戦車道の朝練習を終えて登校した私が教室に入った時、隣の席にいつもと違う異様な光景が広がっていました。
「はあ……」
常に凛々しい表情を崩さず、戦車道チームの副隊長として皆を引っ張ってくれるエリカさんが、憂鬱そうに顔を歪めながら教室の机に伏せ、何度もため息をついているのです。
「エリカさん、どうかしたんですか? 元気無さそうですよ」
普段では考えられない姿に心配になって声をかけるとエリカさんは机に伏せたまま暗い声で答えてくれました。
「ん、ちょっとね……明日から来る短期編入生のことを考えると落ち着かなくて」
「そういえば、とうとう受け入れが始まるんでしたよね」
つい先日のこと、提携校との連携強化や戦車道の振興を目的に他校の戦車道履修者を短期編入という形で受け入れる制度が導入されることが西住隊長を通じて伝達がありました。
編入生は指導役の監督の元、黒森峰で戦車道に関する技術や練習方法、指導についてのノウハウを学び、自身の学校に還元することになっているのですが、エリカさんは隊長直々に指導責任者に任命されているのです。
積み重ねの無い、ゼロから始める制度で何もかも手探りで進めなければならないという問題は勿論のこと、あくまで他校の生徒という難しい立場であるという点から見ても、容易にはいかないであろうことは間違いありません。
それを考えれば、エリカさんがプレッシャーを感じてしまうのは無理も無い話です。
「初めての制度ですから仕方ないですよ。私も手伝いますから一歩ずつやっていきましょう」
少し前までのエリカさんは、みほさんのこともあって自分がどうにかしないといけないと1人で抱え込んでしまうことが多く、とても辛そうにしていました。
少し前にみほさんと話した時に憑き物が落ちたのか、最近は私たちを頼ってくれるようになりましたけど、それでもまだまだ1人で思い悩んでいることが少なくありません。
こうやって声をかけることで少しでもエリカさんの力になれればいいんですが。
「別に制度自体にどうこうってわけじゃないのよ、よりにもよってどうしてあれが来るのよ……」
「もしかして、エリカさんのお知り合いなんですか?」
ぶつぶつと口から溢れてくる文句を聞く限り、どうもエリカさんは指導の方法や責任よりも編入してくる生徒の方を気にしているみたいです。
「一体誰が来るんですか?」
「……なのよ」
「え、なんですか? よく聞こえません」
聞き取れない声でボソリボソリと呟くエリカさんにそれを聞き返す私。
そのやり取りを何度か繰り返したところでエリカさんはようやく顔を上げて、弱弱しいながらも芯の通った声で答えました。
「……姉よ」
「え?」
「だから、姉。今回編入してくるのは私の姉さんなのよ」
言い終わるや否や、エリカさんは再び机に顔を伏せてしまいました。
「そうだったんですね、お姉さんが……」
エリカさんにはお姉さんがいるという話は聞いていましたが、戦車道をやっているという話は初耳でした。
というより、ほとんどお姉さんに関する話をエリカさんから聞いたことがありません。
もしかして仲が悪いんですか? とおそるおそる問いかけるとエリカさんは仲が悪いわけじゃないけどと言いづらそうにしながら答えてくれました。
「姉さん、大の悪戯好きなのよ。子どもの頃からしょっちゅう私を巻き込んで周りを驚かせたりするの」
「それはまた……エリカさんとは全然違うタイプの人なんですね」
「まあね、姉さんがここでも何かしでかすんじゃないかと思うと正直不安でしょうがないわ」
よほどお姉さんのことが心配なのか、ため息をつきながら窓の外を見つめるエリカさん。
でも、その表情は本気で嫌がっているのではなく、どこか複雑な気持ちを抱えているように見えます。
たぶん、エリカさんはお姉さんの悪戯に困っているだけで、決して嫌っているわけではなく、もしかしたら、むしろ姉妹としての仲は良好だからこその悩みなのかもしれません。
「お姉さんが来たら紹介してくださいね。是非お話ししてみたいので」
ほんの僅かな会話だけで私の中のお姉さんへの興味は膨らんでいくばかりで、まるでタイプが違うにも係わらず、姉妹仲も悪くない2人が一体普段どんな会話をしているのか気になって仕方がありません。
エリカさんは嫌がるかもしれないけど、可能であればゆっくりお話をしてみたいという気持ちを私は抑えきれませんでした。
「……別にいいけど、その代わりに一つだけお願いしてもいい?」
「ええ、もちろん」
もしかしたらエリカさんに嫌がるかもしれないという心配も多少ありましたが、どうやら杞憂に終わったようです。
なんでも言ってくださいと微笑む私に対してエリカさんは僅かに微笑んだかと思えば
すぐにいつもの凛々しい顔に戻って私の手を握り――
「
真剣な眼差しを向けたまま、私の理解できない言葉を呟きました。
『ちょ、ちょっと、何これ、どうなってるの?』
『なにこれ、もしかして忍術?』
私が聞き返そうとしたところで廊下の方から耳にしたことの無いざわめきが聞こえてきました。
放課や休み時間でも比較的静粛なことが多い黒森峰ではあまり見られない様子に教室のクラスメイト達も次々と廊下を覗き始めますが、彼女たちはまるで幽霊でも見たかのような驚愕な表情を浮かべながら一斉にこちらへ視線を向けてきました。
一体廊下で何が起こっているのか。
廊下を覗きに行くべきかそれともここでしばらく様子を伺うべきか、と思案しているうちに私は廊下の騒ぎの原因とエリカさんの言葉、双方の意味を理解してしまいました。
教室の前扉から入ってきた少女は銀色に近い髪に凛々しい表情、均整のとれたスタイルに黒森峰の制服を身に纏う見慣れた姿で、何もかもがエリカさんと完全に同一の容貌だったんです。
「そういうことだったんですね……」
エリカさんがお姉さんのことをあまり話さなかったことや間違えないでと言った理由も全て合点がいきました。
姉の話をしてしまえば、どうしても一卵性の双子ということが知られてしまい、周囲から大きな話題の種になってしまいます。
エリカさんの性格からすればそういう詮索を嫌っても不思議では無いですし、あれだけ似ていれば恐らく大勢の人に間違えられてきただろうと容易に想像できるので、そのあたりも気にしているのかもしれません。
もっとも、悪戯好きらしいお姉さんは積極的にエリカさんのフリをしていそうな気はしますが。
『もしかしてドッペルゲンガー!』
『いやいや、ありえないでしょ。ただの双子じゃないの?』
『逸見さん双子だったんだ。凄ーい』
騒然とするクラスメイトを尻目に、お姉さんは何か思うところがあるのか、エリカさんそっくりのしかめっ面を浮かべたまま無言でこちらへ向かってきます。
勢いに気圧されたのかそれとも気まずいのか、エリカさんは机に顔を伏せてしまい、その表情は伺いしることはできません。
ここは止めた方がいいのか、それとも様子を見てから動いた方がいいのか。
私が行動を決めかねているうちに、お姉さんはエリカさんの机の前まで到達すると、右手を思い切り机に叩き付けて苦々しく口を開きました。
「どうして私の机に座ってるのか、説明してもらえるかしら?
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少し冷静になって考えれば単純な話でした。
そもそも、あのタイミングでわざわざお姉さんが教室へやってくること自体が不自然だったんです。
エリカさんに話したいことがあれば携帯電話で連絡を取り合えばいいですし、朝の人が疎らなこの時間に教室へ行ってしまえば、悪戯としてはどうしてもインパクトに欠けてしまうため、悪戯好きのお姉さんからすれば不本意なことこの上ありません。
他の人を効果的に驚かせたいなら方法は2つ。
普通にHRで先生と一緒に全員の前に現れるか、エリカさんに成りすまして教室で過ごすかの2択しかありません。
「すっかり騙されちゃいました。最初からお姉さんとお話し出来ていたんですね」
机に伏せ続けるエリカさん、いや、お姉さんに対して私が感じた気持ちは騙された悔しさよりも、素直に感嘆の言葉でした。
元々同じような気質なのか、演じていたのかはわかりませんが仕草も口調も違和感無くエリカさんそのものでしたし、机に何度も顔を伏せたり、私の名前を決して呼ばなかったのも万が一、細かい表情や呼び方から正体がばれないようにするための工夫だったのかもしれません。
もし、本物のエリカさんが来なかったら、きっと私は今もお姉さんをエリカさんと思って接し続けていたでしょう。
「だから言ったでしょ? 悪戯好きだって」
いつの間にかお姉さんは机から顔を上げて、エリカさんが決して見せないであろう満面の笑みで私に微笑んでくれました。
しかし、その笑顔も――
「職員室で待っててって言ったのに! どうして教室にいるのよ!?」
「痛い! 痛い! 痛いっ! エリちゃんごめんってば」
怒り心頭のエリカさんがお姉さんの耳を掴み上げたことで一瞬で崩壊してしまいました。
「だって、校舎に入ったら皆私のことエリちゃんと勘違いしてくれたから、つい面白くなって……」
「ついじゃないわよ。もう子どもじゃないんだから、くだらない悪戯はやめてって昨日も言ったじゃない!」
エリカさん、もといお姉さんは机に伏せたまま本物のエリカさんに怒られています。
どうやらエリカさんはお姉さんが来なかったことで、長年の付き合いから自分に成りすましているのではないかと察して教室へ直行してきたみたいです。
やはり、姉妹だけあってお互いのことをよく理解してるんだなあと実感します。
「いいから、早く来て! いつまで経っても姉さんが来ないって先生も困ってたのよ」
「もう、わかったってば。ちゃんと行くから、耳を引っ張らないで」
「最初から素直にそうすればよかったのよ」
赤星さんまた後でね、と私に微笑みながらエリカさんに手を引かれ連行されるお姉さん。
その姿は仲の良い姉妹のやり取りそのもので非常に微笑ましく感じられて、これからしばらくはこうした2人のやり取りが見られるのかと思うと私の期待は膨らむ一方でした。
とりあえず、お昼は一緒に食堂へ誘ってみようかなあと企みつつ、私は手を振りながら廊下へ向かう2人を笑顔で見送りました。