放課後、奉仕部。
雪ノ下雪乃が文庫本を持つ手から力を抜き、膝の上へと着地させる。
前置きするように咳払いをすると、その場にいる全員――由比ヶ浜結衣と比企谷八幡が彼女を向く。
たっぷり間を取った後、雪乃は話を切り出した。
「比企谷君、今日は彼は来る日ではないの?」
具体的な人物名はあげず、雪乃は代名詞のみを用いて質問を終える。
雪乃に限って、名前を憶えていないということはまずないだろう。ならばそれは別に、名前を呼びあげるのを憚られる理由があるからに違いない。
そこまで連想することができれば、対象の人物を特定することは八幡にとって難しいことではなかった。
「知らん。材木座とは連絡取り合っているわけではないしな。来るならそのうち来るだろ」
雪乃の意をくみ取り、八幡は答える。
材木座義輝が奉仕部を訪れるのは、非常に不定期だ。
最初の頃こそ連日押しかけてくることもあったが、半月ほどたった今ではそれも鳴りを潜めている。数日開けてぽつぽつとやってくる程度に、来訪頻度は落ち着いていた。
八幡が予測するに、今日はそろそろ来てもおかしくない頃合いだ。だがそのことを雪乃には話さないでおく。
仲が良いと思われても心外だからだ。
八幡は雪乃から視線を外し、手元の文庫本に集中しなおす。
それで話は終わるかと思われたが、雪乃の顔は依然として前を向いていた。
「依頼の進捗はどう? 彼の小説に改善の兆しは見られそうなの?」
雪乃が一歩踏み込んでくる。
それは八幡にとって違和感のあるものだった。
再び頭を上げ、雪乃に対してありありと怪訝な表情を向ける。
「……らしくないな。この件については関わらないんじゃなかったのか」
ぶつけられた八幡の疑念に、雪乃が言葉に詰まる。
言いよどむその表情や仕草は、雪乃自身、らしくないことをしていると戸惑っているようにも見えた。
ますます疑いを深める八幡へと、一貫して二人の会話を見届けていた結衣が声を上げる。
「ヒッキー。ゆきのんだって心配してたんだよ」
「心配? こいつが?」
意外なフォローが入り、八幡は疑いの姿勢を崩さぬまま結衣を向く。
八幡の問いかけに、苦笑を浮かべながら頷く結衣。ちらちらと雪乃の様子をうかがいながら、続きを話し始める。
「中二があんなだし、私たちがいない方が上手くいくとは思ったんだけど。……やっぱりヒッキーだけに押し付ける感じになっちゃったのはどうなんだろうなって。ゆきのんと話してたんだ。中二めっちゃ来るし、ヒッキー大変そうだし、ちょっと反省っていうか……」
結衣の言葉を雪乃が否定しないところをみると、そういう会話があったのは事実のようだ。
だがそれは、八幡にとってにわかには信じ難い話だった。
「そりゃビックリだ。お前はともかくとして、反省って言葉から最も縁遠い存在だと思ってたんだがな、雪ノ下は。」
「ちょっと、ヒッキー失礼すぎ! いくらゆきのんだって反省ぐらいするし!」
「由比ヶ浜さん、もういいわ。あとその言い方は誤解を招くから気をつけて」
ヒートアップしそうになる結衣を、彼女の言葉足らずな言い回しを諫めつつ、雪乃が引き止める。
言葉で制しつつも、結衣を見つめる瞳は優しい。二人が良好な関係を築いていることが、八幡にも見て取れる、良い目だった。
最近、二人はお昼を部室で過ごしているらしい。
ともに日々過ごす中で、雪乃と結衣の距離は確実に近づいてきているのだろう。
実に結構なことだと、二人を眺めながら、他人事のように八幡は思う。
腐った目に見られていることに気づき、雪乃が八幡へと向き直る。
その立ち振る舞いに先ほどまでの揺らぎはなく、いつもの堂々たる雪ノ下雪乃へと戻っていた。
「あなたの言う通り、反省は必要無かったようね。そのナメた態度は、協力の必要はないという意思と受け取って構わないかしら」
普段通り、どこまでも高圧的に雪乃が詰め寄る。
八幡も姿勢を崩すことなく、それを受け流す。
「まあ、そうだな。ていうか、いても邪魔にしかならないと思うぞ。材木座はお前らのこと苦手だしな」
八幡は、八幡にとっての事実を淡々と述べる。
彼の歯に衣着せぬその物言いは、他意はないと分かっていても、どうしても彼女らの癇に障ってしまう。
不満を露わにして、結衣が身を乗り出した。
「邪魔って……あたしたちにだって役に立てることぐらいあるし!」
「お前がそれを言うかよ。人生で一冊でも小説読み切ったことあんの?」
八幡の問いかけに対し、結衣は律儀に考え、唸る。その素直さは称賛されるべきだが、危ういとも八幡は考えていた。
やっとといった感じで、結衣が答えを絞り出す。
「は、『走れメロス』……とか?」
「それ今日の現国でやったやつだろ……」
出てきた作品が、あまりに直近のもの過ぎるところに、読書に関する結衣の浅はかさがよく出ていた。
八幡は頭を抱えながら、さらに追及する。
「で、感想は?」
「名前がカタカナだった!」
「はい、戦力外。一生携帯と向き合っててくれて構わんぞ」
『うがー!』とか『ムキー!』とか威嚇する結衣を八幡は押さえつけ、雪乃に見せつけるようにする。
「これ以上説明が必要か?」
同意を煽るように、八幡は最大限のどや顔を浮かべ、雪乃に向ける。
一瞬腹を立てるように眉をしかめた雪乃だったが、ため息とともに体制が崩れた。
「はあ……分かったわ。この件に関しては、引き続き比企谷君に一任します」
「ええっ! ゆきのん!?」
無様な友人の姿がとどめとなったのか、雪乃が身を引く姿勢を明らかにする。
未だに自分を客観視できていない結衣が、雪乃に抗議する。それでも、雪乃はびくともしない。
多少柔らかくなったように見えても、その頑なさは相変わらずだ。
結衣がまとわりついてくるのをうっとおしそうに手で押しながら、雪乃が八幡に再度同じ質問を投げかける。
「それはそれとして……依頼は進んでいるの? 部長としてそこは確認しておきたいのだけれど」
今度は八幡も、普通に答えることにした。現在の依頼状況を、ありのままに報告する。
「順調なんじゃねえの? ずっと読み続けてるから俺はよく分からんが。黒木も読めなくはないって言ってたし」
「へ? 何でそこで、もこっちが出てくんの?」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
耳ざとく八幡の失言を聞き取った結衣が、不思議そうに尋ねる。その表情に非難の色はまだ含まれていない。
今ならまだ挽回できる。そう思った八幡は必死にごまかそうと画策を開始する。
「あ、ああ。たまたま依頼中、図書館で会ってな。読みたいっていうから、見てもらったんだ。ほら、外部の意見も必要だろ?」
「ん~? うん。そう、だと思うけど……」
急に饒舌に、親切に説明しだす八幡に、結衣には感じるものがあった。
何かがおかしい気がする。でも、あと一つ足りない。
理屈ではない、もっと感性的な部分で、結衣は納得しきることができずにいた。
「そうだ! もしかしたら、材木座が先に図書館に向かった可能性があるな。よし、ちょっと確認してくるわ!」
「え? あ、いってらっしゃい」
結衣がその何かに気づく前に、八幡はさっさと退散することにした。
荷物を抱える。
今日はこのまま帰宅してしまおう。
途中図書館に寄って、智子にひと声かけていったほうがいいだろうか。
「待ちなさい」
そんな八幡の思考が、雪乃の一声によって中断される。彼女の口調は力強く、八幡の足を止めるには十分だった。
ドアに向かっていた八幡が、ゆっくりと振り向く。
そこには確信に満ちた表情を凛とさせ、まじまじと八幡を睨み付ける雪乃がいた。
「な、なんだ雪ノ下。何か問題が?」
雪乃が浮かべる表情だけで、ほぼ負けを確信しながらも、八幡は足掻く。
自分は何も嘘をついていないし、まだ決定的な部分は漏らしていない。それだけが八幡の自信だった。
余裕の表情を取り繕う八幡。
その彼に対して、雪乃は一歩も引かず追及する。
「確かに、外部の意見は必要よね。黒木さんの協力を仰いだとしても、何らおかしいことではないわ」
「そ、そうだろ?」
「それが、それっきりだったのであれば、ね」
真をつく雪乃の言葉に、八幡は肩を震わす。
彼の勝率がゼロになった瞬間だった。
「ゆきのん、どういうこと?」
まだ分かっていない、あと一つを埋めたい結衣が、雪乃に詳細を求める。
それを受けて、雪乃はもう諦めている八幡に対し、死体を鞭打つがごとく続けた。
「この男は、自分一人で依頼を解決するほうが効率がいいと豪語したのよ。そうして私たちの、由比ヶ浜さんの申し出を断った。にもかかわらず、部外者からの協力を継続的に受けているとしたら、どう思う?」
「そんなの、おかしいと思う!」
結衣が明確に、自分の気持ちを宣言する。その言葉が何より、八幡を責め立てる。
雪乃はすべて自分の思い通りとばかりに、笑みを浮かべる。
立ち上がり、八幡に近づいていく。
八幡は戦々恐々としながら、それを迎えた。
「それで、比企谷君」
詰め寄りながら、雪乃は笑みを崩さない。
その後ろでは、不満げに口を膨らませる結衣がのぞいている。
もはや逃れることは不可能だった。
「図書館には誰が待っているのかしら。ぜひご挨拶させていただきたいものね」
八幡は呪った。
自分を取り巻く全ての状況に対して。
「はっちまあああん!! 今宵も珠玉の作品を携え我が……うおふっ! めちゃくちゃ修羅場っとる!?」
八幡が開きたかったドアから、義輝が威勢よく飛び出す。
自分の予想がぴたりと的中したのに、なぜだか彼はちっとも嬉しくなかった。
智子は最近、放課後は図書館に立ち寄ることにしている。
義輝の小説を手伝うことになって以来、放課後はこの場所で待機して、八幡たちがやって来次第合流というのが、いつもの流れになっているからだ。
暇つぶしのためのラノベを開きながら、智子は思い悩んでいた。
視線こそ手の内の文庫本を向いているが、その内容は全く頭に入っていない。
ちらちらと視線を向ける先にいる人物のことが、気になって仕方がないからだ。
智子の意中の人物は、図書館のカウンターに座り、本を読んでいる。その座している位置は、彼女が図書委員であることを示している。
智子と同じようにラノベを手に持ち、しかしその眼鏡越しの目線は、すっかり手元の本に落とされている。
智子のことなど、全く気になっていないように見えた。
それが智子にはやや悔しく、腹立たしい。
彼女は名前を、小宮山琴美という。
琴美とは中学二年のころ同じクラスで、優と三人でよくつるんでいた。しかし智子はつい最近再会するまで、彼女のことを忘れていた。
なぜなら琴美は、智子の弟である智貴の局部を狙う、性欲の権化たる変態である……と智子は考えており、その存在を記憶から抹消していたからだ。
実際には、智貴に恋する琴美がバレンタインのチョコを送ろうと、智子に相談したのを、『チ〇コ』と彼女が聞き違えて勘違いしたのであるが、そんなことは智子にとって思慮の外だ。
結局、今現在二人は互いを目の敵にし、どちらが人間として上か、やたら張り合うような関係になってしまっていた。
そしてこの時点で、琴美にはクラスに友達がおり、男子とも割と会話ができるという点で、智子は大きくリードされてしまっていた。
そのため智子の中には、やりきれない鬱憤がたまりにたまってきていた。
このイライラを、手っ取り早く誰かにぶつけてしまいたい。
今日八幡がやってきたのならば、開口一番に罵声を浴びせてやろう。そう智子は考えた。
ラノベの文字列を見つめながら、ありとあらゆる罵詈雑言が脳内を駆け抜けてゆく。
智子はその中から、絶品の一言を精選していく。
その時、伏せる智子に人影が覆いかぶさった。
思わず顔がニヤける。なんていいタイミングで来るのだと、智子は今だけは神の存在を信じた。
その人物は智子の前に立ちふさがったまま、様子を窺うように動かない。
ならば先制攻撃を決めてやろう。
智子は勢いよく顔を上げた。
「人の頭見て興奮してんじゃねーぞ! この変態性欲権化!?」
抜粋した言葉を目の前の人物に浴びせる。
果たしてそこには、端正な目を丸くして驚く、雪ノ下雪乃の姿があった。
その後ろでは義輝が明後日の方向を眺め、結衣が苦笑いし、八幡が口元を押さえて肩を震わせている。
驚愕のあまり、智子は口を開けたまま動けない。
動転から落ち着いた雪乃が笑みを浮かべると、腕を組み、智子に向き直った。
「割と久しぶりだというのに、随分なご挨拶ね。黒木さん?」
その後智子が泣かされたのは、言うまでもない。
そして智子は今、美少女二人に両脇を固められている。
智子を挟むように図書室の椅子に座る雪乃と結衣。彼女たちの視線は、智子が持つ義輝の原稿へと注がれている。
一つの原稿を、三人で共有する形である。当然、スムーズに事が運ぶはずもない。
智子がページを進めようとするたび、結衣からは『ちょっと待って!』と呼び止めが入る。
逆にじっくり読もうとすると、雪乃から『早く進んでもらえる?』と急かされる。
ただでさえ密着する両側から、シャレオツ女子特有の香しい何かが漂ってきて、脳内をかき乱されるのだ。
それに加えて自分のペースまで崩されてしまっては、もう小説の内容など、とても智子の頭には入ってこなかった。
突然やってきた雪乃と結衣の二人は、『自分たちも依頼を手伝う』といって聞かなかった。
彼女らを苦手とする義輝が遠巻きに断ろうとしたが、雪乃の眼光に射竦められ、押し通されてしまった。
しかしだからといって、人数に合わせて原稿が増殖するはずもない。今この場にあるのは八幡が持つ原本と、智子に用意されたコピーの二人分のみ。
結果、男子チームと女子チームに分けられての読書会が催される次第となってしまったのである。
たった一つの原稿を共有する女子チームは、必然的に智子を中心として、雪乃と結衣が両脇から覗き見る形となってしまう。
左右を美少女に固められ、智子が平静に読書を進めることができるわけもない。
既に智子は、彼女たちのご機嫌をうかがいながらページをめくるだけの機械となり果てていた。
「……なあ、やっぱお前ら邪魔だろ」
見ていられなくなったのか、八幡がため息をつきながら、雪乃と結衣を咎める。
彼は、後ろに背負っている義輝が『このシーンが……』やら『ここのセリフが……』などといちいち注釈を加えてくるのを、うっとおしそうに手で払っていた。男子側は男子側で大変そうだ。
八幡の言葉に真っ先に反応したのは結衣だ。
「はあ!? いきなりそれなくない? ただ一緒に読んでるだけじゃん!」
「いや、それがすでに迷惑なんだろ」
結衣の反論に唖然としながら、八幡は雪乃へと顔を向ける。その目が、お前もそう思っているのかと、言葉なき糾弾を投げかけていた。
つられて結衣も、すがるような表情を雪乃へとむける。
二人の視線に貫かれた雪乃は、観念するように息を吐いた。
「……確かに。現時点では、黒木さんが小説を読むことへの障害になってしまっていることは認めるわ」
「ゆきのん!?」
雪乃が自らの非を認めたことに、結衣は驚くが、八幡は当然だといった表情を作る。
だが、だからといってあっさりと身を引く雪乃ではない。
「でもそれは、またコピーを取ってくれば何も問題ないはずよ。今日だけはやむを得ず……」
「……分かんねえな。なぜそこまでして、干渉しようとするんだ? 元々お前らはこの依頼には消極的だっただろ」
対処策を講じてまでここに残留する意思を示す雪乃に、八幡は首をかしげる。
純粋に不思議に思っていることを示すそのポーズだったが、雪乃や結衣は、その鈍感さに歯噛みせざるを得ない。
この男には、口に出していってやらないと伝わらないのだと、結衣は声を荒げる。
「あのさ! 同じ部のあたし達放って、もこっちに頼るなんて、そんなのおかしくない!?」
「はあ……だから説明しただろ。俺が頼んだんじゃなくて、こいつが勝手に参加してるだけだって」
いちいち結衣の怒りを刺激するように、淡々と八幡は自らの正当性を告げる。
全く動じることなく迎え撃つ八幡の態度に、結衣が一歩たじろぐ。
それに続くのは雪乃だ。
「それにしたって、一言かける必要はあったのではないの? これは奉仕部への依頼で、私たちはその部員なのだから」
「まあ、それはそうだが。『え、お前が言うの?』って感じだな。俺たちはそんな全うな組織じゃないだろ」
雪乃が正論を振りかざしても、八幡はびくともしない。のらりくらりとして肝心なところで一歩も譲ることはない。
論争は踊る、されど進まず。
お互い妥協点を見出すことのできない討論は、どこまで行っても不毛なものだ。
そんな中、女子二人に挟まれた智子はどうしていたかというと。
――こみ何とかさんが、こっちを見ている……。この機を逃す手はない!!
奉仕部員たちのいさかいには一切耳を傾けていなかった。
ちらちらと琴美の様子を見て、反撃の機会をずっと窺っていたのだ。
今この場には、目が腐っているとはいえ、ある程度の容姿をもった男子一人と、美少女二人、あとなんか野太いの一人がいる。
この状況を、敵に自慢せずして一体どうする。智子は周りに見えないよう、不敵な笑みを浮かべる。
いつ席を立って、琴美に声をかけに行こうか。ただそのタイミングだけを図っていた。
「じゃあヒッキー、あたしたちのことなんて必要ないっていうこと!?」
一際大きな叫びが上がり、智子が思わず注意を隣に向ける。
涙目になった結衣が立ち上がり、八幡へと身を乗り出していた。
いつの間にか起こっていた修羅場に、智子は動揺を隠せない。
「だからっ……今回の依頼に関しては、お前らが加わるのは非効率的って言ってんだよ」
結衣に向かい合っている八幡も、頭を押さえながら若干イラついているように見える。
本当に何があったのだろうか、智子は所在なさげにきょろきょろすることしかできない。
視界の端に映った雪乃も、どこかおろおろとして、戸惑っているように見えた。どうやら、今ヒートアップしているのは結衣と八幡の二人だけのようだ。
「同じことじゃん! そもそも、ヒッキーだけがそれ決めてるのもおかしいし!」
「俺だけじゃねえだろ……明らかに材木座も、黒木も」
一人ずつ指さしながら、自らの正当性を八幡は並び立てていく。
それを遮るように、結衣が力強く智子の肩をつかんだ。
「ねえ、もこっち!!」
「へぁいっ!?」
突然降りかかった呼びかけと肩の痛みに、智子は叫びとも返事ともつかない声を上げる。
腰をかがめた結衣の顔が、すぐ目の前までやって来ていた。
そこから、先ほどまでとは一転して不安そうな、震えるような声色で質問が飛んでくる。
「もこっちも、私たちが邪魔? ……いてほしくない?」
懇願するような結衣の言葉と表情に、智子の心が揺れる。
正直いまだに話の流れは全くつかめてはいない。それでも、問いかけに対する智子の返事は一つしかなかった。
「い、いや! 必要だよ。いてほしいに、き、決まってる」
主に琴美に自慢するための材料として、今結衣にいなくなられては困る。
そういった意図百パーセントで、智子は答えた。
智子が断言した内容が、完全に意外だった八幡は仰天する。
「はあ!? お前、何言って……」
「ほら、やっぱ女の子は分かってくれるんだよ! ありがとう、もこっち!!」
表情に自信を取り戻した結衣が、智子を抱きしめる。
精神が飛んでしまいそうな柔らかさに包まれながら、智子は琴美に目線を向けることを忘れない。
視線を向けた先の人物が、確かに目を見張ったのを見て、智子は内心でガッツポーズを掲げた。
気分を高揚させた智子は、さらに調子に乗っていく。
「ゆ、雪ノ下さんだって、いてもらいたいよ。と、友達だし……」
「おいおい……」
もう、さっぱり理解できなくなってしまった八幡が頭を抱える。
突然やり玉に挙げられた雪乃も、おかしいと思っているのか、頬を染めながらも眉をしかめる。
その背中を、すっかり元気を取り戻した結衣が押す。
「さすがもこっち、いいこと言う! ほら、ゆきのん」
「え、ええ。黒木さん。どうも、感謝するわ」
戸惑いながらも、お礼を言う雪乃。その眼前に、手が差し伸べられる。
なんだこれはと、雪乃が顔を上げる。
手からさかのぼった先には、照れくさそうにもじもじとする智子の姿があった。
「あ、あの。握手……」
こいつは、こんな人間だったか?
雪乃の中にある智子像が、輪郭を失ってぼんやりと自信なさげになっていく。
「よ、よろしく? なのかしら」
差し伸べられたからには、払うわけにもいかず、雪乃がその手を握る。
その時にも、智子の目線は琴美のほうを向いており、目線の先が仰天している姿を見て留飲を下げている。
しかし冷静さを欠いている雪乃には、それに気づくことができない。
気づくことができたのは、たった一人だけだった。
比企谷八幡だ。
彼は持ち前の観察眼でもって、智子が何か別の目的で動いていることを見通していた。
「どうヒッキー! これでもまだダメだっていうの!?」
水を得た魚のように、結衣は今日一番のどや顔で八幡に詰め寄る。
それに対する八幡の対応は、実にあっさりとしたものだった。
「ん? ああ。黒木がそういうんだったら、しょうがねえんじゃねえの」
「へ? う、うん。そうだよ。あれ?」
『おみそれいたしました!』と頭を下げるなり、『ち、ちくしょおおおお!』と悔しさに顔をゆがませるなりを期待していた結衣としては、その塩対応はがっかりだった。
それもそのはず。すでに八幡の意識は、別のところに移動してしまっているのだから。
勝利した瞬間に、相手に関心を移されてしまうとは、実に不憫な少女である。
それでも結衣は、勝ちは勝ちだと胸を張ることにする。彼女は前向きなのだ。
一番の難関だった相手に許可をもらい、また堂々と原稿の続きに目を通し始める三人。
その中心に位置している人物に、八幡からの疑惑の目が向けられた。
「おい黒木。一体何を企んでいる」
智子の体がびくりと揺れる。顔を上げ八幡の方を向く。
その顔は、笑っていた。
「え、何が?」
「何がじゃねえよ、今日のお前明らかにおかしいだろ」
こういう時に智子がしらばっくれるのは、もう八幡は分かっている。それでも追求しないわけにはいかなかった。
突然始まった八幡の尋問に、結衣が割り込んでくる。
「ヒッキー! 自分の思い通りにいかなかったからって、もこっちにあたらないでよ!」
その意味合いを勘違いした結衣は、完全に智子の側についてしまう。
これではやりづらくてしょうがない。
何とか結衣だけでも払いのけてもらおうと、八幡は雪乃を説き伏せようとする。
「おい、雪ノ下。由比ヶ浜を何とかしてくれ。お前もおかしいと思ってるだろ」
呼びかけに対し、雪乃は少し考えるようなそぶりを見せた。しかしすぐに頭を振って、決断を下してしまう。
「駄目ね。確かにおかしいとは思うけど、あなたの悪あがきにも見える。判断不能よ」
そういって再び原稿へと目を落としてしまう。
八幡は舌を打つ。
未だに背中にまとわりついている義輝は、女子相手には使い物にならないし、完全に多勢に無勢である。
この状況。今までの八幡であれば、もう面倒だと諦めてしまっているところだろう。
いつだって自分は一人で、周りの批判をただただ受け流していればいい。
そう考えて口をつぐむところだ。
しかし、八幡は今この瞬間、とてもそんな気にはなれなかった。
なぜかと言われれば、調子に乗った智子のニヤけ面が、たまらなくムカつくからに他ならない。
とうとう八幡は核心を突くことにした。
口の端を持ち上げながら、不敵にカウンターの方を指さす。
「もしかして向こうにいる、図書委員のお知り合いが関係しているのか?」
「な、なぜそれをっ……ぅぐ!?」
智子が慌てて口をふさいだ時には、もう遅かった。思わず椅子ごと体を後ろに引く智子。
ぽかんと、大きな目をさらに丸くして口を開けている結衣が見える。
額にしわを寄せて、それでも整いすぎている顔を不審の色に染め上げ、睨む雪乃が見える。
その顔の間、机を挟んだ向こう側から八幡の顔が覗く。
してやったりと、その表情は恍惚としているではないか。
カマをかけられたのだ。
智子は自分のうかつさを呪った。
「え、どういうこと? あたしさっぱり。ゆきのん?」
「……比企谷君、説明をお願いできる?」
状況に追いつけない女子二人が、八幡に補足を求める。
声をかけながらも、逃がさないとばかりに、彼女らの顔は智子を向いたままだ。
八幡は椅子にふんぞり返ると、得意げに口を動かす。
「何のことはねえよ。ただコイツがさっきから、ちらちらカウンターのほうを見てたからな。当てずっぽうだったが、上手くいったらしい」
「くっ……! この野郎」
もう隠すこともなく、智子の顔が歪み、八幡を睨む。
あの腹立つ笑顔をかき消すことができた。それだけでもう八幡の目的は達せられたが、どうせなので最後まで追求することにする。
「さあ話してもらおうか。由比ヶ浜の問いかけに同意した辺りから、お前はおかしかった。それとあの図書委員と、一体何の関係があるんだ?」
「ぅぐ、ぐぐ……!」
完全に追い詰められた智子は、力なく椅子にもたれ、うつむく。
それでも八幡は、言葉の雨を緩めることはない。
「お前のせいで、俺は由比ヶ浜ごときに負けることになったんだ。答えてもらうぞ」
「ごとき!? 全然負け認めてなくない!?」
八幡と結衣が小競り合いをしている間にも、智子はずっと考えていた。
まずい。この状況はまずい。
ここで返答を誤れば、結衣と雪乃からの支持をなくし、下手をすれば二人は帰ってしまうかもしれない。
それだけは避けたかった。今二人にいなくなられてしまっては、琴美に十分なダメージを与えられない。
最終的には二人と肩を組んで、帰り際に琴美を振り返り、勝利宣言をするところまでいきたい。
そのためには、いまここで二人の機嫌を損ねるわけにはいかない。
何とか穏便に、矛盾なく、この場を切り抜けなくてはならない。
ふさわしい言い訳。今必要なのはそれだ。
智子は覚悟を決め、顔を上げる。
震える唇で、言葉を紡いだ。
「じ、実は今日、あいつに、友達がす、少ないことを、馬鹿に、されて……」
皆が見ている。
いまだかつて、これほど真剣に、自分の言葉が注目を浴びたことがあっただろうか。
智子は一言ずつ、慎重に、慎重に、口から作り出していく。
「それが、く、悔しくて。だから、二人のこと、じ、自慢しようとしてっ……」
結衣の表情が、痛ましいものを見るように変化していく。
雪乃は目をつむっていた。
二人とも、智子から語られた事の真相に、それぞれ思うところがあるようだ。
智子は心で笑う。
嘘はついていない。繰り返す。嘘はついていない。
智子はこれまでの経験から、こういう場面で嘘をつくとロクなオチにならないことを知っていた。
だから、事実を捻じ曲げて話すことで、ごまかすという術を手に入れたのである。
じっと、智子を睨みつけながら話を聞いていた八幡が、智子に問いかける。
「それは、本当か?」
暗くよどんだ眼が、智子の心の奥まで見通すように波紋を投げかける。
大丈夫。そう自分を勇気づけて、できる限り堂々と、智子は返す。
「ほ、本当!」
それでも少しどもってしまうが、智子は言い切った。
八幡の慧眼をもってしても不審な点は見当たらなかったのか、とうとう智子からその視線が外される。
智子はほうっと息をつくと、内心で高らかに謳いあげた。
――馬鹿がっ! まんまと騙されやがった! まあ本当に嘘はついていないんだけど!
心の中で勝利宣言を何回も繰り返す。次の瞬間、また柔らかいものに智子は包まれた。
「もこっち! うん。大丈夫だよ。だってあたしたち、本当に友達だもん!」
今日何度目になるかわからない感触と酩酊の中に、智子は落ちてゆく。
これが勝利の味かと、彼女はこの感情に酔いしれることにした。
その智子の袖をひくものがある。
袖を掴む手をたどっていくと、うつむき、口をつぐみ、何かを耐えているような雪乃の表情があった。
「私、何て言えばいいかわからないのだけど……でも」
迷いを振り切るかのように、雪乃が顔を上げる。
その瞳は澄み切っていて、まっすぐ智子を見つめている。
「あなたは、間違ってない。きっと」
正面から眺めた雪乃のすべてが、あまりに綺麗で、智子の思考が止まる。
彼女は一体、何を思ったのだろう。
どんな考えに行き着けば、こんな澄んだ表情を湛えられるのだろう。
酩酊しきった、止まってしまった思考では、とても想像することができない。
それでも智子は、このかけがえのない存在に応えたくて、何とか言葉を絞ろうとした。
そこに、あまりに現実的で、無粋といえば無粋な、図書委員の声がかけられる。
「あの、ここ図書館なんで、さっきからもう少し静かにしてもらいたいんだけど」
「うっせえなあああ!! このこみクズがあっ! 今大事なとこなのによおぉぉおん!?」
現在感情が口に直結してしまっている智子は、野暮な口出しをした琴美にその怒りをぶつける。
一を百で返すようなその勢いに、少し押される琴美。それでも図書委員として、毅然に対応しようとする。
「は、はあ? なに逆切れしてんの?」
「何が逆切れだ! こっちが散々苦労して、テメエに見せつけるために人動かしてるってのに、邪魔すんじゃねえよ! 今ようやく根暗高飛車女がこっちになびきかけてんだ! テメエのその」
「根暗。高飛車。そう思っていたのね?」
低く、暗い。なのに透き通るようによく通る声が、智子の勢いを一切遮断する。
高揚感が一気に失せ、智子の思考が一気にクリアになる。
視界が先ほどまでの五倍は広がったような気がした。
「まあ、お前はそういう奴だよな。知ってた。知ってた」
比企谷八幡が腕を組み、人を小ばかにするような笑みを浮かべ、首を傾けている。
「もこっちって、やっぱ変かも……」
由比ヶ浜結衣が口を尖らせ、非難の視線を向けている。
「あなおそろしや……おそろしや……」
材木座義輝が合掌し、智子に向けて、いや、智子の後ろに向けて頭を垂れている。
そして、後ろには雪乃がいる。
とても振り向くことができない。
智子にそれができるはずがない。
最後に、智子の中で、こうなってしまった原因である小宮山琴美に、恨みの視線を向ける。
琴美はあきれ果てたような表情でそこにいた。
「よく分かんないけど……やっぱりお前すごい馬鹿だな」
腹立たしいことに、それだけ言って智子の視線をあしらい、琴美は行ってしまう。
智子は追いかけたかった。
だけどそれは、絶対にできなかった。
智子の肩を力強く、しっかりと握りしめる雪乃の手に彼女は捕えられているからだ。
「黒木さん、少し話し合いましょう。大丈夫よ? ……私たちは友達なのだから」
嘘をつかず、ごまかしたところで、やっぱり私の人生はロクでもない。
未だ何が悪かったのかに気づかない智子は、誰にともつかないまま、ただ呪った。