黒木智子は夢を見ていた。
夢の中では、誰もが智子を気にかけて、誰もが智子に優しくて、この世のすべてが智子の居場所だった。
でも、だからこそ智子はそれが夢だと気づいてしまう。今たゆたっている世界の全てが嘘だと理解してしまった。
そして智子は願った。夢が覚めないことを。この優しい世界がいつまでも続くことを。
しかし彼女は知っていた。この願いが叶わないことを。
夢は覚めるものである。この世界はじきに消失し、こことは正反対とも言える現実へと自分は投げ出されるであろうことを、智子は既に知ってしまっていた。
だから彼女は妥協しつつも、けれども懲りずにまた祈る。
――せめて、あの地獄のような世界にも自分の居場所さえあれば。
――せめて、一時でも安らぐことができる空間があったのならば。
次の瞬間、激流が智子を押し流し、理想の世界の全てを洗い流してしまう。
そうして彼女は、彼女が住まうべき世界へと舞い戻らされることとなった。
意識を覚醒させた智子の目に映ったものは、全てが90度傾いたテニスコートと青空だった。
いつの間に世界はこんなに傾いたのだろう、などということを考える間もなく、智子は自身が地面に横たわっていることに気がついた。
コンクリートの上は決して寝心地が良いわけではない。直に地面に触れている頭に鈍く走る痛みとともに、智子は自身の置かれている状況をぼんやりと理解していった。
――そう言えば、今日は外でお昼を食べたんだっけ。それから……。
智子はなんとなく酷い目に合わせられたような感覚を覚えていた。それを思い出す前に、まず不快な寝床から離れようと身を起こした智子。
そのとき、どこかから気だるげそうな声がかけられた。
「やっと起きたか。6限に間に合わないんじゃないかと思ったぞ」
「ひぇ!? だれ? 誘拐犯?」
「いや、もうそういうのいいから」
声のした方向に智子が視線を向ける。そこには先ほど散々毒舌を吐きつけてきた男が、少し離れた階段状の段差に腰掛けていた。
お昼はもうすでに食べ終えたのだろう。白いビニール袋の端が制服のポケットから無造作にはみ出している。
その目線は智子を全く見ておらず、手に持つ文庫本に釘付けられている。それだけで彼がまともなコミュニケーションを初っ端から破棄していることが見て取れた。
しかしそうしている彼の姿は全く自然なもので、智子には完全にここの景色に溶け込んでいるように見えた。
そんな彼の様子を眺めて、『そういえばこいつはここの先住民(推定)だった』と智子は気を失うまでのことを思い返していた。
彼の様子と先の発言から、智子の意識が飛んでからだいぶ時間が経ってしまっているのだろう。
図らずも五時間目の授業をさぼってしまったことに若干の罪悪感を覚えながらも、智子は一つ疑問を抱いた。
なぜ目の前の男は、五時間目に出席せず悠長に読書に勤しんでいるのだろうか?
見た感じからしても、彼から不良という印象は受けない。むしろ教室の端で、黙って授業を受けている光景の方が智子には容易に想像できた。
智子は思わずその疑問を問いかけてしまっていた。
「えぅ……、あ、あの、な! ……なんで、い、い、いんっ……いるんですか?」
「それはアレですか、俺は存在してちゃいけないんですかね……」
「そっ、そうじゃ……なくてっ」
「……、なんかさっきとは随分違うな。罵倒してた時はもうちょっと普通に喋ってなかったか?」
「いやっ、それは……、あのー……」
質問を質問で返すんじゃねえカスが!! 智子はそう叫んでしまいたい気分だった。
もし智子の状態が数刻前と同じであったのならば、実際口に出してしまっていただろう。しかしそれは今となっては不可能であった。
なぜならば、智子が強気に出られるのはよっぽど親しい人物か、もしくは極端に見下している相手に限定されるからである。
『普通に喋れたのは、お前を完全に見下していたからだ』などと言えるはずもなく、智子は相手の質問を口早にごまかすことにした。
「ふひひっ! ま、まあいいじゃないどぅすかっ! しょれよりも!! ごっ!五時間目出なくて、よっ……よかったん……ですか?」
「…………」
何も答えず、本のページを進める男に、智子は自身の希望的観測をぶつけてみることした。
「もっ、もしかして、起きるまで待っててくれた……とか」
「……まあお前との良くわからんやり取りで、飯食う前に昼終わっちまったし。五限も割とどうでもいい授業だったからな。消去法だ、消去法」
まるで目の前の文庫本に台本でも書いてあるかのように、抑揚のない声で男は答える。そこに先ほどまでとは打って変わった不自然さを智子は感じた。
智子は過去の乙女ゲープレイ経験から、帰納的に彼の動向が指し示す答えを直感していた。
そう、これはまるで……
「おいおいおいおいツンデレかよ!? いつの間にかフラグ立ってた!? 罵倒系ヒロインが今キテるとは聞いてたけど、こんなにあっさりで良いのか!! こりゃとんだヌルゲーだな現実!!」
「おい心の声漏れまくってんぞ。てかホントどんだけ自意識過剰なんだよお前。あと罵倒系とか暴力系とか俺無理だから。綾波系一択だろ常識的に考えて」
「…………あ~、でも私普段無口だから割と綾波系かも」
「お前はただぼっちで話す相手いないだけだろ……」
「っ! お前に私の何がわかんだよ……!」
「いや、まあ知らんけど。初対面だしな、名前も何も全然分からん」
「「…………」」
そうして二人とも無言の時間がしばし続いた。
男は智子の反応を待ち構えているようだった。しかし智子には自分から名乗り出る気はさらさらない。
自分から名乗ったらなんだか負けた気がする。それに加えて、智子が死ぬまでに一度は言っておきたいセリフトップ10の一つ『人に名前を聞くときは、まず自分から名乗るべきだろ?』を言う絶好のチャンスだと彼女は考えたからである。
智子が脳内で発声練習をしていると、しびれを切らしたように男が口を開いた。
「比企谷八幡。一年生だ。おま」
「ひっ!?人になみゃえをききゅときはあ!!?」
智子は噛んだ。しかも言葉の使い時を間違っていた。
智子が言おうと待ち構えていたセリフは、よく考えたら相手が一方的に名前を聞いてきたときにしか使えないものだった。なのに相手が思ったより素直に名乗ったものだから、彼女はテンパってしまったのである。
千切れんばかりに噛み倒してしまった舌の痛みに、智子は顔を真っ赤に染め上げる。それきり彼女は言葉が出なくなってしまった。
男はもはや諦めたように智子の回復を待っていたが、やはり待ちきれなくなったのか、続きを促す言葉を言い放った。
「あーー……、うん。大丈夫か? で、お前の名前は?」
事情をなんとなく察した男からの、微妙過ぎる同情がとどめとなった。涙がポロポロとこぼれ、すでに智子のメンタルはボロボロだった。
しかし、礼儀にのっとって名乗りを促されては彼女も観念する他はない。
舌の痛みをこらえながらも、絞り出すように智子は名乗りを上げた。
「くっ、黒木智子。一年でしゅ……」
「っ! ……くっ」
結局最後まで噛み倒した智子の自己紹介に、男――比企谷八幡はどこか親近感を覚え、こっそりと口角を上げる。
こうしてぼっち二人は、ようやくお互いを正確に認識することができた。
明日も投稿します。