私たちのモテない青春ラブコメ   作:貴志

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第二章:二年生
9.やはり黒木智子の自己紹介は間違っている。


 春。桜が舞う4月。

 黒木智子は学校までの歩みを進めながら、高校生となってから二度目となる桜を眺めていた。

 新学期が始まる。

 今日は二年生となってから最初の、クラス替えの発表がされる日だ。

 遅くもなく早くもなく、程よい時間に自宅を出発した智子の周りには、同じように新学期初日を登校する者たちであふれかえっている。

 見ればその表情は実に様々で、新学期に臨むそれぞれの心境がそこから見て取れた。

 一人道を急ぐ者。友達同士雑談をしながらゆっくりと進む者。

 新しい出会いに胸弾ませる者もいれば、慣れ親しんだクラスを離れることに一抹の不安を覚えている者もいるだろう。

 学年が変わる新学期最初の日というものは、人生の岐路だ。そう言い切ってしまっていいほど、彼らにとってこの桜並木は、実に大きな意味合いを含んでいる。

 そしてそれは彼女、黒木智子にとっても決して例外ではない。

 一年通い続け、すっかり惰性でくぐることができるようになってしまった校門を通り過ぎる智子。その顔に浮かぶ表情は、どこか覚悟を決めたような凛々しさを帯びている。

 校庭をぬけしばらく歩くと、土間の前で人があふれかえっているのが見えてくる。

 そこに貼られている紙の前で、笑顔で手を取り合う者もいれば、手を振り分かたれていく者もいる。そのどちらでもなく、ただ呆然と立ち尽くしているものもいて、そのありようは実に様々だ。

 皆が注目しているその紙には、今年一年、智子がどのような集団の中に属することになるのかも、当然書かれているのだろう。

 だんだんと近づいてくる喧騒に身を震わしながら、智子は自己を奮い立たせる。改めて心の中で、ここまで何度も繰り返してきた言葉を思い浮かべる。

 

――今年こそ、クラスで友達をつくる。

 

 それこそが黒木智子が抱いた決心だった。

 

 

 智子が高校一年生として過ごしたこの一年は、お世辞にも充実していたとは言い難いものとなった。

 春夏秋冬通して、智子がクラスで能動的に声を発することは、結局一度としてなかった。当然そんな智子に、クラスの友達は一人としてできなかった。

 何の因果か、お昼ご飯を一緒に食べ、語らうことのできる友達はクラス外に一人できた。しかしどうしてか、それを誇ることを智子にはできなかった。

 

 そんな一年間の締めとして先月出席した卒業式でも、智子は何の感慨も得ることはできなかった。

 ただ在校生として決められた席に座り、決められたプログラムで、式がしめやかに進行されるのを智子は眺めていた。

 全く覚えていない校歌も、何となくは知っている『仰げば尊し』も、とても歌う気にはなれず、口パクで済ませる。

 そうして、ひたすら式が早く終わるのを願っていた。

 

 卒業式の帰り、校門付近では多くの生徒が卒業生との別れを惜しみ、群れ固まって感動に浸っていた。

 そんな光景を尻目に、智子はさっさと学校から離れようと群集を抜け、校門へと向かう。

 その最中、見つけてしまった。

 校門の片隅の、卒業生の輪から一歩も三歩も外れた一際静かな空間。そこに一人佇む存在を、彼女は見つけてしまったのだ。

 それは見知らぬ男子生徒で、地味な顔立ちには似合わない華やかなコサージュを胸元に携えている。悪目立ちするその花は、彼が卒業生であることを誰にでもなく一人発信していた。

 どうしてもその彼から目を離すことができず、校門をくぐろうかというところで智子は急激に歩みを遅める。そしていつの間にか、その卒業生の隣に立ってしまっていた。

 何となく並び立っては見たものの、特に話しかけたりすることも智子はできず、遠くで未だにはしゃぎ、思い出話に花を咲かせている一団をぼーっと見る。

 手持ちぶさたとなった智子は、視線は前に向けながらも、隣に立つ卒業生の身の上について思いを馳せる。

 こんな誰もが誰かと思い出を分かち合っているような状況で、一人輪から外れている。ほぼ間違いなく彼がぼっちなのだということは、誰の目にも見て取れた。

 ならさっさと家に帰ればいいのにと、智子は思う。しかしそこは彼なりに何か思うところがあるのかもしれないと、深くは考えないことにした。

 彼の高校三年間は一体どのようなものだったのだろうか。楽しいことや、嬉しいことは果たしてあったのだろうか。

 いろいろな感情が、彼を見ていると浮かんでくる。

 そして、彼の身の上よりもまた気になるものが智子にはあった。それは彼を通して見える、自分が高校を卒業する日の風景だ。

 彼は二年後の自分なのではないか。そう智子は感じていた。

 このまま自分が変わらなければ、来年も、そして再来年も自分はこうして輪から外れて一人佇む存在になっているのではないだろうか。確信めいたものが、智子にはあった。

 そして智子は、明確にそれが嫌だった。

 それこそが、彼女が決心を抱いた理由だった。

 

 あの後、卒業生の彼の方から話しかけられ、色々な事を話した。

 その話の中で聞き取ることができた彼の事情は、しかし智子の想像と大きくずれたものではなかった。

 しばらく話をして、そのうち人がまばらになってくると、彼も智子と別れ、自身の家路へと向かっていった。

 卒業式を通して智子の内に残ったもの。それはこのままでいてはならないという大きな決心と、彼へ『卒業おめでとうございます』の言葉をかけそびれてしまったことへの、ほんの少しの後悔だった。

 

 

 クラス発表の紙を前にしながら、智子はなかなか一歩を踏み出せずにいた。

 土間の前は未だ雑踏の中に包み込まれている。その中心となっているクラス発表の紙の周りは、一段と流れの速い人混みとなっていて、智子の前に立ち塞がる。

 その中に飛び込むということが、新しい一年が始まるということと同義に思えて、智子はたじろいでしまう。

 これからの一年で、自身を変えると決心した彼女であるからこそ、そのためらいも大きいのかもしれない。

 複雑な心境の中、行こうか行くまいか体を前後させ、いつの間にか挙動不審になる智子。その耳に突然、聞きなれない男子生徒の声が飛び込んできた。

 

「黒木さん、4組だよ! 俺と同じクラス!」

 

 突然の呼びかけに、智子がびくりと肩を上げる。反射的に視線を向けた先には、どこかで見た覚えがあるような眼鏡の男子生徒がいた。彼はちょうど土間に入っていくところだった。

反応が遅れた智子は何とか返事をしようとする。だが体は震え、口からは声とも呼べないような音が、ぽろぽろと崩れ落ちていくだけだ。

 

「えっ!? あぅっ……えっ、と……!」

「また後でね!」

 

 眼鏡の彼は智子と目が合うと、器用にもウィンクをしながら手を上げて挨拶をする。そしてそのまま、二年生の教室へと続く階段を上がって行ってしまった。

 その瞬間智子は、周囲の視線が一斉に自分に刺さったように感じた。

 周りの人たちの顔が怖くて見れない。智子は赤くなった顔を隠すようにうつむくと、また震えだす。

 

――誰、アイツ!? 何でこんな公衆の面前で仲良くもないやつにいきなりウィンクとかできんの!? あんな挨拶返せるわけないじゃん!! 全く理解できないんだけど!? てかマジで誰!? 

 

 智子は突然の出来事に、挨拶すら返すことができなかったことを、相手への罵倒とともに後悔する。

 そうしているうちに、だんだんと混乱から落ち着いてくる。彼の言っていた内容が、頭に少しずつ染み入ってくる。

 つまり彼は、クラス発表の紙から自分の名前を見つけ出し、同じクラスの人の名前も確認したのだ。そしてたまたま、その中にいた智子を遠目に見かけたものだから声をかけ、クラスを教えてあげた、ということなのだろう。

 問題は、なぜ彼が急にそんなことをしでかしたかということであるが。それは智子にはおおよその予想がついていた。

 

――たぶん、気を使われたんだろうな……。

 

 智子は彼のことを、いわゆる『リア充』に属する人物なのだろうとあたりをつけ、そう考える。

 あの眼鏡の彼には、クラス発表用紙の前でたじろぐ智子の姿は、可哀そうなものに見えたのだ。つい手を差し伸べたくなったのだろう。

 智子はそう結論付けて、そこから先は考えないようにする。

 『まさか私に気があるのか!?』とか、『以前から私に声をかけたかったのでは!?』などといった思考が智子に全く浮かばなかったかと言えば、それは嘘になる。

 しかしそんな考えに没頭していってしまうことは、今までの碌に友達のできなかった自分から、全く進展していないことになる。そう感じた智子は、意図的にその感情を押さえつけた。

 

 二年生の始まりが出だしからつまずいてしまったように智子は感じる。さっさとこの場から離れようとした彼女は身を翻し、しかし途中で止まった。

 その視線は、未だクラス発表の紙に固定されている。

 確認しておきたいことがもう一つあったことを、智子は思い出した。

 混雑具合もピークを過ぎ、心なしか進みやすくなった人の群れを縫うように歩いていく。すぐに智子は紙の前へとたどり着いた。

 そして先ほどの男子生徒が残していった言葉の通りに、4組の欄から自分の名前を見つける。続きざまに、今度はその下へと視点を落としていった。

 智子の視界が4組の枠の一番最後まで到達すると、彼女は安心とも落胆ともつかないため息を、大きく一つつく。

 

「お前、何組だったの?」

 

 そんな智子の背中に、今度は一年生のころから慣れ親しんだ、不愛想な男子生徒の声がかけられる。

 そのことを何となく予期していた智子は、今度は全く動じることもなく、相手の声音に負けないくらいの無表情で振り向き、答える。

 

「4組だけど……」

「そうか。じゃあ違うな」

 

 何が? とは智子は聞かなかった。

 振り向いた先に佇む、相変わらず腐った魚のような目でこちらを見ている、アホ毛と猫背が特徴的な男子生徒、――比企谷八幡の様子を見る。それだけで彼の意図するところは、正確に理解することができたからだ。

 智子と八幡は別のクラスになった。

 そのことをお互い、残念に思っているのか悲しんでいるのか。はたまた喜んでいるのか安心しているのか。二人は努めて表に出さなかった。

 そうすることが自然なように思えたし、また自身の感情をどのように表現すればよいのか、ぼっちの二人には分からなかったのだ。

 何となく二人連れだって土間に入る。見れば、智子のクラスと八幡のクラスの下駄箱は、ちょうど向かい合う形に設置されている。

 背中合わせに各々靴を履き替えていると、八幡の方が先に口を開いた。

 

「そういやさっきの眼鏡のやつ、知り合いだったのか?」

「っ! 見てたのかよ……」

 

 智子はつい先ほどまでの醜態を思い返し、少し紅潮し振り返る。その先にある八幡の背を強く睨む。

 やや折れ曲がった八幡の背中は、いつまでたっても振り返る気配を見せない。少し苛ついた智子は、苦言を投げかけることでこちらに振り向かせようとした。

 

「ストーカーかよ……」

「なんだかその罵倒にもだいぶ慣れてきたな。違えよ、たまたま立ち会っただけだ」

「助けてくれたっていいじゃんかよ! ただ見てないでさあっ!」

「どうやって助けるんだよ、無理だろ……。 まあ同情はするけどな」

 

 言いながら八幡は、自身が過去に受けた、似たような経験を思い返し顔を苦ませる。

 リア充というものは、総じて人との距離感が近い。

 人それぞれのパーソナルスペースというものを、全く理解できていない連中ばかりだというのが、八幡が思う「リア充」の認識だった。

 自分たちが近しいと思っている者が、皆自分のことも近しい存在だと思っていると、彼らは勘違いしているのではないだろうか。八幡は常々、その無遠慮さには辟易してきたのた。

 

――何なんだアイツら、いきなり朗らかに話しかけてくるなよ。友達かと思っちゃうだろ。

 

 そんな八幡の目から見ても、先ほどの智子と見知らぬ眼鏡男子のやりとりは、その例から漏れるものではなかった。

 八幡は靴を履き替え終わると智子の方を振り向き、そこにあるしかめ面に向けて、自身の予測を述べる。

 

「あれか? 前のクラスで同じだったリア充グループの一人とか、そんな感じだろ」

「そう……。ってかよく分かったな」

 

 八幡の予測は的中し、智子のしかめ面が驚愕の表情に移り変わる。そんな智子の表情の変化を愉悦に感じながら、八幡は揚々と自身の講釈を垂れる。

 

「まあ相場は大体決まってるんだよ。ああいう風にいきなり声をかけてくるのは、リア充どものよくある生態の一つだしな。さらに予測するなら、アイツはそのグループの中でもお調子者キャラとして普段からワーキャーうるさい部類のやつだろ」

「いや、だから何で分かって……」

「経験だよ。伊達にぼっちやってねえからな。人間観察は俺の特技だ!」

 

そう言って鼻を高くし、八幡は得意げに自身の講義を締めくくる。同じぼっちの智子からしても、その姿はやはり限りなく残念で、痛々しいものだった。

 

 智子は靴を履き替えると、階段を上がっていく。その胸中では、先ほどの話の流れから、眼鏡でお調子者のリア充『清田良典』(名前はさっきクラス発表の紙を見て思い出した)のことが思い返されていた。

 彼について強く記憶に残っているのは、まさに一年生の一番最初のこと。クラス始めに行われた、自己紹介の場面だ。

 智子は、クラスのウケをとって高校生活のスタートダッシュを切ろうと、綿密な計画の基、自己紹介ネタの用意をしていた。

 具体的には、特大の台本紙を用意し、かつ自分の名前を言うだけというシンプル過ぎる自己紹介をするというもの。『そんだけの紙用意してそれだけかよっ!』という気持ちを引き出させ笑いを取るというのが、当時の智子の算段だった。

 さらにその紙には実は何も書いておらず、ただの白紙だったという保険までかけておく念の入りようである。智子は誰よりも張り切って自己紹介に臨んだのだ。

 しかし結果は見事な空振りだった。誰もクスリともしなかった。

 慌てて第二の策に移ろうとするも、紙を落としてしまった。急いでそれを拾おうとする智子の耳に飛び込んできたのは、何とクラスにこだまする笑い声だった。

 自分のネタがじわじわ来たのか!? そう期待しながら顔を上げた智子の目に映ったのは、前の席の眼鏡男子、……清田良典が、流行りの芸人のネタをもじった自己紹介で笑いに包まれている光景だった。

 その瞬間智子はクラスに見切りをつけてしまったのだ。

 こんな下らないネタで盛り上がるようなクラスなんて私の居場所じゃない。そう思い込んでしまった。

 今思い返せば後悔しかない苦い記憶だ。しかしだからこそ智子は、今回の自己紹介はごく無難にやり過ごそうとかんがえていた。

 無理に目立とうとせず、だからといって空気になりすぎることもない。中道を極めた学生生活を送ろうと、智子は決心しているのだ。

 だが智子には、その『中間』としての自己紹介がどういったものなのか、具体的な絵はまだ全く浮かんでいない。

 だから智子は、階段をのぼりながら自分の少し前を行く目の前の男に、参考にはならないだろうとは思いつつ、どう自己紹介を切り抜けるつもりなのかを聞いてみることにした。

 

「お前さ、自己紹介はどうすんの?」

「あ? 何が?」

 

 智子の唐突な質問に、八幡は半分顔を後ろに覗かせながら聞き返す。

 察しが悪く、かつぞんざいな八幡の態度と返しに、智子は若干イラつきながらも再度訊ねた。

 

「だから、自己紹介だって。最初のホームルームであるだろ!」

「ああ。まあ、適当にやるだけだろ」

 

 言い切って、話は終わりだとばかりに、八幡は前を向いてしまう。

 そこで智子のイライラは最高潮に達した。

 同時に、やはりこいつは何も考えちゃいないなと、八幡をやや下に見始めていた。

 ここは一つ、目の前の能天気野郎に啓蒙の一つでもしてやらなきゃ気が済まない。義憤に駆られた智子は、語気を荒くしつつ八幡に詰め寄る。

 

「はっ! まったくそんなんだからぼっちなんだよな! そんなんで碌な学校生活過ごせると思ってんの!?」

 

 いきなり当たりが強くなった智子の様子に、八幡は心の中でため息をついた。

 どうやらまた、余計な地雷を踏んでしまったらしい。こうなってしまったら適当に対応するのは悪手だ。八幡は過去の智子とのやり取りから既に学んでいた。

 先ほどよりも大きく智子の方に向き直ると、智子の意図を探る言葉を口に出す。

 

「いや別に俺はぼっちで構わないんだが……。じゃあなんだ、お前は何か考えてるのか?」

 

 そんな八幡の問いかけに、智子は口の端をニヤリと持ち上げる。まるで見せつけるように、声高々に自らの計画を謳いあげる。

 

「当たり前だろ! 私はもう学んだんだよ、ほどほどが一番だってな。今日の自己紹介では目立ち過ぎず、かつ大人しすぎない、程よい感じの自己紹介をするつもりだ! そうだな。好きな食べ物とか、趣味とか、得意な事とかでもいいかもしれないな。それが普通の自己紹介ってもんだろ。普通じゃないやつには誰も寄ってこないからな。私は学んだんだ。狙いすぎたって碌なことがないってことをな!」

 

 一通り言い終わると、いつの間にか肩で息をするくらい力が入ってしまっていた自分に気が付く。知らず感情が入りすぎた智子は、だいぶ口調が強くなってしまっていた。

 自分の言ったことに、さぞぐうの音も出なくなっていることだろう。智子はいったん呼吸を整えると、期待を胸に八幡へと向き直る。

 しかしそこにあったのは、決して言い負かされた人間の表情ではなかった。むしろ相手を見下しているような、つまらないものでも見ているような、そんな落胆の表情が、八幡の顔にはありありと浮かんでいた。

 あまりにも予想と異なる八幡の様子に智子が困惑していると、八幡の口が一瞬大きく開きかける。

 その動作に智子がややビクつくと、八幡は開きかけた口をいったん止めた。智子から視線をそらし、わずかの逡巡を見せる。

 それは、言いたいことを口にすることをためらっているような、智子が初めて見た八幡の姿だった。

 前触れもなく表れた珍しい八幡の様子に、智子がしばし唖然とする。

 八幡でも遠慮することがあるのかと、それは一体どんな内容なのかと、智子は気になると同時に恐ろしく感じた。

 そしてようやく意を決した八幡は、逡巡の前よりもやや抑えめに口を開く。

 

「あー……。これは一個人の見解として、全く聞き流してもらって構わないんだが。反論も可だ」

「な、何だよ?」

 

 まるで自分に対する言い訳のように、八幡は前置きする。

 その様子をやはり妙だと感じた智子は、やや身構えながら先を促した。

 

「ほどほど? 普通? 何それ、おいしいの?」

「は!?」

 

 あまりに遠慮のない、智子の考えを根本から否定する言葉を八幡が口にする。

 それに智子が驚愕するが早いか、八幡は次から次に自分の意見を捲し立て始めた。

 

「お前はさっきから随分と『普通』だとか『ほどほど』だとか『程よい』だとか、周りに合わせることに重点を置いているみたいだが、そんなものに一体何の価値がある? 普通の自己紹介をして普通の友達をつくって、普通の学校生活を送るのがお前の望みってことか?」

「あ……ああ、そうだよ! 私は普通に生きていたいんだ! だから普通に友達が欲しいんだよ!」

「そうか。だが諦めろ。お前は普通じゃない」

「っ! いやだから、普通になろうとっ……!」

「第一『普通』なんてものが全く虚構なんだよ。人は誰だって普通になんて生きてないし、『普通の友達』なんてものも存在しない。存在しないものを追いかけることに意味はないだろ?」

「意味わかんねーよ……。何言ってるんだお前」

 

 やはり智子には、八幡の言っていることが少しも理解することができなかった。ただひたすら、八幡の主張が頭の中でぐるぐると渦を巻いているだけだ。

 

――私が普通じゃないなら、私以外のやつらが普通ってことで、じゃあ私が普通の自己紹介をすれば普通のやつらが集まってきて、普通の友達ができるんじゃないのか?

 

 智子の思考は、八幡の思想と合わさって混ぜられたことで、もうめちゃくちゃだ。

 だからこそ、一番シンプルな疑問が智子の口から発せられるのは、自然なことと言えた。

 

「普通に自己紹介するのが、そんなにいけないことなのかよっ……!」

 

 智子の心からの訴えに、半分気持ちよくなって持論を垂れ流していた八幡は、少し冷静になる。

 ややためらいながらも、彼女の訴えに対し八幡も、自身の根幹をなしている考えでもって対抗することにした。

 

「……別に悪いとは言わねーよ。だけど自分を偽ってできた友達ってのは、結局自分を偽り続けなくちゃならない枷にしかなんねーだろ。そんな表面上の……うわべだけの関係に俺は価値を認めないだけだ」

 

 それがとどめとなったのか、智子の不健康な目はうっすらと潤み、今にも決壊してしまいそうな様相を呈する。

 もうじき始業を告げるチャイムが鳴る。そのおかげか、教室にほど近いこの廊下でも人がまばらなのは八幡にとってありがたかったが、このまま智子を置いていくわけにもいかない。彼は何かをごまかすように、頭を掻くことしかできなかった。

 八幡が何回か時計を確認すると、そのたびに時間は始業の時間へと、刻一刻と差し迫っていく。

 流石にもう適当に話を締めて行くかと、八幡は考える。

 その時、智子がうつむいたまま、か細い声で何かをつぶやく。その内容を八幡は聞き逃さなかった。

 

「じゃあ……」

「あ?」

「じゃあ私はどうしたらいいんだよ……」

 

 まるで助けを求める迷子のようなそのささやきは、八幡の胸の中、そのどこか深いところを確かに打った。

 自分というものを見失いかけて、もがき苦しみ足掻いていたころの過去の自分。智子の訴えは、そんな過去の自分からの、時を超えたSOSのように八幡には感じられた。

 流石に責め過ぎたかと、罪悪感も多少あった八幡は、うつむく智子の頭に自らの手をかぶせる。慣れないことしをて妙な気分になりながらも、過去の自分に言い聞かせるように、智子に言葉をかける。

 

「ありのままでいいんだよ。……多分」

 

 言い出してから、某雪の女王を思い出して恥ずかしくなった八幡は、ごまかすようにあいまいな言葉を付け足す。

 しばらくたっても智子からの返事がないことを確認すると、八幡は手を智子の頭から離して、自分の教室へと向かった。

 

「それじゃ友達ができないんだっつの……」

 

 ある程度元気を取り戻したのか、後ろから悪態をつく智子の声が聞こえてきた。

 

 八幡は背中越しに手を上げ左右に振ることで別れの態度を示すと、やはり智子の言葉を否定する言葉を口にする。

 

「できただろ……」

 

 八幡が自分の新しいクラスへ入ったのと同時にチャイムが鳴り響く。始業を知らせるチャイムだ。

 智子は誰もいなくなった廊下をしばらく眺めていた。だが、遠くから教師が近づいてくるのを見つけると、そそくさと教室に入り自身の席へ座ることにした。

 

 智子が席に着くと、すぐに教師が入って来る。

 朝のホームルームが始まった。

 まずは教師が自分の名前を告げ、担任としての挨拶を済ませる。体育館へ移動するまで時間が空くと、それを利用しクラス全員が自己紹介をする運びとなった。

 そんな唐突な展開に思考が追い付かない智子は、他の生徒が自己紹介をする様をただ何となく眺めてしまう。

 自分の趣味、得意な事、所属する部活など、その内容は様々だ。そして誰一人、一年生の時智子がやったような、奇をてらった自己紹介などやっている者はいない。

 こうして客観的に見ていると、去年自分がやったことがいかに異常であったのかがよく分かる。しかしその一方で、智子はますます分からなくなってしまう。

 

――普通って何だ? アイツらがやっているようなのが普通の自己紹介じゃないのか? 私も似たようなことを言えば普通の学校生活が送れるんじゃないのか?

 

 そんなことが頭の中で堂々巡りをして、自分がどうすればよいのか分からなくなってしまう。そうして前後不覚になっているうちに、智子の番がやってきてしまった。

 状況に全く追いつけず智子は硬直してしまう。それを不審がった隣の女子が、心配して声をかけたのを、誰も責めることはできないだろう。

 

「……? 黒木さん、順番だよ?」

「っ!? ひゃいっ!!」

 

 急に声をかけられたことで、反射的に声を上げ立ち上がる。推定三十ばかりの視線が智子を見つめる。

 いよいよもって吐くか気絶するかの選択を智子は迫られる。真っ白になった頭の中。なぜだか不意に、先ほどこちらをさんざんなめくさってくれた男の言葉がよぎる。

 

『ありのままでいいんだよ。……多分』

 

――適当な事言いやがって。何がありのままだよ。お前はどこぞの雪の女王かよ。

 

 心の中で気に食わない男への悪態をつくと、みるみるうちに自分の体へ冷静さが戻ってくる。

 智子は不思議な気分だった。

 こんなこと今まで一度だってなかった。魔法にでもかけられたような気さえする。

 先ほどよりもよく見えるようになった教室を見渡す。そうすると、みんな思ったよりこちらのことを見ていないことに、智子は気付く。

 目が合うものなど稀で、ほとんどは興味なさげに何となく顔を向けているだけだ。中には近くの席同士で雑談をしているものさえいる。

 智子は自分が気にしていたことが、急激にどうでもよいことのように感じられた。同時に何だか恥ずかしくなる。

 智子が立ち上がったまま、何も言い出し始めないのを変に思ったクラスの連中が、少しずつざわつき始める。

 それを智子は見て取る。慌てず、リズムを取るように一つ呼吸を挟むと、意を決して自己紹介を始めた。

 

「あのっ……、黒木、とっ、智子です。…………一年の時は、その、クラスに友達がでっ、できなかったのでっ! あぅ……、その、仲良くしてもらえるとっ、う、嬉しい……です」

 

 それだけ言い終わると智子はすぐに席に座る。うつむいて机だけを見ることで、周囲の情報をシャットアウトするためだ。

 名前だけを言って終わるつもりだったのが、思いがけない言葉が後に続いてしまった。そのあまりの恥ずかしさに、耐えられなくなってしまったのだ。

 さっさと次の人が発表を始めて、自分の言ったことなどなかったことにして欲しい。

 そう智子は強く願った。だがその意に反して、眼鏡のお調子者が餌を見つけたように、声を上げて食いついてきてしまう。

 

「大丈夫だよ黒木さん! すでに俺とかもう友達だしっ、ね!」

 

 それをきっかけに、場に充満していた緊張感は弾け、クラスは大きな笑いに包まれる。

 その後の自己紹介でもかのお調子者は、「清田良典、黒木さんの友達っス!」などと言って、再びクラスの笑いを掻っ攫っていた。

 そして同時に、黒木智子の自己紹介もまた、2年4組にとって忘れられない、印象に残る自己紹介となってしまったのである。

 

「あはは……。よかったね、黒木さん!」

 

 先ほど声をかけてきた隣の女子生徒が、その顔の可愛らしさを前面に押し出した笑みを浮かべて、智子に祝いの言葉をかける。しかし智子の心中は、あまりの恥ずかしさやら、後悔やら、文句やらでそれどころではない。

 ぐしゃぐしゃになってしまった顔を隠すため、机に覆いかぶさりながら智子は泣いた。

 

――どうしてこうなった……?

 

 未だ思い通りにいかないことばかりの智子だが、分かったことはいくつかある。

 一つ。やはり自分とリア充は決して相容れない存在なのだということ。

 一つ。このクラスでは「友達のいない黒木さん」としてのスタートダッシュを、軽快に踏み出してしまったということ。

 そして最後に一つ。今現在ぐちゃぐちゃになってしまっている自分の心の中に、一年生の自己紹介の時にはなかったものがあるということ。

 何か生暖かいものがゆらゆらとたゆたっている。その生暖かいものに触れようとするたび、気に食わない腐った目の男の姿がなぜか浮かんでくる。

 それこそが、いま智子を形成しているものだ。しかしそれを説明付けることは、彼女には到底不可能だった。

 だから、やはり黒木智子の自己紹介は間違っている。

 


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