私たちのモテない青春ラブコメ   作:貴志

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18.やはり私の青春ラブコメは間違っている。(前編)

 テニスは貴族の遊戯が発祥だといわれている。

 はるか昔に暇を持て余した、それはそれは高貴で、さぞ遊び相手に恵まれていたであろう人間が考えた遊び。それがテニスなのだ。

 彼ら彼女らは、自分たちの生を楽しむために、より豊かにするために、この球技を生み出したのだろう。

 

 智子は、絶え絶えになる呼吸を整えながら、思う。

 

 ならば、今現在ボールに振り回され、慣れないラケットに手を痛める自分が、こんなにも苦しんでいるのは、顔も名前も分からぬそいつらのせいだ。

 そう考えるのは、論理の飛躍というものだろうか。

 

 パコンと、軽快な打球音が響く。

 智子から二、三歩離れた位置に、またテニスボールが飛んでいく。

 もはや追いかける気にもならず、智子は立ち尽くしたままそれを見送った。

 

 ……きっとそうなのだろう。いつだって悪いのは発明ではなく、それを利用する人々であり、愚か者達だ。

 だから私が呪うべき対象は、もっと他にあるべきなのだ。

 きっと、それはもっと身近に存在している。 

 例えるならば、鈍感で、デリカシーがなくて、無神経で、脳筋で、押しつけがましい。そんな人間だ。

 

 「どうしてそこで諦めるの! どうしたの、恐れているの!? 大丈夫よ自信をもって! できるできる黒木はできるやれる大丈夫!!」

 

 次に繰り出すための球を掲げながら、智子の担任である体育教師……荻野が瞳を輝かせ、叫ぶ。

 放課後の校舎越しに、夕日が辺りを照らしている。沈んでいく太陽が余った力を絞り出すように灯す、家に帰りたくなる禍々しい赤。

 そんな光の中、荻野は程よく汗を流し、その頬を上気させている。二重の赤に染まる彼女の表情は、今日一日の学校生活で、最も生き生きしているように見えた。

 智子は嫌悪と、倦怠感とをないまぜにした表情を浮かべ、向かい合う。その眼差しに、声なき抗議を力いっぱいのせながら。

 

――本当、今すぐ辞めてくれないかな。このクズ糞無能教師が……っ!

 

 だがしかし、鈍感を極めつくした荻野に、そんな音量を伴わないものが届くはずもない。

 その手に持つ球を高く投げ上げると、何の躊躇もなく、再び智子に向かって打ちつけた。

 無情にも目の前に打ち出された球を、疲労困憊の智子は避けることなどできない。

 何とか受け止めようと、体とボールの間にラケットを滑り込ませる。運が良かったのか、はたまた荻野の強制練習のおかげで多少は実力がついていたのか。見事にラケットはボールとぶつかり、その役目を果たす。

 だがそれだけでは終わらず、今日何度目か分からない衝激がラケット越しに伝わってくる。すでに半分マヒしてしまっている智子の手が、それに耐えられるはずなどない。ラケットは弾かれ、カラカラとコートを転がっていった。

 智子は天を仰いだ。

 見上げた夕暮れの、右側は悲嘆に暮れる黒で、左側は憎悪に燃える赤だ。

 このまま突っ立っていれば、流石に諦めてくれるだろうか。

 淡い希望を智子は抱く。だがそんな他人任せの願いは、一かけらも衰えていない荻野の声量と勢いによって掻き消える。

 

「やればできるじゃない! ほら、打ち返せたわよ!」

 

 ただ声に誘導されるように視線を向けると、荻野側のコートにボールが転々としているのが見えた。どうやらラケットに当たった球が、偶々ネットを超え、向こう側に転がったようだ。

 奇跡だ。

 だが智子にとっては、ただの不運でしかない。

 

「さあ、今のをたった15回繰り返すだけよ! ラリーなんて、慣れれば簡単なんだから。諦めずに頑張りなさい!」

 

 このふざけた現象によって、智子の補習は着地点を完全に見失ってしまったのだから。

 

 

 体育の種目は、大体一、二か月に一度変わる。特定の運動に偏り、生徒毎の得意不得意が出すぎてしまわないようにとの、学校側からの配慮というものだ。

 そうやって移り変わってきて、現在の種目はテニスである。

 これが智子には最悪だった。

 もちろん彼女にとって、テニスは得意なスポーツではない。しかしそんなこと、彼女にはマラソン以外の全ての体育競技に当てはまることだ。智子は他人と関わらなくてはならない、球技というものがすべからく苦手なのである。

 智子を悩ませているのはもっと別の側面。テニスの成績をつけるための、システムそのものである。

 テニスとは言わずもがな、他人との勝ち負けを競うゲームである。そのため、体育の成績もどれだけゲームに勝利したか、勝ち星の数でつけられることとなる。

 それはいい。いくらゲームに負けたところで、体育の成績が下がるだけ。別に推薦を狙っているわけでも、体育系の大学を受験するわけでもない智子には、全くのノーダメージだ。

 だがそれは、そのための対戦相手がきちんと定められていたのであれば、の話である。

 そう。こともあろうにテニスの担当教師である荻野は、対戦相手は自由に決めて良いなどという、職務怠慢ここに極まれりなルールを定めてしまったのだ。

 その制度が告げられた瞬間、あっという間に周りは対戦相手を決め、各々適当なグループに分かれコートに散って行った。

 智子は、あっという間に一人取り残されてしまった。

 その場にい続けては、誰とも組んでもらえなかったかわいそうな人間だと思われてしまう。それを恐れた智子はコートの隅へと隠れ、あたかもコートの順番待ちをしているかのようにふるまった。そうすることで、急場をやり過ごしたのである。

 だがそれでごまかせる時間はごく僅かだ。

 周りが次々と白星なり黒星なりを積み重ねていく。用意された名簿に、皆が確実に何かを記入していく。

 そんな中、智子の空白の列はあまりに目立ちすぎた。

 智子はとうとう、それを見咎めた荻野に呼びつけられてしまった。

 どうして周りと戦おうとしないのか。

 いくら荻野が問い詰めても、智子は黙り続けて埒が明かない。当然だ。誰にも話しかけることができず、誰からも話しかけられなかったから戦えなかったなどと、そうそう白状できることではないのだから。

 いつまでもだんまりで、涙すら浮かべ始めた智子に、荻野は呆れのため息をついた。

 例え智子が何も積み重ねることができなかったとしても、体育教師として、荻野は彼女の成績をつけなくてはならない。

 やむを得ず、荻野は妥協案を示した。

 それは一つも勝ち星を得られなかった生徒への救済措置。ラリー15回という課題をクリアすれば、最低限の成績は保証するというものだ。

 しかし当然というべきか、智子はそれすら実行することができなかった。

 

『それじゃあ相手は、一回も勝てなかった子と、適当に組みなさい』

 

 そんなことを言われて、放り出されてしまっては、智子には手も足も出ない。

 相手がいないのだから、ラリーがどうとかいう問題ではないのだ。

 授業終わりのチャイムが鳴ってなお、一人虚空を見つめ突っ立っていた智子。

 さすがに荻野はキレた。

 呼びつけ、怒鳴りつけ、智子の在り方を責めた。

 だがそんなことで改善される智子ではない。叱られて変われるのなら、とっくにぼっちではなくなっている。

 空気をたたき続けているかのように手応えのない智子の様子に、荻野は言葉を鎮める。

 そして一言、放課後に着替えてテニスコートに来るように告げた。

 担任から直々のお達しである。常に見張られているのだ。逃げたくても逃げることなどできない。

 放課後、ふらふらとテニスコートへとやってきた智子を、一転して笑顔な荻野が迎えた。

 

「さあ黒木。私と課題の続きをしましょう。絶対に見放したりしないわ! 今日で自分を変えるのよ!」

 

 声と胸を張り、言い放った荻野。何かを吹っ切ったかのように、その顔は晴れ晴れとしている。

 どうやら彼女の中で、何かしらのサクセスストーリーが展開してしまったようだ。

 そのどこまでも前向きな姿勢と、性懲りのなさには、うんざりすると同時に感嘆せざるを得ない。

 智子はすべてを諦め、荻野のなすに任せることにした。すでに覚悟は決めてきている。

 あの体育の地獄に比べたら、どんな苦行でも乗り越えられる。そう見積もっていた。

 だが、それでも足りなかった。

 荻野のひたむきさを、まだまだ智子は心のどこかでナメていたのだということを、その後思い知らされることとなるのだ。

 

 

 もうすっかり日も傾いてきた。智子の体から作り出される影はコートを飛び出し、校舎外へと逃げ延びてしまっているほどだ。

 太陽はその役目を終え、まさに水平線の向こうへ隠れようとしている。

 あと半時としない内に、薄闇から暗闇へと、辺りはその様相を変化させることだろう。

 世界はそれほどまでに姿を変えているというのに、智子の前に立ちふさがる女教師は未だに瞳を輝かし続け、そこにいた。

 

「ふう……そろそろ、テニスの素晴らしさが分かってきたんじゃない? だいぶ表情も変わってきたわね!」

「……」

 

 何のリアクションも起こさず、智子はただ冷め切った表情を前に向ける。

 一言も発することはない智子だが、その内心は誰よりも雄弁に、長々と呪詛を連ねていた。

 

――ああ、変わったさ! お前のおかげでより一層顔面淀んだわ、間違いないわ! 一体どんだけやんだよ! もう二時間くらいたったぞ!? もう諦めろよ! てか何でラリーが残り二、三回になったところで急に速い球打ってくんの!? 永遠にクリアできないんだけど何これ嫌がらせ? 鬼コーチ気取んのもいい加減にしろよ!?

 

 

 時刻は6時。

 文化部の生徒たちがちらちらと下校し始め、運動部でも練習の仕上げに入り始める時間だ。

 学校全体が店じまいの雰囲気に興じ始めているというのに、智子の状況は全く進展していなかった。

 体力が失われ、精神も削られきっていることから、むしろ後退しているとすら言えるかもしれない。

 こんなことが、一体いつまで続くのだろうか。智子は恐れ始めていた。

 このまま7時になれば、完全下校のチャイムが鳴る。それから15分以内には、生徒はみな下校しなくてはならない。

 自分だってその例外ではない。そうなればさすがにこの無間地獄から解放されるはずだ。智子はそう思っていた。

 しかし、荻野だったらやりかねない。

 この盲目脳内お花畑は、限度というものを知らない。

 校則を捻じ曲げて居残らせてでも、ラリー15回を達成させようとする。それほどの意思が荻野にはある。智子は認めざるを得なかった。

 そこまではいかなくても、課題を達成させるまで毎日補修を続けるぐらいのことはしそうだ。

 とにかく、荻野は絶対に智子を逃しはしない。それだけは確実だった。

 体が震える。歯が鳴り、視界が暗くなっていく。それは夕暮れのせいだけでない。

 圧倒的恐怖。

 ただそれだけが、智子の肉体を、精神を蝕んでいく。

 

――嫌だ! もう嫌だ! 走りたくない、腕を振りたくない、立っていたくない!

――なぜなんだ。私はただ、私の生きたいように生きていたいだけなのに。

――どうしてこんな目にあわなくちゃいけないんだ。おかしい。間違ってるだろこんな世の中……!

 

「行くわよ! 食らいついてみなさい!」

「……っ!?」

 

 恐怖を押しのけ、芽生えかけた憎しみの子葉。

 しかしそれも、荻野がボールを持ち上げて見せるだけで、根元から折れてしまう。

 また膝が震えだす。

 夕闇の中浮かび上がる荻野のシルエットは、智子を断罪する死神のようだ。

 死神に対抗しうるのは、その逆の神か、もしくはその使いしかいない。

 だから智子は、天使の存在を願った。

 清らかさと、正しさと、平和の象徴であるそれを、祈らずにはいられなかった。

 ラケットを握る手に精いっぱいの力を込める。

 智子の脳内で、それはもう立派な合唱だ。

 

――もう何でもいい! 誰か助けてくれ!!

 

 球が打ち出されるとともに、智子は目をつむる。これ以上現実を見ていたくなかった。

 その行動はテニスコートにおいて自殺行為でしかない。迫るボールを認知することができずに、ただ体を打ち付けるだけだ。

 本来であれば青あざを一つ増やすだけでしかなかった彼女の行動に、その報いが訪れることはなかった。

 ボコン、と。

 不格好な打球音が代わりに耳をつく。それは智子の目の前で、荻野の打球が弾かれたことを意味する。

 智子はラケットをまともに構えてすらいない。だから、先ほどのような奇跡は起こり得ない。

 ならばそれは必然だ。何者かの明確な意思だ。

 誰かが智子の前に駆け込み、ラケットを振りぬき、彼女を救ったのだ。

 だから、今智子の前には人が立っていた。慌てて走ってきたのか、息を切らしているその人物は智子にとって恩人で、急ぎお礼を言わなくてはならない。

 智子はビタリと閉じていた目をこじ開けると、目前にあるであろう背中に声をかけようとした。

 だがそこにあったのは、予想外にも顔。

 もともと背面で打ち返したのか、はたまた打った後に振り向いたのか、それは分からない。

 否、どちらかと言えば、そんなことはどうでもよかった。

 そこにいたのは、天使。

 その美しさに、智子は完全に見とれていた。

 色素の薄い髪を振り乱し、新雪のように白い肌を上気させながら、純潔さと艶やかさを兼ね備えている。

 着ている無骨な学校指定のジャージですら、スラリとした直線と、柔らかな曲線で縁取られた肢体で纏われれば、それは天上の衣の新説を呈している。

 天使は智子を見つめていた。

 目が合うと微笑み、はあはあと息切れさせながら、語り掛けてくる。

 

「コートの中でっ、目をつむってると、ふぅ……危ないよっ」

 

 言い返すことなどできず、ただひたすらに智子は首を上下させる。

 肯定の意を受け取り、天使がさらに表情を緩めて笑った。

 幼さを残す瞳が、薄く整った眉が、持ち上げられた柔らかな頬が、全てで安堵と歓喜を表現する。

 そこにはもう、美しかなかった。

 いつの間にか、学校のテニスコートは天上界へ転移してしまったのだろうか。

 そんなことを本気で思い始めるぐらい、目の前の光景は浮世離れしていた。

 すっかりトリップしてしまった智子の意識を、現実世界を代表する教師の声が呼び戻す。

 

「戸塚、何してるの! 急にコートに飛び込むなんて危険じゃない!」

 

 険しい表情を浮かべ、天使のしたことを咎める荻野。コートの向こう側で腕を組み、仁王立ちをするその姿は、もはや閻魔や魔王のようにしか智子には見えない。

 再び怯える智子。顔はうつむき、体は震え、まともに動いてくれない。

 そんな彼女の姿を視界にとらえ、何かを察したのだろうか。戸塚と呼ばれた天使は、柔和な笑みをそのままに荻野へ呼びかける。

 

「すみません先生! テニス部の整理体操が終わったので、呼びに来たんです。」

 

 鈴が鳴るような声だった。確かに声を張り上げているはずなのに、不思議とその声質が荒れることはない。

 いったいどんな喉の構造をしているのだろうか。つい気になって、智子は細い首へと視線を向ける。

 そんなことをしている智子をよそに、荻野と戸塚のやり取りは進む。

 

「あら、もうそんな時間? それなら適当に解散しておくように、戸塚言っておいてもらえる?」

 

 やはり荻野には、この場を離れるつもりはないらしい。本業であるテニス部顧問としての職務を半ば放棄してまで、智子に粘着しようという意志がそこにはあった。

 このまま話が進んでしまえば、目の前の救いがまた消え失せてしまう。それを危惧した智子は手を伸ばし、戸塚を逃がすまいと縋り付こうとした。

 あともう少しで捕まえる。そう思った瞬間、反対に智子の手の方が、突然伸びてきた戸塚の後ろ手に握られる。

 その手は驚くほど柔らかく、智子は捕まってしまった手を凝視して固まる。

 戸塚はまだ荻野の方を向いたままだ。

 荻野には聞こえないくらいの小さな声で、一言天使は呟く。

 

「大丈夫だよ」

 

 その声はやはり穏やかで、心の奥まで透き通るようだ。

 人の心を落ち着かせる、特殊な波長でも纏っているのかもしれない。そう思えてしまう程に、智子はその声に癒されきっていた。

 全部この天使が何とかしてくれる。

 智子はそう信じ、戸塚が生み出す流れに全て身をゆだねることに決めてしまった。

 戸塚の掴む手に、やや力が込められる。

 

「あの先生。今日一日いらっしゃらなかったので、できれば最後のミーティングには来てほしいって、部室でみんなが……」

 

 さも申し訳なさそうに、おずおずと戸塚が要求する。

 か弱そうな雰囲気を漂わせているが、それは演技だ。智子には分かっていた。

 強く握られた手の力が、その内心を何より物語っている。

 戸塚の言及を受けて、荻野が眉を寄せる。それは明確に困っている証だ。

 

「それは……そうね。私もそうしたいんだけどね……」

 

 腕を組み、考え始める荻野の視界が、ちらちらと智子を捉える。智子は全力で目をそらし、それを無視する。

 そんな光景を見守りながらも、ほほえみを絶やさない戸塚。その薄く小さな唇を震わし、もう一押しとばかりに荻野に問いかける。

 

「どうかしたんですか?」

「ええ。……その子、テニスの補修の最中なのよ。なかなか課題のラリー15回を達成できなくて」

 

 不作法にも智子を指さし、相変わらず困っているように言い放つ荻野。

 智子からしてみれば、15回のラリーがいつまでも終わらないのは、紛うことなく荻野のせいだ。

 恨みがましい視線を精一杯送るが、鈍感教師には全く通用しない。てきのオギノにはこうかがないみたいだ……。

 ぜひとも戸塚に何とか言ってもらいたい智子は、握られている手を引く。

 戸塚が振り向くと、荻野を指さしながら、何とか言ってやってくれと口パクする。この数分ですっかりふてぶてしくなった智子である。

 それだけで戸塚には伝わったのか伝わらなかったのか。天使はわずかにうなずいただけで再び前を向いてしまった。

 

「それは、お困りですね」

 

 戸塚はニコニコしていた。ただ荻野の言うことに同意しただけで、それきり何も言わず、ただ笑顔でいる。

 その姿は、神秘的な美貌と相まってやや不気味だ。戸塚が醸し出す得体の知れなさに、智子は少しゾッとした。

 

「そうよね……」

 

 戸塚の様子に気付くこともなく、荻野はまた考え込む。時折戸塚と智子の方をちらと見ては、ラケットを手の内で弄んだり、地面を蹴ったりしている。

 長々とじれったい荻野に対し、戸塚の姿勢は対照的だ。ただ笑みを絶やさず、荻野の方を向いて佇んでいるだけ。何も行動せず、まんじりとしている。

 その微笑みは、何かを待っていた。

 そのことに智子が気付いたのは、荻野が閃いたように手を叩き、戸塚に対し命令したのと同時だった。

 

「そうだわ! 戸塚、ちょっとその子の相手してあげてもらえる? お互い練習になるだろうし、その間に私ミーティングに行ってくるから」

「はい。分かりました!」

 

 荻野が最終的にたどり着く結論を、すでに分かっていたのではないか。そう思わざるを得ないほどに、戸塚の返事は迅速だった。

 その事実に気付き、智子が若干引いていても、荻野は全く気にした様子もなく満足げにしている。

 そうと決まれば、荻野はその敏捷さを惜しむことなく発揮し、即行で身だしなみを整える。

 駆け抜けるようにテニスコートを去って行く途中、荻野は智子の肩を叩き、告げた。

 

「それじゃあまた来るから。最後まで諦めず頑張るのよ、黒木!」

 

 触れられた部分から同心円状に、智子は嫌悪感を露わにする。肩をすくめ、顔をしかめ、一歩体を引く。

 それだけあからさまな拒絶を向けられても、荻野は全く揺らぐことなどない。むしろ一歩引かれた分近づいてやるといった感じで、顔を近づけてくると、耳元で何事かを呟いた。

 

「ついでに、戸塚とも仲良くなっちゃいなさい。あの子凄くいい子だから」

 

 瞬発的に身を引く智子。パーソナルスペースを侵し過ぎな荻野へ、非難の視線を向ける。

 荻野は一瞬目を丸くしていたが、ふっと微笑みに表情を変える。

 そして極めつけに、片目をバチンと閉じウィンクをして、テニスコートを出て行った。

 駆け足で荻野がテニス部の部室へと向かっていく。忙しない足音が遠ざかっていくと、辺りは夕暮れの静寂に包まれた。

 本当に、台風のような女だ。ようやく過ぎ去った嵐に、智子は空を見上げ、どっと体の力を抜く。

 思った以上に体力は尽きかけていたのか、膝から崩れ落ち、地面に寝転ぶ形となってしまう。

 見上げた空は、もうすでに赤と黒のコントラストさえ描いてはいなくて、ドス黒く染まり始めている。荻野が過ぎ去っていった方角だけが、うっすらと明るみを帯びていて、智子は額にしわを寄せる。

 何でもかんでも荻野と結びつけて考えるなんて、どうかしてる。今の自分の思考回路を、智子は好きになれなかった。

 

「あははっ。よっぽど疲れたんだね」

 

 智子を不快にさせる明るい空とは逆の、完全に黒く染まってきている方角から、白銀の頭が除く。暗い空を背景にして、戸塚の白さは際だっていた。荻野側の空が放つ明るさなど、全く気にならなくなってしまう。

 呆気にとられる智子を見下ろしながら笑う戸塚の神々しさに、智子はさらに呆気にとられる。

 そんなしょうもないループを、差し伸べられた戸塚の手が断ち切る。

 手を握り、立ち上がった智子の目の前には、探るように上目遣いをする天使の姿があった。

 

「ぼく、戸塚彩加です。同じ二年生……なのかな?」

 

 その視線の破壊力たるや。

 もし彩加を異性として意識していたのならば、智子は一発で惚れてしまっていたことだろう。

 智子は半分照れながら、握っている手に再び力を込めてうなずき返す。

 

「はっ……う、うん。二年、です。黒木智子、です……」

 

 照れ照れと、もじもじと、智子は自己紹介をする。

 自分に向けられる輝かしい笑顔を窺いながら、智子にはある予感がしていた。

 この子となら、親友になれる気がする。

 

――可愛くて、優しくて、気が利いて、その上ボクっ娘だなんてな! もうこの子しかないだろ!

 

 見つめ合う。

 何も言わない智子に、不思議そうに首をかしげる彩加。そんな何気ない動作さえ、智子にはたまらなく愛おしく思える。

 結果的に、荻野の言うとおりに動くのは非常に癪だった。しかしそれを補って余りあるほどの魅力を、智子は彩加に見出していた。

 まずはラリーをわざとミスりながら、できるだけ長く彩加とイチャつくところからだ。

 震える足を鞭打ちながら、もうひと頑張りすることを智子は決心した。全てはそう、戸塚彩加と親友になるために。

 智子の心は、高校生活一ときめいていた。

 そして、自分がとんでもない思い違いをしていることに、智子はまだ気付いていない。 


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