「奉仕部へ案内しよう。ついてきたまえ」
結局平塚は、荻野を口八丁で説得してしまった。智子に一声だけかけると、さっさと職員室を出て行ってしまう。
言われるがままついていくことに、智子は抵抗を覚える。だが、ついていった先がどんな場所だろうと、再び荻野の拷問に晒されるよりはましだろう。智子はそう考え、半ば放心している荻野へ一つ小さく会釈をすると平塚を追いかけた。
智子は長身の白衣姿に先導されながら、特別棟へと続く廊下を歩く。
特別棟とは、生物室や図書室、視聴覚室など、様々な特別教室で主に構成された、別館のことを指す。
先ほど平塚が提案した『奉仕部』の部室もそこにあるらしい。智子は今まさに、そこへと連行されている最中ということだ。
しばらく二人無言で道を急いでいたが、特別棟への渡りに出たところで、平塚がゆっくりと歩みを止める。当然智子も足を止めざるを得ない。
今度は何が起きるのかと、智子は警戒しつつ前の背を見つめる。その白衣が不意に翻り、こちらを向いた。
「色々と急で済まなかった。なにぶん君をさっさとあの場から連れ出した方が、よっぽど効率がいいと考えたものでな」
平塚は片方の手を腰に当て、やたらと良い姿勢で智子をまっすぐ見据える。
随分と尊大な口調で、自分がしたことの動機を話す平塚の弁には、若干の違和感があった。
その違和感が何であるかに気づいた時、智子は小さくそれを口に出してしまっていた。
「口調……」
「ん? ……ああ、こっちが素だよ。いくら相手が同期とはいえ、教師同士ではこんな偉そうになど喋れないからな」
智子のつぶやきを指摘と受け取ったのか、平塚は口調が変わったことへの説明をしてくれた。
往年の老紳士をほうふつとさせるような、整然かつ仰々しい話し方と在り方が、平塚の本来の姿らしい。
偉そうな喋り方という自覚はありながら、それを直そうとはしない。そんな独特の姿勢に、智子はますます、平塚への変わった人物であるという印象を深める。
「自己紹介がまだだったな。私は平塚静。国語教師で生活指導を担当し、奉仕部の顧問をやっている。よろしく」
智子の目の前に手が差し伸ばされる。それはどこまでも静らしい、まっすぐ過ぎるほどの自己紹介だ。
「あっ、2年4組の、くっ、黒木智子です。あの先生……、ほ、奉仕部というのは?」
智子は恐る恐る握手を交わすと、先ほどから気になっていた単語について質問する。
自分がどこに連れていかれて、どのような目に合うのかが分からないままなのは、彼女には恐怖でしかなかったからだ。
「ああ! そうだったな」
静は今気づいたとばかりに手を打ち鳴らす。その行為はどこかわざとらしい。
すぐさま奉仕部についての説明が始まるかと思いきや、智子に背を向けると、平塚は再び先を歩き始めてしまう。
慌てて呼び止めようとすると、それよりも早く、首だけ振り返った静が言った。
「行きながら話そう。ついてきたまえ」
静のマイペースさに、智子は一瞬反応が遅れてしまう。空いてしまった距離を埋めるため、彼女は慌てて後をついていく。
智子が追い付いてくるのを流し目で確認すると、静はようやく説明を始める。
「奉仕部のことだがな。簡単に言ってしまえば、生徒が生徒の相談に乗ってくれる、お悩み相談所のような所だと思ってくれていい」
静の説明は簡潔で分かりやすい。
それだけでも説明としては十分だったが、智子にはなおも気になることがあった。
「そっ、そんな部聞いたことないんですけど……、本当の部活ですか?」
「ははっ。これは手厳しいな。」
智子だってこの学校に一年以上も通っている。
いくら智子がぼっちとはいっても、その部活の噂ぐらい聞いていてもいいものだ。しかし智子は、奉仕部について全くの初耳だった。
そのため智子は、奉仕部の存在自体を、ひいては目の前の女教師を疑う。
自分をだまして、何かに利用しているのではないか。そんな猜疑心が浮上してきたのだ。
智子は静へと、隠すこともなく疑惑の眼差しを向ける。その視線を受け、静は湛えた笑みをどこか寂し気に変化させて答えた。
「安心してくれ……とはいっても難しいだろうが。奉仕部は正式に存在する部活だよ」
それだけ言い切ると静はやや歩調を緩め、窓の外へと視線を向ける。
窓の外は、屋外で活動をする部の生徒たちでにぎわっている。そんな様子をどこか遠目に眺めながら、静は捕捉の言葉を付け足す。
「奉仕部自体は一年前から存在していたのだが、なにぶん部員が少なくてな。部として活動する体裁を、しばらくなせていなかったというのが本当のところだ」
「少ないって、な、何人だったんですか?」
「一人だ」
智子は吹き出した。
奉仕部の看板を掲げ、一人じっとしている生徒の姿を想像する。その姿が妙におかしくて、次から次へと笑いが腹からこみあげてくる。
失礼になると思い、智子はすぐさま口を押さえる。これは怒られるかもしれない。戦々恐々としつつ顔を上げる。
前を向いた先では、すでに視線をこちらに向けている静が、自嘲気味に笑みを浮かべていた。
その表情を見ていると、自然と智子の内から笑いは失せていく。智子は手を落とし、居住まいを正すと、静の次の言葉を待った。
「それが今日まさに、新たな部員を迎えてね。とうとう正式に、活動を開始することができるようになったのだよ。きみはその依頼人第にっ、……もとい第一号というわけだ」
なぜ一回『二号』と言いかけたのか。それはさておくとして、これでようやく智子にも、奉仕部の全容が明らかとなった。
つまり、今日たまたま活動を開始した部活へと、今日たまたま荻野のお叱りを受けていた自分がお呼ばれされた、ということなのだろう。
また妙なタイミングで職員室に呼び出されてしまったもんだと、自らの間の悪さを智子は呪った。
静の話に、智子が一人納得していると、ある教室の前で静の足がまた止まる。
智子は上を見上げる。そこの教室名プレートには何も書かれていなかった。つまりここは空き教室ということだ。
中からは、かすかに男女の話し声が聞こえてくる。どっちがどっちなのかは分からないがその二人が、先ほどの話に出てきた部員達なのだろう。
一体どんな人物なのだろうか。智子は声から必死に想像しようする。だが想像が形になるよりも早く、状況は智子を追い立てる。
いつの間にか静は教室のドアに手をかけ、得意げな様子で智子に横目を送っていた。
あまりにこちらのペースを考慮していない静の行動に、智子が一言かけようとする。だが静の口はそれよりもはるかに速く回り、智子の心境など丸ごと無視して置き去りにした。
「ようこそ、奉仕部へ。歓迎しよう」
言うが早いか、静はノックもせずに、力に任せドアを引き開ける。
勢いあまって、壁にドアが打ち付けられる音が響く。同時に教室内の二人の会話も止んだ。
「雪ノ下、邪魔するぞ」
「先生、ノックを……」
静の不躾さを咎める、女生徒の声が中から聞こえる。
静はそれを意に介さずといった感じで、ずかずかと中に入って行ってしまう。智子は一人廊下に残される形となった。
智子が立っている位置は、教室の中からは死角となって見えない場所にある。そのため智子の存在に、中の部員二人はまだ気づいていないようだった。
もちろん智子からも教室内は死角となり、中の様子を伺い見ることはできない。
もうこのまま帰ってしまおうかなどと、現実逃避めいた思考が頭をよぎる智子。その耳には、開け広げたままの入り口から、垂れ流しになっている中の会話が聞こえてくる。
「ふむ、どうやら仲良くやっているようだな」
「どこをどう見たらそのような勘違いを抱けるのかは置いておくとして、何か御用でしょうか先生。完全下校時間まではまだあると思いますが」
「私はこの部の顧問だ。別に用がなくとも様子を見に来たっていいだろう」
「そうですか。これまで用もなく先生が部室にくることなど、一度たりともなかったものですから、今回もそうかと」
「ぐっ……、相変わらず言葉が鋭いな雪ノ下は。」
雪ノ下雪乃。
中から聞こえてくる女生徒の名前には、智子にも聞き覚えがあった。
この高校には普通科に加えて、国際教養科という、偏差値が二~三高い特別クラスが存在する。
その中でもトップクラスの成績と美貌を誇る、この世の全てを手に入れているかのような少女。それこそが雪ノ下雪乃である。その名前と噂はぼっちの智子の耳にまで聞き及んでいる。
――おいおい、そんな奴と今から同じ空気吸わなきゃいけないのかよ。まともに喋れるか自信ないぞ私。
まだその姿すら確認できていない少女に対し、智子は人知れず気後れする。
「まあ、そうだな。本題に移ろう。実は今日、さっそく依頼人を連れてきた」
「それは……いささか急場が過ぎるのではないかと思いますが。そこのそれを含めて今日で二人目ですよ?」
「人のことを教室の備品のように呼ぶのはやめろ。てか今まではどれくらいの頻度で依頼人が来てたんだ? ここは」
「……昨日までで相談に来た人は一人もいなかったわ」
「それは部活っていえるのかよ……」
先ほどまでは一言も発していなかった男子部員が、ここでようやく口を開いた。話しぶりから察するに、どうやら男子部員の方が今日入部した方らしい。
智子は男子部員の声に、随分聞き覚えがあるような、妙な既視感を覚える。もしかしたら彼は、同じクラスの男子の誰かなのかもしれない。
だとしたら、これまた滅茶苦茶気まずい思いをすることになること請け合いだ。智子はますます帰りたい気持ちを強める。
「今日たまたま職員室で捕まえたのだよ。比企谷の時とは違って無理やりこじつけたりしたものでもなく、その生徒の担任から正式に依頼を取り付けたものだからな。いわば奉仕部にとっての初仕事となるだろう!」
「この人俺を連れてきたのは無理やりでこじつけだったって、あっさり白状したぞ……」
「もう諦めなさい比企谷君。それで、依頼人はどこに?」
続いて男子生徒の名前も判明した。智子は雪ノ下雪乃の例のように、男子生徒もまた校内の有名人なのではないかと、その名前を反芻する。
――比企谷かー。比企谷君。比企谷、ひきがや? ひきがや……八幡!?
「ああ、今外で待たせている。おーい! 入ってきたま」
智子は静の言葉を待たず、教室へと駆け込んだ。
「ちょっ!? お前こんなところで美女に囲まれて何やってんの!? 高二デビューなの!?」
「黒木!? ……お前、何やらかしたんだよ」
最初こそ驚きの顔を見せたものの、八幡の顔はすぐに呆れたような表情へと移り変わる。
それは智子がとてもよく見慣れた彼の表情だ。智子が問題を起こしたのだと疑わない、その姿勢もやはり相変わらずだった。
しかし、そんな二人以上に驚きの様相を見せたのは静と雪乃だ。
「なんだ、君たちは知り合いだったのか!? ちっ!!」
「この男に異性の知り合いがいるなんて……一体どんな汚い手を使って……」
静はなぜか嫉妬じみた視線を二人に向ける。
雪乃は八幡に対し、犯罪者への疑惑の眼差しに等しいそれをそのまま向けている。
それを見た智子は安心した。
知らないうちに八幡がリア充デビューを果たしたのではないかと、一人置いて行かれたような不安を覚えていたからだ。
同時に智子は同情した。
この部での八幡の扱いがどのようなものか、これまでの会話や彼女らの様子から、おおよそ察してしまったからである。
「何つうか……、良かったじゃん。たくさんの女に囲まれて、童貞冥利につきるだろ?」
「……うるせぇ」
珍しく、智子の妄言に八幡は強く言い返すことができなかった。
美人教師と美少女に挟まれるという、非日常を先ほどまで体験していたのだ。わずかとはいえ気分が高揚していた八幡を、責めるのは酷というものだろう。
未だにヒステリックな態度を見せる静と雪乃を二人は眺める。
智子と八幡は、ついさっきまでどこか異常だった自分たちの調子が、お昼の会食時と同じくらい平常に戻っていくのを感じていた。