「クソがっ!! クソがクソがクソ野郎どもがっ!!!」
黒木智子は彷徨っていた。どこをかと言えば校内を。何のためかといえば、それは安息の地を求めてである。
昼休み。高校生活を送る者たちにとって、それは憩いの時間である。チャイムを合図に生徒たちは、自らの空腹を満たすため各々行動を開始する。
潤沢な資金を持ち、出来立てのご飯を求める者は、学食へと向かうだろう。
押し寄せる人波をかいくぐり、目的の商品を手に入れる自信を持つものは、購買へと赴けば良い。
いつもの友達と歓談し、お互いのおかずをつつきあいたいのであれば、弁当片手に教室に残ればいい。
では黒木智子は。
最愛の母に毎朝弁当を渡され、学校へと持参している彼女はどうすればよかったのだろうか。
『当然、三番目の選択肢をとればいいじゃないか』、そう声を上げる思慮知らずもいることだろう。
しかし智子にとってその言葉は、少々酷に映るのである。
なぜなら、彼女はぼっちだからだ。
しかし、それでも自分の教室で、自分の机で、弁当を広げて食事をとることはできる。
それがたとえ一人であったとしても、自らの陣地内で食事をとることを、いったい誰が攻められようか。
周りの和やかな談笑の雰囲気に、言いようもないような居辛さを感じたとしても、それは全く問題ではないのである。ないったらないのである。
事実彼女は、高校に入学してからの約半年間、ずっとそうしてきた。
すぐ近くの席での、自分には関係ない勉強会の話に虚しくなる日もあった。
自分は誘われないクラスのカラオケ会の話に耳を傷めた日もあった。
後はよく覚えていないがとにかく自分とは関係ない話に周りが盛り上がっていても、彼女は鉄の精神でもって、その場で弁当を食べ続けたのである。
まあ一時期、あまりのつらさに教室を逃げ出した日もあった。屋上へと続く階段の踊り場に、無造作に積み重ねられた机に埋もれて、お昼を過ごした時もある。
しかし机はあっさりと片付けられて、彼女は半ば強制的に教室に舞い戻らされることとなってしまった。
そして現在、智子にとってのお昼とは、教室で一言も発さず、スマホを見て、時々にやけては飯を掻き込む時間となっていた。
初めこそ精神的につらいものがあったが、智子はすっかりそんなお昼に慣れつつあった。今日はどんなサイトを覗こうかと、楽しみすら見出して来ていたのだ。
しかし、それが今日に限っては想定外の事態に陥っていた。
朝、牛乳をいつもより飲み過ぎたせいだろうか。もしくは賞味期限が切れていたのか。
お昼を知らせるチャイムと同時に、急報を告げる腹部の痛みが彼女を襲ったのだ。
普通のぼっちであれば、ここで何の考えもなしにトイレに駆け込んでしまうだろう。そして自分の机と椅子が他所のグループに吸収されているのを見て、呆然と立ちつくしてしまうのが世の常である。
しかし智子は伊達にぼっちを名乗っていない。この半年間の経験が、トイレに行く前に「席を確保しておく」という、革命的発想へと彼女を至らしめたのである。
今時分が衣替えの時期であったこともまた、彼女に味方していた。智子は既に上着を着用しているのだ。
智子は流れるような動作で上着を脱ぎ、それを椅子にかける。それにより一切の無駄なく席を確保することができた。
「……パーフェクト」
この間実に三秒。まさに熟年のぼっちのなせる妙技であったといえるだろう。
そうして何の不安もなくことをすまし、教室に帰ってきた智子。しかしながら彼女が見た光景は、無残にも椅子のみとなってそこに佇む、元・彼女の領地の荒れ果てた姿であった。
机だけ持ってかれた。
つまりはそういうことである。
黒木智子には経験が不足している。机と椅子は不可分の一セット、などというあまい考えが、常識が、彼女をこのような事態へと陥らせたのである。
『困っているのならば、机を持って行った人に声をかければいい』、そう声を上げる知能ゼロもいることだろう。
しかし智子はぼっちである。声を出すことでなく、妄想にふけることに特化した人類なのである。
彼女が校内で最近声を上げたのは、実に二週間前のこと。
教科書を忘れて、ばれないように黙っていたら、教師に見つかり、めちゃくちゃ叱られてしまった際に、見かねて教科書を貸してくれた男子に対して発した、蚊の鳴くような「ありがとう」が最後に発せられた智子の声だ。
つまり他人に声をかけるなど、とうてい無理なのである。
『それならば、余っているほかの人の机を借りればいい』、そう声を上げる人は、もう今すぐ花瓶にでも降られて死ねばいいんじゃないかな。
自分が迷惑をかけられたからと言って同じことをしてしまっては、それはそいつと同じレベルまで落ちぶれるということである。
ぼっちというものは、常に周りを見下していたい生き物なのであり、智子もその例から漏れることはない。
後、借りた席の人が帰ってきて、もしそれがオラついている人種の人だったら……。そこから先は想像したくもない。凌辱物の同人誌のような末路が待っているかもしれないのだ。
「…………………………………………、ちっ」
時間にして約三十秒ほどだろうか。無言で机を見据えながら立ち尽くした後、智子は自分のカバンから弁当を取り出し、教室を立ち去って行った。
自分の居場所を探す、長い旅に出たのである。
初めは屋上へと向かった。いつかの楽園の跡地へと、再び足を踏み入れるためである。
しかしダメだった。目で確認しなくとも分かってしまうほどの、階段の上から聞こえる男と女の甘美なるささやきの音。
かつての楽園は、もはや失われ、見知らぬ男女の愛の巣となり果てていたのである。
智子は一つ行き場を失った。
次は学食へと向かった。学食の席は弁当持参の生徒にも開放されており、弁当の生徒と学食の生徒が一緒にご飯を食べられるようになっているのだ。
あの広い空間であれば、自分が弁当を食べるスペースの一つや二つ空いているはずだ。すがるような気持ちで向かった彼女は、しかし自分の置かれている立場というものを再認識せざるを得ないほど、追いつめられることになった。
確かに空いている。ご飯を食べているグループとグループの間には、一つか二つの空席が、さも座れるかのように口を開けてこちらを手招きしているように見えた。
しかしいざそこに近づいてみると、こちらに向けられるのはただ無機質な視線、視線、視線。
ただ面白いからアリを踏み潰す無邪気な子供のような、周囲からの好奇の視線である。
『え?こいつここに座んの? ていうか一人? こんな人本当にいるんだ……』
その視線は如実にそう語っていた。
見下されている。そう感じてしまった時点で、勝敗はもう明らかだった。
目線で人が殺せるのならば、今自分が向けられているこれこそそうなのではないか。そう思えるほどに、智子に向けられた視線は凶悪なものだった。
「あ……、アハハあれ~? みんなどこ行ったのかな~?」
結局智子は、そんなごまかしの言葉を口から漏らしながらの、戦略的撤退を余儀なくされたのである。
智子はまた一つ行き場を失った。
トイレで食べる……のは避けたかった。
それをやってしまった時点で、人間としての格が底辺中の底辺まで落ちぶれてしまうと感じたためである。
昼食を食べる場所を探して彷徨っている時点で、もうすでに彼女は底辺であると言える。だがしかし、とにかく黒木智子というのは、プライドが高い女なのである。
それこそが彼女を形成しているものであり、それを無くしては彼女を保つことはできない。
そのことが同時に自信を苦しめていることに、彼女は無自覚なのだ。
「ハァ、ふう、やばい……、昼終わる……! どこか、どこかないか……」
そうして彼女は死にそうな目で校内を彷徨い続けた。
そうしてどこをどう通ったかも分からないうちに、ある場所へたどり着いていた。
そこは校舎が日光を遮って薄暗かった。どこからかボールをつくような音がする以外に鼓膜を震わせるものがほとんどない、とても静かな所だった。
校舎に面するようにテニスコートが広がっている。校舎は保健室の裏手となっており、ここはちょうどのその渡りとなっている部分なのだということが分かった。
テニス部の人はけがをしてもすぐに手当てを受けることができて、さぞ心置きなく練習できることだろう。そんな益体もないことを考えていた智子を、唐突に一陣の風が包み込んだ。
その風が校内を歩き回って疲れた彼女の体に心地よく注ぎ込んでいく。それはまるで、「よく頑張ったね」と智子を歓迎してくれているかのようだった。
「……ここにするか」
すでに智子に迷いはなかった。彼女はごく自然に校舎の段差に座り込むと、弁当を広げ始めた。
それからはここにたどり着くまでの惨めさが嘘のように、とても穏やかな時間が流れた。
この場所が校舎の端に位置しているからか、人が通ることも全くなかった。
時折テニスコートから響くボールが弾む音も、不思議と智子の耳に馴染みリラックスすることができた。
一定の周期で吹く風もまた、この場所の緩やかな時間の流れを象徴しているようで好きになれた。
「冬は少し寒くなりそうだな……。しっかり厚着してこないと」
などと智子はすっかりこの場所を気に入り、自分の領地とする算段を企て始める。
そんな時だった。
自分がやってきたのと同じ方向から、ビニール袋がすれるような音が聞こえ、智子は驚き視線を向けた。
そこには、一人の男子生徒が居心地を悪そうにして立っていた。一体いつからそうしていたのか、頭を掻き、片目をつぶって、智子からやや目線をずらし気まずそうにしている。
――まさか……、レイプ魔か!?
あまりに予想外の事態から、一瞬物騒な推測が智子の脳裏をよぎる。しかしそれはすぐに改められることとなった。
頭にやっている手とは逆の手に、購買で手に入れてきたのであろう惣菜パンを男子生徒は携えていたからだ。彼が今からお昼にしようとしていることは智子にも容易に伺うことができた。
「まじかよ……、せっかくいい場所だったのに。また他のとこ探さねえと……。なんだよこの陣地取りゲーム。ハードモードすぎるだろ……」
何やら呟きながら、まるで自分の周りに蝿でも飛び交っているかのように落ち着きがない。そんな彼の様子や、その独り言の内容から、智子は三つのことを推測、理解することができた。
まず一つ、おそらく目の前の彼は、この場所のいわば先住民であるということ。
二つ、ここの先住民は、どうやら自分と似たような境遇の、まぎれもない
そして三つ、智子がこれから何もせずとも、先住民の撤退という形でこの場所は彼女のものとなるであろうということ。
智子は考えた。これは良い。好都合であると。
元より智子に、自分が退こうなどという発想は微塵も存在していない。相手が自分と同等、もしくはそれ以下のぼっちが相手となっては、それはなおさらだった。
しかし同時に、このままでは気にくわないことになるとも、智子は感じていた。
相手はぼっちであり、しかも男子である。ぼっちでモテない男子高校生ともなれば、それはもう学校生活における地位は下位も下位。
彼がカーストでワーストのゴースト的存在であることが、智子には容易に想像することができた。
そんな、自分よりも格下の人間に「譲られる」などということがあってはならない。それが智子の中の常識だった。彼女にとって『譲る』とは、上の人間が下の人間に対してとる行動なのだ。
では一体全体どうなることが智子にとって理想なのか。
それはつまり、この場所を自らの力でもって「勝ち取る」ということである。
今現在智子が持ち得ている優位性でもって、相手を徹底的に追いやるということである。
それこそが彼女が選択した、今最も適切な自己保存の方法であった。
智子がそんなことを考えているうちに、思っていたより時間は流れていたようだ。
男子生徒はすでに踵を返し、元来た方向へと今まさに帰ろうとしているところだった。
これは不味い、相手が自主的に撤退する前に、敗北感を植え付けなくては。自身の理想に向けて、智子は焦っていた。
だから彼を引き留めようと智子の口から出た言葉は、あまりにも突拍子もない一言となって彼女の口から飛び出した。
「しっ……、視姦するだけして、JKオカズにお……ぉ昼とか、ま、……まじキモイんですけど~」
「は!?」
驚愕の声とともに男子生徒が振り返る。
こちらに向けられたその顔は、やはり驚きと困惑の気色に埋め尽くされていた。初めて見開かれた彼の目は、智子と同等かそれ以上に淀み腐りきっていた。
一陣の風が吹き、彼らの間を横切って行く。その風は、まるでこの場を煽り立てるように荒く吹きすさみ、その間二人には思考する時間が生まれた。
彼らはその瞬間、奇しくも同じようなことを考えていた。
――何言ってんだ? こいつ……
――何言ってんだ!? わたし!
これが、二人のぼっちが交わった最初の瞬間であった。
明日次の話を投稿します。