重々しく頷いて端末を耳に当てた。
「はい、マキナです」
暫しの沈黙。
「もしもし?」
『ふふ、はぁ……はぁ……』
端末越しに聞こえた音声は烏丸のものではなく、荒い息遣いをした女のものだった。
その聞き覚えがある声に、マキナは至極不機嫌そうな顔をする。
『うふふ、マキナさん、今日のパンツとおブラの色と形はなんですのぉ?』
「…………」
マキナは静かに端末を耳から離し、眉ひとつ動かさず端末の電源を切る。
そして、テーブルの上に有った食卓塩を端末にパラパラとふり掛けはじめた。
「どうした、マキナ。急に端末に下味をつけ始めて。精密機器に塩はまずいぞ、せめて胡椒にしろ」
「お清めです。唐突に耳が汚されました。不愉快です」
端末を当てた側の髪の毛を撫でつつ、マキナは据わった目で端末を睨みつけた。
「マキナさん、それってまさか……」
「はい、そのまさかです。盛りのついた声で下着の色と形を聞かれました。あの変態、早く収監されて欲しいです」
「でも、どうして烏丸さんの……」
と、小百合が言いかけた瞬間、小百合の巾着に入っていた通信端末がジリリと鳴りはじめる。
「ひいっ!?」
ビクリと体を震わせ、小百合が恐る恐る端末を手に取る。そこには烏丸の名前が表示されていた。
血の気が引き、焦点の定まらない瞳で、必死に端末の方を指差す小百合。
「次はそちらに来たんですね、小百合ちゃん」
電話の主を察したマキナが、小百合に代わって厄災と対峙すべく端末を受け取る。
それを更にエクスがマキナの手から端末を掠め取った。
「ここは俺に任せろ。マキナが出ても奴を悦ばせるだけだろう。見せてやる、カウンターインテリジェンスというものをな」
言って、エクスがパネルに浮かび上がっている受話器型のボタンを押した。
「ハーッハッハッ! よく聞け、小百合の下着は黒のティーバッグだ!」
相手の声を確認するより早く、大声で叫ぶエクス。
叫びで有名な絵画の如く、ぐにゃぁと顔を歪ませて飛び上がる小百合。
端末からは既に通話の切られたツーツーと言う音だけが聞こえている。
「フッ、俺の勝ちだ。変態忍者は誤情報に踊れ」
エクスは勝ち誇った顔をすると、小百合に向けてサムズアップする。
そんなエクスに、小百合は顔を真っ赤にして詰め寄り、マキナは地面に撒き散らされた汚物を見るような視線を向けた。
「な、なんだ、その顔は!? マキナまでそんな顔をするだなんて理解できんぞ!?」
ようやく自らの行動が歓迎されていないと悟り、エクスが狼狽した様子で二人を交互に見直す。
「ふぁあああ! バカ! 何が……何がカウンターインテリジェンスよ! 私はそんな攻撃的な下着着けないわよ! って言うか何、私は常在戦場設定なの!? 最低! 最低! 最低! 貴方って紛う事なき最低のクズだわ。さいっててててい!!」
ギャアアと烈火の如くまくしたてる小百合。
「い、いや、だからそれは誤情報だろう。事実と違えばお前は何も問題はあるまい? な?」
小百合の勢いに、エクスは冷や汗を浮かべてうろたえる。
「それで私がそんな下着を着けてると思われたら一緒よ! 完全に風評被害じゃない! 嘘な分余計に悪いわ!」
「そうです、エクス。エクスはあの変態に性的な視線を向けられていないから分からないんですね。失望しました」
眉を吊り上げて小百合の援護に入るマキナ。
勝ち目がないと悟ったのかエクスは両手を挙げて大きく首を振る。
「分かった分かった、俺の失策だ。それよりも、だ。あの変態が烏丸の端末を持っているのが解せん」
自らの失敗を強引に押し流すように、エクスは両手をあげつつ話題を無理やりに終わらせる。
「むぅ……そ、そうね。異常者のせいですっかり忘れていたわ。烏丸さんに何かあったのかしら!」
不服そうな顔をしつつも、烏丸の安否の方が優先だと思ったのか小百合が同意する。
「確かめる手段は掛け直すしかありませんね」
「至極不本意だがな。リスクを覚悟であの変態と接触するしかあるまい」
エクスは自らの端末を起動し、連絡帳に記載された烏丸の名前をタッチする。
それと同時にどこかでレトロなメロディが鳴った。
「…………チッ。二人とも身支度をしろ、すぐに、だ」
メロディを聴いた瞬間、立ち上がって忌々しげに舌打ちするエクス。
「エクス、もしかして……」
「ああ、あの古臭いメロディは一昔前の刑事ドラマのもの。烏丸の端末の着信音だ。近くに居るぞ、変質者が」
「あらあら、変質者だなんて失礼な物言いですわね」
その声に、三人が合わせて部屋の入り口を向く。
音もなく開いた扉から、ブロンドの髪をふわりと舞わせて風華が姿を現した。
「烏丸の端末を持っていた時点でそうかとは思ったが、ついにここまで来たか。勝手に来るとは礼儀を知らん奴だ」
エクスは小百合を隠すように前に一歩踏み出る。
「うふふ、だって気になるでしょう? 可愛いお二人がどんなお部屋に住んでいるかって。ついでにおまけも生息しているみたいですけれど」
エクスの敵意を平然と受け流し、烏丸の端末を手にしたまま風華が愉快そうに笑う。
「お前の変態趣味はこの際置いておく。烏丸をどうした?」
「人参を……烏丸さんに人参を挿したの!?」
怯える表情をしながら小百合がエクスの言葉に続いた。
「そんなことしませんわ。この一件が終わるまで、月宮御所に滞在していただいていますけれど、荒事は何一つしていませんわよ」
「本当に……? 信じられないわ。だって、貴方は楽しそうにあんなことができるのだもの!」
「ふぅ、小百合さん、貴方は大きな勘違いをしていますわ。私は可愛い女の子を恥辱と快楽に染め上げるのが趣味であって、人を嬲るのが趣味ではありませんの。特に小汚い男に兎刑を処すのはこの身を引き裂くような辛く苦しい職務ですのよ」
風華は心底辛そうな表情をすると、自らの胸を抱きかかえて身を振るわせた。
その様子に小百合は慄いて一歩後ずさり、後ずさった小百合をマキナがすかさず抱きかかえた。
「小百合ちゃん、深く考えてはいけません。あれは異常者です。深淵を覗く者は、自らも深淵に覗かれてしまうんですよ」
「うふふ、それでマキナさん、まだ大切なことを聞いていませんわ。貴方の下着はなんですの?」
たおやかな笑みを浮かべて尋ねる風華に、マキナは何も答えずゴミを見るような視線だけを向けた。
「あらまあ、素敵な視線ですわねぇ。そんな視線を向ける方を屈服させるのはさぞ快感でしょうね」
「本当にダメですね、この人。詰んでます」
マキナは冷たい視線を向けたままため息をつく。
「ああ、本当に始末に負えんな」
「あらあら、せっかくの楽しいお話の最中ですのに、男の声なんて不愉快ですわね。その不快音は
風華は視線も向けずに右手だけを横に滑らせると、エクスに名刺手裏剣を投げつける。
「ちいっ!」
エクスの声帯を的確狙った名刺手裏剣を、エクスはとっさに手にしたクッションで受け止める。
ボス、ボス、ボスと音を立て、三枚の名刺手裏剣がクッションに埋め込まれた。
「あの小汚い男も貴方同様に無価値ですし、近いうちに返却して差し上げますわ。ですから……代わりに小百合さんを頂きたいですの」
エクスが名刺手裏剣を受け止めたのを確認すると、風華は気だるそうな動きでエクスへと向き直る。
「ふん、断るといったら?」
「うふふ、月並みな台詞ですけれど、力ずくで頂くまでですわ。ちなみに、貴方達にはもう選択権なんてありませんからあしからず」
言うと同時、部屋の扉から何人もの天狗達が一糸乱れぬ動きで侵入してくる。
天狗達は風華の後ろで部屋の扉を守るように立ち塞がった。
「ふん、団体様のご到着か。ご近所の目もあるんだ。少しは遠慮して欲しいものだがな」
「うふふ、これでも皆さん遠慮しているのですわよ。お外にも順番待ちが居ますもの」
「ふん、それは悪いな。ならば俺達の方が外に出向いてやる!」
エクスは言うと同時に窓から飛び降りる。
追随してマキナも小百合を抱きかかえたまま窓から飛び降りた。
「うふふ、追いかけっこの始まりですのね。外の天狗に連絡を、エスコートして差し上げるのですわ」
風華は慌てず騒がずエクス達を悠然と見送ると、天狗に指示を出す。
「ですが……風華様、これではまた逃げられてしまいます。前回までとなんら変わりがありませんぞ!」
「うふふ、この程度はバゼット様の筋書き通り。竹取物語の最後を思い出してご覧なさい。下界の者共がどんなに頑張ろうとも、月人様には抗えないのですわ」
言って、風華は寝室に踏み入ってマキナのベッドに顔を押し付けると、残り香を愉しむように思い切り空気を吸い込む。
「ふはぁぁあ! はぁっ、はぁっ……。名残惜しいですけれど、この前の恨みはまた今度、たっぷりと嬲って返してさしあげますわぁ!」
風華はベッドに顔を押し付けたまま荒い息遣いで悶えると、美しい髪を振り乱してシーツを巻き取るようにベッドの上を転げ回った。
「…………我関せず」
「…………右に同じ」
後ろに控えていた天狗達はその姿を見てドン引きするのだった。