仮面ライダーフォーゼ サンシャインキターッ!   作:高砂 真司

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「んーーーー…………」

「どうしたの弦ちゃん先生。そんなに唸って」

「ん? ああ、曜か。おはよーそろー」

「随分投げやりなヨーソローだね……。悩みがあるなら、曜先生にお任せヨーソロー!」

「悩みっつーかなんつーか……。まあ、ダイヤのことなんだけどよ」

「ダイヤって、あの生徒会長の?」

「そうそう。ダチになろうと思って声かてるんだけどよ。あと一歩ってところで躓いてる感じがするんだよなぁ。何が原因かなって考えてたんだよ」

「……ちなみに、生徒会長の反応ってどんなの?」

「反応? そんなの聞いてどうすんだ?」

「いいからいいから。何となく察してるから。で、どうなの?」

「えーっと……


『ダイヤ! 俺とダチになってくれ!』
『はぁ!? ダチ!? 本気で言っていますの!? はぁー……。初めて会った時から先生は破天荒だ非常識だと感じていましたが、ここまでとは思いませんでした。そもそも、ダチとは対等な関係。つまり教師と生徒という立場があるのですから対等なんてありえません! ぶっぶー!ですわ! 如月先生には我が浦n(以下作者都合により省略』


って感じだったのが、最近は


『ダイ『お断りします』


って感じになったんだ。だからあとちょっとって感じなんだけどなー」

(…………わかってた。近い未来、千歌ちゃんもああなるんだろうなって)


第3話 曇・天・降・下

「……だぁー! ダメだー! 全然動かねぇー!」

 

 太陽が山を登り始めようかという早朝。既に燃えつきたのか灰色の雲が徐々に空を覆う頃、悲鳴にも似た弦太朗の声がカーテンで遮られたバルコニーから漏れ出した。

 背面部にカメラスイッチを抜き差しして十数回。フードロイドたちが心配そうに見守るなか、当のバガミールは一向に起動する様子はなかった。パッと見たところ派手な損壊はないので内部の故障のように思えるが、どちらにせよ弦太朗にどうにかできる問題ではない。寝間着のままベッドに手足を投げ出し力尽きた弦太朗は、か細い声で呟いた。

 

「すまねぇバガミール……。やっぱり俺じゃ、お前を直してやれそうにねぇ……」

 

 共にベッドに転がるハンバーガーは、物言わぬ置物と化していた。何を語りかけようと、死んだように眠るバガミールが答えることはない。その代わり、慰めるようにツナゲット四機が弦太朗の頭の上を旋回する。

 

「……サンキューな、お前ら」

 

 しかし、嘆いてばかりでは何も前へは進まない。壊れているというのなら、直すより他はないのだ。NSマグフォンへと手を伸ばし、開いた電話帳からお目当ての人物を探し当てる。そこに表示されているのは、困ったときに頼れる親友の名前。だが、後一つ押せば繋がるというところで、弦太朗はゆっくりとNSマグフォンを閉じた。

 

「いや。週明けまで連絡しねぇって、一昨日決めたじゃねぇか」

 

 フォンを枕元に投げ、静かに寝転がるバガミールを掴む。賢吾にもやることがあって、やりたいことがあって、そこを割いて作った時間でドライバーやらゾディアーツやらで負担を強いている。一度でもそう自覚してしまうと、どうも気が引けてしまうのだ。それが例え、緊急を要するものだったとしても。幸い相手の方にも目立った動きはない。あと一日くらいなら自分がカバーすれば何とかなるだろうと、弦太朗は楽観的に構えることにした。

 

「悪ィな。お前の修理は明日以降になりそうだ」

 

 起き上がった弦太朗はバガミールをテーブルに置き、他のフードロイドたちを呼び集める。並び立つ彼らを見ると、沼津に来て一週間ほどで傷ついた箇所に改めて気づかされた。録にメンテナンスもしてやれていないが、それでも色々な場所を探索してくれているのだろう。もしかするとバガミールも、そういったものの積み重ねが原因かもしれない。傷だらけになりながらこの町を守る小さな英雄たちにささやかながら、弦太朗は先輩から教わったサムズアップを贈った。

 

「いつもありがとな。今日もよろしく頼む!」

 

 フードロイドたちは頷くような仕草を見せて、いつものように壁にかけられた空のリュックへと飛び込んでいく。中でフードモードへと移行したのだろう、全てが収まりきる頃には静かなものになっていた。

 自分も準備を始めようとベッドから立ち上がる。洗面台へ向かう前に、弦太朗は光の差してこないカーテンを開け放った。

 

「……しっかし折角の日曜だってのに、あんまり良い天気じゃねぇな。一雨来るか?」

 

 天を仰げば、いつの間にか分厚い雲が明け方の空に蓋をしていた。充満する空気はいつもの内浦のものではなく、潮と雨のにおいが混じり合う不愉快なもの。今日は吹き飛ばしてくれる風さえない。この得体の知れない不穏な空気に、弦太朗は気だるげに眉を垂らす。

 ふと、弦太朗は一隻の船が淡島に近づいていることに気がついた。

 

「……クルーザー、か?」

 

 

 

 

「見ねぇ船だな……」

 

 いつもの船着き場から少し離れた、石垣でできた階段下にその船は停まっていた。覗きこんでも中に人はおらず、わかることと言えば内浦と淡島を繋ぐ船でも、ホテル直通の船でもないことぐらいだ。どこかで見たことがあるような、船体に描かれたイルカのマークに記憶を手繰り寄せるが思い出せずもやもやが増すばかり。外観は沿岸に並べられている私用の船という印象が強く、見た目からは業務目的のようには思えない。注意深く観察するうち、船内に掛けられたタオルに文字が印刷されていることに気がついた。

 

(松浦……ダイビングショップ?)

 

「あの、うちの船に何か用ですか?」

 

「ッ!?」

 

 船に夢中になっていたため、不意に頭の上から降ってきた声に肩が跳ねる。振り返って見上げた場所に立っていたのは、訝しげな表情をしたダイビングスーツ姿の少女だった。不審者を見るような目に、弦太朗は慌てて弁明する。

 

「わ、悪ィ! 怪しい者じゃねぇんだ! その、見かけねぇ船があったもんだから気になっちまって!」

 

 どう取り繕おうとも、少女の見る目は変わらない。それもそうだろう。いくら高校の頃と比べて大人しい服を着るようになったとはいえ、よくあるジーンズに背中で竜と虎が睨み合うTシャツという組み合わせ。そしてガチャガチャとうるさいリュックを肩に担いでいれば怪しくも感じる。寧ろ慌てているせいか視線は厳しくなる一方だ。

 このままでは船泥棒と勘違いされてしまう。何とか誤解を解こうと頭を捻るが、そう都合のいい言い訳がポンポン浮かんでくるほど頭は回らない。しどろもどろしているうちに出てきた言葉は、間の抜けた一言だった。

 

「……この船、あんたのなのか?」

 

「うちの店のですけど……?」

 

 そう言う彼女越しに、船体に描かれたものと同じイルカのマークが目に入る。島を一周したときに見たものだと思い出したとき、滝のように冷や汗が吹き出てくるのがわかった。

 

「そ、そっかー! いい船だなー!」

 

 あははと笑って誤魔化そうとするが、二人の間に吹き抜けるのは早朝の潮風より冷たい風。ぴったりと張り付いたシャツが居心地の悪さを際立たせる。尻すぼみになっていく笑い声が途絶えたとき、場にやってきたのは重い沈黙だった。

 

「「…………」」

 

 本当に不審者になってしまう。脳裏によぎる一文と、静岡の新聞にでかでかと自分の顔が載るところを想像してしまうと生きた心地がしなかった。どうしたものかと知恵を絞るが、起死回生の天啓は降りてこない。

 いっそ、町を狙う悪いやつの船だと思ったと正直に話そうか。ふと浮かんだ案を、怪しさが五割増すと判断し即座に却下する。もうダメだと、短い教師人生を思いながら諦めかけたその時、この沈黙に耐えかねたのか少女はぷっ、と吹き出した。

 

「あははっ! お兄さん面白いね! うん。悪い人じゃなさそうかな」

 

 納得したような少女は先程までとは打って変わって明るい表情を見せる。絶望の縁に立たされていた弦太朗は、ただポカンと間抜け面を貼り付けたように少女を眺めていた。一頻り笑った少女は目尻に蓄えた涙を指で掬い、弦太朗の顔を見てまた笑い始める。

 

「ごめんごめん。逃げたりしたらとっちめてやろうと思ってたんだけど、お兄さんの顔があんまり正直だからさ。あははっ!」

 

 あまり誉められたような気がしないが、楽しげに笑う彼女を見て人生最大級のピンチを乗り越えたことを察し、一旦胸を撫で下ろす。他人慣れしているというか、少女の砕けた態度に弦太朗も気を緩ませると、笑いっぱなしだった彼女は落ち着いてきたのか優しげな笑みを向けた。

 

「うちはそこでダイビングショップやってて、その船はポイントまでお客さんを乗せていく船なんだ。お兄さんは観光?」

 

「いや、仕事でこっちに」

 

「じゃあそこのホテルに泊まってるんだ。また時間があったらおいでよ。楽しいよ、海の中は」

 

「へぇ。海の中か……」

 

 目の前の彼女のように、ダイビングスーツを纏う自分を想像してみる。魚たちと海中を一緒に泳ぐというのはさぞかし気分がいいのだろう。海中には自分の知らない世界が広がっていて、たくさんの命を感じられるはずだ。そういう意味では、一人を感じる宇宙とは対極にあるのかもしれないと、弦太朗は一人ごちた。

 

「宇宙は何度も行ったけど、海の中はあんまりねぇな」

 

「? 宇宙?」

 

「え? ……あ。いや、なんでもねぇよ! そうだ! 折角だし今日とかどうなんだ? 飛び込みで悪ィんだけど!」

 

 不思議そうに首を傾げた少女に、弦太朗は慌てて失言を誤魔化そうとする。多少強引ではあったものの話を逸らすことはできたようで、少女は少しばつが悪そうに頬を掻くだけだった。

 

「ごめんね。今日は先約があるんだ」

 

「そっか、そいつは残念だ。繁盛してんだな」

 

「そんなことないよ。午前は知り合いの子たちだし、午後はダイビングあんまり関係ないしね。って、言ってる間に来たみたい」

 

 そう言って彼女は船着き場の方向へやんわりと手を振る。その仕草に、弦太朗からは死角になって見えない少女の知り合いとやらは元気よく、おーいと声を返していた。何となく聞き覚えのある声のように思うが、気のせいだろうという考えに至る。

 が、世間というものは弦太朗が思う以上に狭いものだった。

 

「おはよ、果南(かなん)ちゃん! 今日はよろしくね!」

 

 果南と呼ばれたダイビングスーツの少女に並び立つのは、見覚えのありすぎる顔ぶれ。二人と、それに引き連れられるように姿を現した一人に、弦太朗は今の状況を忘れて思わず声を出してしまった。

 

「なにしてんだお前ら」

 

「あれ、弦ちゃん先生。先生こそ、そんなとこで何してるの?」

 

 いち早く反応した千歌に、わかりきっていた返答の困る質問をされる。言葉につまり苦笑いを浮かべるしかない弦太朗に疑問符と視線を向ける三人だったが、その中でも何かに気づいたのか、曜は顎に手を当ててしたり顔を浮かべた。

 

「はっは~ん。弦ちゃん先生も隅に置けませんなぁ、浦女一のナイスバディー果南ちゃん狙いとは。無咲(むざき)先生が泣いちゃうぞ~?」

 

 曜の言葉に、千歌と梨子はキャーっと女子高生らしく目を輝かせる。弦太朗はというと、よく話をする同僚の顔を思い出し、ついでにこの間の誘いを断ったことを思い出していた。いざというときにお酒飲んでました、では済まないからという理由があるのだが、それをここで説明することはない。更にいうとどうしてこの場面で同僚の名前があがるのか、彼は今一ピンときていないのだ。そもそも、今の弦太朗の意識は違うことにあった。

 

「……浦女の、果南?」

 

「……弦ちゃん、“先生”?」

 

 それは少女も同じだったらしく、お互い眉を潜めて見合う。頭のなかで散らばっていたピースがパチパチと音をたてて嵌まっていくような気がしていた。先に行動を起こしたのは、大事なことを思い出して大きく目を見開いた弦太朗だった。

 

「あーーー!!! 果南! お前が松浦果南か!」

 

 階段を無視し、数歩の助走で石垣を垂直に蹴り上がった弦太朗は、落下防止のために取り付けられた丸太の柵を軽々と飛び越えて四人の前に降り立つ。呆気にとられる三人をよそに、弦太朗は満面の笑みを少女、果南に向けた。

 

「初めまして、だな! 家業の手伝いで休学中の三年がいるって聞いてたから、一度挨拶には行きてぇって思ってたんだよ。まさかこんなところで会えるとは思ってなかったけどな」

 

「仕事って、教師だったの……?」

 

「おう! 生活指導、進路指導担当の如月弦太朗だ! 夢は宇宙中の奴ら全員と友達になること! よろしくな、果南!」

 

 弦太朗はいつものように握手を求める。差し出された手をまじまじと見つめた果南は、一瞬迷うような素振りを見せたのち、弦太朗の表情を覗きこむように呟いた。

 

「あなたが、如月弦太朗……」

 

「? 俺のこと知ってるのか?」

 

「……千歌たちから、東京から新しい先生が来てるっていうのは聞いてたから。その、お兄さんが先生だとは思わなくて」

 

「わかる! 私も初めて会ったとき先生って言われてビックリしたもん!」

 

「学校で会わないとわからなかったと思う。絶対髪型のせいだよ」

 

「一目見て、先生って感じじゃないですよね」

 

「お前ら好き勝手言い過ぎだろ」

 

 口々に正直な意見を述べる女子陣に、弦太朗は肩を落とす。そう言えば同じようなことを内浦に来てから何度か言われたような気がして、自慢のリーゼントに手を当てた。

 

「ダイヤにも言われたんだよなぁ。そんなに変か? 俺のリーゼント」

 

「まあ、変ではないけど珍しい髪型ではあるよね。さ、千歌たちは準備始めよっか。お昼までだから時間なくなっちゃうよ?」

 

「そうだった! ごめんね梨子ちゃん、早く行こ!」

 

「あ、待ってち……高海さん! 引っ張らないでー!」

 

 困惑する梨子の腕を引っ張り、馴れた様子で店内へと消えていく千歌。その姿を眺めて笑みを浮かべていた曜は、未だ髪型を気にする弦太朗へと視線を移した。

 

「弦ちゃん先生はこのあと予定とかあるの?」

 

「ん? まあ一応な。それがどうかしたか?」

 

「いやー、先生もスクールアイドル部の一員みたいなものだしさ。いっしょにどうかなって。……それだけ!」

 

 返答を待たずに手を振る曜は、二人に続いてダイビングショップへと駆けていく。取り残される形になった弦太朗は、唐突なダチからの誘いに困ったように少し息を吐いて、果南にどうするかと目線を配った。少し広角を緩める果南は目を合わせることがなかったが、どういった心境かは察しているのだろう。彼女は、ただ言葉を返すだけだった。

 

「うちは貸し出しのセットが三つしかないから、船に乗るだけなら安くしとくよ」

 

 何となく空を仰ぐ。雲行きは怪しいままで、いつ雨に降られるかわからない。雲の切れ間はまだ見えず、町は日の光を浴びれないためどんよりと薄暗い。今日はカモメも飛んでいないようで、クルージングには不向きな天気と言っていいだろう。弦太朗の答えは決まっていた。

 

「……潜るのは、また次の機会だな」

 

 

∝∝∝∝∝

 

 

 そこは真っ暗な場所だった。

 探し物を求めて進もうと、そう易々と見つかりはしない。諦めそうな心に火を灯すも、挫けそうになる度に胸に秘めた種火が揺らめく。道はなく、当てもなく、照らす光もなく、出口もない。この先に探し物があるのかどうかもわからない。それでも進む。無駄な足掻きだとしても、進むしかなかった。この先に、探し物があると信じて。

 

 そこは静かな場所だった。

 静寂と呼ぶに相応しい空間に、吐いた息がぼこぼこと微かな産声をあげて溶けていく。何も聞こえない、何もわからない。過ぎていく時間と消耗していく体力の儚さが、求めたものなんて初めから無かったのではないかと思わせる。だが浮かぶ疑念に首を払い、果南に言われたことを思い出す。

 

(想像力……)

 

 

 

 目を閉じる。耳を澄ます。潮の流れを感じる。

 しかし、突きつけられるのは暗闇と無音の現実だけ。鼓膜を揺らす海流の胎動も、世界を照らす光さえも描くことができない。寧ろ海底から沸き上がってくる闇が体に纏わりつき、より深い場所へ引きずり込もうと手を伸ばしてくる。

 

(いや……!)

 

 一度足に絡み付いた闇は、そう簡単に離しはしない。引き剥がそうと身をよじるが遅かった。巻き付き体を這って登ってくる二本の黒い手は、全身へと広がり心も体も侵食してくる。体に染み込んでくる黒から伝わってくるのは、海のうの字もない割れんばかりの雑音。車が煩い、電車が煩い、布の擦れる音が煩い、街頭に映るメディアが煩い、人々が煩い……。

 

 そして、旋律が煩い。

 

 気がつけば、梨子はピアノの前に座っていた。あの日の服、あの日の観客、あの日のライトが梨子を照らす。あの日の気持ちがふつふつと甦り、あの日のように規則正しく佇む鍵盤に指を添える。しかし、いや、やはりと言うべきか、どれだけ念じてもあの日のように指は動かなかった。やり直しはできない。そう悟ったとき、世界が真っ暗になると同時にあの日は終わりを迎えた。……ように思えた。

 目の前に過去の級友が立つ。

  あの哀れむような目が、梨子を責め立てる。

 隣にピアノの講師が立つ。

  あの落胆したような目が、梨子が顔を上げることを許さない。

 同じ志を持っていた少女たちが取り囲み、聞くに堪えない乱雑な伴奏と共に何かを言ってくる。何も聞き取れない、でも何を言っているのかわかってしまう。

 

 だってこれは、あの日から呪いのように忘れられない言葉の群れなのだから。

 

 蓋をして見ないふりをしても、終わったことにはならない。解決したことにはならない。あの日はまだ終わらないと、延々と梨子の心に影を落とす。

 聴きたくないと思えば思うほど、耳を塞げば塞ぐほど、無意味な音が脳の内側から響き、浴びせられた言葉が溢れてくる。自分が音符の中に埋もれていく。自分という存在が何かつまらないものに塗り替えられていく。どれだけ体を小さく丸めても、音が止むことはない。規則性もない、自由奔放な旋律が無理矢理頭を占領してくる。梨子はただ、黙って耐えるより他はなかった。

 

 ふっ、と世界が静かになる。恐る恐る目を開けると、暗闇のなかには誰もいなくなっていた。また始まる、一人ぼっちの時間。後悔が、心細さが、荒波のように梨子を削っていく。これまでの自分の血肉となった音楽が、今は憎らしいとさえ思えた。こんな思いをするくらいなら音楽なんていらない。そんな考えが過ったとき、梨子にある疑問が浮かび上がった。

 

 自分がしたかったことは、こんなことだったのだろうか。

 

 投げ掛けた疑問が闇に波紋を打つ。思い出すのはピアノを初めて触った日のこと。自分を取り囲む闇はスクリーンのように梨子の頭の中の絵を写し出した。押すだけで生まれる未知の音が、幼い梨子の世界を彩る。押すだけで自分も、家族も、皆が笑顔になるピアノが、梨子は心の底から好きだった。

 でも今は、ただ自分の首を絞める恐怖の対象でしかない。あの頃が遠くなって、また梨子は一人になる。すがり付くように手を伸ばしても、掴むことなんてできはしない。再び闇が訪れる。きっともう、あんなに輝くことはできない。きっと、もうーー

 

『ーーきっともう、ピアノじゃあんなに笑顔になれない』

 

「誰……?」

 

『だって怖いもの。周りの期待も、皆の視線も、並び立つライバルも』

 

「誰なの……!?」

 

 闇に反響する声が、ぼんやりとした輪郭を伴って人の形に集まっていく。はっきりと形を手に入れた声の主に、梨子は言葉を失った。

 

『一人ぼっちの音楽室も、押し付けられる楽譜も、それを弾けない自分も、ね。そうでしょ?』

 

「私……?」

 

 過去の、音乃木坂の制服に身を包む自分が、目の前にいた。怪しげな笑みを携えて、音乃木坂の自分が驚き固まる梨子の肩に手を添える。そこから耳を塞ぎたくなるような悲鳴と悪寒が伝わってきて、梨子は反射的にその手をはね除けた。

 

『初めまして、わたし。でも、まだ心を開いてくれないのね』

 

「本当に、私なの……?」

 

 愕然とする梨子に、音乃木坂の梨子は平然とした様子で答える。

 

『ええそうよ。私はあなた、あなたは私』

『あなたが実像なら、私は虚像』

『私は、あなたを写し出すネガフィルム』

『そして私は、あなたの心そのもの』

 

「ネガ……? 心……? いったい何のこと……?」

 

『私が触れて聴こえたはずよ。思い出さない? 音乃木坂に入学して、初めて音楽室に入ったときの気持ちを』

『クラスメイトの視線。それが妙に突き刺さる感覚を』

『意味もわからず、背負わざるを得なかった重圧を』

『いつからか義務になったピアノは、五線譜に首を絞められるように少しずつ、少しずつ、重く、苦しくなっていくだけ』

『眩しすぎる期待の星は、あなたという人間に強烈な影を落とした』

『影に隠れてしまったあなたに、みんなが口を揃えて言ったわ』

 

『「貴女はすごい」「才能があるわ」「優勝間違いなしだよ」「期待してるからね」』

 

『弾けずに帰ってきたときの、腫れ物を触るような扱い』

『クラスメイトに先生。()()()()学校のみんなが距離を置いた』

『その日からよね。あなたが鍵盤に触れなくなったのは』

『あんなに楽しくて、大好きだった音楽を憎らしく思い始めたのは』

『私は何でもわかる。あなたの抱える悩みも、苦しみも、辛さも、痛みも、悲しみも』

『その全てを私は知っている』

『だって私だもの。あなたの心だもの。ずっとずっと、沈黙しながら悲鳴をあげ続けていた私だもの』

『愛想笑いの仮面に本心を隠して、雨に打たれながらでしか泣けない私だもの』

 

 音乃木坂の梨子は微笑みながら、そっと梨子の右手を握る。割れんばかりの悲鳴と、嗚咽と、暴風雨のような激しい涙が、右手を伝って濁流のように梨子の中に流れ込んできた。音乃木坂の自分が微笑んだまま、人の色を失い濁っていく。その濁った人形(ひとがた)から、ごぼごぼと真っ黒な汚泥が止めどなく噴き出し始めた。醜い。汚い。しかしどういうわけか、その濁りを取り除こうという気にはなれなかった。

 

『私を受け入れて。そうすれば、あなたの苦痛の全てを取り除いてあげる』

 

 足元からひたひたと、真っ暗な世界に溢れた濁りが責め立ててくる。人形はその濁りに溶け込むように形を崩していった。じわじわと梨子に染み込んでくるのは、阿鼻叫喚の嵐。ただ、さっきのような不快感はなかった。

 気づいたのだ。この声も、涙も、じぶんを飲み込むこの汚れきったものも、全て自分のものだということに。ずっと目を背けていた、この感情に。逃げ続けていた、この負の激情に。

 濁流に頭の先まで溺れ、意識の薄れていく梨子の頭に声が響いた。

 

『ねぇわたし。いいことを教えてあげる』

『どうしてあなたがあれだけの重圧、あれほどの期待を背負わなくちゃいけなかったか』

『それはね。みんなにとってあなたは憧れだったの。あの学校で認められたあなたへの、どうしようもない憧れ』

 

 クスクスと笑う声は、朧気に意識を保つ梨子の耳元で秘密を打ち明けるようにそっと囁いた。

 

『音乃木坂学院は、五年前廃校の危機にあった。それを救ったのは音楽の力』

『だからあの学校の人間は、音楽に関わるあなたに特別な期待を抱いていたの。九人の女神と称された彼女たちを、あなたに重ねていた』

『何も残していかなかったが故に、憧れを抱いた人間は手近なあなたを代用するしかなかったの』

『嘘だと思うなら高海千歌に訊きなさい。音乃木坂学院を救った、九人の奇跡の少女たちのことを』

『そして覚えておくといいわ。あなたを巨大な影で覆った、眩しすぎる輝きの名を』

『しっかりと胸に刻むの。あなたが壊すべき、奇跡の存在を』

『彼女たちは、ーー _   ー __

         ー  ̄_ー ー

 

 

 

 

 梨子はゆっくりと目を開いた。体から入ってきた情報が、少しずつ脳で分解されていく。見知らぬ天井、まだ馴れない海のにおい、ダイビングスーツのぴっちりとした感覚から解放された体、自分に覆い被さる微かな重み、反発のある背中の感触。先程まで海に潜っていたとは思えない現状に、夢心地な梨子は状況を飲み込めずぼんやりと天井を眺めていた。

 

「あ、気がついたみたい」

「じゃあ私、外の二人に知らせてくるね」

「うん。お願い曜ちゃん」

 

 パタンと扉の閉じる音がして、梨子はそちらに首を傾ける。こちらを見ていた千歌と目が合うと、彼女は梨子に向けて優しい笑みを浮かべた。 

 

「具合はどう? 気分悪いとかない?」

 

「うん大丈夫。えっと、ここは……?」

 

「ここは果南ちゃんの部屋。梨子ちゃん溺れちゃったんだけど、覚えてる?」

 

 溺れた。そう言われ、記憶を手繰り寄せるが思い出せるのは海をイメージしようと目を閉じたところまで。何か大切なことが抜け落ちているのか、漠然とした喪失感が梨子の胸にぽっかりと風穴を開けていた。

 

「……ごめんなさい。思い出せないわ」

 

「そっか。無理に思い出すこともないし、気にしなくていいよ。そうだ! 温かい飲み物もらってくるね! 体暖めないと!」

 

「あ、ち……高海さん!」

 

 梨子の声は一歩遅く、千歌は勝手知ったる我が家のように扉の向こうへと消えてしまった。ぼんやりとする頭で少し申し訳ない気持ちになりながら、梨子は天井へと視線を戻す。それにしても千歌が自分の家のように馴れた様子だったのは、昔から知っている仲だというのが大きいのだろうか。それともこの町は仲が良いのが当然なのだろうかと、疑問が浮かぶ。

 

(そういえば千歌ちゃん、幼馴染みだって言ってたっけ)

 

 その幼馴染みに頼み込んで、ようやくもらえた時間に溺れて、迷惑をかけて。ワガママを聞いてもらいながら、そのお膳立てを自分は全て台無しにした。拒絶されることの恐れから、名前で呼ぶ勇気すら自分にはない。“友達”だと言ってくれた彼女の期待を、気持ちを、全てを裏切っているのだ。

 

 少し息を吐いて、梨子は考えを取り払うように首を振った。

 

(どうしたんだろう……。なんだか、すごくネガティブになるわ)

 

 きっと彼女はそんなことを考えていない。そして、そんな優しい彼女を育んだこの町で暮らす人たちも。気持ちを切り替えようと、“友達”と友情のシルシを刻んだ右手に力を込める。すると、握った手のひらからは固い感触が返ってきた。

 

「?」

 

 触り慣れた感触に、もしやと思い慌てて右手を掛け布団から出す。そこには思った通り、今まで自分を支えてくれた“御守り”が握られていた。

 

「どうしてこれが……」

 

 肌身離さず持ち歩いてはいるが、鞄から出した記憶はない。そもそも気を失っていたのだから取り出して握る暇は無かったはずだ。なら、どうしてこれが手元にあるのか。疑問に感じていた梨子の頭に、聞き覚えのない声が響いた。

 

 

 

 

   『私はあなた、あなたは私』

『私は、あなたの心そのもの』

 

 

 

 

「うっ、くっ…………ッ!」

 

 直後、鈍器で殴られたような痛みが梨子を襲った。ぐわんぐわんと目が回り、ジェットコースターに乗っているかのような浮遊感がやってくる。胃の内容物が逆流してくる不快感。頭を押さえても痛みは決して引くことはない。むしろ頭だけでなく全身に波紋のように痛みは広がり、その激しさは増していく。ベッドの上でのたうち回る梨子の内側から、聞いたことがあるような声が響いてきた。

 

 

 

『音乃木坂に入学して、初めて音楽室に入ったときのことを』

         『眩しすぎる期待の星は、あなたに強烈な影を落とした』

 

 

 

「なに……ッ? なんなの、これ…………!?」

 

 体表がボロボロと剥がれ、覚えのない傷が露になる度にフラッシュバックしてくる過去の映像。思い出したくもない記憶が、痛みを伴って脳の奥底から引きずり出されていく。真っ白なキャンパスに真っ黒な絵の具をぶちまけるように、空白になっていた記憶が聞き覚えのない言葉で溢れていく。黒が自分という存在を塗り替えていく。その黒の中にぼんやりと人影が見えたとき、梨子の手から“御守り”は床へと滑り落ちた。

 

 

 『私は何でもわかる』

          『愛想笑いの仮面に本心を隠して、雨に打たれながらでしか泣けない私だもの』

 

 

(…………そうだ。これは、わたしの痛みだ)

 

 そう自覚したとき、梨子の記憶はぼんやりとしていた人影に確かな輪郭を与えた。目蓋を閉じれば、黒の中に立つその人影の顔がはっきりと見える。その顔を見ると、痛みはまるで役目を終えたかのように引いていった。

 胸にぽっかりと空いていた風穴には、彼女(わたし)を見ているだけで鮮血の混じった汚泥が満ちる。その汚れ、泥……“濁り”が、体中にできた傷口を補修するかのように不気味に貼りつき、内側へと染み込んでくる。それだけではない。“濁り”は体をゆっくりと飲み込み、梨子の中に今まで感じたことのない、怒り、恨み、妬み、悲しみが混ざりきらない、形容しがたい濁った負の感情を芽生えさせた。

 彼女(わたし)は、その爛々と輝く赤い瞳に自分(わたし)を写す。鏡写しのように佇む彼女(わたし)は、愛しそうに梨子(わたし)の頬に手を添えた。

 

『ありがとう梨子。私を受け入れてくれて』

『こころがこんなにボロボロになるまで、よく耐えたわ』

『優しい子ね。だって、じぶんが傷つくことでずっと我慢してたんだもの』

『辛かったわよね。苦しかったわよね』

『でもね。もう我慢しなくていいわ』

『全てを私に委ねて。一年かけてあなたの中で育った、この私に』

『そのためにあと一つ、確認しなくちゃいけないの』

『確かめなくちゃ。あなたの敵を』

『わたしの、取り除くべき雑音を』

『一緒に確かめましょう? わたしの胸に刻んだ、消すべきものを』

 

 目蓋の裏の彼女は、“濁り”に飲み込まれた泥人形を優しく抱き止める。その耳元で、優しく、優しく、割れ物を扱うように囁いた。

 

『星に、願いを』

 

 彼女(りこ)は、にんまりと三日月のような笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

「おまたせ~。あったか~い緑茶だよ~。やっぱり静岡といったらお茶だよね~」

 

 小さなお盆に湯飲みを二つ乗せた千歌は、器用に扉を開けて入室する。朝よりも厚くなった雲のせいか、昼前だというのに部屋は全体的に暗い。体を起こしていた梨子の表情は、部屋の暗さと垂れた髪のせいで窺い知ることはできなかった。しかし起き上がれるまでに体調の回復した姿を見て、千歌は内心でほっと息をつく。

 

「私的には紅茶にみかんジャムを溶かしたみか「千歌ちゃん」

 

 千歌の言葉を遮るように、梨子の声が部屋に響いた。

 

「一つ、教えて欲しいことがあるの」

 

 梨子の表情は、やはりわからない。

 

「な、何、かな……?」

 

 千歌は、背筋に氷柱でも刺されたかのような寒気を感じた。初めて名前で呼ばれたことの喜びや、さっきまでのほっとした気持ちを凍えさせるような寒気を。目の前の桜内梨子が、つい数分前までとは別人のように感じさせる何かを。

 ただ怖いという気持ちだけが先行していると気づいたとき、梨子は顔も上げず呟いた。

 

μ's(ミューズ)って、どうしてそんなに有名になったの?」

 

 答えてはいけない。

 直感的にそう感じた。何か変だよ、とか。スクールアイドルに興味出た?、とか。適当な言葉を見繕ってお茶を濁した方がいいとさえ千歌は思う。だがどういうわけか、千歌の口は言うことを聞いてはくれなかった。

 

「……自分たちの通う学校を、廃校の危機から救った。から、かな?」

 

 求めていた解答を得たのか、梨子はそっか、と口の中でぼそぼそと繰り返す。得体の知れない寒気に支配されていた千歌は、その場から動くことができない。逃げたいとは思いながらも、梨子の一挙手一投足から目を離せない。今までで感じたどの危険よりも、もっと危ないものを感じていた。

 

 うふふ、と。梨子から笑い声が漏れた。

 

「そっかぁ。()の言う通りだったんだ」

 

「え……?」

 

「音乃木坂を存続させたのも、わたしを苦しめたのも、わたしの音を奪ったのも、全部全部μ'sのせいなの』ね」

 

「梨子、ちゃん……?」

 

 梨子がゆっくりと顔を上げる。

 糸のような髪がさらさらと掻き分けられていく。

 にんまりの釣り上がった三日月の笑みが見える。

 最後に覗いた瞳は、美しい深紅に爛々と輝いていた。

 

「『じゃあ、消さなきゃ。スクールアイドル(ざつおん)を。うふふふふ♪』




[何故、仮面ライダーを殺さないんだ。EL3(エルスリー)

「その呼び方、やめてって言わなかったかしら所長さん。私には親からもらった“遠望京”って名前があるの」

[偉そうにするな人形風情ガ。口を慎メ]

「私に偉そうにしたかったら、バーチャルじゃなくて直接顔を出しなさい。臆病なガリ勉眼鏡君♡」

[きさマ……ッ!]
[アハハッ! スコープったらバカにされてやーんのー! アハハッ!]
[笑うなキャンディー! なら君はまな板チビだロ!]
[俺はテメェの二回り下でテメェより賢いからいいんだよ。あと、次身長と胸の話したら麻酔なしで眼球摘出してその眼鏡のレンズ埋め込むからな]
[やはり高校生とは思えんな君ハ……]


「楽しそうな職場ね」

[……すまないな。気を付けよう遠望京君。それで、私の質問に答えて欲しい]

「必要だからよ。私の欲望を埋めるために。好きにしていいって言ったのはそっちよ?」

[そうだったな。なら構わない。ただ、仮面ライダーは我々の天敵と言っても過言ではない。変身出来なくなったからといって、油断はしないよう気を付けてくれ。君は知らないだろうが五年前、我々はそれで痛い目を見た]

「わかってるわ。話は以上かしら?」

[それともう一つ。その町にスクールアイドルが生まれるというのは本当かね]

「さあね。それがどうかしたの?」

[……いや、あんな奇跡が起こせるのはあの九人だけだろう。気にしなくていい。健闘を祈る]




「……スクールアイドルね。あの子が教えたのかしら」
「まあいいわ。仕掛けは上々のようだし。楽しくなりそう」

「ねぇ、梨子? うふふふふ♪」

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