早朝。
いつもより早めの朝食を梓と共にとったみほは、二人並んで大洗女子学園の倉庫前へと向かった。辿り着けば、そこには二人以外の戦車道履修生が勢ぞろいしている。
新参者である猫田たちや自動車部を除く履修生たちは先ず、みほと梓が並んで歩いて来たことと、距離の近さを見て、二人の間に新しい関係が構築されたことを把握した。驚きよりも祝福の心が先んじて、それぞれ破顔する。
それから関係の事には一切触れず、いつものように挨拶をした。みほは履修生たちに感謝の意を心の中で示しつつ、これまたいつものように挨拶を返す。
「皆、おはよう。突然ではあるが、一人ずつ私の前に来てこれを飲め」
履修生たちの視線が、みほの両手に集まる。右手にはペットボトルに入った水らしき液体、左手には柄杓があった。何のつもりだろうと履修生たちが思う前に、梓がスッとみほの前に立つ。みほは梓に柄杓を手渡すと、ペットボトルの中身を注いだ。
梓はこれが何なのかを知っていたので、迷うことなく柄杓に注がれた液体を飲み干した。
「これは私が毘沙門天に捧げた神前の水である。皆も、私に祈りを捧げながらこの水を飲み干せ。さすれば、私の中におる毘沙門天が加護を与えるであろう」
みほが言うと、履修生たちは納得したようで頻りに頷き、順々に柄杓を手に取っては飲んだ。最後の一人が飲み終わる頃には、外の明かりも増し、港が近いものとなって来る。
すると、みほは余計なことを言う必要はないとばかりに、履修生たちに三回の鬨の声を上げさせた。履修生たちは、渾身に気をみなぎらせながら戦車へと乗り込む。
港に学園艦が到着した後、試合会場へは、駅の輸送車両を利用した。試合会場となる東富士演習場へと向かう間に、一同は富士山の姿を視界に収める。日本の魂とも言うべきこの山に、特にみほは心を奪われていた。
「美しい。そして雄大だ。どっしりと場に鎮座し、その存在感を見せつけておる。言葉なくとも偉大さが伝わって来るというもの。私もそういう人間でありたいものだ」
富士山に心を奪われている間に、試合会場である東富士演習場に着く。富士山の余韻冷めきらぬままに、みほがⅣ号から出て地上の人となった。後から沙織たちも続く。
暑い。朝の風は涼やかなものである筈なのに、暑かった。観客の作る熱気もさることながら、どうもここに来て己は興奮しているようだ。決勝戦だからと言うより、姉との決着をつける試合であるからだと、みほは自身の心を客観視する。富士山も理由の一つであろう。
「この胸の高鳴りのままでは、姉上の上手な戦術の前に不覚を取ることは間違いない。しばし心を落ち着けねばならんだろう」
そう言って手にしたのは、得意の琵琶であった。みほは興奮を抑える時にこれを弾くのである。
試合前の最後の準備でいそいそとしている履修生たちから、少し離れたところに腰を下ろし、琵琶の弾奏を開始した。ベン~、ベベベ~ン、と緩やかに空気が震える。
突然の音色に履修生たちは首を傾げ手を止めるも、それがみほの琵琶の音だと知るや直ぐに作業の方に戻った。それにしても、相も変わらず心静まる音色であると、落ち着きながら作業を続ける。みほの琵琶は、みほ以外にも効果があるのだ。
そんなことなど露知らず、自身の琵琶の音を背景に、先ほど脳裏に焼き付けた富士山を鮮明に思い浮かべるみほ。一人、別の世界に入っていると、華より取次があって、一旦弾奏を止めた。
「お客様が、みほさんに面会をご希望です」
通せ、とだけみほが言った。
華は頷いてみほの前より立ち去る。戻って来た時には、二人の人物を導いて来ていた。役目は終わりだと華は再び去りゆき、二人の客は、みほの正面に腰を下ろす。
「お二方、よく来られました。おもてなしの類は一切出来ませぬが、どうぞ、ゆっくりして下さい。ダージリンさん、ノンナさん」
みほは目に見えて機嫌をよくした。自身が認めた数少ない友の一人と、自身を慕う女。奇妙な組み合わせの二人ではあるが、ともあれ歓迎に値すべき二人だった。
二人の客は、それぞれ流の挨拶をしてから、用件を話す。
「こうして貴女を訪ねたのは、深い理由があるわけではありませんわ。ただ、一言二言話がしたかった、というだけのこと」
「本来でしたら、カチューシャを含め何人もいたのですが、あまりぞろぞろと来てはみほさんのご迷惑になるかと思い、代表して二人だけ」
「ふふ……代表を決める時、凄かったですわね。思い出すと笑いが止まりませんわ」
「あ、あれは忘れて下さい!」
揶揄いの笑みを浮かべるダージリンに、ノンナが声を荒げる。代表になりたくてちょっとばかり必死だっただけなのに、どうしてこんなに笑われなければいけないのだろうか。そう開き直れるほど、ノンナは器用ではなかった。わたわたと顔の前で両手を振っている。
暫く二人の寸劇を眺めてから、切りの良いところでみほは口を開いた。
「それで、お話とは一体?」
ノンナが顔を青くした。下らないことを私の前でするなとみほは怒っているのか。狼狽しながらみほの方へ向き直して、ほっと胸を撫で下ろす。至って穏やかな調子で、みほに怒っているような節はなかったからだ。
一方でダージリンは、口元を手で隠して肩を震わせていた。ノンナとは昨日今日知り合ったような仲ではない。それなりに交流があったが、その月日の中で、彼女がこんなに年頃の少女のような反応を示すことはなかったのだ。顔を赤くしたり青くしたり、みほの挙動に反応したりと、見ていて飽きない。ついつい笑いがこぼれてしまう。そうして笑いながら、視線をみほの膝に横たわる琵琶に落とした。
「決勝戦の前だと言うのに、琵琶など弾いている余裕がありますの? 私の時のような練習試合とはわけが違いますのよ?」
「ハハ、余裕があるから弾いておるのではありません。その逆です。心に余裕を持たせるためにこうして弾いて、気を落ち着かせております」
理解したのか、ダージリンはそれ以上追及してくることはなかった。
次いで、本題に入る。ダージリンとノンナの二人がみほの下へとやって来たのは、一言激励の言葉を掛けるためであった。聖グロリアーナ、サンダース、アンツィオ、プラウダ、これまで大洗が戦って来た高校の幹部クラスの面子からの一言である。
「聖グロリアーナからは私の言葉を送ります。友よ、貴女の勝利を肴に紅茶を頂きますわ」
サンダースからはケイとアリサの一言。これをノンナが伝言する。
「ヘイ、ドラゴン! タイガーとの試合、ポップコーン片手に楽しみにしてるよ。それから、この私を破った以上、下手な策を披露することは許されないから、だそうです」
みほは頷き、先を促す。
「アンツィオのアンチョビからは、勝って宴会をしよう、とのことですわ。費用はあちら持ちだそうです」
「そして同志カチューシャから、万が一、貴女が西住まほに不覚を取ったなら、潔く生き恥を晒さず腹を切りなさい、そう伝えるようにと。後、私から……応援してます」
ノンナが言い終わると、
「皆は何となしに申しておるのでしょうが、私にとっては、どれも背中を支える様な頼もしき言葉ばかりです」
と、答えた。続けて、
「此度の試合、私と姉上との公式の試合という事で、日本戦車道の歴史に燦然と輝くものとなる事は明白。見ていて下さい。私は神々も手を叩いて称賛する様な戦ぶりを、今日は行うつもりです」
こうも答えた。
これに、ダージリンとノンナは期待に胸を膨らませた。みほの戦いぶりは舌を巻くものである。教科書通りの戦い方から、まるでど素人のような戦い方、神業とでも言いたくなるような戦い方、それらの戦い方で彼女は無敗の道を突き進んで来た。
そんなみほが、今日はどんな戦い方を見せてくれるのか。ましてや、相手はあの西住まほである。尋常なものになるとは思われなかった。
とにもかくにも、これでダージリンとノンナの用件は済んだ。二人は立ち上がり席を外そうとすると、それをみほが止めた。
「お待ちください。折角こうして私の下に来て下さったのです。おもてなしの類は何も出来ぬと申しましたが、しかしまことに何もしないのは名折れというもの。どうか一曲、聴いて頂けませんか? 特にダージリンさんには、もう一度聴かせると約束があります」
そう言われては断る理由はない。ダージリンとノンナの二人は、座り直し、みほの弾く琵琶の音色に耳を傾けた。心に染み渡り、ありとあらゆる一切を洗い流すかのような清らかな音色は、ダージリンをうっとりと惚れさせ、ノンナに至っては瞳に涙を浮かべる。こうして感動を胸に、二人は帰って行った。
二人が帰った後も、みほは琵琶を弾き続けた。心を落ち着かせる音色を出していた琵琶は、弾き続けるうちに次第に厳かなものとなっていく。
「オン・ベイシラマナヤ・ソワカ」
毘沙門天よ、我に勝利を。曲の最後に真言を唱えると、同時に試合開始の時刻がやって来た。