比企谷八幡には妹がいる。
二つ下の中学三年生である比企谷小町を、八幡は目に入れても痛くない程に可愛いと思っている。
兄弟というのは不思議なもので、物凄く愛しく思える時もあれば、この世の誰より憎たらしい時もある。
今現在こそ八幡と小町の関係性は良好だといえる。しかし喧嘩もすれば、互いを疎ましく感じる時も、もちろんあった。
八幡はそんな兄弟間の何とも言えない距離を、『一番身近な他人』と表現することで、自分の中に落とし込むことにしている。
八幡はこれまで、他所の兄弟というものに触れる機会がなかった。
家族ぐるみの付き合いといったものは比企谷家にはなかったし、何より八幡に友達がいなかった。
だから、これまで八幡が見てきた兄弟姉妹というものは、全てドラマや小説の中に限られていた。
他人が兄弟のことを話している場面にすら、立ち会ったことがなかったのだ。
そのため、今八幡は生まれて初めて『自分の兄弟について語る女性』と向き合っていると言える。
だが目の前の光景は彼の予想を遥かに裏切るもので、その心は恐怖に打ちひしがれていた。
「っだああ! あいつ本当に屑野郎だわ! マジ脳みそ腐ってるよね!? ガキの頃あんだけ優しくしてやったのによお!! どうせ今頃クラスのメスとよろしくやってんだろうな!? 最近部屋もイカ臭くなったような気がするし? ったく、これだから性欲しか頭にない運動部男子はっ!!」
八幡からやや離れた校舎わきに座り、彼女は一人、怒りにわなないている。
カツカツと乱暴に弁当を掻き込む智子を見て、八幡は震えた。
――えぇ……? 女って男兄弟のことこんなにボロクソに言うもんなの? 小町にこんなこと言われてたら俺立ち直れる気しないんだけど……
時刻はほんの少し遡る――
「おっ! 比企谷、今日も辛気臭え面してんな!」
「あ?」
今日の智子は、開幕から異様なテンションでベストプレイスにやってきた。
弁当片手に、今時アニメキャラでもやらないような、手をまっすぐ上にあげての挨拶をしている。
明らかに上機嫌だ。
黒木智子が気分屋であることは、すでに八幡のあずかり知るところだ。
しかし、こんな絶頂といった雰囲気は初めてである。
気分が下方に振り切れていることはよくあるが、こんなに浮かれている智子は珍しい
いったい何が始まるのか。八幡は嫌な予感しかしない。
「何? どうしたのお前」
「は? 何って挨拶だろーが。相変わらず社会常識がなってないな! さては友達いないだろ?」
「絡みがウゼえ……のはいつも通りか」
不審者を見るような八幡の視線を気にした風もなく、智子はいつもの自分の位置に座る。
上機嫌そのままに弁当を広げ始めた智子を観察しながら、八幡は警戒のレベルを一旦下げる。どうやら今すぐ何かやらかす訳ではないらしい。
八幡は智子から視線をそらし、お決まりの総菜パンとMAX缶コーヒーを広げる。
登場時の口やかましさから一転して、智子は何も話しかけてはこなかった。
だが黙々と弁当をつついているわけではない。智子は機嫌の良さを象徴するかのように、鼻歌でアニソンを延々と奏でているのだ。
そのアニソンが、八幡もよく知っているものだったのが不幸の始まりだった。
智子は時々音程を外したり、変にアレンジを加えたりして演奏する。それが、とにかく癇に障って仕方がない。
八幡はしばらくこらえた。本当に長い間、よく我慢した
だがしかし、サビの部分を智子が一オクターブ下げたところで、とうとう限界が来る。
八幡は大きくため息をつくと智子に話しかけた。
「おい黒木、……何か良いことでもあったのか?」
智子は加えていた箸をおくと、待ってましたとばかりに、満面のニヤつきを見せる。
「え、聞いちゃう、それ聞いちゃう? 何、気になるの? 気になってしょうがないの?」
「うっぜぇ……」
想定していた以上の喜びように、八幡は思わず本音をこぼす。
そんな八幡のつぶやきも気にならない程に、智子は浮かれているようだった。
「しょーがねえなー、教えてやるか。一応お前にも関係あることだしな!」
「は? ちょっと待て。俺は関係ない。俺が関係することはこの学校にはない」
智子が口にした言葉は聞き捨てならないものだった。
彼女の浮かれ具合に自分は無関係だと思ったからこそ、さっさと喋らせて満足させようとしたのだ。
それが自分も関っているとなると話は変わってくる。
八幡はやっぱり聞くのはやめようかとも思案する。
しかし時はすでに遅く、智子は既に上機嫌の理由を語り始めていた。
「実は今日、弟にドッキリを仕掛けたんだよ」
「弟?」
智子の口から思いがけず第三者の存在が出され、八幡はつい聞き返す。
だがすぐに、智子の弟について、既にある程度聞かされていたことを思い出した。
智子の弟は、彼女の一つ下で、現在同じ高校の一年として通っている。サッカー部に通う根暗で不愛想な男……というのが智子から得ている情報だった。
「そうだよ、弟。前に言ってあっただろ」
「ああ、そうだったな。で、ドッキリって何だ?」
問題はそこである。
ドッキリという言葉に、八幡はあまり良い印象を抱いていない。
八幡にとってのドッキリとは、常にリア充側が八幡を陥れるために行ってきたもののことを指す。
やっていることは犯罪レベルの詐称行為であるのに、彼らはいつも『ドッキリ』という概念を盾に自己弁護をしてきた。
『そう騒ぐなよ。たかがドッキリだろ』と、全く悪びれることもなく言い放った奴らの顔を、八幡は一時たりとも忘れたことはない。
そんな、八幡にとって天敵ともいえる言葉を智子が発した。その事実に、八幡の警戒レベルがマックスにまで達する。
「事と次第によっては、俺は今すぐここを離れるぞ」
「ま、待って。それは困る」
八幡にここを離れられてはせっかくの計画が台無しになってしまう。
詰め寄るような態度をとる八幡に、智子は慌てて自身の目論見を白状した。
「昨日暇だったからさ。弟に『彼氏できた』って嘘ついたんだよ」
「ほう。それで」
いきなりの脈絡のない話にも、八幡は眉一つ動かさず続きを促す。
もう八幡は、智子の妄言の一つや二つでは驚かない。
「少しぐらい驚かせてから暴露しようとしてたのに、アイツ全然反応薄いもんだからムカついてさ。『昼放課はテニスコート前の校舎で彼氏と一緒にご飯食べてるから、絶対来るなよ』って言ってやったんだ」
「なるほどな、で彼氏ってのはなんだ」
八幡の当然の疑問に、智子は眉をひそめる。
実に人の不快感を煽る表情で、八幡を指さし彼女は言う。
「は? お前に決まってんじゃん。馬鹿なの?」
「うん。よし、分かった。殺すぞ」
もはや不快感が溢れきらんばかりだった八幡は、怒りを隠さず智子を非難する。
「お前、成瀬の時も同じことしてえらい目にあったのに、まだ懲りてなかったのかよ……」
「あんなもん、私と優の仲を深めるスパイスでしかないだろうが! ふざけんな!」
「ふざけてんのはお前だろ……」
やはりコイツは全く変わっていないのかもしれない。
八幡は自分の感性を多少不安に思った。
成瀬優。智子の唯一と言っていい中学からの友達で、とても華やかな外見をしている優しい子だ。以前八幡も会ったことがある。
あれぐらいの聖人じゃないとコイツの友達は務まらないのだろう。八幡は自分を棚に上げ、優に改めて感心する。
昔のことを振り返りつつも、八幡はふと、智子の話におかしな点を見出す。すかさずそれを追求した。
「ん? 『絶対来るなよ』って言ったんなら来ないんじゃないのか?」
「何言ってんだお前? 来るなよって言われたら来たくなるだろ。芸能界じゃ常識だぞ」
滅茶苦茶な智子の理屈だった。
『お前は芸能人かよ』と八幡は突っ込みたくなったが、もう智子は半分芸人みたいなもんなんだと思い諦めることにする。
そして、そんな話を聞いたからには、八幡は今すぐ帰りたくなった。
また優の時のような、面倒な目に合うのは御免だからだ。
「ふう。じゃあな黒木。あんま弟に迷惑かけんなよ」
「あ、おお。んじゃっ……て、おいっ!」
用意したお昼を食べ終わり、ごく自然に八幡はその場から去ろうとした。
あまりの自然さにいったん見送りかけた智子が、芸人もかくやと言った勢いで八幡を引き留める。
「何普通に帰ろうとしてんの? ぼっちのくせに教室が大好きなのかよ」
騙されてくれなかったかと、八幡は心の中で舌を打つ。
「っんだよ。ここにいても俺にメリットないだろ。彼氏役はもう御免だ」
「分かった! 手握るくらいなら役得として許してやるから!」
そう言って差し伸ばされる智子の手を、八幡はあざ笑うかのように見下ろす。
「ハン! 女の手なんざ妹で散々握り倒してるっつーの!」
「うおわっ! 鳥肌立った!?」
八幡の残念過ぎる断り文句に智子はぞっとする。
彼の頑なな態度に、早くも智子は最終手段を取ることにした。
何とか引き留めようと土下座をし、あらゆる言葉を尽くす。
「本当にお願いします! 比企谷さんジュース飲みますか!? 弟の驚いた顔が見たいんです! 比企谷さん靴舐めましょうか!? あのなめ腐った無愛想野郎をあっと言わせたいんです! 比企谷さあぁあん! どうぞお踏みくださいぃ!!」
「どんだけドッキリに対する思い強いんだよ怖えよ! 気持ち悪いから土下座と敬語をやめろ!」
「だ、だったら……」
顔を上げた智子のすがるような視線を、八幡は哀れむとともに不思議に思った。
割とプライドの高い智子がここまでするなんて、彼女にとって弟とはどれだけ悩ましい存在なのか。
八幡には想像もできなかった。
「……しょうがねえな、俺はいるだけだからな」
「ひ、比企谷さん……!」
「だから敬語止めろ」
自分と小町とは違う、他所の兄弟関係というものに、八幡は興味が湧いてしまった。それが理由だった。
しかし、やはり八幡にも譲れないラインはある。
「だがな、弟がきたらすぐにネタ明かせよ。この前みたいのはウンザリだからな」
「それなら大丈夫。アイツが驚いた瞬間に、この紙突き付けて嘲笑うつもりだから」
得意げな顔をして智子がポケットから取り出したのは、何回にも折りたたまれたコピー用紙だ。そこには書きなぐったような字で一言「ドッキリ」と表記されている。
八幡は顔を引きつらせた。
「楽しみにしすぎだろ……分かんねえ」
「ま、お前みたいな根暗には分かんないわな!」
智子は再び紙をポケットにしまうと、弁当の残りを啄ばみ始める。
八幡はやっぱり帰ろうかとも思ったが、約束してしまった以上ここに残り続けるしかなかった。
お昼の時間も既に半分を過ぎている。
来るならそろそろかと、八幡はまだ見ぬ智子の弟の姿を想像した。
しかし、待てど暮らせど、ベストプレイスに人が訪れることはなかった。
そうして、冒頭へと話は戻る。
憤慨する智子は、八幡に言い放つ。
「おい、お前ちゃんと明日も来いよ! こうなりゃ根くらべだっ!!」
「いや、ここはもともと俺の場所なんだが……。ていうか、今日来なかったらもう来ないだろ?」
弁当袋を乱暴に振りかざしながら、智子は八幡を指さす。
そんな彼女とは対極的に、八幡が冷静な見解を返す。
前振りをしておいてやってこないということは、もうバレているか、元から相手にされてないかのどっちかだ。
忘れているという可能性もないことはないが、どっちにしろ智子が行動を起こさない限り、相手がやってくる可能性は低い。
そんな八幡の見解を、智子は真っ向から否定する。
「いーや! アイツは様子見をしているんだ、私には分かる! これは先に動いた方が負けだ!」
「俺は負けても一向にかまわないんだが……」
それは兄弟間のなせるワザなのだろうか。智子には弟の心理が読めているようだ。
あまりあてになるとも思えないが、特に不都合なこともなかったので、八幡は反論を引っ込めることにする。
「ま……来ると良いな。早いうちに」
残念ながら八幡の希望は通らなかった。
その翌日も次の日も、ベストプレイスに二人以外の影が見られることはなかった。
数日が立ち、今日も今日とて昼放課。
もうすっかりドッキリのことなど、彼らの記憶の片隅に追いやられていた。
いつも通りの位置に座り、いつも通りのスタイルでお昼を過ごす。
二人がそれぞれの昼食を、もそもそと咀嚼していた時だった。
「あっ!?」
智子が急に大声をあげる。
完全に不意を突かれ、八幡の体が痙攣する。
文句の一つも言おうと智子の方を向く。そこには一点を見つめながら、嬉しそうに眼を引ん剝く彼女の姿があった。
智子の視線に誘導され、八幡はベストプレイスの入り口になっている角の方へと振り向く。
目線を向けた先には、一人の男子生徒が立っていた。
男子生徒の眉は持ち上げられ、見開かれた目が、本人の驚きを表している。
袖がまくられた両手をポケットに突っ込み、手には何も携えていない。彼が八幡たちのように、お昼を食べにやってきたのではないことが、そこから見て取れた。
八幡の脳裏に数日前の出来事がよぎる。
どうやら智子の弟は、智子が言うところの根くらべに負けてしまったらしい。
相当に気が動転しているのか、男子生徒は口をつぐんだまま、いつまでも突っ立っている。智子の作戦は大成功を収めたようだ。
この時点で、智子の目的は十分に達成されたことだろう。
完全に進退窮まっている男子生徒を不憫に思った八幡は、智子にネタばらしをするよう促す。
「おい黒木、もういいだろ。さっさと行ってこい」
「えぇ? た、頼むもうちょっと、もうちょっとだけ……!」
弟の面食らう様子がよっぽど愉快なのか、智子はニヤついた顔のまま動こうとしない。
それは明確な契約違反と言えた。
智子の愉悦の表情と、かつて八幡を陥れた『奴ら』の表情が、八幡の視界にダブついて見える。トラウマが首をもたげる。
それは八幡にとって、たまらなく不愉快な感情だった。
「お前、いい加減にしろよ」
驚くほど冷たい声が八幡の喉を震わす。
それを聞いた智子は身を震わせ、その声の方を向く。八幡の顔を見た智子から、ニヤニヤ浮かべていた笑みが消滅する。
「う……わ、分かったよ。そんな怒らなくても……」
自分が調子に乗っていたのは分かっていたのか、智子は急激に神妙になる。その表情が、わずかに八幡に怯えるように曇る
智子の顔色を受けて、八幡の体の熱が急激に引く。
確かにあの嫌な笑みは消してほしかったが、別に脅かすつもりではなかった。暗く陰る彼女の姿は、八幡の本意ではない。
だから八幡は、努めて穏やかな声を出す。
「ほら、さっさとネタばらししてこい。お姉ちゃん」
「うるせえっ、シスコン!」
冗談っぽくけしかけたのが良かったのか、智子は調子を取り戻し、弟の方へ向かっていった。
八幡も安堵の顔を浮かべ、それを見送る。
遠目から智子が弟の前で紙を広げ、見せつけているのが伺えた。
八幡はその用意周到さに呆れる。
「まだ持ってたのかよ……すげえ執念」
ドッキリであることを知り、色々と質問しているのだろう。しばらく智子とその弟の会話は続いた。
遠くから見ている八幡にその内容は分からないが、二人の距離感や言葉を交わす雰囲気は悪くないように見えた。
そう思った矢先、いきなり弟が智子の腹部を蹴り上げる。
割といい角度で入ったらしく、その場に座り込む智子。
突然のことに八幡が頭を真っ白にしていると、件の弟が近づいてくるのが見えた。
まさか自分も蹴られるのかと、立ち上がり身構える。とうとうネット動画で見た、合気道のいろはが生かされるときかと逡巡する。
いつの間にか、もう彼は目の前まで来ていた。
身長はそんなに高くないが、やはり運動部であるためか体格はがっちりしている。
こちらを値踏みしているかのような視線は、智子に似た目元のクマと相まって、八幡を怯えさせるには十分だった。
一瞬で勝てないことを悟る。
もう土下座しかないかと八幡が頭を下げかけた時だった。
先んじて相手の方が頭を下げてきたのだ。
「何かすいません、あいつの下らない遊びに付き合わせてしまったみたいで」
それは謝罪だった。
姉がしでかした迷惑を、代わりに弟がお詫びしているのだ。その姿はまさに『家族』のもであると言えた。
八幡の中の緊張感が、あっという間に消え去る。
やはりこいつらも兄弟なのだ。親近感が、八幡の中に次々と湧いて出てくる。
「いや謝んのは俺の方だろ、どちらかと言えば俺がやったことは共犯に近いしな。すまん」
負けじと八幡も頭を下げる。
智子の弟は複雑そうな、悔しそうな顔色を浮かべた。
「マジで驚きました。まさかアイツに、共犯してくれる人がいるなんて思ってなかったんで」
「いや、何気に酷いな……」
八幡が智子に同情し、苦笑いを浮かべる。
弟に馬鹿にされている姉の方を覗くと、どうやらダメージがだいぶ深かったらしく、復帰まではまだ時間がかかりそうだった。
「俺、黒木智貴っす」
不意に名乗られ、八幡は視線を戻す。智貴と名乗った彼は、その不健康そうな目で八幡を見つめている。
どうやら返事を待っているようだったので、八幡も流れに乗ることにした。
「比企谷八幡だ」
「比企谷さんは、あいつの何ですか?」
抽象的な質問が八幡に投げかけられる。
また智子がいらんことを吹き込んだのかと、まず八幡は疑った。しかし智貴の目を見て、すぐにその認識は改められる。
彼が浮かべている視線は、分かりやす過ぎる程に、兄弟の身を案じる家族のそれだったからだ。
八幡も妹を通してその目を知っていた。
だから、恥ずかしげもなくそのセリフを言うことができた。
「ああ、まあ友達だ」
八幡は目論見通り、智貴の目から不安の色をかき消すことに成功する。
智貴は頬を書きながら、八幡に軽く頭を下げて言う。
「たぶんもう分かってると思いますけど、アイツめちゃくちゃ迷惑かけると思います。嫌気がさしたら真っ先に見捨ててもらって構わないんすけど」
そう言って姉を卑下する弟を見て、八幡は彼の苦労に思いをはせた。
きっと智貴は、あの姉の奇行に散々苦労させられてきたのだろう。
「姉の友達でいてやってくれますか」
言ったきり、智貴は気恥ずかしそうに目線を逸らす。
なんてできた弟だろうと感心しつつ、八幡は声をかける。
「あー、智貴君よ」
「呼び捨てで良いですよ。先輩はみんなそうなんで、何かむず痒いっていうか」
八幡の呼びかけに応じ、智貴が顔を向ける。
その顔は、無表情を保とうとして失敗しているように見える。何とも居心地が悪そうに、目線がせわしなく動いていた。
慣れないことをして、言って、さぞ気が動転しているのだろう。
落ち着かないその様子にいたたまれなくなりながら、八幡は改めて智貴に呼びかける。
「そうか、智貴」
「はい」
「安心しろ。お前の姉ちゃん、結構友達多いぞ」
智貴が目を見開く。彼にとってそれは、あまりに予想外な一言だったようだ。
友達のいない八幡にとっては、一人でも二人でも、友達がいることは、つまり多いということである。そういうつもりで八幡は言った。
しかし、それを聞き手がどう受け取るかはまた別の問題である。
智貴は落ち着かない表情から口角を上げ、徐々に微笑みをつくっていく。その顔は本当におかしそうだ。
「本当っすか?」
「ああ本当だ。嘘はついていない」
八幡はいつもの卑屈な笑みを浮かべて言う。
そう、比企谷八幡は嘘はつかない。事実を捻じ曲げて伝えることがあるだけだ。
八幡と智貴が互いに笑いあっていると、未だに腹部を押さえている智子が、やっとのことで合流してきた。
「何お前ら男同士で見つめ合ってんの? ホモなの?」
「違えよ……」
弟相手でも相変わらずすぎる智子の憎まれ口に、これは智貴も苦労するわけだと八幡は苦笑する。
そんな八幡の笑みを、ちらと見やる智貴。その顔を無表情戻し、姉に忠告する。
「お前、比企谷さんにあんま迷惑かけんなよ」
「ああ!? 何上から指示出してんの!? お前は私のオカンなの!?」
条件反射のように暴言を返してくる智子に、流石と言った感じの余裕の佇まいで、智貴が言い返す。
「いや、弟だろ」
「知ってるよ!!」
この永遠に終わらない感じの言い合いには、八幡も身に覚えがあった。
それは一番身近な他人との距離。八幡も日々、妹と似たようなやり取りをしているものだ。
もう少し小町にとって良い兄でいるようにしよう。
瞼を閉じれば浮かんでくる最愛の妹の姿に、改めてそう誓う八幡であった。