セリム先生による王国語教室、生徒は翔太とパティの二人。
夏のとある日に、なし崩し的に始まったこの勉強会であるが。その後も順調に回を重ね、現在は週に一度の頻度で行われている。
教材扱いされて苦い笑みを浮かべることになったセリムだけれど、別に教えること自体には異存があるという訳でもなかった。もともと、いずれパティにはきちんと王国語を教えようとは思っていたのだ。そのついでに一人増えたところで、どうと言うこともない。
まあ、翔太が帝国貴族のご子息であったなら、絶対にお断りしたい話ではあったけれど。貴族にものを教えるなんて、想像するだけで胸の辺りがきゅうってなる。そんなことになったなら、早々に胃に穴が開くに決まっている。
翔太が初めてこの村に顔を出してからの日々の中で、セリムは思い知ったのだ。帝国貴族のご子息(推定)と顔を突き合わせるというのが、いかに胃に悪いかと言うことを。自分のような小心者が貴族と関わる仕事に就くなんて無理なのだと言うことを。
王都から帰ったばかりの頃は、いずれ文官として辺境伯様に取り立ててもらえればと。そんな風に思っていたけれど。でも、そんな気持ちも、もう消えた。穴を掘ってゴミとして埋めて、消え失せた。人というものは、相応な仕事に就くのが一番なのだ。
王都で得た知識を生かす術がないのならば、少しばかり口惜しい。学校に通わせてくれた家族に申し訳ない気持ちもある。でも、パティや翔太といった子供たちにそれを教えられるなら、これまで学んできたことも無駄にはならない。
そうだ、いっそのことそれを生業にするのもいいかもしれない。
農作業の傍らで子供たちを集め、読み書き計算を教えていく。畑を耕して、種をまいて、収穫して、大地と共に生きる。更に教育という名の種をまき、生徒の成長という収穫をして。子供たちとふれあいながら、ゆったりとした時間の中で生きていく。ああ、それは何という幸せな人生なのだろう。
そして今日も、まるでお坊さんのような達観した笑みを浮かべ、教鞭を執るセリムであった。
教えを受ける側の子供たちといえば、やはりパティの優秀さには目を見張るものがあった。
王国語は元々の母国語であるのだから、習得が早いというのも当然ではある。だがそこに生来の頭の良さが加わって、それを際立たせているのだ。更には、セリムからの教えを通訳して翔太に伝えることで、一段と理解が深まるというのが大きいのだろう。
翔太も翔太で、学ぶという行為には慣れているという強みがある。日本の義務教育の水準はとても高いのだ。頭の回転という点ではパティに劣るとはいえ、習得速度が目に見えて遅いということもない。遠からず、簡単な日常会話くらいならこなせるようになりそうだ。もちろん、怒りをエネルギーに変換したときのパティのように、たったの数ヶ月で他国語をマスターするなんて芸当は無理だろうけど。
そんなこんなで時は過ぎ、そろそろ楽しかった夏休みも終わろうとしている頃の話である。
「この日は、翔太の家の人に遊園地に連れて行ってもらいました。遊園地っていうのは、科学の力で動く、移動のためじゃなくて楽しむことだけを目的とした乗り物がいっぱいあるところです。人がとてもいっぱいいて、国中の人が集まってきているんじゃないかって思いました」
パティが一生懸命に書き連ねているものが何かというと、ずばり絵日記である。
今日は二人で遊ぶ日だというのに、翔太は何やらお絵かきに夢中な様子。自分の部屋へとパティを案内した後は、彼女の相手もせず真剣な様子で絵と字を書き連ねていた。
当然、放っておかれているパティはおかんむりだ。約束をすっぽかさないで迎えに来てくれたのは良い心がけだが、後は勝手に遊んでてと言われて面白い訳がない。横から邪魔をしてやろうかとも思ったのだけれど、何やら必死さすら感じさせる翔太の様子に、それも少々はばかられた。
なので仕方なく、王国語の復習がてら翔太の真似をし始めたのだが。初めて取り組む絵日記というもの、これがやってみると中々に面白い。いつしか翔太そっちのけで夢中になっているパティだった。
「作り物の馬に乗って回る『めりーごーらんど』とか、馬なしの一人乗り馬車の『ごーかーと』とかに乗りました。ものすごい早さで駆け回る『じぇっとこーすたー』がくるりと一回転するところなんかは、とても怖……とてもびっくりしたけど、全然怖くなんてありませんでした」
尚、パティの相手をする余裕もなく、翔太が必死になっている理由が何かというと。お察しの通り、そろそろ新学期も始まろうとしているのに、宿題が全然終わっていないから。
まったくもって、今年の夏は楽しすぎた。パティと過ごす日々がまぶしすぎて、宿題なんて見えなかった。そう自分に言い訳をする翔太であるが、パティと遊ぶのは週に一回だけだったじゃないかという自己突っ込みなども入りつつ、頭の中はてんやわんやである。
「大変だったのは、途中で翔太が迷子になったことです。家の人を心配させたりして、翔太は悪い子です。でも、緊急の時のために持っていた携帯電話を使って、すぐに合流できて良かったです。いろいろなことがあったけど、とってもとっても楽しい一日でした。またいつか、連れて行ってもらえたらいいなって思いました。パティ」
ノートの下半分に書き連ねていた王国語の文章の、最後に自分の名前を記して、これで絵日記の完成だ。
上半分に書かれているのは、二人の子供が手を繋いでいる姿。正直、上手とは言えない絵ではあるが、それでもパティの顔にはにまにまとした満足げな笑みが浮かんでいる。
思い出を形にして残すこの絵日記というもの、パティはとても気に入った。動物園とか、水族館とか。他の出来事も同じように書いて、大切な記念にしていこう。いつかこのノートいっぱいに絵日記が描かれることを思って、パティがふふっと小さく笑い声を上げた。
尚、ここに描かれた絵の通り、遊園地では普段通りにパティは翔太と手を繋いで行動していた。翔太が両親とはぐれたときも、しっかりとその手は握られたままだった。つまりは、パティも一緒に迷子になっていた訳である、が。
都合の悪いことは形にして残したりしない。パティ、一つ大人の階段を上ってしまったようだ。
「できたっ! 絵日記書けたよーっ!」
「パティ早いねー。でも、僕ももうすぐ終わるよー」
「じゃ、終わったら遊ぼうっ! 何しようか?」
絵日記を書くのは面白い。でも、それは一人でも出来ること。だったら、今この場所でするべきは、翔太と一緒に遊ぶこと。
なの、だが。彼の返事は全くもってつれないもの。
「ごめんね、パティ。もう一つ宿題残ってるんだ」
「えー。遊ぶ時間なくなっちゃうじゃん。……じゃあ、モーリ。仕方ないから遊んであげる」
口を尖らせて不満を表すも、翔太の申し訳なさそうな顔を見てしまっては、それ以上の文句も言いにくい。
代わりに、世界の道先案内人へと白羽の矢を立ててはみたのだが。
「今、忙しいから。声かけるなー」
妖精王の返事はつれないもの。彼はこの部屋に来たときから、ずっと翔太の携帯ゲーム機に夢中になっている。
小さな体を一生懸命に伸ばして、両手を使って十字キーを、両足を器用に駆使して各種ボタンを操って。まるで全身を使って遊ぶ、体感アトラクションのごとくが有様。
ちなみに、プレイしているのは武士が数多の雑兵を薙ぎ払うタイプのゲームだ。当然、使用キャラは毛利の姓を冠している。
「あんたって、ほんとに自由よねー」
「おうっ! 俺は自由気ままに生きるのよ。あの雲のようになっ!」
「……あんた、翔太の父さんの漫画読んだでしょ」
それが分かるパティもまた、なのだが。今、彼女の中で百裂パンチが熱い。
とりあえず、モーリを誘っても無駄らしい。となると、パティの狙いはやはり一人しかいない訳で。
「ねえ翔太、宿題はまた後でやればいいんじゃない?」
「うーん、僕もそうしたいんだけどねー」
「駄目なの?」
「母さんがね、宿題忘れて遊んでるようだったら、パティちゃん家に行っちゃ駄目よって」
それは困る。とっても困る。翔太の母さん、それは酷い。
なのでパティはこう言った。背筋を伸ばし、顔をきりりと引き締め、まなじりは鋭く、言い放った。
「翔太っ! 手伝うわよっ!!」
「うん、ありがとうパティ。でもね、残ってるのは手伝ってもらえるようなやつじゃないんだよね」
「どんなのなの?」
問われて翔太が差し出したのは、一枚の葉書。まだ、何も書かれてはいないもの。
「これにね、夏休みの間にお世話になった人に手紙を書くんだって」
「書けばいいじゃない」
「んー、誰に書いたらいいのかなって」
お世話になった人とは言っても、これがどうして名前が挙がらないのだ。
候補としては、まずは両親。でも厄介なことに、出来るならご両親以外の人でという注文がつけられている。
で、次の候補となると、だ。これがまた、困ったことになってしまうのだ。
「一番お世話になった人って言うと、セリムさんなんだけど……」
大変お世話になっております。いつも王国語を教えていただき、ありがとうございます。
でも、書いた葉書はいったん先生が集めてちゃんと書いたかチェックして、そのまま郵便物として出されることになっているのだ。
セージ村って、住所はあるのかな? まあ、仮にあっても届く訳がないのだけれど。
「じゃあ、翔太の家の住所にして、栗栖セリムとか書いて出しちゃえばいいんじゃない? 届いたら、私が叔父さんに渡して、何て書いてあるのか教えてあげるよ」
そうすれば確かに、セリムさんに手紙を届けることが出来る。でもそれって、嘘を書いたことになっちゃわないかな?
少し迷った翔太は、母さんに相談してみることにした。色々教えてもらってお世話になってるから手紙の宿題はセリムさん宛にしたいんだけど、普通の方法では手紙が届かないかもしれない。だから一旦、この家宛に送ってもいいかなって。
母の回答。別にかまわないんじゃない、お礼をしようって言う気持ちは大切だしね。ただ、宛名は栗栖様方セリム様っていう風にして、パティちゃんから事情を説明してもらってね。
やっぱり、基地の中へ宛てて手紙を出すのって、検閲とか色々な問題があるのかしら。一度ご挨拶に伺いたいんだけれど、やっぱり難しいのかしらね。母はそのように考えたが、世界の壁を越える手紙など難しいどころの騒ぎではないだろう、実際の所。
こうして、翔太からセリムへの手紙は無事に届けられることとなった。
パティから手渡しされて、書かれている内容を翻訳してもらったセリムといえば。教え子からの率直な感謝の言葉に感極まり、不覚にも思わず涙などを流してしまう羽目になった。
姪っ子にかっこわるいところを見せてしまったけれど。でも、これもまたいいものかもしれない。やっぱり俺、教師の仕事が向いているのかも。やり甲斐を感じるかも。そういえば、辺境伯様が庶民向けの学校を作ろうとしているという話を聞いたことがある。それが本当だったら、そこの教師に応募してみようかな。そんな将来設計を考えてしまうほどには、喜ばれたようだ。
そしてこのとき、手紙だけだとさみしいからと、ちょっとした贈り物も一緒に渡されることとなった。
はっきり言ってしまうと、翔太のお小遣いの範囲で買えるものなので、こちらの世界ではたいしたものではない。普通、贈り物としてこんなものを用意したりはしないだろう。
でもパティとも相談した結果、これだったら喜んでくれるだろうと決めたものだ。そして実際にとても喜ばれ、同時にかえって迷惑をかけてしまったのではないかというほどに恐縮されてしまうことになったのだが。
そして。
翔太のこのふとした思いつきを発端として、パティの世界での彼らを取り巻く環境に、ちょっとした変化の兆しが芽生えることになったのだった。