駅から歩いて20分、そこは王国辺境領。   作:河里静那

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8話 それぞれの毎日を過ごしています。

 小学校2年生の生活は忙しい。そして、苦しい。

 

 起床時間は午前7時。まだ草木も眠る時間だというのに容赦なく、けたたましい目覚まし時計のベルが鳴り響く。

 そんなもの、止めてしまえばいいじゃない。そう考えるのは浅はかであると言わざるをえない。ベルを止めてもまだ布団の中でぬくぬくとしてなどいようものなら。その時には、角の生えた母の手で、えいやっと布団をひっぺがされる羽目に陥るのだ。恐ろしい。

 

 どうにか布団から這い出したなら、歯磨きが待っている。時計を睨みつけながら5分以上は磨き続けないと、容赦なくやり直しの沙汰がくだされる。試練だ。

 保育園時代には、恐怖の磨き残しチェックが行われてすらいた。もう、あんな暗黒時代には戻りたくない。今という幸せを噛み締めながら、丁寧に磨く。それが自分にできる、わずかばかりの抵抗だ。

 

 次は朝食だ。もちろん、食べないという選択は許されない。

 炊きたてご飯にお味噌汁、それに海苔や納豆、焼き魚といったおかずが3品程度。それを残さずにたいらげる。例え、嫌いな物が並んでいたとしても。

 考えてもみたまえ。もし残しでもしたら、どのような目に合わされるかを。わかっただろう? そう、そのときには夕飯のおかずがピーマンと椎茸づくしにされてしまうのだ。

 故に、出来ることは一つ。全てを諦め、お腹いっぱいになるまで食事を詰め込む。それだけだ。

 

 責め苦はこれで終わりではない。ゆっくりと朝の情報番組を見ることも許されず、家から放り出される。そうだ、学校だ。

 学校までの道程は長く険しい。およそ10分という果てしない時間を、ただひたすら歩き続ける。

 途中で出会う、出来たばかりの友達とのジャンケン勝負も待っている。負けた場合には、相手のランドセルまでもを運ばなければならないのだ。

 そしてこの旅の終わり、ついに学校へと辿り着くのである。

 

 

 

 あ、父さんは翔太が起きるよりもずっと前に、既に出勤しています。

 頑張れ、日本のサラリーマン。

 

 

 

 まあそんなこんなで、学校においても。授業で当てられたりとか、中休みのドッヂボールとか、給食での牛乳一気飲み勝負とか、昼休みのサッカーとか。翔太は過酷な戦いを繰り返している。

 放課後は放課後で、友達の家に集合してゲーム大会とか、地域の集会場でテーブルゲームやボードゲームに興じたりとか、課せられた使命を全うせんと努めている。

 

 物怖じとか内向的とかいう言葉を、母の胎内に忘れてきた翔太である。転校した初めの週には既に、新しい学校に馴染んでいた。馴染みまくっていた。

 そんな訳なので、翔太はこの春から始まった新生活を、全力で楽しんでいた。楽しんでるって言っちゃったよ、まあいいか。

 

 そしてその結果、月曜日に新学期が始まってから今日の金曜日まで、一度もパティのところへとは行けていない。

 パティのことが嫌いになったとか、そういうことではもちろん、ない。単に、時間が足りなかったのだ。

 

 パティの家の門限は早い。そう、翔太は認識している。

 翔太が5時には帰ってきなさいと言われているのに対し、パティはそれよりも前。おやつの時間が過ぎた頃にはもう、家に帰らないとという素振りを見せるのである。

 これでは、学校が終わってからパティの家に行ったとしても、遊ぶ時間など殆ど無いのだ。

 

 もちろんこれは、太陽が完全に沈んだのならもう寝る時間という、向こうの世界の事情に即しているわけなのであるが。そんなこと、翔太は知る由もない。

 

 でも。

 明日は、違う。

 

 翔太は自分の部屋の、壁にかけられたカレンダーを見る。今日は金曜日。そして明日は、土曜日。学校は休みだ。

 パティ、明日は暇かな? 時間は開いてるかな? 何処かに出かける用事とかないかな?

 

 わかんないけど、とりあえず。朝ごはんを食べたら、会いに行ってみよう。

 遊べるといいな。何をして遊ぼうかな。こっそり父さんのゲーム機を借りて持って行って、通信対戦とかしてみようかな。狩ゲーはちょっと怖がっていたから、可愛らしいゲームのほうがいいかも。何かいいのあったかな?

 パティの青く透明でまっすぐな瞳を思い出し、翔太が笑う。

 

 時計の針が指すのは午後9時、そろそろ良い子の寝る時間だ。既に布団に入った翔太のまぶたが、ゆっくりと閉ざされていく。

 ああ、今日も楽しかった。明日はもっと楽しいといいな。

 それじゃあ、おやすみなさい。いい夢が見られますように。

 

 

 

 あ、父さんはまだ家に帰ってこれていません。

 負けるな、日本のサラリーマン。

 

 

 

 

 

 明くる日のセージ村。

 パティの目覚めは早い。空の白み始めた頃には既に目を覚まし、朝一の仕事に取り掛かる。

 

 村の共用で使っている井戸から水を汲み、家まで運ぶ。桶になみなみと入った水は、それは重たい。えっちらおっちらと台所の水瓶まで辿り着き、水を移す。

 水瓶が一杯になるまで、それを何度も繰り返さなくてはならない。水汲みとは重労働なのだ。

 

 もっと大きい桶を使えば。そうすれば、運ぶ回数が少なくてすむ。けれどその代わり当然、運ぶ作業がより辛くなる。転んで桶をひっくり返してしまえば結局、より疲れるだけだ。

 急がば回れ。パティは自分の運べる無理のない範囲での作業が、最終的には一番早くて効率もいいということを知っている。経験が、人を成長させるのだ。

 

 水汲みの後は、母の朝食の支度を手伝う。

 火を使うのは母の仕事だが、それ以外にもやることはたくさんある。台所での作業に限ってであれば刃物を使う許可を得ているので、野菜の皮むきなどの下拵えを任されている。

 むいた皮も、もちろん大切なもの。それを捨てるなんてとんでもない。別の料理に使ったり、人が食べるには厳しいところでも、村で飼っている山羊なら喜んで食べてくれる。

 

 畑作業をしていた男衆が戻り朝食をともにした後は、パティの一番の仕事が待っている。子ども達を一つの家に集めて、まとめて面倒を見るのだ。

 泣く子はあやし、漏らした子のおしめを替え、喧嘩する子は引き離す。子供の相手とは、一見すると楽な仕事と思えるが、実はとても大変。あれやこれやと息をつく暇もない。

 でもそのお陰で、それぞれの母親たちはこの間に、家の仕事をすることが出来る。

 

 昼食の時間が近づけば、子ども達をそれぞれの家に帰す。その後、虫除け花との勝負だ。

 朝のうちに昼ごはんの分まで仕込んでしまうので、心置きなく戦場へ向かうことができる。畑の野菜が虫にどれくらいやられてしまうか、それはこの戦いにかかっている。決して気は抜けない。

 

 花を摘んだら念入りに手を洗い、家族で昼ごはん。

 食べた後は、森に行って草の実を摘んだり、落ちた木の実を拾ったり、収穫の時期には畑の手伝いをしたり、季節によって色々だ。

 このように、パティの毎日は中々に忙しく、慌ただしい。

 翔太は、パティの爪の垢でも煎じて飲んでみればいいと思う。

 

 でも最近、パティのこのスケジュールに変化が加わった。

 朝ごはんの後から、昼ごはんまでの間。まだ日差しが優しい、屋外での作業がしやすい午前中。家族や村の人との交渉の結果、この時間をパティの自由時間として勝ち取ったのだ。

 その分、子ども達の面倒を見るのが午後になったりとか、仕事時間の変更があった。慣れるまで大変かもしれないけど、頑張る。

 

 ちなみに、交渉はすんなりと終わった。パティはまだ子供なのだから、仕事ばかりじゃなくて遊ぶ時間も作ってあげたほうがいいんじゃないかと。前々から、そういう意見が村人たちによって出されていたからだ。

 けれどパティ自身が、別にいいよと、それを断っていたのだ。だって、自由時間なんてもらっても、別にすることなかったし。

 

 でも、今のパティにはやることがある。

 やらねばならぬことが、ある。

 

 

 

「えっと、これは馬ね。『う、ま』っと」

 

 パティは家の前に座り込むと、木の棒で地面に何やら書き記す。

 それはこの村の人間が見るなら、ぐにゃぐにゃとした曲線を組み合わせた出来損ないの記号としか思えない。けれどもちろん、そうじゃない。

 もし翔太がこの光景を見たなら、こう言うだろう。パティ、すごいね。覚え始めたばかりなのに上手だね、って。

 そう、これは文字。日本語の、ひらがなだった。

 

「これは、牛かな? 『う、し』っと」

 

 翔太からもらった本のページを開いて、そこに描かれた絵を判別。そして絵の横に書かれた文字を、地面に書き書き。

 本当は、字を書くための道具が欲しいところ。理想は羊皮紙と羽ペン。もちろん、そんな贅沢ができるわけがないけど。街でも、きちんとした契約とかの文書を残す時くらいにしか羊皮紙は使わない。というか、使えない。高すぎて。

 それじゃ普通はどうしてるのか。セリム叔父さんが言うには、薄く削った木の板を、尖った金属の棒で削って書き留めるそうだ。

 

 子供が字を覚えるために使われるのは、主に粘土板。書いてもならせば何度でも使えるので便利。これもそこそこ高いそうだけど、子供に字を覚えさせることが必要な家庭はだいたい裕福なので、問題ないそう。うちの村はそれなりには暮らせている村だけど、現金を手に入れる手段があまりないので、買うのはちょっと厳しいかもしれない。

 

 でも、地面と木の棒だったらいくらでもあるからね。頑張るよ。

 目的を定めたパティの心は、これくらいのことじゃ揺るがないのだ。

 

 なお、パティが手にした本を見たセリムは、どこか遠くを見る目で現実から逃げ出していた。

 だって、本だよ、本。ただでさえ高い羊皮紙を束ねて、一文字一文字を手書きで記さなくてはならない本とは、とんでもなく高価なものなのだ。

 それを何冊も……って、ちょっと待て。これ羊皮紙じゃ、ない? なんだこれ、正体がわからない。こんな材質の紙なんて、見たことも聞いたこともない。

 

 あっ! あの金属の箱を包んでいたのは、これかっ。あれは紙だったのかっ!

 帝国とは、こんなものを作り出せるほどに文化が進んでいる地なのだろうか。

 それに、この精巧な絵。同じ大きさ、同じ書き方で全く揺るがない文字。どちらも、とんでもない技術の結晶だ。

 そして何より、これを何冊もぽんと差し出すシューター家の財力。……ああ、空が、綺麗だなあ。

 とまあ、こんな感じである。

 

 まあ、空の高さに思いを馳せているセリムのことは置いておき、話をパティに戻そう。

 

 絵を見ては、ひらがなを記す。それを繰り返して、まずは単語を覚えていこう。

 馬はすぐわかった。温泉街へと向かう馬車を何度も見たことがあるから。

 牛も問題ない。セージ村にはいないけど、前の村では畑を頑張って耕してくれていたから知ってる。

 これは多分、狼。近くではっきりと見たことはないけど、たしかこんな感じだった。『い、ぬ』っと。

 

 問題なのが、この本にはパティの知らない生き物も描かれているということ。

 多分、魔獣の仲間か何かだと思う。だって、こんなに首の長い『きりん』と書かれた動物や、顔の前にもう一本足が生えた『ぞう』なんて生き物、魔力に汚染された魔獣としか思えないもの。

 帝国じゃ、こんなのが普通にいるのかな。怖い。帝国、怖い。

 

 おっと、つい気持ちが横にそれた。集中、集中っと。

 これは鹿。『しか』ね。

 これは、熊かな? 『くま』と。

 これは、猫。前の村で穀物倉の守護神だった。『ぬこ』っと。

 

「違うよ、パティ。そこは『ぬこ』じゃなくて、『ねこ』だよ」

「わひゅああっ!!」

 

 びっくりした。

 急に、顔のすぐ後ろから声をかけられた。目の前の文字に集中しすぎて、またしても周囲の警戒を怠ってしまっていた。

 まったく、これじゃあ戦士だなんてとても……。

 

 ってっ! ちょっと待ってっ!!

 

「ショーターっ!!」

 

 ぐるんと、体ごと勢い良く振り返ると。

 目の前には、会いたかった顔。もう会えないかもと、思っていた友だち。

 

 「でもパティはすごいね。覚え始めたばかりなのに、とっても上手だね」

 

 クリス・ショーターが、ニコニコと。

 前に見たときと変わらぬ笑顔で、立っていた。

 

「ショーターああああっ!!」

 

 それを心が認識した時、パティの体は宙を舞っていた。

 いつぞやのように、ドシンと。二人の体が重なるように、地面に転がる。

 

「いたたた。パティは感激屋さんだなあ」

 

 まだ、何て言ってるかはわからない。

 けど、自分に会いに来てくれたってことはわかる。自分のことを、優しい気持ちで思ってくれていることは、わかる。

 

「一週間ぶりだね、パティ。今日も一緒に遊ばない?」

 

 そう、笑う。ショーターのその顔は、何だかとても嬉しそうで。

 もちろん、パティの顔も輝く笑顔。

 だけどちょっとだけ、眼尻には涙が滲んで。お日様の光に照らされて、キラキラと輝いていた。


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