「あの…………あきつ丸さん、どうされたんですか? ……というか、なぜここに?」
赤城が当然の疑問を訊く。
陸軍出身、揚陸艦あきつ丸。黒一色の制服の詰め襟から白磁のような肌が覗いている。しかし彼女は呉には登録されていない艦だったはずだと加賀は記憶している。
そのあきつ丸が、元空母寮の加賀の部屋、クローゼットの中で、制服の上から縄が食い込むほどに縛られて転がっているのを見て、加賀たちの頭を疑問が埋めた。赤城が縄を解いて助け起こそうとした。
そんな二人を目で制止して、彼女は冷静に体を起こす。
「……なんだ、加賀殿と赤城殿でありましたか。CIAかゲシュタポかと思ったのであります。だったら良かったでありますよー」
「もう、びっくりさせないで欲しいであります」と、器用に自ら縄を外して、彼女はその場に座り直した。絶句する二人の前で正座した。解かれた縄は、そのままはらりと床に落ちて、コードが戻っていくようにあきつ丸の懐に回収された。
「別に二人を待っていたわけではないのですが、ここで二人が現れたのなら好都合かもしれないなあ。案外と早く片がつくかもしれないなあ。――やや、狐につままれたような顔をして、どうされたのでありますか二人とも?」
腹立たしいくらいに演技臭い独り言。
――こいつは何だ?
加賀は本能的に目の前の艦娘を信用できないと思った。
「えっと、あきつ丸さん、誰に緊縛されていたんですか……? いや、でも自分でほどいて……えっと?」
赤城も混乱を深めている。
「ああっ! ひょっとしてこの縄でありますか?」
あきつ丸は合点がいったように答えた。
「これはこう、有事の際に自分を縛ることで、あたかも強盗が来て襲われたかのように見せかけるという画期的なアイテムなのであります! ……でなければ何が楽しくて昼間からひとりSMなど趣に欠くことをしましょう。とにかく、この縄のせいで無用な心配をさせてしまったようなら申し訳ないのであります、この縄のせいで」
全てを縄のせいにして平謝りな土下座をしたあきつ丸は、それから四つん這いでクローゼットの外に出ようとするが、出口は赤城と加賀が塞いでいる。
「あの……では、あきつ丸さん」
赤城が訊いた。
「なんでありましょう」
「どうしてここにいらっしゃるんですか?」
あきつ丸は再び座り直す。
「ふむ、正鵠を射る質問でありますな……。本来見つかる予定はなかったのでありますが……こうなってしまったからには仕方ない。この状況をちゃんと説明したほうがいいのでありましょう。だからとりあえず落ちついて欲しいのであります加賀殿、自分は何も怪しいことをしていたわけではないのであります」
なぜか本棚にあった大類語辞典が手頃だった。加賀は厚さ十センチ超えの鈍器を右手に構える。
不審艦発見セリ。
「いや、ち、ちょっと待つであります加賀殿! ほんとに自分は怪しい者ではないのであります!」
「怪しい以外の形容が見当たりませんが」
「その類語辞典で調べればよいでありましょう」
ちょうど良く持っている。
「怪しい……妖しい、奇しい、訝しい、胡散らしい、けったい、疑わしい、全部あなたのことですよね。クロっぽい服も着てますし」
「自分の首を絞めてしまった?」
「では『疑わしきは罰せよ』ということで……覚悟!」
振り下ろされる加賀の腕をあきつ丸が押さえ、鍔迫り合いになる。
「造語であります! ハンムラビ法典より横暴であります!」
あきつ丸が必死に抵抗している。
「あの時代は石版ですからね。確かに辞典よりは横暴な武器でしょう」
「こ、この人鈍器のカテゴリで話してらっしゃる!」
「観念して下さい――」
「加賀さんっ」
加賀の手を赤城が優しく止める。命拾いした揚陸艦は少し涙目になっていた。
「赤城どのぉ……」
「チッ」
「今舌打ちが聞こえたであります!」
あきつ丸が潤んだ目で赤城に泣きついた。
「と、とりあえずあきつ丸さんの話も聞いてみませんか?」
至極まっとうな意見だった。
「赤城さんが……そう言うのなら」
加賀が出口から離れてやると、クローゼットからあきつ丸が這うように出てきて、三角座りに落ち着く。
「あーマジで怖かったであります……。恐ろしい艦だ……」
「では、話して下さい。クローゼットに侵入した正当な理由を」
加賀は詰問した。しかしあきつ丸はマイペースを保って、加賀をじっと見上げていた。
「さて、どこから話したらよいのでありましょう」
「はあ?」
気づけば赤城も加賀の方を見ていた。
「あ、赤城さん?」
「えっと……加賀さんは知りませんよね、あきつ丸さんのこと」
そう赤城は言う。
「ええ、あまり……陸軍出身の揚陸艦としか……」
加賀は言葉を濁す。他には、『妙な艦』であることくらいか。
「ふむ、その様子だとここ最近、一ヶ月ほど近くに着任した感じでありますな」
あきつ丸がぴたりと言い当てた。
「……ええ、その通りだけど。どうして分かったのかしら?」
「ここに来るまでに呉中の軍属情報をすべて暗記してきたからであります。加賀殿の建造日は一ヶ月と三日前の午前十一時二十一分。産声を上げることもなく誕生の瞬間から冷徹だったと記録されておりました」
つまらない種明かしだったし、後半はもちろんあきつ丸の創作だった。加賀は二の句が継げなかった。『資料の暗記』なんて退屈なことを自分以外にやっている者が目の前の不審艦であることが納得いかなかった。
「つまり加賀殿は自分が二年前まで呉に所属していたことをご存知無いということであります」
「え?」
彼女は二年前に呉に属していたという。加賀でも、二年前の軍属情報までは確認していなかった。彼女の言葉が事実なら、あきつ丸は呉の古株にあたるのか。
「本当ですよ、加賀さん。でもあきつ丸さん、あなたは、二年前の加賀さんの事件の直後、例の容疑で呉を去ったはず……」
「例の容疑?」
「スパイ嫌疑であります」
歴然として平然とあきつ丸は答えた。
「そして二年後の今日、疑いが晴れた自分はようやく呉に戻ってこれたのでありますよ」
彼女はそう言う。それは赤城も初耳らしく、驚いている。
「そうだったんですか……! あきつ丸さん、お疲れ様です……お帰りなさい」
「ああ……! 赤城殿は呉の良心であります!」
「いや……その件も気になるところですが……しかし、それではあなたがこの部屋にいた説明になっていないのだけれど」
加賀は話のすり替えを警戒して問い詰めた。
「あ、慌てないでほしいであります。ものには段階というものがありまして……つまりは込み入って長ったらしい説明の要をもらいたい」
あきつ丸は加賀のことをじっと見た。
「……認めましょう」
加賀が答えて、あきつ丸は説明を始める。
「自分がこの部屋に来たのは、加賀殿にあるものを渡すためだったのであります。見つかりたくなくてクローゼットの中に隠れたのは、こういう説明が死ぬほど面倒臭かったからでありますが。本当はこの部屋にモノだけを置いて立ち去るつもりだったのであります。だから自分を見つけてしまったからには責任をちゃんととってもらわねば」
何故か恩着せがましく彼女は言う。それから加賀に訊ねた。
「これからする話の前に、一つ加賀殿に質問しても良いでありますか?」
「…………どうぞ」
「加賀殿は、故加賀殿の死について、どこまで知っておりますかな?」
モノトーンの少女が訊く。それは、彼女がこれから話そうとする話と何か関係でもあるのだろうか。加賀は正直に答えた。
「ほとんど知りません。聞いた話や噂話を自分なりに補完しただけで、公式資料には目を通してはいないわ」
それは加賀が今まで過去にそれほどの興味が無かったからだ。しかしこの部屋に来てから、今も少しずつ、呉の過去や二年前の加賀についてが気にかかってきていた。
「ふむ、なるほど」
あきつ丸が得心いったように頷く。
「実は自分の来歴と加賀殿の死には密接な関係があるのでありますよ。なぜなら自分が加賀殿を殺した犯人だからであります」
「――――っ!」
加賀は唐突なあきつ丸の発言に言葉を継ぐことができなかった。赤城は眉根を寄せている。
「嘘であります」
「あきつ丸さん、ふざけないでください!」
例の事件を最も深く知っているであろう赤城が声を上げた。加賀はあきつ丸に驚きを通り越して呆れを覚える。この艦は
「わ、悪かったであります! 流石に説明するでありますよ……」
赤城が本気で怒っているのを見て焦ったらしい。ようやくあきつ丸は二年前の事件についてゆっくりと語り始めた。
◇
「ご存知の通り、故加賀殿の死因は毒による自殺でありました。
しかし当時は呉鎮守府は内外が騒然としまして、外部に対しては戒厳令も敷かれていました。何故なら当時は他殺の線も疑われていたから。
故加賀殿は呉鎮守府の主力艦隊旗艦、そして秘書艦の兼任という要職を務めておりました。妬みという点で他殺の可能性が考えられないわけではありません。というより、自殺の方がありえなかったのであります。故加賀殿が死んだその日まで、彼女が何かに思いつめていた素振りを見た者は誰もいなかった。だから自殺だとしたらあまりにも唐突で、不自然だったのであります。
しかしある時見つかった《証拠品》が、加賀殿の死因が《自殺》であることを揺るぎないものと結論づけたのであります」
「証拠品」
加賀が呟く。「それはいったい?」
「《日記》であります」
あきつ丸は加賀を見据えた。
「故加賀殿の日記。そこに、加賀殿の見ていた世界が克明に刻まれていたのでありますな。生きることへの苦しみ。前線に向き合うことの重圧。艦娘システムへの疑問。そういったものが書き綴られていたのであります。決定的でありました。そしてそれらから開放されるために飲んだ毒。辻褄が合ってしまった。こうして加賀殿の死は自殺に決まったのであります。
……と、ここまでは呉の資料室でも確認できる情報でありますが」
赤城は複雑そうな表情を浮かべていた。彼女にとっては二年前の忘れたい過去であるはずで、いい気分では無いだろうことは加賀にも分かる。
「さて、ここからは自分の見解も交えて話すであります。
先ほども説明したように加賀殿が亡くなられた直後は、呉鎮守府内で容疑者候補の絞り込みがありました。事件当日の空母寮では一階飛鷹殿の部屋で酒盛りが行われており、彼女の部屋のドアは開け放たれていて、廊下を通って二階に上がる人者は確認されていました。そこで酒盛りに参加した者、させられた者にはその時間のアリバイが成立したことになります。で、実は容疑者候補には酒盛りの誘いを断った赤城殿も上がっていたのでありますが…………ってあまり怖い顔をしないで欲しいであります加賀殿、自分は事実を述べているだけなのでありますから」
加賀は意識しないうちに睨んでしまっていたようだ。
「続きをお願いします」と赤城。
「――続きであります。しかしながら犯行に使用された凶器は毒。毒ならばそれを混入するタイミングは
そして彼女は言った。
「―そこで白羽の矢が立ったのが自分あきつ丸だったのであります!」
「えーっと……」
唐突だった。また話が飛ぶ。
「何故?」
加賀が訊く。
「自分の所持品から、事件に使われたものと同種の毒物が発見されてしまったからであります」
と、あきつ丸は足を投げ出して言った。加賀の思考が固まる。
「はあ……? どうしてそんなもの持ってるんですか?」
あきつ丸の答えが返ってくる。
「軍人たるもの、自死用アイテムの一つは携帯するのが常でありましょう」
立板に水の問答だった。今この瞬間加賀はこの揚陸艦と全く噛み合わないことに気付いた。むしろ息の合う艦がいたら見てみたいほどだ。
あきつ丸が制服のボタンを一つずつ外している。先ほどからこの艦は何故くつろぎだしているのか。そんな加賀の疑問も追いつくことなく彼女がブラウスから取り出したのは、一片の薬包。
「……とまあこれは《小麦粉》なのでありますが。こんな具合に毒物を所持していたのを見つかってしまったのであります……。もっと気づかれにくいところに隠せば良かった……」
あきつ丸が何か言った。
「そうして自分は容疑の最有力候補に挙げられてしまいました。
そしてそれは加賀殿の自殺が確定し、容疑者候補から外されても、自分の不審な点の追求は続きました。どうして毒物なんて持っているのか、何をする気だったのか。正直に説明しても聞き入れてもらえない。そうして追求されるうちに、立入禁止区域に自分が侵入した形跡があったなどという、事実無根の話が上がってきたのでありますよ。完全な冤罪でありました。完全な冤罪でありました!
……そうこうしているうちに、気づけば自分は陸軍からのスパイという疑惑をかけられ勾留されてしまったのでありますよーあっはっは」
からからと笑うあきつ丸だった。
「ここまでの話、本当ですか赤城さん」
「え、ええ……たぶん。細かい事情は私も初めて知りましたけど、加賀さんの経緯から、あきつ丸さんがそういう疑いで鎮守府を去ったことは確かです……。そう記憶してます」
動揺まじりに赤城が言う。
「それから二年、色んなことがあったでありますなぁ、ふふ」
何故か彼女は勾留の日々を懐かしんでいるが。彼女の緊縛癖はその時ついたものだろうか。加賀はいらぬ邪推を頭から追い出した。
「で、それからどうなったんですか?」と再び話を戻す。
「ふむ。それからは今自分がここにいるように、疑惑が完全に晴れ、こうして呉に戻ってこれたのであります。というかこの二年間で、色々が無かったことになったのでありますよ。政治上、発言力が強いのは海か
スパイの疑いが黙殺されたことを、彼女は爽やかに仄めかした。
とにかくここまで話を聞いていたが、彼女の怪しさは未だ何ひとつ拭えていない。
「―それでは、」とあきつ丸は言う。
「だいぶ遠回りになったでありますが、ようやく自分がクローゼットに……ではなく加賀殿の部屋にきた理由を話せるのであります」
彼女は制服の内ポケットから、黒い装丁の一冊の手帳を取り出した。よれて使い古された感じは、先ほど加賀が手にとった歴史小説と似ている。
「それは、」
加賀はもう多少のことでは驚かないと決めていたが、動揺の色が出てしまう。その手帳は。
「そう、《故加賀殿の日記》であります」
「……どうしてそれをあなたが?」
加賀の質問には答えず、あきつ丸は続けた。
「自分はこれを加賀殿に譲りに来たのでありますよ」
そして差し出されたそれを、加賀は受けとらないわけにはいかなかった。
「それは自分が海軍からとあるルートで入手したものであります。加賀殿、赤城殿、それを開いてみてほしいのであります」
言われるままに加賀は適当なページを開く。そこには自分の筆跡に酷似した文章で、二年前の日々が刻々と綴られていた。それは聞いていたような凄惨な内容というよりは、むしろ普通の報告書のような淡々としたものだった。確かに戦いへの苦しみや葛藤は時折書かれている。しかし加賀にはそれが自殺の決め手になるとはどうしても思えなかった。
しかしそのままページを捲っていくと、異常に気づく。
「破られて……いますね」
赤城が呟いた。その言葉通り、日記はある日付のページを境に先が破り取られていた。それ以降の記述は失くなっていた。最後の日付は九月の――
「加賀さんが、陸奥さんに秘書官の席を譲った日……」
赤城がそのページに書かれていた内容を読み上げるように言った。そこから先の日付から、日記の最後までのページが無い。加賀はあきつ丸の方を見た。
「いえいえ、もちろん自分が破いたわけではないのです。といってもそれを証明することはできないのでありますが、自分がその日記に小細工をしたところで、自分になんの利益がありましょう。海軍から自分がそれを手に入れたときには既に、ページに欠損があったのでありますよ」
あきつ丸に向かって加賀は突き刺すように言う。
「ページを破ったのは海軍だということ? 勾留されていたあなたの手に渡る前に陸軍が触れているはずです」
あきつ丸は困ったように笑った。
「痛いところを突かないでほしいであります」
「あなたの話、すべて《嘘くさい》んですよ」
「それでも、事実として日記がここに」
「いくらでも偽造可能じゃないですか、こんなの―」
しかし先ほどから日記に目を通していた赤城が、加賀の言葉を遮った。
「加賀さん……、この日記おそらく本物だと思います。私、この手帳の装丁見たことありますし、筆跡も同じ、それに内容も目を通した範囲で事実と一致しているように思います」
赤城の声は少し震えている。思い出したくないことを思い出してしまったように。その様子を見て、あきつ丸は黙っていた。
「あきつ丸さん。この日記は、どうして破られているんですか……?」
赤城が恐る恐る問う。
「当然、破った者にとって不都合なことが記述されていたからでありましょう」
彼女は即答した。
「――しかしそれは誰にとって都合が悪かったのでしょうな。破り捨てられたページには何が書かれていたのでしょう。自分は、ひょっとしたら日記の続きに書かれていたのは《事件の真相》だったのではないかと考えたりしているのでありますよ」
そうしてあきつ丸は立ち上がった。
「さて渡すものも渡しました。そろそろ自分は退散するのであります。若干予定が狂ってしまいましたが」
そうして彼女は部屋を後にしようとする。いくつもの謎を残したまま。彼女の後ろ姿に、加賀は声をかけた。
「あきつ丸さん、あなたはいったい何を知っているんですか?」
あきつ丸は振り向かない。
「…………加賀殿、自分もまた何も知らないのであります。ただ加賀殿。故加賀殿は本当に自殺だったのでしょうか。果たして前線に立ち続け、いくつもの死線を越えてきた加賀という艦が、そんなに簡単に自ら死を選ぶものでしょうか……。自分にはそこが疑問に思えてならないのでありますよ」
そうして部屋を出て行ったあきつ丸のあとには、静かな部屋で困惑して佇む二人だけが残った。