1.比企谷八幡の述懐
ぼっちとは崇高であり孤高な存在である。
人間というものは群れを成し、集落を築き、社会を形成して種を存続させてきた。そういった歴史の歩みの中で、ぼっちという存在は明らかに異色を放っていると言っていいだろう。
人は皆、身を寄せ合い、他人と同調し、集団に融和することで自己保存を果たす。
しかしぼっちはそれとは全く対極をなす者である。集団から離れ、個を主張することで彼らは自己を確立するのである。
全く、ぼっちというものの如何に間違った存在であることか。彼らは常に異端であり、忌避されることが当たり前だとされている。
だが、本当にぼっちは間違った存在なのだろうか。
実は集団に融和する者こそが、延いてはこの社会そのものこそが間違っているのではないだろうか。
集団や組織といったものに目を向ければ、そのおおよそが欺瞞に満ち、合理性に欠けたものがほとんどではないかと俺は思う。
彼らは『周りがそうだから』という理由で、いともたやすく自らの信念を忘れる。『周りがしているから』という理由で、善意という名の強制・強要をこちらに圧しつけてくる。『周りがそう言っているから』という理由で、よく知りもしないものへの迫害を「正義」の名のもと執行する。
俺は確信している。彼らの正しさとは、彼らの内での正しさでしかない。
そんなものは偽物だ。
周りを欺き、自分すら欺き、何となく楽しく日々をやり過ごすための怠惰の産物でしかない。
そんな正しさなど俺はいらない。
だから俺はぼっちであり、ぼっちが良いのだ。
しかし、世の全てのぼっちが俺と同じ考えを抱いているわけではない。むしろ俺のようにぼっちであることを誇りに思っている者の方が少数だろう。
一人でいることが嫌で、集団の中に属することを強く望んでいるぼっちもいる。
どうして自分がこんな目に合わなくちゃいけないのだと、世を呪うことで自分を保っているぼっちも確かに存在している。
俺には彼らを否定するつもりはない。もちろん肯定するつもりもないが。それはそれで一つのぼっちの在り方なのだろうと理解はしているつもりだ。
そういえば、アイツも初めはそんなどこにでもいるぼっちの一人だったのだろう。
初めて会った時のアイツは、随分と憔悴しきっているように見えた。世を憎み、境遇を憎み、そして周りを憎んでいた。それは今思い出しても哀れで滑稽な姿だった。
アイツは校舎端の段差に腰掛け、呆けたような視線をよく俺に送っていた。
初めからあいつと俺は、同じ所にいて、しかしお互い全く相容れない存在だった。
今日中に続けてもう一話投稿します。