西住しほは、ある日こんな夢を見た。
そこは記憶にない見知らぬ森の中、夜なのか辺りは暗闇に支配された世界となっている。しとしと、ぽつりぽつりと天からの雫がしほの身体に一滴、二滴。冷たい夜の風が頬をさらりと撫でていく。
耳を澄ませば、微かに風に乗って聴こえてくる音色。べぇん、べぇんと小川のせせらぎのような柔らかく心地の良い音色だ。
(一体誰が弾いているのかしら?)
是非とも奏者の顔が見てみたい。多分、この音色は琵琶の音色だ。過去に何回か聴いたことがあるけれど、これほどのモノは初めてである。
きっと、この音色同様に心根が素晴らしい人が弾いているに違いない。楽器の音色には、奏でる人間の心根が宿ると言われている。であるから、これだけ美しい音色を奏でられる人の心もまた美しい筈なのだ。
しほはまるで、この音色の奏で主に会うことが使命であるかのように一心不乱に歩いた。髪や顔が濡れるのを一向に気にせずに、しほは先を急ぐ。
じょじょに音色が近付いている。もう少しだ。
(音が近いし、もう直ぐね。早く会って話がしたい。どんな方なのかしら。音を聞く限りでは、清らかな川のように穏やかで、だけど時には嵐のように苛烈で、そして自分の意思をしっかりと持つ、そんな方)
音の奏で主に早く会いたいと、はやる心に応えながら地を踏み締めていく。
すると、琵琶の音色が突然途切れた。明らかに曲は終わっていないのに。もしかしたら自分が近づいて来たからなのであろうか。残念だと、しほはその場に立ち止まって長い息をついた。。
その瞬間、天が轟音と一緒に光輝いた。
雷だ。
あまりの轟音に、しほは咄嗟の行動として耳を塞ぐ。日常的に戦車に関わる身であり、轟音、爆音の類は慣れているとはいえ、無防備な状態で不意を衝かれるとたまらない。
しほはこの時、巨大な気配を感じ取った。ピリピリと肌で感じ取れる気配に身震いを覚える。気配の正体は近くである。
ゆっくりと顔を上げて天を見た。
それはただただ大きくて、しほは圧倒されていた。
天を雄大に泳いでいるのは、間違いなく龍である。頭は駱駝、目は兎、爪は鷲、角は鹿と言ったように身体の九つの部位が他の動物と似ているとされる空想上にしか存在しない怪物であった。
龍の瞳がしほを捉える。
恐怖はあった。手を握ればべったりと汗が出ている。それから逃げようともした。が、どうにも足の自由がきかない。逃げれないのならば仕方がない。もとより、逃げの一手は自分に相応しくない。覚悟を決める。
自分が生半な人間でないことは自分自身がよく分かっている。気押されるばかりでは駄目だ、と震える身体に喝を入れて、龍を睨みつけた。
美しい瞳だった。よく見ればよく見るほどに、清らかで澄んだ瞳の美しさが際立つ。しほはすっかり恐怖を忘れて、龍の瞳に見入った。
どれほどの時が経っただろうか。
龍が一鳴きすると、その身体を発光させながら球体に変わった。まるでその場に太陽が出現したかのようで、夜が生み出す暗闇は一気に吹き飛ばされる。
続いて光の球体がしほの下に降下してきた。目を細めながらしほは様子をじっと眺める。
球体はさらに形状を変化させた。
しほの目には一瞬だけ、その姿が映る。
甲冑を着込んだ騎馬武者。太刀を抜き放ち構えて、頭に純白の頭巾を巻いていた。この姿がほんの一瞬だけ映ると、直ぐに別の変化を見せた。
龍であり球体であり騎馬武者だったものが、しほの目の前に降り立つ。
そこには若僧が立っていた。墨染された法衣を身に纏っている。頭には竹の網代で作られた、所謂網代笠を被っており、手には杖である。見事な僧形だが、両眼だけは血走って爛々と輝きを放ち、これだけは僧として異質であった。
ただ血走った目の奥底には、やはり龍の時と変わらない清らかさが見てとれた。
彼は何かをしほに伝えたがっていた。
だからしほは尋ねる。何か用があるのか、と。
若僧はこう答えた。
「ちと、あなたの胎をお借りしたい」
続けて言った。
「我は不識庵謙信である」
しほは、はっとして息を呑んだ。
どういう意味なのか、どうしてなのか分からない。この若僧があの上杉謙信というのは事実なのか。事実ならば何故しほの夢の中に現れたのか。そして、どうして自分が選ばれたのか。別に末裔だというわけでもないし、接点など欠片もない。考えてみたところで何も分からなかった。ただこの若僧の頼みに対する正しい返事は、これしかないのだと思った。
だから、しほは迷わず首を縦に振った。
ここでしほは目を覚ました。
不思議な夢であった。内容は夢らしく現実味のない突拍子なことであったのに、どうにもしほはあれをただの夢だと認識できないでいる。本当に不思議な夢であった。
ふと、上半身を起こして自分の腹部に視線を遣る。夢の出来事を鑑みれば、この中には、
(謙信公が私の子供として世に生を受ける。ふふ、良い夢を見たわね。まほ、貴女の弟か妹は、あの上杉謙信よ。今から、楽しみだわ)
しほは腹部を撫でながら母の顔で笑った。
これより九か月ほど経ってから、しほは一人の女の子を出産する。しほにとって二人目の子供で、二人目の女の子なその子供は、みほと名付けられたのであった。