「ただいまー」
新しい家の、まだ馴染みのない玄関をくぐり、翔太は帰宅の挨拶をした。
ピカピカの玄関にも居間にもそれぞれの部屋にも、まだまだダンボールが山と積まれている。母の戦いに決着がつくのは、しばらく先のことになりそうだ。
それでもなんとか食事を摂るスペースくらいは確保できたらしい。食卓の上からは食欲をそそる刺激的な香りが漂ってきている。
大きな皿に載せられた、丸い物体。ピザだ。台所用品の布陣が完了していないため、どうやらお昼はピザのデリバリーで済ますらしい。
「おかえりなさい、翔太。……って、何この匂い? あんた、どこで何してきたの?」
笑顔で息子を出迎えた母の顔が、みるみるとしかめっ面に変化していく。
無理もない。だって、臭いもん。
そんなに臭うかなと、自分の二の腕あたりに鼻を埋めて、スンスンと匂いを嗅いでみる。
んー? 自分じゃよくわからないな。どうやら、すっかり鼻がお馬鹿になってしまっている様子。
可愛らしく不思議そうな顔をする翔太だが、しかし母の眉間の皺が消える気配はない。完全に、服に匂いが染み付いてしまっている。
「多分、この匂い。はい、母さん、お土産だよ」
そう言って、手にしていた一輪の花を母へと差し出す。絵面だけをみるなら、なんともまあ、微笑ましい光景だろう。でも、色々と台無しだ。
それも仕方ない。だって、臭いんだもん。
「何だこの花、除虫菊か? 防虫剤みたいな匂いがするな」
冷蔵庫にペットボトルのお茶やジュース、出来合いのお惣菜や切るだけで食べられるハムといった物をしまっていた父が、俺も仲間に入れろと話に参入。どうやら、当座の食料の買い出しに行かされていたようだ。
我が家の主は母さんなので、休日の父さんの扱いなんてこんなものである。哀れ。でも、こっそりと自分用のビールも冷やしているのは抜け目ない。お駄賃代わりとして見逃してあげよう。
ちなみに、普段からこんな手抜きの食事というわけではない。マイホーム購入のため、母さんは家計のやりくりを必死に頑張っていたのだ。安い食材で美味しい料理を作るのは得意技である。
ただ、父さんが作ったほうがさらに美味しいというのは秘密だ。
「お花畑で遊んだんだ。いっぱい生えてて綺麗だったよ。……ちょっと匂いが目に染みたけど」
「花畑? 除虫菊を育ててたのか? そんなところで遊んじゃだめじゃないか」
本当に、あの子は何で、あんなところで遊んでいたんだろう。そりゃ、たしかにきれいな光景だったけど、匂いが気にならないのかな? でも、目が痛いって泣いてたしなあ。
地面を転がる不審人物を思い出して首をかしげる翔太。だがあの後は結局、自分も一緒に服に匂いが染み付くまで遊んでいたのだから、偉そうなことは言えない。
「ううん、畑じゃないと思う。なんかね、普通に草っ原に生えてた。それに、先にパティが遊んでたんだし、大丈夫だと思うよ」
「パティ?」
両親が揃って、首をかしげる。
パティとはなんぞや? とりあえず、ハンバーガーに挟まってるやつではないだろうと思われる。
「うん、パティ。友だちになったんだ。すごいでしょ、外人さんなんだよっ!」
なんと、息子は知らぬ間に国際交流を果たしてきたらしい。物怖じしない子だとは思っていたが、人種の差など何の障害にもならなかったか。
そう我が子の柔軟な思考を喜ぶ両親だったが、まさかそれが国際ですらなく、異世界交流だとは思いもよらない。まあ、あたりまえなのだが。けれども国際交流ならば自然だと、そう思ってしまう理由も、この家の近くにはあったのだ。
「外人の子か。あれかな、基地の子かな?」
「基地って?」
「ほら、公園に行く途中に林があったろ? あそこ、米軍の基地があるんだよ」
基地とはいっても、戦闘部隊が駐屯しているような大掛かりな施設ではない。通信を主任務とした、基地として見るならこじんまりとしたものである。
それでも所属はアメリカ軍にあり、基地内は治外法権となっている。当然、勤務しているのもアメリカ人だ。
「よく知らないけど、基地に勤めてる人の家族とかも一緒に住んでるのかもな。……って、翔太。敷地に入ったのか?」
それはいけない。無断で侵入など、大問題だ。
「えっと、林の中には入っちゃいました。ごめんなさい。……でも、フェンスは超えてないし、立入禁止とかの場所にも行ってないよ」
これは事実。
翔太はフェンスを超えていないし、米軍施設に侵入もしていない。超えたのは世界の壁だ。
「んー。それならギリギリセーフか? ……でもなあ」
「パティの家の周りに、基地みたいのなんてなかったよっ! 基地の中には住んでないんじゃないかな?」
これも事実。パティが住んでいるのは辺境領の開拓村だ。
「……それに。パティ、なんだか寂しそうだったんだ。きっと、一緒に遊ぶ相手がいないんじゃないかなって」
最初は、急に目の前に現れた見知らぬ子供のことを警戒していたパティ。しかし、翔太の強引なまでにマイペースな攻撃は、彼女の壁をあっさりと壊してしまった。
例えば。
言葉が通じないために無言のパティに、翔太がその辺の草を抜いて一本手渡す。それを訝しげに受け取るパティ。
こうやるんだよと、右手と左手で草の両端をつまむように持たせて。すかさず翔太が同じように持った草の葉をパティのものに引っ掛けて、そして引っ張る。
ぶちりと音を立て、ちぎれるパティの葉っぱ。それを見てフフンと、ドヤ顔で見下す翔太。むっとするパティ。すかさず、隠し持っていた臭い花をパティの顔にぶつける翔太。転げ回るパティ。濡らしたハンカチで顔を拭いてやる翔太。されるがままのパティ。
第2ラウンド。
再びあっけなくちぎれるパティの葉っぱ。それ今だと、花をぶつけようとする翔太。それをヒョイッとかわすパティ。
今度はパティの得意顔。そこに、反対側の手に隠していた花をぶつける翔太。転げ回るパティ。ドヤ顔の翔太。ただしパティは見えていない。
そんな感じで、2人は仲良く遊んでいた。うん、パティは怒ってもいい。
それでも、そろそろお昼だから帰るねと、手を振る翔太のことを。パティは、それは寂しそうに見ていたのだ。青い瞳からは、花によるものではない涙が、零れそうになっていたのだ。
だから、翔太は。
言葉が通じないのはわかっていたけれど、それでも。約束をしたのだ。また、遊びに来るよって。
「だから、僕はまたパティと一緒に遊びたい。大切な、友達だから」
じっと静かに、父の顔を見つめる。
駄目だ、この顔には勝てない。こんな顔をして男前なことを言う愛する息子に、もう遊んじゃいけませんなんて言えるわけがない。俺は言えるっていうやつがいるなら、そいつは父親なんてやめてしまえ。
「わかった。友達は大切にしないとな。ただし、約束だ。入っちゃいけないところには、絶対に入らない。守れるか?」
「うんっ! 絶対に守るよっ!」
男同士の誓い。
にやりと笑う父だが、心の中では泣きそうになっている。我が子の成長が嬉しくて。
そんな2人のことをやや呆れ顔で見ていた母さんが、雰囲気を壊すことを言う。
「話は終わった? じゃあ、翔太はご飯の前にシャワーを浴びてきなさい」
だって、それも仕方ないではないか。
何度でも言おう。臭いものは臭いのだから。
一方。王国辺境領、開拓村では。
「母さん! 母さん!! 母さーんっ!!」
「なんだいこの子は、帰ってくるなり騒がしいね」
翔太と別れて一旦は気落ちしたパティだが、そこはそれ。持ち前の前向きさですぐに元気を取り戻すと、自宅へ向かって一直線に走り出す。
そして、帰宅するやいなや、興奮の冷めやらぬ様子で母の元へと飛び込んだ。
どうしても、誰かに伝えたかったのだ。今のこの自分の、心の中から溢れかえりそうな感情を。
「それにしても、随分と時間がかかったね。一体どうしたんだい……って」
微笑みを浮かべながら娘の突撃を受け止めた母だったが、その笑みに黒い陰りが。
「なんだいなんだい、このざまはっ! 体中、虫除け草の汁まみれじゃないかいっ!!」
そして、陰りから怒りへ。パティの頭に、ゴツンとげんこつが落とされた。
「ひーん、ごめんなさーいっ!」
半泣きのパティ。
それも仕方がない。だって、臭いんだもん。
「それで一体、何があったんだい?」
昼食の準備をしていた母だったが、この悪臭の中ではそれどころではない。
パティから服をひん剥くと、家の裏手に回って水瓶から桶へと水を移し、その中でじゃぶじゃぶ服を洗う。力強い働き者の手が、容赦なくゴシゴシ。
あーあ、もう。服は貴重だって言うのに。臭いが残らなきゃいいけどね。
その横では、涙目のパティが手と顔を洗っている。周囲には、昼食の待ちぼうけを食らうことになった男衆の姿。
「えっとね、虫除けの花を摘んでたら、お友達が出来たのっ!」
うん。何を言っているのかわからない。
妖精さんでも見えてしまったのだろうか、うちの子は。
「ほら、落ち着いて。ちゃんと分かるように話してごらん」
「えっと、えっとね。花を摘んでたら、知らない男の子に声をかけられたの。言葉がわからなかったから多分、帝国の子」
パティのその言葉に、大人たちの顔が微妙に歪む。
「帝国の子って……あれか、温泉街のお客様か」
近くの森の、その向こう側。山の麓には、数年前から新しい街が作られ始めている。
それが、辺境領の新しい名物、温泉街だ。
このセージ村が出来た後、村人によって周辺地域の探索が行われた。そしてその際に、今まで知られていなかった、温泉が湧き出る地が発見された。
この事実が上の方まで報告されると、耳にした辺境伯様は大喜び。そして領地の新たな収入源となることを期待して、街が作られることになったのだ。
庶民が気軽に泊まれる宿から、王族が滞在することも想定された豪奢な宿まで。様々な客層をお迎え出来るよう、いくつもの宿泊施設が現在、絶賛建設中である。
全くのゼロから街を作ることになったため、出来上がるのはまだまだ遠い先のことになるだろう。だがその分、緻密に設計された近代的な街が誕生する予定だ。
そしてこの温泉街、既に宿泊することが可能である。
全体の完成はまだ先とは言え、それまで寝かしておくのも効率が悪い。なので突貫工事で、宿が幾つか完成している。
もともと、この世界において旅行を楽しめるだけの生活の余裕があるのは、一部の富裕層に限られる。心身ともにリラックスして財布の紐がゆるくなった彼らが落としていく金銭は、既に辺境領の重要な財源の一つだ。
今では、王国内はもちろん、領土を接した帝国からも人が訪れはじめている。
ちなみに、かつては互いに領土をかけて争っていた王国と帝国だが、現在では同盟国として、様々な交流を行っている。大使として、辺境伯が尽力した。伯、マジチート。
「この辺りで帝国人って言ったら、それしかないだろうねえ」
じゃぶじゃぶと洗い続けながら、母が答える。
温泉街からこの村まで、実はそう離れていない。間にある森だが、随分と小さい、むしろ林と言った方がいい程度の規模なのだ。鹿や狼と言った大型の生き物も棲んでいない。彼らを養うだけの広さがないからだ。
さらにその中には、木々を切り倒していくつも道ができている。温泉街のお客のために、森の中の散歩道と称した遊歩道が作られたのだ。万が一を考え、安全確保のための護衛貸し出しサービスも行われている。
「でも、いくら行き来が楽だからって、子供一人でここまで来るか? なあパティ、どんな子だったんだ? 名前とかわからないか?」
父のその疑問も、もっともだ。
いくら近いとはいえ、並の子供なら途中でへばる。
「えっとね、すごい上等な服を着てた。初めて見る型だったけど、帝国だと普通なのかな?」
上等な服? 少々、嫌な予感が。
身分が違う子に、パティが粗相をしたのでなければいいのだが。
「あとね、名前っ! クリス・ショーターって言ってたよ! 言葉はわからなかったけど、名前だけは教えてくれたんだっ!」
なんと、姓がある。やはり貴族か。姓があるのは貴族の証し。平民は、名しかない。
これはますます、困った予感。
「ショーター……聞いたことがないな。セリム、お前は?」
父が、隣で難しい顔をしていた弟にそう尋ねた。王都で暮らしていた彼なら、自分が知らぬ貴族の名も知っているのではと思ったのだ。
だが、彼から帰ってきた答えは、予想を超えるものだった。
「……なあ。もしかして、ショーターじゃなくてシューターじゃないのか?」
一同、顔を見合わせた後。一斉に浮かぶ、驚愕の表情。
それも仕方がない。それ程に、驚くべき名前だったのだ、それは。
帝国が誇る武の名門、シューター家。爵位は伯。
始祖はそのあまりに超絶的な弓の技量を讃えられ、当時の皇帝から射手を意味するシューターの名を賜り、貴族に取り立てられたという。
今も伝わる彼の伝説として、以下のようなものがある。
150メトル離れた距離から、1ミニトの間に16発の射撃に成功。
彼が潜んだ林に足を踏み入れた王国騎士の1団が、1アワト後に全滅。
気をつけろと叫んだ兵士は、次の瞬間には頭を撃ち抜かれる。
王国軍が野営をしている際、寝所から排泄のために10メトル離れる間に眉間を貫かれる。
一門のわずか32人で、王国の一軍を撃退。
等々。全くもって背筋の凍る伝説だが、これら全ては紛れもない事実だったりする。質が悪い。
二国間の友好が結ばれた現在でも、シューターの名は王国民にとって恐怖の象徴なのだ。
王国の子供は、親の言うことを聞かないと夜中にシューターが来るぞと脅されて育つ。なまはげか。
「……パティ。その、だな。これからは、その子と一緒に遊ぶのはやめたほうがいいんじゃないかと、父さんは思うんだが」
そう、控えめに告げられる父の言葉。
それを聞いたパティは、しかし。
「やだっ! せっかく、初めて友だちができたんだもんっ!」
断固として、それを拒否した。
まあ、それもわかる。この村の子供は、パティの他には言葉も話せないような幼子しかいないのだ。遊びたい盛りだと言うのに、この子には随分と寂しい思いをさせてしまっている。
でも、だ。
それはそれとして、だ。
「だがな、相手はお貴族様だ。失礼なことがあったら、困るのはパティだぞ」
「それでも嫌っ!」
にべもない。
困り果てた父は、助けを求めて周囲を見渡す。
一斉に、視線をそらされた。援軍、来たらず。
妻を見る。じゃぶじゃぶしている。背中が、私に話を振るなと語っている。
「なあ、パティ……」
「絶対っ! 絶対絶対絶対絶対にっ!! 嫌っ!!!」
目に涙をため、地面を蹴り、全身を使って父の言葉に抵抗するパティ。
一体どうしたものかと、天を仰ぐ父の顔は、急に5歳ばかり老け込んだような疲労が浮かんでいた。
誰か、助けて。