やはり自己流では限度がある。
戦車道を始めてまだ半年も経っていないながらに、梓はその考えに思い至った。
最初は興味本位で始めたこの武道。いつも時間を共にしている仲間たちが、大洗で戦車道が復活するということでやってみたいと言い出したのに乗っかったのだ。特別心に訴えかえるものがあったわけでも、やるべきだという運命論染みた使命感を抱いたわけでもない。新鮮なことだ、体験してみるのも悪くない。このぐらいの気持ちである。
ただやるからには何事も全力なのが梓の持ち味だ。練習に全身全霊を注ぎ、自ら知識を収集し自己鍛錬に励む日々。一刻一刻と自分が成長しているのを実感のものとしていたが、どうも最近壁に当たってしまったのである。まるで四方に高くそびえ立つ岩を、手がかり足がかり、ついでに命綱もなしに登ろうとして、どうすれば上手く登れるのか考え込むような心境。つまりはお手上げだ。
現在、大洗の戦車道チームは二回戦に向けての準備を進めている。未だ浅い経験を補うために戦車を乗り回し基礎を復習するのは勿論、話し合いで知識面を深めるということもやっていた。とは言うものの、話し合いはやっぱりお互いに素人なため、有用ではあるがどうにもというところである。
故に、戦車道を良く知る人物に話を聞きたいと梓は考えた。だいたいにして戦車道とは何なのであろうか。戦車道において最も大事なこととは。この原点的な部分を享受賜りたい。そして、梓の身近な人物で戦車道を良く知ると言えば、隊長のみほに他ならない。
日本の戦車道界にその人ありと謳われる若き天才。そのような人物が傍にいるのだから、教えを乞わなくては損と言うものだ。
こういった経緯から梓はみほの下へと足を運んだ。
一日の練習終わり、太陽が沈み始め、空が夕焼けの支配下に治まっている時間帯。
畏まり気味に自分の下を訪ねて来た梓を、みほは諸手を挙げて歓迎した。どのような用件なのかを尋ねると、梓は相談ごとがあると言った。
「取りあえず私の家に来て、そこで話をしよう」
一言二言では済まない長い話になりそうだ。
みほの自宅に場所を移して、先ずは梓の胸の内をじっくりと解き明かしていく。
何を思い悩んでいるのか。何が分からないのか。本当にみほから聞きたい話は何なのか。梓の望みとは。
当初は自宅に招かれて緊張し落ち着かない様子の梓であったが、話していく内にその緊張も途切れたようであった。
一通り話し終えると、梓は渇いた口をみほの用意した茶で潤した。これだけの会話で少し心が楽になったような気がする。もう壁を乗り越える方法が解けそうな心持であった。
勢いのままに梓は質問した。
「戦車道では何を大切にするべきなんですか?」
難しいことを言うものだ。
人によっては勝利だと言い、楽しむことだと言い、はたまた礼であると言う。武道なのだから敵に打ち勝つことではなく、己に打ち勝つという克己が大切だと言う人もいる。千差万別の考え方があるだろうが、梓は誰かからの受け売りを聞きたいわけではないだろう。みほだって他人の考えをぺらぺらと喋りたいわけではない。みほがどう思っているのかをみほ自身の口から聞きたい。その思いを感じ取ったみほは、質問にこう答えを出した。
「義」
「義、ですか?」
みほは言う。人が生きていく中で最も大切なのは義の精神である。義とは人としての信義を重んじ、公のために自分は何が出来るのかを追求する精神。私利私欲を抑えた理性の極致であると。
「私利私欲を満たすばかりの生き方など決して許されない。それは獣の生き方と変わらない」
なので法が存在する。人間という獣を制御する鎖として。しかし義の精神を培っていれば、法などというものは大体にして必要ないのだ。義とは正しき心。人間として正しい行いを守ること。正しくない者がいるから法が必要なのであって、皆が正しく己を律して生きていけるなら無くても良いのだ。
世の中は厳しいものである。普通に生きていれば義の精神など培う土壌はなく、さらには邪魔だと言わんばかりに欲が横行している。
仏教の教えには欲界という世界が存在し、人間の住む世界もその欲界に含まれているのだと言う。これを聞いても、だろうなと思わず口にするだろう。それ程までに人の世は欲にまみれているのだ。
だから戦車道で学ぶ。戦車道という武道で心を鍛え正しさを身につけ、このような世界でも正々堂々と生きれる術を見つける。戦車道だけでなく武道とは、義の精神を養うものなのだ。
「今の世では生き難いやり方なのかもしれない。そうであろうとも義を掲げて人は生きるべきなんだよ」
みほは熱を込めながら梓に説いた。戦車道をやっているだけで義の精神が身に付くなど、そんな幻想は抱いていない。黒森峰にいた頃を思い浮かべれば、義とは真逆の世界だった。だけどみほは自信を持って説く。戦車道とは、武道とはこういうものなのだと。
そうやって梓が義を知ってくれれば、義の精神に目覚めてくれれば嬉しい。欲の世界で一人でも義の精神を知る人がいれば、みほは頼もしくすらある。
「義の精神。人が正しく生きるための心」
その梓は、みほの話に聞き入っていた。心気を澄まして、みほの声だけを頭に取り入れる。義の一字は梓の胸の底にまで澄とおり、心を高揚とさせる。魂が震えるような感じがあり、自分が一番求めていたものを知ったような気がした。これだ、と思った。
「何を馬鹿なことを、と思う?」
「いえ、西住隊長。私、感動しました。これなんですね、私が今求めていたものは」
ぱあっと梓の顔に、本日の役目を終えたばかりの太陽が出現した。眩いばかりに輝く良い笑顔であった。
みほは愉快な気持ちになる。ここに義の心を理解し納得してくれた人が現れた。実の母にも姉にも、理解はされても納得はされず、潔くはあるが、まるで純粋無垢に青臭い子供みたいな考えだと言われた自分の生き方を、梓という少女は分かってくれるのだ。
途端に、みほは梓のことが愛おしくなった。完全な理解者を前にすれば、もっともっと自分の考えを伝えたいと思うのは人の常である。みほにしてみれば生まれて初めてのこと。みほが梓に一際大きく深い感情を抱くのも必然であった。
梓とて同じ気持ちだ。もっともっと知りたい。みほの考えから何もかも、みほという一人の人間の全部を知りたくなった。
二人はお互いに顔を見合わせて笑った。自然と茶の入った湯呑を片手に持ち上げて、ぶつけ合う。そうしてグイッとしずくも残さず飲み干した。茶がいつもより美味しく感じるのは、きっと気のせいではなかった。
「西住隊長、いや、みほさん。もう少し話を聞かせてもらえませんか?」
「梓さん……梓。良いぞ。少しとは申さず、存分に気の済むまで話してやろう」
そう言って、二人はまた笑いあった。
夜の帳は既に下りているが、みほと梓は一向に気にすることなく言葉を交わす。
深夜となり、どこも消灯する時間となっていても、この部屋の明かりはいつまでも灯されていたのであった。
梓はこの日以降も、時間が許す限りみほに教えを乞うことになる。みほも自分の持ちうる全てを、戦車道以外のことも含めて梓に伝え、薫陶を受けた梓はメキメキと成長し戦車道界に頭角を現していくことになる。
彼女たち二人の間には、今までとは違う新しい信頼関係が誕生していたのであった。