「どぅえっ!?、来た!?」
「うおっ、いた!?」
二人が声をあげたのはほとんど同時だった。
智子は段差に腰を下ろし、広げた弁当を前に手を合わせ、今まさに昼食を始ようとしているところだった。
八幡は校舎の角から身を乗り出し、手にはナポリタンロールと缶コーヒーの入ったビニール袋を携えて、今まさにベストプレイスに到着しようかというところだった。
向き合わせになった顔を同じように驚愕の色に染め上げたまま、二人の行動はストップする。お互いがお互いの次の動向を探る硬直状態が始まった。
――この勝負、先に動いた方が負ける!!
そんなことを考えながら、次第に顔をニヤつかせ始めたのは智子だった。その表情からは今の状況を楽しんでいる雰囲気が、ありありと漂っている。
対する八幡は智子の雰囲気から何かを察し、ため息をつくと固まっていた体を動かした。
彼はいままでのごく少ない智子とのやりとりから、一度こうなってしまった彼女からは何のアクションも得られないだろうことを、すでに予測していたのである。
八幡はつい昨日そうしたように、智子が座る位置からやや離れた小さい階段に腰掛けると、何も言わず昼食に取り掛かることにした。
そんな八幡の様子をしばらく目で追っていた智子は、それを相手の降参と受け取り一人ガッツポーズをする。そして相手がこちらとコミュニケーションをとる腹積もりが全くないことを察すると、彼女も黙って昼食の続きを取ることにした。
二人は昼食を取りながら自身の予測が外れたことを意外に思い、内心で相手への苦言を繰り返していた。
『いやいや、なんで来んの!? 昨日思いっきしもう来なさそうな雰囲気出してたじゃん!!』
『まさか今日もいるとはな……。 てっきり昨日っきりの昼食場所にここを使ってるかと思ったんだが』
これから後どのように振る舞ったものだろうか。お互いそんなことを気にしながら、二人は無言でそれぞれの昼食をただ口に運び続けた。
ただ、テニスコートから聞こえてくるボールを打つ音だけが空間に響き渡っていた。
微妙な距離感と空気の中行われる、何とも形容しがたい二人の食事会が続く。その様は他人から見れば、さぞ奇妙に映ったことだろう。
二人が初めて会合したあの日。
たどたどしい自己紹介のやり取りが終わった後、五限終わりのチャイムが鳴り響いた。
それを合図に、二人は特に会話らしい会話もせず、別れてそれぞれの教室へと戻った。
八幡と智子は、各々のクラスで周りからの奇異の視線と居心地の悪さを感じながら、明日のお昼をどうしたものかとそれぞれ考えていた。
そして二人ともが、理由をつけたり自分に言い訳をしたりした結果『まあ明日はアイツはいないだろう』という結論に至ったのである。
普段であれば悪い方悪い方へと慎重に物事を考える彼らが、珍しくなあなあに結論を出した結果が、今回の奇妙な食事会を生むこととなったのだ。
そして現在。
二人は浅はかな決断を下した昨日の自分を、殴りつけたいような気持ちでいっぱいだった。
ありていに言えば、激しく後悔していた。
なんだ、これは。
なんだこの辛さは、居心地の悪さは。
これまでになく押し寄せてくる不快な感情に二人は苦しんでいた。
『むりむりむりむり!! ナニコレ気まずっ!! 教室でぼっち飯してた方が百倍ましなんだけど!? 』
『これは……、キッツイな!! 本の内容が全く頭に入ってこない……。中途半端な知り合いの存在がこんなにしんどいとは!?』
『ていうかコイツも何か喋れよ!! 本読んですましやがって! こちとらスマホいじってるふりでなんとかしのいでるってのにっ! 気楽なもんだな!?』
『もう罵倒でも何でもいいから喋ってくんねえかな!? 無音がとにかく辛すぎる……! 耐えられん!!』
『『さっさと昼飯終わらして早々に離脱しよう!! そうしよう!!』』
あんなにも心安らぐはずだった場所をここまで変貌させてしまうもの。それこそが「中途半端な知り合い」の存在である。
二人は今現在、それを十分すぎるほど痛感していた。
もしこのまま何事もなくお昼を食べ終わったのならば、二人は再び別れ二度と相見えることはなかったであろう。
半端な知り合いの存在は、ぼっちの彼らにはもともと荷が重すぎたのだ。ぼっちは寄せ集めたところでぼっちでしかない。友達になどなれないのだ。
だがしかし、そうはならなかった。
それは偶然か、はたまた運命のいたずらか。
突然、一際大きなボールを打つ音が鳴り響く。
ふと智子が音がしたテニスコートに視線を向けると、黄色い球状のものがもう目の前まで迫っていた。
「えっ……、どぅおっ!!」
それをテニスボールと認識するやいなや、顔面へと向かってくるそれを躱すため、智子は反射的に身を屈めた。
万年帰宅部の智子にしては瞬発的に動くことができた結果、ボールは智子の頭上ぎりぎりを掠めていく。
「ふぅ……、って、ちょっっ!!」
ほっと一息ついたのも束の間、急激に揺り動かされバランスを崩した弁当が智子の膝から滑り落ちていく。
朝早く起きて作ってくれた母の思いを守りたかったのか、それとも単純に空腹を満たす糧を失いたくなかったのか。
智子は地面に落下する弁当を必死にすくい上げようと、体ごと手を伸ばした。
しかしそれが良くなかった。
何度も激しく捩じらされた智子のはすでに限界だったのだろう。弁当をつかんだ瞬間智子はあっさりとバランスを崩し、その体が段差から滑り落ちる。
驚いている暇もないほど、あっという間に地面が智子へと近づいてくる。コンクリートで固められた地面は実に堅牢といった感じで、打ち付けたら間違いなく痛いだろう。
後は地面に身を打ち付けるのみとなった智子は、どこか観念したように自身の運命を嘆いていた。
――なんでこうなるんだよ畜生っ!! 私が何をした!? くそっ! 殺したい! 今お昼を呑気に満喫してるやつ全員死んでほしい!! くそくそくそっっ!!
そして鈍い衝撃が智子の身を包み込んだ。
やがて訪れるであろう痛みに、止まず世を呪いながら、固く目を閉じて智子は待ち構える。しかしいつまでも智子の痛覚は働くことなく、代わりにあきれ返ったような声をその聴覚がとらえた。
「こんな時まで他人への罵倒とか、救われねえぞお前……」
――あれ? 声に出てた? というか全然痛くない……?
一転して脳内を疑問に支配されながら、ゆっくりと智子は瞼を開ける。彼女の瞳には眩しいほどの青空を背景に、片目をつぶりながらこちらを責めるように見据えている、昨日出会った男の顔が映っていた。
状況への理解が全く及ばない智子がしばらく目の前の顔をただ見つめていると、八幡が視線をそらして呟く。
「いいかげんどいてくれませんかね、重てえんだけど……」
そう声をかけられて初めて智子は、自身の体が八幡の上に伸し掛かっていることに気付く。自分は目の前の男の胸を枕にしているのだ。智子は青ざめた。
生まれてこの方、智子は弟と父以外の男性とここまで密着することはなかった。男性との、しかも同世代とのかつてない距離に、彼女の体は硬直してしまった。
不意にテニスコートの方から、こちらに呼びかける甲高い声が飛び込んでくる。
「すみませーん! こっちにボール飛んできませんでしっ……! す、すいませんでしたーー!!」
テニスコートと校舎を仕切る植木を抜けて、随分かわいらしい、テニス部員と思しき生徒が姿を現した。
しかしボールを飛ばした張本人だと思われるのその生徒は、それを確認する暇もなく逃げ去って行ってしまう。智子と八幡の状態をみて、何か勘違いしてしまったようだ。
その一連の流れのおかげか、今の状況がまずいと悟った智子はすぐさま八幡の上から立ち退いた。
そして何とか無事だった弁当を置くと、神妙な面持ちで八幡に向き直る。
「あっ……!ありがとうっ。体、だっ、だいじょうぶ?」
「いや、まあ大丈夫だ……。意外だな、また痴漢だのなんだの言われるかと思ったが……」
「んなっ! わっ、わたしのこと何だとっ……!!」
「変な女。それ以外ないだろう。自分の言動思い返してくれ……」
智子は心の中で確信していた。
――うん。やっぱりコイツないわ。流石ぼっちなだけあるわ。
悪態をつく八幡の様子を眺めながら、目の前の男を見直しかけた自分を戒める。
智子が目線を下に移すと、もともと彼が座っていた場所に食べかけのロールパンが落ちているのを発見した。
無惨にも中身が飛び散っているその有り様から、それがよほど勢いよく放り投げられたことが見てとれた。
「あっ……。パン」
「ん? ……ああ、とっさだったもんで落としちまった。掃除しとかねえと」
そう言ってパンとその破片を八幡は拾い集める。その背中を智子は眺めながら、改めて謝罪の言葉をかけた。
「ごっ、ごめんなさい……。私のせいで」
「別にお前のせいじゃねえよ。俺が勝手に動いて勝手に落したんだ。気にすんな」
「だっ、だけど……」
「……だったら拾うの手伝ってくれねえかな? 思ったより飛び散ってた」
「えっ、でも食べかけのだし、地面に落ちてて汚いしそれはちょっと……」
「ふー……。流石だなお前。やっぱりぼっちなだけあるわ」
八幡はため息をつきながら、拾い集めたパンを元あったビニール袋に詰め終わると立ち上がった。彼は何とも言えない、しかし決してプラスの感情は含まれていない目で智子を見返す。
智子はそんな八幡の視線に一瞬尻込みしたが、自分が非難されていることは分かったので、負けじと言い返すことにした。
「おっ、お前だってぼっちじゃねーか!!」
「ああそうだ。ふん、それがどうした」
智子のオウム返しに近い罵倒に対し、しかし八幡は余裕の姿勢を崩さなかった。
「俺はぼっちだ。そのことを自覚し、むしろ極めようとさえしている。俺にとって俺がボッチだと告げられることは、『今日はいい天気ですね』みたいな益体のない日常会話のようなものであり、事実確認でしかないんだよ。」
「はあっ? なっ、何言って……」
「だがお前は違うな。俺は何人ものぼっちを見てきたからな。手に取るようにお前の心情はわかるぞ。お前は自分がぼっちであることを全く受け入れられていない人間だ。にもかかわらずぼっちから抜け出すための努力も特にせず、あまつさえ周りが悪いと恨み言をまき散らして全く反省をしない。そういう類いの人間だろう。断言しよう。お前今のままだったら絶対友達出来ないぞ。少なくとも高校卒業までは間違いなく」
「そっ!!そんなのお前だって……!!」
「だから言っただろ。俺は自分をぼっちであってこそだと思っている。むしろ友達とか余計なんだって。あんな自分の要望と願望を押し付け合うだけの人間関係、こっちから願い下げだっつの」
「っ……!!」
八幡の持論を聞かされながらも、智子は彼が何を言っているのかほとんど理解することはできなかった。それでも、何だか無性に言い負かされているような気がして悔しかった。
だから、何とかして八幡の言っていることの穴をついてやりたいと智子は考えた。
どうやら目の前の男は自分がぼっちであることを肯定的に捉えているらしい。それだけは何とか智子にも理解することができた。
ならば、コイツをぼっちではなくしてやればいいのじゃないか。コイツ自信を支えている、根幹をなすものを私が消し去ってやろう。智子はそう考えた。
そして、自身の思い付きを全く反芻することもなく、智子は衝動に身を任せてそれを言い放った。
「じゃあ残念だったな! 今から私がお前の友達だっ!!」
「は?」
智子からの強烈な一撃に、八幡は目を丸くして、よく理解できないといった表情を見せた。
それがたまらなく気持ちよくて、智子のリミッターはその瞬間に完全に解除されてしまう。
「いっ!! 一緒にお昼食べてんだからっ! 完全に友達れしょ!! ざまあー!! お前もうぼっちじゃない!! もう極められましぇんね残念!! 私もぼっちじゃなくなって一石二鳥!?」
「お前、そこまでして……。なんかもうあれだ、あっぱれだわ」
八幡は何か可哀そうなものを見つめるような、やけに同情のこもった視線で智子を見た。
しかし今の智子にはそんな八幡の機微は全く範疇の外である。彼女はただ八幡が口にした、降参ともとれる言葉に気分を良くするだけだった。
そして勢いに任せ、今後の彼らの関係を決定づける一言を、口からつい滑らしてしまったのである。
「もっ、もちろん友達だから、これからも昼はここに集合な!! こ、こ、こなかったらさっきのテニス部員に『あれは暴漢に襲われてたんです』って涙ながらに語ってやるからなっ!!!」
「っ……! あーもうめちゃくちゃだよ。……お前、ほんと酷い性格してんのな。……くははっ!」
思わず笑い声を漏らす。どうやら八幡も自身が思ったより平静ではなかったらしい。
こんなハチャメチャな女相手に友達宣言されておきながら、『でもコイツなんか面白いし、まあいいか』なんて気持ちになるなど、いつもの彼では有り得ないことだったのだから。
これで第一章が一旦区切りになります。
次回は土曜に投稿します。