比企谷八幡は困惑していた。
眼前の女子生徒を見やる。少女は硬直し、二の句が全く出てこない状態に陥っているようだ。
――自分から爆弾を放り込んで、なんとも身勝手なものだ。
そんな様子の女子生徒に対し、八幡はますます疑念を深めた。
――この女は一体何がしたいんだ?
一体全体、なぜこのような状況に陥っているのか?
そんな疑問の答えを探るため、八幡は今日起きたことをお昼の始まりから振り返っていた。
現在から遡ること数十分。
お昼の開始を告げるチャイムが鳴り響き、八幡はいつものように購買へと向かった。
八幡の両親は共働きである。両親の朝は早く、彼らは自分たちの子供のために弁当を作る時間を確保することができないのが通例であった。
そのため八幡は、購買でパンを買うことでいつも昼食を済ませていた。
そんないつも通りのお昼の始まりに、しかしいつもとは違う事態が起こっていた。
彼がいつも買っているナポリタンロールが、今までそんなこと一度だってなかったのだが、売り切れてしまっていたのである。
呆然と立ち尽くす八幡の姿に、「ナポリタンロールばかり買う男」として彼を覚えていた購買のおばちゃんが、同情して事情を語ってくれた。
なんでも昨夜のテレビ番組に、人気パスタ店で芸人がトップ10を当てるまでメニューを食べ続けるという内容のものがあったのだという。そしてその一位商品が、よりにもよってナポリタンだったというのだ。
その内容に影響された実に多くの生徒が、こぞってナポリタンロールを買い求めたのだ。そのため普段の入荷量では当然賄いきれず、瞬く間に売り切れてしまったということだった。
結局、八幡は常とは違うコロッケパンを長時間の検討の末購入した。
そしてお昼を食べるため場所を移動したのだが、その足取りにはどこか釈然としない空気が纏わりついていた。
彼の心には、青春を謳歌せし者どもへの憐憫と哀れみ、そして諦観の感情が渦巻いていたのだ。
全く、なぜここまで権威者の扇動に乗りやすく、自己を客観的に見つめることができないのか。八幡は甚だ疑問であった。
彼らの愚かさの煽りを受けるのは、いつだって輪の外にいる人間だ。つまりぼっちだ。
八幡はすでに悟っている。
いつだって、おいしい部分をたいらげるのは彼らであって、自分はそれを眺め、場合によっては背負う側なのだと。まあそれがこの社会というものなのだろうと。彼は半ば受けいれてさえいるのである。
そうして八幡は心の整理をつける。もう次の角を曲がるころには、彼の心のわだかまりのようなものはすっかり消化されてしまっていた。
つまり、彼の困惑に関して、この件は一切関係ないということである。
その後八幡はコロッケパンを食べるため、ベストプレイスへの歩みを着々と進めていた。
ベストプレイスとは、彼がこの高校に入学してからの約半年ほどのぼっち生活で見つけた、唯一心安らぐ約束の地のことである。
学校のはずれ、テニスコートに面した校舎裏にその場所はある。そこでお昼をゆっくりといただくことが、八幡の学校生活ただ一つの楽しみであった。
「パン選ぶのにだいぶかかっちまったな……。あまりゆっくりはできないかもな」
そんな嘆きの言葉をつぶやきながら、八幡はベストプレイスに到着した。そこにはいつもの閑散とした風景が広がり、喧騒に疲れた八幡の心を癒やしてくれるはずだった。
しかし八幡の目に映ったのは期待と異なる、景色に溶け込むように一人佇む少女の姿であった。
校舎の段差に腰掛けていたその少女は、お昼の最中だったのか、ひざには弁当をひろげている。
重量と密度に恵まれた特徴的な長い髪を揺らしながら、弁当をつついていた少女は、八幡に気が付くとこちらを見据えたまま硬直した。
この場所に人がいたことなど初めてのことで、その余りの意外性と少女の見た目から、八幡は一瞬座敷童を想起した。
不覚にも八幡は手を合わせて拝みそうになった。だが少女が制服を着ていることからこの学校の生徒であると気付き、思い直す。
そして八幡は改めて女子生徒を観察する。そうすると彼女のおおよその事情もまた察することができた。
こんな場所で一人弁当をつついていること。
大きなクマを湛え、暗く淀んだその目つき。だらしなく着崩されたその制服。身だしなみへの無頓着さを表した、化粧っ気の全くないその風貌。
それら全てが、彼女もまたこの場所に行きついたいわば
なるべく目を合わせないよう横目で少女を観察しながら、八幡は思案する。
「はあ……、また次の場所探さねえとなあ……。まじ無理ゲーだろこれ」
八幡はひとりごちた。
もうすでにベストプレイスを諦める算段が彼の中で始まっているのである。
普通であれば、自身が唯一安らげる空間をそうやすやすと手放したりはしないだろう。
『ここは俺の場所だ!』などと所有権を主張したり、『隣、よろしいですか』のように紳士的な打診をしてみたりと、どうにか自分がこの場所から離れることのない流れに持っていくのが定石というものであろう。
しかし、比企谷八幡は普通ではなく、常識的な定石など彼の生活には存在していなかった。
八幡はもうすでに負けを認めている。
それは少女に対してではない。この世界に対してである。
この世界における自身の立ち位置というものを、彼はもう極限までに思い知らされているのだ。
故に彼は、この世の理不尽に抵抗など全くせずただ諦めるのである。
つまり、彼の困惑に関して、この件は一切関係ないということである。
そうして八幡は、この場から何事もなかったかのように立ち去ろうとした。
立つ鳥後を濁さず。
どうせ去るのだから、少女とも一切の接触をせずに、何の痕跡も残さずいなくなるのが良い。そう彼は考えた。
しかし八幡のそんな計画は全くの水疱と帰すことになる。
少女のとんでもない呟きによって。
「……視姦するだけして、JKおかずにお昼とか……、ま、まじキモイんですけど~」
「は!?」
聞いた。
八幡は確かに聞いた。
聞いてしまったのである。
それは酷い冤罪の幕開けであった。
そして場面は今現在へと帰ってくる。
長い回想となったが、これで比企谷八幡を困惑させているものがはっきりした。
それはつい先ほど聞いた、信じがたいほどのでたらめな、品のない猥褻な妄言だ。
さらに言うならば、状況から鑑みるにその言葉は、目の前にいる一見大人しそうな少女から発せられたと考えざるを得ないこと。
それこそが比企谷八幡を当惑させている原因に他ならないのである。
――さて、どうしたものか。
八幡は考えていた。
彼は予想外の事態や危機に直面した時、常にその思考でもって最良の答えを導き出してきた。
長年のぼっち生活で鍛え上げられた自身の思案力に、彼は絶対の自信を持っているのだ。
そうして今回もまた、八幡は自身にとって最良解と言える結論を導き出した。
「あー……、聞き間違い、かな。行くか」
今回のことは水に流すことにしたのである。
八幡にも正直思うところは多々あった。
勝手に変態のレッテルを貼られたことに対する文句であるとか、そんなことをしでかした女を放っておいていいのだろうかとか、不安要素は多分にあった。
しかしそれ以上に、これ以上目の前の少女と関わることに対する危機意識が、八幡に強く働いたのである。
『よく分からんけど、この女は絶対やばい』
そう感じた八幡は、少女の発言をなかったことにして、迅速にその場を離れようとした。
しかし、彼女はそう簡単に八幡を逃がしてはくれなかった。
「はあ!? 聞き間違いなわけねえだろこのド変態が! 帰るんだったらしっかりその脳みそから私の姿、おかずフォルダーから消去しておけよ! ド底辺野郎!」
「いやいや、ないから。一キロバイトたりとも保存してないから。その自意識過剰ぶりにはさすがの俺も正直引くぞ」
少女が叫んだ内容のあまりの荒唐無稽さに、八幡は思わずツッコんでしまっていた。
しまったと心の中で後悔するも時すでに遅し。
少女は八幡が言い返してきたことが全くの予想外だったのか、顔を真っ赤にし、しどろもどろになっていた。それでも、相手に掴みかかる言葉を何とか捻出しようとしていた。
「ひゃっ!? でゃって目つきとかいやらしかったすぃっっ!! あ、……ありぇはじぇったい脳内で私をぉっ、おっ!……犯しちぇる目だゃったしぃ……」
「いや、言い返されただけでどんだけテンパってんだよ……」
八幡は深くため息をつきながら、自身の算段が天高く昇天していくのを感じていた。
女子生徒は明らかにこちらに敵対心を持っている。こうなってしまった以上、彼女は八幡をこのまま帰らせはしないだろう。無理やり撤退することもできるが、それはその後が怖かった。
それに何より、ここまで動じてしまっている少女を放っておくことは、八幡にはできなかった。
ほとんど相手の自爆のようなものだとは言え、八幡にも原因の一端があると言えなくもないのだ。
立つ鳥跡を濁さずである。
自分の尻は自分で拭くのが八幡流なのである。
せめて少女を落ち着かせてからこの場を去ろうと、八幡は狼狽する少女に声をかけた。
「あー……、まあアレだ。お前はお前が思っているほど魅力的じゃないぞ。勘違いだ」
「ひぎいっ!!? 」
「大丈夫だ。安心しろ。だれもお前のことなんか気にしていない」
「あへぇっ!?」
「ていうか誰も見ていない。視界にすら入っていない。つまりお前は犯されない。証明終了だ」
「ぎひぃっ……ふぐぅっ……」
「よし。落ち着いたな」
残念なことに、八幡に人をあやす能力は全くなかった。彼はぼっちなのだから、当然の帰結であると言える。
落ち着いたというより、蹂躙されつくしたといった風体の少女を眺め、八幡は一息つく。
何気なく彼がスマホの時計を見ると、時刻はすでに昼休みの終了時刻を指し示そうとしていた。
まだ八幡は昼ご飯を食べていない。彼は遠くを眺め、しばし思案にふけた。
そしてかぶりをふると、少女からやや距離を置いた階段になっている場所に八幡は深く腰を下ろす。
その瞬間チャイムが鳴り響いた。お昼の終了を告げる無情な音色だった。
女子生徒は未だに生き絶え絶えとなり、器用にも段差の上に横たわっている。
八幡の今の心境を揶揄するかのように、ビニールから取り出したコロッケパンはしおれてしまっていた。気にせず包装を破くと、彼は遅めという表現が生易しく感じられるほどタイミングを逃した昼ご飯をとることにした。
そして五限の数学に出席することを。
つまり少女を放っていってこの場を去ることを。
やはり彼はとっくに諦めていた。
また明日続きを更新します。