時刻は午後の3時を回ったところ。
栗栖家の応接間では家主夫妻がガラステーブルを挟んで向かい合い、午後のお茶を楽しんでいた。
「このテーブル、衝動買いで選んじゃったけどさ、あんまり使いやすくなかったな」
「結構、お値段したのにねー。カップ置くとカチャカチャうるさいし、かといって何か敷いたらガラスが見えないしね」
「レースの小さいクロスでも用意するか。ここで食事するわけでもないし、それで十分だろ」
知人が尋ねてきたときとか、近所のママさんの集まりなどに使うことが想定された部屋。応接間ってこんな感じよねと、ドラマや映画に登場する部屋をイメージ重視で再現してみたのはいいが、使い勝手は今一つだったようだ。
念願の我が家ということで、知らずに舞い上がっていたのだろう。まあ、それもそのうちいい思い出となる。
そんな日常の会話をポツポツと。しかし、穏やかな内容の話とは裏腹に、2人の表情は真剣なもの。
やがて、何かを考え込むようにしていた父が、ポツリと呟きを発した。
「いい子だったな」
「ええ、とっても」
つい先程まで、ここで一緒に3時のおやつを口にしていたパティを指しての言葉である。
今日、彼女を家に招待したのは、もしかするなら虐待されている子供なのではないかと。そういう疑惑が2人にあったからだ。
質素な暮らしぶり。年齢からは厳しいのではないかと思われる仕事量。そしてなにより、行かせてはもらえない学校。アメリカの常識を、2人は知らない。けれど伝え聞く限りにおいてだが、少なくとも現代日本の常識に当てはめるなら真っ当ではない。
けれど。
「いい、笑顔だったな」
「思わず、うちの子にしたくなっちゃうくらいだったわね」
親から日常的に虐待を受けている子供は、笑うのが苦手だ。大人に対しては怯えの色を瞳に浮かべ、引きつった笑みを浮かべるものだ。
しかし、パティは違った。
好奇心で溢れかえりそうな、見るもの全てが楽しいとばかりに輝いていた瞳。喜怒哀楽がはっきりとしていて、コロコロと変化する表情。小さな体に大げさな身振り手振りが、可愛らしくて微笑ましくて。
アニメを見ているときの様子など、画面よりもパティの顔を見ている方がずっと面白かった。にやけそうになる頬を引き締めるのに大変で、明日の朝には顔が筋肉痛になっているのではないかと心配なほどだ。
「痣とかもなかったんだろ?」
「ええ、手荒れとかはひどかったけど、怪我とか痣とかはなかったわ」
母がパティをお風呂に誘ったのには、汚れを落とす以外にも意味があった。それは、体に異常が無いかを確かめるため。
暴力を振るわれている子供は、服を脱ぎたがらない。体に浮かんだ、殴られた跡を必死に隠すのだ。親から見せるなときつく言われていたり、恥ずかしいからと自主的に隠していたりと理由はそれぞれあるだろう。だが、どちらにせよ風呂に入りたがるとは思えない。
けれど、パティの反応は違った。
脱衣所に入るやいなやポポポンと、あっという間に服を脱ぎ、浴室への突撃を敢行していた。思わず母の目が点になり、その後に吹き出してしまうような、それは威勢の良い脱ぎっぷりだった。
その後、頭や体を洗ってあげる際にも体中をチェックしたが、パティの肌は綺麗なもの。虐待の痕跡はどこにも見つけられなかった。
パティが可愛がられている子供だと確信したのは、2人でお湯に浸かっているときのことだ。
最初こそバシャバシャと、飛んだり跳ねたりお湯を手ですくっては放り投げたりと、自由気ままに遊んでいたのだが。しかし続いて母も湯船に入ったなら、洗ってもらってすっかり懐いたパティといえば、えへへと照れた顔をして寄って来て。そして母の体を背もたれにするかのように、胸の中にすっぽりと収まってきた。ボヘーっと顔は緩みきり、体からは力も魂までもが抜けた様子。
そんな彼女に、母は聞いてみた。
「ねえ、パティちゃん。お父さんとお母さんのことは好き?」
パティの顔に浮かぶのは、はにかんだ笑み。
そのはにかみが、だんだんと。にっこりを通り越して、お日様のような眩しいものへと変化して。そして彼女は言ったのだ。
「大好きっ!!」
って。
「だから、パティちゃんが愛されてる子供なのは間違いないと思うんだけど……でも」
「でも?」
「あの子、お風呂に入ったのって、生まれて初めてなんですって」
普段は、濡らした手拭いで体を拭いているだけらしい。
多湿な気候のせいもあるが日本人は綺麗好きな民族で、毎日のように風呂に入るのが常識だ。だが世界的に見るなら、そういった習慣はむしろ珍しいという。
けれどそれにしたって、汗をかいたならシャワーくらいは浴びるだろう。環境的に難しいならともかく、米軍基地内にその施設がないとは思えない。
風呂が初めて。その言葉に、父が考え込むような顔。
間違いなく、愛情をいっぱいに受けて育ってはいる。けれど、生活環境が良いとは、とても言えない。なんというか、チグハグな印象。
食事に関しても同じのようだ。
昼食をご馳走したのだが。最初、出された食事を見て固まっていた。こんなに豪華な食事なんて、見たこともないと、そう言って。
外人の子供が好きそうなものということで、メインはハンバーグと海老フライ。付け合せにはポテトと人参のグラッセ。後は、サラダとコーンスープにフランスパン。
確かに、昼の食事として考えれば豪勢だ。翔太がこの家に初めて友だちを連れてくるということで、少し奮発した。
けれど、見たこともないような豪華な食事だなんて、とても言えるような代物ではない。
けれど、パティにとっては違ったようだ。
ハンバーグを一口サイズに切って、恐る恐る口に運ぶ。と、どこかおっかなびっくりだった顔が、ぱあっと輝いた。
「お肉だーっ!!」
美味しいー、やわらかーいと、頬を緩めて幸せそう。
それだけじゃない。揚げた芋も甘い人参も、コーンポタージュも柔らかいパンも、サラダにかかったドレッシングも、どれこれも初めて食べる味だと一口ごとに大騒ぎ。
海老フライに至っては、食べてもそれが何なのかがわからなかったようだ。海を知らないらしい。小さな川海老なら見たことがあるが、海にはこんなに大きな海老がいるのかと、しきりに感動していた。
普段の食事はどんな感じなのかと尋ねてみれば、豆と野菜のスープに固いパンを浸して食べているという。
野兎の肉や木の中にいる芋虫などが、食卓に上ることもあるらしい。たまにしか食べれないご馳走だとか。兎はまだしも、芋虫って。母の顔がひきつっていた。
「どういう暮らしをしてるのかしらね」
そう呟く母の疑問も、もっともなもの。
所謂、発展途上国などの貧しい国々だったならばおかしなところなどないだろう。けれどここは、現代の日本なのだ。
「あの基地って一般に開放されることもないから、中がどうなってるのかわからないんだよな」
横須賀や横田などの大きい基地においては、年に数回ばかり中を見学できる一般公開日が存在している。基地の中には学校や映画館といった民間向けの施設があって、まるで一つの街のようになっているそうだ。
しかし、あの小さな基地も同じなのかといえば、そのようなことはないように思う。まず、中にいる人間の数からして違う。
「小さな基地で子供の数が少ないから、学校じゃなくて家庭教師みたいな制度になっている……とか?」
「学校はそれで説明つくとしても、お風呂は? 食事は? 何だか、変な宗教みたいで怖いわ」
母のその言葉に、ピンとくるものがあった。
宗教、か。
「もしかして、修道院みたいな感じなのか、あの中って。カトリックの」
修道院。それは、俗世間を離れて禁欲的な共同生活をおくることで信仰を深めるという、キリスト教の施設である。日本だと禅寺が同じようなイメージだろうか。
日の出とともに生活が始まり、祈りと清掃などの労働で一日を過ごし、日の入りとともに眠りにつく。もし、基地内においてそのような生活が行われているのなら、パティのあの暮らしぶりにも説明がつく。
「まあ、本当の修道院だったら男女が別れてるはずだから、家族で暮らしてるっていうのもないんだろうけど。それに近い感じなんじゃないか?」
「宗教かあ。どうも、ピンと来ないわよね」
多宗教であるだけではなく、神道でも仏教でもキリスト教でも何でもかんでも受け入れて、ごちゃまぜにしてしまうのが日本人。その気質からすると、一神教の禁欲的生活というものは中々に理解しにくいものではある。
けれど、理解が出来ないからといって排除する訳でもないのもまた、日本人。
「確かにピンとは来ないけど、こっちの考えを押し付けるわけにもいかないからな」
「そうね。パティちゃんが嫌がってるならともかくだけど」
もし嫌がっていて、普通の生活がしたいというのなら、その時には相談にのるとしよう。何が出来るかはわからないけど、やれるだけの手助けはしてあげたい。
「でも、うちに来たときくらい美味しいもの食べさせてあげてもいいわよね?」
「ああ。本当の修道院みたいに外に出ることも出来ないって訳じゃなさそうなんだし。うちに来たときくらい、いいんじゃないか?」
あんなに、楽しそうにしてたんだしな。
3時のおやつのイチゴショートを食べて、また綻んでいたパティの輝くような笑顔を思い出して。2人の顔にもまた、笑みが作られるのであった。
翔太の両親があれやこれやと思い悩んでいた頃。
パティは翔太と手を繋ぎ、家路へと歩を進めていた。
今日は、本当に最高の1日だった。
お風呂に入れてもらって、美味しいものを食べさせてもらって、アニメという動く絵を楽しんで。他にも色々、生まれて初めての楽しい経験をたくさんさせてもらった。
本当は、もっとずっと一緒に遊んでいたいけど。もう帰らないと日が暮れる時間になってしまうのが、とても残念。
それにしても、ニホンの文化というものは、どれも本当に素晴らしい。辺境伯様が取り入れようとしているのもよく分かる。
もっともっといっぱい勉強して、いつか自分の村にもいろいろと取り入れてみたいものばかり。『くるま』なんて村にあったら、農作業とかに絶対に役立つと思う。
でも、今日の一番の収穫は、お風呂でも食事もアニメでもない。それは、大切な友だちの名前を、きちんと知ることが出来たこと。
ショーターが家名じゃなくて、名前だったこと。ショーターと伸ばすんじゃなくて、しょうた、だったこと。そして、漢字では翔太と書くこと。
本当に、ずっと勘違いしてたのが恥ずかしい。思い出しただけで、また耳まで真っ赤になってしまいそう。
でも、間違っていたと知ることが出来た。正しいことを知ることが出来た。それがとても嬉しい。
知ることは嬉しい。学ぶことは楽しい。
新しい本も貸してもらったし、ニホンのことをもっといっぱい勉強しよう。そうすれば、もっといっぱい翔太のことを知ることが出来る。
今日のお別れは寂しいけど、またすぐに会える。そして次に会う時は、今日より立派な自分になってみせるんだ、絶対。
そう幸せいっぱい楽しさいっぱいな気分のパティだったけれど。急にその顔が、きりっと引き締まったものになる。
目の前にあるのは、生け垣にぽかりと開いた緑のトンネル。そう、これがあったのだ。
ここに来るときに通った道。そこで聞こえたあの声は一体、何だったのだろう。
翔太には聞こえていないみたいだったけど、あれは絶対に気のせいなんかじゃない。自分にだけ聞こえて、自分の心の声にも答えていた気がする。
多分、相手は人間なんかじゃない。もっと不思議で、そしてもっと怖い何か。
この道はきっと、通らない方がいいんだと思う。この森をぐるっと回れば、時間はかかるけど、暗くなっちゃうかもしれないけど、村までは帰れるはず。
「パティ、どうする? ぐるっと回っていく?」
翔太がそう言ってくれる。
朝にここを通った時、パティは何だか怖そうにしていた。怯えて小さくなって、震えていた。それは翔太にもわかっている。
なので、無理をするつもりなんてない。ここのまわりを一周したことはまだないけど、それでパティの家まで行けるならそれでもいい。
家のまわりの広い草原を思うとここの敷地は相当に広いので、時間はかかっちゃうかもしれないけど。あ、なんなら父さんにお願いして、車に乗せてもらうのもいいかな。
けれど、パティからの返事は違った。
彼女は凛々しい顔をして、声には決意をぎゅっと込めて、言ったのだ。
「ううん。ここから行こ」
って。
パティにも考えがあったのだ。あの声の正体はわからない。けど、わからないからこそ、それを突き止めなければいけないと。
これから先も、翔太が村に来ることも、自分が翔太の家に行くこともあるだろう。けどその度にビクビクと怯えて、何時間もかかる遠回りをしていくなんて出来ない。
だから、お願いしてみよう。
嫌いって言われちゃったけど、私も大嫌いだって言っちゃったけど。でも、仲良くなれるならなってみたい。友だちになろうって、言ってみよう。
だって多分、あの声は翔太のことが好きなんだ。友だちになりたいんじゃないのかな。そして私は、翔太の友だち。友だちの友だちは、友だちになれないかな?
……何だか、友だち友だちと考えすぎてよく分からなくなってきた。友だちってなんだろう?
「大丈夫? 無理しなくてもいいんだよ?」
「ううん、平気。……でも、手は繋いでいても、いい?」
もちろん翔太は、構わない。2人で歩く時は手を繋ぐ。何だかそれが当たり前になっちゃってるし。今も繋いでいるんだし。
でも。ふと、改めてパティを見てみるなら。
いつもとは違う余所行きの服に、つやつやと輝く髪の毛に、見違えるように白くなった肌の色。
不思議と、何だか照れくさくなって。翔太は、いいよとぶっきらぼうに返事をすると、前に立ってぐんぐんと歩き始めた。
自分の顔を、パティからは見えないように、して。
入るときに、どこからか「クスクス」という笑い声が聞こえた。
出るときに、「やーい」というどこか馬鹿にしたような声が聞こえた。
でも、それだけ。
意外なことに、トンネルの中では何も起きなかった。来るときみたいに理由も分からず怖いという気持ちが溢れても来なかったし、蝶の姿がちらついたりしてもいない。
本当に何も起こらず、翔太とおしゃべりなんて楽しみながら歩いていた。トンネルの中、では。
「……」
「……」
トンネルを出た2人は、目の前の景色を見て、顔を見合わせて、また前を見て。
「……ねえ、パティ」
「……うん」
「……ここ、どこかな?」
「……わかんない」
緑の長いトンネルを抜けると知らない場所であった。
本当なら見えるはずの花畑も、パティの家もどこにもない。代わりに視界に入ってくるのは、石材や丸太を運ぶ人や、荷車を引っ張る馬や牛の姿。その周りには腰から剣をぶら下げた人たちも。
それらを運んだ先ではどうやら、家のようなものを建てている様子。
ぽかんと、開いた口が塞がらない。
村はどこ? 知らない間に村中の家が全部、建て直し中? と、パティ。
馬だっ! 牛だっ! すごいっ! けど、何でトラック使わないんだろう? と、翔太。
しかしパティよ、そんなはずがないだろう。
そして翔太、驚くところが違う。
「道、間違えちゃったのかな?」
「途中で分かれ道とかあったのかしら。気が付かなかったけど……」
「戻ってみる?」
翔太の提案に、振り返ってみれば。
……あれ?
「ねえ翔太。私たち、どこから出てきたっけ?」
「パティ、なに言って……あれー?」
振り向いた先にあるのは、森。連なるように見える限り奥までずっと続く樹々と、木が密集していないところには生い茂った下草。
けれど、無い。たった今、通ってきたはずの緑のトンネルも。それがありそうな藪も。どこにも、ない。
もう一度、正面を見る。絶賛、運搬中。そして建築中。
どうしよう。困った。というか、何が起きているの。
混乱する頭を抱えて、途方に暮れる2人。
と、そのときだ。
「どうした、こんなところで。迷子か?」
そう、かけられる声があった。
助かった、ここがどこなのか教えてもらえると喜ぶパティ。そして、何と言われたのかがわからない翔太。その言葉は、王国の言葉だったのだ。
あ、さっき向こうに見えた人だ。いつの間に、ここまで近づいてきたのだろう。
旅人が着る厚手で丈夫な服とマントに包まれて、腰には細身の剣を差している女の人。何より特徴的なのは、少しだけ先端が尖った耳。
妖精族の人だっ!!
翔太の家で見たアニメに出ていたけど、実際に会うのは初めて。本当に、びっくりするほど綺麗なんだー。胸がドキドキ、瞳はキラキラ、感動に全身が包まれるパティ。
あ、でも今はそれどころじゃない。お話してみたいけど、握手とかしてもらえないかなって思うけど、とりあえずセージ村までの道を教えてもらわなきゃ。
えっと、まずは自分の名前を言って、それから……。
あたふたと混乱しつつもしっかりと、今の状況をどうにかしようとするパティ。
けれど、目の前に現れた女性の視線は、パティを捉えてはいなかった。
「……驚いた。君は随分と、妖精に好かれているんだな」
その視線は翔太のことを見定めて、固まっていた。