智子と八幡が家庭科室に入ると、幾数十もの視線に晒された。
覚悟していたこととはいえ、実に二クラス分の生徒に一斉に見つめられるのは、二人にとってやはり耐え難い重圧だ。
そんな圧倒的プレッシャーを一身に浴び、八幡は背筋を凍らす。
一方智子はその背に隠れ、八幡を盾にしてやり過ごす。
智子の名誉のために付け加えておくと、これは事前に打ち合わせがあってのことだ。
決して智子が八幡にそんな役割を押し付けたとかではない。無いったらない。
幸いにも実習がある程度進行していたこともあり、生徒たちの関心はすぐに手元の料理へと移っていく。
智子と八幡は、自分たちに向けられた興味が失せたのを敏感に感じ取り、一息ついた。
壇上にいる教師に事情を説明するため、二人は連れだって教卓へと向かう。。
もう一通り調理の工程は説明し終わったのか、家庭科教師は案外退屈そうにしていた。
椅子に座り、教科書片手に教室をなんとなく見渡しているように見える。
教師がこんなことで良いのだろうか。
八幡は、自分から話すつもりが全く見られない智子を後ろに背負い、眉をしかめつつ声をかける。
「先生。体調が回復したので、授業に参加していいですか」
「ん……? ああいいぞ。後ろの彼女も同じ?」
声をかけられて、初めて二人に気づいたといった感じで、教師がこちらを向く。
その顔には、八幡たちをからかうような表情を浮かべていた。
この教師はわざとやっているのだろうか。
八幡は、教師が発した「彼女」という言葉の意図を問おうかとも思った。だが、そんなことでムキになっては青臭いと考え、適当にあしらうことにした。
「あー、まあはいそうです。隣のクラスの子みたいで、たまたま保健室で一緒に」
特に動揺した様子もなく、すげない八幡の様子に、教師は興をそがれたように表情を落とす。
「そうか。もう実習は始まっているから、自分の班に混ぜてもらいなさい」
教師は事務的にそれだけ伝えると、先ほどまでの姿勢に戻る。
前を眺めるつまらなそうな表情が、もう二人に話すことはないと、雄弁に語っていた。
八幡は後ろを振り返る。
そこには、どうしたらよいのか訴えかけるような視線を向ける智子の姿があった。どうやらまた話をよく聞いていなかったらしい。
八幡は今日何回目かわからないため息をつくと、智子の視線に答える。
「適当に班に混ざれってよ。まあ頑張れ」
そこまで言われれば智子にも理解ができた。
智子の視線は教室内へ向けられ、その瞳が自分の班を探し始める。
すでに自分の班の位置を把握していた八幡が、智子に背を向け移動し始める。
智子は何か思いついたように、その背に声をかけた。
「お、お前もなっ!」
八幡は顔だけ智子に振り返ると、おかしなものを見るようにニヤける。
智子はその失礼な顔に一言ぶつけてやりたかった。
だがその時にはすでに、八幡はこちらに背中を向けていた。
その悲壮感漂う背中が、何よりの返答であるかのように、智子は感じていた。
自分の班が作業をしているテーブルに、智子は一歩一歩近づいていく。
まるでテーブルとの距離に比例するように、鼓動が短く早くなっていく。みるみる智子の体を緊張が支配していく。
班のメンバーは和気あいあいとしながら、野菜を洗っては切っている最中だった。
どう声をかけて入っていったものか、智子の頭にいくつもの言葉が浮かんでは消えていく。
ぐるぐると、めぐりめぐる脳内は、働けども役に立ちそうにない。
そうして結局のところ突っ立っているだけだった智子を、先に班員の一人が見つける。
「あれ、大丈夫だったの?」
「ぅえ!? あっ、え、その……へへへ」
声をかけられることを予想していなかった智子は、返答に窮してしまう。曖昧かつ卑屈な笑顔で場を濁そうとした。
それは却って皆の不審を煽ぐ形となり、班員全ての眼差しが智子に向けられる。
智子はあっという間に追い詰められてしまった。
本音を言えば、今すぐ教室から飛び出していってしまいたいぐらいだ。
でもそうしたら、二度と教室には戻ってこれないような気がした。
智子は動転しつつも、何とか意味のある言葉を口から出す。
「あ、あの……何かやること、ない、かな?」
「え? ああ、うん……」
一人が呟くと、班員同士で困ったように視線を交わし始める。先ほどまで浮かれて楽しそうにしていた彼女らが、今では見る影もない。
そう、彼女たちは困っている。智子の扱いに間違いなく困っていた。
もうそれだけで、智子の心はポキリと折れてしまった。
ここに自分の居場所は元からなかったのだと、智子はどうしようもなく察してしまったのだ。
そりゃあそうだ。智子は納得する。
最初から彼女たちは、智子抜きで調理実習をやりきる計画を立てているはずなのだ。
体調不良で抜けた奴が途中から混じってくるなんて、これっぽっちも想定していなかったのだろう。
誰だってそーする。私もそーする。
このまま彼女たちの前で間抜けに立ち続けていれば、あるいは何か、適当な役割を与えてもらえるかもしれない。
だがそのような展開には、もはや智子の心が耐えきれそうになかった。
自分と同じ班というだけで、これ以上彼女たちに迷惑はかけられない。そう思った智子は、早々にこの場から退散することにする。
「あっ、そ、そうだ! ほ、保健の先生に、授業は、見学しろって、い、言われてたん、だった……」
智子は全力で笑顔をつくり、少しでも追及されればボロが出そうな嘘をつく。
自分が傷つかないための、周りを傷つけないための、悲しい優しい嘘だった。
智子をどうしようか相談していた班の面々は、そろって安心した表情を浮かべる。誰一人として智子の言葉を疑う者はいない。
「あ、そうなんだ! 大丈夫?」
「う、うんっ大丈夫! じゃあ端の方で座ってるから……」
テーブルを去っていく智子に、彼女らは口々に智子を案じるかのような声をかける。
その顔には、先ほどとは打って変わって朗らかな表情が貼り付いている。智子も負けじと笑顔を張り付け続けた。
なんだこれは。もうたくさんだ。智子は堪らなかった。
彼女らの言葉が、その表情が、たまらなく薄っぺらいものに見えた。
――善人面しやがって! 本当は嘘だってわかってんだろ!? 私のことなんか邪魔に思ってるくせに、内心ラッキーとか思ってるくせに!
一人、教室の隅へと歩く。
智子は嫌だった。
智子の嘘に飛びつく彼女たちも、そんな彼女たちに内心で呪詛を吐く自分も。
嫌な気持ちで胸がいっぱいになると、体からあふれてしまいそうになる。
また泣いてしまうのが嫌で、それきり彼女は考えるのをやめた。
智子がぼうっと教室を眺め始めてから、どれだけの時間が経っただろうか。
教室の端に、置き去りにされていた椅子。その上に座り、佇み、智子はひたすらじっとしていた。
まるで地蔵のようだ、と彼女は自嘲する。
直後に考え直す。地蔵の方がどれだけマシだろうか。
地蔵はいつだって周りに気に掛けられて、お供え物までもらえる存在だ。
智子は誰のことも見守っていないし、教室の誰からも関心をもたれていない。
自分は地蔵以下だ。
智子は下を向く。落ち込んでいるわけではない。むしろ落ち着いているのだ。
誰からも興味を持たれない、気にしてもらえない今の環境は存外智子にとって居心地が良い。
中途半端に声をかけられて、また醜態を晒すのに比べたら、今の方がずっとマシだ。
自分は地蔵にはなれないが、路肩の小石にならなれるかもしれない。
このまま永遠に時が過ぎてくれればいい。それが智子の望みだった。
「あのー……。ちょっと、大丈夫ですか?」
だがしかし、その願いはあっさりと退けられることとなる。
うつむいた智子の頭上から、優しい雰囲気をまとった女の子の声がかけられたのだ。
せっかく心地よい感傷に浸っていたのにと、智子は正直うんざりする。その声の持ち主を恨んだ。
どうせこいつも、具合悪そうにしている人に優しくしてあげる自分に酔ってるだけの、自己満野郎だろう。
たいして私と関わるつもりもないくせに、なぜ中途半端に近づこうとするのだろうか。
私が『大丈夫じゃない』と言ったところでこいつはどうするつもりなのか。
どうせ何も考えちゃいないだろう。つまり、馬鹿なのだ。
智子は一息にそこまで考えると、適当に追い払うための言葉を口にする。
「あー、だ、大丈夫ですから……。どうかお気になさらず」
「あ、そうなんだ。うん。良かった」
あっさりとした声色だった。
本当に智子を心配していたのかどうかは、その声から察することはできない。
うつむいたままの智子には、相手の顔色からその心情を確認するすべはない。ただ声の主の足元が、落ち着かずに前後しているのだけが視界に映っている。
――さあ、もう会話は終わっただろ! さっさと自分の場所に戻ってくれ!
そんな智子の祈りが通じたのか、せわしなく動いていた足が智子の視界から外れていく。
智子はまるで、一仕事終えた後のように息をつく。
そして再び、時間が過ぎ去っていくのを待つため、意識を沈ませようとした。
だがまたしても、彼女には邪魔が入る。
ガタリ、と。すぐ隣から音の振動が伝わってくる。
見ればそこに、今智子が座っているのと同じような丸椅子が置かれている。
「だったらさ、隣、良いかな?」
さっきと同じ声が今度はすぐ隣から届いた。
智子の返答を待たず、少女がその椅子に腰を落としてくる。
思わず顔を上げてしまった智子の視界に、少女の全容が明らかとなる。
初めて露わになった少女の姿は、いかにも今風の女子高生然としたものだった。
赤らかに染められた肩口までの長さの茶髪は、右側頭部あたりでまとめられたお団子ヘアーが特徴的だ。制服もあちこちが気崩されており、程よく個性が主張されている。
顔の作りは全く違うが、そのほんのりと漂うビッチ臭に、智子は優の姿を思い重ねていた。
状況についていけずに、智子は一切反応を返すことなく唖然としてしまう。
口を開けたままの智子を見て、自分の行為が唐突に過ぎたと悟ったのだろう。少女は体の前で手をパタパタと振りながら、慌てるそぶりを見せる。
「い、いやー。実はあたし自分の班に居辛くなっちゃってさー! それで行くとこなくて……あっ! あたし由比ヶ浜結衣です! えーっと……」
何やら聞いてもいないことを、べらべら喋っている目の前の少女……由比ヶ浜結衣。智子は彼女に全く見覚えがなかった。おそらく隣のクラスの子だろうと判断する。
相手がこちらの返答を待っているようだったので、智子も一応名乗ることにした。
「……黒木智子です」
「黒木さん、よろしくね!」
そう言って結衣は智子に手を伸ばしてくる。その手を見下ろしながら智子は確信した。
この距離感の近さ。
他人を恐れぬ馴れ馴れしさ。
結衣は決して智子とは相容れぬ存在……リア充の一人だと。
智子が内心で辟易していても、体は角が立たないよう勝手に動く。智子は愛想笑いを浮かべながら結衣の手を握った。
他人と握手をすることがそんなに嬉しいのか、結衣は満面の笑顔で智子の手を握り返してくる。そんな人好きのする結衣の顔を伺いながら、智子はある疑問を感じざるを得なかった。
なぜこの人懐こそうな少女は、こんな場所へやってきたのだろうか。
智子が今鎮座している場所は、教室の端であって教室の端ではない。
ここは調理実習において居場所を失ったものが流れ着く場所。いわば吹き溜まりである。
「黒木さんさ、髪凄い長いよねー。手入れとか大変じゃない?」
「い、いや別に。特には……」
「うそー! シャンプーとかどこ使ってるの?」
「さ、さあ……? 家にあるリンスインシャンプーを……」
「ちょおっと! 黒木さんそれ女子力足んないよ!?」
目の前で『うそー!』とか『えー!』とか『マジでー!』などを連呼して忙しない結衣を見て、智子はますます疑念を深める。
やはり、結衣はここに流れ着くような人種ではない。
本来『あちら側』で、テーブルを囲みながら、ワイワイ盛り上がっているグループの一人であるべき人間だ。
智子は、結衣の忙しないペースの会話に振り回されながら、ずっとその様子を観察していた。
結衣は一体何のつもりでやってきて、何を目的に智子の隣に座ったのか。
それがはっきり分かるまで、智子の平穏は戻っては来ないようだった。
智子と結衣の会合も一段落がつき、二人はお互い前を向き、調理実習の様子を眺めていた。
こうして客観的に眺めていると、各テーブルにおいて、様々な人間模様が展開されているのが分かる。
うまく作業を分担して黙々と調理を進めるグループ。
いちいち他の班を覗きに行って全然進んでいないグループ。
その中には八幡が言っていたように、明らかに分担が一人に偏っているグループもあった。
他のメンバーが食っちゃべったり携帯をいじったりしている中、一人の男子生徒は黙々と野菜をいためたり、だしを取ったりしている。
実に哀れな男だった。そのせいか彼の目が八幡のように腐ってきているように見える。
というかそれは八幡だった。
「何やってんだアイツ……」
智子は思わず呟いてしまう。
自分とは対極的とも言えるぼっちスタイルを体現している八幡の姿に、智子は哀れみと称賛を覚えた。
あれは智子にはできそうにない。
あんなスタンスを実習授業の度貫いていたとしたら、あの捻くれた思想に行き当たるのも仕方がないだろう。智子は妙に納得してしまった。
智子の呟きに反応したのか、同じ方向を見ていた結衣からも感嘆の声が上がる。
「さすがだなぁ、ヒッキーは……」
耳慣れない単語が気になり、智子は結衣の方を覗き見る。
八幡の方を向く結衣の横顔は、眩しいものを見ているかのように目が細められている。また、悲しいものを見る時のように眉がひそめられていた。
その表情が印象的で、智子はそこに秘められている感情に興味がわいた。それこそが、結衣が今ここにいる原因なのかもしれないとも考えた。
結衣は智子の視線に気づくと、一転して表情を崩し、気恥ずかしそうに笑う。
「え、えへへ……。あの、黒木さんはさ、ヒッキーと知り合いなの?」
再び、先程の聞きなれない単語が結衣の口から出てくる。しかし今度は話の流れから、それが比企谷八幡を指すものだということが、智子にも予想できた。
アイツはクラスでいじめられているのだろうか。
あんまりなあだ名で呼ばれている八幡のことがやや心配になりながらも、智子は一応確認することにした。
「あの……、ヒッキーていうのは、ひ、比企谷君のことで……?」
「え? ……ああうん、そうそう! ほら、何か『ヒッキー!』って感じじゃん! 一緒に教室入ってきたでしょ? 何か仲良さそうだったし……」
つまり、結衣も開幕一斉に視線を向けてきた連中の一人だったというわけだ。
『仲良さそう』という部分にむずがゆさを感じながらも、一応智子は納得し、返事をする。
「うん。い、一応は……」
「あー、そうなんだ。うーん……」
智子の返答に満足できなかったのか、結衣は手をもじもじさせながら、何か言いたげだ。
智子としては質問には十分答えたつもりだったので、ただ黙して結衣の反応を待つしかない。
やがて意を決したように、結衣は智子に尋ねた。
「つ、付き合ってる……とか?」
「無い!!」
急に発せられた智子の大声に、結衣始め周囲のテーブルの生徒がびくりとし、智子を見た。
毛を逆立てんばかりの勢いで否定した智子だったが、悪目立ちしたことを悟るとまた小さくなる。
「いや、その、ないです。本当に……」
「あ、あははー。そうなんだ、うん。……良かった」
智子の返答は彼女にとって満足いくものだったのだろうか。
初めは目を丸くしていた結衣が、また朗らかな表情に戻る。そして彼女は、再び前を向いて教室を眺め始めた。
その視線は、明らかに特定の一生徒の動きを追っているように見えた。
そして、今度は智子が質問をする番だった。
「ゆ、由比ヶ浜さんは、何で……ここに来たの?」
「え……あたし邪魔だった?」
智子の言葉をある種の拒絶だと感じたのか、結衣は焦ったような表情を浮かべこちらを向く。
智子は捻じれて伝わってしまった言葉を、慌てて訂正する。
「い、いやっ! そうじゃなくて、た、単純に疑問というか……」
「あ、そうなんだ。んーっとぉ……」
智子の意図を把握した結衣は一旦表情を緩めたが、すぐに頭に手を当てうなり始める。
可愛らしく頭を抱えるその様子は、何かを思い出そうとしているようにも、思いつこうとしているようにも見える。
やがて何か閃いたのか、浮かんだのか。結衣は手の皿をこぶしで打ち付けるという古風な動作をした後、智子に向き直る。
「アレだよ! 何かこう、一人は寂しかった的な? そう、そういうアレ!」
随分時間をかけた割に曖昧模糊とした答えが飛び出す。
しかしその返答は、智子が欲していたものとは少しズレていた。
「あ、あの。それもそうなんだけど、その……」
「へ、違うの? じゃあ、何?」
智子が本当に知りたい情報を得るためには、結衣の事情にもう一歩踏み込む必要がある。
聞こうか聞かまいか智子がためらっていると、今度は結衣が前のめりになって迫ってきた。
その顔の近さに智子は動揺する。
何だかいい匂いまでしてくるし、姿勢によって強調された胸元が、着崩された制服から覗いている。結衣の全身から主張される『女子』というものに、智子は頭の奥までかき回させるようだった。
――何なのこいつ!? 急に近づいてきてくっついてきて、メスの匂いぷんぷんで誘惑してきやがって! 私のこと好きなの? ガチレズなの? セクハラしてもいいのかな!?
思考があられもない方向に行き、智子の呼吸が荒くなっていく。
当初の目的など忘れ、結衣の体にお触りしようと智子は手を伸ばしかける。
「もしかして、班から抜け出した方の理由……?」
その時、一段調子が沈んだ結衣の声が聞こえ智子は我に返る。
視線を胸元から上にあげると、そこにやはり、結衣の顔が目の前まで迫っている。
先ほどから変わらず距離は近いが、今度は智子の動揺は薄かった。結衣の表情が影を落としたように、その明るさを失っていたからだ。
やはり地雷を踏んでしまったかと、智子は慌ててフォローの言葉をかける。
「あ、ああうん! でも別に言いたくなかったらっ……。私も一人で寂しかったし! 由比ヶ浜さんと話せて楽しいし! 何だか自分も女子になったみたいだったと言うか!」
場を取り繕うように、次々とおためごかしの言葉を智子は吐く。
こういう時に自分の口はよく回る。智子は無駄に、自分の特技を一つ発見してしまった。
「んふっ! ……クスクス。なにそれ? 黒木さん女子じゃん。あはは、おっかし……」
その必死な様子がおかしかったのか、結衣はいつの間にか口元を抑えて笑っていた。
自分の必死さを笑われたことに若干の苛立ちはある。しかし花が咲いたような結衣の表情はまさに可憐といった感じで、すべてが許されてしまいそうな雰囲気がそこにはあった。
事実智子は眼福とばかりに、結衣の笑顔に見とれてしまっていた。
一通り笑い終わると、結衣はテーブルを囲む生徒たちへと視線を向ける。
その表情は一時ほどではなくとも、やはりどこかうれいを帯びていた。
「あたしね、料理下手くそなんだ。だから、自分の班でも失敗ばっかりしちゃって。すごい、迷惑かけちゃって……」
それだけ言うと、結衣はまた言いづらそうに口をつぐんでしまう。
前を向いたままのその表情は一層歪んでいて、苦しそうだ。
「え、それで、追い出された……とか?」
智子は自身の経験から話の続きを予想し、結衣の代わりに結末を述べてみた。
これ以上結衣に話をさせるのは酷なのではないかと、智子が気を使った結果だった。
しかしその結末は結衣にとって突拍子のないものだったのか、驚いたように智子を振り返ると、苦笑いを浮かべる。
「あはは、班の皆友達だから、そこまではしないよ。……むしろ逆」
「……逆?」
智子は話の流れが理解できず、首を傾げ疑問を露わにする。
もしかしてこれは、『お前と違って優しい友達がいるんだぞ』という巧妙な自虐風自慢なのだろうか。
智子の疑惑の眼差しに、彼女は気付かない。
結衣は一つ深い呼吸をつくと、一つ一つ思い返すように心情を吐露する。
「野菜をダメにしちゃったときも、塩をめちゃくちゃに使っちゃったときも、せっかく作っただしを捨てちゃったときも、……みんな笑って許してくれたの」
――なにこれ、やっぱり自慢?
智子はますます分からなくなった。
いったい自分は何を聞かされているのだろうか。
そんなに優しい友達なら、いつまでも一緒によろしくやっていればいいじゃないか。
だんだん冷めてくる智子の心情とは対照的に、結衣の語り口にはだんだん熱がこもり始める。
「最初はみんな優しいなって思ってたんだけど、あたしがどれだけ失敗しても笑ってるから……だから分からなくなったの」
そこで結衣は一呼吸置くと、智子に対して語りかける。
「ねえ、黒木さん」
「ふぁいっ!?」
「黒木さんはさ、同じような失敗ばっかりしている人のことどう思う? しかもそれが自分の邪魔になっているとしたら……」
「え、えーっと?」
まさかここにきて質問されるとは思っていなかった。
智子は動転し、懸命に返答を模索する。
話しぶりから調理実習のことを聞かれているのは分かった。結衣の話をヒントに、何とか自分の考えをひねり出そうとする。
だが、その必要はなかったようだ。質問者の結衣自身が、すでに答えを想定していたからだ。
「やっぱりさ、イライラするよね? いい加減にしろって言いたくならない?」
「ああうん。そうかな……」
実際、智子はそんな立場に立ったことがないので自信はない。でも、多分そうなのではないかと思う。それが一般的な考え方というものだろう。
結衣は智子の同意を得て、ますますその口調に力を込める。
「だよね! あたしだって自分みたいな子が班にいたら嫌だと思う。だけどさ、みんな本当におかしそうにげらげら笑ってさ、文句の一言も言わないんだよ。あたし何だかそれが嫌で。……怖くなっちゃった。」
「怖い?」
だんだん話の流れがつかめてきた智子だったが、最後の一言だけが理解できずに、聞き返す。
彼女にとってもその一文は重要な部分だったのだろう。
結衣は智子の疑問に即座に答える。
「うん。だってさ、それって本音で喋ってくれてないってことじゃない? 内心ではすごいイライラしてるのにそれを隠して笑うのって、あたし、たいして仲良く思われてないのかなって、すごい不安になって……」
結局智子には、結衣が訴えているものが何なのかあまり理解することはできなかった。
何だかもの凄く贅沢な悩みを抱えていることだけは分かる。
それは智子にとっては自慢でしかなく、彼女はどう返事をしたものか困り果てる。
今の智子がどういったところで、結衣に対する嫌味になりそうでためらわれた。
そうして悶々としている智子を尻目に、また結衣は、八幡を視界の端に収め微笑む。
「ほら、ヒッキーてさ、自分の本音全く隠さないじゃん? あたしこの前、奉仕部って所でそれ初めて見てさ」
「ほ、奉仕部?」
いつだったか聞いたことがあるその名前に、智子が顔を上げ食いつく。
「あれ? 黒木さんも知ってるの? あ、やっぱヒッキーの知り合いだから」
「うん……、この前連れてかれて」
「そうなんだ! じゃあ依頼人第一号って黒木さんのことだったんだ。うん。それならいいよね」
智子が奉仕部に通じている知ると、結衣はより具体的な個人名を挙げて話を続ける。
「ヒッキーとゆきのん……雪ノ下さんね、本当に『言いたいこと言い合ってるー!』って感じで。凄く楽しそうで。……羨ましかったんだ」
そういって結衣は、感慨にふけるようなそぶりを見せる。その脳内では、奉仕部での光景を思い浮かべているのだろう。
智子も同様に、奉仕部で二人が本音で言い合うさまを想像してみる。
智子が空想する部室の中で、八幡と雪乃が口汚く互いを罵倒し合う。その有様は、とてもそんな尊いものには思えなかった。
だから智子は、いまいち結衣の話に入っていくことができない。
「だからさ、私もそんな風に、二人みたいにさ、本音で友達と関わっていきたいなって、思ってたんだけど……。ちょっと、くじけそうかも……」
何とかそれだけ言い切ると結衣はとうとう俯いてしまう。急に押し寄せてきた感情を、御しきることができなかったようだ。
そんな結衣の姿を、智子は不思議そうに眺める。
智子はどうしても、結衣の考え方を理解することはできない。何言ってんだこいつ、とすら思う。
だがそれを言って、すでに落ち込んでいる相手に、さらに追い打つようなマネをする訳もない。
とりあえず慰めようと、思いつくままの言葉を結衣にかけた。
「わ、私はうらやましいけどな。由比ヶ浜さんのこと」
「……?」
いつの間にか瞳を潤ませていた結衣が、上目づかいで智子を見上げる。
言葉はなかったが、その視線が如実に『どういうこと?』と智子に尋ねていた。
美少女の涙ながらの上目遣いに、智子はまたも琴線を刺激される。押し寄せる本能に抗いながらも、何とか続きを話す。
「っ……わ、私はそんな風に周りに気遣ってもらったことないから……。何か失敗したら黙って舌打ちされるし、調子に乗ったら『ひっこめ』って野次飛ばされるし。私だって他人が失敗したら凄い笑ったり、馬鹿にしたりしてきたから……」
「……あのさ、黒木さん、友達とかって……」
「うん。クラスにはいない」
「そ、そうなんだ。アハハ……」
智子の身の上話は、結衣の感傷を吹き飛ばすことに成功する。結衣は顔を引きつらせ、あからさまに引いていた。
「だからさ、あんまり由比ヶ浜さんには、自分を貶さないでほしいな。わ、私がもっと惨めになっちゃうし……」
智子はそう言って、どこまでも卑屈で不器用な笑みを浮かべる。
そうして自分を下げることで、結衣の自尊心を少しでも引き上げようとしていた。
それは日本古来から伝わる、謙譲の精神と言えた。自然と人を気遣うことができている自分に、智子は気付かない。
結衣は何かを考えるようにじっと智子の顔を見つめる。
時々その目線が、視界の何かと智子を見比べるようにキョロキョロと動く。
「何か……てるかも」
結衣の口がかすかに動き、何かを呟いた。
それは余りに小さな唇の震えで、智子には何と言ったかうまく聞き取れない。
何と言ったのか智子が訪ねようとした時。
「ちょおっと、結衣ー!」
遠くのテーブルから、こちらに呼びかける甲高い声が響き渡る。二人は反射的に、声のした方向に顔を向ける。
そこにはこちらに向きながら、お玉を振り回す女生徒の姿があった。
「いつまでもそんなとこでサボってんなし! もう完成するからさっさと手伝え!」
金々に染め上がった茶髪が特徴的なその女生徒は、やや怒ったように声を荒げている。
しかしその口から発せられるのは、拒絶ではない。むしろ明らかに、結衣のことを迎え入れようとしていた。
結衣はその言葉に喜色を示しつつも、どうしようか迷うように体は揺れ動く。
「優美子……。でも、あたし今更」
「散々食材ダメにして一人だけ逃げるとか、許されるわけないっしょ! 早く来な!」
そのやりとりを客観的に眺めていた智子は、呆れ果てるように肩で息をつく。
未だためらうように、体をもじもじさせる結衣に提言する。
「由比ヶ浜さん、は、早いうちに戻った方がいいと思う、けど」
「うん、だけど……」
結衣も戻った方が良さそうだと感じているようだが、なかなか踏ん切りがつかないでいるようだ。
ならばと智子は、決定的な一言を結衣に浴びせかける。
「だってあの人明らかに、食材をダメにしたことより、その場からいなくなったことにキレてるし」
その言葉を受け取った結衣は、ハタと何かに気づいたようだ。女生徒と智子とを何度も見比べている。
その行為が何を表しているのか智子には分からない。だがそれは、彼女の心を整理するのに必要な行為だったのだろう。
「そっか。うん、そうだね……!」
最後に智子の方を向いた結衣の顔には、これまで以上に朗らかな笑顔が浮かんでいた。
ほうっと空気を漏らすと、智子は結衣を見送る体裁をとる。
「それじゃ、由比ヶ浜さん」
「うん! 話聞いてくれてありがとう。黒木さん! バイバイ!」
そうして、結衣は元のいるべき場所へと戻っていった。
智子にとって結衣は、また向こう側の喧騒の一部となった。
これでやっと平穏が戻ってくる。智子は体の力をどっと抜く。
俯くと、チャイムが鳴るのをひたすら待つモードへと移行した。
「由比ヶ浜とずっと何の話してたんだお前」
しかしその平穏は三十秒と持たず、不躾な男の声により終わりを告げられる。
何となく来そうな気が智子はしていたので、特に動じることなく顔を上げる。
そこには案の定、エプロン姿の比企谷八幡の姿があった。中学生男子が使うような迷彩色のエプロンが妙に似合っていて、智子は思わずニヤついてしまう。
「何笑ってんのお前、気持ち悪いんだけど」
「うるせえ。中学のころから同じエプロン使い続けてるお前の方がキモイわ」
「な、なぜそれを!」とか一人仰天している八幡を無視し、智子は結衣が向かったテーブルの方を眺める。
そこには楽しそうに、友達とテーブルを囲む結衣の姿があった。先ほどまでの表情の暗さは何だったのかと言いたくなるほど、清々しい表情を浮かべている。
「いろいろあったんだよ……」
ドっと疲れてしまった智子は、詳しく話す気にはなれず、ぞんざいな返事をする。
「あっそ、お疲れさん」
八幡もそれほど強い興味はなかったのだろう。
智子をねぎらう言葉を口にし、それ以上は追及してこなかった。
智子が時計を見ると、時刻は間もなく四時間目が終わろうかという時間を指示している。
そろそろ自分の班に戻った方が良いだろう。そう思った智子が、しばらくぶりに腰を上げた時だった。
「お前さ、俺んとこのテーブルで食べない?」
「はあ?」
八幡が予想外に過ぎる誘いの言葉をかけてきたのである。
最初何のことか分からなかったが、言っている意味が分かると智子は顔をしかめる。
「え、何? お前私のこと好きなの?」
「ばっか違えよ。俺の班のテーブル見てみろ」
即座に否定され、智子はやや傷つく。八幡のデリカシーのなさを改めて実感する。
八幡の肩口から、指し示されたテーブルを覗いてみる。そこには肉じゃがの鍋のみが放置されている、実に物寂しい様相があった。
どういうことなのだろうと、智子は視線で八幡に尋ねる。
八幡はうんざりした表情を浮かべ、状況を説明した。
「試食は結構それぞれの班が入り乱れるみたいでな。自由に動いていいみたいなんだが。うちの班員が全員よその班行きやがって、せっかく俺の作った肉じゃがが大量に余ってるんだよ。それ消化しなくちゃいけないから、お前も手伝え」
それはとんでもなく悲しくなる身の上話だった。
小学校時代の智子でさえ、卓を囲むときは班の人と一緒だったのだ。それは小学校と高校の違いか、はたまた智子と八幡の差なのか。
可哀そうなものを見つめる智子の視線に耐えられなくなったのか、八幡はさっさと戻っていってしまった。
智子はちらと自分の班の方を見る。
そこにはたくさんの人が集まっている。
元の班員に加え、よその班からも人がやってきて、ワイワイと楽しそうにしていた。
それ見て智子は笑う。なぜ笑みが浮かんでくるのか、智子にも分からない。
今はそんな自分の心に向き合うよりも、お腹の心配をした方がよさそうだ。何せ、食べ盛りの高校生数人分の肉じゃがである。
これは一筋縄ではいかなそうだと、智子は覚悟を決める。
賑わっている自分の班を、視界から完全に外す。そして智子は八幡と、その横に佇む巨大な鍋に向き直った。
結論から言えば、肉じゃが全部は食べきれなかった。それに加え、午後からは胃もたれがひどく、智子はまともに授業を受けることすらできない程だった。
だけど、ほぼ八幡が一人で作った肉じゃがはおいしかった。
居場所に窮して、石ころになりたいと思ったあのみじめな気持ちは、いつの間にか智子からは消え去っていた。
調理実習の翌日、放課後のことだ。
胃もたれもすっかり治り、智子は今日も一日、特に変化のない学校生活を終えようとしていた。
帰りのホームルームが終わる。
いつものようにコンビニで立ち読みでもしていこうかと、智子はさっさと教室を出て、廊下を急いだ。
その智子の背中に、甲高く、はきはきとした声がかけられる。
「ちょっとぉー! 待って、もこっち、ストーップ!」
耳に馴染んだ自分のあだ名が、聞きなれない女生徒の声に呼び上げられるという違和感。
智子は困惑を露わに後ろを振り向く。
「はあ、はあ。もう、もこっち帰るのはやいし!」
立ち止まった智子に、女生徒が一人追いついてくる。
特徴的なお団子を頭に抱えた豊満ボディの持ち主に、智子は心当たりがある。
「由比ヶ浜さん。も、もこっちって?」
智子は目を剥き、目の前で膝に手をつきながら息を整える結衣に対し詰め寄る。
「え? だって黒木智子さんでしょ、じゃあもこっちでいいじゃん」
「あ、ああー。アハハ」
――『いいじゃん』じゃねーよ! 何だよそのセンス! 乳がでかいビッチ風なやつが考えることはみんな同じなのかよ!?
内心では認めがたいと感じていても、やはり智子の体は角が立つことを恐れ、愛想笑いを浮かべてしまった。
それを了承と受け取ったのか、結衣は相変わらずの人好きのする笑顔を浮かべる。
その笑みは窓から差し込む夕日と合わさり、智子に『まあいっか、エロいし可愛いし』と思わせるだけの威力を湛えていた。
智子が見とれていると、結衣は思い出したように自分のバッグを漁り始める。
何が起こるのか全く予想できずに、智子は身構える。
すると中からは、可愛くラッピングされた小さな袋が出てきた。
「はい、もこっち! この前話聞いてくれたお礼と、友情の証!」
半ば押し付けらるように胸元に差し出されたそれを、智子はおずおずと受け取る。
中には、やや不格好な形をしていて、一目で手作りと分かるクッキーが詰まっていた。
状況から考えて結衣が作ったものであることが予想でき、智子は素直に驚嘆する。
「す、凄い。由比ヶ浜さん、料理苦手だって……」
「い、いやー! ゆきのんに教わってね? 家でもやってみたんだ。そしたら結構楽しくって!」
智子からの真っすぐな称賛に、結衣は気恥ずかしさをごまかしきれず、体をくねらせる。
そのしぐさがまた色っぽい。智子は別のところでも驚嘆した。
そんな智子からの視線には気付かず、結衣は身なりを正すと、仰々しく智子に手を差し出してきた。
「もこっち、これからもよろしくね!」
その手のひらには、由比ヶ浜結衣という少女が持つ魅力が詰まっているように見えた。
どんな人とも距離を詰められる人懐っこさが。
自分や他人のために、努力することができる行動力が。
そして、クラスでぼっちの人間を気遣うことができる優しさが。
それら全部が、差し出された手のひらには込められているのだろう。
由比ヶ浜結衣は、智子にとっては眩しすぎる存在だ。でも手を握るぐらいだったら、その光に自分が焼かれる心配はないだろう。
そう自分に言い訳しながら、智子は今再び結衣の手を握った。
「あの、……うん、よろしくお願いしましゅ」
「あははっ! よろしく!」
まるでプロポーズでも受けているかのような智子のたどたどしさに、結衣は思わず噴き出した。
校舎から出ると、最近だんだん強くなってきた日差しが智子を照らした。
一瞬顔をしかめる。
吹いてきた風と共に、どこかから甘いいい匂いがしてくる。誰かが調理室で、お菓子でも作っているのかもしれない。
そんな匂いにつられて、智子は自分の空腹に気が付く。ちょうどいいとばかりに、バッグから受け取って間もない子袋を取り出す。
可愛らしいラッピングリボンを解き、一口大のクッキーをつかむ。
手作りのものらしく、弱くつかんだだけでポロポロと表面が崩れる。それを夕日に照らしながら、智子は微笑んだ。
完全に崩れてしまわぬうちに、智子はひょいと、そのクッキーを口元へと運んだ。
ポリポリと軽快に鳴り響いていた咀嚼音が、何かに気が付いたかのように止まる。
智子の笑みが消えていく。
その顔が全くの無表情となり、口元がわずかに動いた。
「え? 豚の餌?」
智子がつぶやく。
放課後の喧騒と風に消え、その声は誰の耳にも届くことはなかった。