静は黒板を背に立ち雪乃と八幡、そして智子の三人に向き直る。その表情には、先ほどまで浮かんでいた嫉妬や動揺といった色はすでにない。
「しかし、本当に意外だったぞ。まさか比企谷が、こんなかわいらしい女生徒と知り合いだったとはな」
「だから言ったでしょう。友達なら一人だけいるって。先生は全く信じていませんでしたが」
「ふむ。『友達』か」
「……はあ。友達です」
廊下側の椅子に座る八幡が、やや見上げる形となりながら、静と会話している。
智子は初め「かわいらしい女生徒」が雪乃を指すものだと何となくとらえていた。
だが二人の会話の内容から察するに、それは智子を表した言葉だったらしい。それに気づいた智子は、呆れながら頬を染めた。
――全く、なんてわかりやすいお世辞なんだ。でも少し前の私だったら、きっと先生に百合疑惑を向けているところだったな……。
過去の自分を恥じているのか、自分の成長に感心しているのか。智子自身よくわからない感情にしばし身を預けていると、いつの間にか自分に向けられていた静の視線に気づく。
静は真正面の、教室のちょうど中心に用意された椅子に腰かけながら紅潮している智子へ、微笑ましいものを見るかのような目線を向けていた。智子はどうしたら良いのか分からず、ただ静を見つめ返す。
一瞬静寂が場を支配した。
しかしそれは、静の自嘲するかのような笑いにより霧散する。
「仲睦まじいことだ……」
静は智子から視線を外すと、ため息をつく。
そして今度は自身の右側、窓側に面した椅子に佇む雪乃に声をかける。
「しかし、どうしたものかな。雪ノ下」
急に話を振られた雪乃は戸惑ってしまう。そもそも、静が何について雪乃へ意見を求めているのかが漠然とし過ぎている。
雪乃は一旦聞き返そうかとも思ったが、まずは静の意図を予想した上で答えてみることにする。ただ愚直に聞き返すのは雪乃の信条に反するためだ。
「そうですね……。比企谷君が彼女を脅すネタに使っている隠し撮り映像が、いつネット上にばらまかれるとも限りませんし。今すぐ通報するのが適切かと」
「いや、だから脅してねえっつの。お前の中で設定が出来上がり過ぎてるだろ。その想像力には感心するが、すぐ人を犯罪者にするのは感心しねえぞ」
「あら。妄想の達人である比企谷君に想像力を褒められるなんてね。やめてちょうだい。気持ちが悪いわ」
「俺はお前を上げても下げてもなじられるんだな……」
雪乃の毒舌が八幡へと炸裂する。そのあまりに歯に衣着せぬ言い回しを目の当たりにして、流石の智子も引いていた。
智子も自身の口の悪さは自覚している。そのため、見事に自分を棚に上げているような気がしないでもなかったが、それにしても雪乃の容赦のなさは群を抜いている。
あまりの惨状に見かねた智子は、彼女には極めて珍しく八幡のフォローに回ろうとした。
「あっ、あの、雪ノ下さん?」
「なにかしら、黒木智子さん?」
智子は絶句した。
初めて正面から見据えた雪乃があまりに艶やかに過ぎたからではない。智子はまだ自分の氏名を名乗っていないのだ。
もしかしたら、八幡が先に自分のことを話していたのかもしれない。智子は目で八幡に訴えかけるも、それを受けた男の顔は智子同様見開かれており、ただ力なく横に振られるだけだった。
智子は内心の動揺を押し隠しもせず、たどたどしく尋ねる。
「えっ、あっ、な、なんで名前……」
「別に驚く程のことでもないわ。この高校に在籍しているほとんどの生徒の顔と名前は記憶している。ただそれだけよ」
雪乃の言い分は、自身の優秀さを驚くほど鼻にかけたものだった。
それに智子は若干イラッとした。久しく忘れていた、他人への敵愾心が顔をもたげ始める。
「なっ、なんでそんなの覚えてんだよ、ストーカーかよ……」
「いいえ。ストーカーというものは特定の一個人に対して執拗に付きまとい、社会的迷惑を生み出す人物のことを指すのよ。私は誰に付きまとっているわけでもないし、迷惑もかけていない。だからその使い方は誤用よ、黒木さん」
「っ! そっ、しょんなこと言って実は話盛ってんでぇしょ!? たっ、た、たまたま私のこと知ってただけでぇっ!!」
「全て事実よ? 何だったらあなたのクラスの生徒名を、出席番号一番から順に読み上げていきましょうか」
智子は何とか強気を保とうとした。しかし出席番号五番の生徒名を雪乃が読み上げるころには、すっかり戦意を喪失してうなだれてしまう。
八幡は冷や汗を垂れながら、その様子を眺めていた。
雪ノ下雪乃は、男だろうと女だろうと、立ち向かってくるものには容赦しない。それをしみじみと理解した八幡は、淡々と生徒名を暗唱し続ける雪乃に声をかけた。
「おい雪ノ下、そろそろ勘弁してやってくれ。死体蹴りになってるぞ」
八幡の声に反応した雪乃は、智子の様子を見やる。すでにすっかり頭を垂れ、戦いを放棄している姿を確認すると暗唱をやめた。
その表情は、戦果に満足しているかのように口角が上がっている。そして智子を見下すかのように、目元は驚くほど冷ややかだ。
氷の女王。
雪乃の様子を客観的に見た八幡の脳裏には、恥ずかしげもなくそんな二つ名が謳いあげられる。
それほどに彼女の言動は熾烈で冷徹だった。
「名乗りがまだだったわね。奉仕部部長の雪ノ下雪乃よ。歓迎するわ、黒木智子さん」
「うううぅっ! ひぐっ! ぐすっ……」
「これはひどい」
雪乃の唐突な自己紹介は、さながら勝利宣言のように教室に響く。
ここは雪乃の陣地であり、逆らうことは許さない。そんな意思が込められているようにも感じられた。
歓迎する気がない部長に、歓迎される気がない依頼者。そしてそれにできるだけ関わりたくない部員。
そんな状況に救いをもたらすのは顧問教師の務めだ。
「いやな雪ノ下。きりがついたようなので介入させてもらうが、私が言いたいのは依頼内容についてなのだよ」
「依頼内容? そういえば何だったんですかコイツの依頼って」
明確な話題転換の機会を示す静の言葉に、率先して八幡が食いつく。
いがみ合う女子たちに任せてしまっていては、話がいつまでも進まない。そう感じた八幡は前に出ることにした。
できるだけ傍観を決め込みたかった八幡としては、苦渋の決断である。
反応する相手が意外だったのか、目線を慌てて八幡に向け、静は質問に答える。
「う、うむ。『彼女に友達をつくる』というのが今回の依頼だったわけだが……」
「はあ、そうなんですか。俺はてっきり『コイツの教室での奇行を治めてほしい』とかかと思ってたんですけど」
無遠慮が過ぎる八幡の予想に、教室の誰もが彼に非難の目を向ける。それは、先ほどまで瀕死状態に陥っていた智子も例外ではない。
何とか一言を言ってやりたいと、彼女はまだ十分に動いてくれない口をパクパクさせる。
「おっ、おみゃえは私のことを、な、なんだと思ってんだっ」
「前にもあったなこんなくだり。変な女。日頃の行いを振り返ってくれ」
二人の気の置けない会話の雰囲気に、先ほどまで疑惑一色だった雪乃の視線がゆらりと揺れる。
「もしかして……、二人は本当に友達なのかしら」
「だからそういってるだろ……」
ようやく得られた理解に八幡が大きく一息つき、智子は呆れたように雪乃を見る。
ここまで頑なな人物が、よく今日までやってこれたなと、二人は一周して感心してしまうほどだった。
二人の呆れている視線には気付かず、雪乃は手を顎にかけたまま何やら考え出す。
そして何かに思い当たったように顔を上げると、その疑問を静に投げかけた。
「しかし平塚先生。この場合依頼はどうなるのでしょうか」
「そこなのだよ。『友達をつくる』ことが依頼の彼女に、友達がすでにいたということは、この依頼はもう『解決』、ないし『立ち消え』になっているのではないか、というところだが。どう見る雪ノ下」
静の言葉を受けて、雪乃が再び考えを巡らし始める。
八幡は、これが自分であれば『ハイ、解散!』の一言で終了させるだろうと思う。その心中を一言で表すなら「早く帰りたい」だ。
当の智子でさえ、いいからさっさと帰らせてくれと、八幡とまったく同様の思考である。
しかし雪乃は奉仕部の部長として、何やら思うところがあるようだ。
恐る恐るといった様子で、雪乃は自分の意見を述べる。
「私は、彼女にはまだ解決すべきところがあるのではないかと思います」
その言葉は、やはり鋭角に智子の心に突き刺さる。
雪乃はまだ智子を見逃すつもりはないのだ。智子を値踏みするような彼女の視線は、雄弁にそう語っている。
静は眉をぴくりと動かすと、実に楽しそうな雰囲気で雪乃に尋ねる。
「ほう。雪ノ下、その心を聞いても良いかね」
「はい。……黒木さん。あなた、自分のクラスに友達はいるのかしら」
「へ!? あ、えーその、なる予定の子はいるというか、まだ準備段階というか……」
「いないのね」
――このアマ。ぶん殴ってやろうか。
雪乃のあんまりなバッサリ具合に、智子は青筋を立て、再び敵意をむき出しにする。
しかし雪乃にとっては、それだけ確認できれば十分だったようだ。
すでに彼女の視線は、正面の静を捉えている。
「クラスに友達がいないというのは、高校生活において致命的と言えます。忘れ物をした時は誰にも助けてもらえない。グループ学習では針のむしろに晒されてしまう。行事ごとの班決めで、誰が自分と同じ班になるのか、じゃんけんで贄を決めている様を眺める時などは、いたたまれない気持ちになります」
「やけに実感こもってんだけど、やっぱりお前クラスに友達いねえの?」
ぼっちであることの不利益を雪乃が語る。
その説明が、あまりに事細かなことを疑問に思った八幡が、無遠慮にも雪乃の現状を尋ねる。
だが雪乃は、質問に対し余裕の笑みで軽々と答えた。
「大丈夫よ。私は忘れ物などしないし、一人で何でもできるもの」
「友達がいないのは認めるのか……」
こいつは筋金入りのぼっちだと、八幡は共感すら覚える。
雪乃のぼっちスタイルは、智子よりもむしろ自分のほうに近いと八幡は感じたのだ。こんなことを言えば雪乃にはまたドン引きされるだろうが。
だから、次に雪乃が静に提案するだろう言葉を、八幡は容易に想像することができた。
「なので平塚先生。今回は『彼女にクラスでの友達を作る』というように、依頼を拡大解釈して解決にあたったほうが良いのではないでしょうか」
雪乃の提案に、平塚は手と手を打ち鳴らし、大げさに同意の姿勢を示す。
「なるほど。筋は通っているし、それは間違いなく黒木のためにもなるだろう。どうだね黒木、担任教師にいつまでも心配されていては、君も肩身が狭いだろう」
「えー……、そ、そうですねぇ。あの、その」
一人、いや二人盛り上がる雪乃と静の圧力に、智子はすっかりしり込みしていた。
正直、こんな得体のしれない部活の、よく知らない女教師と、明らかに性格の悪い女生徒の助けを得たいとは思わない。
だが、智子がクラスで友達ができずに困っているのは事実であり、雪乃の指摘は実に的を射ていると言える。だからこそ、智子ははっきりと断ることができずにいた。
すると何の気もなしに、智子の視線は自然と八幡のほうに向く。
その行動が意見を求めているように八幡には映ったのか、彼はあっさりとした口調で、物言わぬ視線に答える。
「……お前が決めることだろ。俺は何も言わないし、言えねーよ」
正にいつも通りといった彼の考えに、智子は苦笑した。
そんなやり取りが、雪乃にはどのように映ったのか。彼女は矢継ぎ早に、二人の間に割り込んだ。
「全く、流石ね。この男は、唯一の友達のことくらい、もう少し真剣に考えられないの? ……黒木さん。こんな捻くれた男と友達でいたところで全くの無駄よ。ただあなたの性格が曲がっていくだけ。だからこそ早急にクラスでの友達をつくって、あなたの状況を改善しないと」
雪乃にとってみれば、それはあくまで智子のためを思ってかけた言葉だった。
それは智子にも分かったし、八幡にも気にしたような様子はない。
にもかかわらず、なぜか雪乃の言葉は、智子の心に今まで体感したことのない不快感を落とした。
「む、無駄なんかじゃっ、ない、と思う……!」
それはこれまで智子から発せられることのなかった、強く意思のこもった声色だ。教室内の者は雪乃をはじめ皆驚き、智子の方に向き直る。
智子は顔を真っ赤にしながら、ややうつむきながらもその視線は、はっきり雪乃を睨み付けている。
はっきりと向けられた敵意に息をのみつつ、反射的に雪乃は臨戦態勢に入った。
「……あら。何が無駄ではないの? はっきりと答えてもらえる?」
「……っうう!」
口ごもる智子から目を離すことなく、雪乃は冷酷な笑みを浮かべる。
智子が口下手なのは先刻承知だ。言い負かされることなどあり得ないと、雪乃は余裕の姿勢を崩さず続ける。
「またそうやって下を向いて泣きわめくのね。新陳代謝が活発なのは結構だけれど、結局黙るのならば口を挟まないでくれると助かるわね」
「おい、だから雪ノ下……」
再び始まりかけた雪乃の過剰攻撃に、八幡が仲裁に入ろうとする。
雪乃はこちらを睨んできて、八幡はちびりそうになる。それでも、流石に放ってはおけなかった。
智子にも八幡の声が聞こえた。つい先ほどはその声に助けてもらったことを覚えている。きっとまたそうしてもらうことこそが、智子にとっては最も無難な選択なのだろう。
それでも智子は、今回ばかりはそうなりたくなかった。
その声に助けられたくなかった。
「……に入らないんだよっ」
だから、智子の内から言葉が沸いてくる。普段発してるところとは違うところから声が出た。
まだ智子が屈していなかったことを、雪乃は意外に思う。しかし同じこと。
雪乃は再び智子にとどめを刺そうと、八幡の制止を無視し声を上げる。
「何? よく聞こえなかったから、もっとはっきりと、大きな声で言ってもらって良い」
「気に入らないんだよ!!」
智子の中で何かがはじけた。
目を見開いている雪乃の顔も、何もかも、智子の視界に入っているようで入っていない。
ほほのあたりが茹だったように暑い。
「コイツのことが無駄だとか、それが私のためだとか、お前に決め付けられたくないんだよ! 何も知らないくせに! 私のことも、コイツのことも、何も知らないくせに、偉そうに!!」
「あ、なっ……?」
これまで見たことのない他人の勢いに気圧され、雪乃は一瞬言葉に詰まる。
その隙を見て、智子はとにかく頭に浮かぶ言葉を片っ端から相手にぶつけていった。
「この冷血女! 貧乳! ナイチチ! まな板! 絶壁!」
それは随分と内容の偏った罵倒になってしまう。
他に欠点は浮かばなかったのかと、聞いた八幡は恥ずかしくなりながら呆れる。
工夫の見られない攻撃が延々続く中、すぐに冷静さを取り戻した雪乃が言葉を切り返す。
「……確かに私はあなたたちのことを何も知らない。でも今ある情報から予想することはできる。客観的に見て論理的に導き出すことさえ禁止されては、人類の発展はあり得ないでしょう? あと、胸がつつましやかなのはあなたもよ。黒木さん」
「ぐっ!? いいいっ!」
雪乃は律儀に、智子の言葉一つ一つに反論する。それだけで、智子の勢いは急激に衰えていく。
もともと、家族以外の他人にたてついたことのなかった智子にはもう、どう反撃したものかが分からなかった。
すでに大勢は決した。
でも今回ばかりは、智子に負けを認めようという気持ちはない。
目の前の女を否定してやりたい。自分が悪かったと認めさせたい。そんな思いしか智子の頭にはなかった。
そんな智子を見て、手を休めるような雪乃ではない。続けざまに言葉の矢を振らせようと、その唇を震わそうとする。
その時、二人に間に立ちふさがる影が一つ。
「すまん雪ノ下、もうやめてやってくれ」
それはやはり、比企谷八幡だった。
「あのね比企谷君、今回はさっきまでとは違うのよ。また……っ」
目の前に立ちふさがる男を取り払おうと、八幡の眼を見た雪乃は言葉を失う。
八幡の目は、先ほどまでとは比較にならないほどの濁りを湛えていて、どこまでも覚悟に満ちた深さがそこにはあった。
今の彼は、どんな手を使ってでも自分を止めようとするだろう。
目的を果たすために手段は選ばない。そんな恐ろしさが彼の目には宿っていた。
「やめてやってくれないか」
あたかも最終通告のように、八幡は懇願の言葉を発する。
雪乃はその雰囲気にのまれそうになりながらも、努めて落ち着き払った風体を保つ。顔にかかる髪を払い、呼吸を整え、考える。
何はともあれ、これで二対一である。平塚は中立を保とうとするだろうし、当てにはなりそうにない。
この状態から自分の意思を貫き通そうとすれば、多分に荒っぽい方法も取らざるを得ないだろう。
これから、同じ部活でやっていくことになるであろう男子に、一時の感情でそこまでする蛮勇さは雪乃にはなかった。
「……はぁ、分かったわ。これは貸しよ、比企谷君」
「すまん。助かる」
当人を差し置いて二人の交渉は進行する。断固智子は、それに異議を唱えようとする。
「えっ! まっ……た。まだ……!」
しかしすでに、体の熱はピークを過ぎ、智子の口はうまく回ってくれない。
声を発しようと必死に呼吸を整える間にも、智子のいないところで話は過ぎていく。
もはや雪乃にも、この教室にも、先ほどまでの緊張感は残っていない。
戦いは既に終わってしまったのだ。
こんなにも負けたくないのに。言いたいことはまだまだあるのに。
何もすることができない自分があまりに情けなくて、嫌いになりそうで、智子の瞳ははどんどん熱くなる。
教室は通夜のごとく静まり返り、ただ智子のすすり泣く声だけが、弱弱しく空気を震わせていた。
そんな空気を打ち破るかのように、八幡が大きく話を引き戻す。
「依頼の件だけどな、雪ノ下」
「はっ、え? あ、ええ。依頼のことね。どうしたの、比企谷君」
すっかり意識をとばしてしまっていた雪乃。やや慌てるも、すぐに体裁を整えて八幡に言葉を返す。
しばらく状況を見守っていた静もまた、八幡にこの状況を治めることを期待し、目を向ける。
「拡大解釈の必要はないと思うぞ。コイツは多分大丈夫だ」
その言葉に、雪乃と静が顔を見合わせる。
八幡の言うことはつまり、今回の依頼は必要がないということ。
すでに問題は解決されているということを示しており、それは雪乃と静の否定だった。
「どういうことだ比企谷。説明を頼む」
静は八幡にその真意を尋ねる。雪乃も言葉こそ発しないが、その瞳には懐疑心がありありと浮かんでいる。
それに対し八幡は事も無げに、淡々とただ事実を述べるように説明する。
「俺は一年の時から黒木を知っています。初めて会った時からコイツはとにかく痛くて、周りが見えてなくて……。『お前は卒業まで友達出来ないぞ』とコイツに言ったことさえあります」
「それは……単純に去年のあなたが、今以上に下衆だったということではなくて?」
例えどれだけの人格破綻者に出会ったとしても、普通初対面に近い状況で、そんなことはまず言わないだろう。
自身の常識に当てはめて生み出した推理が、雪乃の口をついて出る。
「いや、そんなことはないぞ。俺は今でも同じ状況になったら、同じことを言う自信がある」
「堂々とクズ宣言しないで頂戴。頭が痛くなるわ……」
八幡が自分の常識には到底当てはまらない存在であることを、雪乃は再認識する。手に頭を当て、目をつむりながら頭を振る。
そうしながら、空いているもう片方の手を差し伸べ、八幡に続きを促した。
「……だけど、黒木は変わってきている。どこが変わったかと言えば、正直分からん。相変わらず痛いし、自己中だし、下品だし、口も悪い」
「うるせぇ……、むっつりぼっち」
先ほどから鼻をすする音だけを響かせていた智子が、八幡の言葉に反応し、憎まれ口をたたく。
悪く言われているにも関わらず、八幡の表情は驚くほど穏やかだ。一癖も二癖もある笑みが、その顔に浮かんでいる。
「だが、今の黒木を見ても俺は『絶対友達ができない』なんて思えない。今はまだ難しいかもしれんが、そのうちできるだろうぐらいに感じるんだよ。……そう、そのうち。今すぐとは言ってない。十年後かもしれんし、五十年、いや八十年後かもしれん。それは分からん」
「保険の掛け方が詐欺師のそれね……。で、結局合理性に富んだ説明には全くなっていないわけだけど、それで終わりってことで良い?」
しばらく聞き手としての姿勢を崩さなかった雪乃が立ち上がる。今度はこちらの番だとでも言うように腕を組み、体勢を整えている。
それを見た八幡は冷や汗を垂れ流し、慌てて言葉を紡ぐ。
「いやっ、まあアレだ! 一年から黒木を見てきた俺が言うんだ。『俺を信じろ!』てことだよ。俺が信じる俺を信じろ!」
「結局あなたしか信じてないじゃないの……」
「弟分もガッカリするぞそれは……」
八幡の煙に巻くような、適当な言い分が飛び出す。雪乃も静もすっかり毒気を抜かれてしまった。
次の瞬間チャイムが鳴り響く。最終下校時間を知らせる鐘である。
部活やその他用事で校内に残っている生徒は、この後15分以内に校門をくぐらなくてはならない。
雪乃が何気なく智子の方を見ると、ちょうど顔を上げた彼女と目が合う。雪乃はしばらく、その眼の奥を観察するかのように、じっと智子を見つめていた。
普段の智子であればたじろぐところだ。だが今日ばかりは、智子は目線を逸らすわけにはいかない。
もはや意地である。智子は何としても、雪乃に負けを認めたくなかった。
智子の意地を十分に受け取った雪乃は、小さく吐息を一つ噴き出すと、智子から目を逸らし帰りの支度を始める。
――この女、今鼻で笑いやがったか!?
もはや雪乃の行動は、全て自分への挑発行為としか智子はとらえられない。
雪乃に一言、苦言を呈そうと声を上げる。
「ちょっ、いまっ!!」
「比企谷君」
しかしちょうど雪乃の声が重なり、智子の発言が上書きされてしまう。
また智子が突っかかり、面倒なことになる前に、八幡はさっさと雪乃の呼びかけに対応する。
「何だ?」
「依頼の件、あなたに預けることにするわ」
それは雪乃からの停戦の提案だった。
八幡にとって、それは願ってもないことだ。だが八幡は、なぜ雪乃が引いてくれたのかが理解できなかった。
自分の言い分が、ツギハギな酷いものだという自覚があったのだからなおさらだ。
それは智子も静も同様だったらしい。いつの間にか教室の全員が、視線で雪乃に続きを訴えていた。
「あなたも奉仕部の一員なのだから、この件はあなたが受け持つということで何ら問題はないでしょう。それとも働くのが大嫌いな比企谷君は、この分掌を断るのかしら?」
「いや、そんなことはないが」
「そう。ならこの依頼の件については、これで終わりね」
話が終わると、雪乃は制服の上着ポケットから鍵を取り出す。その形状からして教室のカギであろうそれを、静の前まで来て差し出す。
「先生、鍵をお願いできますか。今日は少々急ぐので」
「あ、ああそうか。任されよう」
鍵の受け渡しを終えると、雪乃は腰を曲げ綺麗な礼をする。そのまま流れるように、彼女はドアの前に立つ。
「さようなら。比企谷君は、『また明日』になるのかしら?」
「あー……、ああ。多分な」
何とも不安になる、あいまいな返事を八幡は返す。
雪乃は小さく笑うとドアノブに手をかけ、開けようとする。しかし手に力をかける寸前で、その動きが止まる。
何か考えている風な雪乃の様子に、全員の視線が集中する。
ドアの方を向いている雪乃はそれに気づかないままだ。やがて小さく首を振ると、体の向きは動かさずに声を上げた。
「黒木さん」
「へ、へぁいっ!?」
まさか自分に声がかけられるとは思っていなかった智子は、当然返事を上ずらせてしまう。
横にいる男から案の定笑いをこらえる声が聞こえてくる。顔を赤くし、恥をかく原因となった女の背を、智子は睨んだ。
「なんだよ……」
「あなたの友達のこと、馬鹿にしてごめんなさい。また奉仕部に来てくれれば、歓迎するわ」
それだけ言うと、雪乃はさっさとドアを引いて出て行ってしまう。
反論も、返答も、謝罪の言葉も、智子は言うことを許されなかった。
「~~~!! あーもうっ! 何なんだあの女!」
智子はいらいらしているのか、恥ずかしいのか、嬉しいのか、よくわからない感情に身を悶えさせる。
膝を叩いたり、頭を振ったりして、消化しきれない感情を持て余す。そうしている内に、すぐ隣の腐った目から、生暖かい視線を向けられていることに智子は気づいた。
「……何だよ!?」
「くくっ。いや別に? 良かったじゃねえか、また一人友達増えそうで」
「はあ!? 誰があんな嫌な女!」
「割とタイプは似てると思うけどな。あんな真正面からぶつかってくる奴、なかなかいないぞ?」
「全然似てねえし! あんな貧乳で口悪くて暗くて友達いないやつ!」
「いや、そっくりじゃねえか……」
「おい二人とも、そろそろ良いかな」
二人がいつものお昼のごとく漫才をしていると、すっかり置いてきぼりになっていた静が声を上げる。
二人は静の存在を半分忘れていた。声をかけられたことにより、自分たちの距離感が思ったより詰まっていたことに気が付く。
慌てて離れ、静に向き直る様は、まさに息ピッタリといった感じだった。静は嫉妬も忘れて噴き出してしまう。
「もう時間だ。鍵は私が任されたから、さっさと帰りたまえ。あと比企谷」
「は、はい」
静の言葉を受けて二人は立ち上がる。
一人声をかけられた八幡は、帰りの支度をしながらも顔は静かに向ける。
「君も明日から、放課後はこの部室にくるように。上手くやっていけそうで安心したよ」
「はあ、そうですか。俺は全くそう思えませんが」
なぜか一人得心が言ったような静の様子に、八幡は納得していない旨を伝える。
しかしそれを静は、豪快に笑って受け流してしまう。
「ハッハッハ!! そう恥ずかしがらなくてもいい。君と雪ノ下はタイプが近い。見ていれば分かる」
「そっすか。じゃあ俺はこれで」
静の最後の一言には、妙に確信を打たれたような気が八幡はした。だから、今度こそ照れ隠しでドアをくぐろうとする。
それを受けて智子も、静に挨拶をすると後を追う。
廊下に出て、しばらく行った二人の背中に、静は重ねて呼びかける。
「黒木! また困ったらいつでも来なさい。きっと奉仕部は君の力になってくれる」
まずは智子に声がかけられた。
正直、智子にはもう来るつもりはない。
だが、静が自分を心配して言ってくれているのは分かる。故に智子は、お辞儀をすることであいまいに応えた。
続いて八幡に声がかけられる。
「比企谷、きちんと送れる所までは送っていくんだぞ! だが途中までだ! 間違ってもそのまま町に制服デートなどに繰り出すんじゃないぞ!! その場合お前を呪い殺すからなぁっ!!」
「だから怖えよ……。半分以上本気だろ、あの独身……」
八幡は恐怖から振り返ることもせず、身を屈めて早足に階段を下っていく。
そんな八幡の背を智子は無言で追っていった。
平塚静が独身で、嫉妬深い人物なのだということを、智子はその時初めて知った。
そしてやはり、智子にとってそれはどうでもいい情報だった。