軍神!西住不識庵みほ   作:フリート

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その⑨

 沙織はみほのことが大好きだった。恋愛対象などではなく、ただ人として、一緒に居ると胸が高鳴って世界が夜の星空のごとく輝いているようであった。

 優しく微笑み掛けてくるところが好きだ。粉雪を連想するように淡くふわりと笑うのである。その笑みを見るだけで、沙織は一日の活力が沸いて来るようですらあった。

 傲慢なまでに自信に満ち溢れた姿が好きだ。己の勝利・成功を疑わずに真っすぐ突き進んで行くところを見ていると、沙織は安心感に包まれる。

 そうしてもう一つ、これが最も好きなところであり、尊敬に値するところだ。人に対して誠実なのである。時代錯誤なまでに「義」の精神を重んじるみほと、友達であるというだけで沙織の心に誇らしさが浮かんで来るのだ。痺れるほどにカッコよくて、憧れるほどに素敵な、歴史上の偉人みたいな人であった。

 けれども今のみほには、痺れるほどのカッコよさも、憧れるほどの素敵さもない。

 

(仕方のないことなのかな)

 

 とは、沙織も思う。

 何故ならば、みほはまだ若いのだ。まだ二十年にも満たない人生の中で、決定的な失敗を経験したことがなかったのだろう。それを経験してしまったのだ。

 母校の廃校がかかった一戦で、自身の姉との運命的な一戦で、怒りに呑まれるという言い訳のしようもないほどに自分の失敗で、仲間を犠牲にして背を向けて逃げる。

 

(恥ずかしいんだよね? 恥ずかしくて、悔しくて、大きな声をあげて泣いてしまいたいんだよね? みほの気持ちは分かるよ)

 

 目の前で、道に迷った幼子のように震える女の子に、沙織は胸が締め付けられるようだった。自信を喪失して、青ざめて、力なく腕を流した、俯き気味の女の子。

 これがあの西住みほなのだろうか。姿、形が同じなだけで中身は別人なんじゃないだろうか。そう思わせてしまうほどの変貌ぶりだった。しかしこうも思わせる。どれだけ威厳があろうが、どれだけ驚愕するような精神性をしていようが、どれだけ自分と違う価値観を抱いていようが、みほはただ一人の女の子なのだ。

 

(普段の私であれば、このまま暫くそっとしておいてあげよう、とか、お世話してあげなくちゃ、とかなるんだろうけど……)

 

 生憎そういうわけにはいかないのである。まだ試合は終わっていないのだから。

 先ほどの黒森峰との戦闘で、五輌の内二輌の戦車は撃破された。八九式中戦車とポルシェティーガーである。残りはⅣ号戦車、Ⅲ号突撃砲、ルノーB1bisの三輌だ。

 対して黒森峰は、まほの本隊九輌と、小梅の別動隊四輌の、合わせて十三輌である。小梅の別動隊が五輌ではなく四輌なのは、梓たちが最後の奮戦の際に一輌倒したからだった。ともあれ約四倍の戦力差だ。戦況は目を覆うような状況である。

 負ける気はしない。どんな状況であれ負ける気はなく、そもそも負けることは許されないのだが、そのためにも、今直ぐ、みほには立ち直ってもらう必要がある。

 意を決して沙織は容を改めた。

 

「みほ、いつまでそうしてるの?」

 

 口を開いた沙織に、その場の全員が顔を向ける。全員の中には勿論、みほの姿もあった。

 

「いい加減に、そろそろ次にどうするのかを考えてくれないかな? 落ち込むのはみほの勝手だよ? みほのせいでこうなってるんだから、寧ろいっぱい落ち込んで反省してほしいところなんだけど、それはこの試合が終わった後にしてくれないかな?」

 

 誰もが沙織の言葉に驚いた。沙織自身も内心驚きを隠せなかった。らしからぬ厳しい言葉だったからだ。もしかすれば、先の戦闘でみほに罵倒されたことが、心のしこりとなって口をついて出たのかもしれない。止まらず、沙織は続ける。

 

「うじうじうじうじとナメクジみたいなことは止めてよ。みほらしくないじゃん。さっさといつものみほに戻ってよね」

 

 ゆらゆらと陽炎のように揺れるみほの目を、沙織は強く強く見つめた。

 みほは何も言わない。沙織は知らず知らず拳を握りしめる。ここまで言われておきながら、どうして何も反応がないのだろうか。いつものみほであれば、富士山が噴火したように大激怒しているだろう。それなのに、みほの瞳は弱い輝きのままだった。

 ムクりと衝動が沙織の身体を支配した。あっ、と誰かが声をもらした時にはもう遅い。鞭のようにしなった手が、みほの頬を捉えた時、乾いた音が場に響き渡った。

 沙織は唾を飲み込みながら、自分の平手とみほの顔を交互に見る。数瞬して、大きく息を吐いた。思わず手を出してしまった、が、謝るつもりは毛頭ない。

 

「……ああ、やってしまいましたね」

 

 誰に言うでもなく紡がれた華の言葉を、沙織は聞き取った。沙織を心配するような声音であった。みほの怒りが飛んで来やしないかという心配であろうが、どんと来いというやつである。今のみほは、怖くもなんともない。

 

「沙織」

 

 腹に響く低い声でみほが沙織の名を呼んだ。来るのか、と沙織は身構えるも、名を呼ぶだけ呼んでみほは何もしなかった。信じられない、とでも言いたげに沙織を見据えるだけであった。拍子抜けすると共に失望の二文字が頭をよぎる。こうまでやってもこの調子ならば、もうみほは駄目かもしれない。

 沙織が諦めかけたその時、

 

「これで西住の名は地に堕ちましたね」

 

 優花里の声だった。

 このたった一言で、みほの様子はがらりと一変する。

 

「みほ殿がいつまでもこの調子でありますと、これまで築いてきた名声は全部パアでありますな。軍神、西住の龍の名は剥奪、伴って西住流の名も汚れることに。さて、お母様は何とおっしゃいますかな。いやはや、これからみほ殿も大変でありますな」

 

 やれやれと優花里はわざとらしく首を横に振る。

 沙織は素直に感心した。優花里には分かっているのだ。言えば必ず効果がある言葉を分かっているのだ。効果のほどは抜群の効き目であった。

 先ず効果が現れたのは顔にである。青白かった頬には赤みが戻って来て、瞳は爛々と強い輝きを取り戻していた。キッと容を正してしっかと視線の先に焦点を合わせている。鮮やかなまでの反応であった。沙織の失望は安堵に変わった。

 

「ダージリン殿も、みほ殿に紅茶を渡したことを今頃後悔しているかもしれません。ノンナ殿も長い夢から覚めることでしょう。他の方たちだって、何と思うか。そして黒森峰の皆様が望んでいるみほ殿は、一体どんなみほ殿なのでしょうね」

 

 命を惜しむな、名をば惜しめ、を地で駆け回るみほには、胸に突き刺さる文句ばかりであった。みほの脳裏には、ダージリンやノンナらのみほに対して信頼しきったような顔が浮かんで来た。友だと、憧れだと言ってくれた二人だ。それだけではない、数多くの人の信頼を裏切るところであったのだ。心底から嫌っている筈の、不義を行おうとしていた。その事実に、みほは胸を掻きむしりたいほどの、苦しみを覚えた。

 

「母上……姉上……エリカ……小梅……ダージリンさん……ノンナさん……私は、ああ、梓っ!」

 

「彼女たちだけではありません。みほ殿は、私たちのことも裏切ろうとしていたのであります。貴女を信じてこうしてここまで付き従って来た大洗の皆さんを、貴女はたった一度の失敗で我を失って、裏切ろうとしたのであります。会長殿にした、大会を優勝して大洗を廃校から救うという約束を、貴女は自分の都合で破ろうとしているのです!」

 

 いつしか優花里の言葉には鋭さが帯びてきて、みほを責める調子になっていた。その言葉は、多くの人々の心を代弁したものであった。沙織の心も代弁されていた。

 みほは瞼をゆっくりと閉じる。口元は厳しく引き結ばれていた。

 怖い、とみほは思っていた。瞼の裏に浮かぶ母の瞳が、姉の瞳が、愛する人の瞳が、友の瞳が、その他自分を慕う人々の瞳が、侮蔑の色をいっぱいに含んだ眼差しを送って来るのを心の底から怖いと思っていたのである。

 

「みほ殿、お願いです。私たちに、貴女を軽蔑させないで下さい。私はいつまでも、どんな時でも、強い貴女でいて欲しい」

 

 最後の優花里の言葉は懇願となっていた。これが止めとなったのであろうか、みほはカッと目を見開いて眼裂の長い目に収まる瞳を、優花里に、沙織に、他の者たちに向ける。

 それから、大きく息を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返し、膝を地につけ、流れるように両手もつけた。

 ぎょっとして沙織たちは己の目を疑う。幻覚でも見ているのだろうか。いや、古来より使い慣れた手だが、頬を抓ってみると痛みがある。現実だった。

 ぽつり、ぽつり、みほの頬を伝って光が地に落ちていく。沙織はその光景を美しいものとして見ていた。あのみほが泣いている。外聞なく泣いている姿は、ただただ美しかったのだ。

 

「済まなかった。この私が至らないことであった。そうだ、優花里の言う通りただ一度の失敗ではないか。まだ全て終わっていない。だと言うのに、私は取り返しのつかない罪を犯すところであった。礼を言おう、優花里。そして、沙織。お前たちのお陰で目が覚めた。他の皆もまことに要らぬ心配を掛けて、申し訳ないことであった」

 

 最後には、額すら地に擦り付けてみほは謝罪した。声は上擦っていた。

 みほの心の内が痛いほどに伝わってくる。沙織の心の奥底に沁み込んでくる。申し訳なかった、という言葉が身体の隅々にまで溶けだして、目頭が熱くなった。

 

「私もごめん。みほだけの所為じゃないんだ。それなのに、私は全部貴女に押し付けようとしてた。私こそ無責任で、私こそ反省しないといけなかった。私たちは仲間だもん。だから、どんなことも一緒に背負っていかないといけないのに、都合の悪いことだけ貴女に押しつけようとしてた。本当にごめんなさい」

 

 沙織も泣いた。泣いて、泣いて、泣き喚いた。濡れた顔で見上げるみほの背中に腕を回し、抱きしめてから一層強く泣く。みほも抱きしめ返して、嗚咽の声をあげた。

 しまいにはその場の全員が泣いた。全員が隣の人と肩を抱き、腰に手をまわして抱擁し合いながら涙を垂れ流した。思う存分に泣き晴らすと、幼顔を形作る瞳を片手で三回擦ってから、みほは言い放った。

 

「もうしばし、不甲斐ないこの私に従い支えて欲しい。私は生まれてこの方約束を違えたことはないのだ。故に、私はこの戦いに勝利をもたらす。そして、勝利をもたらすためにはお前たちの力が必要不可欠だ。どうか力をかしてくれ」

 

 漲る若さを含みながらも、とても二十歳前の少女とは思えない威厳に満ちた声だった。いつも通りのみほへと戻ったことに沙織たちは言いようもない頼もしさを感じた。

 出し尽くしたと思っていたが、再び沙織たちは涙ぐんだ。

 沙織たちは目に浮かぶ涙を抑えることもなく、破顔して肯定の意を示した。

 


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