気が付いた時、目の前に広がっていたのは小さい頃の懐かしい記憶だった。
『ほら、エリちゃん泣かないで。いい子だから』
泣きじゃくる私を慰めながら、姉さんは「どうしたの?」「何か嫌なことがあったの?」 と優しく問いかけてくれていた。
『だって……だってお父さんとお母さんが……戦車道……危ないからダメだって……』
途切れ途切れの嗚咽を漏らしながら訴える度、余計に悲しくなって涙を溢れさせる幼い頃の私。その間も姉さんは頷きながらずっと頭を撫ぜてくれていた。
『お姉ちゃん……私……戦車道……やりたいよぉ……』
『そうだね。エリちゃん、お友達と約束したもんね』
夢の中の姉さんが言う通り、私がここまで戦車道に拘ったのはある約束が理由だった。
夏休みのある日、祖父母の家に遊びに行った私は偶々出会った同じ年くらいの子ども2人に戦車に乗せてもらって一日中遊び回った。
重厚なフォルムに力強さ。そんな強大な存在を小さな体でも操ることが出来ること。気付いた頃には私はすっかり戦車に魅了されていて、日も暮れた頃、心配して迎えに来てくれた姉さんと帰ることになった私は別れ際にこう宣言した。
『私も戦車道する。絶対あなたたちより上手に動かせるようになるんだから』
楽しみにしてるねと笑いながらさよならをしてくれた2人を見送った私は祖父母の家に戻るなり、両親に戦車道がやりたいと訴えたものの、返ってきたのは期待していた了承の言葉ではなく反対の声だった。
その時は2人との楽しい思い出や約束を否定されているようで悲しさしか感じなかったけど、今になって思えば当時の私はだいぶお転婆で頻繁に危ない行為をしていたから、両親が戦車道を始めることに良い顔をしなかったのも無理の無い話だったと思う。
『絶対戦車道やりたいんでしょ? なら、もう一回頼みに行こう』
『でも、またダメって言われちゃうよ……』
不安げな私を安心させるように私の手を握ってくれる姉さん。
その手は本当に心強くて、いつの間にか幼い私は泣くのを止めていた。
『私も戦車道やりたいってお父さんとお母さんに言ってあげる。2人で頼めばきっと大丈夫だよ』
その時の姉さんの表情は、忘れようがないくらい温かい笑顔だった。
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「ごめんなさい、起こしちゃいましたか?」
目を覚まして最初に目に入ったのは寝転びながら私の顔を覗き込む小梅の姿だった。
シンプルだけど可愛らしい寝巻きを身に着けた彼女は、まるで小動物でも愛でるような慈愛の表情を私に向けていた。
「なんなのよ、朝から人の顔をじろじろと……」
眠い目を擦りながら起き上がると視線に入ってくるのはオシャレな小物やどこかで見たような傷だらけのぬいぐるみの置かれた見慣れない部屋の風景。
ここがどこなのか一瞬混乱したものの、すぐに昨夜は小梅の部屋で姉さんや小梅と夜遅くまで話していてそのまま泊まったことを思い出す。
ふと気になって横に視線を向けると、夢で見た時のように穏やかな顔で静かに寝息を立てる姉さんがいた。
「寝顔はお姉さんと一緒なんだなあって思ったらつい見入っちゃって」
こんな光景滅多に見られないですからね、まさに眼福ですと微笑む小梅を見るにどうやら小梅は私の寝顔を観察していたらしい。人の寝顔なんて見て何が楽しいのか私にはさっぱり理解できないけど、別に見られて減るものでも無いし気にしないことにした。
「コーヒーでも入れましょうか。エリカさんは砂糖無しで良かったですよね?」
私がお願いと返答する否や、小梅はキッチンへ向かって慣れた手つきでコーヒーの準備を始める。
窓からはカーテン越しに日差しが差し込み、時間の針も既に9時を回っていたものの夜更かしのせいか、まだだいぶ眠気は残っている。
いくら今日が授業も練習も無い日曜日とはいえ、これ以上怠惰に過ごすのはよろしくない。
今はとにかく熱いコーヒーを飲んで目を覚ましたい気分だったのでありがたい提案だった。
「ほら、姉さん起きて。もう朝よ」
小梅がコーヒーを入れてくれている間に姉さんを起こそうと試みるものの、姉さんの眠りは相当深いらしく、肩を揺すったり、頬を指で突いたりしてみても多少を身動きする程度でまったく起きる気配は無い。
「……やっぱり、だいぶ無理してたのかしらね」
黒森峰に編入してきて5日間、姉さんは私の思っていた以上にしっかりと戦車道に取り組んでいた。基本たる装填は勿論のこと、他の役割も全うしていたし、黒森峰の厳しい朝夕の練習にも音を上げること無かった。
それだけでも充分大変だと思うのに、空き時間には試合に関する資料を読み漁ったり、私や小梅に質問をしてきたりと怖いくらい精力的に活動していたのだ。
最初は無理をしているんじゃないかと少し疑っていたものの、姉さん本人がいつもと変わらない調子のままだったから、私の気にし過ぎだったのかなと次第に気に止めなくなっていった。
でも、今の様子を見るに姉さんは無理していることを悟られないように隠していたのだろう。
朝に弱いわけでもない姉さんがこの時間まで熟睡を続けるなんてことは疲労が原因でも無ければ有り得ない。
「お姉さん、まだ眠たそうですか?」
布団をかけ直してあげたタイミングで、小梅が2人分のコーヒーを手に戻ってきた。
もうちょっと寝かせてあげてもいい? と尋ねると勿論ですよと返しながらカップを手渡してくれる。
口にすると染み渡る苦味が脳を覚醒させてくれるのを実感する。
コーヒーが苦手でこの素晴らしさがわからない姉さんは絶対に損をしていると思う。
「だいぶ疲れてたみたいですね。……私の誘いで無理させちゃいましたか?」
小梅は入れてきたばかりのコーヒーに口も付けず、心配そうな表情を浮かべてベッドで熟睡している姉さんを見つめていた。
昨日の夜、私と姉さんをお話しませんかと部屋に誘ったことを気にしているのだろう。
「気にしなくたっていいわよ。姉さんだって楽しそうにしてたし、その前の歓迎会と比べたら夜の雑談の疲労なんて微々たるものよ」
近頃、黒森峰ではチーム内の円滑なコミュニケーションを育む施策の一環として週最後の練習日である土曜日の練習後は全員で打ち上げをするのが恒例になっていた。勿論それは昨日の土曜日も例外ではなく、当初はいつも通り準備が進められていたのだが、ある一言で状況は一変する。
『せっかくだから、お姉さんの歓迎会もやろうよ』
直下の何気ない提案に皆が飛びついたのが全ての始まりだった。
普段は大人しいのに凝り出すと止まらない黒森峰の気質故か、滅多に無い転入生というイベントのせいか、歓迎会という名目を得た打ち上げは盛大なものになってしまい、昼過ぎから太陽が沈むまで延々と続けられた。
姉さんは会の間中、先輩後輩問わず大勢の人に取り囲まれて身動きが取れず、新しい誰かが来る度に料理やノンアルコールビールが振舞われるという今思い返しても凄まじい状況だった。
そんな状態を6時間近く続けるのに比べたら、のんびりと寝転びながら部屋で雑談するぐらいは大したことじゃない。
むしろ、姉さんにとっては気軽に過ごせていた夜中の雑談の方が良い気分転換になっていたと思う。
「だいたい疲れてるなら疲れてるって言えば良かったのよ。どうでもいいことは素直に話すくせに、こっちに来た理由とか大事なことは全然言わないんだから」
「理由ですか? 歓迎会ではエリカさんとまた一緒に戦車道がしたかったからって言ってましたけど、あれは違うんですか?」
首を捻る小梅に「あれはあれで本音だから困るのよ」とぼやいてしまう。
あれからも姉さんは黒森峰に来た理由を話してくれてはいない。
どうにか理由を解明しようと観察してはいるものの、今のところ目的らしき候補すら浮かび上がってこない。
「教室の時みたいに悪戯がしたかったとか?」
「最初はそれなのかなとも思ってたけど、姉さんの格好を見てるとそれも違う気がするのよね」
「確かにエリカさんと見間違えられないよう凄く気を遣ってますからね」
教室に突然現れた日の姉さんは私とまったく同じ格好をしていたのに、翌日正式に編入してきた時には意図的に違いを作っていた。
右側の髪を僅かな部分だけどヘアゴムで纏めていたし、戦車道の練習中は左側の腕に自作の腕章まで付けるほどの徹底っぷりだ。
そもそも、私か小梅と一緒に行動していることが大半だったので、こっそり成りすまそうとすること自体を試みようとしていないように見えた。
「小梅は何か気付いたことは無い? 姉さんがとった不自然な行動とか」
「……そうですね、エリカさんのことを頻繁に見てることはわかるんですけど」
愛されてるんですね、と笑顔を向ける小梅にそれはいいから他には何か無いの? とせっつく。
小梅は目を閉じて腕を組みながらじっと考え込み始めたけど、1分ほど経ってから急に「あっ」と何か思いついたかのように声を挙げた。
「私の気のせいかもしれないんですけど、西住隊長のことをよく見ているような気がします」