杏たちの奮戦によって、梓たちM3中戦車リーの乗員は黒森峰の追撃を振り切ることができた。だが梓は浮かない様子で俯き、自身の膝に視線を落としている。浮かないというよりは、苦悩の表情と表現した方が適切かもしれない。
梓がそんな表情を浮かべるのは、何も殿を請け負った杏たちを思ってのことではなかった。彼女たちは自分の役割を果たしたのだ。そこに称賛の意はあっても、負の気持ちなど抱くことはない。ならば何を苦悩しているのか。
「このまま背を向けて逃げ続けるのは、私だけじゃなくて、私を教え導くみほさんの名を汚すことに繋がっちゃうんじゃ……」
この一点であった。
梓自身、背を向けてただ逃げることに抵抗がないわけじゃない。どちらかと言えば羞恥を覚える方である。けれども覚えるだけだ。
しかしそのことで臆病者呼ばわりされ、ひいてはみほの評価に響くのは堪えられない。
師弟という関係だけでなく、恋人という関係が加わった今、梓はいつも以上に敏感であった。己の行動が、愛する人の評判を下げることは何としても避けたいのである。
「別に気にすることないんじゃない? 考え過ぎだって」
梓の独り言に副砲砲手の大野あやが反応する。栗色をした二つ結びの髪を揺らしながらニコニコと笑う。
これに主砲砲手の山郷あゆみが同調した。
「そうだよ、梓ちゃん。なるべく時間を稼げって言ったのは先輩だし、時間を稼ぐんだったら逃げるのが一番だって。三十六計逃げるに如かず、だよ」
「そうかもしれないけど……でも……」
言われても梓は煮え切らない。頻りに「でも」「だけど」と繰り返してはせわしなく視線を動かす。梓にとっては問題が問題なだけに簡単に割り切れるものではない。
そんな時、あや、あゆみとは別の人物が口を開いた。その人物の意見は、二人とは全く正反対のものであった。
「じゃあ、戦っちゃおっか~」
おっとりとしながらも、言葉には力強さがこもっている。太い眉の下、普段は緩んでいる眼差しを鋭くするのは、通信手の宇津木優季であった。
梓は思わず呆けた顔で瞬きを数回、どういうことかと優季の次なる言葉を待つ。
「要はやられなきゃ良いんだよね? やられなきゃ、戦っても良いじゃん。逃げずに踏みとどまって戦っても、やられなきゃ時間稼ぎって意味では、大丈夫だよー」
言葉の最後に優季は大きく頷いた。
とは言うものの、時間を稼ぐならこのまま逃げ続けた方が確実である。わざわざ危険を冒す必要はない。それに戦うことを選択した場合、何のために杏たちが殿をしたのか、ということになって来る。
杏曰く、追撃して来る黒森峰の部隊は、梓を撃破することを最重要の任務にしているらしかった。理由は分からない。だが、だからこそ、杏たちが犠牲になってでも梓を逃したのだ。だと言うのに梓が戦うことを選んでしまうのは、気が引けるというものであった。
「だけど」
梓は何度目になるか分からない「だけど」を言葉にした。ただこの「だけど」からは、先ほどまでの迷いが一切なかった。天啓が下ったとでも言うように、梓の瞳に光が宿る。
すると、以前梓がみほに言われたことが口から声となって出て来た。
「人に誇れない戦いだけはするな。天も地も、相手も観客も、そして己自身も誇れる、褒め称える戦いをしろ。無様だけは決して許さん」
あやは梓の纏う空気の変化を感じて、唾と一緒に言葉を呑み込んだ。自分の心も瞬時に変化したのを感じたのだ。そうだ、どうせなら、カッコいい方が良い。
一方であゆみは自分の意見を曲げなかった。万が一があってからでは遅い。もし戦って負けて優勝を逃すようなことになれば、大洗は廃校になる。そうしたら梓たちと、大切な友達と離れ離れになってしまうかもしれない。そう考えると、あゆみの中から慎重さが抜けなかった。
「やられない根拠なんかないじゃん。寧ろやられる確率の方が高いよ。私たちはこの一輌しかないけど、敵はいっぱいだよ。止めた方が良いって」
梓は、あゆみの強い意志が見える瞳を見つめた。
普通であれば言うまでもなく、あゆみの意見が正しいのであろう。それは梓にも分かっていることだが、でも決めたのだ。今、自分たちが置かれた状況で逃げ続けることは、天も地も相手も観客も恥ずかしいことだとは思わないかも知れない。知れないが、少なくとも梓自身は羞恥を覚えるのだ。
梓とあゆみは互いに視線で語り合い、一歩も譲らない。優季やあやが口を噤んで見守っていると、予期しない方向から沈黙が破られた。
「かみ」
一同の一か所に集められた視線の先には、丸山紗希の姿があった。滅多に声を出すことがない紗希であるから、梓たちは彼女の言葉を聞き逃すことのないよう集中する。
己に集まる視線を一向に気にせず、ぽつりぽつりと紗希は言った。
「かみ、びしゃもんてん、かご、まけない」
単語だけで直ぐには意味が理解出来なかった。十数秒後、逸早く読み解いたのはあゆみである。頭の中で読み砕いた単語を繋ぎ合わせ文へと変えた。
「毘沙門天様の加護があるから、決して負けないってことかな」
合っているのだろう、紗希はあゆみに微笑んでみせた。
あゆみは瞼を閉じる。浮かぶのは、太陽が目を覚ます前にみほに飲まされた水のことだ。あの行為で毘沙門天の加護が宿ったと言う。そうは言うが、あゆみはそれをさして信じているわけではなかった。一種のゲン担ぎのようなものだと思っていた。そも信じていたら、戦うことに反対はしない。
「うん、分かったよ、紗希ちゃん」
けれど、あゆみも紗希に微笑み返した。
加護云々は紗希のように信じていないが、その考えがいまいち分かり難い紗希ですら、戦うことに賛成している。このまま自分一人反対を叫ぶよりは、一蓮托生、気持ちを一つにするべきだと判断したのだ。
「梓ちゃん、私も覚悟を決めたよ。やろう!」
ここであゆみに応えたのは梓ではなかった。操縦手の阪口桂利奈が、くりくりと大きな丸い目を吊り上げ気合の声を張り出す。
「おっしゃあ! やったるぞー!」
轟然たる響きに続いて、その他の者たちも「おー!!」と気合を入れた。
その後しばらく戦車を走らせると、梓が辿り着いたのは市街地だった。見上げるほどに高く戦車をすっぽりと影で覆う巨大な建物が、あちらそちらに立ち並ぶ。舗装された道々は、一度に通れる戦車の数を制限している。敵を迎え撃つのはここを置いて他にはない。
「桂利奈ちゃん、ここで止まって」
梓が桂利奈に指示を出し、適当な路地のところで停車させる。
息を潜めて待っていると、周囲を圧する様な気配を伴った複数のエンジン音が耳に入って来た。追撃部隊がどうやら現れたようである。
今しばし、今しばしと堪えていれば、黒森峰は一輌、二輌と目前を通り過ぎて行った。五輌目が通り過ぎて、六輌目が通り過ぎようとする瞬間、
「撃て!」
梓が大音に叫んだ。
叫びに呼応して、割れ鐘のごとき唸り声をあげながら、砲弾は黒森峰の戦車を撃ち抜いた。撃ち抜かれた戦車はドッと横転し、撃破された証の旗を掲げる。
そのことを確認する前に、桂利奈はすかさず路地から戦車を飛び出させた。これまでと違い、黒森峰の背後をとるような形となる。
「いざ、尋常に勝負! 勝負!」
あやが言えば、桂利奈、あゆみ、優季らも「勝負、勝負」と繰り返す。
黒森峰側は奇襲によって混乱していた。撃破された車輌の乗員を気遣う者、砲塔を後方に向けて反撃に移る者、足並みが乱れていた。
これは黒森峰側としてまったく予想していない展開である。よもや逃げずに立ち向かって来るとは思いもよらない。杏たちが時間稼ぎで残ったことを念頭に置けば、梓たちの行動は考えつくものではなかった。
だが、やられてばかりの黒森峰では勿論ない。
「流石、もう立て直して来た」
梓の言葉通り、黒森峰の混乱は長くは続かなかった。キューポラから身を乗り出す小梅が、矢継ぎ早に指示を下すと、瞬時に足並みを揃えてからの応戦に入ったのである。
後進し砲撃の雨を降らせる黒森峰。その黒森峰の動きを一瞬の内に理解した桂利奈が、梓の指示を待たずに後進状態に入り、巧みな技術で鉛の雨を回避する。
再び、両者の状況は逆転した。
「こっからが腕の見せ所だよ、桂利奈ちゃん。黒森峰、何するものぞ~」
「あいあい。任せて、よっと!」
優季と桂利奈が軽口を叩き合う。
その間にも黒森峰の猛攻は続くが、見た目よりはどこか余裕がある梓たちであった。黒森峰の好きにばかりさせてなるものかと、あやとあゆみの砲撃が黒森峰へと向かう。
飛び交う砲弾に眉一つ動かすこともなく、梓は冷静に黒森峰を見据えていると、小梅と目が合ったかのような感覚があった。はっきりとは見えないが、小梅は笑っている様に見える。釣られて、梓も口角をあげた。
それから、梓が戦車の中へと戻ると、あゆみが揶揄うように言った。
「梓ちゃん、やっぱ止めておけば良かった、とか思ってない?」
にやにやとイヤらしい笑みのあゆみに、梓はあげた口角のまま返した。
「思ってないよ。それどころか、私、今とっても楽しい」
続けて梓の指示が、桂利奈へと飛んだ。
「桂利奈ちゃん、突撃!」
指示を受けて桂利奈の動きが一秒ほど固まる。とても信じられない指示だと思ったからだが、それよりも面白いと思う心が勝った。我に返ってから、素早くギアを前進に入れた。
M3中戦車リーはまっしぐらに突進する。
再び梓がキューポラより上半身を出して映った視界には、小梅が大口を開けている様子が見えた。それを見た梓は、白い歯を外部に晒して満面の笑顔を浮かべた。