ベストプレイスには、智子の方が先に着いていることが多い。購買に寄ってから向かう八幡と比べて、弁当を持って直接向かうことができるアドバンテージがあるからだ。
八幡が到着するころには、大概智子は弁当を広げ先にお昼を始めている。八幡が少し離れたところに座りパンの包みを開けると、どちらからともなく話し始める。特に話題のないときは、お互い本を読んだりスマホを見たりして無言でいる時も多い。
八幡は先に弁当を食べていることに腹を立てることはないし、智子も本を読みふける八幡に文句を言うことはない。それが二人の当たり前だからだ。
八幡は最近、智子に関してある法則を発見した。日々昼食を共にする中で見つけたそれは、八幡の観察眼がなせる技か、はたまた智子の単純さによるものか。
それは『先に着いている智子が弁当を広げていなかったら、その日の智子は面倒』というものだ。
智子が八幡を待ち構えているときは、大概ろくでもないことを考えている兆候だということを、八幡は経験から悟ってしまったのである。
例を挙げればきりがない。『一回私に痴漢してみろ』とかとち狂ったことを言い出したり、智子の考えた訳の分からない部活への入部を強制してきたりしたときは、全て法則に則っていた。
そのため八幡には最近、ベストプレイスへの最後の角を曲がる瞬間に一回深呼吸するという、妙な習慣が根付いてしまった。
本当のところ、顔だけ出して智子がまだ弁当を開けてなかったら帰るぐらいのこと八幡はしたいぐらいだ。しかし一応は約束しているからと、彼は律儀にそれをしなかった。
そして今日、八幡は目の前の光景に唖然としていた。最後の角を曲がり切り露わになった智子の姿が、これまでにないぐらい不穏な空気を帯びていたからだ。
智子は普段腰かけている段差の上に、狭苦しく体育座りをしていた。手にはスマホを握りしめ、そこからイヤホンで音楽を聴いてるようだ。
最も奇妙なのはその表情だ。目には全く生気が宿っておらずどこか虚空を見つめている。にもかかわらず口角は上がっており、その顔ははっきりと笑っていた。
もし智子のことを全く知らないものがここを通りがかったら、ほぼ間違いなく、恨みを抱えて亡くなった女生徒の霊と勘違いすること請け合いだろう。それほどまでに智子の様子は、怨嗟のようなものを孕んでいるように見えた。
一瞬本当に帰ろうか迷った八幡だったが、今の智子に背を向けたら呪われそうな気がして思いとどまる。かといって声をかけるのも憚られたので、なるべく智子を刺激しないよう、いつも通りに振る舞うことにした。
いつも通りの歩調で、いつも通りの場所に座る。
「ぅす……」
できるだけ智子を視界に入れないよう、いつも通り最小限のあいさつをし、いつも通りナポリタンロールを袋からだす。
智子からの返事はない。そこで八幡は包装を開きながら、横目でちらと智子の様子をうかがった。
こちらに首を向け、目を見開き先ほどと同様の笑みを浮かべる智子と目が合う。
「うおっ!」
その状況のホラーっぷりに流石の八幡も慄いた。体がビクつき、危うく昼食を落としそうになる。慌てて袋を持ち直した八幡に横から声がかかった。
「なあ、今日の私存在感濃くね?」
「……自覚があったとはな。学校の怪談とか七不思議に加わりそうなレベルには濃いぞ」
会話ができたことにより、八幡には多少余裕が生まれた。散々ビビらされた腹いせに、たしなめる意味も込めて皮肉を言う。
「その存在感の濃さなら、クラスの中心人物とかになれるんじゃね?」
「うふふふ、もうなってるよ……」
だがその皮肉は皮肉足りえず、逆に智子の闇を深めてしまう。いつもとはあまりに異なる智子の有様に、八幡は流石に訳が分からない。
ついに八幡は降参を決め、智子にその事情を尋ねることにした。
「お前おかしいぞ、一体何があった?」
その問いに対し智子は答えず、代わりにイヤホンをスマホから取り外す。それが何を意味するのか、初め八幡には理解できなかった。
智子がスマホの音量を上げていく。ずっと智子が聞き入っていたものの正体が明らかとなった時、八幡はその行動の意図を察した。
『黒木さんってなんかおかしいよね……』『つーか引くわ』『普通踏むか……』
それは会話だった。その雰囲気から察するに、教室内で交わされる生徒達の雑談を録音したものだと思われる。
その話題のほとんどが、黒木智子という生徒を批判するような内容で占められている。それが八幡のトラウマを刺激し、過去の不快感を呼び起こさせた。
いつの間にか智子は笑みを消し、すがるような視線を八幡に向けていた。
「なあ、どうしてかな。ただ私は空気になりたくなくて、気付いてほしくて、ただそれだけなのに……」
「お前……、そうか。そりゃあどこにでもあるわな、こういうのは」
八幡は智子に慰めのセリフなどかけない。ただ把握した事実を淡々と告げるのみだ。
智子のことは、智子のことでしかない。彼女の痛みは、彼女にしか分からない。
似たような経験をしたことがあるからと言って、分かった気になって同情するのは八幡の主義に反する。
「……何があったんだ?」
だけど、せめて話ぐらいは聞いてやろうと八幡は思う。世の理不尽さを、自分の惨めさへの嘆きをぶつけるサンドバッグくらいにはなってやりたかった。
だから今までで一番優しい、落ち着いた声で智子に呼びかける。
「聞いてやるよ。話ぐらいは」
その言葉に智子は驚く。そしてすでに潤んでいたその目は、また別の感情で湿り気を強めた。
今自分は一人じゃない。話を聞いてくれる誰かがいる。
ただそれだけでこんなにも気持ちが楽になるのだということを、智子は今初めて知った。
しっかりと話せるように喉の調子を整え、涙を拭う智子。その表情は先ほどよりも晴れ晴れとしていた。
「実は、目立とうと思って、教室に出たゴキブリを踏みつけてみたんだけど」
「はあ? 何やってんだ気持ちわりい。お前馬鹿じゃねーの?」
八幡は反射的に智子を糾弾してしまった。しかしそれも仕方のないこと。智子の語った事情がいくら何でも突飛に過ぎたのである。
しまったと思った時には、すでに智子の顔は真っ赤に染まり切ってぷるぷると震えていた。
「あ、ああ!? 何が馬鹿だあ!?」
「いや、すまん。つい本音が……」
八幡は取り繕おうとしたが、そういう時に彼の口調は全くの火に油だった。智子の怒りは収まらず、目には再び涙を湛え始める。
「私だって必死だったんだ! ゴキブリを潰せばヒーローになれるって思ったんだよ!」
「発想が小学生だろ……。気持ち悪がられるに決まってんだろ。もう少し考えろよ……」
「考えたよ。考えた結果がこれだよ! うぅぅ……」
とうとう智子は泣き出してしまう。一度あふれ出てしまった涙は、そう簡単に止まってくれそうにない。
塞ぎこんでしまう智子を見ながら、やはり自分の見つけた法則は正しかったのだと、八幡は諦めにも似た確信を得る。
このまま智子が昼の終わりまで泣き止まない可能性は非常に高く、五限をサボることになるかもしれない。それはもう、果てしなく面倒くさかった。
せめて一縷の望みに掛けようと、八幡は智子の好きそうな単語を並べて彼女あやしてみることにした。
「にしても、躊躇なくゴキブリ踏めるってすげーな。お前サイコパスの才能とかあるんじゃねえの? 本当唯一無二だな。傭兵とかになるべきだろ。実は二重人格とか」
「……」
智子は返事をしない。だが、うつむいたその口元がやや吊り上がったのを、八幡の腐った目は見逃さなかった。
八幡は愕然とする。こんな程度の慰めで何とかなってしまう智子の単純さに。そして、彼女の喜ぶ言葉があっさり浮かんでしまう自分自身に。
お昼が終わるまでには、まだしばらく時間があった。
結局、多少の余裕すら残して五限に出席した八幡は、智子についてまた新たな法則を発見してしまった。
『智子は中二病くさい言葉が大好き』
法則というよりただの情報のような気もするが、今のところ八幡にとってそれは有用なものだった。
だから彼は、とりあえずこの法則を覚えておくことにする。
いつかまた、この法則が役に立つ日が来ないことを切に願いながら。