発掘倉庫   作:ケツアゴ

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狂人達の恋の唄 ①

 とある人里離れた山中に其の池はある。澄み切った水面はまるで磨きぬかれた鏡の様で、満月の晩にその池を眺めれば誰しもその美しい光景に息を飲むだろう。その池に近寄る影が一つ。茶色い毛並みの犬で、山中に捨てられたのか、それとも飼い主とはぐれて迷い込んだのかは分からないが、その首には先が切れたリード付きの首輪が巻かれていた。

 

 犬は池に近寄るとそっと口元を水面に近づけ、喉が余程乾いていたのかぺチャぺチャと音を立てながら水を飲んでいた。そして満足したのか頭を上げたその時、カサリという音が鳴り、犬は反応して耳を動かして周囲を伺う。だが、周囲に何者の気配もなく、犬の優れた嗅覚も他の生き物の匂いを感じ取れなかった。

 

 喉を潤した犬は池から離れ茂みの中に入って行き、

 

「キャウン!」

 

 最後に悲鳴だけ上げて息絶えた。

 

 クチャクチャと下品な食べ方をする音が響き、周囲に血が飛び散る。灯りなど有るはずもない場所が怪しく光り、何かが蠢く音がした。

 

『ヒヒ、ヒヒヒヒヒ……』

 

『美味い、美味いぞぉ』

 

『やはり肉が一番じゃ』

 

 其の灯りは茂みから飛び上がり、正体を晒す。現れたのは人間の頭部。個体差はあれど、どれも肉が腐り落ちて骨が露出し、中には左の目玉が辛うじてぶら下がっているだけのモノも居る。数は計三つ。光の正体は鬼火と呼ばれる火で、其れに包まれた頭部達は口元を血で濡らしながら飛び交っていた。

 

 空想上の存在と思われていた化物達は犬の死体を喰らい続け、最後には骨をバリバリと噛み砕いて食べ尽くす。頭部だけの存在が食べた物が何処に行くのかという疑問はあるが、存在自体が異質故に其れは無視して良いだろう。只分かるのは化け物である、それだけだ。

 

『しかし、暫く人の肉を喰ろうてないな』

 

『儂は女が良い。生きたまま食った時に聞こえる悲鳴が堪らんわい』

 

『最近は異国の化物が入り込み、本当に住みづらくなったわい』

 

 三体の化物は口々に人の肉の旨さを語り、最後には子供の肉が一番だという結論に達した。そんな時、一体の目玉がギョロリと動いて少し離れた場所を向く。人の目には決して捉えられない距離だが人外の目には十分な距離であり、その視線の先には人間の子供の姿があった。年の頃は五歳ほどで大人しそうな顔付きの黒髪の少年。それを見た三体は口角を釣り上げ、一気に飛んでいく。

 

『ああ、美味そうじゃ美味そうじゃ』

 

『こんな時間にこんな場所に来るとは悪い子じゃ。仕置に喰ろうてやらねばな』

 

『煮ても焼いても美味かろう』

 

 化け物達は少年を囲むように飛び交いながら嗤う。待望の獲物を見付けた事に歓喜し、自らが絶対の捕食者だと信じて疑わない。だからこの様な時間にこの様な場所に幼子が居る事など大して疑問に思わず、何かあってもどうにでもなると思っていた。

 

 

「いただきます」

 

 あどけない笑顔と共に少年が口にした言葉の意味を理解しようとした化け物達の視界が二つに割る。その言葉の意味も、少年が今手にしているものを何処から取り出したのか、それを何時抜いたのか、そして何時自分達が斬られたのかも理解出来ないまま此の世から消滅する。

 

 だが、最後に化け物達は理解した。自分達は食べる側ではなく、《食べられる側だった》、という事を……。

 

「うげっ、不味っ!?」

 

 少年は化け物共など最初から存在しなかったかの様な表情で舌を出しながら顔を顰めると腕時計に視線を向ける。時刻は間もなく十二時になる。この時になって彼の表情に焦りが生まれた。

 

「早く帰らないと怒られる! 急げ急げー」

 

 荒れ果てた獣道を難なく疾走する少年は崖の直ぐ側で立ち止まる。遠目に僅かに見える灯りに目を向けた少年は躊躇する事無く飛び降りた。ほぼ垂直の崖の僅かに出っ張った岩から岩へと憶することなく飛び移って下って行き、数分も掛からずに崖下まで辿りついた彼は灯りがあった方向まで再び走り出す。

 

 

 そして時刻は十一時五十九分になったばかりの頃、少年は大きな屋敷の前に辿りついた。大名屋敷と呼ぶに相応しい日本家屋。広大な面積を持つその敷地内に躊躇なく入っていく少年だが、門を潜った所で足を止めて振り返る。門のまえに居るべき誰かを探すように周囲を見回すも誰の気配もなく、首を傾げながら其の先に進んだ。

 

 

 

「あら、居らへんと思ったらお仕事やってんやなぁ」

 

「……え?」 

 

 その先に広がっていたのは正しく地獄絵図。老若男女問わず尽く屍を晒した屍山血河だ。そんな中、ただひとりだけ無事な者が居た。少年の母親は頭を半分潰され、父親は上半身と下半身が分かれている。生まれたばかりの可愛がっていた妹は首を後ろを向くまで捻られていて、祖父母は二人纏めて剣で串刺しにされている。周囲の死体も悍ましい殺され方をされている中、ただ一人だけ無事な彼女は微笑みながら少年の方を向いた。

 

 全面を殆ど曝け出した服装に背負った巨大な瓢箪。左手の大盃には並々と酒が注がれており、それをクイッとから向けた彼女は喉を鳴らしながら一気に飲み干す。やや発育しきっていない体付きだがその美貌は確かであり、このまま成長すれば絶世の美女になるだろう。だが、その姿を見た時、きっと多くの物が注目するであろう部分がある。彼女の頭からは角が、鬼の象徴が生えていた。

 

「……大婆様? 一体、何が……?」

 

「ウチがこの光景を作り上げた理由? 気紛れやで。昨日ふと思うてなぁ。可愛い可愛いアンタラを皆殺しにしとぅなったんよ。じゃあ、龍洞ちゃんとも今日でサイナラ……ん?」

 

 鬼は龍洞に近付いて行き、恐怖からか震えて動けない彼目掛けて祖父母から引き抜いた剣を振り下ろそうとして手を止める。彼の腕に巻かれた腕時計が十二時を告げていた。

 

「そういえば、今日が誕生日やったなぁ。一人だけ居らへんかったんも何かの縁やろうし、龍洞ちゃんは可愛いから殺さんとってあげる」

 

 クスクスと笑いながら鬼は剣を地面に突き刺すと龍洞の頭を優しく撫で、そう身長差が無いにも関わらず、その細腕で軽々と抱き上げた。

 

「もう遅いし、今日はウチの屋敷に来ぃ。久しぶりに子守唄でも歌うたるわ」

 

 彼女の足元から影が立ち上り、龍洞ごと其の体を包み、まるで地中に沈むかのように消えて行った……。

 

 

 

 

 

 それから数年後、高校生になった龍洞は遠く離れた場所にある街の、周囲の近代的な家屋とは全く異質な日本家屋である自宅に帰宅した。表札に書かれているのは『仙酔龍洞(せんすい りゅうどう)』という彼の名前だけ。事実、家の中には人の姿はない。

 

 

「今帰りましたよ、琴湖(ことこ)

 

 家に入って直ぐの部屋に其の犬は居た。鋭く尖った牙に針金の様な灰色の毛。目付きは鋭く、見るからに獰猛そうな其の犬は畳の上で寝転がり、龍洞の方を一瞬だけ見ると直ぐに目を閉じる。龍洞はその姿に苦笑すると鞄を部屋に放り込み、別の部屋へと進んだ。

 

 その部屋は家屋からは想像も付かない構造をしていた。温室と呼ぶべき底に存在するのは無数のゲージや虫かご。中では虫や爬虫類が蠢いており、それらを一瞥しながら進んだ先には一番大きなゲージがあった。中に居るのは立派な白蛇。まるで高い知能があるかの様に龍洞の方を向いている白蛇は喜んでいるかの様に見える。

 

 そして龍洞はゲージの蓋を開けると躊躇なく右腕を差し入れ、人差し指を向けた。すると怪我もないのに指先から真っ赤な血が滴り落ち、待ちかねていたかの様に口を開けた白蛇の口の中へと吸い込まれていった。白蛇はそのまま差し込まれた腕に巻きつくかのようにして登って行き、彼の肩から背後へと飛び降りる。

 

 

 

 

 

「ただ今帰りましたよ、清姫」

 

「お帰りをお待ちしておりました、旦那様」

 

 龍洞が振り返った先に居たのは白蛇ではなく、三つ指をついてお辞儀をしながら笑顔を向けてくる少女。金の瞳に水色の髪をした彼女の頭からは角が生えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……毎回言っていますが、先に服を着てください」

 

「もぅ。妻である私が貴方様に肌を晒す事の何が問題だというのですか! 恥ずかしがる必要などないというのに……」

 

 龍洞は目を逸らしながら、一糸纏わぬ姿の彼女にそっと着物を差し出した。 これはまだ龍洞が小学生だった頃、何処かで道草を食っていたのか、何時もより遅い時間帯に下校路を走る彼の服には少々の汚れがあった。息を切らしながら長い階段を駆け上がった先にあるのは寂れた神社。長らく参拝客が訪れていない其処は荒れ果てており、雑草が生い茂り石畳は苔むしている程だ。

 

 突如カァカァとカラスの鳴き声が響き、数匹のカラスが所々欠けた鳥居の上から龍洞を見詰める。何処か怒っている様に聞こえるのは近くに巣があって彼を警戒しているのか、其れ共別の理由があるのか、其れは何も知らない者には分からない。

 

 龍洞はカラス達を見上げ、其の儘鳥居を潜る。その時一陣の風が吹いてカラス達は飛び去り、神社には人っ子一人居なくなった……。

 

「ただいまー」

 

 龍洞の視界に広がるのは先程まで居た場所とは全く異質な世界。まだ逢魔ヶ刻前だったというのに既に天には満月が昇り、サラサラという和流の音に混じって遠くから祭囃子が聞こえて来る。其の音が聞こえてくるのは川の上の小島に建てられた屋敷。そして屋敷に通じる赤い手摺の橋の前には異形の存在がいた。

 

 烈火の様に赤い皮膚に逞しい巨体。針金のような体毛を生やした腕は人の胴程もあり、自分の身長と同等の長さを持つ金棒を持っている。服装は虎皮の腰巻一枚であり、その頭に生えるのは日本の角。それは正しく人が赤鬼と聞いて先ず思い浮かべる姿だった。

 

 赤鬼は龍洞の姿を血走った眼で捉え、刃のような牙がびっしり生えた口を開いた。

 

「今日は遅かったでねぇか、坊ちゃん。あまり寄り道してると姐さんに叱られっぞ」

 

「う、うん。明日からは気を付けるよっ!」

 

 龍洞は其の恐ろしい異形にも、周囲の光景にも臆する事なく橋を渡っていく。其れもその筈。常人にとって超常なこの光景は彼にとって日常であり、空想の存在である妖怪は彼にとって現実の存在に過ぎないのだ。

 

 

 

「坊ちゃん。汚れた服は直ぐに脱いで下さい! 体も汚れてますが、お風呂に入りますか?」

 

「怪我はないですか、坊ちゃん?」

 

「分かった、分かった! 先に部屋に戻るよ!」

 

 屋敷に入った彼を出迎えたのは全身に目玉がある鬼や着物を着た骸骨。その姿も見慣れた彼には驚く物ではなく、ランドセルを大切そうに抱えながら廊下を走る。広い屋敷だけあって目当ての部屋までは走っても数分かかり、口煩い者に廊下を走らないように注意されながらも漸く目当ての部屋が見えてきた。

 

「……ふぅ」

 

 飛び込むように襖を開け中に入った龍洞は、安心したのかフッと息を吐き出して床に座り込んでランドセルを開けて中を覗き込む。中には教科書と筆箱、そして一匹の小さな白蛇は入っていた。

 

「何とかバレなかった、かな?」

 

「何がバレなかったん?」

 

 正面から聞こえてきた声にギョッとしながら顔を上げると、其処には彼の家族を皆殺しにした鬼の少女が立っていた。彼女は直ぐに白蛇を見付けると、龍洞が何かを言う前に摘まみ上げながら舌舐りをした。

 

「美味しそうな蛇やなぁ。刺身か蒲焼か、どっちにしても酒が進みそうやわぁ」

 

「あの、大婆様」

 

「何やの? 言いたい事はハッキリ言えって何時も言っとるやろ?」

 

 その様な言葉を掛けながらも彼女の瞳には威圧感が混じり、龍洞は蛇に睨まれた蛙の様に竦み上がる。しかし、その耳に白蛇のシューというか細い鳴き声が聞こえた時、真っ直ぐ其の瞳を見つめながら立ち上がった。

 

「その子、飼いたいです!」

 

 彼女は一瞬だけキョトンとした顔になり、直ぐに笑うと白蛇を龍洞の頭に放り投げ、其の儘横を通り過ぎて襖を開けた。

 

「ちゃんと世話をするんやで? ああ、そうや。その子の名前、ウチが付けたる。……清姫。その子の名前は清姫や」

 

「はい!」

 

 元気よく返事をしたその頭にそっと手が置かれ優しく撫でられる。その姿はとても彼の家族を皆殺しにした張本人とは思えず、彼女に向ける龍洞の笑顔も家族の敵に向ける其れではなかった……。

 

 

 

 

 

「旦那様、はい、あーん」

 

 既に四月になっており季節は春。実際、窓から庭を眺めれば見事な桜が咲いており、時折吹く風に桃色の花びらが散っている。にも関わらず食卓の上にはグツグツと湯気を上げる鍋。中には腐る前で丁度食べ頃の熊の肉や山菜、そして奇妙な物が幾つか。只、漂う香りは食欲を誘う。

 

 そんな熊鍋を食べているのは二人、いや、正確には二人と一匹。少し離れた場所ではお揃いの茶碗と湯呑、所謂夫婦茶碗と夫婦湯呑で食事を取る龍洞と清姫を見ている犬が一匹、名を琴湖。熱々の鍋を仲良く突く熱々の二人を眺めるその瞳には心なしか呆れの色が見え、まるで高い知能を有している様だ。

 

「では、清姫も、あーん」

 

「あ、あーん」

 

 甲斐甲斐しく世話を焼く時とは違い、自分が口に運んで貰う番になった途端に恥ずかしさが込み上げて来たのか、両頬が赤く染まって来ているのは鍋の熱さのせいではないだろう。

 

「……フゥ」

 

 やはり犬を超越した高い知能を有しているのか、琴湖は溜息を吐いて熊鍋を口にする。それが聞こえていない二人ではないだろうに、二人は遣り取り其の儘で鍋を食べ勧め、シメには饂飩を食べた。その量、鍋の材料を合わせて十人前。だが、流石に二人で半々ではなく、清姫が食べたのは一人前にも満たなかった。

 

 

 

 

 

 

「やはり私はこうしていると落ち着きます」

 

(わたくし)もこうしていると幸せです」

 

 夕食後、二人は和風の造りに似つかわしくない洋風のソファーで寛いでいた。龍洞が深く座って広げた足の間に収まる様に座った清姫は其の背を預けながら恍惚の顔になり、その両手は自らの細身は両側からしっかりと抱き締める手に重ねられている。

 

「愛していますよ、清姫」

 

「ええ、(わたくし)()()()()愛しております。あの日、お会いした其の日から……んっ」

 

 先程から只抱き締めていただけの手が着物の上から彼女の肢体をまさぐりだした。最初は脇腹や太股を撫でる程度だったが、徐々に場所は変わって行き、指先で敏感な部分を弄りだした。

 

「……あふぅ。もう……。裸は何時まで経っても慣れないのに、大胆なんですから。……其処もお慕いしておりますわ」

 

「アレですよ。本当に美しい物は決して見飽きない。ですから貴女の美し過ぎる肢体も……見慣れないだけです。だから私は悪くありません。貴女が美しいのが悪い」

 

「あらあら、それは申し訳ございません。では、お詫びに……」

 

 清姫は口元を袖で隠しながらクスクスと笑い、その場で半回転すると龍洞の肩に手を置き、唇にそっと唇を重ねる。

 

「あっ……」

 

 今度は腰と頭に手が回されギュッと抱き寄せられる。右手は腰に回され、左手は絹糸の様な髪を指で梳く。軽く触れ合うだけだった唇が強く押し付け合われ、清姫の吐息は荒くなっていた。

 

「だ、旦那様。(わたくし)、もう……」

 

 その言葉の返事とばかりに腰に回った手が帯に掛けられ解かれる……、

 

 

 

 

『何を盛っている。そろそろ依頼の時間だ』

 

 前に背後から聞こえてきた声に動きが止まった。歴戦の老兵の様な威厳と威圧感を併せ持ち、まるで地の底から響く様な其の声の主は琴湖。やはり先程からの知性を感じさせる行動や視線は間違いではなかった様だ。

 

「……仕方有りませんね。(わたくし)の為に貴方様の信用を損なうのは嫌で御座います。……参りましょう」

 

「そうですね。直ぐに終わらせて続きと行きましょう。……仕事で汗をかくかもしれませんし、帰ったら風呂に入りましょうか」

 

「ええ、宜しいですわね。お背中お流ししますわ」

 

『さっさと行け。風呂は吾輩が沸かしておいてやる』

 

 琴湖が床を前足で掻くと光り輝く梵字が現れる。二人は手を繋ぎながらその上に乗り、下から放たれる光に包まれて姿を消した。

 

 

 

 

 

 とある廃屋の床に梵字が出現し、其の上に二人の姿が表す。他に誰も居ないかに思える静かな空間だがふたりの視線は一点を見詰めていた。

 

「出て来い、はぐれ悪魔バイサー」

 

 その声に反応する様に不気味な声が聞こえてきた。声の高さから女性の様に聞こえるが、理性が途切れているように聞こえた。

 

『美味そうな匂いがするぞ。不味そうな匂いもするぞ。甘いのか? 苦いのか?』

 

 ボロボロになった壁を破壊して現れたのはケンタウロスに例えるのが一番近いだろか。一糸纏わぬ女性の上半身に巨大な獣の下半身。両手には槍を携え、声と同様に理性の感じられない瞳。自分を絶対の捕食者と信じて疑わない其の瞳で二人を見ながらの舌舐り。

 

 その言葉も動作も龍洞の癇に障るには十分だった。

 

「知りませんし、此処で死ぬ貴女が知る事はない」

 

 放たれた四枚の呪符は床の上を滑空するようにして進み、バイサーの四方を囲むようにして床に落ちると、其処から芽が生え、急激に成長して瞬く間に天井まで届く木へと成長した。

 

『馬鹿だ、馬鹿がいる。こんな木で私の動きを止められるとでも……』

 

 バイサーが侮るのも仕方がない。木は幹こそ太いものの枝は柳のように垂れ下がり、葉も非常に柔らかそうだ。バイサーは巨大な腕で木を押し退けようと枝に触れ、動きを止める。いつの間にか垂れ下がっていた枝は持ち上がり、柔らかい葉は鋭利な刃となって触れた指を切り飛ばし、体中に刺さっていたからだ。

 

「地獄に生息する刀葉樹です。……ああ、聞こえていませんか」

 

 剣樹の刃はバイサーの胸を、首を、腹を貫き、龍洞が指を鳴らすと瞬時に消え去る。木によって支えられていた巨体は前のめりに倒れ、刃が栓となっていた傷からは夥しい血が溢れ出す。忽ち床一面が血の海になるが、二人の前で透明の壁に遮られて止まった。

 

「賞金額は百万円。安いだけあって弱いですが……」

 

 龍洞が右手をバイサーの死体に向けると其の体から黒い霧の様な物が吹き出し、続いて開かれた彼の口に流れ込む。次の瞬間、龍洞は口元を押さえて涙目になった。

 

 

「……不味っ! 蟹の食べられない部分みたいな味がします」

 

「あらあら、では口直しと行きましょう」

 

 清姫は龍洞の両頬を手で挟み込み、爪先立ちでそっと口付けをする。やがて其れは激しい物となり、互いを抱きしめて舌を絡め合い唾液を交換する。ビチャビチャという水音が響く中、足音が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

「はぐれ悪魔バイサー! アナタを退治しに……えっと、お邪魔しました」

 

「バイサーなら先に倒しました。賞金首ですし、こういうのは早い者勝ちですから苦情は受け付けませんよ、グレモリー先輩。では、失礼します」

 

 赤毛の少女を先頭にした一行が固まる中、龍洞は平然と告げると来た時と同様に其の場から姿を消した。 昔話によく有る展開に、人間の娘を嫁にしようとした化物が退治されるといった物がある。其れと同じ様に助けられた動物が助けた男の妻になるという話も存在する。前者は化物が退治されてめでたしめでたしで終わり、後者は悲しい別れで終わる事が多いが……。

 

 とある時代のとある場所に一匹の蛇が居た。態々語るのだから当然普通の蛇ではなく、長き時を経て神通力を身に付け水神となった蛇だ。人の姿になる人化の術や天候を操る術を身に付けた其の蛇が住んでいたのは山中の深い深い池の底。其処に立派な屋敷を拵えていたが、其処に住んでいるのは蛇だけだった。

 

 ある年、その山の麓にある小さな村は酷い日照りで困窮していた。美しい娘を持つ男もその村の一人で、このままだと娘を身売りでもしない限りは皆揃って飢え死にするしかない。

 

「貴様の娘を我の嫁に差し出せば雨を降らせてやろう」

 

 其の取引が蛇から持ちかけられたのはそんな時で、男は勿論承諾した。そして、蛇は最後に化物として退治され、助けられた娘は化物を退治した英雄と結ばれた。

 

 しかし、蛇は退治されるべき存在だったのだろうか? 村を苦しめた日照りは蛇が引き起こしたものではない。蛇は助けられたのに何もしなかっただけで、自分を祀っている訳でもない人間達を助ける義理は蛇にはなかった、只それだけだ。

 

 この蛇は物語の悪役となる為だけに生まれてきた訳ではない。生まれてきたからには己の意思が有り、それまで積み重ねてきた物が有り、血の繋がった家族が居た。叶わない恋をした相手が居た。決して予定調和な茶番劇の道化師(ピエロ)ではない。

 

 

 

「……災難やったなぁ。悔しいやろ? なら、復讐や。アンさんの復讐はウチが代わりにしたるわ」

 

 そして、蛇には友人が居た。気紛れで残酷で酒好きな鬼の友人が蛇には居た。だから鬼は娘の一族に呪いをかけた。蛇が人間の女に恋して化物として殺された様に、何時か娘の一族の誰かが叶わない恋の末に化物になってしまう呪いを掛けたのだ。

 

 

 そして蛇や鬼とは全く関係ない理由で村は数年後に滅びる。大雨による洪水や土砂崩れで、娘の父親を含む村の住人は全て死んでしまった。

 

 今となっては確かめようのない話だが、もし娘が蛇に嫁いでいたとしたら……蛇は村を助けたかもしれない。

 

 

 

「……生まれたか!」

 

 時は流れ、とある裕福な家に第一子が誕生した。やがて美しく成長し、ある旅の僧に恋する其の赤子の名前は―――。

 

 

 

 

「……ふぅ」

 

 本日二度目、いや時刻はとうに十二時を跨いでいる事から一度目の入浴を済ませた龍洞は軽く息を吐いて体を拭く。その後ろでは清姫が顔を真っ赤にしたまま体を拭いていた。先程まで汗などの体液で体中ドロドロに汚れており、風呂で全て洗い流してサッパリした心持ちだ。もっとも、二人共互いの体液ならば気持ち悪いとは思わず、洗い流すだけにしては少々時間が掛かっていた事から浴室で延長戦に突入したようではあるが……。

 

「それでは旦那様、そろそろ時間ですので名残惜しいですが……」

 

 清姫の瞳には涙が貯まり、悲しみから今にも泣き出しそうだ。龍洞は指でその涙を拭い、そっと抱き締める。清姫も同様に彼の背中に手を回し抱き締め返した。其の儘数分が経ち、二人は漸く離れると互いの顔をジッと見る。その瞳に篭っているのは恋慕の念。まるで遠く離れなければならない恋人同士の様な姿だった。

 

「……何時か必ず其の姿のままで居られるようにしてみせます」

 

「ええ、清姫は信じています。では、本日も正直で御健勝であらされます様お祈りしています」

 

 そっと口付けを交わすと清姫の姿は消え、着物が床にハラリと音を立てて落ちる。その中から這い出て来た白蛇は差し出された腕に絡みつき、そのまま温室のケースへと連れて行かれた。

 

「其れでは今日の夕方に……」

 

 ケースに入れる前、龍洞は白蛇に躊躇する事なく口付けを行い、最後に顎の辺りを優しく撫でると寝室へと戻って行った。

 

 

 逢魔ヶ刻から丑三つ時の間だけが二人の逢瀬の時間。その時間を使って二人は愛し合い、早く次の時が来れば良いのにと願いながら別れを惜しむ。毎日毎日、そう願う。この時間だけが二人にとって幸せな時間だった。

 

 

 

 

 

「其れでは行って来ます。愛していますよ」

 

 登校前に白蛇の姿の清姫と口付けを交わした龍洞は鞄を片手に屋敷を出る。街中からは離れているので自転車を使い、暫く走ると通っている学校が見えてきた。

 

 駒王学園。初等部から大学部まである大規模な学園で、元々は女子高だったのだが、昨今共学化。其れでも未だ女子の比率が高く、入学を希望する男子の中には淡い望みを持つ者も居る。男子が少ない事から女子が選り取りみどり、即ちハーレムである。だが一部の富豪に富が集中する様に、幾ら数が少なくても、結局は好意を向けられる者は一部の者でしかない。そうでなかった者は大勢の女子に好意を寄せられる者の姿を見ながら悔し涙を流す事しか出来なかった。

 

「せ…仙酔君、おはよう!」

 

「ええ、お早う御座います」

 

 龍洞はそんな一部の者の一人。肩まで伸ばした黒髪を後ろで括っており、穏やかで知的な瞳。背はスラッとした長身で、成績も運動神経も良い。学園では彼ともう一人に人気が集中しているのだ。

 

 今も世間一般的には美少女の部類に入る女子生徒が勇気を出して挨拶をしてきたのに対し、笑みを浮かべながら挨拶を返していた。その顔を見た女子生徒の顔は一瞬で赤くなり、周りの女子生徒も黄色い歓声を上げ、一部の者でない男子生徒は怨嗟と嫉妬の念を送る。

 

 だが、龍洞の心は小波一つ起きない穏やかな物。何故か学園の女子生徒は顔も選考基準にしているのかと言われそうな程に美少女が多く存在するが、龍洞には全く興味がなかった。多くの美少女にあからさまに好意を向けられようが、褒め称える言葉が聞こえようが、路傍の石ころにしか見えず、風の音にしか聞こない。

 

(ああ、一秒でも早く清姫に会いたい)

 

 愛想よく挨拶を返しながら、その瞳は相手を全く見ようとしていなかった……。

 

 

 

 

「おっと……」

 

 靴箱の蓋を開くとバサバサと手紙がこぼれ落ちてくる。ハートのシールで止められた便箋の数々。彼に恋心を抱く少女達が思いの丈を綴ったラブレターだ。龍洞はそれらを予め用意していた小さな袋に入れると鞄にしまう。この手紙を送った彼女達は自分の想いに応えて貰えなくとも、せめて想いを知って欲しい、その一心で心を込めて書いたのだ。何度も書き直し、必死に想いを伝える言葉を考えた其の手紙。……だが、彼に最初の手紙が送られてこの方、読まれた手紙は一枚も存在しない。

 

 

 この学園には悪い意味で有名な三人組が存在する。先程書いたような淡い期待を心に秘めて入学した者達で、一部の者に選ばれなかった事を嘆き、卑猥な言動を日々繰り返している。其の三人組は龍洞のクラスメイトであり、何時も三人は彼に嫉妬の視線と怨嗟の言葉を送っていた。……そう。送って()()

 

 龍洞が二年生に進級して少し経った頃、平和な街で殺人事件が起こり騒ぎになった。被害者は三人組の一人であり、何時もは猥談に興じる二人も此処最近は静かなものだ。そして、犯人は未だ捕まるどころか不明であり、判明する事は無い。

 

 何故なら犯人は人ではないのだから……。

 

 

 

 

「さてと……」

 

 昼休み、重箱を片手に下げた龍洞は屋上へとやって来た。昨日の晩の内に清姫が作って詰めていた弁当の中身は和食が多く、白米には桜田夫でハートが描かれている。何処の愛妻弁当かと問われれば私の愛妻弁当と答えるであろう彼は懐から今朝の手紙が入った袋を取り出す。袋を開けると手紙は蝶のように飛び出して一固まりになり、中心に発生した紫炎で一瞬の内に燃え尽きた。

 

「読まずに燃やすのかい? 酷いなぁ」

 

「読む必要がないから読まないだけですよ。だって時間の無駄じゃないですか」

 

 この時の彼の声には送り主を嘲る様子も卑下する意思も感じられない。まるで雨は降らないから荷物になる傘は持って出かけない、とでも言う様な口振りで、何かしらの感情も篭っていなかった。

 

 其の言葉を聞いた少年、彼と人気を二分する通称イケメン王子こと木場祐斗、その正体はこの街を縄張りにする悪魔であるリアス・グレモリーの眷属は、仕方なさそうに溜息を吐くと一枚の書類とペンを差し出した。

 

「バイサーを君が倒したけど、僕達も討伐の依頼を受けてたのは知っているよね? 流石に先に倒されましたとだけ報告書に書く訳にも行かなくって、君が倒したって書類にサインだけして欲しいんだ」

 

「まぁ、其の程度なら良いでしょう。前みたいに眷属のお誘いでなければね」

 

 其れでも龍洞は書類に目を通し、余計な事か書かれていないかを綿密にチェックした後でサインをする。其れを受け取った祐斗は書類をしまうと嫌な事を思い出したような表情のまま苦笑していた。

 

「流石に其れはないよ。部長もあの一件は軽いトラウマになってるからね」

 

 龍洞の強さを知ったリアスは眷属に勧誘を続けていた時期がある。欲望に忠実なのを良しとする悪魔の中でも、位の高い家の出身だからか特にワガママな部類に入るリアスは数度に渡り勧誘を続け、いい加減ウンザリした龍洞に何故眷属になりたくないのかというレポートの分厚い束を提出されたのだ。

 

 

 一切の感情を排除して理論的に具体例を上げながらのダメ出しにリアスは彼を眷属にする事を完全に諦め、それどころか暫くの間は家を継ぐことすら嫌になっていた。

 

 

「……終わったら直ぐに立ち去って頂けますか? 私と貴方が一緒に居る事が知られたら煩い方々が居ますので。……まったく、あの三人の猥談と同じだという事が分かっていないのでしょうか」

 

 この時、龍洞は女子生徒達に感情を向けていた。ただし、怒りの感情だ。男同士の絡みが好きな女子生徒達が二人を題材にして騒ぎ、あまつさえ同人誌まで制作していた。

 

「私が愛しい愛しい彼女以外に愛を囁くなど、噂でも許せません。私以外の女性に無駄な時間と力を使わず、その分私と一緒に居て下さい、と言われなければ呪っていましたよ」

 

「あ、うん。会長も厳しく取り締まるって言ってたし、勘弁してあげてくれないか」

 

 龍洞が予定した呪いの一つに悪夢を見せるという物がある。夜目覚めた時に怪異に遭遇し、何とか自室のベッドに潜り込んで意識が薄れるまでが内容であり、本人には悪夢と現実の区別がつかないというものだ。それが毎晩続けばどうなるか想像するのは容易い。だが、それは自分以外を見る事に嫉妬した清姫によって静止された。

 

 無論、今後も続くようならば実行に移すつもりであったが……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『帰ったな。……依頼が来ているぞ』

 

 放課後、屋敷に帰るなり琴湖が一枚の手紙を渡してきた。差出人の名前はV・Sというイニシャルだけしか書かれておらず、英語で書かれている事から外国からの手紙という事は分かる。

 

「あの方も大変ですね。立場に縛られて自由に動けないとは」

 

 龍洞は差出人が誰か知っているらしく、内容にも心当たりがあるのか手紙を流し読みすると共に入っていた容器を取り出す。その中には一本の金髪が入っていた。

 

 

 

 

 

 

 

()()()どんな奴を見付けて保護するのだ?』

 

「アーシア・アルジェント。悪魔を癒して魔女として追放された愚かな元聖女です」

 

 その出会いは二人にとって正しく運命であった。幸か不幸かは別として、運命には間違いなかった……。

 

「お願いします。(わたくし)を貴方様のお嫁さんにして下さい」

 

 家の者以外の男の手を握った事すら無い純情な彼女にとって、その行動は考えられない内容だった。蝶よ花よと育てられ、生花料理、琴に踊りに唄に薙刀、様々な習い事を教え込まれ、行く行くは何処かの良家に嫁ぐものと自分も周りも思っていた少女の初恋の相手、其れは妻帯を許されぬ旅の僧。

 

『お嬢ちゃんにしよ。ご先祖様のした事の責任は、しっかり償いや?』

 

 僧と初めて会った時、そんな言葉が聞こえた気がしたが、次に瞬きをした時には忘れていた

 

 

 

 一晩の宿を借りに来た彼に彼女は一目惚れし、夜這いを掛ける。其れに対し彼は旅の帰りに再び立ち寄ると約束し、其の儘戻ってくる事はなかった。

 

 何時まで経っても戻って来ない彼の身を案じた彼女は一人旅に出て、漸く追い付くも嘘を付かれ逃げられる。怒り狂った其の身は何時しか龍と化し、逃げに逃げた男を最後は隠れた寺の鐘ごと焼き尽くして自らも入水して果てた。

 

 

 

 

 入水して果てた彼女が目を覚ますと其処は見知らぬ川辺。死に損なったのかと思い、再び死のうと三河に近寄った時、水面に映ったのは小さな白蛇だった。これが自らへの報いかと思い、其の儘水に入る。死ぬのは苦しかった。

 

 口や鼻から水が流れ込み、息が出来ない。苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで……漸く死んだかと思ったら今度は見知らぬ山の中だった。どういう事かと困惑する彼女の頭上から鷹が迫り、生きたまま身を裂かれ臓腑を喰らわれて死んだ。

 

 次に目が覚めたのは小さな村の近く。子供達に発見され、石で叩き殺された。

 

 次は煮えたぎった油を頭から浴びせられ、その次は空腹で死に、その次は熊に食われ、その次は病で、その次は寒さで死んだ。

 

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、苦しみながら苦しみながら苦しみながら苦しみながら苦しみながら、死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んで、其れを数百数千数万回繰り返しても蘇る。

 

 終わらない地獄。繰り返される悪夢。恋に恋して、恋の先に狂った少女の心が壊れるのには十分だった。

 

 

 この日も彼女は死にかけていた。カラスにでも襲われたのか、野良猫にでも狙われたのか、車にでも轢かれたのか、何度も死んだ事で死の記憶が混ざり合い、其の死因が何時の物か何回前の物かさえ朧気で、決して慣れることのない苦しみだけがハッキリと感じていた。

 

 仏に祈るのは諦めた。八百万の神に縋るも救いの手は差し伸べられなかった。死に続けてきた間に知った異国の神にも助けを求めたが声が届いた様子はない。

 

 次はどんな死に方をするのか。出来れば楽な死に方が良い。壊れた心は既に苦しみからの解放を諦め、只其れだけを望む。

 

 だから、痛みが消えていくと同時に体が温かい物に包まれた時、今まで体験した事のない死に方をしたのだと勘違いした。何かの革のようなそうで無いような、奇妙な香りのする入れ物に書物と一緒に入れられ何処かへ運ばれる。何時もと違うと気付いた時、最初に見た顔はあどけない少年の顔。だけど其の顔が彼女には眩しく見えた。

 

 次に見たのは鬼の顔。どうやら自分を食べようとしていると理解し、結局苦しい死に方をするのだと辟易する。最早、死への恐怖など無くなっていた彼女だが、其の予想は外れる。少年が鬼に何かを訴え、自分は助かったのだと理解した。

 

「宜しくね、清姫!」

 

 其れは彼女の名前。久しく聞いていない名前だが、只其れだけはハッキリと覚えていた。其れと同時に感じたのは胸の高鳴り。自分を裏切った僧と初めて会った時の事が鮮明に蘇り、確信した。其れは思い違いかもしれないし、何かしら感じる物があったのかもしれない。真偽の程は兎も角、彼女の中では其れは真実だった。

 

 ああ、この子はあの御方の生まれ変わり。そして今度こそ結ばれる、そう確信した。

 

 其の想いは恋ではなく、只の理想の押し付けに過ぎず、狂愛と呼ぶのが相応しい物。とても常人では受け止めきれる物ではなく、先に待つのは再びの破滅だ。()()()()、破滅しか待っていない。

 

 

 

 

 煌々と松明が燃えさかり、時折火花が飛び散る。ホゥホゥと梟の鳴き声が聞こえ、庭を得体の知れない何かが這い回る中、龍洞は白装束に着替え手には数珠を持って呪文を唱えていた。

 

「三尸の蟲は肉を這い、庚申待ちの夜は開けず、三年峠は只嗤う」

 

 四方を囲うように配置された松明の火は激しく燃え上がり、中央に置かれた台座に置かれた古鏡が明かりを反射して輝く。其の鏡に一本の金髪が近付けられると鏡の表面に波紋が広がり、中から青白い手が伸びてきた。骨と皮だけの細長い手で赤い爪先は尖っている。その指先が金髪を摘み取り鏡の中に引き込むと波紋は最初からなかったかのように消え去り、代わりに何処かの建物が映し出される。

 

「……おや、此処は」

 

 其れが何処か知っているのか、龍洞は僅かに驚いたかのような顔をしていた。

 

 

 

 

 

 其の少女の人生は世間一般では不幸な部類に入るのかもしれないが、彼女自身は其れを恨んだ事はなかった。とある田舎で親に捨てられた孤児として教会の孤児院で育てられた彼女は当然のように神を信仰していた。

 

 人生の転機が訪れたのはある日の事。偶然が重なり、彼女の中に眠っていた力が目覚めたのだ。神器(セイクリッド・ギア)と呼ばれる其れは聖書の神が人の血を引く者だけに与えた道具で、彼女に宿ったのは傷を癒すという物。

 

 そして、この日の出来事が切っ掛けで少女は孤児の一信徒から、癒しの聖女になった。その立場に彼女自身など求められず、信徒が崇め、教会に都合の良い聖女である事のみを求められた。

 

 其れでも人々の役に立てるのならと喜んでいた少女だが、其の喜びさえも唐突に奪われる事になる。

 

 

 其れはある日の事、聖女である彼女の周囲に()()世話係の者も護衛も居ない時に、教会と敵対する悪魔が怪我をした状態で現れた。

 

 例え悪魔であっても傷き助けを求めて来たのなら、其れに応えるのが癒しの力を主より与えられた自分の役目だと、()()()()()()()()()彼女は悪魔を癒し、()()()()に其れを目撃されてしまった。

 

 崇拝の視線は侮蔑の視線へ、賛美の言葉は罵倒へと変わる。この日、彼女は聖女ではなく魔女と呼ばれるようになった。

 

 

 此処で少し疑問が浮かぶ。癒しの聖女は教会にとって都合のいい道具。ならば、その道具が置かれるのは然るべき場所であった訳だし、その様な場所に何故悪魔が現れたのか。

 

 其の事を疑問に思っていれば彼女の運命は変わっただろう。他人を疑わない事は美徳であると同時に欠点であり、たらればの議論に意味はない。

 

 只、彼女は悲しいとは思っても誰も恨まず、其処までの目に遭ってもたった一つの願いは捨てなかった。聖女ではなく、アーシア・アルジェントとして普通に友達を作り、普通に学校に行ったり普通に遊んだり、そんな有り触れた願いが幼い頃からの願いだった。

 

 

 

 

 

 

 この日もアーシアは神に祈っていた。故郷より遠く離れた言葉も通じぬ異国の地で、彼女を受け入れたのは神に反旗を翻した堕天使だった。

 

 神に敵対する方でも優しい方は居る。だからあの時の事は間違っていなかった。そんな希望が続いたのも僅かな間だけ。フリードという名の少年神父に連れて行かれた言家の外で覚えたばかりの人避けの結界を張っていた彼女は異変に気付き、家の中を覗き込んでしまう。其処には惨殺死体があった。

 

「此奴かい? 此奴は悪魔を呼び出し常習犯。だからお仕置きしてあげたのさ」

 

 血に塗れながらヘラヘラ笑う彼にアーシアは恐怖を覚え、この時になって堕天使達を疑い始め、その日の内に知りたくなかった真実を知る事になる。

 

 堕天使、レイナーレ達は自分を殺して神器(セイクリッド・ギア)を抜き取る気だと。そして抜き取るための儀式の準備は既に整い、今夜実行に移されると。

 

 部屋の周囲には見張りの者が居るが、アーシアは既に運命だと諦めていた。願った友達も僅かな希望すら感じられず、抜け出そうとする意欲も湧いて来ない。せめて神の元へと召されるようにと願っていた。

 

 彼女の心は儀式で死ぬ前に既に死を迎えようとしていた……。

 

 

 だからこそ、彼女はこの時の事を忘れないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「もう大丈夫です。どうしてかですって? 私が来ました!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、もぅ! 素敵過ぎます、旦那様!!」

 

「ええ、貴女こそ素敵ですよ、清姫。貴女に比べればこの世は等しく醜悪で無価値な物ばかりだ」

 

「いえ! 旦那様は醜悪でも無価値でも御座いません!」

 

 色々な意味で、この日の事を忘れないだろう……。




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