カチューシャは驚きを隠せなかった。不意討ちではない。予想していた通りの展開である。廃教会に追いつめて包囲している三輌の戦車を、みほが助けに来ることは分かっていた。彼女はこちらの立てた作戦に嵌ったのである。
けれども、その上で仰天していた。
作戦を立てたのはノンナだ。最初に二人で考えた誘き出し作戦は、半分成功半分失敗に終わった。大洗勢を廃村に誘き寄せるのには成功したのだが、誘き出せたのは三輌だけで、その中にみほはいなかった。血気盛んな三輌だけが釣られて、みほが駆る戦車を含めた三輌は釣られなかったようである。
それでも半分は釣られたので良しだと、カチューシャは釣った三輌を撃破するよう指示を出そうとした。それを待てとノンナが止めたのである。
『彼女たちを利用して、みほさんを誘き寄せましょう。私に良い考えがあります。私が知っているみほさんならば、必ず来る筈です』
「どういうこと?」
『あの三輌を教会の方に誘導して下さい。彼女たちをそこに逃げ込ませて、完全に包囲。後は適当に倒さない程度の攻撃をし続けて下さい。全車輌ではなく、ニ、三輌だけで。そうすれば、みほさんのことです。救援にやって来るでしょうから、攻撃に加わらなかった残りの車輌でそこを狙いましょう』
自信に満ちた口調だった。ノンナは自分の言った言葉に一切の疑問は抱いていない様であった。
カチューシャとしては懐疑的にならざるを得なかったが、最も信頼するノンナが確信を持っていることに加え、殊更みほに詳しい彼女が言うならばと、作戦を実行に移すことにしたのだ。そうしてみほはやって来た。
「まさかッ!? 本当に!?」
教会目掛けて真一文字に疾駆して来る三輌の戦車。先頭を駆けるⅣ号戦車のキューポラから上半身を出すのは、確かにみほである。白練の絹で頭と顔を行人包みにしているのが、うっすらと分かった。
『カチューシャ』
すかさずノンナからの通信。指示を出せ。突進して来る敵へ向けて砲撃するよう指示を出せ。ノンナはそう言っている。
言われるまでもない。こんな絶好の機会を見逃せるものか。どれだけ自分に自信を持っているのか知らないが、わざわざ討たれに来た様なものだ。半分の戦力。捨てるのは痛いが、自分ならば捨てている。その方が利口な考えと言うもの。やはりお前は無能だ、西住みほ。
理解が及ばないみほの行動を心の中で嘲笑いながら、カチューシャは砲撃を始めるよう全体に申しつけようとした。
その時、偶然か必然か、カチューシャの眼とみほの眼がまともに合わさる。肉眼ではっきりとしない程度の距離はあった。だが、眼と眼が合ったのだ。カチューシャの身体が凍り付いたように固まった。
「あっ、ああ……」
異様に鋭い光を放つみほの眼に、カチューシャは気押されていた。恐怖していたと言い換えてもいい。何だあれは。何という恐ろしい眼をしているんだ。まるで人間とは思えない。理解に及ばないのは行動だけではなかった。しかもこれは笑えない。
夢か幻か、カチューシャには確と見えた。七宝荘厳の甲冑に身を包んで、憤怒の表情を浮かべるその姿。自分を視線で射抜いて来る姿が見えるのだ。これはまさか――
「こ、殺しなさい!」
思わず、カチューシャはそう叫びそうになった。自分の意思とは関係なく、反射的に。人が恐怖を覚えた時の自然過ぎる反応である。カチューシャはみほが怖かった。
どうしよう。どうすればいい。カチューシャの頭の中は混乱している。とても冷静に指示を出せる状態ではなかった。
『どうしたんです、カチューシャ? 早く』
通信越しのノンナの声。これがカチューシャにとって救いとなった。ノンナの声で気が落ち着いて来た。親友の声は安心する。
それでも完全ではなく、さらに安心感を得ようと隣に視線を移した。少し離れた位置にノンナの姿が見えた。彼女は心なしか頬を赤らめているようだ。一瞬後、カチューシャの視線に気付いたノンナが振り向く。
『カチューシャ、このままではみほさんが……早く指示を出して下さい』
ノンナは言うが、この通信、カチューシャの耳には入ってなかった。全て入っていないわけではない。実際は『みほさん』という言葉だけを聞き取っていた。
(な、何で……?)
どうしてノンナは嬉しそうなんだ。表情からも声からも伝わって来る。何がそんなに嬉しいのか。いや、考えるまでもない。憧れている西住みほが、推察通りに現れたから嬉しいのだろう。憧れの西住みほと現実の西住みほが、見事に合致したことが堪らなく嬉しいのだ。完全に見惚れている。そうだ。これこそが私の憧れる西住みほだと言わんばかり。
安心感はもう十分だった。頭の中は冷静を取り戻している。すると、むくむく唐突に一つの思念が浮上して来た。
(ノンナは、私のノンナなのに……!)
その思念は小さな子供が母親を、思春期の少女がたった一人の親友を、恋を知る女が恋人を取られたような、そんな思念であった。カチューシャは、みほにノンナを取られたような気分になっていたのだ。
(そうか。だから私は西住みほを)
ここに来て疑惑の鍵が一つ解けた。まさに忘れていた頃である。意味も分からず頑なにみほを拒んでいた理由が判明したのだ。
妬みである。大切な親友に憧れを抱かれるみほを妬み、それが転じて全ての否定につながったのだ。
(西住みほから取り戻さなくちゃ! ノンナは私のノンナなんだから!)
だから、カチューシャがこのような決意を抱いてもおかしなことではない。取られたものは取り返す。当たり前のことである。
ではどうやって取り返す。簡単なことだ。憧れの対象を自分に移せばいい。自分の方が優れている。貴女が憧れるのに相応しい人物である。これを証明すれば良いのだ。この戦いで、誰が見ても文句なしに勝利して。
奮い立つカチューシャ。いつしかみほへの恐怖は消えていた。
『何故、何も言わないのですか! カチューシャ!』
通信越しにではなく、肉声が聞こえてくるような大声でノンナが言った。先ほどから反応がないカチューシャへの訝しみと、間近に迫りつつある大洗勢への焦りが読み取れる。
対してカチューシャは、抑えたような声でノンナの通信を返した。
「待機。全車待機よ。あの猪のように猛進して来る奴らには何もしないで良いわ。撃って来るのならばやり返しなさい。そうでないのなら放っておきなさい」
この思いもかけぬカチューシャの命令にプラウダ勢は呆然となった。特にノンナは、開いた口が塞がらないと、間の抜けた表情を晒している。
ここで迫り来る大洗勢へ集中砲火を加え撃破するのは容易いこと。しかしそれでは意味がない。カチューシャにとって、今回の戦いはただ勝てば良いというわけではなくなったのだ。自分がみほより優れていると、ノンナに証明した上で勝利しなくてはならない。勝つだけでなく、ノンナを取り戻さなくてはならないのだ。
そのためにも、当のノンナに言っておくことがある。
「ノンナ。今日は、貴女の助言はもういらないわ。私の力で、西住みほに勝つ。そうじゃないと意味がないから」
ノンナの力を借りずに、自分が立てた作戦で、自分の指揮の下でみほを倒す。それが、みほを超えた事の証明となるのだ。
カチューシャの言葉を聞いて、意味の全容をノンナは悟ることが出来ない。ただ自分に愛想を尽かした末の言葉でないことは痛いほど伝わって来る。
『何を考えているのです?』
などとは訊かない。訊くのは無粋な気がしたのだ。一言、
『分かりました』
とだけ返事をした。
カチューシャとノンナがこうしたやり取りをしている間に、みほ率いる三輌の戦車が眼前という位置にまで距離を縮めて来た。肉眼ではっきりと見えるみほの瞳は、やはり爛々と眩いまでの鋭い輝きを放っている。それを見てもカチューシャに怯えはない。
眼前にまで迫って来たみほは、何もせずにそのまま駆け抜けて行った。カチューシャも何もせずに見送る。見送る視線は、みほの背中に書かれた毘の一字に注がれていた。
「毘……毘沙門天、か」
呟くカチューシャ。この時点で、カチューシャは対等で明確な敵としてみほを認識したのであった。