最早見えなくなったみほの後姿を幻視しながら、まほは暗然としていた。頭を両手で抱え込んで、なにか激しい言葉を口から吐き出そうとしては、歯を食いしばり必死で堪えている様子である。端整な顔が鬼の面の如く歪んでいた。
まほが、じろりと視線を動かす。
視線の先にいた黒森峰生たちは、その眼光の鋭さにぎょっと肩を震わせた。まほの心中を図り知ることは出来ない。恐らくは、みほを討ち漏らしたことに怒りを覚えているのだろう。まほが戦車に拳を叩きつけると、鈍く、頭に響く音がした。
叩きつけた拳に強い力が加わっていくのを見て、次は自分に飛んで来るのか、と思った黒森峰生の一人が、恐懼して頭を下げた。
「申し訳ございません。我々の不手際で千載一遇の好機を逃してしまいました」
まほはちらっと発言者の方を見たが、直ぐに視線を戻した。それがまた恐怖を誘うのか、発言者は頭を上げずにひたすら許しを乞うような姿勢を続ける。
何か言わなければいつまでも同じ姿勢を取り続けるだろう。他の黒森峰生たちも、まほの反応を待つばかりであった。はあ、と息を一つ吐いて、まほは言った。
「頭を上げろ。みほを取り逃がしたのは、お前の所為ではない。誰の所為でもないんだ」
一度そこで言葉を区切った。
誰の所為でもないことはないだろう、と思ったのだ。誰かの所為ではある。しかしまほは、低頭姿勢を取り続ける者や、他の黒森峰生たちの不手際や力不足とは思っていない。無論、自分の所為だとも思わない。ならば大洗の所為なのかと思えば、それは表現としておかしな話になってしまう。敵を逃したことを敵の所為にするというのは意味が分からない。
では誰であろうと頭を捻らせて、まほは空を見上げる。答えが出た。
「そうだ、これは天の仕業だ、そうに違いない。天があいつに味方をし、天があいつを生かしたのだ。断じて我々の所為ではない」
真面目な顔でまほは断じた。
その言葉が面白かったのか、一人、また一人と笑みを浮かべてしまう。まほが冗談で言っているわけではなく、また、みほに限っては冗談にならないということが嫌というほど理解している。けれどもこうして言葉にされると、そこはかとなく凄い責任転嫁だなと思えてしまうのだ。
「天の所為ならば、仕方がありませんね。貴女もそんなに気に病むことはないわよ。だって、天の所為だもの」
エリカは笑いながら言った。ツボを突かれたのか腹を抱えながら、目には涙までも浮かんでいる。
この大笑いは周囲に伝播した。笑いの大合唱が巻き起こり、まほも手を叩いて笑いの度合いを示した。
「いやあ、笑った笑った。一生分を笑った気がするな。さて、気を取り直してお前たちに訊こうじゃないか。落ちのびたみほが、次にどう動いて来るのかを」
空気が変わった。大合唱がピタリと止んで、皆の気が引き締まる。
これに満足気を表しながら、まほは答えが返って来るのを待った。彼女の中では既に答えは出ている。みほのこれまでの戦いぶりと性格からして、どう動いて来るのかが手に取るように分かっていた。ただ、独断を嫌っているので、他人の意見を聞くのである。
先ず反応したのは小梅だった。
「論ずるまでもありません。みほさんは間違いなく、フラッグ車のみを狙って攻勢に出て来るでしょう。戦力差を考えずに、いや考えていてもそうする筈です」
小梅のこの発言に、エリカが強く同意の意思を言葉にした。
「ええ、副隊長が小賢しい策をこの期に及んで弄してくるとは思われないわね。戦いは正々堂々と正面からやるもの、と常々語っておられたから。無礼な物言いになってしまうけど、副隊長は考え方も戦い方も古いのよ。美意識に拘りが深いし、フラッグ戦、殲滅戦どちらであっても、大体はフラッグ車、つまりは大将首を狙う。源平時代の戦い方なのよね。でも、そういう戦いをするからこそ、あの方は強く、そして人を惹き付けるのだけれど」
同感の声が方々より上がった。
まほも全くの同意見である。であるから、話は調子よく進んで行った。
黒森峰は、確実だとされるみほの動きに対して、迎え撃つという姿勢を取ることにした。また、迎え撃つだけではなくこちら側からも攻勢に入るために隊を三つに分ける。一つはまほ率いる六輌、ここにエリカや小梅も加わることになり、残り二つの隊を四輌と三輌に分けて、みほが逃げて行った方角へと進ませた。
「これで本当に決着だ、みほ」
まほは剥き出しの頬を風がさらりと撫でていくのを気にする様子もなく、時が来るのを待った。幾ばくが時が経てば、まほの下に二つの隊から連絡が入る。どうやらそれぞれの隊が、Ⅳ号戦車以外の残存戦力と戦闘状態になったようだ。
ついに来るか。頬を撫でる風が乱暴になったように感じた。何度か咳ばらいをしながら、その時が来るのを今か今かと待ち続ける。
まほは段々と自身の発する鼓動が速くなるのを実感していた。
「まだか、まだなのか」
もうそろそろ現れても良い頃合いだろう、と思いながら、急いている自分の心に苦笑して、自分で自分をたしなめる。
すると、聞き慣れた物音が遙か先より風に乗って耳に入って来た。そうして物音の主は、大地を踏みつぶしながらまほの視界に入り込む。
「来たかッ!」
まほは思わず身を乗り出した。
見込みに違わず、Ⅳ号戦車を駆るみほが猛然と直進して来る。相も変わらない白地の布で頭部を包み隠した僧形ぶりで、表情には凛としたものがあった。怒り狂った表情でも、失意に沈んだ表情でもなかった。近付いて来るみほに、エリカたちが言った。
「副隊長、お覚悟のほどを!」
先制攻撃は黒森峰であった。猛進して来るみほに向かって数多の砲塔が火を吹く。黒煙の霧がⅣ号戦車を覆い隠した。霧は深くみほの姿は黒森峰側の視界から消える。
一瞬後、黒霧の中からⅣ号戦車が飛び出して来た。戦車上のみほは笑いながら、エリカたちに一喝する。
「推参であるぞ! 貴様らなどに用はない!」
みほの狙いはあくまで大将首のみである。証明するようにエリカたちには目もくれずに、まほの駆るティーガーⅠへ発砲した。
これは予想されたことである。難なく回避した後に反撃の一射を放った。続けてエリカたちも二射目を撃つが、この猛攻もみほには通用しない。火のような激しさであるものの、Ⅳ号戦車を操縦する麻子の極まった技術が一枚上であったのだ。
再び、お互いに一射を撃ち放って、またもや撃ち外した。
「六対一でこれか、流石はみほだ。各車両に通達する。密集せずに散開して戦え! 密集して戦っては互いに邪魔となってしまう!」
黒森峰はまほの指示を受けて、それぞれ思い思いに距離を取った。
みほはと言えば、散開する黒森峰の動きを見ても一切意識を向けることなく、遮二無二まほに狙いを向けていた。フラッグ車さえ倒してしまえば勝ちが確定する以上、言ってしまえば一将兵に割いている手間はないというわけだ。
原っぱを鉄の馬が縦横無尽に駆け回る。ゆらゆらと揺れる草は踏みつぶされ蹂躙され、散っては風に乗ってどこかへと流れていく。時には砲弾で跡形もなく消し飛ばされた。
やがて、みほとまほに新たな情報がもたらされた。
「むっ、奴らが破られたか」
「よし、これで十三対一だ。まだまだ安心の域ではないが、しかし勝利まではもう直ぐだ」
別の場所で起こっていた戦闘が集結したのである。戦闘の結果、大洗はⅣ号戦車を残して全滅、その大洗を壊滅させた七輌の黒森峰戦車は、こちらの戦闘に合流するべく向かっているようであった。
「まだ終わってはおらん。敵にどれだけの戦力が残っていようと、フラッグ車を倒してしまえば我々の勝利だ。天運は我らにあるぞ! この試合は必ず勝てる!」
奮起を促すみほの声が、Ⅳ号戦車の乗員たちに届いた。もとより負ける気など皆無であったが、さらに勇気を百倍、疲労も忘れて己が役目を果たすべく力を発揮する。
大洗も黒森峰も敵のフラッグ車を倒すため奮戦した。
先に有効打を出したのは黒森峰であった。これまで麻子の操作技術で回避し続けたものの、ついに捉えられたのである。捉えたのはエリカの放った砲弾だった。
「しまったッ!」
麻子の怒号にも似た声が、Ⅳ号戦車内で発せられた。
まだ勝敗はついていない。有効打と言っても決定打ではなかった。エリカの砲弾はⅣ号戦車の側面を削り、外部装甲であるシュルツェンを飛ばしたのだ。
大洗は追い詰められる所まで追い詰められた。みほは顔色を変えない。
「姉上の戦車に密着しろ!」
Ⅳ号戦車が風の如く疾駆し、ティーガーⅠへと突進する。
まほは受け流そうとするも間に合わないと判断したのか、受け止める形を取った。衝撃が互いの戦車乗員たちを襲う。まほは何とか距離を取ろうとして、みほは寄せて離れられた分の距離を縮めた。
「ええい、しぶとい奴め! いい加減に見苦しい真似を止めて、潔くお前の負けを認めろ、みほ!」
と、まほは怒鳴った。
「誰が勝てる戦いで負けを認めると思うか! そも我が肩には大洗三万人の進退がかかっておるのだ。姉上はこの私に、彼らを捨てて負けを認めろと申すか! そのような義に悖る行為は断じて出来ぬ。例え無様と呼ばれ恥を晒そうとも、この戦いだけは負けるわけにはいかんのだ!」
ピタリとまほの動きが止まった。
それはみほの熱を宿したような言葉で、心に重くのしかかるものがあったから、というわけではない。まほが動けない、と言うよりもティーガーⅠが動けないのである。
大洗にとっては幸運で、黒森峰にとっては不運な出来事だった。まほの戦車は、味方の流れ弾で履帯を損傷したのである。まほがみほより距離を取った瞬間を狙った砲撃が、流れ弾となったのだ。砲手が撃つべき適当な時を見計らい損ねたことや、そもそも疲労があったことなど、様々な要因が重なった結果だった。
みほはこれを見逃さない。ここしかなかった。心の中で喝采をあげ、天や神に感謝を捧げながら、
「姉上、受けよッ!」
という呶声と共に、砲弾を撃ちつけた。
身動きが取れないまほは、この砲弾を甘んじて受けるしかなかった。己が運命を悟って瞼を閉じる。耳を狂わせる爆音が轟いた時、全身の力を抜いた。
停止する戦車のキューポラより上半身を出して、みほは満面の笑みだった。
「勝った……勝ったのだ。よし、よし。勝ったのだ、私は勝ったのだ。ハハ、ハハハ、ハハハハ――」
審判のアナウンスが黒森峰の敗北と、大洗の勝利を告げる。
みほはそのアナウンスを聞きながら、空を仰ぐ。空は太陽が沈み始めており、もうすぐ暁色に染まる頃合いであった。